A「ここしばらくの間、かなり久しぶりに通史的とも云える書籍を読んでいます。
こうした種類の書籍は、読みそしてその内容をある程度理解するまでに多少時間を要することから、ここ最近は敬遠していたように思います・・。
これまでに読んだ、こうした通史的な文献にて面白いと感じた最初の著作はポール・ケネディ著の「大国の興亡」であり、これを読んだ時期とは、丁度、近現代史に対する興味が本格的なものとなっていた時期でもありましたので、それなりに熱心に読んだ記憶があります。
とはいえ、我が国において時折、ベストセラーと称され、書店店頭に高く積まれる、こうした通史的な書籍とは、たしかに宣伝にあるように多く購入されているのでしょうが、それと同時に、果たして、その書籍が、どの程度まで深く読まれているのであろうか?と疑問に思うことがあります・・。
その理由とは、こうした通史的な書籍とは、冒頭に書いたように『その内容をある程度理解するまでに多少時間を要する』ことから、少なくとも、その書籍が売れた時期からいくらかのタイムラグを置き、その影響といったものが徐々に社会に現れてくるのではないかと思われるのです・・。
【その影響らしきものを感知することは極めて少ない。】
あるいは、書籍文章の字面のみを辿っていくのもまた読書であり、また、そうした読み方が主流であるとするならば、その影響といったものが社会に現れてくることはかなり少ないのではないかとも思われます・・【実質的に読まれていないのだから】。
この後者の意見とは、かなりひねくれた見方であるのかもしれませんが、しかし、時折耳にする、あるいは書籍文献などで読む『我が国の性質』といったものを勘案してみますと、案外この後者の方が事実に近いでのはないかとも考えさせられることがあります・・。
そうしますと、実際の現在の我が国の文化水準とは概ね、あるいはアニメ、マンガ(のみ)によって表出可能なものであるのかもしれません・・。
もちろん、私はアニメ、マンガをあまり好きではないにしても、バカにするつもりはありませんが、その本質において、活字文化とマンガ文化とは異なるものであり、どちらか一方で、自国の文化を代表し得る、あるいは活字文化もマンガ文化に包摂可能であると考えることは、おそらく文化全般としては衰頽の兆候ではないかと思われるのです・・。
【何でも(マンガのように)分かり易ければそれで良いというわけではないと思うのですが・・。】
しかし、とは思いつつも、それに対する適当な対案も今現在のところありませんので、歯がゆいところではあるのですが、まあ、どうしようもないのでしょう・・(苦笑)。
ともあれ、そこからハナシを戻し、現在読んでいるこの書籍の内容に関連して『便利さ、分かり易さが至上命題となった社会においてマンガ文化が活字文化を併呑、凌駕し、それに伴い文化水準全般が劣化し、その国が崩壊に至るということはあるのだろうか?』と考えさせられるのですが、果たしてどうなのでしょうか・・?
何れにしましても、露出がやけに多いコスチュームをまとった何らかのマンガ・アニメヒロインが駅の大きなポスターに貼りだされていることはどうしても普通、尋常な事態ではないと思われるのです。
また、外国人もそうした光景を見て日本人に対しては『日本のアニメ文化はポピュラーでここまで社会に根付いているのですね。』といったことを述べつつも、その隠された本音とは、ここでは到底書けないようなことを考えているのではないかと思われるのです・・。
期せずして高度経済成長期(あるいはそれ以前)に日本が海外に発信した本音と建前といった文化は、21世紀に至り、外国の方々にも広汎に認知され、それを本家本元たる我が国にて用いることが流行しているのではないかと不図思うことがあります・・(苦笑)。
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』
2017年8月14日月曜日
20170813 久しぶりに西日本に出向いて思ったこと・・意味を感じる、理解する・・?
所用にてしばらく首都圏を離れ、西日本某都市へ赴いていました。本日の夕刻過ぎにこちらに戻りましたが、やはり西日本の方がいくらか蒸し暑かったのではないかと思われます。
それは日中から夜半を通じ、歩いている際にも自然と汗が出てくるといった感じであり、この感覚は、何といいますか、久しぶりに体験することにより、かつて、そうした環境・大気の中にて住んでいたことが思い出されるといった感覚であるとも云えます。
また、この感覚は、ある程度の期間、その地域に住むことによって(はじめて)体得し得るといった性質のものでもあり、且つ、それは地域内広域において感じ得るもの(大気、日光の強さなど)から地域内においてさらに限定的に感じ得るもの(特定のお店が提供する食べ物など)に至るまで多岐に渡り、それら全てを包含した「系」のようなものが、感覚的な意味における『その地域』ということになると思われます。
こうしたものは、おそらくあまり言語化されることはありませんが、こうした感覚、体感がなければ、その地域、都市と
は自身にとって、単なる地図上の地名としての記号に留まるもの、または書籍文献に書かれている具体的内容を感知し得ない言説つまりは無機的なコトバの羅列に留まるということになるといえます。
そしてまた、こうした感覚は、地域軸のみならず時間軸においても作用もしくは応用可能であり、その意味で、地域におけるさまざまな史跡、遺跡あるいは寺社仏閣などとは、さきに書いた感覚的な意味での現時点の『その地域』の構成要素であると同時に、さらに、それらに付随するさまざまな『物語としての歴史』をも認識し、それを現時点における感覚と結節することにより、その感覚とは、時間軸においても延長・拡大することが出来るのではないかと考えます。
つまり、先ずはじめに現時点における種々認識があり、そこからさまざまな能動的な興味関心に基づいた知見を深める、広めることにより多面(地域・時間軸等)にわたり『その地域』というものを(先ずは主観的に)知っていくのではないかと思われるのです・・。
また、そのように考えてみますと、少なくとも自身の場合、そうした方法の繰り返し、蓄積を通じて(決して多いとは云えないものの)いくばくかの知識、知見を得てきたと自覚しますが、こうした方法とは、さきの『その地域』あるいは『物語としての歴史』のみならず自身の場合は、実験を用いる理系学問分野においてもまた同様であったのではないかとも思い至るのです。
このことをもう少し具体的に書きますと、自身の場合、地域での日常生活のなかで自然に発生した時間軸的な要素への興味、つまり出土、発見された遺跡、古墳および土器、青銅器、鉄器などに対する漠然とした興味あるいは、どうにかそれらを認識したいといった欲求から、あとに続く現在の歯科用材料に対する実験を用いる方法、アプローチへの興味に結節したということになるといえます・・。
とはいえ、こうした方法あるいは(自然発生的ともいえる)興味の生成過程が、現在の諸学問において用い得る、価値を持つ方法論として正統、正当であるのかは分かりかねるところではありますが・・。
しかしながら、こうした方法に拠って、いくつかの学問分野を横断する知識、知見が得られたという個人的な実感、自覚とは、少なくとも虚偽ではなく、また自身という決して優秀とは云いかねる人間が一応そうした実感を得るに至ったことには、応用の仕方が限局されるものではあるのかもしれませんが、何かしらの人間そのものに対する知見が多少は含まれているのではないかとも考えられるのではないかと(多少自意識過剰気味ではあれ)思うことがあるのですが、さて如何でしょうか・・(笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害によって被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。』
それは日中から夜半を通じ、歩いている際にも自然と汗が出てくるといった感じであり、この感覚は、何といいますか、久しぶりに体験することにより、かつて、そうした環境・大気の中にて住んでいたことが思い出されるといった感覚であるとも云えます。
また、この感覚は、ある程度の期間、その地域に住むことによって(はじめて)体得し得るといった性質のものでもあり、且つ、それは地域内広域において感じ得るもの(大気、日光の強さなど)から地域内においてさらに限定的に感じ得るもの(特定のお店が提供する食べ物など)に至るまで多岐に渡り、それら全てを包含した「系」のようなものが、感覚的な意味における『その地域』ということになると思われます。
こうしたものは、おそらくあまり言語化されることはありませんが、こうした感覚、体感がなければ、その地域、都市と
は自身にとって、単なる地図上の地名としての記号に留まるもの、または書籍文献に書かれている具体的内容を感知し得ない言説つまりは無機的なコトバの羅列に留まるということになるといえます。
そしてまた、こうした感覚は、地域軸のみならず時間軸においても作用もしくは応用可能であり、その意味で、地域におけるさまざまな史跡、遺跡あるいは寺社仏閣などとは、さきに書いた感覚的な意味での現時点の『その地域』の構成要素であると同時に、さらに、それらに付随するさまざまな『物語としての歴史』をも認識し、それを現時点における感覚と結節することにより、その感覚とは、時間軸においても延長・拡大することが出来るのではないかと考えます。
つまり、先ずはじめに現時点における種々認識があり、そこからさまざまな能動的な興味関心に基づいた知見を深める、広めることにより多面(地域・時間軸等)にわたり『その地域』というものを(先ずは主観的に)知っていくのではないかと思われるのです・・。
また、そのように考えてみますと、少なくとも自身の場合、そうした方法の繰り返し、蓄積を通じて(決して多いとは云えないものの)いくばくかの知識、知見を得てきたと自覚しますが、こうした方法とは、さきの『その地域』あるいは『物語としての歴史』のみならず自身の場合は、実験を用いる理系学問分野においてもまた同様であったのではないかとも思い至るのです。
このことをもう少し具体的に書きますと、自身の場合、地域での日常生活のなかで自然に発生した時間軸的な要素への興味、つまり出土、発見された遺跡、古墳および土器、青銅器、鉄器などに対する漠然とした興味あるいは、どうにかそれらを認識したいといった欲求から、あとに続く現在の歯科用材料に対する実験を用いる方法、アプローチへの興味に結節したということになるといえます・・。
とはいえ、こうした方法あるいは(自然発生的ともいえる)興味の生成過程が、現在の諸学問において用い得る、価値を持つ方法論として正統、正当であるのかは分かりかねるところではありますが・・。
しかしながら、こうした方法に拠って、いくつかの学問分野を横断する知識、知見が得られたという個人的な実感、自覚とは、少なくとも虚偽ではなく、また自身という決して優秀とは云いかねる人間が一応そうした実感を得るに至ったことには、応用の仕方が限局されるものではあるのかもしれませんが、何かしらの人間そのものに対する知見が多少は含まれているのではないかとも考えられるのではないかと(多少自意識過剰気味ではあれ)思うことがあるのですが、さて如何でしょうか・・(笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害によって被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。』
2017年8月11日金曜日
20170810 自身のかつての【複数】専攻分野と現在の状況について思ったこと・・
本日の首都圏もこの時期(8月初頭)のわりにはイマイチ気温の上昇がなかったと感じられるものの、それなりに暑く徒歩での移動には少し難儀しました・・(苦笑)。
『我々日本人とは外来文化を摂取する際、往々にして、その背景文化から摂取するのではなく、その外来文化に特殊に認められる何か『のみ』を摂取し、それを自分なりに改変、改造していくといった傾向がある。』つまり、我が国において外来文化が摂取される時は、それを過去の歴史・文化の文脈から切り離し、その場だけで通用するような『別の何か』にしてしまうといった意味合いになるのでしょうが、そのように考えてみますと、その対象とは、あるいは海外の文化のみならず自身の簡単には理解出来ない遠い過去の文化に対しても『実際のところよくわからない』ことから、それに見合ったような対応・操作をしているのではないかと思われることが少なからずあると思われるのですが、さて如何でしょうか?」
とはいうものの、これを自身に対しての批判と捉え、抗弁させて頂きますと以下のようになります・・。
「如何にも正論で考えますとそのようになるのでしょうが、私の場合、生きるためにはそうせざるを得なかったのです・・。その一方で、これまでにブログ記事の作成をどうにか継続しておりますので、少なくとも過去の経験の相対化あるいは自身を対自的存在としていこうと試みている【自閉的にはなっていない】ことに関しては(少しは)肯定し得ることなのではないでしょうか?」
くわえて、明日から休みということもあり自身のブログ記事作成もまた、明日から数日間休ませて頂きます。どうぞよろしくお願いします。
さて、昨日の投稿記事は投稿翌日にしては思いのほか多くの方々(33)に読んで頂けました。
自身としては、気が付いた歴史的な偶然と云えるものを書いたつもりではありましたが、こうしたことに興味を持って頂ける方々も少なからずおられるのかもしれません・・。
また、同時に私とは、悲しいことに(?)こうした(歴史に関すること)を書いている時の方が比較的面白い文章を書くことが出来るのかもしれません・・(苦笑)。とはいえ、昨今は日常においては概ね忘れがちではありますが、あくまでも自身の専攻とは歯科理工学でもあるのです・・。これを換言しますと(一応)博士(歯学)という肩書きを保持しているということになりますが、実際のところ、それが現在の仕事の役に立っているといった実感は(かなり)少ないと云えます・・(苦笑)。それ故、さきに書いた『概ね忘れがち』といった事態になるのでしょうが、その一方で面白いことに訪問した歯科医院にて院長が医院運営の傍らで得た実験データ、もしく他のデータあるいは執筆した記事、文章を読ませて頂くと、それが何を意味、意図しているのかは、概ね理解出来ているのではないかと思われます・・。しかし他方、この複数の歯科医院を訪問し、さまざまなお話しを聞いて廻るという行為自体とは、さらに以前の地域学を専攻した修士課程における聞き取り調査、ヒアリングにも相通じる要素が少なからずあるのではないかとも思われるのです・・。ともあれ、そのように考えてみますと、さきに書いた自身の専攻内容そして結果的にそこで(どうにか)取得に至った肩書きとは、昨今忘れがちではあるものの『まさに日常での意識が及ばないところにて生かされているのかもしれない』とも考え得るのです・・。そして、そうしたことを書いておりますと、一昨日投稿の記事『一昨日に投稿した記事(書籍からの抜粋引用)から思ったこと・・歴史・文化について』にて書いた以下の文章が(恥ずかしながら)思い起こされるのです・・。
『我々日本人とは外来文化を摂取する際、往々にして、その背景文化から摂取するのではなく、その外来文化に特殊に認められる何か『のみ』を摂取し、それを自分なりに改変、改造していくといった傾向がある。』つまり、我が国において外来文化が摂取される時は、それを過去の歴史・文化の文脈から切り離し、その場だけで通用するような『別の何か』にしてしまうといった意味合いになるのでしょうが、そのように考えてみますと、その対象とは、あるいは海外の文化のみならず自身の簡単には理解出来ない遠い過去の文化に対しても『実際のところよくわからない』ことから、それに見合ったような対応・操作をしているのではないかと思われることが少なからずあると思われるのですが、さて如何でしょうか?」
とはいうものの、これを自身に対しての批判と捉え、抗弁させて頂きますと以下のようになります・・。
「如何にも正論で考えますとそのようになるのでしょうが、私の場合、生きるためにはそうせざるを得なかったのです・・。その一方で、これまでにブログ記事の作成をどうにか継続しておりますので、少なくとも過去の経験の相対化あるいは自身を対自的存在としていこうと試みている【自閉的にはなっていない】ことに関しては(少しは)肯定し得ることなのではないでしょうか?」
また、文章を書き続けておりますと、往々にしてこうした(自縄自縛とも云える)事態が現出しますが、それに対しては上に書いたように多少開き直り気味になりながらも、自身に対して抗弁、説得し続けなければならないのではないかとも思われます・・(苦笑)。
(これは特に可笑しい、醜いことではないと考えます。)
そしてまた、その一方で自身の正論もしくは理想といったものを模索し続けなければならないのではないかとも思われるのです・・。
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。
2017年8月9日水曜日
20170809 1895・1945:広島・長崎 【帝国主義の出発点と終着点】★★★★
本日の首都圏は日中気温も上昇し、ようやくこの時期らしい陽気になったのではないかと思われます。
そして、今現在(22:07)もまた多少蒸し暑く感じながら、当ブログ記事作成をはじめた次第です。
さて、現在の我が国において広島、長崎と聞きますと、殆どの場合『原子爆弾が投下された都市』という反応が返ってくると思われます。
しかしその一方で、そこ(1945年)から50年遡った頃にて広島、長崎と考えてみますと、それは丁度日清戦争の講和会議が為された頃であり、当初、清国側の使節は広島に上陸したものの日本政府側から必要書類の不備および使節人員地位が不十分であると指摘されたことにより広島から長崎へ渡り、そこから一旦帰国したことが陸奥宗光著『蹇蹇録』に記されています。
その後、本国にて書類が整えられ、しかるべき地位の人員構成による新たな使節が来日し講和会議が為され下関条約(馬関条約)が締結されたことは御周知のことと思われます。
とはいえ、この締結された条約内容は、その直後のロシア、フランス、帝政ドイツによる所謂三国干渉によって強圧的に改変され、そして我が国にとっては次なる戦争(日露戦争)への端緒が切って落とされることになるわけです・・。
ともあれ、この50年の年月を隔て、両都市が歴史の流れに登場することは、おそらく単なる偶然ではあるのでしょうが、少し見方を変え、これらのこと(1895年、1945年)考えてみますと、それぞれ日本帝国主義の国際的な意味での出発点と終着点とも評することが出来るのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした歴史の見方とは、要するに後知恵の最たるものであり『そうであるから次はこうなる。』といった見方に基づく未来の推測・予測が為されてはいけない類いのものであると考えます。
もとい、このように歴史の流れとは大変面白いものでありながら、それを扱う我々人間の普遍的ともいえる浅はかさを簡単には修正、補完させない何かがあるのかもしれません。
とはいうものの、であるからといって(表層的にはどうであれ)歴史を無視、バカにすることから生じる災厄とは、前者の結果に劣らず恐ろしいものであることもまた認識しておく価値があることではないかと思われますが如何でしょうか?
また、文系学問全般の存在意義とは、究極的にはそういったところにあるのではないかと思われます・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。
そして、今現在(22:07)もまた多少蒸し暑く感じながら、当ブログ記事作成をはじめた次第です。
さて、現在の我が国において広島、長崎と聞きますと、殆どの場合『原子爆弾が投下された都市』という反応が返ってくると思われます。
しかしその一方で、そこ(1945年)から50年遡った頃にて広島、長崎と考えてみますと、それは丁度日清戦争の講和会議が為された頃であり、当初、清国側の使節は広島に上陸したものの日本政府側から必要書類の不備および使節人員地位が不十分であると指摘されたことにより広島から長崎へ渡り、そこから一旦帰国したことが陸奥宗光著『蹇蹇録』に記されています。
その後、本国にて書類が整えられ、しかるべき地位の人員構成による新たな使節が来日し講和会議が為され下関条約(馬関条約)が締結されたことは御周知のことと思われます。
とはいえ、この締結された条約内容は、その直後のロシア、フランス、帝政ドイツによる所謂三国干渉によって強圧的に改変され、そして我が国にとっては次なる戦争(日露戦争)への端緒が切って落とされることになるわけです・・。
ともあれ、この50年の年月を隔て、両都市が歴史の流れに登場することは、おそらく単なる偶然ではあるのでしょうが、少し見方を変え、これらのこと(1895年、1945年)考えてみますと、それぞれ日本帝国主義の国際的な意味での出発点と終着点とも評することが出来るのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした歴史の見方とは、要するに後知恵の最たるものであり『そうであるから次はこうなる。』といった見方に基づく未来の推測・予測が為されてはいけない類いのものであると考えます。
もとい、このように歴史の流れとは大変面白いものでありながら、それを扱う我々人間の普遍的ともいえる浅はかさを簡単には修正、補完させない何かがあるのかもしれません。
とはいうものの、であるからといって(表層的にはどうであれ)歴史を無視、バカにすることから生じる災厄とは、前者の結果に劣らず恐ろしいものであることもまた認識しておく価値があることではないかと思われますが如何でしょうか?
また、文系学問全般の存在意義とは、究極的にはそういったところにあるのではないかと思われます・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。
2017年8月8日火曜日
20170808 「情報社会における歴史認識と表現の意義」
昨日は、一休みした後に深夜の作業を予定して午後11時頃に寝たが、疲労が溜まっていたのか、目覚めたのは早朝5時だった。そのまま起床して記事を作成するのも面倒に感じ、結局7時まで寝続けた。
この経験から、記事作成にはある程度決まった時間を設けるべきだと再認識した。一方で、一昨日(8月6日)は偶然2本の記事を投稿していたため、現在の進捗としては1日1記事というペースを維持しているとみなせる。特に問題視せず、今後も記事作成を続けていくつもりである。
そんな中、昨日の間にブログの総閲覧者数が24万人に到達した。これまで読んでくださった方々のおかげで、ここまで書き続けることができたと感謝している。一方で、世の中には桁違いに多くの読者を持つブログが数多く存在することは承知している。しかし、画像や動画といった閲覧数を増やす要素が乏しく、流行に迎合することもなく、自分が書きたいことを書き続けてきたブログであるにもかかわらず、これだけ読んでいただけたのは望外の僥倖であり、自分にとって大きな励みとなっている。
目先の目標である800記事の到達まで、どれだけの方々に読んでいただけるかは未知数だが、少なくとももう少しは書き続ける予定である。これからもよろしくお願いしたい。
一昨日の記事では『コンラッド短編集』の「武人の魂」の冒頭を抜粋引用した。この文章は19世紀的な時代精神が色濃く感じられるため選んだものであるが、著者ジョセフ・コンラッドが当時の世界を実際に生きた経験があったからこそ、日本語訳でも血の通った口語文として表現されていると考えられる。
また、過去と現在を行き来する歴史的な文脈を持つ文章や物語の書き方は、日本でも見られるものの、特に近年では深みを持つものが減少しているように思える。これは、作中に描かれるような実体験を持つ人が減少していることが一因ともいえるが、それだけではなく、歴史に対する安易な認識が広がっていることも影響しているのではないかと感じる。ネット社会の普及がこうした風潮を助長しているのだろうか。
歴史に対する安易な認識は、内外の問題に関する浅薄な思想や考え方と結びつき、輿論形成に影響を与える傾向がある。この現象自体は避けられないとしても、その結果が必ずしも良い方向に進むとは限らない。このような状況こそ、歴史を学び、そこから得られる洞察を大切にすべき理由ではないかと思う。
ここで一つの考えを思い出す。それは「日本人は外来文化を摂取する際、その背景文化から学ぶのではなく、その文化に特殊に認められる部分だけを切り取り、自分たちの都合に合わせて改変する傾向がある」という指摘である。これを踏まえると、過去の文化や歴史に対しても同様に、十分に理解しないまま、独自の文脈で取り扱っている場合が多いのではないかと考えさせられる。
このような現象が我々の文化的態度にどう影響しているのか、そしてそれが未来にどのような結果をもたらすのか、改めて考えていく必要があるだろう。
ともあれ、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。
この経験から、記事作成にはある程度決まった時間を設けるべきだと再認識した。一方で、一昨日(8月6日)は偶然2本の記事を投稿していたため、現在の進捗としては1日1記事というペースを維持しているとみなせる。特に問題視せず、今後も記事作成を続けていくつもりである。
そんな中、昨日の間にブログの総閲覧者数が24万人に到達した。これまで読んでくださった方々のおかげで、ここまで書き続けることができたと感謝している。一方で、世の中には桁違いに多くの読者を持つブログが数多く存在することは承知している。しかし、画像や動画といった閲覧数を増やす要素が乏しく、流行に迎合することもなく、自分が書きたいことを書き続けてきたブログであるにもかかわらず、これだけ読んでいただけたのは望外の僥倖であり、自分にとって大きな励みとなっている。
目先の目標である800記事の到達まで、どれだけの方々に読んでいただけるかは未知数だが、少なくとももう少しは書き続ける予定である。これからもよろしくお願いしたい。
一昨日の記事では『コンラッド短編集』の「武人の魂」の冒頭を抜粋引用した。この文章は19世紀的な時代精神が色濃く感じられるため選んだものであるが、著者ジョセフ・コンラッドが当時の世界を実際に生きた経験があったからこそ、日本語訳でも血の通った口語文として表現されていると考えられる。
また、過去と現在を行き来する歴史的な文脈を持つ文章や物語の書き方は、日本でも見られるものの、特に近年では深みを持つものが減少しているように思える。これは、作中に描かれるような実体験を持つ人が減少していることが一因ともいえるが、それだけではなく、歴史に対する安易な認識が広がっていることも影響しているのではないかと感じる。ネット社会の普及がこうした風潮を助長しているのだろうか。
歴史に対する安易な認識は、内外の問題に関する浅薄な思想や考え方と結びつき、輿論形成に影響を与える傾向がある。この現象自体は避けられないとしても、その結果が必ずしも良い方向に進むとは限らない。このような状況こそ、歴史を学び、そこから得られる洞察を大切にすべき理由ではないかと思う。
ここで一つの考えを思い出す。それは「日本人は外来文化を摂取する際、その背景文化から学ぶのではなく、その文化に特殊に認められる部分だけを切り取り、自分たちの都合に合わせて改変する傾向がある」という指摘である。これを踏まえると、過去の文化や歴史に対しても同様に、十分に理解しないまま、独自の文脈で取り扱っている場合が多いのではないかと考えさせられる。
このような現象が我々の文化的態度にどう影響しているのか、そしてそれが未来にどのような結果をもたらすのか、改めて考えていく必要があるだろう。
ともあれ、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。
*20241201にChatGPTを用いて添削および少しの加筆修正
2017年8月7日月曜日
20170806 其の2 岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著 『コンラッド短編集』「武人の魂」PP.336-339より抜粋引用
岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著
『コンラッド短編集』「武人の魂」PP.336-339より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861
『長い白い口髭を蓄えた老士官は、抑えていた憤りを思いきりぶちまけた。
「貴公たち若い者は、その程度のことを理解する分別も待ち合わせていないのか!
かつては大いに働き、少なからぬ辛酸を嘗め、もはや残っている者とて数少ない世代の老兵をとやかく言う暇があるなら、貴公らはまず、自分の乳臭い唇をしっかり拭っておくのがよかろうというものだ。」
聞き手が大いに恐縮の体を見せたので、年老いた戦士の気持は収まってきた。しかし、彼の口のほうは一向に収まらなかった。
「わしもそんな古参兵の一人なのだよ。つまり、生き残りの一人ということだ」と、老士官は逸る気持ちを抑えかねるように言葉を続けた。「わしたちは何をしたというのだろう?何をなしとげたのだろう?あの大ナポレオンが、アレキサンダー大王にも負けじとばかりに、運霞のごとき連合軍を従え、我々に襲いかかってきたのだぞ。わしたちは、猛攻を加えるフランス軍と、最初のうちは距離をおいて対峙していたが、やがてわが方は、繰り返し繰り返し執拗な攻撃を仕掛け、ついにフランス軍をして、自陣に山なす死体の中に伏して眠らざるをえぬところまで追い込んでやったのだ。次がモスクワの大火だった。火は、彼らの頭上に容赦なく降り注いだ。
そしてついに、あの大遠征軍の長い長い敗走が始まったのだ。わしはそれをこの眼でしかと見た。絶望に打ちひしがれた敵の眼の前に果てしなく広がる、ダンテの地獄の底にも似た極寒の地を、やつれ果てた幽鬼さながらの姿で、蜿蜒列をなして敗走していく遠征軍の姿をな。
逃げおおせたフランス兵どもは、きっと、魂に二重の鋲を打って、それを己の肉体に釘付けにしていたのだろう。あの、岩をも砕くという厳寒の中を潜って、無事にロシアからその魂を運び出すことができたのだから。だが、彼らを一人でも落ちのびさせたのが、わしらの落ち度だと言うならば、それは、あまりにもものを知らぬということだ。だってそうではないか!わが軍とても、ぎりぎりのところまで、その力を使い果たしていたのだからな。名にし負う、ロシア軍の強健無比な精力をもってしてもだ!
もちろん、わしらの闘志は衰えていなかった。それに、大義はわれらの側にあった。
あの戦はいわば聖戦だった。だからとて、兵士や馬に吹きつける風が和らぐものでないことは、言うまでもなかろう。
肉体とは弱いものだ(マタイ伝六章四一節)。意図が善であれ悪であれ、人はその弱さの代価を支払わねばならぬ。よいか!わしが先ほどから貴公たちに語って聞かせている小さな村落の争奪戦とても、古ぼけた田舎家を風除けのねぐらにしたかったばかりに、必死の思いで戦ったのだ。フランス軍とて、同じ思いであったろう。
あれは、栄光のためでも、戦略上の必要によるものでもない戦闘だった。フランス軍は、自分たちが夜明け前にそこを退却せねばならぬことを知っていた。そして、わしたちも、敵軍が退却するつもりなのは承知の上だった。戦いと言うなら、そもそもそんなところで戦う必要性はなかったのだ。だが、わが方の歩兵も敵の歩兵も、まさしく山猫のごとく戦った。勇猛果敢に、と言い直してもかまわぬ。戦いは、村の中での白兵戦となった。その間にも、支援部隊は吹きすさぶ北風の中で凍えながら立ち尽くしていた。地上には雪が舞い飛び、空には大きな黒雲が恐ろしいばかりの速さで流れていた。辺りは白一色だったために、それとの対比で、大気までもが言い知れぬほど黒々と見えたものだ。わしは、あの日ほど、神の造り給うた万物が陰惨に見えた日を知らぬ。
わが騎兵部隊は(といっても、わずかなものだったが)、風に背を向けたまま凝然と立ち尽くし、ときおり飛んでくるフランス軍の砲弾の流れ弾を喰らう以外になすすべもなかった。これがフランス軍最後の砲撃だったと言っても間違いない。結局、彼らが砲兵部隊を布陣したのは、それで最後になったのだからな。それらの野砲は置き去りにされてしまった。翌朝になってから、わしたちは、それらが撤収されぬまま放置されているのを眼にすることになったのだ。だが、まだその日の午後は、敵の砲兵は前進するわが縦隊めがけて地獄の砲火を浴びせ続けていた。荒れ狂う風は、硝煙を吹き飛ばし、砲声をもかき消していたが、フランス軍の前線沿いに絶えず砲火が明滅するのが、こちらからはっきり見て取れた。そして地吹雪がどっと襲いかかるごとに、一切がかき消されて、真っ白な渦の中に、ただ深紅の閃光だけが光っていた。』
『コンラッド短編集』「武人の魂」PP.336-339より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861
『長い白い口髭を蓄えた老士官は、抑えていた憤りを思いきりぶちまけた。
「貴公たち若い者は、その程度のことを理解する分別も待ち合わせていないのか!
かつては大いに働き、少なからぬ辛酸を嘗め、もはや残っている者とて数少ない世代の老兵をとやかく言う暇があるなら、貴公らはまず、自分の乳臭い唇をしっかり拭っておくのがよかろうというものだ。」
聞き手が大いに恐縮の体を見せたので、年老いた戦士の気持は収まってきた。しかし、彼の口のほうは一向に収まらなかった。
「わしもそんな古参兵の一人なのだよ。つまり、生き残りの一人ということだ」と、老士官は逸る気持ちを抑えかねるように言葉を続けた。「わしたちは何をしたというのだろう?何をなしとげたのだろう?あの大ナポレオンが、アレキサンダー大王にも負けじとばかりに、運霞のごとき連合軍を従え、我々に襲いかかってきたのだぞ。わしたちは、猛攻を加えるフランス軍と、最初のうちは距離をおいて対峙していたが、やがてわが方は、繰り返し繰り返し執拗な攻撃を仕掛け、ついにフランス軍をして、自陣に山なす死体の中に伏して眠らざるをえぬところまで追い込んでやったのだ。次がモスクワの大火だった。火は、彼らの頭上に容赦なく降り注いだ。
そしてついに、あの大遠征軍の長い長い敗走が始まったのだ。わしはそれをこの眼でしかと見た。絶望に打ちひしがれた敵の眼の前に果てしなく広がる、ダンテの地獄の底にも似た極寒の地を、やつれ果てた幽鬼さながらの姿で、蜿蜒列をなして敗走していく遠征軍の姿をな。
逃げおおせたフランス兵どもは、きっと、魂に二重の鋲を打って、それを己の肉体に釘付けにしていたのだろう。あの、岩をも砕くという厳寒の中を潜って、無事にロシアからその魂を運び出すことができたのだから。だが、彼らを一人でも落ちのびさせたのが、わしらの落ち度だと言うならば、それは、あまりにもものを知らぬということだ。だってそうではないか!わが軍とても、ぎりぎりのところまで、その力を使い果たしていたのだからな。名にし負う、ロシア軍の強健無比な精力をもってしてもだ!
もちろん、わしらの闘志は衰えていなかった。それに、大義はわれらの側にあった。
あの戦はいわば聖戦だった。だからとて、兵士や馬に吹きつける風が和らぐものでないことは、言うまでもなかろう。
肉体とは弱いものだ(マタイ伝六章四一節)。意図が善であれ悪であれ、人はその弱さの代価を支払わねばならぬ。よいか!わしが先ほどから貴公たちに語って聞かせている小さな村落の争奪戦とても、古ぼけた田舎家を風除けのねぐらにしたかったばかりに、必死の思いで戦ったのだ。フランス軍とて、同じ思いであったろう。
あれは、栄光のためでも、戦略上の必要によるものでもない戦闘だった。フランス軍は、自分たちが夜明け前にそこを退却せねばならぬことを知っていた。そして、わしたちも、敵軍が退却するつもりなのは承知の上だった。戦いと言うなら、そもそもそんなところで戦う必要性はなかったのだ。だが、わが方の歩兵も敵の歩兵も、まさしく山猫のごとく戦った。勇猛果敢に、と言い直してもかまわぬ。戦いは、村の中での白兵戦となった。その間にも、支援部隊は吹きすさぶ北風の中で凍えながら立ち尽くしていた。地上には雪が舞い飛び、空には大きな黒雲が恐ろしいばかりの速さで流れていた。辺りは白一色だったために、それとの対比で、大気までもが言い知れぬほど黒々と見えたものだ。わしは、あの日ほど、神の造り給うた万物が陰惨に見えた日を知らぬ。
わが騎兵部隊は(といっても、わずかなものだったが)、風に背を向けたまま凝然と立ち尽くし、ときおり飛んでくるフランス軍の砲弾の流れ弾を喰らう以外になすすべもなかった。これがフランス軍最後の砲撃だったと言っても間違いない。結局、彼らが砲兵部隊を布陣したのは、それで最後になったのだからな。それらの野砲は置き去りにされてしまった。翌朝になってから、わしたちは、それらが撤収されぬまま放置されているのを眼にすることになったのだ。だが、まだその日の午後は、敵の砲兵は前進するわが縦隊めがけて地獄の砲火を浴びせ続けていた。荒れ狂う風は、硝煙を吹き飛ばし、砲声をもかき消していたが、フランス軍の前線沿いに絶えず砲火が明滅するのが、こちらからはっきり見て取れた。そして地吹雪がどっと襲いかかるごとに、一切がかき消されて、真っ白な渦の中に、ただ深紅の閃光だけが光っていた。』
2017年8月6日日曜日
20170806 KODANSHA INTERNATIONAL LTD.刊 Hyoe-Murakami著 『Japan The Years of Trial1919-52』pp.178-180より抜粋引用
KODANSHA INTERNATIONAL LTD.刊
Hyoe-Murakami著
『Japan The Years of Trial1919-52』pp.178-180より抜粋引用
ISBN-10: 087011610X
ISBN-13: 978-0870116100
『The Potsdam Declaration was published on July 26 in in the name of Truman, Churchill, and Ciang Kai-shek. With in the Japanese government, it was Foreign Minister Togo who insited most strongly that Japan should agree to its terms; he had taken note of the fact that they could be interpreted as implying something other than unconditional surrender. The fact that Stalin was not among the signatories of the declaration also gave him grounds to suppose that the Soviet Union, faithful to the neutrality pact, and had mediated on Japan’s behalf. The terms laid down in the declaration-the limiting of Japanese territory to the four main islands, the restriction of the function of the Japanese government, occupation, disarmament, and the punishment of war criminals among them-were extremely harsh, and there was plenty of food for doubt and uneasiness; yet, as Togo saw it, to let this opportunity to begin negotiations go by would be even more fatal. Nevertheless the opposition of the military was as implacable as ever. Suzuki put forward compromise proposal, whereby the press was to report the declaration without any comment whatsoever, thereby giving a signal that Japan was paying heed to it.
The morning editions of the twenty-eighth, however-despite the government’s attempts to impose restraints-carried headlines referditional surrender as ''plot by the three powers'' and dismissing the call for unconditional surrender as ''preposterous.'' Hastly, Suzuki personally called a press conference at which he stated that the attitude of the Japanese government toward the Potsdam Declaration was one of ''mokusatsu''. As Suzuki intended it, this word was the equivalent of the English ''no comment,'' but in Japanese broadcasts directed overseas it turned out as ''ignore,'' and New York Times of July 30 carried a headline annoucing that Japan had rejected the Allies' final call for it to surrender. Thus President Truman lost any chance of checking use of the atomic bomb at the last moment. The Japanese government, in short, still expecting that the Soviet Union would mediate on its behalf, had attached insufficient importance to its own response to the Potsdam Declaration.
At 3 A.M. on August 6, the Enola Gay took off from the base on the island of Tinian carrying the first atomic bomb ever to be dropped on mankind, and at some time past 8A.M. arrived in the sky over Hiroshima. The bomb, suspended from a parachute, exploded at a point 600 meters above ground level. It was 8:15, at which time the city’s clocks stopped forever. A single bomb wiped out an entire city. Thirteen square kilometers of the center were seared by the terrifying blast, heat, and radiation; at least two hundred thousand citizens either were killed instantly or died after days-in some cases, months-of suffering. As the plane in which Dr. Nishina Yoshio-an atomic physicist who flew to Hiroshima at Japanese army orders-arrived in the sky over Hiroshima, one glance was enough to tell him that it could only have been an atomic bomb. His judgment was confirmed by foreign broadcasts. On the afternoon on August 8, on receiving formal notification from Dr. Nishina that the weapon dropped on Hiroshima had unquestionabley been an atomic bomb, Prime Minister Suzuki realized that the war must be brought to a rapid conclusion and directed Cabinet Secretary Sakomizu to summon a meeting of the Supreme Council for the Conduct of the war for the following day.』
Hyoe-Murakami著
『Japan The Years of Trial1919-52』pp.178-180より抜粋引用
ISBN-10: 087011610X
ISBN-13: 978-0870116100
『The Potsdam Declaration was published on July 26 in in the name of Truman, Churchill, and Ciang Kai-shek. With in the Japanese government, it was Foreign Minister Togo who insited most strongly that Japan should agree to its terms; he had taken note of the fact that they could be interpreted as implying something other than unconditional surrender. The fact that Stalin was not among the signatories of the declaration also gave him grounds to suppose that the Soviet Union, faithful to the neutrality pact, and had mediated on Japan’s behalf. The terms laid down in the declaration-the limiting of Japanese territory to the four main islands, the restriction of the function of the Japanese government, occupation, disarmament, and the punishment of war criminals among them-were extremely harsh, and there was plenty of food for doubt and uneasiness; yet, as Togo saw it, to let this opportunity to begin negotiations go by would be even more fatal. Nevertheless the opposition of the military was as implacable as ever. Suzuki put forward compromise proposal, whereby the press was to report the declaration without any comment whatsoever, thereby giving a signal that Japan was paying heed to it.
The morning editions of the twenty-eighth, however-despite the government’s attempts to impose restraints-carried headlines referditional surrender as ''plot by the three powers'' and dismissing the call for unconditional surrender as ''preposterous.'' Hastly, Suzuki personally called a press conference at which he stated that the attitude of the Japanese government toward the Potsdam Declaration was one of ''mokusatsu''. As Suzuki intended it, this word was the equivalent of the English ''no comment,'' but in Japanese broadcasts directed overseas it turned out as ''ignore,'' and New York Times of July 30 carried a headline annoucing that Japan had rejected the Allies' final call for it to surrender. Thus President Truman lost any chance of checking use of the atomic bomb at the last moment. The Japanese government, in short, still expecting that the Soviet Union would mediate on its behalf, had attached insufficient importance to its own response to the Potsdam Declaration.
At 3 A.M. on August 6, the Enola Gay took off from the base on the island of Tinian carrying the first atomic bomb ever to be dropped on mankind, and at some time past 8A.M. arrived in the sky over Hiroshima. The bomb, suspended from a parachute, exploded at a point 600 meters above ground level. It was 8:15, at which time the city’s clocks stopped forever. A single bomb wiped out an entire city. Thirteen square kilometers of the center were seared by the terrifying blast, heat, and radiation; at least two hundred thousand citizens either were killed instantly or died after days-in some cases, months-of suffering. As the plane in which Dr. Nishina Yoshio-an atomic physicist who flew to Hiroshima at Japanese army orders-arrived in the sky over Hiroshima, one glance was enough to tell him that it could only have been an atomic bomb. His judgment was confirmed by foreign broadcasts. On the afternoon on August 8, on receiving formal notification from Dr. Nishina that the weapon dropped on Hiroshima had unquestionabley been an atomic bomb, Prime Minister Suzuki realized that the war must be brought to a rapid conclusion and directed Cabinet Secretary Sakomizu to summon a meeting of the Supreme Council for the Conduct of the war for the following day.』
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