2024年10月9日水曜日

20241009 株式会社講談社刊 (講談社現代新書 1168) 千田 善著「ユーゴ紛争: 多民族・モザイク国家の悲劇」pp.70-71より抜粋

株式会社講談社刊 (講談社現代新書 1168) 千田 善著「ユーゴ紛争: 多民族・モザイク国家の悲劇」pp.70-71より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061491687
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061491687

 長い間ユーゴに暮らしていた私の実感として、警官も軍人も庶民にとっては同じ国家機関であり、一枚岩の協力・連携をしているように見えるものだ。しかしこの朝、(ユーゴ)連邦軍兵士とスロベニア警察官の表情は対照的だった。

 トルジン村の民家の前で、軍人は「事故」を恥と感じ、アジア人の新聞記者をにらみつけ、やり場のない怒りを持て余している。一方、警官は明らかに戸惑いながらも、素手同様で戦車を止め「してやったり」という表情でニヤリとしている。昨日まで同じ国の権力機関に属していたものたちが「独立宣言」境に敵味方に分かれる。「独立」とはそういうものなのかと、不思議な感じがした。

 しばらくするうちに、ただ驚いたり、ニヤニヤしていた警官や村人、つまりスロベニア人たちも、「こういう場合には、怒るものだ」ということを思い出してきたようだ。

 警官には「マスコミ取材には許可なく応じるな」との命令がでれいたが、ある警官は小声で「これはヒトラーの軍隊と同じだ。まったくひどい」と話しかけてきた。まわりのやじ馬からも「どうか、ユーゴ連邦軍のこのひどいやり方を、世界中にしらせてくれ」という声が聞こえてくる。

 何の変哲もない農村、ふだんは退屈で眠たげであろうこの村に、ある朝早く、突然、戦車がやって来た。五〇年前のヒトラーと同じだと感じるのも無理はない。

 しかし、この時点で、トルジン村の住民たちも、わたしたちマスコミ関係者、そしておそらく連邦軍の兵士たちも、「戦争」というものを実感しかねていた、われわれの目の前にあるのは、「事故」を起こした戦車三両と大破した乗用車、トラック、観光バス。取り囲むやじ馬。これが戦争というものなのだろうか?

 わたしたちは空港行きをあきらめ、トルジン村を出発したのだが、これが結果的に命拾いになった。あちこちで封鎖された道を何ヵ所も迂回しながら、なんとかリュブリャナまでたどりつくと、トルジン村で本格的な戦闘が起きたという知らせが入った。

 わたしたちが出発した直後、立ち往生する戦車と兵士を救出するため、連邦軍ヘリコプターが降下作戦を決行した。スロベニア軍との間で銃撃戦となり、連邦軍兵士四人、スロベニア軍兵士二人、巻き添えになった民間人一人が死亡した。連邦軍兵士二〇人余りが捕虜となり、負傷者(スロベニア軍兵士八人、民間人二人、連邦軍兵士四人)は、リュブリャナ大学付属病院に収容された。

 危ういところで戦闘の巻き添えにならずにすんだわたしたちがトルジン村で見たものはやはり本物の戦争、正確にはその序盤だったのだ。

2024年10月7日月曜日

20241007 女性のSTEM分野進出のための方策:専門職大学

*醫療系專門職大學新設の意義
 現代社會において、科學・技術・工學・數學(STEM)分野は、技術革新と經濟成長を支ふる根幹にして、此の分野に於ける女子の參與は、社會の持續的發展および多樣性の確保に必要不可欠なるものといへん。然るに、我が國にては、女子のSTEM分野進出遲々として進まず、かねてより問題とされ來れり。斯くのごとき問題を創意工夫を以て克服せん爲の一方策として「醫療系專門職大學」の設立が考へらるるなり。此の大學は、女子がSTEM分野にてキャリアを進めん爲の基盤を成すのみならず、地域社會の活性化とジェンダー平等の實現にも資すること疑ひなし。

*醫療分野とSTEMの結びつき
 醫療および齒科醫療の分野は、科學・技術と密接に關聯せるものにして、此の領域に於いては、生命科學を基礎としつつ、技術の革新が常に求められ、科學的知識および工學的な手法の導入は必須なり。此の背景に鑑み、前述の醫療系專門職大學は、STEM分野への自然なる導入路となり得るものなり。學生らは、各々の職に應じた學科にて必要なる技能を修めるのみならず、科學的探究心を涵養し、將來に於いてSTEM分野にて活躍する爲の基礎を築くこと得るべし。また、臨床に即した實踐的カリキュラムは、科學・技術に對する具體的理解を深め、女子にとりてはキャリアの選択肢を大いに廣ぐる有益なる學びと經驗を提供す。斯の如くして、醫療分野に於ける普遍的なる知識を修めることにより、多くの女子は、STEM分野への道を拓き、その能力を充分に發揮し得るに至らん。

*地域醫療の發展と社會貢獻
 醫療系專門職大學の設置は、女子のSTEM分野進出を促進するのみならず、地域醫療の充實にも資す。今、我が國の多くの地域に於いて、醫療從事者の缺乏は深刻なる問題と化し、地域醫療を擔ふ人材の育成は急務と謂ふべきなり。此の情勢において、地元出身の學生が地元にて學び、その後地域の醫療に貢獻せば、醫療の質の向上はもとより、地域社會全體の發展および活性化にも寄與すべきものなり。此の仕組により、女子にとりては、家庭と職務を兩立し易き職場環境の整備および柔軟なる勞働形態が進み、安定したキャリア形成も可能となりぬべし。

*STEM分野に於ける婦女子のキャリア形成支援
 醫療系專門職大學は、婦女子がSTEM分野にて活躍せんための環境を整ふるものなり。また、醫療分野にて成功を収めし既卒女子は、次代女子に對するロールモデルとなり、後発の女子にもSTEM分野への挑戰を促す役割を果たすべし。それゆえ、かかる女子の存在は、社會全體にSTEM教育の重要性を知らしめ、女子の進出を支援する文化を醸成するに資すること疑ひなし。先行事例が増すことにより、次代の女子は、更に自信を以てSTEM分野に挑戰することを得るべく、環境整備も進むべし。

*STEM分野への多樣なる參入を支ふるインフラ
 醫療系專門職大學は、STEM分野にて、多樣なる背景を持つ者の參入を支援するインフラとしても重要なり。實踐的なる敎育を施すことにより、理論のみに留まらず、實際に役立つ技能を修め得るため、従來STEM分野に興味を抱かざりし女子や他分野からの轉向を望む者にも、新たなるキャリアの選択肢を提供するものなり。醫療分野の知識や技術は、他の工學や技術職にも應用することが可能にして、幅廣きキャリアの可能性を開くべし。

*醫療系專門職大學の設置がもたらす未來
 醫療系專門職大學の新設は、女子がSTEM分野に進出せんための重要なる一歩とならん。此の大學を通じ、女子は高度なる技術と知識を修め、地域社會や醫療分野など多分野にてリーダーシップの發揮が期待される。また、ジェンダー平等の推進にも資すること疑ひなく、女子が職業選択の自由を享受し得る社會の構築に寄與するべし。更に、醫療從事者としての技能および科学的知識を持ちたる女子の増加により、地域醫療の拡充強化のみならず、地域經濟の發展をも期すること可也。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年10月4日金曜日

20241003 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.110‐112より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.110‐112より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 産業革命は、30年このかた、パリをフランスで第一の工業都市にしたのであり、その市壁の内部に、労働者という全く新しい民衆を吸引した。それに加え城壁建設の工事があって、さしあたって仕事のない農民がパリに集まってきた。物質的な享楽への熱望が、政府の刺戟のもとで、次第にこれらの大衆をかり立てるようになり、ねたみに由来する民主主義的な不満が、いつのまにかこれら大衆に浸透していった。経済と政治に関する諸理論がそこに突破口をみいだして影響を与えはじめ、人びとの貧しさは神の摂理によるものではなく、法律によってつくられたものであること、そして貧困は、社会の基礎を変えることによってなくすことができることを、大衆に納得させようとしていた。そして統治する階級、とくにその先頭に立っている人びとは考え違いにおちいっていた。この考え違いは非常にたかまり、根強くなっていて、打倒されることになった権力の維持に、最も利益をもっていた人びとの抵抗をも無力化させるほどのものであった。中央集権化は、すべての革命行動をパリを制覇するということに、また政府のよく整った機構を掌握するということに追いこんでしまった。そしてすべての事物が変動しやすくなっていて、変動する社会のなかでの諸制度や諸理念、習俗や人びとは、副次的な多数の小変動は別としても、少なくともここ60年の間で起こった七つの大きな革命で、揺れ動いたのである。こうしたことどもが、それらのことがなければ二月革命はありえなかったような、この革命の一般的原因なのである。革命を導き出すことになった主要な偶発事は、王朝的反対派の不手際な激情であり、彼らは選挙改革を実現しようとして、反乱を育ててしまったのである。この反乱をまずはじめに過剰に抑圧し、ついでに放置してしまう。突然に権力の糸を断ち切ってしまった旧大臣たちが姿を消してしまい、後を継いだ新たな大臣は混乱におちいって、権力を一時的にとりもどすことも、やぶれ目を結び直すこともできなかった。動揺するとはとても考えられなかったほど強力であった。かつての彼らの立場をとりもどすことに、全く力およぼなかったこれらの大臣たちの失策と精神の動揺、将軍たちのためらい、人望あり精力に満ちた王族がいなかったこと、だが何より国王ルイ=フィリップの老いの愚かさとでもいうべきもの、たぶん何をもってしても予想できなかったと思われるその気弱さ、この点は事件によって誰の目にも明らかになってからは、ほとんど信じ難いものとして、人びとの印象に残ったことである。

 私は時々、国王の心のなかに急に生み出された、そして前代未聞ともいうべき意気阻喪が、一体どうして起こったのかと考えてみる。ルイ・フィリップはその生涯を革命のただ中で過したのだから、経験がなかったわけでも、勇気や気力に欠けていたわけでもなかった。しかしあの日だけは、これらのことが完全に欠けていたのである。私は彼の弱体ぶりは、彼の驚愕があまりにもひどかったことに起因すると考える。彼は起ったことが何かを知る前に仰天してしまったのだ。二月革命はすべての人にとって予知しえなかったことであるが、誰よりもまずルイ・フィリップにとってそうだったのだ。外部から何の忠告も受けなかった彼は、革命に対し無防備のままだった。というのも数年前から彼の精神は独善的なある種の孤立のなかに立てこもってしまっていて、こうなるとだいたいそんな場合でも、長い間の幸せになれた王族の知性が生命を保つことになってしまうのだ。そうした生活のなかで、王族たちは財産を才能と思い違え、誰からも学ぶことはなくなったと信じてしまうため、どんなことにも耳をかそうとしなくなるのである。とくにルイ・フィリップは、すでに指摘したように、彼の大臣たちもそうだったのだが、これまでの歴史の事実が現在になげかけるまやかしの閃光に、目をくらまされていたのだ。

2024年10月1日火曜日

20240930 一般社団法人 東京大学出版会刊行 鈴木啓之編「ガザ紛争 (U.P.plus)」pp.19-20より抜粋

一般社団法人 東京大学出版会刊行 鈴木啓之編「ガザ紛争 (U.P.plus)」pp.19-20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333089
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333085

 中・長期的に、「10月7日」はどのような影響を中東地域に残すのだろうか。ガザ紛争の「終わり方」、あるいは中東地域の主要国を中心とした国際社会の主体の関与によるガザ紛争の「終わり方」によって、長期的な帰結とそこへの経路は変わってくるだろう。

 もしイスラエル軍が短期間にハマースを、掲げた目標の通り、二度と組織的な対イスラエル攻撃を行うことがありえないほどの打撃を与えて壊滅させる、すなわち文字通り「根絶」することに成功した場合、パレスチナ問題の回帰という「10月7日」が初期にもたらした影響は、一時的なものにとどまることになることになるかもしれない。

 ただし、ハマースの「根絶」を宣言できるほどの打撃を加えるためには、一般市民の大規模な殺害や大量難民の発生といった人道的危機を伴う、ガザの政治・政治インフラを恒久的に破壊するような規模の攻撃を行うことになりかねない。その場合には、パレスチナ問題が「終了」したと国際社会にみなされるどころか、より拡大し深刻さを増したものとして認識されることになる。そしてむしろ攻撃を加える側の「イスラエル問題」として、国際社会の焦点が当たることになる。イスラエルは圧倒的な軍事力の優位によってパレスチナ問題を一方的に自国に有利に終結させることで、結果として国際政治における「パレスチナ問題」を「イスラエル問題」に転化させ、かえって問題を自らに不利な形で大きくしてしまう可能性がある。それは、イスラエルの国家としての長期的な存続にとって、「パレスチナ問題」以上に深刻な脅威とすらいえるだろう。

 またイスラエルがハマースの軍事力だけでなく、その政治的な組織や社会的な基盤に至るまで根こそぎ大規模に破壊した場合、そこで犠牲になるガザ市民や、破壊と殺害を目撃するパレスチナ人に、あるいは広くアラブ世界やイスラーム世界を中心により広範な国際社会の人々に、イスラエルに対する嫌悪感や敵意や憎悪を募らせることが確実である。イスラエルのガザ攻撃は、宗教的・政治的な過激化を中東やより広く国際社会にもたらす危険性は高く、それが生じるか否かではなく、どこで、どのような形で生じるかが問題である。ハマースを一時的に「根絶「したとしても、それによって、近い将来により大きな形で「パレスチナ問題」も戻ってくることは確実である。

 パレスチナ問題の拡大・過激化を伴う回帰や、国際社会における「イスラエル問題」への転化は、イランを中心とした「抵抗の枢軸」勢力を勢いづけることが予想される。これに対して、イラン側に同調する国内勢力への警戒からも、湾岸アラブ産油国は一方で米国とイスラエルの関係を維持し利用しつつ、他方で対イランでは、対峙と敵対だけでなく、宥和や接近を併用する、均衡政策を採用せざるを得なくなる。

 これらの不利な展開に対して、イスラエルは一方ではイランの影響下にあるヒズブッラーとの大規模な戦闘を定期的に行って北部国境の脅威を除去・制圧しつつ、ヒズブッラーだけでなくイエメンのフーシー派や、イラクの反米諸勢力などとの軍事的な衝突の頻度と烈度を高めていく可能性がある。その過程で、イランとの正面からの戦闘に踏み切る危険も増すだろう。イスラエルとイランの直接対決は、より強固な米国の支援をもたらすと考えられることから、イスラエル側から積極的に対立を激化させる、エスカレーションを進めるインセンティブが存在する。

 しかしイスラエルとイランの直接対決は、中東地域の不安定化を劇的に高めるため、世界経済への影響も大きい。何よりも、もしイスラエルとイランの全面戦争に巻き込まれることになれば、米国の軍事的負担や犠牲は大きく、国民の支持を長期間得られるとは限らない。そのため、全面衝突が本当に差し迫ったと認識されたときに、実際に米国の全面的な支持と関与を得られるかどうかは未知数である。イスラエルが中東での多正面の戦争を長期間にわたって続けることは、国際関係からも、そして内政・経済構造からも、困難を伴う。

 結局のところ焦点となるのは米・イスラエル関係である。



2024年9月30日月曜日

20240929 1848年のヨーロッパについて④

 1848年は、欧州全土において革命の嵐が吹き荒れ、政治的・社会的な大変革の年となりました。この「諸国民の春」とも呼ばれる革命運動は、欧州各地で異なる動機や背景を持ちながらも自由主義と民族主義という共通の思想に基づいていました。これまでの保守的な秩序が動揺し、ウィーン体制の崩壊が進む中で欧州は新たな国民国家形成の時代に突入していきます。

『革命の背景とヨーロッパの社会状況』
 19世紀前半の欧州はナポレオン戦争後のウィーン体制の下で比較的安定した状態にありました。この体制は、1815年のウィーン会議で決定されたものであり、基本としては、各国の勢力均衡を維持して、強固に君主制を支えるものでした。しかし、18世紀以来の産業革命の進展に伴い、各国で社会的な変化が急速に進み、都市部の労働者階級や中産階級が力を増していきます。また、自由主義と民族主義の思想が欧州全土に広まり、王政による専制政治に対する反発や民族独立への要求が高まっていきました。さらに、1845年から欧州を襲った深刻な飢饉は、社会不安を一層悪化させました。特にアイルランドでは、ジャガイモ胴枯れ病による大飢饉が発生し、100万人以上が命を落とし、多くの人々がアメリカへ移住しました。フランスやドイツでも食糧不足と物価高騰が起こり、経済的困窮が市民の不満を高め、そして革命への道筋を作っていきました。

『フランスの二月革命とその影響』
 こうした状況を背景として、1848年2月にフランスのパリで2月革命が勃発しました。これは労働者や市民が蜂起してルイ=フィリップ王の七月王政を崩壊させて、前世紀末の革命のように共和政を再び樹立し、第二共和政を成立させました。この二月革命はフランス国内に大きな政治的変革をもたらし、やがて、欧州各地においても労働者と市民が協力して王政支配による不平等に立ち向かう運動が強まり、一方で自由主義や共和政への期待が高まり、欧州各地で市民や労働者による蜂起が続発しました。

『ドイツ諸邦での自由主義運動と統一の夢』
 フランスの2月革命に影響を受けたドイツ諸邦でも、自由主義と民族主義を掲げる運動が活発化しました。当時のドイツは、小さな王国や公国が分立する状態であり、統一された国家ではありませんでした。そのため、多くのドイツ人はこれらの諸邦を一つにまとめ、統一されたドイツを夢見ていました。そうしたことから、1848年5月、ドイツ各地から選ばれた代表者がフランクフルトに集まり、フランクフルト国民議会が開催されました。彼らはドイツ統一を目指し、新しい憲法を作成しようと試みましたが、統一に向けた道は困難であり、国民議会内では、大ドイツ主義(オーストリアを含む統一)と小ドイツ主義(プロイセンを中心とする統一)で意見が分かれ、また、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は国民議会から提案された皇帝の地位を拒否しました。そのため、このドイツ統一運動は失敗に終わりますが、後のドイツ統一への重要な布石となりました。

『イタリアにおける統一運動とオーストリアとの戦争』
 同じく分断された状態にあったイタリアでも、1848年の革命が統一運動を加速させました。当時、イタリア半島はサルデーニャ王国やナポリ王国、教皇領など複数の小国に分かれており、オーストリア帝国がイタリア北部の支配権を握っていました。革命の波がイタリアに及ぶと、サルデーニャ王カルロ・アルベルトがオーストリアに対して戦争を宣言し、北イタリアの支配を取り戻そうとしました。この戦争では、ジュゼッペ・マッツィーニやジュゼッペ・ガリバルディといった革命家たちがイタリア統一を目指して活動しましたが、オーストリア軍の強力な反撃により敗北します。それでも、この革命はイタリア統一運動の萌芽となり、1861年にイタリア王国が誕生する土壌を作りました。

『オーストリア帝国とハンガリーの独立運動』
 オーストリア帝国は、ナポレオン戦争後の欧州で最も強力な保守的勢力を誇っていましたが、1848年には内部からの民族独立運動と外部からの革命の波に直面しました。ウィーンでは市民と学生が蜂起し、首相メッテルニヒが辞任に追い込まれました。この出来事は、ウィーン体制の弱体化を象徴するものでした。また同時に、オーストリア帝国内のハンガリーでも独立運動が激化し、ハンガリー人は独自の政府を樹立しました。しかし、オーストリア帝国はロシア帝国の援助を受け、最終的にハンガリー革命を鎮圧しました。このように、オーストリア帝国は一時的に支配を維持できましたが、内部の民族問題が大きな問題として次の世紀まで引き継がれることになりました。

『クリミア戦争とウィーン体制の終焉』
 1848年の革命後の欧州は一時的には安定を取り戻しましたが、1853年に勃発したクリミア戦争が再び欧州の情勢を大きく動揺させました。この戦争は、ロシア帝国がオスマン帝国領に進出しようとしたことをきっかけに始まりましたが、イギリス、フランス、オスマン帝国が連合してロシアに対抗しました。オーストリアは中立を保ちましたが、ロシアとの関係が悪化してウィーン体制による勢力均衡がさらに崩れていきました。そしてクリミア戦争の結果、ロシアのバルカン半島への進出が抑えられ、ウィーン体制は完全に崩壊しました。これにより欧州は次なる大きな変革、つまり国民国家の形成へと向かっていくことになります。

『革命の失敗とその後の影響』
 1848年の革命は、多くの国で保守勢力によって鎮圧され、短期的には失敗に終わりました。しかし、この革命がもたらした自由主義や民族主義の思想は、ヨーロッパの政治や社会に深い影響を与え続けました。ドイツやイタリアの統一運動は、まさに、この時期に芽生えたものであり、その後の19世紀後半には、それぞれ統一国家が誕生します。また、革命によって明らかになったのは、社会構造の変化と階級間の対立でした。労働者階級と中産階級の対立は深まり、これが後にマルクス主義や社会主義の思想を広めるきっかけとなります。こうした思想は、19世紀後半から20世紀にかけてヨーロッパ各地での労働運動や革命運動に繋がり、現代の社会運動の基盤となりました。

『欧州の近代化への道』
 1848年の革命は、欧州にとって大きな転換点でした。自由主義と民族主義の台頭は、各国で新たな政治運動を生み、専制的な君主制から国民国家へと向かう動きを加速させました。これにより欧州諸国は次第に近代化されて、民主主義の考えが浸透していきました。くわえて、この時期に広がった飢饉や経済的困窮が社会での問題を顕在化させ、労働者や市民が政治に参加する動きが強まったことも、現代の民主政治の基盤を作り上げた要因の一つと云えます。1848年の革命は、その直接的な成功には至らなかったものの、欧州の歴史において重要な役割を果たし、現在の国際政治や社会の枠組みを形成する基礎になったと云えます。

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~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

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2024年9月29日日曜日

20240929 株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」 pp.53-55より抜粋

株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」
pp.53-55より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582447074
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582447071

 1848年における基本的な対立は、二つの原理、すなわち王朝による国土所有の原理と国民主権の原理との対立であった。前者は封建制に起源を持ち、歴史的に発展して残ったもので、深く根付いているが、議論においては弁護しがたいものだった。これにたいして後者は、理性と思想に基づいているが、議論においては弁護しがたいものだった。これにたいして後者は、理性と思想に基づいており、単純で説得力があったが、化学的に純粋な水のように生きた有機組織には向かないものだった。1848年の同時代人にとって、王朝による所有原理は専断と専制政治を意味し、主権在民主義は人権と国民自治を意味した。大雑把に非常に単純化して言えば、この対立は当時の人びとには、合理対不合理、自由対反自由の対立と映ったのだった。

 議会制度を通して維持される英国型の代議制内閣責任制政体は、当時の人びとには、現実的にフランス革命の基本原理を保障するものと思われた。彼らは、所有原理が英国民の生活にいかに深く浸透しているかを理解していなかった。この国では、悪弊までもが買い戻し価格付き価格付きの自由保有権となる傾向があり、今日に至るまで、世襲制度が議員の選任にも及び、私法と公法の基本的な明確な区別も存在しないのである。王朝の所有権は、土地所有を中心とし、それを通して機能する。これにたいして、主権在民主義は、主として土地とは別に考慮される人びとの権利である。「フランス王」という称号は、この領地に基づく原理を強調していたが、「フランス人の王」という称号は、力点を人的要素に移し、人民主権に敬意を払うものだった。都市集中の増大と都市文明の成長は、領地に基づかないイデオロギーの発表を刺激するが、遊牧民の状態へ完全に戻るのでなければ、領地という基本的要素は排除できないのである。人びとの集団と土地の広がりとの相互作用を回避するすべはなく、この相互作用が歴史の本質を成しているのである。

 中欧では、王朝による国土所有の原理は、ハプスブルグ王朝に最も顕著に現われ、ドイツ連邦の弱小領邦諸国においてはその下手な模倣が見られた。どちらの場合も、主権を有する国民国家の基礎を提供しはしなかった。ハプスブルグ王朝では、そのような国家の出現は、住民の多様性によって妨げられた。「仲間意識の欠如のために」、これらの住民は、「彼らの自由を維持したり、最高の権威を有する世論を形成したりするために団結すること」ができなかった。彼らの団結の絆は、主として王朝によるものであった。フランクフルト議会の左派指導者の一人であるシュセルカは、1847年、この絆について次のように詳しく述べた。「・・・オーストリアの人びとは、・・・彼らの幸福な土地で、ハプスブルグ=ローレイン王室の歴史的に有効な世襲権を通して、一級の大国にまとまった。これがオーストリアである」。ここでは、1848年以降も、70年間、純粋な王朝による所有原理が生き続けた。この原理は、時どき、特定の国家的利益によって支えられたが、その構成分子の間の共同体感覚によって強化されることは一度もなかった。最後まで、オーストリア諸州は、王領地という意味ありげな呼称を用い続けた。一方で、ドイツ連邦の弱小領邦諸国は、国民的有機組織としての実質を欠いていた。準備議会が、フランクフルト国民議会の標準選挙区を住民五万人で一選挙区と規定した際には、この大きさを満たすことができないどんな領邦でも、独立した選挙区を構成すべきであるという寛容な但し書きが付け加えられた。幾つかの領邦の場合、そのちっぽけな領地は、幾つもの断片から成り立っていた。これらの断片は、実は大きな封建的地所であり、逆説的だが、主権国家としての優遇的地位を賦与されていた。ハプスブルグ王朝を頂点に、最下層のドイツ連邦弱小領邦諸国まで、王朝による国土所有の原理は、ドイツ、イタリア全土と、ドイツ諸王朝の強大なシンジケートを通して、ヨーロッパ大陸の大部分に浸透したかに見えた。メッテルニッヒは、ハプスブルグ王朝のために、王朝による所有の原理を意図的に促進した。それ故に、国民主権の原理を求める闘争ードイツやイタリアの統一、中東欧における諸々の小民族の勃興ーは、最初にして最大のハプスブルグ王朝にたいする闘争となったのである。

2024年9月24日火曜日

20240923 ウイルスや細菌などの微生物と免疫システムについて

 2020年以来世界に広まった新型コロナウィルス感染症の推移からも分かるように、微生物と人間との関係は、常に変化し続ける複雑なものです。ウイルスや細菌などの微生物は、数が多く、世代交代も非常に早いため、短期間で急速に進化します。これにより病原体は人間の免疫システムをすり抜ける方法を見つけ、それに対して人間もまた対抗する方法を見つけるといった、いわば「イタチごっこ」が展開されてきました。

 そうした、もう一つの具体例として「梅毒」が挙げられます。梅毒の病原体であるスピロヘータは、約500年前にカリブ海の小さな島から世界に拡散しました。この病原体は当初、非常に強い毒性を持っていましたが、時間の経過とともに毒性が弱まりました。これは、梅毒の病原体が宿主と長期間共存することで、より多くの人に感染を広げることができるよう進化した結果と云えます。つまり、強い毒性を持つ病原体は宿主がすぐに死亡するため、感染拡大の機会が減ってしまいます。そのため、病原体は毒性を適度に保ちつつ感染を持続させる形へと進化したのだと云えます。

 一方、すべての病原体が同様な進化の過程を経るわけではありません。たとえば狂犬病ウイルスのように、感染すると、ほぼ致命的になるものもあります。狂犬病ウイルスはイタチ類などの動物を自然の宿主とし、これらの動物に対しては無害ですが、人間や犬に感染すると高い致死率を持ち得ます。こうした病原体は、宿主間の移動が限られているため、強い毒性を保ったまま進化することが多い特徴があります。

 また、インフルエンザウイルスも同様に興味深い事例です。このウイルスは、頻繁にその表面の抗原を変化させるため、毎年のように新しい型が現れます。これにより、前の年にかかった人も新しい型には免疫を持っていないため、再び感染する可能性があります。これに対して人間の免疫システムは、病原体に対する抗体を作り、次の感染に備えます。このメカニズムを利用したのがワクチンです。ワクチンは死んだ病原体や弱毒化された病原体を体に取り入れることで、実際に病気になることなく免疫を獲得させる方法です。

 病原体の進化は環境条件や宿主の免疫状態によっても大きく影響されます。例えば、アフリカの一部の地域では、鎌型赤血球貧血症という遺伝子を持つ人々がマラリアに対して抵抗力を持っています。この遺伝子は赤血球の形を変え、マラリア原虫が赤血球の中で増殖しにくくするため、結果的に感染者の生存率を高めます。このように、特定の病気に対して遺伝的に耐性を持つ人々が生き残ることで、その地域の集団全体の病気に対する抵抗力が強化されていきます。

 しかし、この進化的適応が個々の人間にとって常に有益であるとは限りません。むしろ、集団全体の生存率を高めるために機能しているのです。例えば、鎌型赤血球貧血症の遺伝子はマラリアに対する抵抗力を提供しますが、ホモ接合型の場合、健康に重大な影響を及ぼすことがあります。同様に、テイ・サックス病や嚢包性線維症の遺伝子も、それぞれ結核や細菌性下痢に対する耐性を持つものの、それ自体が健康に影響を与える場合があります。

 病原体と人間の関係は、自然環境や社会的な条件によっても変わります。たとえば、交通手段が発達していなかった時代には、疫病の流行は地域的なもので、その地域を超えて広がることは少なかったでしょう。しかし、現代のように人々が頻繁に移動する社会では、感染症の拡大がより迅速かつ広範囲に及ぶことがあります。これは、病原体が新たな宿主を見つける機会を増やし、より広く感染を広げるチャンスを持つことを意味します。

 このように、病原体と人間の関係は、単なる生物学的な問題を超え、歴史的、社会的、環境的な要因が複雑に絡み合っています。微生物が進化し続ける限り、人間と病原体の戦いも終わりません。病原体が新しい感染経路や宿主を見つける一方で、人間も免疫システムの進化や医療技術の発展を通じてこれに対抗しています。この終わりなき戦いは、進化の最前線で続いているのです。

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