ISBN-13 : 978-4121025098
陸奥の外交の巧みさというのは、例えば、周到に手を打ち、大義名分を失わないようなかたちで清との戦争に持ち込んだことに求められる。「蹇蹇録」には、外交上は被動者の位置を占めつつ軍事上は常に機先を制そうとした。大鳥圭介駐清公使に対し平和的対応というときの臨機の処分という表裏二個の主義を含む訓令を授けた、日本の共同朝鮮内政改革案を清が拒むのはわかっていた、などと書かれている、あたかも、事態が陸奥の想定通りに動き、事前に用意していた策がことごとく当たっているかのようである。
林董は、あるとき、大をなした政治家というのは門閥の背景がなければあとはみな戦争の勝利によって台頭したと語り、それを聞いた陸奥は頭を傾けてしばらくして、「ヤッテ見ようかネ」と述べたという。そして、明治27年6月に朝鮮に兵を送るとなった際、陸奥、林、参謀次長の川上操六が集まり、いかにして平和にことをまとめるかではなく、いかにして戦いを起こしていかにして勝つかの相談をしたとする。つまり、陸奥としては初めから清と戦争を起こすつもりで、それに向けて着々と策を講じたという話である。林は、首相の伊藤は平和志向なので陸奥と川上が共謀してだましたことまで述べている。伊藤が混成旅団の規模を知らないことにつけ込んだというのと、旅団の派遣として決定して実際には混成旅団を出したというのと、二種類の回顧談で若干内容が違うが、ともかく、伊藤は派遣兵力が2~3000人であると誤認して7~8000人の派兵を決定したというのである(「後は昔の記也」)。
こうした陸奥の外交姿勢に対し、帝国主義的であるという批判は数十年前からあった。あるいはさらにさかのぼると、強硬な軍・国内の圧力を受けながらなんとか外交を指導したというかたちで陸奥を評価する見方もあった。こちらは、軍の力が強まっていた昭和戦前期の時代状況を反映した見解である。百発百中の巧みな外交と捉えるのと、帝国主義外交と批判するのと、軍の圧力と渡りあった外交と評価するのは、それぞれまったく異なる議論のようだが、いずれも、陸奥が明確な方針や展望を持って整然と外交をおこなっていたというイメージは共通している。おそらくそれは、一般的に受け入れられている「陸奥外交」のイメージでもある。
陸奥外交の実像
それに対し、実は近年の研究ではむしろ、こうした「陸奥外交」のイメージを崩すような陸奥論の方が盛んに唱えられている。例えば、条約改正交渉で失敗を重ねて行きづまっていたため、それを打開するべく日清開戦に持ち込んだとか、あるいは、朝鮮への派兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだったと指摘されている。「蹇蹇録」の記述に多くの脚色やウソがあることもわかってきている。
また日清戦争自体、なぜ、どのような力学で始まったのかということについて、この30年ほどの間、学会では定説がない。そのなかで有力視されてきたのは、対清協調論者の伊藤首相が強硬な国内世論に押されて対決姿勢に転換したから、という見解である。それは必ずしも陸奥に対する評価の問題ではないが、コントロールされた外交、開戦、といったイメージとは異なる日清開戦過程の説明がなされているのである。
こうした、誤算と方針転換に満ちた日清開戦過程という近年の見方は、ある面で正しい。先々の展開を見通して次々に的確な判断を下していったと捉えるかつての「陸奥外交」像は、過大評価である。ただ、百発百中の見方を否定して、全体的に失敗が続いたかのように論じるというのもまた、極端に振れすぎている。
陸奥は、限られた経験と情報に基づいて刻々と変化する情勢に対処していたのであって、ときに失敗や誤算が生じるのは当然だった。そのうえで、近代日本のさまざまな政治・外交指導者と比較して、このときの陸奥の情勢分析や各局面における判断をどのように評価できるかと言えば、それはやはり、総じて的確であった。「陸奥は速断し、時として当り、時として誤る。誤りて窮地に陥り、之を脱する際に最も才能を発揮す」という陸奥評がある(「同時代史」)。そのあたりが、陸奥万能論的なかつての「陸奥外交」像とそれに対する批判を越えた先にある、等身大の陸奥の日清戦争指導の姿である。
0 件のコメント:
コメントを投稿