ISBN-10 : 4130820915
ISBN-13 : 978-4130820912
古代と中世との分水嶺ともいわれる保元・平治の乱であるが、その原因をつくった白河院は熱狂的な仏教崇拝者であった。承歴元年(1077)かれは法勝寺を洛東白河に建てたが、「扶桑略記」によれば、この寺の金堂は七間四面瓦葺きで、金色三丈二尺の廬舎那仏を安置した。阿弥陀堂は十一間四面瓦葺きで、金色丈六の阿弥陀如来九体を安置した。他に、南大門には二丈の金剛力士が寺の守護として置かれた。
さらに永保元年(1081)には、高さ推定二七丈(80メートル)ある奇抜な八角九重塔が建てられた。かつての四天王寺式伽藍配置さながらに諸堂が一直線に並んだこの寺を、林屋辰三郎は「国家的な強大な意識」に基づくものであったとし
三十三間堂、足利義満の相国寺の大塔、織田信長の安土城など、権力の生み出す奇抜な建造物の系譜の上に法勝寺を置く。白河院はほかにも尊勝寺、最勝寺、円勝寺などを造営し、一代での造像は五四七〇余体、うち丈六仏は六〇〇以上あったと記録される。
後白河院もまた仏法に熱心だった。往復に一カ月かかる熊野詣でを生涯に三四度行ったという。当時の流行歌である今様に凝って、それを集めた「梁塵秘抄」(一一六九)をつくっている。好奇心のかたまりである院は、ある日突然町中の蒔絵師の仕事場を見に行き周囲を当惑させたり、平清盛に招かれ福原まで宋人えお見に行ったりしている。三十三間堂の前身である蓮華王院の宝蔵は、院の集めたさまざななコレクションを収める建物で、そこは、年中行事絵巻約六〇巻、六道絵など絵巻の宝庫でもあった。
これら、個性的で奔放な院の行状は象徴するように、院政時代の文化は、古代の幕を引き中世の開始を告げる過渡期にふさわしい変化に富んだ様相を示している。それは第一に、鴨長明(一一五五~一二一六)の「方丈記」に要約されているような、末世到来を嘆く隠遁思想の流行する時代であった。第二に、受領大江匡房が、「永長の大田楽」(一〇九六)の仮装を見て、「その装束、美を尽くし善を尽くし、彫るが如く磨くが如し、金繍を以て衣となし、金銀をもって飾となす」と評したように、遊戯とかざりの時代であった。第三に、美の時代であり、美形を追究した時代であった。仏の相好には美形が求められ、検非違使の資格にも美形が求められた。美麗の反対が疎荒である。第四に、激動する過渡期の現実に揺れ動く不安の心は六道絵に代表されるような、美とうらはらの醜への関心=リアリズムを生んだ。
「財産の惜しみない濫費、行楽と寺院の濫立」、「古代国家の歴史にその比をみない悪徳と腐敗が支配層を風靡するにいたった」と、石母田正はこの時代を評する。だが、そのような道徳的な視点を離れて美術に主眼を置けば、美への傾倒の一方で、病や餓鬼、地獄のいうな醜とグロテスクの世界からも目をそむけることのなかった院生時代の文化と美術は、奥行きがあり、稀に見る多産で創造性に富んだものということができる。
全体的にみて、院政時代の美は、前期と後期とで多少性格を異にしている。前記は藤原美術をより繊細化し耽美化したといえるような時期であり、「源氏物語絵巻」、「平家納経」、「三十六人家集」などがこの時期の産物である。後期になると、これと異なる粗削りな要素を持った「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」などがあらわれ、運慶もこの中に入れてよいかもしれない。後白河院の行状に見られるような、異常なもの奇矯なものへの興味が「六道絵」や「病草紙」に見られ、民衆的なものへの興味もそこに示されている。絵仏師の宮廷画家化により、その表現力が宮廷美術に影響を与えた点も指摘できる。宋美術の輸入にともなう影響があらわれ始めたのもこの時期である。
さらに永保元年(1081)には、高さ推定二七丈(80メートル)ある奇抜な八角九重塔が建てられた。かつての四天王寺式伽藍配置さながらに諸堂が一直線に並んだこの寺を、林屋辰三郎は「国家的な強大な意識」に基づくものであったとし
三十三間堂、足利義満の相国寺の大塔、織田信長の安土城など、権力の生み出す奇抜な建造物の系譜の上に法勝寺を置く。白河院はほかにも尊勝寺、最勝寺、円勝寺などを造営し、一代での造像は五四七〇余体、うち丈六仏は六〇〇以上あったと記録される。
後白河院もまた仏法に熱心だった。往復に一カ月かかる熊野詣でを生涯に三四度行ったという。当時の流行歌である今様に凝って、それを集めた「梁塵秘抄」(一一六九)をつくっている。好奇心のかたまりである院は、ある日突然町中の蒔絵師の仕事場を見に行き周囲を当惑させたり、平清盛に招かれ福原まで宋人えお見に行ったりしている。三十三間堂の前身である蓮華王院の宝蔵は、院の集めたさまざななコレクションを収める建物で、そこは、年中行事絵巻約六〇巻、六道絵など絵巻の宝庫でもあった。
これら、個性的で奔放な院の行状は象徴するように、院政時代の文化は、古代の幕を引き中世の開始を告げる過渡期にふさわしい変化に富んだ様相を示している。それは第一に、鴨長明(一一五五~一二一六)の「方丈記」に要約されているような、末世到来を嘆く隠遁思想の流行する時代であった。第二に、受領大江匡房が、「永長の大田楽」(一〇九六)の仮装を見て、「その装束、美を尽くし善を尽くし、彫るが如く磨くが如し、金繍を以て衣となし、金銀をもって飾となす」と評したように、遊戯とかざりの時代であった。第三に、美の時代であり、美形を追究した時代であった。仏の相好には美形が求められ、検非違使の資格にも美形が求められた。美麗の反対が疎荒である。第四に、激動する過渡期の現実に揺れ動く不安の心は六道絵に代表されるような、美とうらはらの醜への関心=リアリズムを生んだ。
「財産の惜しみない濫費、行楽と寺院の濫立」、「古代国家の歴史にその比をみない悪徳と腐敗が支配層を風靡するにいたった」と、石母田正はこの時代を評する。だが、そのような道徳的な視点を離れて美術に主眼を置けば、美への傾倒の一方で、病や餓鬼、地獄のいうな醜とグロテスクの世界からも目をそむけることのなかった院生時代の文化と美術は、奥行きがあり、稀に見る多産で創造性に富んだものということができる。
全体的にみて、院政時代の美は、前期と後期とで多少性格を異にしている。前記は藤原美術をより繊細化し耽美化したといえるような時期であり、「源氏物語絵巻」、「平家納経」、「三十六人家集」などがこの時期の産物である。後期になると、これと異なる粗削りな要素を持った「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」などがあらわれ、運慶もこの中に入れてよいかもしれない。後白河院の行状に見られるような、異常なもの奇矯なものへの興味が「六道絵」や「病草紙」に見られ、民衆的なものへの興味もそこに示されている。絵仏師の宮廷画家化により、その表現力が宮廷美術に影響を与えた点も指摘できる。宋美術の輸入にともなう影響があらわれ始めたのもこの時期である。
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