2017年8月9日水曜日

20170809 1895・1945:広島・長崎 【帝国主義の出発点と終着点】★★★★

本日の首都圏は日中気温も上昇し、ようやくこの時期らしい陽気になったのではないかと思われます。

そして、今現在(22:07)もまた多少蒸し暑く感じながら、当ブログ記事作成をはじめた次第です。

さて、現在の我が国において広島、長崎と聞きますと、殆どの場合『原子爆弾が投下された都市』という反応が返ってくると思われます。

しかしその一方で、そこ(1945年)から50年遡った頃にて広島、長崎と考えてみますと、それは丁度日清戦争の講和会議が為された頃であり、当初、清国側の使節は広島に上陸したものの日本政府側から必要書類の不備および使節人員地位が不十分であると指摘されたことにより広島から長崎へ渡り、そこから一旦帰国したことが陸奥宗光著『蹇蹇録』に記されています。

その後、本国にて書類が整えられ、しかるべき地位の人員構成による新たな使節が来日し講和会議が為され下関条約(馬関条約)が締結されたことは御周知のことと思われます。

とはいえ、この締結された条約内容は、その直後のロシア、フランス、帝政ドイツによる所謂三国干渉によって強圧的に改変され、そして我が国にとっては次なる戦争(日露戦争)への端緒が切って落とされることになるわけです・・。

ともあれ、この50年の年月を隔て、両都市が歴史の流れに登場することは、おそらく単なる偶然ではあるのでしょうが、少し見方を変え、これらのこと(1895年、1945年)考えてみますと、それぞれ日本帝国主義の国際的な意味での出発点と終着点とも評することが出来るのではないかと思われます・・。

しかしながら、こうした歴史の見方とは、要するに後知恵の最たるものであり『そうであるから次はこうなる。』といった見方に基づく未来の推測・予測が為されてはいけない類いのものであると考えます。

もとい、このように歴史の流れとは大変面白いものでありながら、それを扱う我々人間の普遍的ともいえる浅はかさを簡単には修正、補完させない何かがあるのかもしれません。

とはいうものの、であるからといって(表層的にはどうであれ)歴史を無視、バカにすることから生じる災厄とは、前者の結果に劣らず恐ろしいものであることもまた認識しておく価値があることではないかと思われますが如何でしょうか?

また、文系学問全般の存在意義とは、究極的にはそういったところにあるのではないかと思われます・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。



2017年8月8日火曜日

20170808 「情報社会における歴史認識と表現の意義」

 昨日は、一休みした後に深夜の作業を予定して午後11時頃に寝たが、疲労が溜まっていたのか、目覚めたのは早朝5時だった。そのまま起床して記事を作成するのも面倒に感じ、結局7時まで寝続けた。

この経験から、記事作成にはある程度決まった時間を設けるべきだと再認識した。一方で、一昨日(8月6日)は偶然2本の記事を投稿していたため、現在の進捗としては1日1記事というペースを維持しているとみなせる。特に問題視せず、今後も記事作成を続けていくつもりである。

そんな中、昨日の間にブログの総閲覧者数が24万人に到達した。これまで読んでくださった方々のおかげで、ここまで書き続けることができたと感謝している。一方で、世の中には桁違いに多くの読者を持つブログが数多く存在することは承知している。しかし、画像や動画といった閲覧数を増やす要素が乏しく、流行に迎合することもなく、自分が書きたいことを書き続けてきたブログであるにもかかわらず、これだけ読んでいただけたのは望外の僥倖であり、自分にとって大きな励みとなっている。

目先の目標である800記事の到達まで、どれだけの方々に読んでいただけるかは未知数だが、少なくとももう少しは書き続ける予定である。これからもよろしくお願いしたい。

一昨日の記事では『コンラッド短編集』の「武人の魂」の冒頭を抜粋引用した。この文章は19世紀的な時代精神が色濃く感じられるため選んだものであるが、著者ジョセフ・コンラッドが当時の世界を実際に生きた経験があったからこそ、日本語訳でも血の通った口語文として表現されていると考えられる。

また、過去と現在を行き来する歴史的な文脈を持つ文章や物語の書き方は、日本でも見られるものの、特に近年では深みを持つものが減少しているように思える。これは、作中に描かれるような実体験を持つ人が減少していることが一因ともいえるが、それだけではなく、歴史に対する安易な認識が広がっていることも影響しているのではないかと感じる。ネット社会の普及がこうした風潮を助長しているのだろうか。

歴史に対する安易な認識は、内外の問題に関する浅薄な思想や考え方と結びつき、輿論形成に影響を与える傾向がある。この現象自体は避けられないとしても、その結果が必ずしも良い方向に進むとは限らない。このような状況こそ、歴史を学び、そこから得られる洞察を大切にすべき理由ではないかと思う。

ここで一つの考えを思い出す。それは「日本人は外来文化を摂取する際、その背景文化から学ぶのではなく、その文化に特殊に認められる部分だけを切り取り、自分たちの都合に合わせて改変する傾向がある」という指摘である。これを踏まえると、過去の文化や歴史に対しても同様に、十分に理解しないまま、独自の文脈で取り扱っている場合が多いのではないかと考えさせられる。

このような現象が我々の文化的態度にどう影響しているのか、そしてそれが未来にどのような結果をもたらすのか、改めて考えていく必要があるだろう。
 
ともあれ、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。
*20241201にChatGPTを用いて添削および少しの加筆修正




2017年8月7日月曜日

20170806 其の2 岩波書店刊 コンラッド著  中島堅二編著 『コンラッド短編集』「武人の魂」PP.336-339より抜粋引用

岩波書店刊 コンラッド著  中島堅二編著
『コンラッド短編集』「武人の魂」PP.336-339より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861

『長い白い口髭を蓄えた老士官は、抑えていた憤りを思いきりぶちまけた。
「貴公たち若い者は、その程度のことを理解する分別も待ち合わせていないのか!
かつては大いに働き、少なからぬ辛酸を嘗め、もはや残っている者とて数少ない世代の老兵をとやかく言う暇があるなら、貴公らはまず、自分の乳臭い唇をしっかり拭っておくのがよかろうというものだ。」
聞き手が大いに恐縮の体を見せたので、年老いた戦士の気持は収まってきた。しかし、彼の口のほうは一向に収まらなかった。
「わしもそんな古参兵の一人なのだよ。つまり、生き残りの一人ということだ」と、老士官は逸る気持ちを抑えかねるように言葉を続けた。「わしたちは何をしたというのだろう?何をなしとげたのだろう?あの大ナポレオンが、アレキサンダー大王にも負けじとばかりに、運霞のごとき連合軍を従え、我々に襲いかかってきたのだぞ。わしたちは、猛攻を加えるフランス軍と、最初のうちは距離をおいて対峙していたが、やがてわが方は、繰り返し繰り返し執拗な攻撃を仕掛け、ついにフランス軍をして、自陣に山なす死体の中に伏して眠らざるをえぬところまで追い込んでやったのだ。次がモスクワの大火だった。火は、彼らの頭上に容赦なく降り注いだ。
そしてついに、あの大遠征軍の長い長い敗走が始まったのだ。わしはそれをこの眼でしかと見た。絶望に打ちひしがれた敵の眼の前に果てしなく広がる、ダンテの地獄の底にも似た極寒の地を、やつれ果てた幽鬼さながらの姿で、蜿蜒列をなして敗走していく遠征軍の姿をな。
逃げおおせたフランス兵どもは、きっと、魂に二重の鋲を打って、それを己の肉体に釘付けにしていたのだろう。あの、岩をも砕くという厳寒の中を潜って、無事にロシアからその魂を運び出すことができたのだから。だが、彼らを一人でも落ちのびさせたのが、わしらの落ち度だと言うならば、それは、あまりにもものを知らぬということだ。だってそうではないか!わが軍とても、ぎりぎりのところまで、その力を使い果たしていたのだからな。名にし負う、ロシア軍の強健無比な精力をもってしてもだ!
もちろん、わしらの闘志は衰えていなかった。それに、大義はわれらの側にあった。
あの戦はいわば聖戦だった。だからとて、兵士や馬に吹きつける風が和らぐものでないことは、言うまでもなかろう。
肉体とは弱いものだ(マタイ伝六章四一節)。意図が善であれ悪であれ、人はその弱さの代価を支払わねばならぬ。よいか!わしが先ほどから貴公たちに語って聞かせている小さな村落の争奪戦とても、古ぼけた田舎家を風除けのねぐらにしたかったばかりに、必死の思いで戦ったのだ。フランス軍とて、同じ思いであったろう。
あれは、栄光のためでも、戦略上の必要によるものでもない戦闘だった。フランス軍は、自分たちが夜明け前にそこを退却せねばならぬことを知っていた。そして、わしたちも、敵軍が退却するつもりなのは承知の上だった。戦いと言うなら、そもそもそんなところで戦う必要性はなかったのだ。だが、わが方の歩兵も敵の歩兵も、まさしく山猫のごとく戦った。勇猛果敢に、と言い直してもかまわぬ。戦いは、村の中での白兵戦となった。その間にも、支援部隊は吹きすさぶ北風の中で凍えながら立ち尽くしていた。地上には雪が舞い飛び、空には大きな黒雲が恐ろしいばかりの速さで流れていた。辺りは白一色だったために、それとの対比で、大気までもが言い知れぬほど黒々と見えたものだ。わしは、あの日ほど、神の造り給うた万物が陰惨に見えた日を知らぬ。
わが騎兵部隊は(といっても、わずかなものだったが)、風に背を向けたまま凝然と立ち尽くし、ときおり飛んでくるフランス軍の砲弾の流れ弾を喰らう以外になすすべもなかった。これがフランス軍最後の砲撃だったと言っても間違いない。結局、彼らが砲兵部隊を布陣したのは、それで最後になったのだからな。それらの野砲は置き去りにされてしまった。翌朝になってから、わしたちは、それらが撤収されぬまま放置されているのを眼にすることになったのだ。だが、まだその日の午後は、敵の砲兵は前進するわが縦隊めがけて地獄の砲火を浴びせ続けていた。荒れ狂う風は、硝煙を吹き飛ばし、砲声をもかき消していたが、フランス軍の前線沿いに絶えず砲火が明滅するのが、こちらからはっきり見て取れた。そして地吹雪がどっと襲いかかるごとに、一切がかき消されて、真っ白な渦の中に、ただ深紅の閃光だけが光っていた。』

2017年8月6日日曜日

20170806 KODANSHA INTERNATIONAL LTD.刊 Hyoe-Murakami著 『Japan The Years of Trial1919-52』pp.178-180より抜粋引用

KODANSHA INTERNATIONAL LTD.刊
Hyoe-Murakami著
『Japan The Years of Trial1919-52』pp.178-180より抜粋引用
ISBN-10: 087011610X
ISBN-13: 978-0870116100

『The Potsdam Declaration was published on July 26 in in the name of Truman, Churchill, and Ciang Kai-shek. With in the Japanese government, it was Foreign Minister Togo who insited most strongly that Japan should agree to its terms; he had taken note of the fact that they could be interpreted as implying something other than unconditional surrender. The fact that Stalin was not among the signatories of the declaration also gave him grounds to suppose that the Soviet Union, faithful to the neutrality pact, and had mediated on Japan’s behalf. The terms laid down in the declaration-the limiting of Japanese territory to the four main islands, the restriction of the function of the Japanese government, occupation, disarmament, and the punishment of war criminals among them-were extremely harsh, and there was plenty of food for doubt and uneasiness; yet, as Togo saw it, to let this opportunity to begin negotiations go by would be even more fatal. Nevertheless the opposition of the military was as implacable as ever. Suzuki put forward compromise proposal, whereby the press was to report the declaration without any comment whatsoever, thereby giving a signal that Japan was paying heed to it.

The morning editions of the twenty-eighth, however-despite the government’s attempts to impose restraints-carried headlines referditional surrender as ''plot by the three powers'' and dismissing the call for unconditional surrender as ''preposterous.'' Hastly, Suzuki personally called a press conference at which he stated that the attitude of the Japanese government toward the Potsdam Declaration was one of ''mokusatsu''. As Suzuki intended it, this word was the equivalent of the English ''no comment,'' but in Japanese broadcasts directed overseas it turned out as ''ignore,'' and New York Times of July 30 carried a headline annoucing that Japan had rejected the Allies' final call for it to surrender. Thus President  Truman lost any chance of checking use of the atomic bomb at the last moment. The Japanese government, in short, still expecting that the Soviet Union would mediate on its behalf, had attached insufficient importance to its own response to the Potsdam Declaration.

At 3 A.M. on August 6, the Enola Gay took off from the base on the island of Tinian carrying the first atomic bomb ever to be dropped on mankind, and at some time past 8A.M. arrived in the sky over Hiroshima. The bomb, suspended from a parachute, exploded at a point 600 meters above ground level. It was 8:15, at which time the city’s clocks stopped forever. A single bomb wiped out an entire city. Thirteen square kilometers of the center were seared by the terrifying blast, heat, and radiation; at least two hundred thousand citizens either were killed instantly or died after days-in some cases, months-of suffering. As the plane in which Dr. Nishina Yoshio-an atomic physicist who flew to Hiroshima at Japanese army orders-arrived in the sky over Hiroshima, one glance was enough to tell him that it could only have been an atomic bomb. His judgment was confirmed by foreign broadcasts. On the afternoon on August 8, on receiving formal notification from Dr. Nishina that the weapon dropped on Hiroshima had unquestionabley been an atomic bomb, Prime Minister Suzuki realized that the war must be brought to a rapid conclusion and directed Cabinet Secretary Sakomizu to summon a meeting of the Supreme Council for the Conduct of the war for the following day.』

20170805 台風の九州南部接近の報に接して

A「総投稿記事数が700に到達したのちもペースを落とさず、ほぼ毎日記事作成を行ってきましたが、本日はどうも記事作成の意欲が湧かず、色々と書籍、文献等をあたってはみましたが、それでもあまり、さきの状況とは改善されないでいます・・(苦笑)。

このまま本日に関しては記事作成を休もうかとも思いましたが、書籍の抜粋引用であれ、ともかく記事を作成しようと思い立ち、今現在このように何かしら文章の作成をはじめている次第です・・。

そういえば、現在台風が九州南部に接近しつつあるとのことで、目下のところ、これが心配ではあり、またたとえ台風が上陸するにしても、あまり大きな被害を齎さないことを願っています。

また、台風に関してですが、九州南部にて遭遇する台風とは、やはり首都圏における台風と異なり、何と云いますか、より自然の脅威といったものを感じさせます・・。
(古代人が台風にカミを見たのは西日本に在住してはじめて実感として分かりました。)

また、このことは和歌山、南紀においても同様であり、殊に北海道からこの地に転勤となり、しばらくの期間とは、このすさまじい雨・台風に大きなショックを受けたことをおぼえています(北海道にはあまり台風が上陸しない)。

とはいえ、我々人間とは概ね、どの地域であれ、しばらくそこに住んでいると、その環境に慣れるものであるらしく、今現在の私とは、さきの自然環境といったものに関しては、ほぼどうしようもないものであるため言及しませんが、その他の環境に関しては『むしろ首都圏の方がおかしいのではないか?』と思うことが多々あります・・。
(朝夕の電車のラッシュ、行列、都心部の雑踏、空気の悪さ、騒音・・)。

また、そうは考えるものの、実際の生活においては以前よりも大分、この首都圏特有の慌ただしさにも慣れつつはあると云えます。

しかしそれでも、これが『自分にとって良い』ものであるとは、どうしても思うことが出来ません・・。

また、以前投稿したブログ記事においても書きましたが、そうした内面における『葛藤』(理想と現実のギャップ)こそが、ブログ記事といったカタチであれ、文章を書き続ける大きな原動力となっているのではないかとも思われます・・。

とはいえ、この程度までどうにかこうにかブログ記事を書き続けていますと時折思うことは『おそらく何処に住もうと当初はしばらく逡巡・呻吟するかもしれないが、何かしらは書き続けることは出来るのではないだろうか?』ということです。

もちろん、これはあくまでも今現在においては希望的観測の域を出ませんが、同時に以前よりも『それが出来るのではないか?』といった実感もまた強くなってきています・・。
(しかしながら、この『実感』がまたクセモノなのかもしれない・・(苦笑)。)

ともあれ、いずれにせよ、このさき未だどうなるか見当もつきませんが、ここまでブログ記事を書き続け、そして上記のような実感をも持ち得るに至ったことは、これまでに(かなり)稚拙なものも多いと思われる一連のブログ記事を読んでくださっている方々のおかげであると云えます。
(おかげさまで、これまでに総計24万人ほどの方々に閲覧して頂きました。)

今後も800記事の到達までは書き続ける予定ですので、今後ともどうぞよろしくお願いします。

また、今回に関しても、ここまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を受けた地域の諸インフラの復旧、そしてその後の早期の復興を祈念しています。』












2017年8月5日土曜日

20170804 昨日との関連:部分と全体:歴史と思想、文系学問全般さらには理系学問も?

A『本日の首都圏もまた気温が上がらずに比較的過ごし易い一日でした。

また、本日は比較的遠くへ出かけたためか、今現在多少疲れています・・。

実際、こうした日とは恒例となっているブログ記事作成を多少面倒に感じるわけですが、書き始めた以上、ある程度書き、本日分の記事作成を行わなければならないと思うのですが、なかなかその記事作成は思うようには捗ってはくれません・・(苦笑)。

さて、昨日分の投稿記事『全体の文脈から考える【書籍からの抜粋引用および歴史について】』もまた投稿翌日にしては多くの方々(36)に読んで頂けました。

くわえて、本日は日中のブログをチェックしない時間帯に比較的多くの方々(120程度)に記事を読んで頂き、冒頭に書いた疲れている日に、こうした現象が生じることは『皮肉ではあるまいか?』と思う一方、新たな記事作成の意欲も湧いてきます・・(笑)。

そうした次第で、本日分の作成記事に関しては、昨日分投稿記事と関連することを書いてみようと思います。

これまでにブログ記事作成にて行った書籍からの抜粋引用と引用元書籍全体内容との関連について考えてみますと、概ね『そこまでは的外れではない』と考える一方で『果たして(本当に)それで良いのか・・?』とも考えることがあります。

そしてそれは部分と全体の関連全般についてもいえることであり、自身の身近なところで考えてみますと、歴史についてがまさしくそれに該当するのではないかと思われます。

また自身は、これまでにそうしたことを(ほぼ無意識ながら)疑問に持ち、考えつつ(ある程度)歴史に関する書籍を読んできたのではないかと思われます。

それはつまり『この時代・地域の歴史に関しては(読書にて)何となく分かったが、他の時代・地域との関連とはどうなっているのであろうか・・?』といった興味・疑問であり、これが積み重なってきますと、それら一つ一つが鎖の輪のようなものとなり、全体としての鎖のようなものを認識出来るようになり、さらに今度は他の鎖(全体像)との関連に思いが及ぶようになるのです・・。

以上の経緯にて、全体としての鎖(歴史の流れ)にまで考えが及びますと、その内容とは、包括的な内容を扱うものの多くがそうであるように、ある程度抽象的なものとなり、歴史というよりも思想・哲学といったものに近づいていくのではないかと思われます・・。

当初、私はこの思想・哲学といったものが全く分からず、また人に聞いてみても、自身の理解力のなさ故にか要領を得ることが出来ませんでした・・(苦笑)。

しかし、さきに書いたように、ある程度歴史に関しての知識・知見を得るようになりますと、ごく自然な流れとして、歴史を題材とした思想・哲学に関しての著作を読むことが出来るようになっていきました(20代前半頃であったと思う)。

また、多くの思想・哲学とは、その知識背景の多くを歴史的なものに負っているのではないかと考えます。

その意味においては、おそらく経済学・社会学・政治学・民俗学など全てもまた、そうではないかと思われます・・。

端的に、それらは『我々人間の蓄積された営み【歴史】に対するアプローチの仕方の相違』といったものに還元し得るのではないかと考えます。

そして、ここからは、さすがに極端な意見ではあるかもしれませんが、自身の場合、その後専攻した歯科理工学においても概ねそのようなアプローチにて臨みましたが、これは同時に【まさしく】目に見えて現在進行形の歴史【加工製作技術の進化発展】そのものであり、そこにさまざまな実験を以って参入することが面白く且つ、遣り甲斐のあることと感じていたのではないかと思われます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』












2017年8月3日木曜日

20170803 全体の文脈から考える

本日の首都圏もまた昨日、一昨日と同様にあまり気温が上がらず過ごし易いといえば過ごし易いのですが、同時に『八月初旬でこの程度の気温で大丈夫であるのか?』とも考えてしまいます・・(笑)。

さて、昨日投稿分記事も投稿翌日にしては多く方々(27)に読んで頂けました。

そして本日の作成記事は、電車での移動の際にノートに書き留めた着想に基づき書き進めていきます。

これまでに自身が投稿したブログ記事のなかで、書籍・文献からの抜粋引用が占める割合は低くはないと云えます。

また、これはブログ記事作成を始めた当初の時期においては、より高い割合を占めていたと云えます。

そうした当時の状況にて時折(私のブログ記事作成を知る)知人と話しておりますと以下のようなご意見を頂くことがしばしばありました。

『たしかに書籍内の面白い記述をブログ記事として抜粋引用するのは面白い試みであると思いますよ、しかし、その記述が書籍全体の中で、どういった意味合い、どの程度の重みを持つものであるのかが、記事を読んでいる方々には往々にして伝わらないと思いますので、そのことは今後もう少し考えてみても良いのではないかと思いますが・・。』

このご意見とは、至極真っ当なものであり、また現在自身も時折、そうしたことを考えることがあります。

つまり書籍全体の文章の流れ、文脈のなかで、果たしてその(抜粋引用)『部分』が如何なる意味を持つのであるかとは、それが当初から恣意的な操作であることから、より注意して行う必要があるのだといえます。

また、当然といえば当然ですが、これまでに抜粋引用に用いた書籍とは、その殆どが(以前に)通読したものであり、またその選択とは、ある程度(自分なりに)注意して行っているとは考えますので、おそらくその大半においては、抜粋引用部をブログ記事にて読んだ方々が、抜粋引用元書籍の大意、全体の文脈を(大きく)誤解されることは少ないのではないかと考えます・・。

とはいえ、それも結局のところ自身の恣意的な操作に基づく希望的観測であるといえますので、最終的には何ともいえないところではあるのですが・・(苦笑)。

また、多少ハナシは変わって、こうした認識の仕方とは歴史全体においても同様のことがいえ、たとえある時代・地域の歴史が分かったという自覚を得たとしても、それが歴史全体については必ずしも応用可能ではないということです。

そして、そうしたことから竹山道雄著『昭和の精神史』に述べられている『全体を包括する大前提のような教義・ドグマを以って個々を認識していくと、必ず間違った認識の方向に行く』という意見の意味合いが認識され得るのだと思われます・・。

しかしながら、おそらく我が国においては少なからず、こうした(一見)便利とも云える『全体を包括する大前提のような教義・ドグマ』を(半ば無意識的に)有難がる、大事にするような傾向があるのではないかと思われます・・。

それはおそらく、本質的あるいは深層において、ある事態・事物に対して能動的に考えることが面倒である場合における態度・対応であり、あるいはまた、そうした心的傾向が少なからず我が国の早急な近代化あるいは戦後の急速な復興を推し進める力であったのではないかとも思われます・・。

しかし、そうしたことは御周知のとおり、何も新しい意見ではなく、夏目漱石の講演に基づいた著作『現代日本の開化』にて明治の時代に既に述べられていることなのです・・。

そして、そうしたことを踏まえ、現在の我が国にて生じているさまざまな出来事を見聞きしておりますと、かなり悔しいことに、つじつまが合ってしまうことが多いのです・・。

これが自身の浅学非才より生じる(無意識ながらの)全体を包括する大前提のような教義・ドグマへの妄信に基づく間違った考えであれば本当に良いのですが・・(苦笑)。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。』