2023年5月13日土曜日

20230512 1990記事に到達して思ったこと・・

おかげさまで昨日の記事投稿により、総投稿記事数が1990に達しました。そして、当記事を含めてあと10記事の投稿により、当面の目標としている2000記事に到達します。しかし、現時点においては、あまりその実感もなく、これまでと同様、何やら書き連ねているといった感じしかありません。あるいは、さらに数記事ほど追加投稿しますと、この感じも変わってくるののかもしれません・・。そこで、以前、2018年に1000記事に到達した際の記事「20180526 1000記事の到達、多く読んで頂いた記事について」を読んでみますと「今回の記事投稿により総投稿記事数が1000に到達します。しかし、それに対しての感慨・感興はほぼ皆無であり・・」と述べており、それよりも、少し先のブログ開設から丸3年となる6月22日までのブログ記事作成を目指していたようです。

そこから2000記事到達まで10記事程度にまで迫った現在の状況を考えてみますと、やはり冒頭に述べたとおり、実感はなく、今後、2000記事に到達したとしても、しばらくはマラソン後のクール・ダウンのように、6月22日まではブログ記事を作成し続けるように思われます・・。

そして6月22日まで続けましたら、また何か異なった感慨でも湧いてくるのではないかとも思われたため、また同じく1000記事到達後、ブログ開設から丸3年となった2018年6月22日の記事に目を通してみますと「残念ながら、そうした感覚・実感はこれまで同様皆無であり、また多少なりともの感興といったものありません」と述べており、ここでもさきと同様に感慨などはなかったようです・・。

とはいえ、かれこれ8年近くブログ記事の作成を継続していますと「事務的に」とは云いませんが、特に感興などなくとも、(どうにか)記事作成は出来るようにはなってきました。また、それら記事の内容に関しましては、あまり文章の洗練などは考慮せずに、当時の考えを比較的率直に述べている記事が多かったのは、1000記事到達の少し前の2017年末頃から2018年春頃までの時期であったように思われます。その後、2020年以降からはコロナ禍や、2022年からは第二次宇露戦争もあり、当ブログの作成に関しても何かしら変化があり、特に2020年春以降、コロナ禍にて緊急事態宣言が発出された際は外出もままならず、家からあまり出ない(出れない)状況で一連の「架空の話」の作成がはじまりました。この「架空の話」は今現在また休止中ですが。2000記事まで(どうにか)無事に到達することが出来ましたら、あらためて続きを作成してみたいと考えています。また、これにつきましては、作成の波に乗ることが出来れば、しばらくは継続して作成することが出来るのではないかと思われるのです・・。

上述の「継続して作成」から思い出されましたが、過日二回にわたり作成しました我が国の横穴式石室の古墳を題材としたブログ記事は、思いのほかに閲覧者数が伸びました。これらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。こちらの題材については記事作成が出来ると思われますので、近日中に作成・投稿したいと思います。これまでに作成した我が国の古墳を題材としたブログ記事は、私の場合、和歌山、南紀在住期間に、その原点があったと云えます。この原点での感覚がなければ、その後の知見の獲得、そして、それらの自分なりの体系付けなどは出来なかった思われますので、この感覚については、これまでにも何度か当ブログにて記事として作成・投稿してきましたが、またあらためて述べることにより、これまた自分なりに新たな発見があるのではないかとも思われます。

さきの古墳についても同様ですが、何かの歴史などについて述べる文章の作成も楽しく感じられることがありますが、如上のような独白形式で述べていく文章もまた、少し間を置いて作成してみますと、これもまた楽しく感じられることが新たに分かりました・・。

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2023年5月11日木曜日

20230510 中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋

中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025091
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025098

陸奥の外交の巧みさというのは、例えば、周到に手を打ち、大義名分を失わないようなかたちで清との戦争に持ち込んだことに求められる。「蹇蹇録」には、外交上は被動者の位置を占めつつ軍事上は常に機先を制そうとした。大鳥圭介駐清公使に対し平和的対応というときの臨機の処分という表裏二個の主義を含む訓令を授けた、日本の共同朝鮮内政改革案を清が拒むのはわかっていた、などと書かれている、あたかも、事態が陸奥の想定通りに動き、事前に用意していた策がことごとく当たっているかのようである。

 林董は、あるとき、大をなした政治家というのは門閥の背景がなければあとはみな戦争の勝利によって台頭したと語り、それを聞いた陸奥は頭を傾けてしばらくして、「ヤッテ見ようかネ」と述べたという。そして、明治27年6月に朝鮮に兵を送るとなった際、陸奥、林、参謀次長の川上操六が集まり、いかにして平和にことをまとめるかではなく、いかにして戦いを起こしていかにして勝つかの相談をしたとする。つまり、陸奥としては初めから清と戦争を起こすつもりで、それに向けて着々と策を講じたという話である。林は、首相の伊藤は平和志向なので陸奥と川上が共謀してだましたことまで述べている。伊藤が混成旅団の規模を知らないことにつけ込んだというのと、旅団の派遣として決定して実際には混成旅団を出したというのと、二種類の回顧談で若干内容が違うが、ともかく、伊藤は派遣兵力が2~3000人であると誤認して7~8000人の派兵を決定したというのである(「後は昔の記也」)。

 こうした陸奥の外交姿勢に対し、帝国主義的であるという批判は数十年前からあった。あるいはさらにさかのぼると、強硬な軍・国内の圧力を受けながらなんとか外交を指導したというかたちで陸奥を評価する見方もあった。こちらは、軍の力が強まっていた昭和戦前期の時代状況を反映した見解である。百発百中の巧みな外交と捉えるのと、帝国主義外交と批判するのと、軍の圧力と渡りあった外交と評価するのは、それぞれまったく異なる議論のようだが、いずれも、陸奥が明確な方針や展望を持って整然と外交をおこなっていたというイメージは共通している。おそらくそれは、一般的に受け入れられている「陸奥外交」のイメージでもある。

陸奥外交の実像

 それに対し、実は近年の研究ではむしろ、こうした「陸奥外交」のイメージを崩すような陸奥論の方が盛んに唱えられている。例えば、条約改正交渉で失敗を重ねて行きづまっていたため、それを打開するべく日清開戦に持ち込んだとか、あるいは、朝鮮への派兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだったと指摘されている。「蹇蹇録」の記述に多くの脚色やウソがあることもわかってきている。

 また日清戦争自体、なぜ、どのような力学で始まったのかということについて、この30年ほどの間、学会では定説がない。そのなかで有力視されてきたのは、対清協調論者の伊藤首相が強硬な国内世論に押されて対決姿勢に転換したから、という見解である。それは必ずしも陸奥に対する評価の問題ではないが、コントロールされた外交、開戦、といったイメージとは異なる日清開戦過程の説明がなされているのである。 

 こうした、誤算と方針転換に満ちた日清開戦過程という近年の見方は、ある面で正しい。先々の展開を見通して次々に的確な判断を下していったと捉えるかつての「陸奥外交」像は、過大評価である。ただ、百発百中の見方を否定して、全体的に失敗が続いたかのように論じるというのもまた、極端に振れすぎている。

 陸奥は、限られた経験と情報に基づいて刻々と変化する情勢に対処していたのであって、ときに失敗や誤算が生じるのは当然だった。そのうえで、近代日本のさまざまな政治・外交指導者と比較して、このときの陸奥の情勢分析や各局面における判断をどのように評価できるかと言えば、それはやはり、総じて的確であった。「陸奥は速断し、時として当り、時として誤る。誤りて窮地に陥り、之を脱する際に最も才能を発揮す」という陸奥評がある(「同時代史」)。そのあたりが、陸奥万能論的なかつての「陸奥外交」像とそれに対する批判を越えた先にある、等身大の陸奥の日清戦争指導の姿である。

2023年5月10日水曜日

20230509 昨日の続き、横穴式石室について

元来、横穴式石室は中国で紀元前4-5世紀ごろにあらわれた「磚槨墓」という埋葬施設を起源としています。「磚」とは、レンガのような焼き物のブロックのことであり、これを積んで玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)をつけたものが磚槨墓です。以降、中国での王侯や貴族層の標準的な埋葬施設として微妙に形を変えながらも7-8世紀の唐の時代まで続きました。

一方、朝鮮半島では、紀元4世紀頃、まず、中国に接している北部の高句麗に、この埋葬様式が伝わりました。それは当地特有の石積みの方墳に横穴式石室を採用したものであり、当初は墳丘上部に玄室を造営していましたが、5世紀代に至ると、地上と同じ高さに玄室を造営して、それを丸い土の墳丘で覆うようになり、全体的に墳丘は小型化しました。こうした玄室の造営場所の変化は、約1世紀後の横穴式石室が伝来した我が国においても見受けられました。

朝鮮半島で高句麗の次に横穴式石室が伝わったのは朝鮮半島南西部に位置する百済でした。それは4世紀後半頃であり、当初は高句麗と同様、石積みの方墳が採用されました。やがて百済においても、横穴式石室に小墳丘を被せた円墳へと変化しました。そして5世紀後半になりますと、あらためて中国南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墳墓として造営されるようになりました。その意味で、6世紀前半に造営された百済の武寧王の陵墓は、その最高峰であると云えますが、墳丘は大きくはない円墳でした。

高句麗や百済と比べて、中国からは遠くに位置する新羅や伽耶での横穴式石室の採用は5世紀後半から6世紀前半と、やや遅れます。他方で面白いことに、新羅の王侯の墳墓が、当地特有の積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変化する際に、その造営場所も、王都である慶州から、その周辺各地域へと分散する傾向があるのです。そこから、横穴式石室の採用とともに、新羅においても日本列島と同様に造営の原則が、中央への集中から、本貫の土地での造営へと変化していく様相が看取できます。

日本列島において横穴式石室が造営されるようになるのは、九州北部では4世紀末期と、比較的早い時期であると云えます。しかし、それが在来の伝統的な竪穴式石室との折衷といった、いわば中途半端な段階から、地上の高さに玄室が造営され、墳丘も小型化して、名実ともに横穴式石室の葬送思想へ転換したのは、朝鮮半島辺縁に位置する新羅や伽耶と同じ頃の5世紀後半から6世紀前半のことであり、さらに、それが東日本、東北地方南部にまで達して普及するのは6世紀後半のことでした。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
横穴式石室の起源は、中国で紀元前4-5世紀に現れた「磚槨墓」と呼ばれる埋葬施設です。この埋葬施設は、レンガのような焼き物のブロック(磚)を積み上げて玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)を設けたものです。以降、中国では王侯や貴族層の埋葬施設として、微妙に形を変えながらも7-8世紀の唐代まで続きました。

朝鮮半島では、中国に接する北部の高句麗が最初に、この様式を取り入れ、4世紀頃には石積みの方墳に横穴式石室を採用しました。また初期には、墳丘の上部に玄室を造っていましたが、5世紀代に入ると、地上と同じ高さに玄室を設け、その上に丸い土の墳丘を被せ、墳丘全体としては小型化しました。このような玄室の造営場所、墳丘の大きさの変化は、約1世紀後の我が国においても見られました。

百済では、高句麗に続いて4世紀後半頃に、この様式を採用し、当初は高句麗と同様に石積みの方墳でしたが、やがて土による小さな円形の墳丘を被せた横穴式石室へと変化しました。そして5世紀後半になりますと、南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墓として造られるようになりました。

新羅や伽耶では、さきの高句麗や百済よりも遅れて、5世紀後半から6世紀前半に採用されました。また面白いことに、新羅の王侯の墳墓が、積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変わるときに、造営場所も、王都である慶州から周辺地域へと分散する傾向がありました。そして我が国においても、さきの新羅と同様、横穴式石室が採用されたことで墳墓の造営原則が中央集中から、本貫の土地での建設に移行する変化が見られました。

日本列島での横穴式石室は、4世紀後半に、九州北部にて造営されるようになりましたが、当初は伝統的な竪穴式石室との折衷的な段階に留まっていました。しかし、新羅や伽耶のような朝鮮半島での辺縁地域と同じ頃の5世紀後半から6世紀前半にかけて、元来の横穴式石室の葬送思想へと変化して、地上に玄室が造営され、墳丘も小型化していきました。さらに、これは6世紀後半頃には東日本や東北地方南部にまで伝播しました。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです②☟
横穴式石室の起源は、中国において紀元前4-5世紀に現れた「磚槨墓」と呼ばれる埋葬施設である。この埋葬施設は、焼き物のブロック(磚)を積み上げて玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)を設けたものである。その後、中国においては、微妙に形を変えながらも、王侯や貴族層の埋葬施設として、7-8世紀の唐代まで続いた。

朝鮮半島においては、最初に、中国に接する北部の高句麗が4世紀頃に、石積みの方墳に横穴式石室を採用し、地上と同じ高さに玄室を設け、その上に丸い土の墳丘を被せた。その後、百済でも高句麗に続いて4世紀後半頃に、石積みの方墳から土による小さな円形の墳丘を被せた横穴式石室へと変化し、さらに南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墓として造られるようになった。

新羅や伽耶においては、高句麗や百済よりも遅れて5世紀後半から6世紀前半に横穴式石室が採用され、新羅の場合は、王侯の墳墓が、積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変わるときに、造営場所も、王都である慶州から周辺地域へと分散する傾向があった。

日本列島においても、4世紀後半に九州北部にて横穴式石室が造営され始めたが、当初は竪穴式石室との折衷的な段階に留まっていた。しかし、新羅や伽耶のような朝鮮半島での辺縁地域と同じ頃、元来の横穴式石の葬送思想へと変化して、地上に玄室が造営され、墳丘も小型化していきました。そして、6世紀後半頃には東日本や東北地方南部にまで伝播しました。

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2023年5月8日月曜日

20230507 紀州・和歌山での特徴的な横穴式石室の造営様式から

一般的に、我が国の古墳造営様式は、はじめに弥生時代以来の墓制を継承したカタチで竪穴式石室が発達して、それが各地へ伝播しました。

その後、4世紀末頃に朝鮮半島・中国大陸から北部九州に新たな古墳造営様式である横穴式石室が伝来、そして列島を東漸して、6世紀に至ると東日本や東北地方南部にまで達しました。

竪穴式石室と異なり、横穴式石室は、玄室と羨道によって構成され、羨道は古墳外へとつながっています。この造営様式により、数世代にわたり、複数の遺体を同じ墓(玄室)に葬る「追葬」が可能になり、これが一般化していきました。

また、双方の造営数についても、全国的に後期古墳を特徴付ける横穴式石室の方が圧倒的に多く、その背景には、おそらく、どの地域であっても、安定した支配体制が確立して、また安定した食糧を含む各種生産が可能になると、ある程度手が込んでいて、さらに追葬も可能な(ある意味合理的な)造営様式(横穴式石室)での墳墓の造営が盛行するといった様相があるように思われます。

これを異言しますと、地域の支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が大幅に増加し、それに適応した墳墓の造営様式が横穴式石室であったのだと云えます。

こうした現象は、これまでにも何度か述べてきました紀州・和歌山においても概ね同様であり、彼の地においては、現在の県庁所在地である県北部の和歌山市およびその周辺に横穴式石室を造営様式を主体として、いくつかの古墳群を形成して、総数1000基程度の古墳があります。対して県全体での古墳の数は1600基程度とされていることから、およそ県全体での古墳総数の三分の二ほどが、和歌山市とその周辺に存在していることになります。

この横穴式石室を主とする和歌山市および、その周辺での古墳の造営様式は、当地ならではの特徴的な点がいくつかあり、それは、中央構造線もしくは紀ノ川流域にて多く採られる緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、さらに玄室内には同青石を用いた棚か梁状に懸架したものが多いことで、こうした特徴を持つ古墳は、県内有数の横穴式石室を主とする古墳群である岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。

くわえて、興味深いことは、前述のように本来、中央構造線あるいは紀ノ川流域(南岸)にて採掘される緑泥片岩(青石)を用いた同様の造営様式を持つ古墳が、奈良県北部の生駒郡平群町や、紀ノ川(吉野川)流域からほど近い現奈良県の複数地域からも見つかっており、それぞれの地域には、かつての紀州北部(現和歌山市およびその周辺)を治め、また、さきの「岩橋型横穴式石室」の有力な造営主体と考えられている紀氏との繋がりを示す地名や神社などが残っているため、おそらく、これらは当時のヤマト王権に何らかのカタチで出向していた紀氏に出自を持つ方々の墳墓であったのではないかと思われます。

やがて、そうした故地との繋がりが希薄になり中央官僚化した流れも出てきて、そこから文人として知られている紀長谷雄や同紀貫之が出てきたものと思われます。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
日本の古墳造営様式は、最初は弥生時代以来の墓制を継承、発展させた竪穴式石室が一般的でした。その後、4世紀末頃には横穴式石室が大陸から伝わり、6世紀代に至るとこれが一般化しました。横穴式石室は玄室と羨道で構成され、羨道は古墳の外に続いています。これにより複数世代の遺体を同じ墓に埋葬する「追葬」が一般化しました。横穴式石室の方が全国的に見て圧倒的に多いのは、ヤマト王権による支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が増加して、それに適応した墓制が横穴式石室であったためと云えます。

和歌山市とその周辺には、県全体での古墳総数の三分の二ほどが存在し、その主体である横穴式石室の古墳の多くには特徴的な点があります。それは当地特産の緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、玄室内には同じ青石を用いて棚か梁状に懸架したものが多いことです。そして、この造営様式を主体とする古墳は、市内にある岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。

同様の造営様式を持つ古墳は、奈良県北部の平群町や紀ノ川の上流である吉野川流域の複数地域からも見つかっており、そこから、それらの被葬者は、同地の豪族である紀氏に出自を持つ人々であった可能性があります。また、紀氏には、中央官僚化した流れもあり、そこを出自とする文人として紀長谷雄や紀貫之が挙げられます。

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2023年5月6日土曜日

20230505 2000記事への到達が現実味を帯びてきて思ったこと

今回の記事投稿により、総投稿記事が1987に到達します。そうしますと、残り13記事の投稿にて当面の大きな目標としていた2000記事に到達出来るのですが、同時にこの目標は、来月6月の22日に当ブログ開始から丸8年となるまでに達成出来ればとも考えていることから、今後、45日程度のあいだに13記事の投稿を要することになります。そうしますと、概ね3~4日に1記事の投稿で良いということになりますので、これまでの投稿頻度から考えますと、そこまで苦痛であるとは感じられません。むしろ「多少楽過ぎるのではないか?」とも考えられることから、さきに挙げた目標に少し変更を加えて、今月中での2000記事到達を目指します。そして、その後もクール・ダウンのように、投稿頻度などはあまり考慮せずに6月22日まで、なおもブログ記事作成を継続してみたいと思います。

1980記事あたりまで(どうにか)達しますと、これまでは現実感が乏しかった2000記事への到達もいくらかは現実味を帯びてきます。そこで「では、その後、当ブログはどうするのか?」へと思い至るのですが、さきの変更を考慮しますと、おそらくは2000記事以降も、しばらくは記事作成を続け、2000記事丁度で止めることはないと思われてきます・・。また、キリの良い投稿記事数で止めることには、あまり意味はないとも思われますので、その後も、これまで通り、あるいは、これまで以上に休みを入れつつも、ブログ記事の作成は、少なくとも、しばらくは継続することになるのではないかと思われるのです・・。

そして、さきの現実味に基づいて、今後6月22日までに2000記事以上の投稿が出来たと想定してみますと、それまでの8年間は、10日間のうちで6~7記事を投稿してきたことになりますので、それなりに頑張って継続したのではないかと思われます。

また、2018年に1000記事まで(どうにか)到達した際には、その後、2000記事まで作成するとは全く考えていませんでしたので、現時点ではあまり考えたくはないですが、その後また、3000記事まで継続してしまうのではないかとも思われるのです・・。

とはいえ他方で、昨今はChatGPTのような、ある意味驚異的とも云えるAI技術も普及してきましたので、これまで簡単には作成出来なかった、ある程度の長さの文章をオーダーにより瞬時に生成出来るようになり、そして、その文章に加筆修正を行うことにより、こうしたブログ記事作成は以前よりも、(かなり)容易に出来るようになったと云えますので、あるいは今後、(どうにか)2000記事まで到達出来て、その後もしばらくはブログ記事作成を続けることになりましたら、その時にはChatGPTを利用しつつも、ChatGPTでは生成困難と思われるような知見・見解をいくらかは含んだブログ記事の作成を目指してみようとも考えています。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
この投稿により、ブログの総投稿記事数が1987に達します。そして、残り13記事の投稿で、当初の大きな目標であった2000記事に到達できます。同時にこの目標は、来月6月22日に当ブログが開始されてから丸8年となるまでに達成することも目指しています。そのため、今後45日程度で13記事の投稿が必要となります。そして、その間での具体的な投稿頻度を3〜4日に1記事とすると、そこまで苦痛ではないと云えます。そこで投稿頻度を増やし、5月内での2000記事到達を目指し、そして、その後、当ブログ開始から丸8年となる6月22日までは継続する予定とします。つまり、この変更を考慮しますと、2000記事到達以降も、しばらくは記事作成を続け、キリの良い投稿記事数には拘らず、適度に休みを入れながらも、ブログ記事の作成はしばらく6月22日までは継続することになると思われます。また、これまでの約8年間は、10日間で6〜7記事を投稿してきました。2018年に1000記事に到達したときには、その後、2000記事まで続けることは考えていませんでした。さらに昨今は、ChatGPTのような驚異的とも云えるAI技術が進化発展し、瞬時に文章を生成できるようになりました。そして、そうした文章に加筆修正することにより、ブログ記事作成は容易になると云えます。そのため(どうにか)2000記事に到達し、その後もしばらくはブログ記事作成を続けることになった場合、ChatGPTを活用しつつ、自らの知見・見解を含んだブログ記事の作成を目指すことを考えています。


*ChatGPTによる要約に手を加えたものです②☟
この投稿で、ブログの総投稿記事数が1987となり、残り13記事で、当初の目標である2000記事に到達の予定です。また、目標達成を来月6月22日までに行うため、今後45日で13記事の投稿を要しますが、これは投稿頻度を3〜4日に1記事とすれば充分に可能です。そこで目標を少し変えて、5月内での2000記事到達を目指します。そしてその後も、ブログ記事作成を続け、適度に休みを入れつつも、6月22日までは継続しようと思います。これまでの約8年間で、10日間で6〜7記事を投稿してきました。また、2018年に1000記事に到達したときには、2000記事まで続ける予定はありませんでした。しかし最近は、ChatGPTのようなAI技術が進化し、瞬時に文章を生成することができるようになりました。そこで2000記事到達後は、そうした技術をも活用して、自分の知見や見解を含んだブログ記事を作成することを目指していこうと思います。

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2023年5月4日木曜日

20230504 東京堂出版刊 マラート・ガビドゥリン 著 中市和孝訳 小泉 悠監訳「ワグネル プーチンの秘密軍隊」 pp.293-295より抜粋

東京堂出版刊 マラート・ガビドゥリン 著 中市和孝訳 小泉 悠監訳「ワグネル プーチンの秘密軍隊」
pp.293-295より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490210787
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490210781

この本は一人の傭兵とその仲間たちの武勇譚というよりも、むしろ、ロシアが傭兵制度をいかに利用しているかに光を投げかけたものである。傭兵とは西側諸国に特有の現象で、傭兵制度は資本主義の怪物が生み出したものであると教え込まれているが、われわれもまた、海外で自国の権益を拡大するために傭兵を利用している。我が国の政治家は、ロシアの民間軍事会社については控え目に口を閉ざし、そういう民兵組織を利用しているという噂をまるごと否定するとともに、国民に対して集中的プロパガンダを展開し、ロシアにはロシア独自の外交政策があるという考えを叩き込み、傭兵部隊に関する疑問については直接的な答えを避けている。

 こういう現状は誰の利益になっているのか?まずは国民に食わせてもらっていて、自分たちがその国民の役に立っていると思い込ませようとしている者たちに。例えば、シリアに駐留しているロシア軍の将軍たちは「誰もいない」キャンペーンを巧みに駆使して、兵士の犠牲はたいしてないという錯覚を生み出した。だが、イスラム国との戦争で命を落としたロシア市民の実際の数は、公式データと食い違っている。シリアで戦死したロシア人傭兵の数は、正規軍兵士の死者数をはるかに上回っているのだが、流血のない戦争という神話を維持するため、民間軍事会社の介入そのものが国民に隠されている。シリアに駐留するロシア軍人はみな、イスラム国に勝利するために本当は誰が体を張ったのかを知らない国民からちやほやされ、誇らしさに浸っている。

 政治指導者たちもまた、「きわめて道徳的な我が国の価値観にそぐわない現象」と高言する傭兵制度から恩恵を得ている。アサド政権を救ったことで、ロシアは世界各地のあらゆる犯罪者どもの庇護者かつ救済者としての地位を確立した。ロシア外交と政治の裏でうごめく人間にとって、アフリカ大陸は有望な新天地となることだろう。アフリカで権力を握った指導者どもは、シリア政府に対するロシアの支援に目をつけ、自国の豊かな金やダイアモンドや石油などの鉱物資源をロシアの手に渡してもよいという素振りを見せている。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
この本は、一人の傭兵と彼の仲間たちの勇敢な物語というよりも、むしろロシアが傭兵制度をどのように利用しているかを明らかにしたものです。傭兵というのは西側諸国に特有の現象であり、傭兵制度は資本主義の悪例が生んだものだと考えられていますが、ロシアも自国の権益を海外で拡大するために傭兵を使用しているのです。我々の政治家たちは、ロシアの民間軍事会社については口を閉ざし、その存在を否定して、ただ、ロシアに独自の外交政策があるというイメージを国民に植え付けて、傭兵部隊に関する疑問には直接答えずに避けています。
しかし、このような現状は誰のためになっているのでしょうか?それは、国民に食わせてもらっている政治家や軍人たちにとって都合がよく、自分たちが国民の役に立っているという錯覚を生み出しているのです。例えば、ロシア軍の政治家や将軍たちはシリアに駐留している間、兵士たちが犠牲になっている印象を与えないようにしています。しかし、実際には、ロシア市民のシリアでの死者数は公式データとは異なり、ロシア人傭兵の死者数は正規軍兵士の死者数をはるかに上回っています。つまり、民間軍事会社の介入が国民に隠され、流血のない戦争という神話を維持するために、ロシア政府はこの事実を隠しているのです。ロシア軍人たちは、誰が犠牲になったかを知らずにイスラム国に勝利し、国民から称賛を受け、誇らしく思っているのです。政治指導者たちも、傭兵制度が我が国の道徳的な価値観にそぐわないという言葉を口にしながらも、実際には傭兵制度から利益を得ています。ロシアはアサド政権を支援することで、世界中の犯罪者たちを庇護し、救済する立場を確立しました。ロシア外交や政治の裏で活動する人々にとっては、アフリカ大陸が有望な新天地となるでしょう。アフリカの指導者たちは、ロシアがシリア政府を支援していることに注目し、自国の豊かな鉱物資源(金、ダイアモンド、石油など)をロシアに売却する意向を示しています。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです②☟
この本は、一人の傭兵と彼の仲間たちの勇敢な物語というよりも、むしろロシアが傭兵制度をどのように利用しているかを明らかにしたものです。ロシアは自国の権益を海外で拡大するために傭兵を使用しており、政治家たちはその存在を否定し、ロシアに独自の外交政策があるというイメージを国民に植え付けています。しかし、実際には、ロシア市民のシリアでの死者数は公式データとは異なり、ロシア人傭兵の死者数は正規軍兵士の死者数をはるかに上回っています。これは、民間軍事会社の介入が国民に隠され、流血のない戦争という神話を維持するために、ロシア政府がこの事実を隠しているためです。政治指導者たちは、傭兵制度が我が国の道徳的な価値観にそぐわないという言葉を口にしながらも、実際には傭兵制度から利益を得ており、アフリカ大陸での鉱物資源の取引に注目しています。ロシアはアサド政権を支援することで、世界中の犯罪者たちを庇護し、救済する立場を確立しました。

20230504 筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」 pp.165-167より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」
pp.165-167より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073957
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073952

2015年に入ると、彼らはシリアにも派遣された。ロシア航空宇宙軍の空爆開始に先立ち、潰滅的な状況にあったアサド政権のテコ入れを図るのがその目的であったと見られている。実際、元軍人を中心に構成され、戦車などの重装備も与えられたワグネルはKSSOの特殊作戦部隊と並んで有力な戦力となり、パルミラやデリゾールの奪還では中心的な役割を果たしたとされる。

 だが、彼らが完全にロシア政府のコントロール下にあるのかどうか、疑われるような事態も発生している。2018年2月7日深夜から翌8日にかけて、アサド政権側の1個大隊がクルド人勢力の支配下にあるユーフラテス川東岸に侵入し、米軍の猛烈な空爆で撃退された事件がそれである。この地域は米露の仲介で合意された非戦闘地域に当たっていたことから、アサド政権側の停戦合意違反とされ、ロシア側も表向きはこれを非難する側に回った。

 しかし「コメルサント」(2018年2月14日)によると、この侵攻作戦にはワグネルのコントラクター600人が加わっており、ロシア政府の許可を得ずにデリゾールの石油精製施設を占拠することを目的としていたという。

 これに先立つ2017年12月12日、AP7通信は、ワグネルの活動にはプリゴジン氏の個人的な経済的利権が関連していると指摘していた。ワグネルのフロント企業であるエヴロポリス社はワグネルのコントラクターがISから奪取し、警備する施設から得られる石油・ガス収入の25%を得る約束になっていたという。デリゾールにおける出来事は、こうした利権獲得を目指す軍事活動であった可能性がある。

 さらに2017年以降には、ワグネルはアフリカでの資源利権確保のためにも投入されているという情報が見られるようになった。知られている限りでは、スーダンの金鉱山警備や中央アフリカの金。ダイアモンド鉱山警備などが主なところで、そのいずれもがプリゴジン氏の関連企業が開発利権を得ている場所であった。(Marten 2019)。ちなみに中央アフリカでは2018年7月、ワグネルの活動を追っていたドキュメンタリー番組の撮影チーム3人が何者かに殺害されているが、ロシアの民間団体「ドシヨー・センター」は携帯電話の通話記録などを独自に調査した結果、プリゴジン氏の周辺が殺害を命じた可能性が高いと結論づけている(Meduza 2019.1.10.)。

 こうした動きを見る限り、ロシア政府のために戦闘任務を担う見返りとして外国の資源利権を獲得する権利を与えられる。というのがワグネルの「事業モデル」であるようだ。