2024年6月29日土曜日

20240629 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.151-154より抜粋

株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』
pp.151-154より抜粋
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182

 一八八六年に森有礼によって設計された帝国大学は、それまで西洋からの知の移植をばらばらに進めてきたエリート養成諸機関が「天皇」のまなざしの下に統合されることで誕生し、やがて東京のみならず京都、仙台、福岡、札幌m、ソウル、台北などの帝国日本を覆う広がりをもったシステムに発達していった。天野郁夫が詳論したように、この帝大のシステムには、多数の官立専門学校による専門職養成システム、それから予科ないし旧制高校という教養教育システムが並立しており、これら高等教育の三つのシステムの間には葛藤や緊張、補完と連携の関係が生じていった(天野郁夫、前掲書)。しかし、官立専門学校や予科・旧制高校は、基本的には帝国大学を補完するもので、これと根本的に対立するものではなかった。

 これに対し、すでに述べたように、一九世紀半ばに列島各地で勃興するナショナリズムを基盤とした西洋の知に対する貪欲な関心、それを導入しながら新時代の知の基盤を形成していこうという草莽の動きのなかでは、帝国大学のシステムとは位相的に異なるネットワークが形成されてもいた。すなわちそれは、福沢諭吉の慶應義塾や大隈重信の東京専門学校をはじめとする私塾から私学への流れのことである。なかでも福沢諭吉は、慶應義塾という実践において、森有礼が帝国大学の設計で示したのとは異なる「西洋知の移植」を志していた。

 森有礼と福沢諭吉の関係はしかし、実際にははるかに複雑である。実をいえば、彼ら二人をはじめ明治日本の大学知の世界をづくる人物の多くは、明治初期にある同じ雑誌、一八七三年に結成された明六社の同人であった。明六社結成の中心になったのは、同年にアメリカから帰国したばかりの森有礼で、彼の誘いに福沢諭吉、加藤弘之、西周、津田真道、箕作麟祥、中村正直などが応じて参加した。森有礼の頭にあったのは、アメリカの「学会」(AssociationないしはSociety)であったが、明六社同人の共通項は啓蒙主義で、特定分野を対象としていなかったから、今日ならば個別学会よりも日本学術会議のようなアカデミーに近い。実際、明六社解散後の八〇年、この結社に集った人々を母体に東京学士院が設立されているから、明六社は日本最初の学術アカデミーであったともいえる。ともあれ、ここに結社化した維新期の啓蒙家たちは、日本初の西洋レストラン築地精養軒で頻繁に演説会(研究会)を開催し、その成果を自らのジャーナル「明六雑誌」に収録していった。「スピーチ=演説」にしても、「ジャーナル=雑誌」にしても、欧米の学術コミュニケーションの方式を直輸入する発想では、森と福沢は多くを共有していた。しかも「明六雑誌」は、様々な問題を提起し、アカデミックな議論の俎上に載せること自体を目的にしていたから、ここを舞台に民選議院論争や妻妾論争、国語国字論争など、政治からジェンダー、言語まで日本初の多様な学問論争が展開された。加えて雑誌には、ベーコン、ホッブス、スペンサーなどの西欧近代思想も紹介されており、森から福沢までの知識人を連携させた明六社は、たしかに近代日本の学知の原点だった。

 しかし、森と福沢の共通点はここまでである。「啓蒙=国民の主体化」を「国家=天皇」のまなざしを通じてなそうとする森と、あくまで「実学」を国民一人ひとりが身につけるところから出発しようとする福沢の間には、近代に対する把握に大きな違いがあった。やがて「明六雑誌」は讒謗律と新聞紙条例による薩長政権の統制が強まるなかで廃刊に追い込まれるが、すでに廃刊以前から、あくまで「官」主導の西洋化を構想する森や加藤、津田、西などの間には厳しい思想的対立が存在した。この対立を最も明瞭にしたのは、福沢が明六社のセミナーで発表し、その後「学問のすゝめ」の第四編として収録した「学者の職分を論ず」をめぐる個人間の論争である。

 この講演で福沢は、「固より政の字に限りたる事をなすは政府の任なれども、人間(じんかん)の事務には政府の関わるべからざるものもまた多し」と、「政府=官」と「人民=民」の二元論から出発する。明治日本の現状を見ると、維新で「お上」中心の時代は終わったはずなのに、「官」ばかり肥大し、「民」がちっとも強くなっていない。現状は、「政府が依然たる専制の政府、人民は依然たる無気力の愚民のみ」である。しかも、「一国の文明は、独り政府の力をもって進むべきものに非ざる」もので、「人々自ら一個の働きを逞しうすること」を欠けば、その進歩はない。ところが日本では、本来、そうした内発的な啓蒙の任に当たるべき洋学者=啓蒙知識人たちが、「皆官あるを知って私あるを知らず、政府の上に立つの術を知って、政府の下に居るの道を知らざる」傾向を強めている。これらの人士は、「生来の教育に先入して只管政府に眼を着し、政府に非ざれば決して事をなすべからざるものと思う、これに依願して宿昔星雲の志を遂げんと欲するのみ」である。結果的に、今日では「青年の書生僅かに数巻の書を読めば乃ち官途に志し、有志の町人僅に数百の元金あれば乃ち官の名を仮りて商売を行わんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、凡そ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心益々その風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なく」なってしまった(「学問のすゝめ」)。

 

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