その後、4世紀末頃に朝鮮半島・中国大陸から北部九州に新たな古墳造営様式である横穴式石室が伝来、そして列島を東漸して、6世紀に至ると東日本や東北地方南部にまで達しました。
竪穴式石室と異なり、横穴式石室は、玄室と羨道によって構成され、羨道は古墳外へとつながっています。この造営様式により、数世代にわたり、複数の遺体を同じ墓(玄室)に葬る「追葬」が可能になり、これが一般化していきました。
また、双方の造営数についても、全国的に後期古墳を特徴付ける横穴式石室の方が圧倒的に多く、その背景には、おそらく、どの地域であっても、安定した支配体制が確立して、また安定した食糧を含む各種生産が可能になると、ある程度手が込んでいて、さらに追葬も可能な(ある意味合理的な)造営様式(横穴式石室)での墳墓の造営が盛行するといった様相があるように思われます。
これを異言しますと、地域の支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が大幅に増加し、それに適応した墳墓の造営様式が横穴式石室であったのだと云えます。
こうした現象は、これまでにも何度か述べてきました紀州・和歌山においても概ね同様であり、彼の地においては、現在の県庁所在地である県北部の和歌山市およびその周辺に横穴式石室を造営様式を主体として、いくつかの古墳群を形成して、総数1000基程度の古墳があります。対して県全体での古墳の数は1600基程度とされていることから、およそ県全体での古墳総数の三分の二ほどが、和歌山市とその周辺に存在していることになります。
この横穴式石室を主とする和歌山市および、その周辺での古墳の造営様式は、当地ならではの特徴的な点がいくつかあり、それは、中央構造線もしくは紀ノ川流域にて多く採られる緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、さらに玄室内には同青石を用いた棚か梁状に懸架したものが多いことで、こうした特徴を持つ古墳は、県内有数の横穴式石室を主とする古墳群である岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。
くわえて、興味深いことは、前述のように本来、中央構造線あるいは紀ノ川流域(南岸)にて採掘される緑泥片岩(青石)を用いた同様の造営様式を持つ古墳が、奈良県北部の生駒郡平群町や、紀ノ川(吉野川)流域からほど近い現奈良県の複数地域からも見つかっており、それぞれの地域には、かつての紀州北部(現和歌山市およびその周辺)を治め、また、さきの「岩橋型横穴式石室」の有力な造営主体と考えられている紀氏との繋がりを示す地名や神社などが残っているため、おそらく、これらは当時のヤマト王権に何らかのカタチで出向していた紀氏に出自を持つ方々の墳墓であったのではないかと思われます。
やがて、そうした故地との繋がりが希薄になり中央官僚化した流れも出てきて、そこから文人として知られている紀長谷雄や同紀貫之が出てきたものと思われます。
*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
日本の古墳造営様式は、最初は弥生時代以来の墓制を継承、発展させた竪穴式石室が一般的でした。その後、4世紀末頃には横穴式石室が大陸から伝わり、6世紀代に至るとこれが一般化しました。横穴式石室は玄室と羨道で構成され、羨道は古墳の外に続いています。これにより複数世代の遺体を同じ墓に埋葬する「追葬」が一般化しました。横穴式石室の方が全国的に見て圧倒的に多いのは、ヤマト王権による支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が増加して、それに適応した墓制が横穴式石室であったためと云えます。
和歌山市とその周辺には、県全体での古墳総数の三分の二ほどが存在し、その主体である横穴式石室の古墳の多くには特徴的な点があります。それは当地特産の緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、玄室内には同じ青石を用いて棚か梁状に懸架したものが多いことです。そして、この造営様式を主体とする古墳は、市内にある岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。
同様の造営様式を持つ古墳は、奈良県北部の平群町や紀ノ川の上流である吉野川流域の複数地域からも見つかっており、そこから、それらの被葬者は、同地の豪族である紀氏に出自を持つ人々であった可能性があります。また、紀氏には、中央官僚化した流れもあり、そこを出自とする文人として紀長谷雄や紀貫之が挙げられます。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
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