2023年12月15日金曜日

20231215 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」 pp.87-89より抜粋

株式会社講談社刊 講談社学術文庫 宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」
pp.87-89より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065157110
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065157114

トクヴィルの「個人主義」概念は、同時代文脈においてみても、ある独自性を持っている。十九世紀フランスにおける「個人主義」への問題意識が、抽象的・理論的に個人の独立や解放を説くものではなく、むしろそのことを前提に、そのような個人からなる社会をいかに再組織化し、個人をそこに「埋め込む」ということにあったとすれば、トクヴィルにとっての問題は、それと少しずれていた、というのも、トクヴィルによれば、平等化のダイナミズムは、けっして人々を無秩序へと導くとは限らないからである。

トクヴィルはむしろ、平等化のダイナミズムはむしろ、平等化は人々をいったんバラバラにした上で、むしろかつてないほど強固な秩序を生み出すと考えた。それも、革命を経験したフランスでは、それ以外の場所以上に、その傾向が強いとさえしている。これはどういうことなのだろうか。

 このことを考えるにあたっては、トクヴィルのいう「個人主義」のもつ二面性に着目する必要があるのだろう。トクヴィルの考える個人は、自分の内なる世界においては至上の存在である。この個人は自分が他のいかなる個人とも同等の権利を持つと考え、他の誰にも自分に優る権威を認めず、そのことに強い誇りを持っている。ところが、この個人は、いったん自分を外から見つめるやいなや、まったくの無力に陥る。というのも、他の個人と同等であるということは、逆にいえば、他の人間と同等の存在でしかないということも意味するからである。個人は他の誰にも自分を優越する権利を認めないが、このことは同時に、自分が他の人間に優越すると主張するなんらの権利も持っていないことをも意味する。自分はその他大勢に過ぎない、か弱い存在である。このアンバランスこそが、平等社会における個人の自意識の最大の特徴となるのである。

 そこで問題になるのが、すでに指摘した、権威の問題である。「デモクラシー」社会に生きる個人は、自分の周りの誰にも特別の知的権威を認めない。この個人はすべてを自分で判断したいと思う。しかしながら、トクヴィルに言わせれば、すべてを自分で一から考え直すことなど、人間には不可能である。人はすべてを疑うわけにはいかない。人は自覚的・無自覚的に、つねに一定の事柄を前提に、その権威に頼ってものを考えているからである。自らの哲学の出発点に懐疑を据えたデカルト自身は、このことを十分に承知していた。だからこそ彼は、すべてを懐疑するためにも、実社会生活においてはあえて一定の常識的事柄を懐疑の対象から除外したのである。それらの常識的事柄を確保することで、はじめてそれ以外のことについて会議することも可能になるというのが、彼の確信であった。

 しかしながら、トクヴィルのいう平等社会の個人は、それほど自覚的ではない。彼らは無意識のうちに、何らかのものを権威として仰ぐようになる。それが、すでに触れた、自分の「同等者の総体」であった。一人ひとりの人間は特別な権威を持ちえない。しかしながら、自分と同等の個人が「巨大な全体」としてイメージされたとき、人はその権威に抗うことはできない。トクヴィルは、この「多数者の意見」こそが、平等化社会における最大の知的権威であるとした。「平等の時代には人々はみな同じだから、お互いに誰かを信用するということが決してない。だが、みな同じだからこそ、人々は公衆の判断にほとんど無限の信用をおくことになる。なぜなら、誰もが似たような知識水準である以上、真理が最大多数の側にないとは思えないからである」。トクヴィルは、このような多数者の圧倒的な知的影響力、およびそのことによる少数者への圧迫を指して「多数の暴政」と呼び、「デモクラシー」の社会における最大の問題の一つであると見なしたのである。

2023年12月14日木曜日

20231214 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.386‐388より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.386‐388より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188498
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188498

それでも最後にひとつ論点を示しておこう。スクリーンの時代から触視的平面の時代への移行にしたがい、人文系知識人のありかたは大きく変わるはずだと思われる。

 第七章でも紹介したことだが、二〇世紀の学問では「同一化」が熱心に論じられた。ひとは、父(いまとなってはジェンダー的に問題があるが、なぜか当時は父の話ばかりがされていた)やその代理の人物に同一化して大人になるのであり、その過程で失敗するとさまざまな病が生じると考えられた。

 そして奇妙なことに、精神分析が構想した人間の理論と映画批評の言説のあいだには構造的な類似性があった。精神分析の理論によれば、ひとは目のまえの父(見えるもの)に同一化するだけでは不十分で、その背後にある象徴的な価値(見えないもの)に同一化することになっていた。そのような二重化がうまく動かないと、ひとは成熟しない。同じように映画批評においても、観客はスクリーンに登場する俳優(見えるもの)に同一化するだけではなく、それぞれの場面を撮影する監督=カメラの視線(見えないもの)に注目しなければ、作品の価値は十分にわからないということになっていた。「見えるもの」を乗り越え、「見えないもの」に向かうことで、ひとははじめて大人になり、本当の知を手に入れることができる。二〇世紀の知識人は、そのような前提のもとで、ひとは目のまえの「見えるもの」にすぐ騙される、だから「見えないもの」について語ることで世の中をよくしようと行動してきた。そこではスクリーンというメディアの構造と同時代の人間観が深く共振している。

 だとすれば逆に、スクリーンが触視的平面に置き換えられることで、そのような人間観も変わるだろう。それは政治や社会についての言説も変えるはずだ。具体的には、いま記したような「見えるもの」と「見えないもの」の対立に基づく行動原理、すなわち、ひとは「見えるもの」にすぐ騙される、だから「見えないもの」について語ろうという指針そのものの有効性が失われていくのではないか。

 実際、そのような現象はいまやあちこちで観察されるように思われる。たとえば本書初版出版の数カ月まえ、アメリカではドナルド・トランプが大統領になった。トランプはポピュリストで、発言には性差別的で人種差別的なものが多く、政策も場当たり的で批判も多い。にもかかわらず彼は二〇一六年には勝利を収めたし、二〇二〇年の大統領選で敗北したあとも大きな影響力を持っている。

 二〇一六年のトランプ旋風は専門家にとっても予想外の現象だった。リベラルの多くは当初、トランプの支持者はセレブで大金持ちという煌びやかなイメージ(見えるもの)に騙されているだけであり、支離滅裂な実態(見えないもの)を暴けば影響力も下がるだろうと考えた。けれどもそううまくはいかなかった。支持者の多くはいくら真実を示されても嘘のほうを信じ続けたし(フェイクニュース)、リベラルの執拗な批判は、逆に支持者たちの側に悪質な陰謀論の流行を引き起こすことになった。トランプは「にせもの」にすぎず、見えないところにこそ「ほんもの」があるという知識人のキャンペーンは、一方では「にせもの」でなにが悪いという開きなおりを引き出し、他方ではおれたちはおれたちの「ほんもの」があるのだという独自の世界観を生み出す結果にしかならなかったのである。

 触視的平面の時代においては、ひとは「にせもの」の彼方に「ほんもの」があるはずだと考えない。現代は、「にせもの」が「にせもの」として触られ、操作され、加工され、多くのひとがその操作そのものに快楽を覚える時代であり、また「にせもの」を触っているだけでもいつか「ほんもの」に届くはずだと信じられる時代なのだ。すべてが見え、触ることができるはずの時代においては、見えないものについて語る人々はむしろ信頼を失う。そんな時代に知識人がなにを行動原理にすべきなのか、なかなか悩ましい問題だ。

2023年12月12日火曜日

20231214 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.124-126より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

合衆国において宗教が政治に及ぼす直接の作用については、いま(前節で)述べたばかりである。その間接の作用のほうがはるかに強力なように見える。宗教が自由について語らないときこそ、アメリカの人々に自由である術を最もよく教えるのである。

 合衆国には数えきれないほど宗派がある。そのすべてが人間連帯の義務については一致している。各宗派は、それぞれの仕方で神を崇めるが、すべての宗派が神のみ名において同一の道徳を説く。個人としての人間に、各自の宗教が真実であるということは意義が大きいとしても、社会にとっては問題にならない。社会は来世を恐れもしなければ、来世に望みもかけない。社会にとって最も重要なのは、すべての構成員が真の宗教を奉ずることではなく、一つの宗教をもてはよいのである。そして、合衆国のすべての宗派はキリスト教という大きな単一体に属し、キリスト教の道徳はどこでも同じである。

 アメリカの人々の中には、確信に従うというより、慣習によって神を崇める人が相当あると考えてよい。さらに合衆国では主導者(人民)が宗教的であり、その結果、一般に宗教的であるふりをせざるをえない。しかしアメリカはいまなお、世界中でキリスト教が人間の魂を動かす力を最も強く保っているところである。また、それが人間にいかに有益であり自然であるかを最もよく示している。今日、その力が人間に最も強く及んでいる国は、最も開明的であるとともに、最も自由であるからである。

 すでに述べたことであるが、アメリカの聖職者は市民的自由(の原理)に対して一般に賛成である。信教の自由を断じて認めない人々さえ例外でなない。しかし、特定の政治体制を支持することはない。聖職者は現実の問題に巻きこまれないように注意し、政党政派に介入しない。合衆国において、宗教が立法にも政治的な意見の細部にも影響を及ぼすとはいえないが、習俗を指導するのである。家庭を規制することによって、国家の規制にはたらく。

 合衆国に見られる習俗の厳正さは、信仰に第一の源をもっている。これを私は瞬時も疑わない。ここでも、富がさし出す無数の誘惑から男性を守るのに、宗教はしばしば無力である。男の、金持になりたいという熱望をすべてが刺激する。これらを和らげることは宗教にできまい。しかし、女性の魂にとって宗教は至上の権威をもっている。そして、習俗をつくるのは女なのである。まさしくアメリカは、婚姻の絆が世界で最も尊重される国であり、結婚の幸福について最も高く正しい観念が保たれている国である。

ヨーロッパでは、社会のすべての混乱は家庭と夫婦関係とをめぐって生じる。男性が自然の絆と正統な楽しみを軽視し、秩序の乱れに味をしめ、心が落ち着かず、欲望にも不安定を来すのは、ここにおいてである。自分の住居にしばしば紛糾があり、その激情に動かされるので、ヨーロッパの人々は国家の立法権に服するのが難儀になる。アメリカ人は政治の喧騒から離れて家庭に帰ると、秩序と平和との姿に接する。家庭では、すべての楽しみが簡素、自然であり、喜びには罪がなく、穏やかである。規則正しい生活によって幸福がもたらされるので、意見も趣味も(正常に)抑えておく習性ができやすい。ヨーロッパの人が社会を騒がせて家庭の悩みから逃れようとするのに対し、アメリカ人は家庭から秩序への愛を汲みとり、次いでそれを国事にもたらす。



20231212 中央公論新社刊 藤野裕子著 「民衆暴力」― 一揆・暴動・虐殺の日本近代 pp.24‐26より抜粋

中央公論新社刊 藤野裕子著 「民衆暴力」― 一揆・暴動・虐殺の日本近代 pp.24‐26より抜粋
ISBN-10 : 4121026055
ISBN-13 : 978-4121026057

興味深いのは、村の遊び日を研究した古川も、通俗道徳を論じた安丸も、遊興に流れる民衆の解放願望が、幕末のええじゃないかや世直し一揆につながると言及している点である。

 ええじゃないかは、幕末期に東海地方から近畿地方にかけて幅広く見られた、民衆が乱舞する現象である。暴力的な一揆が起らなかったとされる畿内でも、この現象が起きている点は興味深い。日本近世史家の西垣晴次は、ええじゃないかの共通点を次のようにまとめている(「ええじゃないか」)。

 ええじゃないかが始まるきっかけは、神社のお札が降ってきたことによる。降ってきたお札が祀られ、その後数日間にわたって祝宴が開かれるようになる。その宴から、ええじゃないかと歌いながら多くの人が踊り始めた。

 つまり、お札という異世界の要素が生活世界に持ち込まれたことをきっかけに、熱狂的な乱舞が始まったのである。歌は地域によってさまざまであるが、次のようなものもあった(同前)。

御陰でヨイジャナイカ 何ンデモ ヨイジャナイカ ヨイジャナイカ ヨイジャナイカ おまこ紙張れ へげたら又はれ ヨイジャナイカ

 このように、ええじゃないかでは性的な要素を含んだ歌が歌われた。女性は男装し、男性は女装するといった異性装も見られた。乱舞するなかで、人びとは勢いにまかせて、豪農の家へと押し寄せて、酒肴を強要することもあった。また、年貢の減免を要求したケースもあった(安丸「日本の近代化と民衆思想」)。

 ええじゃないかとは、現実とは異なる幻想的な世界を求める、世直し的な要素を持った踊りであり、集団的な熱狂の力を借りて、人びとは日常では不可能な要求を行ったのである。

 古川は、村の遊び日や若者組の祭礼行動の「極限的な到達点」が、一八六七年(慶応元)のええじゃないかであると述べている。願い遊び日のうち、かなりの部分が、ええじゃないかであったともいう。

幕末特有の社会不安、すなわち、この世がユートピア的な世界になるか、あるいはたたりのような災厄が訪れるのかわからない不安が、ええじゃないかという現象の根底にあった。そして、同様の衝動や願望が、世直し一揆における打ちこわしというかたちでの爆発的な暴力行使にもつながったのだと安丸はいう。

20231213 株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会 pp.35-38より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会
pp.35-38より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061495755
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061495753

ここで注目すべきなのが、そのオタクたちの幻想が営まれる場所が、江戸時代の町人文化に擬した一種のテーマパークのように描かれていたことである。前傾のコジューヴをはじめとして、日本の江戸時代はしばしば、歴史の歩みが止まり、自閉的なスノビズムを発達させた時代として表象されてきた。そして高度経済成長以降の日本は、「昭和元禄」という表現があるように、自分たちの社会を好んで江戸時代になぞらえていた。ポストモダニズムたちの江戸論は、八〇年代に幾度もメディアを賑わしている。

 この欲望のメカニズムは理解しやすい。日本の文化的な伝統は、明治維新と敗戦で二度断ち切られている。加えて戦後は、明治維新から敗戦までの記憶は政治的に大きな抑圧を受けている。したがって、八〇年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、江戸時代のイメージにまで戻るのがもっともたやすい。大塚や岡田のオタク論に限らず、江戸時代がじつはポストモダンを先取りしていたというような議論が頻出する背景には、そのような集団心理が存在する。

 したがってそこで見出された「江戸」もまた、現実の江戸ではなく、アメリカの影響から抜け出そうとして作り出された一種の虚構であることが多い。「セイバーJ」が描くジャポネスは、まさに、そのようなポストモダニスト=オタクたちの江戸的な想像力のいかがわしさを体現している(図2)。超近代的な科学技術と前近代的な生活習慣を混ぜ合わせて設定されたその光景は、まったくリアリティを欠いている。TVアニメという性格上、登場人物は強いデフォルメでデザインされ、過剰に非現実的な感情表現をする。ジャポネス城は変形してロボットになるし、マリオネットたちの衣装もまた和服に似せてはいるものの、セクシュアル・アピールを強調するため随所に変形が加えられた結果、まるでイメクラのコスチュームのようになっている。低予算で作られたアニメのせいか、映像的にもセルの使い回しが多く、主人公以外の男性たちは、数人を除きほとんど描き分けられることがない。おまけに物語の多くはドタバタコメディであり、シリアスな設定と齟齬を起こしている。物語的にも映像的にも、ここにはいかなる深さもなく、いかなる一貫性もない。しかしそれはある意味で、オタク的な疑似日本の戯画であり、また、現代日本の文化状況の戯画でもある。制作者たちがそのようなメッセージを自覚的に込めたとは思わないが、筆者は以上の点で、「セイバーJ」は、オタク系文化の特徴をきれいに反映した隠れた佳作だと考えている。

オタク系文化の重要性

 ここまでの議論でも明らかなように、オタク系文化についての検討は、この国では決して単なるサブカルチャーの記述には止まらない。そこにはじつは、日本の戦後処理の、アメリカからの文化的侵略の、近代化とポストモダンの問題とも深く関係している。たとえば、冷戦崩壊後のこの一二年間、小林よしのりや福田和也から鳥肌実にいたるまで、日本の右翼的言説は一般にサブカルチャー化しフェイク化しオタク化することで生き残ってきたとも言える。

したがって彼らが支持されてきた理由は、サブカルチャーの歴史を理解せず、主張だけを追っていたのでは決して捉えることができない。筆者はこの問題にも強い関心を抱いており、いつか機会があれば主観的に論じてみたいと考えている。


2023年12月11日月曜日

20231211 株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」 pp.140-145より抜粋

株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」
pp.140-145より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4344986830
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4344986831

未来の医療技術の第一の柱は、ナノマシーンだ。これは、10万分の1メートル程度の大きさの機械である(これは細菌や細胞よりもひとまわり小さいウィルスのサイズである。なお、「ナノ」とは10のマイナス9乗を意味する言葉)。

 これにより、血液の状態、ウィルスやHIVやガン細胞を検知する。そして、周囲には影響を与えずに、それらを殺したり、血栓を除去したりする。こうして、外科手術なしに治療が可能になる。また、目や耳の神経を入れ替えることも可能になる。

「細胞療法」で皮膚、骨、臓器を再生

 未来の医療技術の第二の柱は、PSC(Pluripotent Stem Cell:多能性幹細胞)を用いる「細胞療法」だ。これが2030年頃から、一般の患者でも利用可能になると予測されている。

 再生医療は、肝細胞薬を使うことで、疾患治療における新たな革命になっている。幹細胞薬とは、特定の疾患の薬として使用される生きた幹細胞ベースの製品だ。

 幹細胞技術を使用すると、欠陥のある細胞や損傷・病気によって失われた細胞を置き換えるためのヒト細胞を提供することができる。つまり「細胞療法」であり、皮膚、骨、臓器などの身体の失われた部分を再生するのだ。

 再生医療は、慢性肝疾患、糖尿病、神経変性疾患の治療などに活用できる。パーキンソン病、アルツハイマー病、虚血性脳障害、脊髄損傷、心不全、腎不全、糖尿病、黄斑変性症など、多くの病変の治療に応用できると期待されている。これが、従来の組織療法(tissue therapies)に取って代る。

 前記の文献は、バイオプリンティング(bioprinting)が利用できるようになる夢のような未来の治療法を描いている。バイオプリンティングとは、人体の組織や臓器を製造することだ。

 生きた細胞や生の生体材料を用い、コンピュータ支援の3次元プリンティング技術を利用することによって、複雑な3次元構造を製造ずるのだ。

 こうなると人々は、病院に行ってDNAサンプル(口腔粘膜細胞から抽出できるのだろう)を示すだけでよい。そして、即座に、その人の遺伝子に合った細胞を入手できるようになる。これは、その人が必要とする用途に使える。例えば、腎臓、皮膚移植などだ。

「ゲノム編集」でアルツハイマー病に対処

 未来の医療技術の第三の柱は、「ゲノム編集」(Gene editing)だ。

 2012年に重要な発見がなされた。それまでの「遺伝子組み換え」ではなく、遺伝子を「編集する」という新しい技術が開発されたのだ。

 これによって、ゲノム編集が可能となった。これは、生物が持つゲノムDNA上の特定の塩基配列を狙って変化させる技術だ(「ゲノム:genome」とは、生物の持つ遺伝子geneの全体。これはDNAという物質で構成されている)。ゲノム編集技術の基礎研究を行った科学者2人は、2020年にノーベル化学賞を受賞した。

「遺伝子組み換え」とは、別の生物から取り出した遺伝子を導入することにより、細胞に新たな形質をつけ加える技術だった。

 それに対して、「ゲノム編集」では、遺伝子を切ったりつなげたりする。狙った性質の遺伝子だけを編集することができるため、優れた特徴を持つ品種に新たな性質をピンポイントで追加できるようになった。

 「遺伝子組み換え」では、外来の遺伝子を細胞に導入して新しい軽質をつけ加えるのだが、「ゲノム編集」では、細胞が元々持っている性質を細胞内部で変化させる。今後数十年の間に、この技術を用いたさまざまな医療の開発が期待されている。

遺伝性心疾患を、根本的に遺伝子から治すための遺伝子治療法への応用がある。血液ガンを対象とした「CAR-T療法(T細胞療法)」という治療法が、日本でも保険適応となった。白血病をはじめとする各種ガンの新規治療法にも期待が高まっている。

 ゲノム編集を用いた治験は、アメリカた中国で多数行われている。いくつかの遺伝性疾患に対して治験も始まっている。そのほとんどが、ガンや感染症に対するものだ。

 今後は、視力や聴力を失った人、アルツハイマー病、パーキンソン病の治療も可能になるのではないかと期待されている。

AIの活用で病変の見落としを防ぐ

 未来の医療技術の第四の柱は、医療分野でのAIの利用だ。

 医療の現場にはCTスキャン画像、MRI(磁気共鳴画像装置)画像、レントゲン画像などさまざまな画像がある。ところが、検査数に対して、読影医が不足している。したがって、AIに期待されるところが大きい。AIの画像認識が用いられるようになれば、素早く、低コストで診断できる。

 また、医師によって読影判定にバラツキが起こることもあって、正しい判断がされていない可能性もある。AIによる自動診断は医師の負担を減らし、病変の見落としも防げる。 

 正常な状態との差異を判別できる画像認識技術によって、病気を判別できる。とりわけ、ガンの発見に威力を発揮する。ビッグデータを扱ったAI利用は、医師の目や耳、脳の能力を拡張できるとされる。

20231210 株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」pp.226‐229より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」pp.226‐229より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106038951
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106038952

アフガニスタンでの作戦は、NATOにとって重大であり、二〇〇〇年代半ばからの一〇年間、NATOの変革の原動力になったのはISAFだった。豪州や日本を含むパートナー諸国との関係が強化されたのもアフガニスタンがきっかけであったし、安全保障と開発のリンクに関連して「包括的アプローチ」が唱えられたのも、国連やEUとの協力が模索されたのも、すべてこの文脈だった。
 アフガニスタンがなければ、NATOがここまで変革を遂げることもなかった。

一方的な米国に噴出する憤り

 そうしたなかでの、米国による一方的な撤退方針の決定だったため、欧州諸国は憤ったのである。バイデン政権は、撤退に関するトランプ政権の決定事項を引き継いだのみという立場だった。しかし、同盟国軽視のトランプ政権とは異なり、バイデン政権の基本方針は前項でみたように、「ともに協議し、ともに決定し、ともに行動する」だったはずである。それと、アフガニスタン撤退のプロセスの相違は非常に大きい。
 なかでも最も大きな衝撃を受けているのだ、米国の最も緊密な同盟国を自任し、米国に次ぐ規模のアフガニスタン関与をおこなってきた英国である。八月一比に休暇を中断して開かれた下院本会議では、野党のみならず、伝統的に米国との同盟関係を重視してきた与党保守党の議員からも、ジョンソン政権の対応に加え、米国に対する厳しい批判が渦巻くことになった。
 例えばメイ(Theresa May)元首相は、「我々のインテリジェンスはそんなに貧弱だったのか?」、「我々のアフガン政府理解はそんなに不足していたのか?」、「米国に従う他なかったのか?」とジョンソン首相(当時)に迫った。さらに、今回の件は、「NATOをいかに運営するかの再検討を迫るものだ」とした。
 陸軍兵士としてアフガニスタンに派遣された経験を持つ下院外交委員長のトゥーゲンハート(Tom Tugendhat)議員は、カブール陥落で「怒り、悲嘆、憤怒」の感情に包まれたとしたうえで、しかし「(我々がこのように)敗北する必要はなかった」と述べた。そして、一連の過程の教訓として、「我々は、たった一つの同盟国、たった一人の指導者の決定に依存しなくて済む新たなビジョン」を構想できるはずだ、と述べた。戦場で仲間を失った当事者としても、バイデン政権の一方的対応に振り回されたことへの怨嗟の念があらわれていた。
 バイデン大統領が八月一六日の演説で、アフガニスタンでの作戦における同盟国の貢献にまったく触れなかったことも、欧州にとっては衝撃的だった。バイデン政権としては、まずは国内の批判に応えることが、内政上不可欠だったのだろう。そうした事情は分からないでもない。しかし、アフガニスタン作戦は米国のみのものではなく、同盟国の貢献に謝意を示すのは、外交上最低限求められる姿勢だったのではないか。
 そうした批判を考慮したのか、八月二〇日の演説と会見では、「アフガニスタンは二〇年にわたり、NATOの同盟国との共同の努力だった」などと述べている。しかし、「後付け感」しか残らないというのが欧州の当事者にとっての偽らざる受け止め方であろう。
 さらにバイデンは、「アフガニスタンにおける我々のミッションが国家建設であったことは一度もない」(八月一六日)と主張し、「アル・カイダがいなくなった現在、アフガニスタンにどのような我々の利益があるというのだ?」(八月二〇日)とまでいい切った。米国とともに戦い、アフガニスタンの国家建設にともに尽力してきた欧州にとっては、ほとんど侮辱とでもいってよい発言であろう。
 米国がアフガニスタンの国家建設を目的にしたことがないとの主張に対して、ボレル(Joseph Borrell)EU外交・安全保障政策上級代表は、欧州会議での審議で、「それは議論の余地がある。我々はアフガニスタンで国家を建設するために多くのことをやってきた。法の支配や基本的人権を遵守する国家を目指してきた」と反論した。
 国会建設など目指したことがないといわれてしまっては、我々の努力は何だったのかということになってしまう。実際米国は、アフガニスタン国軍への装備と訓練の支援で主導的な役割を長年果たしてきた。新たな国家にとって、国軍建設はまさに国家建設の中核だったはずであり、米国も国軍の重要性を理解していたがゆえに支援してきたのである。