2023年7月8日土曜日

20230707 2013年以来の「くだり調子」の払拭のために・・

そういえば、丁度10年前のこの時期に学位審査がありました。そこに至るまでには、これまでにも投稿した、いくつかのブログ記事にて述べましたが、さまざまな嬉しくない・ネガティブな出来事があり、審査直前の時期は、それ以前よりかは良くはなっていましたが「学位審査は上手くいかないのではないか・・?」と疑心暗鬼になり、精神的に非常に不安定な状態であったと記憶しています。

しかしまた同時に、この機会に学位審査を受けておかないと、二度とチャンスは巡って来ないとも思い、どうにか乗り切りましたが、それから10年間、現在に至るまでの期間は、それまでにないほど、生きるために、自分なりに、さまざまなことをしてきました・・。

その過程の中で、完全には崩れ去ってはいなかった全能感らしきものは破壊され、学位取得から現在に至るまでの10年間への個人的見解は、概ね「くだり調子」であったと云えます。あるいは異言しますと、学位取得以前の方が、現在と比べ、より多くの面で、好調であり良かったと思われるのです・・。

しかし、であるからと云って「学位取得から現在までに良いことが全くなかった」というわけでもなく、その過程にある経験は、多少その様相は変わるかもしれませんが、何れにせよ、どこかで経験する種類のものであったと思われるのです。そして、そうした経験によって、取組んで来た研究に対する熱意を失ったり、あるいは蓄積してきた疲労が高じて無気力に転じたりすることなども、多くの人生にてあるとは思われますが、そうした熱意の喪失や無気力といた精神的に困難とも云い得る状況下において、これまで培ってきた学びのスタイルを自分なりに継続することにより、徐々にまた精神は落着きを取り戻し、そして、新たな日常生活を歩み出すことが出来るようになると思われるのですが、私としては、たしかに落着きを取り戻しはしましたが、この10年来での感覚は大きくは変わることなく、前述のように概して「くだり調子」であるように感じられるのです・・。

そしてまた同時に、昨今の国内・国際情勢を鑑みますと「良い状態とは」(到底)云えなく、そこから期せずして、先述の自らの状況と通底しているようにも思われてくるのです。そこで、自らのここ十年来の慢性的ともなってしまった「くだり調子」から脱するために、色々と動いてはみるのですが、どうも根本的な「くだり調子」の解決には至らず、結局のところ、対症療法的に、何やらブログ記事を作成して、毎度、お茶を濁すといった感じであることから、やはり折角2000記事にまで到達出来たのであるならば、本格的にしばらくの期間は、ブログ記事の作成やSNSから離れた方が良いのではないかとも思われるのです・・。

そして、しばらく離れてみた後に、どのようなブログ記事を作成して、そこからどのように変容を遂げていくかを自分なりに観察・検討することは、これまで、なし崩し的に記事作成を行ってしまい、出来なかったことではあるのですが、やはりどこかで経験しておいた方が良いのではないかとも思われるのです・・。また一方で、こうしたことをブログ記事題材にすることは自体は、これまでの文脈からは多少逸脱するかもしれませんが、特に大きな問題ではないとも思われます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2023年7月7日金曜日

20230706 自問自答の良しあし?

先日、総投稿記事数2000への到達と、当ブログ開始から丸8年を迎えて、しばらくの間はブログ記事の作成やSNSからも離れようと考えていましたが、あまりことは上手く運ばずに、いくつか記事作を作成してしまいました・・。

おそらく、これはある程度の期間続いてきたため「性質」とも云えるものに近づいていたことから、なし崩し的に記事作成を行ってしまい、そしてまた惰性的に記事作成を継続するようになってしまったのだと云えます。

そして、こうした状況では、当初の「ブログ記事の作成やSNSから離れてみよう」は達成されずに、その先にある何らかの「進化の実感」らしきものも感じられず、徒にまた記事数ばかりが増えていくのみ・・といった状況に気が付き、意識的に記事作成を止めようと考えても、その記事作成を止めようとする意識が、やがて内心で自問自答を引き起こして、そして、そうした問答の際に想起された物語の構造や、その背後にあると思しきメカニズムなどにもついてもボンヤリと考えが至ることもあります。

こうした自問自答は、私のブログ記事作成の基層にあるものと云えます。そして、この自問自答を駆動させるために重要であるのが、日常的に書籍を読むことであると考えます。私は、就寝前や電車などでの移動に際して読書をする習慣がありますが、こうした読書の少し後に、その反応としてのコトバや物語などが浮かんで来ることが度々あったことから、実感的に、少なくとも私にとっては、それらの間には何らかの関係があると思われます。また、現在も記事作成を再開したわけではありませんが、同時に読書は相変わらず続けていることから、定期的にその反応として、それが直接的なものでなくとも、何らかの文章を作成したくなるのかもしれません・・。そうしますと「本格的な記事作成の休止のためには読書を止めれば良い。」と云うことになるかもしれませんが、これにつきましては、現時点では難しいと思われます。とはいえ、現在読み進めている書籍は、これまでにあまり馴染みがなかった分野の著作であり、所々が判りながら漸う読み進めているといった感じと云えます。それでもまたしばらく読み進めていきますと、さきの「所々判りながら・・」の箇所が増えてきて、そしてまた同時に、同著者による他の著作との関連性などについても考えが及んだりすることもありますが、それでも未だ「あまりよく分からずに読み進めている・・」と云った感じです。人文系分野での、あまり馴染みのない分野での著作を理解しつつ読み進めることは自体が、そこまで簡単ではないため、おそらく、そこで生じる葛藤のようなものが、私の場合、こうしたブログ記事作成の基にあるのではないかと思われます。そして、そうした意味では、新たに関心を持つことが出来る可能性がある分野が数多くあることは、当ブログの記事作成にとっては良いと云えるのかもしれません・・(笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



2023年7月2日日曜日

20230702 19世紀後半から続く我が国の「文明開化」・「開化」について②

活力の反応には、活力節約と活力消耗の二つの性質があります。活力節約は、主に義務を果たす刺激によって起こります。義務を果たすことは社会的に望ましいとされており、また組織の発展に重要な役割を果たします。他方の自由な活力発現は、趣味や娯楽などで重要です。釣りや読書、運動など多様な活動がこれに当たります。また、文学や科学、哲学などもこの自由な活力発現の一環と云えます。活力の発現や進化、持続は開化においてとても重要であり、外部からの刺激によって我々の活力の反応が理解することができます。

さて、以上の活力の二つの性質は、現代の我々の社会においても、さきの義務に対しての消極的な活力節約と、道楽に対しての積極的な活力消耗の双方が相互作用を起こして、そこから進歩的な変化が生じるのではないかと考えます。

これを具体的に述べますと、活力節約においては、少ない時間でより多くの仕事を効率的に処理出来る様に努力がされます。それにより自動車や列車や艦船そして飛行機や電話やインターネットなどの便利なものが生まれましたが、これらは本質的には手間を省くための、いわば活力節約を目的とするものであり、端的には、より多く体力を使いたくないがために生みだされたものであると云えます。

他方で、上述のような便利な道具があるにもかかわらず、自らの体を使い、積極的に体力を消耗して疲れを求めるような時もまたしばしばあります。我々が趣味で行っている運動などは概ね、これにあたると云えます。

しかしながら、こうした積極的に体力を消耗したい時ばかりに、その機会があるわけではありません。むしろ逆に、あまり動きたくない時にそうした機会があることの方が多いと云えるのではないでしょうか?

そして、実際にそうであったからこそ、訪問から郵便そして電報から電話やメールへと、進化とも云える変化を遂げてきたのではないかと考えます。これは要するに、あまりやりたくない仕事は避けて快適に生きたいというわがままな要求や、あるいは働いても報われないといった不満から、さきの活力節約の側の力が大きくなり、やがて事態の変化・発展をもたらす力へと成長するのではないかと思われるのです。

以上が、さきに述べた「義務に対しての消極的な活力節約と、道楽に対しての積極的な活力消耗の双方が相互作用」を具体的に述べたものですが、これら性質の相互作用とは、往々にして同時代での道徳観と合致するものではなく、あるいは非難されることもあるのでしょうが、しかし実際のところ、こうしたダイナミズム(相互作用の過程)を経ることなしに、事物とは進化的に発展することは難しいのではないかと思われます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



20230701 中央公論新社刊 米原謙著「徳富蘇峰―日本ナショナリズムの軌跡」pp.118‐121より抜粋

中央公論新社刊 米原謙著「徳富蘇峰―日本ナショナリズムの軌跡」pp.118‐121より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121017110
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121017116

一般に、人間は自分の存在を世界のなかに位置づけ、それに意味を与えることなしに生きていくことはできない。それは自分が何者であるかを社会的に確定することである。カナダの政治理論家チャールズ・テイラー(Charles Taylor1931‐)は、アイデンティティの根拠が社会との関わりによって自己の存在の意味を確認することによって形成されると指摘している。テイラーは個人のレヴェルを想定しているが、集団の場合も同じことがいえるだろう。個人にせよ、国家にせよ、自分にとって重要な他者から十分に認められることが、何より肝要なのである。個人も国家も、自分が他者から認知されていることを確認することによってのみ、自己の存在を意義づけることができる。

 日本にとって重要な他者とは欧米である。子供が両親から、生徒が先生から認められることを切望するように、後進国の知識人は自国が欧米諸国から敬意のある認知を受けることを切望する。この時期の最大の思想家といってよい福澤諭吉は、この点でも第一級だった。かれは欧米からのまなざしをつねに意識し、どのようにすれば欧米からの評価を高めることができるかに腐心した。たとえば明治十七年の論説「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」では、欧米からの差別的なまなざしを避けるために、動植物の保護色のように「文明の色相」を身につけるべきだと説いている。風俗や宗教が違えば「外道国」とみなされる現状がある以上、欧米と同じ「色相」をまとうことで疎外の原因を絶たねばならないと考えたのである。「脱亜流論」などの論説で、アジア諸国との差異を強調し、日本は十分西欧化していると主張しているのも、「尋常東洋の一列国」とみなされることを恐れたものである。いかにも卑屈な態度だが、中国と朝鮮と同一視されることは、日本の国際的地位の上昇にとって決定的にマイナスだと考えられた。ここに福澤の冷徹な合理主義を読みとることができる。

 蘇峰も他者のまなざしをつねに意識した言論人だった。多くの知識人が日清戦争を欧米からの認知を獲得する絶好のチャンスと捉えたが、蘇峰はそれをみごとに表現している。「大日本膨張論」に収録された論説をいくつかとりあげてみよう。日清戦争勃発直前に書かれた「好機」では、イタリアの政治家カブール(Camillo Benso conte di Cavour 1810‐61)を例に挙げる。カブールは「狂気の沙汰」と非難されながらクリミア戦争に参戦し、それによってイタリアは「欧州列国に識認」され、国家の「利益と光栄と拡充」した、と。「世界における日本の位地」では、日本人は欧米を知りすぎるほど知っているのに、日本は欧米からまともに評価されていないと嘆いている。日本は「美人国」、もっと率直にいえば「売淫国」として紹介されているにすぎない。日本人は「否」といわない「軽快にして与しやすき伴侶」とみなされている(100年後に「ノーと言える日本」という本が話題になったことを想起せよ)。欧米人は日本を自分たちと対等とみなしていないばかりか、清国とすら対等と考えていない。こうした状況下で迎えた日清戦争が、日本にとって名誉回復の絶好のチャンスと意識されたのは当然だった。それは汚辱にまみれた評価を書き換える決戦だった。「吾人は暗室に格闘するにあらずして、世界の前に立って、決戦することを忘るべからず」。

 日本軍が旅順口の占領に成功して、事実上、勝利が確定したとき、蘇峰はこの戦争の意味を問い直して、「国家自衛」と「国民雄飛」のためのステップだったと答えている。このふたつの目的を達成するには、維新以前の汚辱に満ちた歴史的経験を払拭せねばならなかった。「吉田松陰」で語られたことは、もっと激しい言葉で表現される。「開国は正理なり、しかれども我の外国の強迫によりて、開国せしめられたるは、屈辱なり。容易に拭うべからざる、我が国史の汚点なり。而して今日に至るまで、世界諸強国と対立して、我が膝の直からざるは、この汚点のためなり。例せば、合意の結婚は、人の大倫なり。しかれども不合意の結婚は、むしろ強姦に近しといわざるを得ず」。

 ペリーによる強制的開国を堪えがたい屈辱とする考えは、当時広くみられた。儒学者大橋訥庵(1816‐62)は、その屈辱を、他人の屋敷に無断で入り「樹木を折り庭石を動かし(後略)」と形容している。幕末のナショナリズムには、それに対する雪辱の意味が込められていた(佐藤誠三郎「死の跳躍」を越えて」を参照)。蘇峰が使った「強姦」は最上級の比喩だが、読者の側にも、開国を「強姦」と感じる自意識があったと想定して誤りない。

 ペリー来航以後の政治過程は屈辱に満ちたものであり、不平等条約の改正は困難をきわめた。日清開戦の直前に、治外法権廃止を規定した日英通商航海条約がやっと調印されたばかりである。蘇峰はその怨念をつぎのような言葉に吐き出している。日本は人類として正当な待遇を受けておらず、まるで猿にもっとも近い人類か、人類にもっとも近い猿のように、「一種の風変りなる」見せ物として遇されてきた、と。戦勝はこうした偏見を打ち破り、欧米に対して否応なく正当な認知を迫るものだった。「吾人は清国に勝つと同時に、世界にも打ち勝てり。吾人は知られたり。ゆえに敬せられたりゆえに畏れられたり、ゆえに適当の待遇を享けんとしつつあるなり」。戦勝は文字どおり溜飲を下げるものだった。それは清国に対するものではなく、むしろ欧米の偏見に対するものだった。戦争は朝鮮の支配権の獲得だけではなく、何よりも欧米に対する雪辱と名誉回復をめざしたものだったのである。

2023年6月29日木曜日

20230628 和歌山大学の学生・教職員による書評『Ritornello (リトルネロ)Books & Media Review』第45号 阿部秀二郎著「いま、考えておきたいこと」pp.10‐11より抜粋

和歌山大学の学生・教職員による書評『Ritornello (リトルネロ)Books & Media Review』第45号 阿部秀二郎著「いま、考えておきたいこと」pp.10‐11より抜粋

カサルスは、バイオリニストのティボー、ピアニストのコルトーとともにトリオを組み数々の名演を残して来たとされる。個性豊かで好みも異なる世界的演奏家たちがトリオを組み、長く活動を行うことができた理由は、それぞれの音楽性に対する尊敬の念があったからである。しかし信条において、カサルスはティボーやコルトーとは一線を画していた。のみならず信条を誓約するために、カサルスは画した一線を隠そうとはせずに、実際に行動したのである。

カサルスは家庭でも、カタロニアの地域的特質という面でも共和制に共感を抱いていた。カサルスは10代のころ、精神の危機に落ちる。感性の成長が著しく妨げられることにより危機に陥ったJ.S.ミルとは異なり、カサルスの場合には様々な書物を読み漁ることで、音楽のもたらず「美」や「善」ばかりではなく、世の中には貧困や本性的に問題のある人間などの「悪」が存在することに気づく。「悪」が存在する悲しき社会において生きるべき価値や意味は何か問ううちに、音楽が続けられない状態になってしまう。カサルスは宗教や共産主義思想にも救いを求めるのであるが、前者は何も回答を与えず、後者は欺瞞に満ちたものと感じられた。結局、カサルスは自らの良心に立ち返ることになる。そしてその経験により、信条への誓約はより強固なものとなった。

 ヒトラーが勢力を伸ばした時に、ワーグナーなどの楽曲が利用されたのは有名である。共産主義思想のみならず、ナチス労働党の思想もカサルスにとっては人間的価値を尊重するものには到底思えなかった。そうすると、ナチスに利用されるワーグナーの楽曲も、またその楽曲を当時ベルリンなどで演奏する演奏家もすべて、尊重されるべき人間的価値とは一致しないものになる。受け入れるわけにはいかないのである。ティボーやコルトーはこの点でカサルスよりも柔軟であった。ティボーはヒトラーの前での高額な待遇の演奏を受け入れることはなかったが、コルトーはフルトベングラーとナチス支配下のドイツで共演することもあった。

 そしてティボーやコルトーはカサルスとは異なるチェリスト(フルニエ)とトリオを組み活躍している中で、カサルスは活動を停止したのである。

 経済学において利己心が経済活動の中心であるとする考え方はアダム・スミスが提示したが、スミスが提示した当時は、道徳哲学がテーマになっており、人間は利己的存在か利他的かという問題に対する議論が展開されていた。スミスは、両面が存在するが、利己的側面が社会的利益をもたらす可能性もあると指摘する文脈において、便宜の理論を説明し、市場経済の利益にも言及したのである。こうして当時は社会生活において、利己は消極的に容認し得るものであった。しかし長い時を経て、利己が幅を利かせる時代になってきた。利己を前進させるための制度やインセンティブの研究が進み、それを妨害する存在は効率性を損なうという理由で排除されるようになっていく。

 カサルスたちが生きる時代もその途上に存在した。報酬がどの程度であったかは調査していないが、自己顕示欲を掻き立てるインセンティブという点で、コルトーにとってフルトベングラーとともに、ナチスを鼓舞する演奏会での拍手喝采は魅力的であったのかもしれない。

 そのような中で、コルトーはカサルスの態度をどう見ていたのか。コルトーは第二次大戦終了前にパリがナチスから解放されたときに、フランス軍に拘束されることになる。そして今度はコルトーが活動を停止することになる。そしてコルトーは良心の呵責を感じていたのである。

 ではカサルスの時代からさらに進んだ現代においても良心は存在するか。このことはサミュエル・ボウルズらのラディカル・エコノミストによる分析(「モラル・エコノミー」)によって明らかにされている。彼らは利己的な金銭的インセンティブと良心などのモラルが本来不可分なもの(スミスもミルも分かっていた)なのに、現代の経済学では可分とされてきたこと、しかし実験に基づく人間行動は良心を有し、インセンティブが適切に利用されないと、良心の作用が弱まり、結果的にマクロ的に社会に不利益をもたらすこと、を説明する。

 旧キエフ公国で起こっていることに対して、その戦争や破壊が日本にもたらすコスト・ベネフィットを分析し、対策を論じることは重要なことであろうが、その考え方だけでは狭隘であろう。ケインズが感覚的に良心に従い、世論または既存の経済思想とは異なる考え方を展開したように、ひとまずじっくりと、内に存在する声と向き合い、そこから何を考えるべきか探りたい。

2023年6月28日水曜日

20230627 8年間のブログ継続と「理解についての感覚の変化」

そういえば、去る6月22日に当ブログ開始から丁度丸8年となりました。そして、そのことをブログ記事題材としてしていなかったことに先ほど気が付き驚きましたが、あるいは見方を変えると、その程度まで当ブログの作成が日常化していたのかもしれません・・。

ともあれ、これまで8年間ブログを(どうにか)継続してきましたが、開始当初の記事を読んでみますと、これまでの間に変化したもの、しないものが理解出来るような感覚を覚えます。私見として、この「理解出来るような感覚」の先にいくつかの段階があるのでしょうが、おそらく、本当の理解があるのではないかと考えています。そして、これまた感覚的ではあるのですが、私にとって、これまで当ブログを継続したこことの一つの大きな意味は、この「理解についての感覚が変化」したことです。これまで8年間、自分の興味や、専攻分野およびその周辺について、いくらかは専門知識を反映させたブログ記事を作成してきましたが、こうした行為の継続は、全くの自主性・内発性に依拠していることから、さきに述べたような「理解についての感覚の変化」が感じられたのではないかと思われるのです。

そしてまた、この「理解についての感覚の変化」に付随して嗜好の変化もまたごく自然に生じると思われます。それは食べ物であったり、あるいは読む書籍であったりします。私の場合、いくつかの地域・時代区分の歴史について扱った書籍は、比較的長期間にわたり継続的に読んでいると云えますが、その他の時事問題およびその背景について扱った著作は、これまで継続してきた読書と、何らかのカタチで結び付けることにより、大抵は読了にまで至ることが出来ます。このようにして、これまで未知であった異分野の書籍を読むことは、やはり年を追うごとに困難になってはきていますが、他方で、軸となる、ある程度勝手知ったる分野があれば、それに結び付けて、また新たな分野を学び、知ることは、その行為が自主性・内発性に依拠していれば、そこまで困難なことではないようにも思われます。

そして、こうした気付きの基層にあるものも、当ブログの継続であったと考えます。おそらく、口語においてもそうした傾向があるとは思われますが、ある程度の期間継続して文章を作成していますと、作成文章の中から、自らの文章のクセあるいは個性のようなものが観念的ではあるのですが、対自的なものとして認識出来るようになり、そしてその蓄積によって、さきの「理解についての感覚の変化」へと至るのではないかと思われるのです。

とはいえ、そのある程度の期間は人によって異なると思われますが、おそらく、短くとも1年以上は要するのではないかと思われます。そして、1年以上にわたりブログ記事作成を継続するためには、先述のように継続出来る、いわば軸となる分野を見出すことが重要と云えます。私にとってそれは、さきの「いくつかの地域・時代区分の歴史」であったと云えます。そして、それら分野にて、これまでに作成してきた文章などを切り取り、改編などをして、当初はブログ記事として投稿してきましたが、この手法に拠りますと、読書を続けていれば、自らによる文章だけでなく、引用記事の作成なども可能となり具合が良かったのだと云えます。そして、その継続のさきに、さきの「理解についての感覚が変化」が生じるのだとすれば、それはやはり、今しばらく継続した方が、「より面白い変化が生じるのではないか・・」と考えるのは妥当であると私には思われます。それでも、今しばらくは休みますが・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2023年6月26日月曜日

20230625 19世紀後半から続く我が国の「文明開化」・「開化」について①

現代の日本で生きる我々の生活は、19世紀後半の明治維新そして文明開化からの影響を強く受けたものであると云えます。しかしながら、このことは、私を含めた社会全般において、あまり深くまでは理解、そして共有されていないのではないかと思われます。そのため、現代の我が国社会を考えるうえで、我が国近代の「文明開化」さらに「開化」についての理解を深めておくことは有意義であると考えます。

そこで、はじめに一般的な「開化」の概念を検討します。この検討に際しては、対象となる事物の要素に定義を付与する必要がありますが、この「定義を与える」という行為には注意が必要です。なぜならば、定義は事物を制約してしまうからです。その意味において我々は、複雑な事物に定義を付与して明解な説明を可能にする研究者の方々の知見と能力には敬意を払いつつも、その付与する定義には注意を払い、慎重になる必要があります。なぜなら、定義は先述のように、対象となる事物に不要あるいは不自然な制約を加えることがあるからです。

たとえば、幾何学では円は「中心から円周上の任意の点までの距離が等しい図形」といった定義が付与されますが、これはあくまでも理想的な円を想定したものであり、現実にある円を完全に説明し得るものではありません。また、現実にある物体やその形は絶えず変化しています。それ故、さまざまな事物を説明する際に用いる定義は、現実の変化に対して柔軟に対応出来るものが望ましいと云えます。

あるいは、これを説明するための具体例として、化石化した樹脂である琥珀が挙げられます。しばしば、こうした琥珀の中に蠅などが閉じ込められていることが見受けられます。これを透かして見ますと、たしかに蠅の姿が確認できますが、それは実在はするものの、死んでいる蠅です。それゆえ研究者の方々がくだす定義には、この琥珀の中の蠅のように実際には生物ではなく、死んでいると評価され得るものもあります。そして、こうした事例からも分かるように、現実での運用においては、厳密な定義よりも、変化に対応可能な柔軟な定義が有用であると云い得ます。

そして次に、先述しました「文明開化」そして「開化」の要点について考えてみますと、それは端的に、我々の活力の発現の仕方であると云えます。これを詳述して、活力の発現の仕方について考えてみますと、それは大きく積極的なものと消極的なものに分類出来ます。

我々の存在は解釈の仕方によって多様な意味を持ち得ますが、それらの意味を検討するためには、活力の発現の仕方、そしてその持続や進化などが大事な要素となります。

もう少し具体的に述べますと、外部からの刺激に対する我々の反応の仕方は多岐に渡り、刺激があるたびに活力の発現を制限して、できるだけ活力の節約を好むといった性質や、反対に刺激を求めて活力を消耗させることを好むような性質もまたあります。

こうした外部からの刺戟に対する反応の仕方は、活力節約と、その逆の活力消耗の二つの性質として認識されます。活力節約の性質は、概ね義務を果たすための刺激に対して起こります。我々の社会では一般的に義務を果たすことが好ましいとされていますが、これは人間の活力発現の様子を観察して、さらなる組織の発展を促進するうえで重要な役割を持っています。一方、活力を自由に発現する方の意欲は、趣味や娯楽などの活動においてきわめて重要なものであると云えます。具体的には釣り、読書、運動、など多様な活動がこれに当たります。そしてまた、文学、科学、哲学なども、本質的にはこの意欲の発現と云えます。つまり、開化においては、活力の発現やその進化、持続といった要素以外には適切な説明は存在しないと云えます。そして我々の生活状態とは、外部の刺激によって活力が、どのように反応するかを観察することによってほぼ理解できるものと考えます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。