2024年7月24日水曜日

20240723 以前、熱心に読んでいた著作の記憶から思ったこと

当「ブロガー」にて作成したブログ記事をエックス(旧ツイッター)と連携をして、そこでさらにリポストなどをしているためであるのか、ここ数日間は、当ブログの1日毎での閲覧者数が通常の200~300人から増加していました。あるいはまた、他の要因があるのかもしれませんが、何れにせよ、より多くの方々に当ブログを閲覧して頂くことは、特に悪いことではないと考えますので、現在は2200記事到達後の休息期間とはしていますが、今しばらく、書籍からの引用記事を主として記事作成を継続したいと思います。そして、出来るだけ早い時期に次のある程度の区切りである2300記事まで到達したいと思っています。そうしたなか、昨日までの記事投稿により総投稿記事数は2330にまで至り、我がことながら、思いのほかに記事数のカウントが進んでいたことに少し驚かされました。また、そうした経緯から、私の場合、当ブログが(どうにか)9年以上にわたりこれまで継続することが出来た背景には、おそらく読書の習慣があったと云えます。もちろん、途中、仕事が忙しくなり、しばらく間を置くことも度々ありましたが、そうしたなかであっても、既読の著作のある記述を何かのきっかけで思い出しますと、その記述から引用記事を作成することは、特に抵抗も困難も感じることはなく、また周囲の知見のある方々に適法であるか問い合わせたところ、いくつかの注意点を頂きましたが特に問題はないとのことでした。そうした背景もあり、当ブログはこれまで、どうにか継続しているのだと云えます。また、読書と云えば、どうしたわけか、これまたここ数日、一連の当ブログから加藤周一による「日本文学史序説」の引用記事ではなく、それを題材とした記事がいくつか読んで頂いていたことが不思議そして面白く思われました。以前にも当ブログにて述べたことではありますが、当著作上下巻は鹿児島在住の期間に購入していましたが、そこでは身を入れて読むことはありませんでした。やがて、2013年9月に学位取得をして帰郷した頃から、それまでに積読状態であった著作をいくらか集中的に読むようになり、そして、当時、最も身を入れて読んだと思われるのが、さきの加藤周一による「日本文学史序説」上下巻です。これは2015~2017の期間での当ブログの投稿記事をある程度、注意して見ると、ご理解頂けると思われますが、当時はそこからの引用記事を少なからず作成し、また熱心にも同著作の英語版を古書にて全巻購入し、通読までは残念ながら出来ませんでしたが、努力もしつつ、それなりに楽しんで読んでいた記憶があります。当著作英語版は、その後の何度かの移動の際に、散逸してしまったのか、あるいは本箱の中に収納してあるのか、不明ではありますが、再度手に取って読んでみたいと思っています。そういえば、当著作の日本語版については、学位取得後すぐに開催された和歌山での勉強会の後の徒歩移動の際に市民会館(2021年閉鎖)近くのに架けられた歩道橋を渡っている際に「加藤周一の「日本文学史序説」はとても面白いですね。しかもこれは英語版も出ていますので、今後、どこかでまた「教養英語」のような科目をやらせてもらえるのでした、是非、この著作を教材として用いたいですね。」といったことを元気に宣っていたいた記憶があります・・(苦笑)。そして現在もまたおそらく、そうであるのでしょうが、こうした記憶が不図想起されますと「当時は何も知らなかったな・・。」と恥ずかしく思う次第です。また、その頃(2013~2014)はまだ、当ブログは始めておらず、いわば就職活動とアルバイト以外に何をやって良いか分からないままの反面で、それまであまり身を入れて読むことが出来なかった類の書籍をどちらかというと享楽的に読んでいた時期であり、それがしばらく続くと、何が原因であったかは忘れてしまいましたが、ともあれ、それまでの私は「読む」と「書く」あるいは「インプット」と「アウトプット」を比較すると、圧倒的に「読む」といった「インプット」の要素が大きかったのですが、それが辛くなってきて、そして、そうした時期(2015年前半)に相次いで数人の方々から「ブログ(文章作成)を始めてみてはどうか?」といった主旨のアドバイスを頂いて、当ブログを始めた次第ですが、そこからこれまでに9年以上の継続、そして2230記事の投稿をしたこと考えてみますと、紆余曲折がありながらも、それなりによく続けたものだとも思われます。とはいえ、今しばらくまたこれを続けて、出来れば来年の6月に丸10年間となるまでは、どうにか継続したいと考えています。おそらく10年間継続すれば、とりあえず、一つの(それなりに)大きな区切であることから、当ブログをやめても後悔はしないか、あるいは著しく乏しいと思われるのです。そして、さきの「加藤周一の「日本文学史序説」については、その続きを、また別の近い機会に述べさせて頂きたいと考えています。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年7月23日火曜日

20240722 慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編 pp.2‐4より抜粋

慶應義塾大學醫學部百年記念誌 / 慶應義塾大学医学部百年記念誌編集委員会編
pp.2‐4より抜粋

1.慶應義塾医学所の開設と閉鎖

 慶應義塾大学医学部が創設される以前、慶應義塾医学所が明治初期に短期間だけ存在した。福澤諭吉は青年時代に緒方洪庵の適塾に学び、科学の重要性を痛感したため、慶應義塾が自然科学の分野においても拡充されることを希望していたという。とりわけ実験的、合理的な西洋医学には関心が強く、2回目の渡米の際には多忙をきわめていたにもかかわらず、英語の医学原書も買い求めて帰国した。「福澤諭吉伝」によると、医者になるためにドイツ語を学びたいと言った塾生の前田政四郎に対し、福澤は、英語で医学修業ができるようにするので、ドイツ語を学ぶには及ばないと答えた。そして、福澤は早速邸内に住んでいた福澤塾出身の医師の一人である松山棟庵を呼び、自分が塾舎を建てるので、そこで教えて欲しい、そうすれば塾の医学校すぐに開ける、と言った。こうした経緯があり、それが医学所設立の動機付けになったと記されている。

 福澤には江戸鉄砲洲時代の福澤塾以来、門下出身の医師も少なからずいた。松山はそのうちの1人で、子弟というよりも福澤とは親しい友人関係にあった。福澤は自ら出資して、明治6(1873)年に塾北側の空き地に学舎を建て、松山を初代校長として医学所を開設した。医学所は基本方針や会計を松山の自由裁量に任せたので、さながら松山の私塾の感があったという。慶應義塾医学研究所は設立の動機からもうかがえるように、ドイツ医学ではなく、英米の医学書をもって講義が行われた。予科3期、本科5期に分けられ、本科は主としてハルツホルン(Henry Hartshorne)の書をテキストとして使用した。

 学生数は最盛期には100人を超えるまでになった。しかし、明治13年に廃校とせざるを得なくなった。その理由として、「福澤諭吉伝」では、医学所には多大な経費がかかるが、他に官公立の医学校・病院もできてきており、そうしたなかで無理算段をしてまで医学所を維持する必要もないと考え廃校した。と述べられている。また、慶應義塾医学所では英米医学を採用したが、明治政府が設立した大学東校(のちの東京大学医学部)はドイツ医学を採用し、当時全国各地に開設されていく官公立の医学校もすべてドイツ医学を主体とした。私立として新たに開校した長谷川泰の済生学者も、教師として東京帝国大学の卒業生または上級学生を採用したこともあり、ドイツ医学を教えていた。当時、官立大学卒業生を除けば医師になる国家試験を受けてそれに合格することが必要であったが、ドイツ語を知らずに英米の医学書のみを学んだ者が国家試験を通ることは容易ではなかった。このことも廃校の原因の1つとして考えられる。

 また、その背景には慶應義塾そのものの経営難があったことも事実で、明治13年に慶應義塾出身者の有力者が集まって慶應義塾維持法が協議され、慶應義塾存続のための維持寄付金を5ヶ年賦で募ることが決められた。その申し込み総額は44000年に上り、松山棟庵も600円、当の医学所も当時としては大金の350円を払い込んだ。これにより慶應義塾本体は存続することができたが、慶応義塾医学所は廃校を免れることはできなかった。

2.医学部創設と北里柴三郎初代医学部長

福澤諭吉と北里柴三郎

 慶応義塾大学医学部は大正6(1917)年に大学部医学科として創設された。その初代医学科長(大正9年以降、医学部長)には北里柴三郎が招かれた。北里は、慶應義塾の独立自尊の精神を福澤諭吉から最も感化され、共有する人物の1人であった。

 北里柴三郎は、東京大学医学部を卒業したのち明治16年に内務省に入り衛生行政の道を選び、細菌学を専攻した。世界的な細菌学者で結核菌の発見者であるドイツのコッホのもとに6年間学び、困難とされていた破傷風の純粋培養に成功し、さらにベーリングとともにジフテリアの血清療法を発見した。ついで結核のツベルクリンの研究を行った。他国からの招きもあったがそれを断り、プロフェッソールの称号を得て明治25年5月に帰国した。

 北里は、当時公衆衛生が普及せず伝染病が蔓延している日本に、まず伝染病研究機関を設立しようと考えたが、時の政府は東京帝大などの官立の研究環境を北里に迅速に与えなかった。緒方洪庵の適塾時代からの福澤の親友である長与専斎は、自らの志を生かす場が得られず落胆していた北里を見て、その顛末を福澤に伝えた。福澤は優れた学者を見殺しにはできないと一念発起し、同年11月、芝公園の一隅に所有する土地に北里を所長とする私立の伝染病研究所を創設し、北里がそこで自由に研究を行うことができるよう取り計らった。

 この研究所は大いに繁盛したが、明治32年、研究所の運営をすべて北里に一任することを条件に、内務省管轄の官立伝染病研究所となった。この時北里は、これを受ければ独立自尊の精神が損なわれるのではないかと心配し、福澤に相談を持ち掛けたが、福澤から、北里の方針で経営が行われるのならそれで良いではないかと説得され、研究所を内務省の管轄とすることを受諾した。

 ところが大正3年10月、時の大隈重信内閣は文教統一行政整理の名の下に、突然、北里に相談なく、伝染病研究所を内務省より文部省に移管し東京帝国大学医科大学の各科に分属させることを決定した。北里にとってこの移管は、設立経緯からいって納得できるものではなく、自身の主義である総合的な研究に適わないものであるとして、伝染病研究所所長を辞任し、全職員も北里とともに総辞職するという事態に発展した。文部大臣や内務次官からも強く留任を迫られたが、このとき北里の意思は固く、一切の妥協案も受け付けなかった。

 辞職した北里は私費を投じ、コッホ研究所、パスツール研究所と並び称される北里研究所を新たに開設した。なお、それより前、伝染病研究所所長時代に、北里の名声を聞いて肺結核の新治療を受けようとして診療を希望する者が増加したため、福澤が北里のために研究所とは別に結核専門病院として、福澤の所有地に「土筆ヶ丘養生園」を建てた。この病院の経営が好調だったため、伝染病研究所所長辞任の後にすぐに新しい研究所を作る資金繰りができたのであった。

2024年7月22日月曜日

20240721 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.62-65より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.62-65より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

 エリート官僚は、軍事官僚も、行政官僚も、経済官僚も、すべて技術屋であり、信ずるものは技術だけである。彼らは、どんな意味においても決断主体ではない。彼らがナショナル・リーダーとして決断に迫られれば当惑せざるをえない。このとき救いとなるのは、彼が所属する機能集団としての共同体である。この共同体は彼に自然のごとく所与にみえ、その機能的要請は神聖である。彼にとって、世界の大勢(といっても、自然のごとくみえる共同体の特定した視座からみられた特殊な世界認識にすぎないのであるが)にのっとり、神聖なる任務を遂行する以外にかなる決断を下しえようか。このようにして、決断の契機は漠然とした使命感の中に解消するとともに、この決断がいかに特殊(すなわち、彼が属する一つの機能集団の機能的要請に過ぎない)なものであり、数多くのオルターナティブの中の一つの選択にすぎないことは意識にのぼらない。したがって、この選択に関する選択が背後に押しやられ、ついに鋭く意識化されないとともに、この神聖なる所与に対する批判に対しては、本能的拒否反応を示すようになる。このような例は、戦前のミリタリー・アニマルにも、戦後のエコノミック・アニマルにも、いかに多く発見しうることであろう。

 さて、以上、戦前の軍事官僚と戦後の特権官僚を・エリート・ビジネスマンの思考様式、行動様式を比較することにより、パターンとしては、いかに両者が類似しているかをみた。しかし、すでに強調したように、類似はここに終らない。エリート官僚のタイプこそ現在日本人の理想像であり、ほとんど日本人とくにエリートと呼ばれる人びとの行動様式はこのタイプに造形されつつある。ゆえにエリート官僚の行動様式の長所・短所は同時にまた、ほとんどすべての日本人の行動様式の長所・短所でもある。しかも、この行動様式が、戦前の軍事官僚の行動様式とパターンの上で同型であることから、われわれは重大な反省に迫られる。軍国主義による破局は戦前だけのことではない。またそれは、軍国主義という特定のイデオロギーの産物ではない。現在はすでに明白になっているように、軍国主義などというイデオロギーを持った人は、戦前の日本にはほとんどいなかったようである(このことについては76~78ページ参照)。イデオロギーではなく、日本独自の行動様式の特殊状況的表現が軍国主義的であったにすぎない。このように考えると、現在でも問題は少しも解決されていないことがわかる。戦争が駄目なら経済があるとばかり、ミリタリー・アニマルがエコノミックに衣がえしても、それは同型の行動様式(isomorphic behavior pattern)の異なった状況下における表現の相違にすぎないのであって、そこには、なんら内面からの原理的行動変革の組織的努力はみられない。このことはエコノミック・アニマルだけでなく、イデオロギー・アニマルにもあてはまる。ここに、イデオロギー・アニマルとは聞き慣れない言葉かもしれないが、軍事万能の単細胞生物をミリタリー。アニマル、経済万能の単細胞生物をエコノミック・アニマルと呼ぶのならば、イデオロギー万能の単細胞生物をイデオロギー・アニマルと呼んで悪い理由はなかろう。

 イデオロギー・アニマルの思想と行動とは、彼らの看板としてのイデオロギーの方向とは全く無関係に、ミリタリー・アニマルやエコノミック・アニマルのそれと構造的に同型である。大学紛争においては、いわゆる進歩的教授であればあるほど、全共闘の激しい攻撃の矢面に立たせられ、みじめなほど残酷な取扱いを受けたのであったが、その根本的な理由は、彼らが全共闘の眼には偽善者と映じたからである。それはそうだろう。デモクラシーのチャンピオンとしてジャーナリズムで活躍中の大学教授の教室が、水も漏らさぬ年功序列のハイアラーキーで形成されていたりするのである。


2024年7月20日土曜日

20240719 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.89‐90より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.89‐90より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

 中国が米中対立(競争)を想定しているとは言っても、それは中国が世界を二分する体制間争いとか、二極化を求めていると言うのではない。中国は目下、アメリカの一極体制が崩れて多極化に向かっていること、また先進国が世界秩序を主導する状況が大きく変化し、先進国ではもはや世界の諸問題を処理することができないことに注目する。こうした面では、先進国対新興国、先進国対開発途上国という大きな構図を中国は描いており、その新興国、先進国対開発途上国という大きな構図を中国は描いており、その新興国、開発途上国の代表として自らを位置付ける。

 また、中国は軍事安全保障の面でアメリカを中心とする安全保障ネットワークを明確に敵視する。中国がしばしば批判する際に用いる「冷戦的」というのはアメリカの安保ネットワークを批判する時に用いられることが多い。だからこそ、中国はNATO批判についてはロシアと歩調を合わせる。ただ、軍事的にNATOを批判するからと言って、中国はEUや独仏など欧州諸国との関係は維持しようとする。ただ、その際には欧州の自立性を求め、アメリカからの影響を受けないように促すのが常である。無論、ウクライナ戦争以降、とりわけ西欧諸国がアメリカとの関係を強化しており、中国の求めるヨーロッパの「自立性」を維持するのは困難だ。だが、中国としては「多極化」を求め、アメリカへの一極集中を相対化しようとするので、EUなどはむしろ協力相手となる。ただ、中国から見てあまりにアメリカに寄りすぎている日本はオーストラリアなどと共に、そうした対象にはなっていないようだ。

 他方、中国が新興国、開発途上国の代表としてアメリカや先進国との対抗軸を意識しているからといって、また米中「対立」を将来的に想定しているからといって、中露と先進国とが、また新興国と先進国とが、かつての冷戦のような陣営を形成して対峙することは中国にとっては好ましくない。中国自身が輸出管理法などで先端議技術を守ろうとしている一方で中国経済はアメリカをはじめ西側諸国との相互依存が強く、先端技術を除けば全面的デカップリングは困難だ。また、軍事安全保障面で西側諸国から敵視されて強く牽制されることは中国にとっても相当にコストがかかることだ。

 ウクライナ戦争を通じて、「中露」が「専制主義国家」として一括りにされ、先進国との間で陣営対立的な構図が生み出されていくことは、中国にとっては避けがたいところであろう。だがそれも、決して容易なことではない。その一因は、次に述べるロシアとの「緊密な」関係だ。

5 中露関係の考え方

 前記のような2022年という年の持つ制約、また対外政策にまつわる制約、また自らの描く世界像などを所与の条件として、中国はいかにウクライナ戦争に対処しようとしたのだろう。また、その際には、そのウクライナ戦争を思い起こし、最重要パートナー国であるロシアをいかに捉えようとしたのであろうか。

 2022年2月、北京冬季オリンピックに際して、プーチン大統領は訪中した。習近平はプーチンに破格の待遇を与え、マスクなしの単独会見をしている様子を国内メディアでも示した。他の首脳との写真はマスク付きの集合写真であったからその差は歴然であった。2月4日の中露共同声明は、前述の通り、ロシアの対NATO政策、ウクライナ政策に支持を与えているように見える。

 2022年2月25日、中露首脳は電話で会談した。この時、中国側の発表によれば、プーチン大統領がウクライナ問題の歴史的敬意とロシアがウクライナ東部で採っている特別軍事行動の状況、またロシアの立場などについての説明を加え、アメリカとNATOが長期にわたってロシアの合理的な安全を無視し、何度も合意を破棄し、普段に東方へと拡大し、ロシアの戦略上のボトムラインに挑戦しているなどと述べ、さらにロシアとしてはウクライナ側とハイレベル交渉を行う用意があるともした。とされている。それに対して習近平国家主席は、「中国としてはウクライナ問題それ自体の是非曲直から自らの立場を決定したい」と述べ、冷戦的な思考ではなく、各国の合理的な安全を重視、尊重して、対話を通じてバランスの取れた、有効で、サスティナブルな欧州の安全枠組みを形成するように求めた、という。しかし、このような中国側の発表に異を唱えるように、北京のロシア大使館は2月28日、習近平国家主席の発言として、「ロシアの指導者が目下の危機的な情勢の下で採った行動を尊重する、と習近平は強調した」と述べようとした。これはロシアのウクライナ侵攻に支持を与えたようにも読める。そして3月、冒頭が紹介したように、王毅外相は中露関係について「国際的な情勢がどのように険悪になとうとも、中露双方は戦略的な実力を保持し、新時代の全面的な戦略協力パートナーシップ関係を不断に前進させていく」と述べたのであった。これを見れば、中露は極めて強い関係を持ち、それを相互に確認していると見ることもできる。

2024年7月18日木曜日

20240718 筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで pp.251-253より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで
pp.251-253より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073612
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073617

 17世紀に初期の顕微鏡を用いて、自然界の事物や動物の組織の観察が行われた。ネーデルラントのレーウェンフクはロンドンの王立協会に多数の書簡を書いて、その観察結果を報告した。その中にたしかに酵母など微生物の観察が含まれているが、それが発酵や病気の原因と結びつけて考えられることはなかった。

 発酵は、古くからパン、ワイン、ビールなどを造るときに起こる現象として知られていた。体内での食物の消化や吸収の過程も、しばしば発酵になぞらえていた。微生物の存在とその働きは、19世紀に発酵が突破口となって明らかにされた。まずドイツのテオドール・シュヴァンは、顕微鏡で酵母を発見したその作用で発酵が起こると発表した(1837年)。しかしこの発酵の酵母説は、有力な化学者のイェンス・ベルセリウスとリービヒによって非難され、シュヴァンはその後の研究を断念した。

 フランスのリール大学の化学教授パストゥールは、ビート糖の発酵障害について相談を受けて研究し、アルコール発酵が微生物の作用により起こることを明らかにし(1860年)、その微生物を酵母と呼んだ。また空気中に存在する微生物が腐敗の原因であり、微生物が自然発生的には生じないことを実験的に証明した(1862年)。さらに発酵についての研究を発展させ、ワインの醸造(1866年)およびビールの醸造(1876年)の研究を発表し、パリのソルボンヌ大学教授になった。パストゥールの研究は、リスターによる外科手術の防腐法の開発に大きなヒントを与えた。

 病気の原因となる微生物は、ドイツのコッホによって発見された。コッホはゲッティンゲン大学で医学を学び、地方の小都市で医官として働きながら炭疽の研究を行い、炭疽菌の芽胞形成と病原性を明らかにした(1876年)。創傷感染症についての研究に取り組んで、創傷に続いて起こる敗血症で膿血症が、微生物の感染によってこることを動物実験と細菌学的検索によって示した(1878年)。

 1880年にベルリンの帝国衛生院に職を得て研究を開始、細菌の染色法や培養法を開発して細菌学の発展に大きく貢献し、当時の重大な感染症であった結核の原因菌を発見した(1883年)。ドイツの調査隊を率いてエジプトとインドでコレラの調査・研究を行い、コレラ菌を発見した(1883年)。ベルリン大学の衛生学教授に任じられ(1885年)、新たに設立された感染症研究所の初代所長になった(1891年)。結核菌の培養濾液からツベルクリンを生成し結核の特効薬として発表したが、これには治療効果がないことがわかり、現在では結核菌の感染の診断に用いられている。1905年にノーベル生理学医学賞を受賞した。

 微生物が感染症の病原体として特定できる条件を示した指針として、「コッホの原則」がよく知られている。コッホ自身が明確な形で述べたものではないが、コッホの弟子のフリードリッヒ・レフレルがジフテリアの病原体についての論文(1884年)の中で、「①疾患部位において微生物が典型的に証明される。②疾患部位で病変に意味のある微生物が分離され純粋に培養される。③(培養した微生物を)接種して病気が再び発生する」という三条件を挙げた。コッホはコレラの病院についての論文(1884年)でこれを捕捉して、微生物が病原体であることを証明するために「接種した動物から得た微生物を健康な個体に接種して同じ病気が生じる」ことが必要であると述べた。これを加えた四項目が、「コッホの原則」として広く知られている。

 コッホの衛生学教室および感染症研究所では、多くの研究者が集まり病原菌の研究を行った。ベーリングと北里柴三郎はジフテリア菌(1883年)と破傷風菌(1889年)を発見し、北里は日本に帰国してから香港でペストの調査をしてペスト菌を発見した(1894年)。パウル・エールリヒは細菌の染色法を開発し、後に抗体の特異性を研究して免疫学の基礎を築き、ゲオルグ・ガフキーはコッホの後任として伝染病研究所所長を務め、結核の等級分類表である「ガフキー表」を開発した。

 さらに病原体の発見を通して感染症に対する治療と予防への道が拓かれた。赤痢菌は志賀潔によって発見され(1897年)。病原体の発見によって、病気は特定の原因によって生じるという確信が生れ、その原因を解明するための研究が進められていった。

 感染症の予防のために最初に編み出された方策は、牛痘の接種による天然痘の予防、すなわち種痘である。これは19世紀末に病原菌が発見されるよりも前の1796年に、イギリスのジェンナーにより始められた。パストゥールは病原体を弱毒化して接種、その病原体による病気の発症を予防・治療する方法を開発し、ジェンナーの栄誉を称えて「ワクチン」と呼んだ。

20240717 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.65‐68より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913

 翌日の二月二十四日、私が寝室から出ていくと、街から帰った料理女に出会った。この善良な女は気が全く動転していて、涙声でわけのわからぬことを私に口走っていた。私には理解できなかった彼女の言葉のなかで、ただ政府が貧しい人びとの虐殺を実行させたということだけがわかった。私はすぐに下りて行き、街路におり立つや革命の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる自分に初めて気がついたのだった。街路の中央には人影がなく、商店は一軒も店に開けていなかった。馬車も散歩の人影も見えなかった。いつもは聞こえてくる路上の呼売り人の声もなかった。戸口で隣人同士が小さなグループに分かれて、うろたえた顔をして、ひそひそと話し合っていた。誰の顔も不安もまた怒りのために血の気を失っていた。私は国民軍の一兵士とすれちがったが、彼は銃を手にして、はや足で悲劇を演じているような姿をして通っていった。私は彼に近づいて言葉をかけたが、彼からは何も知ることができなかった。ただやはり政府が民衆を虐殺したということ以外は(ただ彼はそれに付け加えて、国民軍がそのことの処理に当ることができるだろうと言った)。こうして同じ事実の指摘がくり返されるだけだったが、私には何の説明にもなっていなかった。私は七月王政の堕落の性格を充分に知っていて、そこで残忍な行為が行われることなど全くありえないということについては、確信をもてたのだ。私は七月王政を最も腐敗の激しいものの一つとみなしていたが、また同時に、これまでにみたことがないほど、残忍な性格をもたないものだともみなしていた。そして私は、どんな噂の力をかりて革命が進展して行ったかを示しておきたいがためにだけ、この民衆を政府が虐殺したという言葉を報告しているのである。

 私は隣の通りに住んでいるボーモン氏のところに駆けつけた。そこで夜中に国王がボーモン氏を呼び出したことを知った。ついで出かけていったレミュザ氏のところでも同様の情報を得た。最後に会ったコルセル氏は事の経過を説明してくれた。しかし、それはまだ混乱したものだった。というのも革命のなかの都市にあっては戦場にあるのと同じようなものであって、それぞれの人は自分の目撃した偶発的な出来事を、これこそ革命の事態だと受け取るからである。私はコルセル氏からキャプシーヌ大通りでの銃撃事件のことを知らされ、またこの無益な暴力行為が原因となり口実となって蜂起がいきょに発生したことを知った。モレ氏がこうした状況で内閣を引き受けることを拒否したこと、ティエール、パロの諸氏と、それに最終的に内閣に加わることを引き受けた彼らの友人たちが宮殿に呼ばれたことなども知ったが、これらの事実はもうよく知られていることなので、立入って書くつもりはない。私はコルセル氏に、大臣たちは人心を鎮めるためにどのような動きをするつもりなのかとたずねた。すると氏は、「レミュザ氏から聞いたところだと、軍隊のすべてを後退させ、パリ市内を国民軍で溢れさせる計画だということだ」と言ったのだった。この表現は氏自身のものである。私は絶えず指摘してきたのだが、政治においては過去の記憶があまりに大きいために、しばしば人は身を滅ぼすことになったのである。

2024年7月16日火曜日

20240717 株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」 pp.10‐12より抜粋

株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」
pp.10‐12より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480031480
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480031488

ザルツブルクにくるまえに、ザルツブルクを知っている。よく知られた商標にも似ていて、つまり、これは「モーツァルトの町」である。「小さなローマ」とも「アルプスの北のフィレンツェ」とも言われてきた。近年は「音楽祭の街」として有名である。どれもまちがってなどいない。たしかにモーツァルトはザルツブルグで生まれたし、またこの町はしばしば、七つの丘をもつ永遠の都のポケット版にたとえられてきた。ゆるやかな川沿いのオーストリアの古都がアルノ川のほとりのフィレンツェに似ているのも事実である。そして夏のザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパに数ある音楽祭のなかでもとびきりのものである。

 もう一度、右の商標を見直してみよう。どれ一つとして、さほど正確でもなさそうだ。というのはザルツブルグはモーツァルトを生んだかもしれないが、この町はたえずあの天災に邪険だった。ありとあらゆる手をつくして生れ故郷から追い出したふしさえある。またザルツブルクがローマを思わせるのは聖堂(ドーム)を衷心にした一郭にかぎられ、山にそびえる城砦や中世期風の町のたたずまいは、永遠の都ともアルノ川のほとりの百塔の街とも、あきらかにちがっている。それに「音楽祭の街」であるが、この商標は観光業者にとってはうれしいものかもしれないが、音楽好きにとっては必ずしもそうではない。 切符を手に入れホテルを確保するためだけに、精力の大半を使いはたさなくてはならないー。

 ともかくも町に着く。駅周辺の雑駁なあたりは足早に突っきって、旧市街にくると、とたんに自然と歩調がゆるむ。何をおいてもカフェ・トマゼリというわけだ。珈琲の歴史と同じほど古いカフェである。まずは腰を落ちつける。十九世紀の博物学者アレクサンダー・フンボルトはザルツブルクを「世界でもっとも美しい三つの町」の一つに数えた。あとの二つはコンスタンティノープルとナポリである。フンボルトは世に知られた大旅行家であった。単なる思いつきで言ったわけではあるまい。とするとイスラムの大都や「ナポリを見て死ね」の名句にもなった麗しのナポリと並べて、ケシつぶほどに小さい山あいの町をあげたのには、それ相応の理由あってのことにちがいない。

 たしかに歴史の点からいえば、さほど遜色はなさそうだ。遠い昔、ここにはケルト族が住んでいた。紀元前十四世紀ごろのこと。そのあと、まだドイツもオーストリアも存在しなかったころであるが、ローマ人がやってきた。古代ローマ人にとってアルプスの北はすべて荒寥とした蛮地だった。ところが、その蛮地にやってきたにしては、彼らはこの辺境の谷に思いのほか楽しい住処を見つけたらしい。というのは百年あまり前、モーツァルトの記念像を建てるために広場を掘っていたら、古代ローマ時代の石があらわれた。そこには、稚拙な飾り書体のラテン文字で「ココニ幸アリキ」といった意味の言葉が刻まれていた。

 しかし、まあ、半ば伝説じみた大昔までさかのぼるのはやめにしよう。ケルト人はザルツブルク地方のあちこちの地名の由来になごりをとどめているにすぎないし、また古代ローマ人は深い地の底と博物館のガラス・ケースの中で永遠の眠りについている。

 ともあれ掘り出された石の一つだが、一九二〇年代のはじめ、聖堂修復の際に床を掘り返していたら、八世紀の半ばごろに聖ヴェルギリウスが建てた最古の礼拝堂の礎石が見つかった。そのころすでにザルツブルク一帯にキリスト教が根づいてたあかしである。とともに、それはあらためて、ザルツブルクを治める者が領主でも国王でもなかったことを、それとなく告げている。歴史の伝えるとおりであって、ながらくザルツブルクは独立した教会国家として、聖職者を支配者にいただいてきた。この町の王侯は、燃えるような緋の衣をなびかせ、瘤のある司教杖をもった大僧正だった。