株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」
pp.140-145より抜粋
ISBN-10 : 4344986830
ISBN-13 : 978-4344986831
未来の医療技術の第一の柱は、ナノマシーンだ。これは、10万分の1メートル程度の大きさの機械である(これは細菌や細胞よりもひとまわり小さいウィルスのサイズである。なお、「ナノ」とは10のマイナス9乗を意味する言葉)。
これにより、血液の状態、ウィルスやHIVやガン細胞を検知する。そして、周囲には影響を与えずに、それらを殺したり、血栓を除去したりする。こうして、外科手術なしに治療が可能になる。また、目や耳の神経を入れ替えることも可能になる。
「細胞療法」で皮膚、骨、臓器を再生
未来の医療技術の第二の柱は、PSC(Pluripotent Stem Cell:多能性幹細胞)を用いる「細胞療法」だ。これが2030年頃から、一般の患者でも利用可能になると予測されている。
再生医療は、肝細胞薬を使うことで、疾患治療における新たな革命になっている。幹細胞薬とは、特定の疾患の薬として使用される生きた幹細胞ベースの製品だ。
幹細胞技術を使用すると、欠陥のある細胞や損傷・病気によって失われた細胞を置き換えるためのヒト細胞を提供することができる。つまり「細胞療法」であり、皮膚、骨、臓器などの身体の失われた部分を再生するのだ。
再生医療は、慢性肝疾患、糖尿病、神経変性疾患の治療などに活用できる。パーキンソン病、アルツハイマー病、虚血性脳障害、脊髄損傷、心不全、腎不全、糖尿病、黄斑変性症など、多くの病変の治療に応用できると期待されている。これが、従来の組織療法(tissue therapies)に取って代る。
前記の文献は、バイオプリンティング(bioprinting)が利用できるようになる夢のような未来の治療法を描いている。バイオプリンティングとは、人体の組織や臓器を製造することだ。
生きた細胞や生の生体材料を用い、コンピュータ支援の3次元プリンティング技術を利用することによって、複雑な3次元構造を製造ずるのだ。
こうなると人々は、病院に行ってDNAサンプル(口腔粘膜細胞から抽出できるのだろう)を示すだけでよい。そして、即座に、その人の遺伝子に合った細胞を入手できるようになる。これは、その人が必要とする用途に使える。例えば、腎臓、皮膚移植などだ。
「ゲノム編集」でアルツハイマー病に対処
未来の医療技術の第三の柱は、「ゲノム編集」(Gene editing)だ。
2012年に重要な発見がなされた。それまでの「遺伝子組み換え」ではなく、遺伝子を「編集する」という新しい技術が開発されたのだ。
これによって、ゲノム編集が可能となった。これは、生物が持つゲノムDNA上の特定の塩基配列を狙って変化させる技術だ(「ゲノム:genome」とは、生物の持つ遺伝子geneの全体。これはDNAという物質で構成されている)。ゲノム編集技術の基礎研究を行った科学者2人は、2020年にノーベル化学賞を受賞した。
「遺伝子組み換え」とは、別の生物から取り出した遺伝子を導入することにより、細胞に新たな形質をつけ加える技術だった。
それに対して、「ゲノム編集」では、遺伝子を切ったりつなげたりする。狙った性質の遺伝子だけを編集することができるため、優れた特徴を持つ品種に新たな性質をピンポイントで追加できるようになった。
「遺伝子組み換え」では、外来の遺伝子を細胞に導入して新しい軽質をつけ加えるのだが、「ゲノム編集」では、細胞が元々持っている性質を細胞内部で変化させる。今後数十年の間に、この技術を用いたさまざまな医療の開発が期待されている。
遺伝性心疾患を、根本的に遺伝子から治すための遺伝子治療法への応用がある。血液ガンを対象とした「CAR-T療法(T細胞療法)」という治療法が、日本でも保険適応となった。白血病をはじめとする各種ガンの新規治療法にも期待が高まっている。
ゲノム編集を用いた治験は、アメリカた中国で多数行われている。いくつかの遺伝性疾患に対して治験も始まっている。そのほとんどが、ガンや感染症に対するものだ。
今後は、視力や聴力を失った人、アルツハイマー病、パーキンソン病の治療も可能になるのではないかと期待されている。
AIの活用で病変の見落としを防ぐ
未来の医療技術の第四の柱は、医療分野でのAIの利用だ。
医療の現場にはCTスキャン画像、MRI(磁気共鳴画像装置)画像、レントゲン画像などさまざまな画像がある。ところが、検査数に対して、読影医が不足している。したがって、AIに期待されるところが大きい。AIの画像認識が用いられるようになれば、素早く、低コストで診断できる。
また、医師によって読影判定にバラツキが起こることもあって、正しい判断がされていない可能性もある。AIによる自動診断は医師の負担を減らし、病変の見落としも防げる。
正常な状態との差異を判別できる画像認識技術によって、病気を判別できる。とりわけ、ガンの発見に威力を発揮する。ビッグデータを扱ったAI利用は、医師の目や耳、脳の能力を拡張できるとされる。
2023年12月11日月曜日
20231210 株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」pp.226‐229より抜粋
株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」pp.226‐229より抜粋
ISBN-10 : 4106038951
ISBN-13 : 978-4106038952
ISBN-10 : 4106038951
ISBN-13 : 978-4106038952
アフガニスタンでの作戦は、NATOにとって重大であり、二〇〇〇年代半ばからの一〇年間、NATOの変革の原動力になったのはISAFだった。豪州や日本を含むパートナー諸国との関係が強化されたのもアフガニスタンがきっかけであったし、安全保障と開発のリンクに関連して「包括的アプローチ」が唱えられたのも、国連やEUとの協力が模索されたのも、すべてこの文脈だった。
アフガニスタンがなければ、NATOがここまで変革を遂げることもなかった。
一方的な米国に噴出する憤り
そうしたなかでの、米国による一方的な撤退方針の決定だったため、欧州諸国は憤ったのである。バイデン政権は、撤退に関するトランプ政権の決定事項を引き継いだのみという立場だった。しかし、同盟国軽視のトランプ政権とは異なり、バイデン政権の基本方針は前項でみたように、「ともに協議し、ともに決定し、ともに行動する」だったはずである。それと、アフガニスタン撤退のプロセスの相違は非常に大きい。
なかでも最も大きな衝撃を受けているのだ、米国の最も緊密な同盟国を自任し、米国に次ぐ規模のアフガニスタン関与をおこなってきた英国である。八月一比に休暇を中断して開かれた下院本会議では、野党のみならず、伝統的に米国との同盟関係を重視してきた与党保守党の議員からも、ジョンソン政権の対応に加え、米国に対する厳しい批判が渦巻くことになった。
例えばメイ(Theresa May)元首相は、「我々のインテリジェンスはそんなに貧弱だったのか?」、「我々のアフガン政府理解はそんなに不足していたのか?」、「米国に従う他なかったのか?」とジョンソン首相(当時)に迫った。さらに、今回の件は、「NATOをいかに運営するかの再検討を迫るものだ」とした。
陸軍兵士としてアフガニスタンに派遣された経験を持つ下院外交委員長のトゥーゲンハート(Tom Tugendhat)議員は、カブール陥落で「怒り、悲嘆、憤怒」の感情に包まれたとしたうえで、しかし「(我々がこのように)敗北する必要はなかった」と述べた。そして、一連の過程の教訓として、「我々は、たった一つの同盟国、たった一人の指導者の決定に依存しなくて済む新たなビジョン」を構想できるはずだ、と述べた。戦場で仲間を失った当事者としても、バイデン政権の一方的対応に振り回されたことへの怨嗟の念があらわれていた。
バイデン大統領が八月一六日の演説で、アフガニスタンでの作戦における同盟国の貢献にまったく触れなかったことも、欧州にとっては衝撃的だった。バイデン政権としては、まずは国内の批判に応えることが、内政上不可欠だったのだろう。そうした事情は分からないでもない。しかし、アフガニスタン作戦は米国のみのものではなく、同盟国の貢献に謝意を示すのは、外交上最低限求められる姿勢だったのではないか。
そうした批判を考慮したのか、八月二〇日の演説と会見では、「アフガニスタンは二〇年にわたり、NATOの同盟国との共同の努力だった」などと述べている。しかし、「後付け感」しか残らないというのが欧州の当事者にとっての偽らざる受け止め方であろう。
さらにバイデンは、「アフガニスタンにおける我々のミッションが国家建設であったことは一度もない」(八月一六日)と主張し、「アル・カイダがいなくなった現在、アフガニスタンにどのような我々の利益があるというのだ?」(八月二〇日)とまでいい切った。米国とともに戦い、アフガニスタンの国家建設にともに尽力してきた欧州にとっては、ほとんど侮辱とでもいってよい発言であろう。
米国がアフガニスタンの国家建設を目的にしたことがないとの主張に対して、ボレル(Joseph Borrell)EU外交・安全保障政策上級代表は、欧州会議での審議で、「それは議論の余地がある。我々はアフガニスタンで国家を建設するために多くのことをやってきた。法の支配や基本的人権を遵守する国家を目指してきた」と反論した。
国会建設など目指したことがないといわれてしまっては、我々の努力は何だったのかということになってしまう。実際米国は、アフガニスタン国軍への装備と訓練の支援で主導的な役割を長年果たしてきた。新たな国家にとって、国軍建設はまさに国家建設の中核だったはずであり、米国も国軍の重要性を理解していたがゆえに支援してきたのである。
2023年12月9日土曜日
20231209 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.142-144より抜粋
一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.142-144より抜粋
ISBN-10 : 4130820915
ISBN-13 : 978-4130820912
ISBN-10 : 4130820915
ISBN-13 : 978-4130820912
古代と中世との分水嶺ともいわれる保元・平治の乱であるが、その原因をつくった白河院は熱狂的な仏教崇拝者であった。承歴元年(1077)かれは法勝寺を洛東白河に建てたが、「扶桑略記」によれば、この寺の金堂は七間四面瓦葺きで、金色三丈二尺の廬舎那仏を安置した。阿弥陀堂は十一間四面瓦葺きで、金色丈六の阿弥陀如来九体を安置した。他に、南大門には二丈の金剛力士が寺の守護として置かれた。
さらに永保元年(1081)には、高さ推定二七丈(80メートル)ある奇抜な八角九重塔が建てられた。かつての四天王寺式伽藍配置さながらに諸堂が一直線に並んだこの寺を、林屋辰三郎は「国家的な強大な意識」に基づくものであったとし
三十三間堂、足利義満の相国寺の大塔、織田信長の安土城など、権力の生み出す奇抜な建造物の系譜の上に法勝寺を置く。白河院はほかにも尊勝寺、最勝寺、円勝寺などを造営し、一代での造像は五四七〇余体、うち丈六仏は六〇〇以上あったと記録される。
後白河院もまた仏法に熱心だった。往復に一カ月かかる熊野詣でを生涯に三四度行ったという。当時の流行歌である今様に凝って、それを集めた「梁塵秘抄」(一一六九)をつくっている。好奇心のかたまりである院は、ある日突然町中の蒔絵師の仕事場を見に行き周囲を当惑させたり、平清盛に招かれ福原まで宋人を見に行ったりしている。三十三間堂の前身である蓮華王院の宝蔵は、院の集めたさまざななコレクションを収める建物で、そこは、年中行事絵巻約六〇巻、六道絵など絵巻の宝庫でもあった。
これら、個性的で奔放な院の行状は象徴するように、院政時代の文化は、古代の幕を引き中世の開始を告げる過渡期にふさわしい変化に富んだ様相を示している。それは第一に、鴨長明(一一五五~一二一六)の「方丈記」に要約されているような、末世到来を嘆く隠遁思想の流行する時代であった。第二に、受領大江匡房が、「永長の大田楽」(一〇九六)の仮装を見て、「その装束、美を尽くし善を尽くし、彫るが如く磨くが如し、金繍を以て衣となし、金銀をもって飾となす」と評したように、遊戯とかざりの時代であった。第三に、美の時代であり、美形を追究した時代であった。仏の相好には美形が求められ、検非違使の資格にも美形が求められた。美麗の反対が疎荒である。第四に、激動する過渡期の現実に揺れ動く不安の心は六道絵に代表されるような、美とうらはらの醜への関心=リアリズムを生んだ。
「財産の惜しみない濫費、行楽と寺院の濫立」、「古代国家の歴史にその比をみない悪徳と腐敗が支配層を風靡するにいたった」と、石母田正はこの時代を評する。だが、そのような道徳的な視点を離れて美術に主眼を置けば、美への傾倒の一方で、病や餓鬼、地獄のいうな醜とグロテスクの世界からも目をそむけることのなかった院政時代の文化と美術は、奥行きがあり、稀に見る多産で創造性に富んだものということができる。
全体的にみて、院政時代の美は、前期と後期とで多少性格を異にしている。前記は藤原美術をより繊細化し耽美化したといえるような時期であり、「源氏物語絵巻」、「平家納経」、「三十六人家集」などがこの時期の産物である。後期になると、これと異なる粗削りな要素を持った「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」などがあらわれ、運慶もこの中に入れてよいかもしれない。後白河院の行状に見られるような、異常なもの奇矯なものへの興味が「六道絵」や「病草紙」に見られ、民衆的なものへの興味もそこに示されている。絵仏師の宮廷画家化により、その表現力が宮廷美術に影響を与えた点も指摘できる。宋美術の輸入にともなう影響があらわれ始めたのもこの時期である。
さらに永保元年(1081)には、高さ推定二七丈(80メートル)ある奇抜な八角九重塔が建てられた。かつての四天王寺式伽藍配置さながらに諸堂が一直線に並んだこの寺を、林屋辰三郎は「国家的な強大な意識」に基づくものであったとし
三十三間堂、足利義満の相国寺の大塔、織田信長の安土城など、権力の生み出す奇抜な建造物の系譜の上に法勝寺を置く。白河院はほかにも尊勝寺、最勝寺、円勝寺などを造営し、一代での造像は五四七〇余体、うち丈六仏は六〇〇以上あったと記録される。
後白河院もまた仏法に熱心だった。往復に一カ月かかる熊野詣でを生涯に三四度行ったという。当時の流行歌である今様に凝って、それを集めた「梁塵秘抄」(一一六九)をつくっている。好奇心のかたまりである院は、ある日突然町中の蒔絵師の仕事場を見に行き周囲を当惑させたり、平清盛に招かれ福原まで宋人を見に行ったりしている。三十三間堂の前身である蓮華王院の宝蔵は、院の集めたさまざななコレクションを収める建物で、そこは、年中行事絵巻約六〇巻、六道絵など絵巻の宝庫でもあった。
これら、個性的で奔放な院の行状は象徴するように、院政時代の文化は、古代の幕を引き中世の開始を告げる過渡期にふさわしい変化に富んだ様相を示している。それは第一に、鴨長明(一一五五~一二一六)の「方丈記」に要約されているような、末世到来を嘆く隠遁思想の流行する時代であった。第二に、受領大江匡房が、「永長の大田楽」(一〇九六)の仮装を見て、「その装束、美を尽くし善を尽くし、彫るが如く磨くが如し、金繍を以て衣となし、金銀をもって飾となす」と評したように、遊戯とかざりの時代であった。第三に、美の時代であり、美形を追究した時代であった。仏の相好には美形が求められ、検非違使の資格にも美形が求められた。美麗の反対が疎荒である。第四に、激動する過渡期の現実に揺れ動く不安の心は六道絵に代表されるような、美とうらはらの醜への関心=リアリズムを生んだ。
「財産の惜しみない濫費、行楽と寺院の濫立」、「古代国家の歴史にその比をみない悪徳と腐敗が支配層を風靡するにいたった」と、石母田正はこの時代を評する。だが、そのような道徳的な視点を離れて美術に主眼を置けば、美への傾倒の一方で、病や餓鬼、地獄のいうな醜とグロテスクの世界からも目をそむけることのなかった院政時代の文化と美術は、奥行きがあり、稀に見る多産で創造性に富んだものということができる。
全体的にみて、院政時代の美は、前期と後期とで多少性格を異にしている。前記は藤原美術をより繊細化し耽美化したといえるような時期であり、「源氏物語絵巻」、「平家納経」、「三十六人家集」などがこの時期の産物である。後期になると、これと異なる粗削りな要素を持った「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」などがあらわれ、運慶もこの中に入れてよいかもしれない。後白河院の行状に見られるような、異常なもの奇矯なものへの興味が「六道絵」や「病草紙」に見られ、民衆的なものへの興味もそこに示されている。絵仏師の宮廷画家化により、その表現力が宮廷美術に影響を与えた点も指摘できる。宋美術の輸入にともなう影響があらわれ始めたのもこの時期である。
2023年12月8日金曜日
20231207 日本放送出版協会刊 山折哲雄著「日本人の顔ー図像から文化を読む」pp.106-108より抜粋
日本放送出版協会刊 山折哲雄著「日本人の顔ー図像から文化を読む」pp.106-108より抜粋
ISBN-10 : 4140015012
ISBN-13 : 978-4140015018
ところで、さきの義朝や重成が登場する「平治物語」は「保元物語」と同様、早くから琵琶法師によって語られたが、そのうちとくに「平治物語」の場合は「平治物語絵巻」がのこされ、鎌倉時代の姿をそのまま伝えている。画風は十三世紀半ばにさかのぼるといわれ、かなりの数のものが各所に分散して伝えられてきた。これらの絵巻は、合戦場面における人間の姿を躍動するような筆致で活写し、軽快なリズムと華麗な色彩によって戦闘の悲惨な修羅場を描き切っている。それは戦争描写の傑作の一つといっていいものであるが、そのいくつかの合戦場面をみていて気づかされるのは、武士たちの頭頂部や顔の圧倒的な量感と、かれらの変化に富む表情のたくましさである。眼光の鋭さはもとよりのこと、大きな口許が決死の勢いで真一文字にひきしめられ、また裂けんばかりに大きく咆哮している。
が、そのなかでもとくに私の目を奪うのは、その鼻の表現である。ここでは、六波羅の邸から出陣する平清盛を描いた場面(個人蔵)をみてみよう。とくにその清盛と、かれらを取り囲む武将たちの顔面の中央に描かれている鼻の躍動感はどうであろう。高く盛りあがった鼻、口許まで垂れ下がるような長いずんぐりした鼻、両翼を広げて大きな鼻孔をつけた鼻・・。ここに描かれている武将たちの鼻は、あえて誇張したいい方をすれば、その顔の中央部を広々と占拠し、顔そのものの象徴物と化しているような印象を見るものに与えずにおかないのである。そのような鼻は、前代までの貴族たちの顔のうえにはけっしてあらわれることのなかった鼻である。
そのことを確かめるために、ここで「平治物語絵巻」からもう一枚の絵を掲げてみることにしよう。「六波羅行幸の巻」(国宝、東京国立博物館蔵)がそれであるが、これは女装して御所を脱出する二条天皇と、それを源氏の兵士たちが見とがめている場面である。牛車のスダレをあげてのぞきこんでいる兵士たち。その兵士たちを制止して、車のなかにいるものはけっして怪しい者ではないといっているらしくみえる一人の貴族。かれはおそらく天皇の近侍をつとめる者なのであろう。その貴族にたいして疑いのまなざしを向け、いまや剣を抜こうとしている兵士、そしてもう一人弓をつがえようとしている兵士がいる。この切迫した一瞬の場面に目を近づけてみよう。あい対する貴族と雑兵の顔の顔の中央部を注視してみよう。剣を抜こうとしている兵士の鼻が高く鋭く突き出るように描かれ、弓矢をもつもののそれが団子鼻の形で盛りあがってみえるのにたいして、貴族の鼻はうっすらと軽いタッチで小さく描かれているにすぎない。貴族の方の表情のつくりが、いわゆる「源氏物語絵巻」の登場人物にならって「引目鉤鼻」の手法をうけつぐ形で処理されていることはいうまでもないだろう。その様式的な鉤鼻が、雑兵たちの鼻の個性的な変化とみごとな対照をみせているのである。貴族の白面が全体としてもうろうとした雰囲気のなかで、あたかもあるかなきかの目鼻立ちで点じられているのにたいして、雑兵の褐色の顔面はすべて、意志と感情をむき出しにするくっきりした輪郭線によってとらえられている。そしてその輪郭線に一つのまとまりを与えている部分がその巨大な鼻なのである。このような傾向は、このほかの合戦絵巻にもみられ、そこに登場する武士たちの場合にも大なり小なりあてはまることはいうまでもない。
あえて極端ないい方をするならば、中世に新興の勢力として時代の前面に押し出してきた武士集団は、その顔面の中央部を占める鼻の大胆な造型において、前代の貴族の時代から明確に区別される存在として意味づけられねばならぬ、と私は思う。むろん多くの合戦絵巻に登場する武士たちの姿といえども、前代の貴族たちのそれのように、いまだ様式的な表現世界から脱けでてはいなかった。そこには、近代的な意味における写実の枠組からだけでは律しきれない法則がはたらいてもいる。しかしながら、そのことを認めたうえでのことであるが、それでもない貴族たちの鼻の描法と武士たちのそれとのあいだには、越えがたい大きな溝がつくられていたというほかないのである。貴族と武士についての認識の尺度に重要な径庭が存しているのである。
ISBN-13 : 978-4140015018
ところで、さきの義朝や重成が登場する「平治物語」は「保元物語」と同様、早くから琵琶法師によって語られたが、そのうちとくに「平治物語」の場合は「平治物語絵巻」がのこされ、鎌倉時代の姿をそのまま伝えている。画風は十三世紀半ばにさかのぼるといわれ、かなりの数のものが各所に分散して伝えられてきた。これらの絵巻は、合戦場面における人間の姿を躍動するような筆致で活写し、軽快なリズムと華麗な色彩によって戦闘の悲惨な修羅場を描き切っている。それは戦争描写の傑作の一つといっていいものであるが、そのいくつかの合戦場面をみていて気づかされるのは、武士たちの頭頂部や顔の圧倒的な量感と、かれらの変化に富む表情のたくましさである。眼光の鋭さはもとよりのこと、大きな口許が決死の勢いで真一文字にひきしめられ、また裂けんばかりに大きく咆哮している。
が、そのなかでもとくに私の目を奪うのは、その鼻の表現である。ここでは、六波羅の邸から出陣する平清盛を描いた場面(個人蔵)をみてみよう。とくにその清盛と、かれらを取り囲む武将たちの顔面の中央に描かれている鼻の躍動感はどうであろう。高く盛りあがった鼻、口許まで垂れ下がるような長いずんぐりした鼻、両翼を広げて大きな鼻孔をつけた鼻・・。ここに描かれている武将たちの鼻は、あえて誇張したいい方をすれば、その顔の中央部を広々と占拠し、顔そのものの象徴物と化しているような印象を見るものに与えずにおかないのである。そのような鼻は、前代までの貴族たちの顔のうえにはけっしてあらわれることのなかった鼻である。
そのことを確かめるために、ここで「平治物語絵巻」からもう一枚の絵を掲げてみることにしよう。「六波羅行幸の巻」(国宝、東京国立博物館蔵)がそれであるが、これは女装して御所を脱出する二条天皇と、それを源氏の兵士たちが見とがめている場面である。牛車のスダレをあげてのぞきこんでいる兵士たち。その兵士たちを制止して、車のなかにいるものはけっして怪しい者ではないといっているらしくみえる一人の貴族。かれはおそらく天皇の近侍をつとめる者なのであろう。その貴族にたいして疑いのまなざしを向け、いまや剣を抜こうとしている兵士、そしてもう一人弓をつがえようとしている兵士がいる。この切迫した一瞬の場面に目を近づけてみよう。あい対する貴族と雑兵の顔の顔の中央部を注視してみよう。剣を抜こうとしている兵士の鼻が高く鋭く突き出るように描かれ、弓矢をもつもののそれが団子鼻の形で盛りあがってみえるのにたいして、貴族の鼻はうっすらと軽いタッチで小さく描かれているにすぎない。貴族の方の表情のつくりが、いわゆる「源氏物語絵巻」の登場人物にならって「引目鉤鼻」の手法をうけつぐ形で処理されていることはいうまでもないだろう。その様式的な鉤鼻が、雑兵たちの鼻の個性的な変化とみごとな対照をみせているのである。貴族の白面が全体としてもうろうとした雰囲気のなかで、あたかもあるかなきかの目鼻立ちで点じられているのにたいして、雑兵の褐色の顔面はすべて、意志と感情をむき出しにするくっきりした輪郭線によってとらえられている。そしてその輪郭線に一つのまとまりを与えている部分がその巨大な鼻なのである。このような傾向は、このほかの合戦絵巻にもみられ、そこに登場する武士たちの場合にも大なり小なりあてはまることはいうまでもない。
あえて極端ないい方をするならば、中世に新興の勢力として時代の前面に押し出してきた武士集団は、その顔面の中央部を占める鼻の大胆な造型において、前代の貴族の時代から明確に区別される存在として意味づけられねばならぬ、と私は思う。むろん多くの合戦絵巻に登場する武士たちの姿といえども、前代の貴族たちのそれのように、いまだ様式的な表現世界から脱けでてはいなかった。そこには、近代的な意味における写実の枠組からだけでは律しきれない法則がはたらいてもいる。しかしながら、そのことを認めたうえでのことであるが、それでもない貴族たちの鼻の描法と武士たちのそれとのあいだには、越えがたい大きな溝がつくられていたというほかないのである。貴族と武士についての認識の尺度に重要な径庭が存しているのである。
2023年12月7日木曜日
20231206 株式会社藤原書店 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」pp.303-305より抜粋
株式会社藤原書店 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」pp.303-305より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063
竹山道雄は一九三七(昭和十二)年七月「思想」のために「将軍達と「理性の詭計」という一文を寄稿した。日支事変勃発の直前である。その中にこんな軍人たちの生な印象が記されている。「以前」とは昭和九年三月、岡田良平の葬儀の時にちがいない。
以前A将軍をすぐ傍で見たことがあった。将軍は威厳が頂上にあって、市中いたるところに彼の肖像が貼り出してある頃だった。青山斎場の天幕の中に、現在は外地の総督であるM大将と並んで入って来た。このM将軍は顔に酒焼けの桃色の斑がしみ出していて肥満した身体をもてあますように、一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた。どこか威厳と狡智がでたらめに溢れでている人だった。A将軍の方は反対に痩せていた。小さな目が三角に垂れ下がった目蓋の下からぎらぎら光っていた。条目のきちんとした清潔な服を着て、あたりを見廻しながら悠々と歩いていた。この二人が軍服に金色を燦かして入って来たときは、周囲は動揺した。礼服を着た人々は傍にしりぞいた。二人の将軍は大勢の中にできた空地に立って、四方から視線を浴びながら、二人丈で低い声で話していた。
ことにA将軍の方は一見して異常な印象をあたえる人だった。躯幹は見窄らしい方で、長いあいだ病床にいた人のような蒼白い顔色をしていた。有名な髭はむしろ疎だった。ただその筋ばった身体全体に、どことなく病的なデーモニッシュな、鬼気といったようなものがあった。
一人の外交官らしい背の高い西洋人がA将軍の前に立って挨拶した。彼の栄養のいい顔にはみちたりて生活を楽しむ人のような表情があった。将軍は白い手袋をはめた手をさしだして握手した。すこしも感情も交らない直線的な挙止だったが、また意外にものなれた外交的なところもあった。かたく手を握られると、西洋人はなぜか急にどぎまぎした。彼が私の前を通ったとき、美しい顔には恟えたような困惑の色が浮かんでいた。彼は弁解するように口の中で呟きながら、足早にそこを去って行った。
将軍は私がじっと見つめているのに気がついて、はじめてちらと横目で私の方を見たが、そのうち色の変った歯並をあらわにしてにやりと笑った、皺の多い微笑はほとんど醜かった。そうして、その中に真率、狂信、奸譎、決意、そんなものの混った複雑な感じがあった。
一読してA将軍が荒木貞夫陸軍大将であるとわかる。荒木は一九三一(昭和六)年、犬養内閣の陸相に就任、観念的・精神主義的な革新論と反ソ反共論を説いて人気があった。皇道派の首領として勢威をふるった。一九三六(昭和十一)年、二・二六事件で反乱軍に同情的態度をとり、予備役に編入されたが、竹山は執筆の昭和十二年の時点で三年前の荒木を振返り、その肖像(ポルトレ)を描いたのである。三十歳前後の竹山の観察だが、鋭く大胆な人間把握である。「現在は外地の総督であるM大将」が南次郎将軍であることも一読してそれとわかるが、二・二六事件後、予備役に編入された。陸軍大将ともあろう人が肥満して「一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた」と外面描写されたら、それがありのままの姿であろうとも、こう描かれては軍人の体面にかかわるだろう。まして「どこか威力と狡智がでたらめに溢れでている」という内面描写にいたっては「でたらめ」の語が効き過ぎている。しかもこの文章は昭和十一年、代々木原の横を歩いていた竹山に誰かが小声で「あのバラックの中に・・・入れられているのですぜ」と囁く場面から始まる。代々木原とはいまNHKがある辺りの原っぱで当時は軍の練兵場として使用されており、代々木八幡から原宿に通じる道はなく、一般人は入れもせず通り抜けできなかった。竹山は代々木大山の家から渋谷へ歩いて行くときは、この代々木原の練兵場の裏手に沿って歩いたのだろう。その柵の向うの丘のバラックに二・二六事件の首謀者が収容され死刑を待っていたのである。
将軍達と「理性の詭計」
竹山は荒木について「悲劇的な最後をしそうな人だなあ」と思った。「破壊的なエレメンタルな力を蔵した一つの観物だ」そんな気がして眺めていた。「この人は、満州で事変が起ってしかも世の中が自由主義で唯物的だった頃、一方の勢力の輿望を負って九州から上京して、陸軍大臣になった。そうして歴史の動きを変えるほどの権勢を振るった。しかしその後に、彼自身のまきおこしたーあるいは彼を動かしたー力のゆきすぎた行動のために失脚した」。個々の人間、個々の勢力は、かれらの特殊目的を果たそうと努めるが、実はかれらのあずかりしらざる超個人的な力の手段であり、道具であるにすぎぬ。これをヘーゲルと共に「理性の詭計」というが、竹山は皇道派の将軍のペリペティ(筋の逆転)を「理性の詭計」だと観察した。
ISBN-13 : 978-4894349063
竹山道雄は一九三七(昭和十二)年七月「思想」のために「将軍達と「理性の詭計」という一文を寄稿した。日支事変勃発の直前である。その中にこんな軍人たちの生な印象が記されている。「以前」とは昭和九年三月、岡田良平の葬儀の時にちがいない。
以前A将軍をすぐ傍で見たことがあった。将軍は威厳が頂上にあって、市中いたるところに彼の肖像が貼り出してある頃だった。青山斎場の天幕の中に、現在は外地の総督であるM大将と並んで入って来た。このM将軍は顔に酒焼けの桃色の斑がしみ出していて肥満した身体をもてあますように、一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた。どこか威厳と狡智がでたらめに溢れでている人だった。A将軍の方は反対に痩せていた。小さな目が三角に垂れ下がった目蓋の下からぎらぎら光っていた。条目のきちんとした清潔な服を着て、あたりを見廻しながら悠々と歩いていた。この二人が軍服に金色を燦かして入って来たときは、周囲は動揺した。礼服を着た人々は傍にしりぞいた。二人の将軍は大勢の中にできた空地に立って、四方から視線を浴びながら、二人丈で低い声で話していた。
ことにA将軍の方は一見して異常な印象をあたえる人だった。躯幹は見窄らしい方で、長いあいだ病床にいた人のような蒼白い顔色をしていた。有名な髭はむしろ疎だった。ただその筋ばった身体全体に、どことなく病的なデーモニッシュな、鬼気といったようなものがあった。
一人の外交官らしい背の高い西洋人がA将軍の前に立って挨拶した。彼の栄養のいい顔にはみちたりて生活を楽しむ人のような表情があった。将軍は白い手袋をはめた手をさしだして握手した。すこしも感情も交らない直線的な挙止だったが、また意外にものなれた外交的なところもあった。かたく手を握られると、西洋人はなぜか急にどぎまぎした。彼が私の前を通ったとき、美しい顔には恟えたような困惑の色が浮かんでいた。彼は弁解するように口の中で呟きながら、足早にそこを去って行った。
将軍は私がじっと見つめているのに気がついて、はじめてちらと横目で私の方を見たが、そのうち色の変った歯並をあらわにしてにやりと笑った、皺の多い微笑はほとんど醜かった。そうして、その中に真率、狂信、奸譎、決意、そんなものの混った複雑な感じがあった。
一読してA将軍が荒木貞夫陸軍大将であるとわかる。荒木は一九三一(昭和六)年、犬養内閣の陸相に就任、観念的・精神主義的な革新論と反ソ反共論を説いて人気があった。皇道派の首領として勢威をふるった。一九三六(昭和十一)年、二・二六事件で反乱軍に同情的態度をとり、予備役に編入されたが、竹山は執筆の昭和十二年の時点で三年前の荒木を振返り、その肖像(ポルトレ)を描いたのである。三十歳前後の竹山の観察だが、鋭く大胆な人間把握である。「現在は外地の総督であるM大将」が南次郎将軍であることも一読してそれとわかるが、二・二六事件後、予備役に編入された。陸軍大将ともあろう人が肥満して「一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた」と外面描写されたら、それがありのままの姿であろうとも、こう描かれては軍人の体面にかかわるだろう。まして「どこか威力と狡智がでたらめに溢れでている」という内面描写にいたっては「でたらめ」の語が効き過ぎている。しかもこの文章は昭和十一年、代々木原の横を歩いていた竹山に誰かが小声で「あのバラックの中に・・・入れられているのですぜ」と囁く場面から始まる。代々木原とはいまNHKがある辺りの原っぱで当時は軍の練兵場として使用されており、代々木八幡から原宿に通じる道はなく、一般人は入れもせず通り抜けできなかった。竹山は代々木大山の家から渋谷へ歩いて行くときは、この代々木原の練兵場の裏手に沿って歩いたのだろう。その柵の向うの丘のバラックに二・二六事件の首謀者が収容され死刑を待っていたのである。
将軍達と「理性の詭計」
竹山は荒木について「悲劇的な最後をしそうな人だなあ」と思った。「破壊的なエレメンタルな力を蔵した一つの観物だ」そんな気がして眺めていた。「この人は、満州で事変が起ってしかも世の中が自由主義で唯物的だった頃、一方の勢力の輿望を負って九州から上京して、陸軍大臣になった。そうして歴史の動きを変えるほどの権勢を振るった。しかしその後に、彼自身のまきおこしたーあるいは彼を動かしたー力のゆきすぎた行動のために失脚した」。個々の人間、個々の勢力は、かれらの特殊目的を果たそうと努めるが、実はかれらのあずかりしらざる超個人的な力の手段であり、道具であるにすぎぬ。これをヘーゲルと共に「理性の詭計」というが、竹山は皇道派の将軍のペリペティ(筋の逆転)を「理性の詭計」だと観察した。
2023年12月6日水曜日
20231205 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.321-323より抜粋
岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.321-323より抜粋
ISBN-10 : 4003226216
ISBN-13 : 978-4003226216
現実逃避 ナショナリストはすべて、そっくりの事実をいくつ見ても、それら相互の類似性を認めないという特技を持っている。英国の保守党員は、ヨーロッパでの民族自決主義なら擁護するくせに、インドのそれに反対して、これを矛盾だとは思わない。行為の善悪を判定する基準はその行為自体の功罪ではなく、誰がやったかという点であって、拷問、人質、強制労働、強制的集団移住、裁判なしの投獄、文書偽造、暗殺、非戦闘員にたいする無差別爆撃ーこうしたいかなる無法きわまる行為でも、それをやったのが「味方」だとなれば、まずたいていのばあいは道徳的な意味が微妙に変わってしまうのだ。自由党系の「ニューズ・クロニクル」が、恐るべき残虐行為だとして、ドイツ人によって絞首刑にされたロシア人の写真を掲載したことがあったが、その一、二年後にこれとほとんど同じ、ロシア人の手で絞首刑にされたドイツ人の写真を掲載したときには、熱烈に称賛したのだった。歴史上の事件についても同じである。歴史は、多分にナショナリスチックな観点から見られているのだ。異端審問所とか、星法院(一四八七-六一の、英国の高等裁判所、陪審がなかった)による拷問とか、英国の海賊の手柄(例えばサー・フランシス・ドレイクは、スペイン人の捕虜を生きているまま海中に投じたと言われる)とか、フランス革命における恐怖時代だとか、何百人というインド人を大砲につめてぶっ放した、ベンガルの反乱(1857-58)鎮圧の英雄たちとか、アイルランドの女たちの顔を剃刀で切ったクロムウェルの兵士たちとかーこんなことも、「正義」のためだったということにさえなってしまう。過去二十五年をふりかえってみると、世界のどこかで残虐行為の行われた報道がなかった日は、ほとんど一日もない。ところがスペインで、ソヴィエトで、中国で、ハンガリーで、メキシコで、インドのアムリツァールで、トルコのスミルナで行われた残虐行為のうち、一つでも英国の知識人が一致してその事実を認め、かつ非難した事件はなかったのである。こういう行為が非難すべきものかどうか、それどころかそもそもそれが事実だったのかどうかということさえ、いつも政治的偏向にもとづいて制定されたのであった。
*〔原注〕『ニューズ・クロニクル』誌は、処刑の全貌がクローズアップで見られるニュース映画を見に行くことを読者にすすめた。『スター』紙は対独協力者の女性が全裸にちかい姿でパリの暴徒にいじめられている写真を、まるでこの行為を称賛しているかのように掲載した。これらの写真は、ナチスが発表した、ベルリンの暴徒にいじめられているユダヤ人の写真と酷似していた。
ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないというすばらしい才能を持っている。英国におけるヒットラー崇拝者たちは、六年ものあいだ、ダッハウやブッヘンヴァルトの存在に耳をふさいできた。そしてドイツの強制収容所をもっとも声高に弾劾いた人びとのほうは、ソヴィエトにも強制収容所があることはぜんぜん知らないか、知っていてもごくぼんやりした知識しかないことが珍しくないのだ、何百万という餓死者が出た一九三三年のウクライナの飢饉のような大事件でさえ、驚いたことに英国のソヴィエトびいきたちは、大部分が気づかなかったのである。こんどの大戦中におこなわれたドイツ、ポーランドのユダヤ人の絶滅策について、ほとんど何も聞いていない英国人はいくらでもいる。彼ら自身にユダヤ人差別意識があるからこそ、この大犯罪も意識にひっかからなかったのだ。ナショナリストの考え方の中には、真実なのに嘘、知っているのに知らないことになっているという事実が、いろいろある。知っている事実でも、認めるのに耐えられないというので脇へ押しのけられたまま、意識的に論理的思考から外されてしまうことがあるかと思えば、綿密に検討されたにもかかわらず、自分一人の心の中でさえ、事実であることをぜったいに認めないといったことが起こるのだ。
ISBN-10 : 4003226216
ISBN-13 : 978-4003226216
現実逃避 ナショナリストはすべて、そっくりの事実をいくつ見ても、それら相互の類似性を認めないという特技を持っている。英国の保守党員は、ヨーロッパでの民族自決主義なら擁護するくせに、インドのそれに反対して、これを矛盾だとは思わない。行為の善悪を判定する基準はその行為自体の功罪ではなく、誰がやったかという点であって、拷問、人質、強制労働、強制的集団移住、裁判なしの投獄、文書偽造、暗殺、非戦闘員にたいする無差別爆撃ーこうしたいかなる無法きわまる行為でも、それをやったのが「味方」だとなれば、まずたいていのばあいは道徳的な意味が微妙に変わってしまうのだ。自由党系の「ニューズ・クロニクル」が、恐るべき残虐行為だとして、ドイツ人によって絞首刑にされたロシア人の写真を掲載したことがあったが、その一、二年後にこれとほとんど同じ、ロシア人の手で絞首刑にされたドイツ人の写真を掲載したときには、熱烈に称賛したのだった。歴史上の事件についても同じである。歴史は、多分にナショナリスチックな観点から見られているのだ。異端審問所とか、星法院(一四八七-六一の、英国の高等裁判所、陪審がなかった)による拷問とか、英国の海賊の手柄(例えばサー・フランシス・ドレイクは、スペイン人の捕虜を生きているまま海中に投じたと言われる)とか、フランス革命における恐怖時代だとか、何百人というインド人を大砲につめてぶっ放した、ベンガルの反乱(1857-58)鎮圧の英雄たちとか、アイルランドの女たちの顔を剃刀で切ったクロムウェルの兵士たちとかーこんなことも、「正義」のためだったということにさえなってしまう。過去二十五年をふりかえってみると、世界のどこかで残虐行為の行われた報道がなかった日は、ほとんど一日もない。ところがスペインで、ソヴィエトで、中国で、ハンガリーで、メキシコで、インドのアムリツァールで、トルコのスミルナで行われた残虐行為のうち、一つでも英国の知識人が一致してその事実を認め、かつ非難した事件はなかったのである。こういう行為が非難すべきものかどうか、それどころかそもそもそれが事実だったのかどうかということさえ、いつも政治的偏向にもとづいて制定されたのであった。
*〔原注〕『ニューズ・クロニクル』誌は、処刑の全貌がクローズアップで見られるニュース映画を見に行くことを読者にすすめた。『スター』紙は対独協力者の女性が全裸にちかい姿でパリの暴徒にいじめられている写真を、まるでこの行為を称賛しているかのように掲載した。これらの写真は、ナチスが発表した、ベルリンの暴徒にいじめられているユダヤ人の写真と酷似していた。
ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないというすばらしい才能を持っている。英国におけるヒットラー崇拝者たちは、六年ものあいだ、ダッハウやブッヘンヴァルトの存在に耳をふさいできた。そしてドイツの強制収容所をもっとも声高に弾劾いた人びとのほうは、ソヴィエトにも強制収容所があることはぜんぜん知らないか、知っていてもごくぼんやりした知識しかないことが珍しくないのだ、何百万という餓死者が出た一九三三年のウクライナの飢饉のような大事件でさえ、驚いたことに英国のソヴィエトびいきたちは、大部分が気づかなかったのである。こんどの大戦中におこなわれたドイツ、ポーランドのユダヤ人の絶滅策について、ほとんど何も聞いていない英国人はいくらでもいる。彼ら自身にユダヤ人差別意識があるからこそ、この大犯罪も意識にひっかからなかったのだ。ナショナリストの考え方の中には、真実なのに嘘、知っているのに知らないことになっているという事実が、いろいろある。知っている事実でも、認めるのに耐えられないというので脇へ押しのけられたまま、意識的に論理的思考から外されてしまうことがあるかと思えば、綿密に検討されたにもかかわらず、自分一人の心の中でさえ、事実であることをぜったいに認めないといったことが起こるのだ。
2023年12月5日火曜日
20231204 朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」 pp.116-118より抜粋
朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」
pp.116-118より抜粋
ISBN-10 : 4022952385
ISBN-13 : 978-4022952387
もう少し学問的に表現するならば、自然科学と人文学の違いは反証可能性と訂正可能性の違いだということができます。
反証可能性というのは、カール・ポパーという哲学者によって100年ほどまえに提唱された概念です。これはとてもおもしろい理論で、ひとことで言うと、自然科学においては絶対に正しい理論などありえないという考えかたです。
自然科学の理論は具体的な予測を伴います。素朴な例で言えば、ある重さのものをある速度である角度で投げると何メートル飛ぶとか、そういうものです。予測があたれば、理論は正しいということになります。
けれども、一回のテストがうまくいっても、条件を変えた別のテストがうまくいくとはかぎりません。いつかまちがいが証明されるかもしれない。だから、自然科学の理論はつねに「反証される可能性」に晒されていて、どんな理論でも厳密には「反証がなされるまでは暫定的に正しい」と言うことしかできない。これが反証可能性の考えかたです。
ちなみにポパーは、ある命題が科学的なものかどうかは、むしろそのような「反証される可能性」の有無で決まると考えていました。この世界には、個別のテストが不可能で、したがって反証も不可能な命題がありますが、それらは科学の範囲に入らない。たとえば「神はいる」といった命題は、正しいかもしれないし誤っているかもしれないけれど、そもそもテストができず、したがって反証もできないので、真偽以前に科学的な主張だと考えることもできない。ポパーはそのような基準で、科学と非化学を分けたわけです。
この反証可能性の考えかたは、本書のテーマである訂正可能性と似たところがありつつ、大事なところえ大きく違います。
自然科学の世界では、いちど反証された理論は打ち捨てられてしまいます。だから学生が学ぶときには最新の教科書だけが必要で、過去の著作は不要なわけです。「いろいろな学者が試行錯誤をしてきたけど、いまのところもっともうまく自然を説明できる理論はこれです。これを勉強してください」となる。
ところが人文学ではそうはいきません。学生もまずは過去を学ぶところから入らなければならない。それは人文学が訂正の学問だからです。哲学にも打ち捨てられ忘れられた理論がたくさんあります。でもそれは完全に忘れるわけにはいかない。いつ「じつは・・・だった」の論理で復活するかわからないからです。ここが、理系と文系ではまったく違うところです。
ISBN-13 : 978-4022952387
もう少し学問的に表現するならば、自然科学と人文学の違いは反証可能性と訂正可能性の違いだということができます。
反証可能性というのは、カール・ポパーという哲学者によって100年ほどまえに提唱された概念です。これはとてもおもしろい理論で、ひとことで言うと、自然科学においては絶対に正しい理論などありえないという考えかたです。
自然科学の理論は具体的な予測を伴います。素朴な例で言えば、ある重さのものをある速度である角度で投げると何メートル飛ぶとか、そういうものです。予測があたれば、理論は正しいということになります。
けれども、一回のテストがうまくいっても、条件を変えた別のテストがうまくいくとはかぎりません。いつかまちがいが証明されるかもしれない。だから、自然科学の理論はつねに「反証される可能性」に晒されていて、どんな理論でも厳密には「反証がなされるまでは暫定的に正しい」と言うことしかできない。これが反証可能性の考えかたです。
ちなみにポパーは、ある命題が科学的なものかどうかは、むしろそのような「反証される可能性」の有無で決まると考えていました。この世界には、個別のテストが不可能で、したがって反証も不可能な命題がありますが、それらは科学の範囲に入らない。たとえば「神はいる」といった命題は、正しいかもしれないし誤っているかもしれないけれど、そもそもテストができず、したがって反証もできないので、真偽以前に科学的な主張だと考えることもできない。ポパーはそのような基準で、科学と非化学を分けたわけです。
この反証可能性の考えかたは、本書のテーマである訂正可能性と似たところがありつつ、大事なところえ大きく違います。
自然科学の世界では、いちど反証された理論は打ち捨てられてしまいます。だから学生が学ぶときには最新の教科書だけが必要で、過去の著作は不要なわけです。「いろいろな学者が試行錯誤をしてきたけど、いまのところもっともうまく自然を説明できる理論はこれです。これを勉強してください」となる。
ところが人文学ではそうはいきません。学生もまずは過去を学ぶところから入らなければならない。それは人文学が訂正の学問だからです。哲学にも打ち捨てられ忘れられた理論がたくさんあります。でもそれは完全に忘れるわけにはいかない。いつ「じつは・・・だった」の論理で復活するかわからないからです。ここが、理系と文系ではまったく違うところです。
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