2024年6月30日日曜日

20240630 株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」 pp.73‐77より抜粋

株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」pp.73‐77より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003262026
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003262023

 ブラスクーヒンは、ミハイロフと肩を並べて進みながら、カルーギンと別れていくらか危険の少ない場所へ近づき、やっとやや元気を恢復しかけた時、背後に明るく輝く雷光を見、「臼砲!」と叫ぶ哨兵の声を聞き、うしろからくる兵の一人のー「まっすぐ稜堡へ飛んでくる!」という言葉を耳にした。

 ミハイロフは振返った。爆弾の光る點は、さながらその頂點に、どうにもその方向を見定めることのできないような位置に静止しているように思われた。しかし、それはほんの一瞬間のことであったー爆弾はますます早く、ますます近く飛来して、忽ちのうちに導火線の火元が見え、運命的なうなりが聞えて、まともに大隊の中心へ落ちてきた。

「伏せッ!」と誰かの声が叫んだ。

 ミハイロフとブラスクーヒンは地面へひれ伏した。ブラスクーヒンは眼を閉じながら、ただ爆弾がどこか非常に近いところで音高く堅い地面に打突かるのを聞いただけであった。一時間にも思われた一秒が過ぎた、-爆弾は破裂しなかった。ブラスクーヒンははっと思ったー自分は徒に臆病な態度を見せたのではなかったろうか?ひょっとすると、爆弾は遠くの方へ落ちたので、ただ彼にだけ、導火線がすくそこでしゅうしゅういっているように思われたのかも知れない。彼は眼をあけ、ミハイロフが自分の足もとに身動きもせず地面にへばりついているのを見て、満足を覚えた。けれどもその瞬間に彼の眼は、わが身から三尺とはなれないところでくるくる廻っている爆弾の光る導火線とばったり出会った。

 恐怖、他の一切の思想・感情を押退けてしまうような冷たい恐怖が、彼の全存在をひっつかんだ。彼は両手で顔を蔽った。

 また一秒が経過した、-一秒ではあるがそのあいだに、感情・思想・希望・回想の一大世界が、彼の脳裡をひらめき通った。

 《誰がやられるだろうーおれかミハイロフか、それとも二人一しょか?もしおれだとしたら、どこをやられるだろう?もし頭だったら、万事休すだ。が、もし足だったら、切断される、その時は、ぜひ、クロロホルムをかけてもらおう、そうすれば、おれはまだ生きていられる。が、ひょっとすると、ミハイロフだけがやられるかも知れん-その時はおれが話してやるんだ、二人並んで歩いていたこと、彼がやられて、その血がおれにはねかかったこと。いや、おれの方が近い・・・おれだ!》

 そこで彼は、ミハイロフから借りている二十ルーブリのことを思い出し、さらにまた、もう疾くに拂っていなければならなかった。ペテルブルグでの或る借金のことを思い出した。昨夜自分がうたったジプシイの唄が頭に浮んだ。嘗て愛していた女が、藤色リボンの室内帽をかぶった姿で、彼の想像に現れた。五年前に侮辱を受けたまま、まだその復讐をすましていない男のことが思い出された。尤も同時に、この回想及びその他数十の回想と不可分に、現在の感情ー死の期待ーは、一瞬の間も彼を見棄てないのだった。《だが、ひょっとすると、破裂しないかもしれんぞ。》彼はこう考えて、絶望的決心をもって眼を開こうとした。が、その瞬間早くも、閉じた瞼を通して、真紅な火が彼の眼を打った。そして凄まじい爆音とともに、何かが彼の胸のまんなかをどしんと突いた。彼はいきなり駈け出したが、足にからまる佩剣につまづいて、横倒しに倒れてしまった。

 《ああ有難い!打撲傷だけだ。》これが彼の最初の考えであった。彼は両手で胸にさわってみようとした。が、その手はしばりつけられているようだし、頭は搾木にでもかけられているようであった。頭の中では兵士達がちらちらしたので、彼は無意識にそれを数えたー《一人、二人、三人の兵、それから外套の裾をまいた将校が一人。》と彼は考えるのだった。やがてまた電光が眼に光ったので、彼は、一たい何を射ったのだろうと考えたー臼砲か大砲か?きっと大砲に違いない。ほ、また射ったぞ。ほらまた兵隊がやって来たー五人、六人、七人だ、みんなそばを通っていく。彼は急に。兵士達が自分を踏み潰しはしまいかと、恐ろしくなってきた。彼は自分が打撲傷を受けていることを叫ぼうと思ったが、口がかさかさに乾いて、舌が上顎にねばりついてしまった、そして恐ろしい渇きが彼を苦しめるのであった。彼は胸の辺がいやにじめじめしているのを感じていたがーこの湿った感じが水を思い出させたので、彼はその湿っているものでもいいから飲みたいと思った。《きっと、倒れた時に傷をして出血したんだ。》と彼は考えた。そしていくらかでも続いてそばをかすめ通る兵隊たちが自分を踏み潰しはしまいかという恐怖をますます強く感じ出したので、彼はありたけの力を絞って「連れてってくれ!」と叫ぼうとした。が、叫ぶ代りに、自分で聞くさえ恐ろしくなるような声を出して、うなり出してしまった。やがて、何やら赤い火が眼の中でおどり出して、兵隊どもが自分の上へ石を積み上げているような気がし出した。火のおどりは次第にまばらになったが、からだの上に積まれる石は、ますます強く彼を壓迫した。彼は石をはらいのけるために懸命に身をのばした。途端にもう何ひとつ、見えず、聞こえず、考えず、感じなくなってしまった。彼は弾片を胸のただ中に受けて、その場で即死したのであった。

2024年6月29日土曜日

20240629 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.151-154より抜粋

株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』
pp.151-154より抜粋
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182

 一八八六年に森有礼によって設計された帝国大学は、それまで西洋からの知の移植をばらばらに進めてきたエリート養成諸機関が「天皇」のまなざしの下に統合されることで誕生し、やがて東京のみならず京都、仙台、福岡、札幌m、ソウル、台北などの帝国日本を覆う広がりをもったシステムに発達していった。天野郁夫が詳論したように、この帝大のシステムには、多数の官立専門学校による専門職養成システム、それから予科ないし旧制高校という教養教育システムが並立しており、これら高等教育の三つのシステムの間には葛藤や緊張、補完と連携の関係が生じていった(天野郁夫、前掲書)。しかし、官立専門学校や予科・旧制高校は、基本的には帝国大学を補完するもので、これと根本的に対立するものではなかった。

 これに対し、すでに述べたように、一九世紀半ばに列島各地で勃興するナショナリズムを基盤とした西洋の知に対する貪欲な関心、それを導入しながら新時代の知の基盤を形成していこうという草莽の動きのなかでは、帝国大学のシステムとは位相的に異なるネットワークが形成されてもいた。すなわちそれは、福沢諭吉の慶應義塾や大隈重信の東京専門学校をはじめとする私塾から私学への流れのことである。なかでも福沢諭吉は、慶應義塾という実践において、森有礼が帝国大学の設計で示したのとは異なる「西洋知の移植」を志していた。

 森有礼と福沢諭吉の関係はしかし、実際にははるかに複雑である。実をいえば、彼ら二人をはじめ明治日本の大学知の世界をづくる人物の多くは、明治初期にある同じ雑誌、一八七三年に結成された明六社の同人であった。明六社結成の中心になったのは、同年にアメリカから帰国したばかりの森有礼で、彼の誘いに福沢諭吉、加藤弘之、西周、津田真道、箕作麟祥、中村正直などが応じて参加した。森有礼の頭にあったのは、アメリカの「学会」(AssociationないしはSociety)であったが、明六社同人の共通項は啓蒙主義で、特定分野を対象としていなかったから、今日ならば個別学会よりも日本学術会議のようなアカデミーに近い。実際、明六社解散後の八〇年、この結社に集った人々を母体に東京学士院が設立されているから、明六社は日本最初の学術アカデミーであったともいえる。ともあれ、ここに結社化した維新期の啓蒙家たちは、日本初の西洋レストラン築地精養軒で頻繁に演説会(研究会)を開催し、その成果を自らのジャーナル「明六雑誌」に収録していった。「スピーチ=演説」にしても、「ジャーナル=雑誌」にしても、欧米の学術コミュニケーションの方式を直輸入する発想では、森と福沢は多くを共有していた。しかも「明六雑誌」は、様々な問題を提起し、アカデミックな議論の俎上に載せること自体を目的にしていたから、ここを舞台に民選議院論争や妻妾論争、国語国字論争など、政治からジェンダー、言語まで日本初の多様な学問論争が展開された。加えて雑誌には、ベーコン、ホッブス、スペンサーなどの西欧近代思想も紹介されており、森から福沢までの知識人を連携させた明六社は、たしかに近代日本の学知の原点だった。

 しかし、森と福沢の共通点はここまでである。「啓蒙=国民の主体化」を「国家=天皇」のまなざしを通じてなそうとする森と、あくまで「実学」を国民一人ひとりが身につけるところから出発しようとする福沢の間には、近代に対する把握に大きな違いがあった。やがて「明六雑誌」は讒謗律と新聞紙条例による薩長政権の統制が強まるなかで廃刊に追い込まれるが、すでに廃刊以前から、あくまで「官」主導の西洋化を構想する森や加藤、津田、西などの間には厳しい思想的対立が存在した。この対立を最も明瞭にしたのは、福沢が明六社のセミナーで発表し、その後「学問のすゝめ」の第四編として収録した「学者の職分を論ず」をめぐる個人間の論争である。

 この講演で福沢は、「固より政の字に限りたる事をなすは政府の任なれども、人間(じんかん)の事務には政府の関わるべからざるものもまた多し」と、「政府=官」と「人民=民」の二元論から出発する。明治日本の現状を見ると、維新で「お上」中心の時代は終わったはずなのに、「官」ばかり肥大し、「民」がちっとも強くなっていない。現状は、「政府が依然たる専制の政府、人民は依然たる無気力の愚民のみ」である。しかも、「一国の文明は、独り政府の力をもって進むべきものに非ざる」もので、「人々自ら一個の働きを逞しうすること」を欠けば、その進歩はない。ところが日本では、本来、そうした内発的な啓蒙の任に当たるべき洋学者=啓蒙知識人たちが、「皆官あるを知って私あるを知らず、政府の上に立つの術を知って、政府の下に居るの道を知らざる」傾向を強めている。これらの人士は、「生来の教育に先入して只管政府に眼を着し、政府に非ざれば決して事をなすべからざるものと思う、これに依願して宿昔星雲の志を遂げんと欲するのみ」である。結果的に、今日では「青年の書生僅かに数巻の書を読めば乃ち官途に志し、有志の町人僅に数百の元金あれば乃ち官の名を仮りて商売を行わんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、凡そ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心益々その風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なく」なってしまった(「学問のすゝめ」)。

 

2024年6月28日金曜日

20240627 株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著「サイファ 覚醒せよ!」pp.156-158より抜粋

株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著「サイファ 覚醒せよ!」pp.156-158より抜粋
ISBN-10 : 448086329X
ISBN-13 : 978-4480863294


 たとえば僕は、この間「アメリカン・ヒストリーX」という映画を見ましたけれども、この映画には「表現」と「「動機づけ」の関係をめぐて大きな弱点がありましたよね。「NIGHT HEAD」とよく似ていて、能動的な兄と、受動的な弟という黄金パターンですが、父親を黒人に殺されたのがきっかけでネオナチのリーダーになった兄の影響で、弟もネオナチにかぶれているという設定です。ところが兄は三年間刑務所に行ってシャバに出てくると、既に転向していてネオナチを捨てている。誰もがいぶかしむわけですが、ある日、弟を呼んで「自分は刑務所で白人からも黒人からも疎外されて殺されかけたが、それを一人の黒人に助けられた。彼がいなかったら自分は死んでいた」という物語を語って聞かせます。するとわずか三十分で弟がオルタネーション(翻身)するんですね。弟は「わかった」とか言って、兄貴と一緒に部屋のネオナチ、ヒットラー、鍵十字のポスターをビリビリ破くわけです。

 それを見て、僕は頭を抱えました。「兄が語る程度の物語で、弟が翻身することなどありえない」と思ったわけです。少なくとも僕はまったく説得されなかった。もし説得された観客がいるとすれば、欧米の近代社会に生れ育ってヒューマニズムの確固たる信念ー物語への信奉ーを予め抱いているような連中に限られるでしょう。僕たち日本人はそういうヒューマニズムという信念を持っていませんから、多くの人は兄の語る陳腐な物語程度で説得されることはありえず、当然のことながら違和感が残るわけです。

 つまり、「表現」の中身に納得して、弟が翻身したという話になっている点が、僕たち的には無理があるんです。僕だったら、演出の仕方を全く変えるでしょう。具体的には、弟から見て、兄の語る物語はよく分からないけれど、翻身する前の兄より翻身後の兄貴のほうが「何だかすごく」見え、その理由の分からない「すごさ」に感染して翻身する。という具合に演出するはずです。言い換えれば、「表現」ではなく「表出」のレベルで共振するという描き方になるはずなんです。

速水 私も見ましたたが、兄は負け犬に見えましたね。

宮台 ムショから出てきた後の兄の外見はみじめに見えましたよね。でもそれはOKなんです。というか、そのほうがいい、兄が単にみじめに落ちぶれたのだと思ったら、兄が「本当のこと」を喋りだした途端に、「いや、違う。兄貴の言うことは分からないけど、今の兄貴のほうが全然すごい」というふうに「すごいものに感染する」「聖性にうたれる」体験が弟を訪れる。落ちぶれたように見えたほうが、突如降臨した聖性を際だたせるには都合がいいんです。

「すごいものに感染する」ということ

 それは近代表現が覆い隠しがちな、アジアの民族に限らず人間が誰しも持っている感受性の次元に対応しているわけですよ。逆に言えば、僕たち日本人だってもちろん物語や意味に動かされることがあるわけで、「表現」次元で動機づけを獲得することはありえます。しかし、どうもここ数十年の短い間に、僕たちは「表出」次元で感応することのー「名状しがたいすごいものにうたれる」経験のー限りないエクスタシーを、変な話、忘れはじめているようなんですね。

2024年6月26日水曜日

20240625 中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.253-256より抜粋

中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.253-256より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121507150
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121507150

 欧米は感染拡大を抑えるために罰則を伴う外出制限など日本より厳しい措置を講じました。しかし被害は日本よりも甚大です。

 感染状況を人口一〇〇万人あたりの死者数で見ると日本は一二人、米国は六二三人。欧州で際立った取り組みをしたドイツは一一四人。日本との差は桁違いです。

 日本の被害の「少なさ」を巡り、日本人の清潔好きを理由に挙げる向きもありますが、疑わしい。アジアを見れば、中国は三人強、韓国は八人弱、台湾は〇.三人で日本より少ない。いずれも日本以上に清潔好きだとは思えません。

 人種の違いも説明にならない。米国でアジア系住民の死亡率は白人と同程度です。

 世界はこの疾病にかかりやすい群とかかりにくい群に大別できる。その差は経済や社会、文化や思想の観点では説明できない。単に運不運に左右されたとした言いようがない。それが私の感想です。

 米国の人類生態学者ジャレド・ダイアモンド氏の著書「銃・病原菌・鉄」を想起します。欧州人が米大陸の先住民を容易に征服できたのは、非常に広大なユーラシア大陸にいたからだと主張している。同大陸には多種多様な家畜がいて、人間は家畜由来の多くの感染症に対する免疫を備えるに至った。家畜の種類の少ない米大陸の先住民は免疫が乏しく、欧州から持ち込まれた疫病お犠牲になったー。地理の差が免疫の強弱に結びつき、世界史を大きく変えたのです。

 中国人はいろいろな野生動物を食し、薬として服用している。今回も発生源は野生動物と見られています。日本は地理的に中国に近い。その結果、日本人は中国発の疫病に対し、免疫を備えていたのかもしれません。あるいは交差免疫を作るBCGを接種していたからかもしれません。

 ただ運の良い群の中では日本の対策は遅れ、被害は相対的に大きかったことは確かです。

 米中対立の時代です。私はコロナ禍を通じて歴史的と言える意識の変化が起きていると見ます。

 まず米ソ対立の二〇世紀を振り返ります。一九一七年のロシア革命を経て社会主義・全体主義のソ連が出現した。一方で米国は第二次大戦後、資本主義・自由主義陣営の盟主に。米ソは冷戦に突入し、二つのイデオロギー、二つの政治経済体制が優劣を競い合った。

 米ソは共に人間の可能性を希求する国家でした。二つの希望の星でもあった。二〇世紀は二つのユートピア(理想郷)の争いでした。

 八九年にベルリンの壁が崩壊し、九一年にソ連が解体して、社会主義は敗北します。米国の政治哲学者フランシス・フクヤマ氏は有名な著書「歴史の終わり」でイデオロギーの争いとしての歴史は終わり、世界は自由民主主義体制に収束すると予想したものです。

 冷戦後、米国流の市場任せの資本主義が世界標準になり、日本もその圧力をかなり受けました。

 人間の利己心の追求を放任すれば市場がうまく調整を果たして経済成長をもたらし、貧困層にも恩恵が波及するという思想です。

 しかし米国流は二〇〇〇年のITバブル崩壊の頃から怪しくなり、〇八年の米国発のリーマン・ショックは金融危機を招きます。フランスの経済学者トマ・ピケてぃ氏が著書「21世紀の資本」で指摘したように、米国は〇〇年時点っで人口の一%の高所得者層が全国民所得の二〇%近くを得る、世界で群を抜いた不平等国になっていたのです。

 さて目下の米中対立です。

 中国は発展途上国にとり成長モデルを提示する希望の星でした。コロナ禍で当初は発生源として非難を浴びましたが、強権的な仕組みを発動して感染を抑え込むと成功物語の主人公になる。しかし混乱に乗じて地政学的拡張や香港の締め付けなどの動きをとるに及んで、ディストピア(反理想郷)と見られるようになりました。

 一方の米国は疫病にかかりやすい群に属したことに加えて、対処を誤り、感染者数も死者数も世界最多になってしまった。しかもトランプ大統領の下で国が南北戦争時代のように分断されてしまいました。米国もディストピアとして見られるようになったのです。


2024年6月24日月曜日

20240624 株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」 pp.116-120より抜粋

株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」
pp.116-120より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490209924
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490209921

 スズという金属をごぞんじだろうか。漢字では「錫」、金属元素記号ではSnで示される。原子番号というのは何のことかは知らないが、50と表示されている。

 銀色、あるいは水銀色といわれるのにあたるが、よく見ると、ほんの少し青みがかかって色合いに深みがある。性質はよくのびるので、箔にしたりチューブにもできる。使いやすいので金ヘンに容易の「易」があてられたのだろうか。ドイツ語ではZinn、英語のtinと対応している。

 現在ではマレーシアやボリヴィアが主な産地だが、かつてはドイツとチェコの国境の山地でも産出した。そのためドイツでは早くから知られていた。性質が鉛と似ているので、両者を区別して、錫を「白い鉛」、本来の鉛を「黒い鉛」と言ったりした。箔にもチューブにもできるので、鉄や鉛にかぶせられる。黒かったものが、とたんに神々しい白銀色になる。

 そんなところから宗教の儀式のための用具に好んで錫が使われた。聖遺物入れ、水差し、燭台、儀式皿、ロザリオ、メダル・・・。金銀のように注目はひかないが、優れた錫の工芸品が数多く残されている。

 おのずとこの道の名工といわれた人がいた。ドイツ工芸の歴史を述べた本には、十六世紀のころのN・ホルヒハイマーやA・プレイセンジンといった名があげてある。「ドイツ・バロック美術展」などには、きっとまとめて代表作が並んでいるはずだが、その辺りはおおかたの人が素通りして、たいていひとけがない。

 マイセン市のフーゴー・レーマン氏は現代の名工である。つつましい人だから当人はそんなふうには言わないが、マイセンの錫工レーマンといえば、この世界でひろく知られている。レーマン工房の創業は1792年、現当主は七代目。共産党政権下にあっては安価な大量生産が原理であって、一つ一つ丹念につくる手仕事は白い目で見られた。それでもねばり強く工房をつづけてきた。

 創業200年とドイツ統一が、ほぼ一致したのは、我慢してきたゴホービかもしれない。以来、レーマン工房のガラス窓を、晴れやかな「マイセン錫200年」の銀色の文字が飾っている。

 わざわざ「マイセン錫」と断っているのは、知られるようにご当地マイセンは焼き物で有名だからだ。交叉した細い剣がマイセン磁器のマークであって、白く、なめらかな硬質の肌に青で染めつけてある。その世界中に知られたマイセン窯の本場で、200年にわたり錫工芸の伝統を守ってきたわけである。フーゴー・レーマンの先祖たちが、とびきりのガンコ者たちだったことがわかるだろう。

 この分野の名工が十六世紀以後あまり伝わらないのは、錫の効用が変化したからである。技術が進み、宗教や儀式用だけではなく生活具にも使われてきた。錫の性質からして利用しやすく、錆びないし、品のいい銀色をしている。安くつくれるとなると、ひっぱりだこだ。生活に余裕ができてくると、人々はそれまでの鉄器や銅器を錫製品に買い代える。

 古書ではたいてい甲冑師や蹄鉄師のあと、鉢づくりや鈴づくりにまじって錫工が出てくる。手前にズラリと並べてあるのは仕上がりの品だろう。錫の鉢や瓶や水差しや壺は、版画ではわからないが、壺からの明かりを受け、仄かな銀色の輝きを見せていたにちがいない。

火入れして鋳型をつくる

錫職人とはわしがことよ

ビール、ブドー酒には

瓶とコップがつきもの

鉢、盆、皿なんでもござれ

銚子、壺台、水差しときて

燭台、皿受け、ほかにも色々

家庭の入り用、何でもつくる

 名工による工芸品ではなく、職人仕事による生活用具がつくられていたことがわかるのだ。さぞかし注文がひきも切らない状態だったのだろう。こころなしか図に見る三人の職人は、とびきり忙しげだ。並べられた仕上がり品も、すぐさまとぶようにはけていったのではなかろうか。

 錫工の景気のよさを見込んでだろう、十八世紀末に、初代レーマンがマイセンの小山の麓に工房を開いた。町はエルベ川に面しており、船運が通っていた。チェコ国境の山地は同じザクセン王国の領土であって採掘された錫が船で運ばれてくる。たしかにいいところに目をつけた。ただ一つの不運は、同じ小山の上で、べつの技術の開発が進んでいたことである。

 マイセン磁器の誕生は、「剛胆王」とよばれるザクセン国王アウグストが、力づくで錬金術師ヨハーン・ベトガーを山上の工房に閉じこの、磁器の発明を命じたことにはじまる。十八世紀の初め、最初の赤い磁器、つまり赤器が陽の目をみた。ついで白磁に成功。

ベトガーの死後、J・ヘロルトやヨハーン・与アヒム・ケンドラーといった陶工があとを継ぎ、マイセン磁器の声価を高めた。フーゴー・レーマン氏の工房のすぐわきに小山へ登る石段があり、登りつめたところの建物に記念の銘板がつけられていて、そこがかつて名工ケンドラーの住居であったことがわかるのだ。

「どうして磁器のお膝元で錫の仕事場を開いたのでしょう?」

当主にたずねたことがある。マイセンといえば焼き物の町と同義語だ。錫の仕事は場所をずらして初めてもよかったのではなるまいか。

 フーゴー・レーマンさんの意見は明快だった。磁器と錫とは用途がちがう。買い手がかさなることがない。とりわけマイセン磁器は国王の肝入りでつくられ、とびきりの高級品とされてきた、金器銀器と同じく宮殿や邸宅に飾られ、貴族やブルジョアに求められてきた。一方、錫の産物は生活用具であって、人々の暮らしに欠かせない。宮殿の壁よりも居酒屋の棚に合っている。ブルジョアの宴よりも、庶民のお祝いごとに似つかわしい。だからこそ「マイセン錫200年」は、なおのこと意義があるー。

 現フーゴー・レーマンがこんなふうに述べ立てたわけではない。奥の椅子にすわり、風格のある鼻ひげの下にパイプをくわえ、ほんのふたこと、みこと口にしただけである。言外を私が捕捉したまでのこと。

 

2024年6月23日日曜日

20240622 株式会社筑摩書房刊 宮台真司著「終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル」 pp.65‐68より抜粋

株式会社筑摩書房刊 宮台真司著「終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480033769
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480033765

私たちの社会には、もともと一神教的な神はいない。だからそういう神の前で感じ入る「罪の意識」もあり得ず、他人に指弾されようが「我、これを信ず」と言い続けられるような「内的確かさ」もあり得ない。私たちの社会は「倫理」なき社会だ。倫理の代わりに見いだされるのは、自分の属する共同体のメンバーにとって良きことこそが良きことであると感じるような、共同体のまなざしによって自らを持する「外的確かさ」である。これを「道徳」という。「良心」という、排他的な二つの類型に分割できる。
 しかし、一九五〇年代後半からの団地ブームと並行して急速に進んだ郊外化と人口流動化の高まりは、伝統的なムラの共同性を急速に踏み散らかす。大型家電ブームと米国製テレビドラマブームに沸いたこの時代は、週刊誌では「団地売春」ネタが定番になり、六〇年代に入ると秘密を抱えて生きる人妻が昼メロやピンク映画に登場しはじめる。団地化によってかつての共同性が踏み破られていくにつれて、道徳の母体もまた消えていくことを象徴するシンボリズムである。もちろん売春した主婦は一部に過ぎない。「やさしいママと頼りがいのあるパパと皆から好かれる良い子」からなる団地家族の幻想を生き得たことが、失われた村落的共同体をしばらくの間は埋め合わせ、「母や父を思うととてもできない」「子供を思うととてもできない」という類のしばりを有効に機能させたのである。
 しかし、このような不自然な「家族への内閉化」は長続きするはずもない。実際、八〇年代の高度情報化を通じて、テレビも電話も個室化し、互いがどのようなメディア環境を生きているのかさえ不透明化した。「友だち家族=表面的には平穏無事のバラバラ家族」の中で、主婦や子供たちは、家にも地域にも帰属しない「都市的現実」へと漂い出し、テレクラ主婦として、ブルセラ女子校生として、適応しはじめる。文学者ではなく、私たち自身がかつての良心の「基礎」が消えたことに気づく。私たちは「自由」になったのである。実際そのような自由こそ、私たちが戦後一貫して求めてきたものだった。八〇年代にいたり、パラダイスは実現した。かくして、「倫理なき社会」で「道徳の母体」が消失するとき、「私たちが良心的存在たりうるのはいかにしてか」という問題だけが残った。

2024年6月20日木曜日

20240619 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.105‐108より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.105‐108より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

東 新興宗教の犯罪性が問題になるとすぐに「宗教がダメだ」という論調になるのは、逆に宗教についての考えが貧しいことの表れだと思います。日本では人の心を安定させるシステムがうまく機能していないので、「娯楽産業」という名のもとに変な商売が大量に作り出されている。だれも知らないアイドルに何百万もつぎ込むのがよしとされているような文化は、ふつうに考えて異様です。そういった歪んだ部分が「クールジャパン」と呼ばれる面白い部分を作り出しているのも事実なのでしょうけど、長続きはしないと思います。

茂木 いわゆる自己肯定感が低いことも共通の基盤があるんでしょうね。本当の意味で自分の個性を受け入れることができないから、表層的な文化で右往左往する。それが日本の魅力であると同時に、本質的な限界になっています。

養老 宗教の問題は前から気になっていました。学生運動が落ち着いた後も、学生たちはしょっちゅうケンカをしていて、大体全共闘、創価学会、統一教会(原理研究会)の三つのグループが対立する。どうしたもんかと思って、当時、駒場にあった統一教会の寮に行ってみたことがあります。信者の女性が食事の世話なんかをしていました。どういう子が集まっているのかと思ってみてみると、公に相談ができにくい事情を持っている子たちなんです。親がゲリラ組織にいるとか、ごく一般の学生とはうまく話ができないような複雑な背景をもった子たちが集まっていた。

 オウムの問題なんかもあって、ずっと「古い宗教が安心だ」と言ってきたけど、そのわりにお坊さんがサボってししないか。コンビニより寺の数が多いと言われるのに、ぜんぜん機能しているように見えない。

東 そもそも「人の悩みを聞く人」が少ないという問題かな、と思います。人が人に真面目に悩みを話す、それを聞く、というまともなコミュニケーションの場があまりに少なく、表面的な社交ばかりしている気がする。

茂木 八百万の神はいい部分も多いけど、神の敷居が低いということでもあって、いろんなことが「神化」しやすいという問題もありますよね。

東 そうかもしれません。「プチ神」みたいなのが多いですよね。

茂木 「ひろゆき」を神化してしまうような脆弱なメンタリティは何だろうと思います。ひろゆきさん本人は、むしろ謙虚だし、自分の限界もわかっている。もちろん卓越している点もあるわけですが。

東 彼ら自身はむしろ強いと思っているのでしょう。ひろゆきさんと同一化することで心の穴が満たされ、現実の悩みをやり過ごすことができる。それは若さゆえの強がりであったことに、四〇代、五〇代になって気付くのかもしれない。

 日本では悩み相談みたいなものもコンビニ化していて、ちょっと寂しいときに時間を潰せる「元気をくれるサプリメント」みたいなコンテンツがたくさんある。僕自身、かつてポストモダン社会ではそういうものが機能するはずだと考えていたこともあるのですが、現実はそうではなかったですね。

養老 戦争後の脳天気な転換もそうですね。うまくいくだろう、という感じでやってきたけど、歪みがいろいろ出てきた。こっちはそれをずっと抱えてこの歳まで生きてきたけど、それでも何ができたわけでもなくて、満州からの引き揚げ者が同級生に三人もいたことすら今になって知りました。彼らはどうやって戦争のトラウマを片付けてきたのだろうと思いますが、今更、何も言わないでしょうね。この社会はそういう問題に蓋をしたまま、コンビニ的なサービスで間に合わせてきたんですから。

東 戦争については、九〇年代くらいまでは社会の中に戦争経験者が現役でいたので、いまとはまったく語り方が違っていたと思います。でも彼らが死んでしまうと、戦争の記憶がバーチャル化してしまって、戦争の話は生々しい人間の話ではなく、データを組みあわせて作る物語になってしまう。

茂木 その話はまさに歴史実証主義の限界を示していると思います。残った記憶だけでその人がどういう人だったか、この事件が何だったかなんてわかるわけない。たまたまそれが残っているだけかもしれないし、立場によって見えるものは違うわけです。歴史実証主義の「ドキュメンテーションがないものは信じない」という態度は、まさに東さんの言った、人の経験はそれ自体が本来は重要なのに、死んでしまうと残された「データ」だけが参照されて、経験への想像力がなくなるという問題とつながっているように思います。