2022年1月23日日曜日

20220122 親戚の師匠について思い出されたこと

これまでの投稿記事に何度か出てきました「当時、松山市在住であった親戚(故人)」は、私がホテル会社(三井観光開発株式会社)にいた頃より、勤務先であったそれぞれのホテルに宿泊して頂き、またその後、和歌山にて人文系の大学院生となった時も、関西方面にて開催された学会の際に和歌山まで足を延ばしてくださいました。

そして当時、私が住んでいたアパートにも来て頂き、室内のデスクおよび、その周辺に積まれた書籍を見て、いくつかを手に取り「いやあ、これは面白そうだね・・。」とか、積んであったいくつかの書籍の内容について質問をされましたが、その返答の様子から、いくらか納得されたのか、あるいは、この危なっかしい甥がどうやら、そこまで怠けることもなく書籍を読み、何やら考えている様を知り安心されたのか、修論のテーマなどについて、いくつかの質問をされた後「わかった。まあ首尾よくいくことを願っているよ。頑張りなさい。」と宣われ、そこからアパートを出立し、私の運転にて次の目的地である高野山に向かいました。

その後、無事に修士課程を修了し、実家に戻り、すぐに親戚宅に報告のために訪ねますと、ご自宅近くの飲み屋に連れて行ってくださり、お酒を飲みつつ「いやあ、本当に良かった。」と実家の家族よりも喜んでくださいました。この喜び様は、社交辞令的なものではなかったようであり、その後、何か機会がある際には度々自宅に呼んでくださるようになりました。

そして、そこから2年後の2009年、歯科技工専門学校を出て、鹿児島に移り住んでからは、先日投稿のブログ記事にて書きました柳川市にて開催された夏季勉強会後の松山訪問の際と、同年11月に兄が亡くなり、その葬式のために帰郷した際にお目に掛かってからは、しばらくお目に掛かる機会はありませんでした。しかし、電話やメールなどでは連絡を取り続け、とりわけ翌2010年に歯科理工学の師匠が退職されることになってからは、不安からか色々と連絡を取っていた記憶があります・・。

その後、この親戚と実際にお会いしたのは、2011年の2度めの松山市訪問の際であり、この時のことにつきましては、またあらためてブログ記事にしたいと考えていますが、そこから更に2年後、2013年9月に(どうにか)学位取得にまで至り、帰郷してからの報告の際には、2010年の出来事(歯科理工学の師匠の退職)の際に愚痴や不満などをぶつけたこともあってか、以前、2007年の修士課程修了の際よりもさらに喜んでくださり、少し泣かれていたと記憶しています・・。

また、2013年に帰郷してからは、市川市内にてアルバイトをしつつ、実家クリニックに隣接するアパートの部屋を利用したクリニックの書庫兼倉庫にて、しばらく暮らしていましたが、その頃、親戚宅のマンションの階下の部屋が丁度空き、また同時に親戚の体調が徐々に思わしくない方へ行っていたことから「何かあった時のために」と、私に階下の空いた部屋にしばらく住むことを提案され、そこからしばらくここに住まわせて頂きましたが、この時は、階下ということもあり、それまでで最も頻繁にお目に掛かる機会がありました。

それは、一緒に食事をとり、しばし雑談をするといったものでしたが、その時の会話は何故か印象的なものが多く、それらのうちのいくつかは、多少形を変え、当ブログ初期の対話形式の記事となっています・・。

また、不思議なもので、こうしたことをブログ記事として作成していますと、また他の記憶が想起されてきましたが、それらにつきましては、また後日、当記事を一つの材料、要素として作成してみたいと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2022年1月22日土曜日

20220121 ブログ記事作成時の新たな試みについて・・

当ブログ開始の頃から、概ね周囲の物音を静かにして記事作成を行ってきました。また、これまでに何度か、音楽をかけながらの作成を試みたことがありましたが、そうした環境下では、どうも上手く記事作成が進みません。そのため「記事作成時は、出来るだけ静かにしておいた方が良いのだろう。」と思うに至り、冒頭に述べた状況にて記事作成を行うのが通常となっています。

他方で先日、歯科理工学の師匠との会話にて「わしゃ、ラジオを聴きながら色々書いとるで、この「ながら」の方がええんや・・」と仰られたことから、気になり、また自分なりにこれを理解しようと試み、今回作成の記事では、背景にニュース解説動画の音声を流しています。

案の定、こうした環境下での記事作成は、不慣れであることから、その進み具合は、普段と比べいくらか遅いと云えますが、しかしながら、この程度まで進みますと、背景音声も当初と比べ、あまり気にならなくなるようであり「もうしばらく、これで作成し続けてみよう・・」と思うに至りました。

また他方で、以前に視聴した手塚治虫の日常や漫画作成過程を特集した番組の動画では、作成する漫画のテーマに合わせた音楽を流したり、放映されているテレビ番組を観ながら漫画作成を行っている様子が映されていましたが、これを観て「文章と漫画との違いはあるが、この様にして創作活動が出来ることはスゴイな・・」と思い、そして、これがさきに述べた師匠との会話の記憶に結節したと云えます。

そこから、このあたりまでどうにか作成していますと、背景の動画音声が終わりましたので「さて、次は何か音楽でも・・」と思い、そこで不図想起された昨日ツイッターにて投稿したモーリス・ラヴェルによる「ボレロ」を流してみることにしました。

さて、ここからの文章では作成する背景に「ボレロ」が流れてから既に4分ほど経過しています。

そのように考えてみますと、さきのニュース解説動画が30分ほどであり、また、現在流れている「ボレロ」は17.5分程の動画であることから、50分に至らずに、この程度までブログ記事を作成することが出来たことが明らかになりましたが、面白いことに、このことを認識した時には、冒頭の「静かな方が記事作成には良いのでは」は既に意識上になく、文章全体の整理のために冒頭文章を読んで気が付かされました。

そうしますと「記事作成時は静かな方が良い」はおそらく「当初の感覚にのみ」基づく感覚であると云え、背景音声によって、当初はあまり気が進まずとも、構わずに続けていますと案外と、この程度までは(どうにか)作成することが出来ることが分かりました・・。

今後、この作成方法が恒常的なものになるかは、未だ不明ではありますが、今しばらく、この体験を楽しんでみようと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2022年1月20日木曜日

20220120 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

ISBN-10 : 4003812654
ISBN-13 : 978-4003812655

大隈は天保9年(1838年)2月佐賀に生まれた。その家格は上士であった。肥前藩の藩校・弘道館で経書を学び、のち藩の蘭学寮において蘭学を勉強し、その後長崎で英学を修めた。そして、これら洋学の勉学にあたっては、とりわけ大砲・築城など軍事方面のことに力を注いだ。

彼ははじめ尊攘思想を抱いていたが、蘭学の修行、長崎への往来、西洋兵制の勉強などの結果、開国論者になった。生来覇気にもえていた若き大隈は、めまぐるしい幕末動乱の政局に肥前藩を登場させようとして、実に焦慮した。しかし、藩主・鍋島直正(閑叟)は公武合体の立場に立ち、終始自重的態度を持して動かず、変革の過程は、大隈の焦燥をよそに肥前藩とは関係なく薩長両藩を中心として進展して、ついに明治維新となった。

 慶応4年(1868年)3月、大隈は参与・外国事務局判事に任じられて、長崎在勤を命ぜられ、こうして彼は明治新政府に仕えることになった。ついで、官命によって京都に赴くが、それは当時外交上の大問題となっていた浦上切支丹宗徒処分問題について外国側との交渉の局に当たるためであった。30歳を越えたばかりの若き大隈は、この折衝においてイギリス公使パークス(sir H. Parkes)に単独で立ち向い、烈しい論争を交えて屈せず、その縦横の才略と毅然たる態度とは、新政府要路のひとびとに大隈の存在を強く印象づけることになった。そもそも維新の主たる推進力は薩長二藩であった関係から、明治新政府においては周知のようにこの両藩の出身者が巨大な勢力を擁してわが世の春を謳歌することになった。これに対して、維新の変革を無為の中に傍観した肥前藩出身者の肩身は甚だ狭く、大隈の前途も亦、おのずから光明に乏しいものにみえた。けれども、浦上問題についてのこの折衝を糸口として、「運命の星」は彼の上に光を投げかけることになった。

 同じ年の12月外国官副知事に任じられたが、その彼は贋造貨幣問題というこれ亦当時の外交上の難問題について外国側と交渉を試みることになった。そして、その問題は財政と深く関連することもあって、会計官副知事も兼任した。彼が財政に関係したのは、実にこのときからである。大隈は後年に回顧して、当時の自分は財政のことには「真個の門外漢」であったが、外交との関係上やむを得ず財政に手を染めることになった。と語っている。臨機に策を立てて果断、決行する性格の彼はやがて財政の根本的立直しを企てるとともに、外国側と交渉を重ねて、幣制度早急の改革を約束して、ついに局面を収拾した。大隈は明治2年4月から会計官副知事専任となった。

 明治3年には参議兼大蔵大輔となった。このとき参議に列していたのは、大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)、広沢真臣(同)、佐々木高行(土佐藩)、斎藤利行(同)であった。それ故に、維新の変革にあたって活躍することのなかった藩の出身で参議になったのは、当時は大隈ただ一人であった。この異例の昇進は何に因るか。それは外交・財政が国政の重要な分野でありながらもその処理には本来特殊の能力・知識を必要とし、曽ての「尊攘の志士」たちの必ずしも得意としない特殊の領域であった。そのような分野で、大隈が機略・闘志をもって難局に当り、臨機・迅速な解決を与えたことに原因する。当時木戸は大隈のこの才略を「義弘、村正の名剣」に喩えた。

 明治6年予算編成問題で時の大蔵大輔井上馨が辞職すると、大隈は大蔵省事務総裁を兼任することになり、困難な予算の編成を達成して、その手腕を示した。ついで、同年征韓論争で西郷隆盛以下の征韓派諸参議が連袂辞職したあと、政府の陣容立直しが行われ、その結果、彼は大久保のあとを襲って参議兼大蔵卿に就任した。そして、大久保は爾後参議兼内務卿として岩倉具視(右大臣)の下で政府の中核となるが、大隈は伊藤博文とともに大久保の羽翼として彼を補佐することになった。なお、伊藤はこの政府再建の際に工部大輔から参議兼工部卿に昇任したのであった。大隈は、このように新政府内に次第にその地歩を築いた。但し、それにもかかわらず、枢機は岩倉具視、三条実美(太政大臣)を別とすれば依然として薩長出身者の手に掌握されていた。それ故に、陸奥宗光が指摘したように、廃藩置県、征韓論争、大阪会議など新政府が当面した重要段階においては大隈はつねに単に第二義的な役割を演じるに止まるか、又は局外に置かれたのであった。

明治10年に西南戦争が勃発すると、大蔵卿たる彼は財政困難の中で不換紙幣の発行に訴えて戦費の調達を行い、その才幹を大いに評価された。ところで、この西南戦争下において木戸孝允は歿したが、翌11年には大久保利通が紀尾井坂の変に倒れた。そうなったとき、大隈の前途ははからずもここに大きくひらけた形になった。もはや上から彼を制御するものはなくなり、且つ彼は今や参議首席ということになった。大隈は伊藤とともに政府の中枢を形づくるにいたったのである。明治11年には彼は41歳であった。


2022年1月18日火曜日

20220118 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

江戸幕府が日米和親条約を締結し、200年以上もつづいた鎖国が終わった1854年からの14年間は、日本の歴史のなかでの激動の時代だった。むりやり開国させられた結果生じたさまざまな問題に、江戸幕府はどうにか対処しようとした。だが、最終的に徳川将軍家はその対処に失敗する。開国が引き金となった日本社会や江戸幕府の変化は、もはや止めようがなかったのだ。それらの変化は今度は、国内の対抗勢力による討幕につながっていき、さらにその対抗勢力によってたてられた新政府のもと、広範囲にわたる変化が起った。

 日米和親情弱と、イギリス、ロシア、オランダが結んだ同様の条約では、日本との貿易をはじめるという西洋諸国の目的はかなえられていない。その初代アメリカ総領事が公称をし、より広範な条項を含む日米修好通商条約を1858年に締結した。この条約には貿易に関する条項がしっかり入っていた。今回もアメリカとの条約締結につづいて、イギリス、フランス、ロシア、オランダとの類似の条約が締結された。やがて日本国内では、これらの条約が屈辱的だとみなされるようになり、「不平等条約」と呼ばれるようになった。そこには、日本は西洋列強諸国のような扱いを受ける価値がない、という西洋諸国の意識が具現化されていたからである。たとえば、西洋諸国に領事裁判権が認められておち、西洋人は日本で裁かれなかった。つぎの半世紀の日本の政策の最優先目標は、この不平等条約を改正することとなった。

 1858年当時の日本の軍隊はまだ脆弱で、この目標を達成できるのは、はるか未来のことのように思われた。そこで江戸幕府はもっと控えめな中間目標を設定する。それは西洋人による介入、その思想の侵入や影響を最小限に食い止めることだった。その目標を達成するために、日本は、その条約を遵守する姿勢をみせつつ、実際はじりじりと先延ばししたり、合意内容を一方的に変えたり、西洋人が日本の地名をあやふやに覚えていることを利用したり、西洋各国を競わせたりしていた。1858年に各国と結んだ条約では、日本は貿易をおこなえる「条約港」を5港に限定させることと、外国人の居住や外出を港の周辺地区に制限し、その範囲を超えた移動の禁止に成功する。

 時間稼ぎが、1854年以降の江戸幕府の基本戦略だった。これは、西洋列強を(できるだけ少ない譲歩で)満足させつつ、西洋の知識、設備、技術を手に入れ、軍事力と軍事力以外の国力を増強し、できるだけ早い時期に西洋列強に抵抗できる能力を身に着けるためだ。幕府と、薩摩藩や長州藩などの有力諸藩は、西洋の船舶や大砲を購入して軍の近代化を図り、欧米に留学生を派遣した。学生たちは、西洋の航海術や造船、工業、土木、科学技術といった実際的な学問ばかりでなく、西洋の法律、言語、憲法、経済、政治学、文字なども学んだ。幕府は、蕃書和解御用を発展させて蕃書調所を設立して、西洋の書物を翻訳したり、英語の文法書や辞書の制作を援助したりした。

 このように幕府と有力大名は力を蓄えていったが、西洋人との接触により、日本国内ではさまざまな問題が生じつつあった。幕府も薩長も、武器の購入や留学生の派遣にともなう出費のため、外国人から多額の借金をしていた。物価が上昇し、生活費を圧迫する。幕府は独占的に外国との貿易をおこなおうとしていたが、それに反対する武士や商人も多かった。一度目のペリー来航の際に対応をめぐって幕府から下問を受けた諸大名のなかには、これまでのように幕府がすべてを決めるのではなく、もっと諸大名が国の政策や計画策定にかかわるべきだと思うようになった者もいた。西洋列強と交渉し、条約を結んだのは幕府だったが、条約に反する行動をとる諸大名を抑え込むことができなくなっていた。

 その結果、各所で衝突が起こった。まず西洋列強と日本のあいだに、開国の規模をめぐる争いが起きていた。西洋列強は、より開国を促進したかったし、日本の多数派意見は、出来るだけ開国を小規模に抑えることだった。昔から幕府に敵対心を持っていた薩長は討幕姿勢を鮮明化させ、西洋の装備や軍事知識を取り入れ、薩長同盟を結んで幕府と争った。大名同士の争いも増えた。本来朝廷の意に沿って行動することになっている幕府と、名目上の国主だった天皇とのあいだにまで対立が起った。たとえば、朝廷は日米修好通商条約の内容に勅許を与えなかったが、幕府はそのまま条約を調印してしまったのだ。

 日本国内でもっとも先鋭化したのは、日本の基本的戦略におけるジレンマをめぐる対立だった。今、外国人に抵抗し、排斥すべきか?それとも、日本がもっと国力を充実させてからにするべきか?幕府による不平等条約の調印は、日本国内に反発を引き起こした。日本を侮辱した外国人への怒り、日本が侮辱されるのは許した将軍や諸大名への怒りに火をつけたのだ。1859年頃はすでに、一途な若い武士たちが、怒りに駆られ血気にはやって刀をひっさげ、外国人を追い出すために、暗殺を繰り返すようになっていた。彼らは「志士」と呼ばれるようになる。彼らは、自分たちが伝統的な日本の価値観だと信じるものに訴え、自分たちは年寄りの政治家たちよりも倫理的に優れた存在だと考えていた。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792

2022年1月17日月曜日

20220116 新年に入りしばらく経ちましたが「今年の目標について」

先ずはじめに、過日発生の南太平洋トンガ沖での海底火山大噴火の影響による、津波からの各地の被害が出来るだけ軽微であることを願っています。

さて、年があらたまり、早や2週間以上経過しましたが、特に心が躍るようなニュースもなく、また、2020年初頭以来の新型コロナ禍は引き続き、私見としては、新春の晴れ晴れしさは乏しく、欝々とした日々が続いているように思われます・・。他方、当ブログは、残り当記事を含めて8記事の投稿により、当面の目標としている1700記事に到達することが出来ます。そして、1000記事を折り返し地点として、この程度まで継続することが出来たことは、私としては驚くべきことであり、もちろん、自分の努力のみに帰するものとは思いませんが「多少は頑張った」と云えるのではないかとも思われます。

あるいは、以前のキリの良い1500記事にて止めておいた方が良かったのではないかと思うことも、未だ度々ありますが、このあたりにまで(どうにか)至りますと、目前とも云える1700記事到達の次にある1800記事まで(どうにか)継続することが出来るのではないかと、ある程度現実的に認識出来るのかと思いきや、1800記事への到達に関しては、現実感は皆無と云え、あるいは、今後さらに3カ月ほど継続し、1750記事あたりにまで到達出来れば、また異なった観念的視野がひらけるのではないかといった、いわば希望的観測をボンヤリと持っているのが実状と云えます・・。

そして、視点を当ブログから転じて、今後、そして今年の目標について考えてみますと、もちろん「新型コロナ禍が多少落着いてから」という前提に基づいてではありますが、鹿児島と和歌山へ訪問してみたいと考えています。また、ここ数年間閲覧することがなかったJREC-INや他の求人サイトなどで週2日程度のパート・タイムの職を見つけて応募したいとも考えています。そして、その具体的な内容とは、さきの鹿児島、和歌山への訪問の願望とも被りますが、定期的にそうした西南日本地域への訪問を要し、職務内容は、それら地域にある複数大学での新たな面白い取組みを取材し、記事としてネット上にて発信するといったものを考えています。こうしたことは既にどなたかが事業として行っているのかもしれませんが、定期的に首都圏からの他者が訪問し、取材をして記事を作成するというスタイルは、あまり多くはないと思われます。

しかし、もう少し考えてみますと、こうしたことは、わざわざそうした職に就かなくとも、大学への理解と学識があり、そうしたことに興味を持っているほかの方々との連携によっても、何かしら出来るのではないかとも思われてきました・・。

また、そうしますと、その分野は私の場合、歯科医療分野に限定されがちとなりますが、しかし、近年、多職種連携が積極的に実践されつつあると云える歯科医療分野において、私のような歯科医療分野に多少縁があり、且つ専門分野的には、海のものとも山のものともつかない人間を情報発信のインター・フェイスとして用いてみるのは、それなりに時宜に適っているのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?そして、そうであれば、ハナシは冒頭に戻り、これまで(どうにか)継続してきました当ブログにも、何かしら付加的な意味を見出すことも出来るのではないかとも思われる次第です・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2022年1月14日金曜日

20220114 昨日からの英論文を読んでいて思った「口頭にて英語を用いる経験の経緯について」

 昨年の暮れ、犬の散歩を利用して年賀状を投函しようと、作成した年賀状の束をコートの胸ポケットに収めて出て、郵便局前のポストに投函し、犬の散歩も終えて帰宅しました。そして、年があらたまった、ある日、また犬の散歩をしようと、その時と同じコートを着用して出たところ、胸ポケットに少し違和感があったことから手を入れてみると、昨年暮れに投函したと思っていた年賀状が何通かありました。

これら年賀状の宛先を見てみますと、歯科理工学の師匠を含め、それぞれ(大変)お世話になっている先生方であり、そこから、あわてて投函しましたが、遅れてしまい大変申し訳なく思う次第です・・。

さて、先日来から読み進めている師匠による英論文ですが、電車内などでも読み進め、半分ほどにまで至りましたが、考えてみますと、以前、歯科理工学を専攻していた際は、師匠の英論文をまとめた冊子を、始終持ち歩いて読んでいましたので、その文体には慣れていると云えます。

また、3年前の10月に奈良で開催された日本デジタル歯科学会学術大会の際には、師匠は英語にて特別講演をされていましたが、その時の内容も、私としては分かり易く、概ね理解出来ていたものと思われます。これは、当時(2019年)にあっては懐かしくも新鮮な感覚であり、その翌日に和歌山にて開催された人文系の勉強会において、そのことを多少興奮気味に話していた記憶があります・・。

しかし、何時頃から、こうした自分の研究内容あるいは、その近接分野での、英語による講演等の内容を理解出来るようになったのかと思い返してみますと、それは2009年、鹿児島に移り住み、数カ月経った、歯科理工学会の九州支部会での夏季勉強会に参加させて頂いた時であったように思われます。

この年の夏季勉強会は、福岡県の柳川市にて開催され、九州各地の歯科理工学分野の研究者が集まり、そこでは、若手院生による、学会発表の練習なども兼ねての発表があったり、他方で、ベテラン研究者による経過報告のような発表もあって大変活発なものでした、さらに、そこで私が驚いたことは、玄界灘の向こう側の韓国の研究者の方々が多数参加されていたことでした。そうした事情から、当勉強会での公用語は英語となっており、そうした中で師匠とQ大のI教授による英語での議論は、なかなか白熱したものであり、しかも、その内容が、それまでに読んできた英論文とも相通じる内容があり「おお、こんな難しそうなことを議論しているのに、その内容が少しは理解出来ているぞ・・。」といった感じを受け、その驚きを休憩時間に先輩院生に話したところ「ああ、しばらく英論文を読んでいると、その分野での口頭のやり取りも大体は分かる様になるよね。」といったお返事を頂きました。

さて、そのように考えてみますと、では私は何時頃から本格的に口頭での英語を用いるようになったのかと思い至るのですが、それは、これまでにも当ブログにて何度か述べましたが、ホテル会社(三井観光開発株式会社)に就職してからであったと云えます。

入社1年目の頃は、そうでもありませんでしたが、2年目にフロントへ転属になってからは、月に何度かは英語を用いる機会がありました。またそれは、その翌年に南紀白浜へ転勤になってからは少し増え、私としては、この業務が特に好きというわけではありませんでしたが、それでも休日には英語の勉強になりそうな映画作品DVDを英語字幕にて鑑賞したりしていました・・。

さらにその後、和歌山にて人文系の大学院生となってからは、そこでは留学生が比較的多く、自然、そうした場での公用語は英語となりましたが、そうした中で私はいくらか積極的に彼等彼女達と交渉を持っていたのではないかと思われます。

そのように考えてみますと、私の口頭による英語を用いる経験は、その後の歯科技工専門学校在学時代(2007~2009)はほぼ空白であったと云えますが、それまでには、少しはあったことが思い出されました。そして、この歯科理工学分野での英論文の読解や試料作製の日々がしばらく続いた後、こうした機会(夏季勉強会)に自身のいわば「進化」と評しても良い変化を認識しますと、何と云いますか、精神が励起されるのでしょうか、その後、柳川市から博多そして広島まで出て、そこからフェリーに乗り、当時、松山市に在住していた親戚と会った時には、そのことを半ば喜々として話題にしていた記憶があります・・。そして、この状態がさらに亢進するとD2病に至るとも云えます・・(苦笑)。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。












2022年1月13日木曜日

20220113 久しぶりに歯科理工学分野での英論文を読んで思ったこと

先日、歯科理工学の師匠から、御自身が執筆された新たな英語論文が論文サイト上にあることを教えられ、早速それをダウンロード、プリント・アウトして、昨日よりこれを、他の読み進めている書籍と併行して読み進めています。そして、それらを交互に読んでみますと、読み始めの頃は、読むための脳?の切替が出来ておらず、少々難儀しつつ、いわば、自身をチューニングすることになります。これは、その分野での文章を読み進めることにより、徐々に為されていくものであり、しばし読んでいますと、その文章の背景概容も思い出され、そして、理解をしつつ読み進めることが出来ているといった感覚を覚えますが、これが、上述のチューニングとなります。

しかし、考えてみますと、こうしたこと(切替)は、以前の自身は、もっと自然・無意識に行っていたと記憶しています。かつては実験などの作業を行いつつ、英論文などを読んでおり、その後、帰宅してからは、小説や他分野の専門書などの読書を日常的に行っていましたので、そうした「チューニング」などと、考えることもなかったのだと思われます。

また、そのように考えてみますと、私にとって歯科理工学分野での、そうした背景概容となるものは、2007年の歯科技工専門学校入学からはじまるものであり、他方で、人文系のそれに関しては、いわば、それまで学んできた期間全てとも云えますので、それら比率で云いますと、人文系の方が、より長いと云えます。くわえて、私の元来の性質は、人文系の方が好きであると考えていますので、そこに耽溺し停滞しないためにも、敢えて私にとっては、この分野での英論文に触れることに、重要な意味があるのではないかと思われました。

そしてまた、ここで新たに思ったことは、そうした前述の「チューニング」を要するような、いわば感覚の断層を経験した際に、何と云いますか、文章のもとになるような「言語による意識の流れ」を知覚することが出来るのではないかということであり、そこから、さきに述べた、元来、私にとっては異質とも云える歯科理工学分野での英論文に触れておく大きな意味があると思われるのです。

さまざまな分野での英文文体がありますが、私としては、歯科理工学分野でのそれにより、いわば、すり込みが為され、その後、しばらく経ってから、書店にて偶然手に取った英語版の小説が意外にも読めることが分かり、英語の勉強も兼ねて、しばしば洋書を購入するようにはなりましたが、ここで、久々に読む歯科理工学分野の師匠による英論文は、私にとってはかなり新鮮であり、また、卑近には、今回のブログ記事の題材となりました。そしてまた同時に、そこで覚えた感覚は【架空の話】の題材にもなると思われましたので、それにつきましては、また後日、作成したいと思います。

しばらく【架空の話】の続編を作成していませんが、近日中での作成を考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。また、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。