2020年11月25日水曜日

202011125【架空の話】・其の48

ちなみにE先生は、年齢がこの時29歳であり、比較的私とも近く、その後、色々とお世話になることも多かった。

その後、ブラブラとT文館を一巡し、途中でペットボトルの暖かいお茶も購入して、ホテルに帰着したのは22:30頃であった。部屋に戻ると、テレビを点けてから、バスタブにお湯を溜めつつ、ベッドに座っていると、僅かに外の繁華街の喧騒が聞こえてきたが、それもまた何故だか、異郷にいることを感じさせた。

やがて、バスタブに湯も溜まり、決して広くはないトイレと一体になったユニットバス内で器用にシャワーで身体を流してから、バスタブに浸かった。気のせいであるかもしれないが、どうも水が首都圏よりも柔らかいように感じられた。しかし、その後、幾つかの地域にて風呂に浸かる経験を経てきたが、この時の感覚は間違いとは思えず、たとえ水道水であろうと、地域による相違はあるのではないかと、現在に至るまで考えている。

さて、風呂から上がり少しのぼせ気味の中、テレビをボーっと観ていると、時刻は24:00近くになっていた。翌日は特に早起きする必要はないものの、少し早く出て、またT文館を歩いてみようと思ったが、そこで不図、ホテルのチェック・アウト時刻が10:00であり、また明日Bがやって来るのが昼前であることを思い出した。そして、Bがやってくる頃には既に宿泊客ではなくなっている私に駐車場を貸してもらえるかが心配になってきた・・。そこで、フロントに内線電話をかけようとしたが、こうしたことは面と向かって言った方が良いと思い、タオルで頭をもう一度拭いてから、客室備え付けの寝間着を着てフロントに向かった。冬季だけに室外は多少冷えたが、我慢できないほどではなかった。やがてフロント前に着くと、若い男性が何やらPCの入力作業のようなことを行っていてが、私の姿を認めると「何か御用でしょうか?」と訊ねてきた。そこで「明日、昼頃から14:00過ぎあたりまで駐車場を使わせてもらうことは可能か?」という主旨の質問をすると、すぐに一端バック・ヤードに下がり、そしたまたすぐに戻ってきてPCの画面を確認してから「ええ、明日の昼は大きな宴会も入っておりませんし、また、自動車でお越しになる早めのチェック・イン予定の方はいらっしゃいませんので、大丈夫です。ええと、何処のお部屋にお泊りでしょうか?」と訊ねてきたことから「はい、7階の7**号室の**と申します。」と返事をすると、ペンで何かを記入して「はい、承知しました。では、その旨、明日勤務の者にも申し伝えておきます。」とのことで、無事に駐車場を使用させて貰えることになった。

安心して、部屋に戻るとルームキーを室内に置いたまま出て来たことに気が付き、閉ざされたオート・ロックのドアの前で少し困惑したが、ここは速やかに再度フロントに行くべきと判断し、またフロントに戻った。フロントのスタッフの方も前と一緒であり、またこちらを認めると何か言い出しそうであったが、私が先に「すいません・・。ルームキーを室内に置いたままで出てきてしまいまして・・」と頭を掻きながら話しかけると「ああ、そうですか、では今ご一緒に伺います。7**号室の**様ですね。」と云い、バック・ヤードに一声掛けてから、しゃがんでキーケースの中にあると思しきマスター・キーを手に持ち、エレベーターに乗り解錠のために同行してくれた。

そこで少し雑談をしたが、こうしたことは度々生じるそうで、特に恥ずかしいことではないとのことであったが、しかし、それでもやはり恥ずかしいには違いないだろう・・。

そうして、どうにか再び室内で落ち着くことが出来たのは、24:00過ぎであり、早々に洗面や歯磨きなどをしてから、就寝した。この日も色々と初めての経験があったことから多少の気疲れもあったようで、すぐに寝付くことが出来た。

翌朝目を覚ましたのは7:30頃であり、特に用事もないことからテレビを点け、そのままベッドの中から観ていると、徐々に目が覚めてきて、ベッドから出て洗面、歯磨きなどを行い、着替えてから概ね荷物をまとめ終えたのが、大体8:15頃であった。チェック・アウトまではまだ大分時間があることから、どこかへ行ってみようと考えたところ、昨夜、偶然会った面接官(E先生)のことから思い出したのか、もう一度大学を見に行こうと思い付いた。そうと決めると動きは速やかになり、外出の準備を済ませて外に出た。今度はルーム・キーは持参したままである。

電停までは徒歩5分もかからずに、やがて来た中央駅方面への市電に乗り、目指す市民病院前駅に着いたのは8:50過ぎであり、思いのほかに早く着いた。そこから大学まではまた徒歩で1、2分程度であり、大学の前に立つと、どうやらこの時期は医療系資格の国家試験が集中しているようで、何だか全体にピリピリした雰囲気が漂っていた。こうした雰囲気は人文社会科学系の大学キャンパスではあまり感じられないものであり、これに関しては今に至るまで、どうも慣れることが出来ない・・。

ともあれ、そうした事情から、折角訪れたキャンパスではあるが、何やら邪魔をするようで悪いと感じ、また時刻も悪くないことから、編入試験の際も利用したファーストフード店に入ると、この時も以前と同様少なくない学生さんと思しき方々がいたが、混雑とまでは行かず、すぐに席も確保出来た。そして、ソーセージエッグマフィンセットを注文し、比較的時間をかけて食べ、食後も一休みしていると、時刻は9:30に近くなっていたことから、ホテルに戻るべく立ち上がり、そして「今日の昼食はあまり食べられないな・・」と不図思った。その後、ホテルに着いたのは9:50頃であり、無事にチェックアウトも終えた。とはいえ、Bが着くまではまだ少し時間があることから、腹ごなしも兼ねて、また少しT文館を散策しようと思い立った。

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20201125 株式会社講談社刊 村上春樹著「羊をめぐる冒険」上巻pp.19-22より抜粋

株式会社講談社刊 村上春樹著「羊をめぐる冒険」上巻pp.19-22より抜粋

ISBN-10 : 4062749122
ISBN-13 : 978-406274912

 1970年11月25日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。強い雨に叩き落された銀杏の葉が、雑木林にはさまれた小径を干上がった川のように黄色く染めていた。僕と彼女はポケットに両手をつっこんだまま、そんな道をぐるぐると歩きまわった。落ち葉を踏む二人のの靴音と鋭い鳥の声の他に何もなかった。

「あなたはいったい何を抱え込んでいるの?」と彼女が突然僕に訊ねた。

「たいしたことじゃないよ」と僕は言った。

彼女は少し先に進んでから道ばたに腰を下し、煙草をふかした。僕もその隣りに並んで腰を下した。

「いつも嫌な夢を見るの?」

「よく嫌な夢を見るよ。大抵は自動販売機の釣り銭が出てこない夢だけどね」

彼女は笑って僕の膝に手のひらを置き、それからひっこめた。

「きっとあまりしゃべりたくないのね?」

「きっとうまくしゃべれないことなんだ」

彼女は半分吸った煙草を地面に捨てて、丁寧に踏み消した。「本当にしゃべりたいことは、うまくしゃべれないものなのね。そう思わない。」

「わからないな」と僕は言った。

ばたばたという音を立てて地面から二羽の鳥がとびたち、雲ひとつない空に吸い込まれるように消えていった。我々はしばらく鳥の消えたあたりを黙って眺めていた。それから彼女は枯れた小枝で地面にわけのわからない図形を幾つか描いた。

「あなたと一緒に寝ていると、時々とても悲しくなっちゃうの」

「済まないと思うよ」と僕は言った。

「あなたのせいじゃないわ。それにあなたが私を抱いている時に別の女の子のことを考えているせいでもないのよ。そんなのはどうでもいいの。私が」彼女はそこで突然口を閉ざしてゆっくりと地面に三本平行線を引いた。「わかんないわ」

「べつに心を閉ざしているつもりはないんだ」と僕は少し間をおいて言った。「何が起こったのか自分でもまだうまくつかめないだけなんだよ。僕はいろんなことをできるだけ公平につかみたいと思っている。必要以上に誇張したり、必要以上に現実的になったりしたくない。でもそれには時間がかかるんだ」

「どれくらいの時間?」

僕は首を振った。「わからないよ。一年で済むかもしれないし、十年かかるかもしれない」

 彼女は小枝を地面に捨て、立ち上がってコートについた枯草を払った。「ねえ、十年って永遠みたいだと思わない?」

「そうだね」と僕は言った。

 我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジで座ってホットドッグをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障したせいで、音声は殆ど聞きとれなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドッグを食べてしまうと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。一人の学生が椅子に乗ってヴォリュームのつまみをしばらくいじっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。

「君が欲しいな」と僕は言った。

「いいわよ」と彼女は言って微笑んだ。

我々はコートのポケットに手を突っ込んだままアパートまでゆっくり歩いた。


2020年11月24日火曜日

20201124 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21Lessonsー21世紀の人類のための21の思考」 pp.17-19より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21Lessonsー21世紀の人類のための21の思考」

ISBN:978-4-309-22788-7

pp.17-19より抜粋

人間は、事実や数値や方程式ではなく物語の形で物事を考える。そして、その物語は単純であればあるほど良い。どんな人も集団も、独自の物語や神話を持っている。だが20世紀には、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、モスクワのグローバルなエリート層が、過去をそっくり説明するとともに全世界の将来を予言するという触れ込みの、三つの壮大な物語を考え出した。ファシズムの物語と、共産主義の物語と、自由主義の物語だ。

 ファシズムの物語は、異なる国家間の闘争として歴史を説明し、他のあらゆる人間の集団を力づくで征服する一つの集団によって支配される世界を思い描いた。共産主義の物語は、異なる階級間の闘争として歴史を説明し、たとえ自由を犠牲にしても平等を確保する。中央集権化された社会制度によって、あらゆる集団が統一される世界を思い描いた。自由主義の物語は、自由と圧制との闘争として歴史を説明し、あらゆる人が自由に平和的に協力し、たとえ平等はある程度犠牲にしても中央の統制を最小限にとどめる世界を思い描いた。

 これら三つの物語の間の争いは、第二次世界大戦で最初の山場を迎え、この戦争によってファシズムが打ち負かされた。1940年代後期から80年代後期にかけて、世界は共産主義と自由主義という、残る二つの物語の間の戦場と化した。やがて共産主義の物語が破綻し、自由主義の物語が、人間の過去への主要なガイド兼、世界の将来への不可欠の手引きとして後に残されたーいや、グローバルなエリート層にはそう思えた。

 自由主義の物語は自由の価値と力を賛美し、次のように語る。人類は何千年にもわたって暴虐な政治体制の下で暮らしてきた。そうした体制は、政治的な権利や経済的な機会や個人の自由を人々にほとんど許さず、個人やアイデアや財の移動を厳しく制限した。だが人々は自由のために戦い、自由は着実に地歩を固めていった。民主的な政治体制が独裁政権を押しのけた。自由企業制が経済的制約に打ち勝った。人々は、偏狭な聖職者や旧弊な伝統にやみくもに従う代わりに、自分で考え、自らの心に従うことを学んだ。公道や頑丈な橋や活気に満ちた空港が、壁や堀や有刺鉄線のついた柵に取って代わった。

 自由主義の物語は、世の中では万事が順調であるわけではないことや、まだ乗り越えなければならない障害が多々あることを認める。地球上の多くが圧制者に支配されており、非常に自由主義的な国々でも、多くの国民が貧困や暴力や迫害に苦しんでいる。だが少なくとも、これらの問題を克服するために何をする必要があるかはわかっている。より多くの自由を人々に与えればいいのだ。私たちは人権を擁護し、全員に選挙権を与え、自由市場を確立し、個人やアイデアや財が世界中をできるだけ容易に移動できるようにする必要がある。この自由主義的な万能の解決法【わずかな違いこそあれ、ジョージ・W・ブッシュもバラク・オバマも受け容れている)によれば、私たちの政治制度と経済制度を自由主義化・グローバル化し続けさえすれば、万人のために平和と繁栄を生み出せるという。

 とどまる所を知らないこの進歩の大行進に加わる国々は、より早く平和と繁栄で報われる。この必然的な展開に逆らおうとする国々は、苦しむ羽目になるー彼等も目を覚まし、国境を開放し、社会と政治と市場を自由主義化するまでは。時間はかかるかもしれないが、北朝鮮やイラクやエルサルバドルさえもが、デンマークあるいはアイオワ州のように見えるようになるだろう。

 1990年代と2000年代には、この物語は繰り返し語られるグローバルな信条になった。ブラジルからインドまで多くの国の政府が、容赦ないこの歴史の進展に加わろうとして、自由主義の処方箋を採用した。そうしそこなった国は、太古の化石のように見えた。1997年、アメリカのビル・クリントン大統領は、中国が政治を自由主義化するのを拒めば、「歴史の流れに逆行する」ことになると、自信たっぷりに中国政府を批判した。

 ところが、2008年のグローバルな金融危機以来、世界中の人々が自由主義の物語にしだいに幻滅するようになった。壁やファイアウォールの人気が回復した。移民や貿易協定への抵抗が強まっている。表向きは民主主義の政府が、司法制度の独立性を損なったり、報道の自由を制限したり、いかなる反政府運動も叛逆呼ばわりしたりしている。トルコやロシアのような国の独裁者は、新しい種類の非自由主義的民主主義やあからさまな独裁制を試している。今日、中国共産党が歴史の流れに逆行していると自信を持って言い切れる人はほとんどいないだろう。

2020年11月23日月曜日

20201123【架空の話】・其の47

ここでBにご馳走になる理由は特にないことから、その旨を伝えると「いやいや、Cさんのこともあるから・・。」と云われ、そこで「ハッ」と感覚的には納得するに至ったものの、ここでの支払いとBとCさんが付き合っていることの明確な関係性は、イマイチよくわからなかった・・。

ともあれ、結局ここでの支払いはBが持つことで落ち着いた。店を出てから夜寒きT文館をぶらぶらと歩きながら私はBに「そういえば、あれからCさんとはどうなっているのか?」と訊ねると「うん、お蔭さまで続いているよ。昨日も電話を掛けて初の赴任先が延岡になったことを伝えたよ。」との返事であった。どうやら頻繁にやり取りはしているようだ。そしてなおも「それでCさんは延岡のことを聞いて何か云っていた?」と聞いてみると「ああ、よく分からないけれど「夏目漱石の「坊ちゃん」のうらなり君?みたい。」とか云っていたよ・・。」とのことであった。私はその意味が理解出来たが、どうもBは分かってないらしかったが、別に取り立てて説明を要することでもないと思い「ははあ、なるほどね。」と返事をした。また、Bもそのことをあまり気にしていないようであった・・。

Bは「新卒の赴任先は大体2年程度の勤務で次の転勤になると聞いているから、この次は多分K市内か、県内の近場がいいな。」と話したが、それは、これまでの6年間の東京での暮らしと比べると、特に長い期間ではないから余裕があるのかもしれない。他方で、私の場合、今回、24歳にして初めて一人暮らしを始めるわけだが、この先、無事に3年(2年次編入)で卒業したとしても、その後は一体どうなるのであろうか・・?と、この異郷の地の繁華街の真中で不図、漠然とした不安に襲われた・・。

そこへBが「じゃあ、明日はまた空港まで車で送るから、たしか17:00過ぎの便だったね。」じゃあ、昼前にホテルに着くようするから、車をホテルの駐車場に停めて、またこのあたりで昼食でも食べようか。」とのことであった。おそらく、この時期、Bも色々と大変であったのだと思われるが、こうして世話をしてくれるのはとてもありがたかった・・。

21時半過ぎ頃にBと電停で別れ、私はホテルに帰る前にコンビニで暖かいお茶でも買おうと思い、T文館を再びブラブラ歩いていると、向かいの方から背広を着た5,6名の集団がやって来るのが目に入った。その声色からして多少酔っていると思われたが、迷惑というほどでもなく、まあ「陽気な感じ」といったほどのものであった。さらに近づいてくると、その中の一人が、見覚えのある顔であることに気が付いた。先方もまた、私の視線に気が付いたようであり、なおも近づくと、その顔が編入試験の面接の際に右側に座っていた頤の立派な若手教員であることを思い出した。そして先方も、私のことを認識したようで、少し態度を取繕うかと思いきや、私に「おお、来年度入学の***君じゃないか?」と大きな声で話しかけてきた。私は「はい、その節のどうも・・。今日はアパートを探しに来ていました。また明日東京に戻ります。」と返事をすると教員は更に思い出したように「・・ああ、そうだ***君は向うの人だったんだ!いやあ、Kへようこそ!勉強頑張ってくれ給え!」と握手を求めて来られた。周囲の方々はそれを見て「ああ、Eがいる大学の新入生らしい」と言い合っていたが、E先生はどうやらこの中で一番若手のようであり、しかも何か嬉しいことがあったように見受けられた。とはいえ、それをこの場で質問するのも変であると思い、簡単に礼を述べてから立ち去ろうとすると背後から「また四月に会おうなあ・・!」と、これまた大きな声で云われた。

後になって知ったことだが、この日はE先生の学位審査の結果が出た日であり、私と遭遇したのは、その祝賀会の後であった。当時、E先生は専門職大学口腔保健工学科の助教を勤めつつK大学大学院医歯学総合研究科にて研究を続けており、学位取得が期待されていたのだが、この時はそれが達成出来て嬉しかったのだと思われる。ちなみにE先生は年齢がこの時29歳であり、比較的私とも近く、その後、色々とお世話になることも多かった。

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20201123【架空の話】・其の3・4加筆修正

「あと、大学での数少ない友人もこのK県の出身者でして・・」と話しているうちに、数少ないというよりも、唯一と云っても良い友人であるBのことを思い出していた・・。
Bは、経済学研究科の修士院生であり、会計学を専攻している。そして、さきにも触れたがK県の出身であり、その父親は公立病院にて院内薬剤師として勤務しているとのことであった。そのため、時折、医療系の話題になることもあったが、歯科医療については話題になったことはなかった。とはいえ、B自身は、銀行など金融系への就職を希望しており、その頃、就職活動の最中であった。

そうしたことを思い出し先生との会話に意識が戻り「ええ、それは少し面白そうですね。それで、その歯科技工士は、どのような仕事なのですか?と素人丸出しの質問をすると、先生は「うん、歯科技工士は平たく云うと入れ歯や銀歯などを作る職人さんと云えるのだが、現在、さまざまな工作機器やそれに使う材料も進歩していて、仕事内容も大きく変化しているところなんだ。そうした、まあ不安定な過渡期とも云える状況から、あまり成り手が少ないのかもしれないけれども、この仕事は、この先もなくてはならない重要なものなんだよ。
それだから最近は色々なところで、これまでの専門学校から大学へと改組されているんだ。だから、このハナシはちょっと検討してみても良いと思うよ・・。」とのことであった。単純な私はそれで少し高揚し、帰宅後に早速Bに電話を掛け、先生から聞いたK県の専門職大学のハナシを伝えたところ「うん、その専門職大学のハナシは前に親から聞いたことがあったが、設置されたのが丁度大学2年の時で、受験するには時既に遅しだったのだ・・。それよりも最近、地元K県の地銀の面接に呼ばれた。」と嬉しそうに話し、さらに「明日は時間があるから少し話そう。」とのことであった。同様に、家族に対し専門職大学のハナシをすると「学費が安ければ、どうにかなるかもしれないが、向こうに行ったら生活はどうするのだ?」とのことであったが、それでもエンジニアの父親からすると、手に職をつけることは、現在の非生産的な文系院生よりかは多少はマシなことであると考えているフシがあるおように感じられた・・。くわえて、K県のハナシでは、K県の県庁所在地K市には、今も先祖の墓があるとのことであり「もし受験して受かれば一度、そこも見てくると良い。」とのことであった。墓は遠い親戚が管理してくれているとのことであり、かなり昔のハナシになるが、先祖がこちらに移住してきたのは明治10年の西南戦争の前であり、戦争当時kにいた親戚の多くは西郷軍側に従軍し亡くなってしまったとのことであった・・。東京に出ていた私の先祖はその後、東京の学校を出て役人になり、最終的には国策で設立した某会社で、ある程度の地位に就き、引退後は故郷K県を思わせる温暖な静岡県沼津市に小さな家を買い、年の大半をそこで過ごしていたという。この沼津の家は現在も親戚が住んでいる。とはいうものの、ズボラな私は、おそらく肝心な話題となる歯科技工士については何も下調べせずに、翌日の昼過ぎに大学近くにある行きつけの喫茶店で、数週間ぶりにBと会っていた。
久しぶりに会ったBは金融系を志望する学生らしく、小ぎれいな服装をしていた。さて、ここで少しBの服装について触れようと思うが、その前に先ず、Bと出会った経緯から書いてみようと思う。

Bと初めて出会ったのは、大学入学後しばらく経ったGWの少し前頃であり、ある履修科目講義の開始時間少し前に講義室入口に一人の学生らしき男がやって来て、そこから教室内全体に聞こえるような声で「すいません。この教室に**ちゅうのはいますか!」と云った。それまで、いくつかのグループに分かれ、雑談や講義の準備などしていた講義室内の全員は、声の主に目をやった後、私のことを知っている数人が、こちらの方を少し見てからまた、それぞれの雑談や準備などに戻っていった。講義室内で**という苗字は私のみであり、且つ、この男性には面識がない。そのため、多少訝しみつつ、席を立ち、おそるおそる講義室入口の男性のもとに行ってみた。そうすると「おお、お前が**か。俺はBと言って経済学部経営学科の一年生だ。それで出身は何高校か?」と唐突に訪ねてきた。私の方は少しためらい気味に「・・僕は文芸学部ヨーロッパ文化学科の**です。出身高校は近所の**高校ですが、そ何か・・?」と精一杯強気な感じで訊ね返した。するとこの男性ことBは「・・そうか、お前は元々こっちの人間なのか・・。それでも、多分親か何かはK県の出身じゃないのか?」と、少し声色を落ち着かせ更に聞いてきた。そこで私は「僕は元々こっちの人間だけれど、たしかに先祖はK県の出身だと聞いているけれども、それが何か?」とさらに訊ね返した。そうするとBの態度はさらに落ち着き、また目のあたりも少し柔和な感じになり「ああ、そうだったのか・・。どうもありがとう。この講義が終わったら学食に行くから、そこで、もう少し話したいのだがどうか?」と、先ほどと比べると大分丁寧に云ってきたことから「うん、分かった。」と一言だけ返事をしてから席に戻った。席に戻る途中で教員が資料を抱え、少しアタフタした様子で講義室に入ってきて周りは静かになった。

講義の後、学食に行ってみると、入口近くのベンチに座り、イヤホンを耳に挿し、何か文庫本を読んでいる、さきほどの男性ことBを認め、声を掛けてみた。すると「顔を上げて、こちらを見て、イヤホンを外し「おお、どうもありがとう。それじゃ中に入ろうか。」と云いつつ、イヤホンをポケットに入れ、文庫本を横に置いてあったリュックに入れて立ち上がった。学食に入り、食券を購入し、列に並び昼食を受け取り、食堂内で席を探していると、まさに昼食時であることから食堂内は大変混雑し、空いている席が見当たらなかった。そこで同じく席を探していたBが「外のテラス席が少し空いているみたいだから、そこに行ってみよう。」と提案し、外に出てみた。外のテラス席もたしかに混んではいたが、食堂内ほどでなく、二人分の座席は確保出来た。そこで昼食を食べつつBは出身地であるK県のことを話し、また「同じ学部の同期で、K県出身者が見つからないので、入学式の際に配布された学部毎の新入学生名簿を見て文芸学部に**という苗字を見つけ、それで、さきほど声を掛けた。」とのことであった。そこで、私も自分の知るk県とのつながりを話してみたところ、Bは興味を示しつつ聞いてくれていた。また、こうして話しをしてみると、さきほどまで、全くの赤の他人であったBの服装に、どうしたわけか注意が向き始めた・・。記憶によると、その時Bは、白の無地Tシャツの上にオーバーサイズ気味の黒のオープンカラ―シャツ(長袖)をボタンを多めに外し着て、若干太めの黒の綿パンを穿き、そして靴は結構使い込んだ、これまた黒のキャンバス オールスターを履いていた。髪型は短髪のツンツンヘアと云うのだろうか、そういった髪型をしていた。その恰好からは、服装に気を使っていることは感じ取られたが、しかしながら同時に「もっとセンス良くなるのでは?」とも強く感じられた。そして、その後もBとは度々会うようになり、また、休日に私の家に来たこともあったが、はじめて会った私の両親に対する、その四角張ったとも云えるような礼儀正しさには少し驚き、後刻「なんだか今の日本人じゃないみたいね・・。」と母親が云っていたが、この指摘は必ずしも誇張ではないように感じられた。

 Bは大学近くのアパートが多く建つ地域で一人暮らしをしており、機会があり部屋を訪ねてみると、男の一人暮らしの割にはキレイに片付ており、驚いたことには、急須で淹れたお茶を出してくれた・・。こういうのは、やはり生まれ育った地域の日常性に染み着いた文化と云えるのではないだろうか。また、そのお茶が今までに飲んできたお茶と異なり、味が濃く美味しかったことから、まさに茶飲み話で「このお茶は美味しいけれど、どこのお茶なの?」と聞いてみたところ「ああ、それは実家から送ってきた食料に入っていたものでK県産のお茶だよ。それが美味しいと感じるのであれば**の舌もそれなりのものなのだろう・・。」とのことであった。こうした、時には強烈過ぎるとも感じられるBの愛郷心というか、ある種の自意識は、これまであまり感じることがなく新鮮であったが、それが良いものであるか、あるいはそうではないのかは、今もってよく分からない。
 また、Bとの話題では、あまり専攻分野についてのことになることはなく、読んでいる本や、映画、音楽そしてファッションなどのことが多かった。ファッションについては、やはり最初の観察通り、ある種のこだわりのようなものがあったが、それは未だ美意識によってまとめられたものではなく、いくつかのポリシーと云っても良かった。そのため、休日や講義が早く終わった日に、渋谷、代官山、原宿、表参道、下北沢、高円寺、吉祥寺、アメ横などに一緒に足を運んだ。そうしたことをしばらく続けているうちにBの方は、自分のお気に入りを幾つか見つけたようであり、私と一緒でなくとも、そうした場所に普通に出向くようになった。また、私がさきに述べた古着屋でのアルバイトをするようになると、時々、突然店に現れて、若干困惑している私に、普通の見知らぬ客のように、平然とある商品について訊ねてくることもあった・・。そうした経緯でBの洋服のセンスは、徐々に洗練されていき、あまり金銭に余裕のない学生としては、それなりにセンスの良い小ぎれいなものになっていったのではないかと思われる。

 さて、ハナシを戻し、Bに電話をかけた翌日、待ち合わせの大学近くの喫茶店に着くと既にBは席に着き、その前にはコーヒーカップと水の入ったグラスが置かれ、Bは何やらスマートホンを操作していた。そして店内に入ってきた私に気が付くと、Bは手を挙げて場所を知らせてくれた。席に着き、Bと対座すると、面接の件のためか上機嫌に見えた。また、その恰好は、綿製、濃紺のジャストサイズで着たベッドフォードジャケットのボタンを外し、その下には台襟が高く、クラシックな胸にフラップポケットがあるタイプのボタンダウンシャツの第一ボタンのみを外して着て、下の方は、セルビッチのある生地を用いた、国内大型衣料品店の細身のジーンズの裾をわずかに折り返して穿き、靴は濃いブラウンスエードのクラークスワラビーを履き、髪型は全体的に刈上げ、その上は寝るか寝ないか程度の髪を、光沢の出る整髪料で七三気味でラフに分けていた。話は私の方から切り出した。「やあ、今日はありがとう。それで、そっちの最近の調子はどうだい?」
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2020年11月22日日曜日

20201122 株式会社角川書店刊 山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」―敗因21カ条 pp.14-15より抜粋

株式会社角川書店刊 山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」―敗因21カ条 pp.14-15より抜粋

”終戦”は単に日本が戦争に敗れたというだけでなく、一つの革命だった。昨日までの英雄は一転して民族の敵となった。同時にすぐさま新しい独裁者が、軍事占領に基づく絶対の権威をもって戦後”民主主義”を推し進めていた。従って当時の多くの人の記述に見られるのが、新しい時代に順応するため、一切を軍部に転嫁し、これを徹底的に罵倒するという形になったり、自分や自分の所属する機関を被害者に仕立てるという形になっている。

 ある大学は軍部に追われた教授を総長に迎えた。軍部に追われたというが、実際は、彼を追い出したのは大学である。しかし、その大学がその教授を総長に迎え、大学自体をその総長と同定することによって、自分の過去を再構成し、あたかも大学自体がその総長同様に被害者であったかの如き態度をとって、そのまま存続した。同じことをした言論機関もあるが、もちろんこの傾向は、あらゆる機関から家族・個人にまで及んでいる。

 こういう場合、その大学や機関等の記す「戦中史」や「回想記」は、たとえ、「直後にその場」という「現地性」と「同時性」を備えていても、信頼できる歴史でも記録でもない。否、むしろ最も信頼に値しないものの一つであろう。

2020年11月21日土曜日

20201121 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.309-313より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.309-313より抜粋

軍の輸送船はひどい、まるで地獄船だという話は前にも聞いていた。しかしその実情は聞きしにまさるもので、いかなる奴隷船もどのような強制収容所も、これに比べれば格段に上等である。前に「週刊朝日」でも触れたが、人類が作り出した最低最悪の収容所といわれるラーベンスブリュック 強制収容所の狂人房も、収容人員一人あたりのスペースでは、陸軍の輸送船よりはるかに、”人道的”といえるのである。前述の石塚中尉の日記をもう一度ここで引用させて頂こう。「・・船中は予想外の混乱なり。船倉も三段設備にて、中隊176名は3間と2間の狭隘なる場所に入れられ、かつ換気悪いため、上層の奥など呼吸停止するほどの蒸れ方なり。何故かくまで船舶事情逼迫せるや。われわれとしては初めて輸送能力の低下している事情を知り大いに考えざるべからず・銃後人にもこの実情を見せ、生産力増強の一助にすべきものなるにかかわらず、国民に実情を秘し、盲目的指導を続けていることは疑問なり」

 これ以上の説明は不要であろう。2間に3間は6坪、これを3層のカイコ棚にすると、人間がしゃがんで入れるスペースは18坪、言い換えれば、ひざを抱えた姿勢の人間を、畳2枚に10名ずつ押し込み、その状態がすでに2週間つづいているということ、窒息して不思議ではない。それは一種異様な、名状しがたい状態であり、ひとたびそこへ入ると、すべては、この世の情景とは思えなくなるほどであった。その中の空気は浮遊する塵埃と湿度で一種異様な濃密さをもち、真暗な船倉の通路の、所々に下がっている裸電球までが、霧にかすんだようにボーッと見え、むーっとする人いきれで、一瞬にして、衣服も体もベタベタしてくる。簡単にいえば、天井が低くて立てないという点で、また窓もなく光も殆どない鉄の箱だという点で、ラッシュアワーの電車以上のひどさで家畜輸送以下なのである。だが、このような場所に2週間も押し込められたままなら、人間は窒息か発狂かである。従って耐えられなくなった者は、甲板へ甲板へと出ていく。しかし甲板には、トラックや機材が足の踏み場もないほど積まれ、通路のようなその間隙には、これまた人間がぎっしりつまり、腰を下ろす余地さえなくなる。一言でいえば、前述したプラットホームである。

 そのくねくねした迷路に一列に並んでいる人の先端が、仮設便所であった。便所にたどりつくのが文字通り「一日仕事」。人間は貨物ではない。貨物なら船倉いっぱいにつめこめればそれですむ。しかし、人間には排泄がある。貨物船の便所は、当然、その乗組員の数に応ずる数しかない。三千人をつめこめば、三千人用の便所がいる。そのため舷側に木箱のような仮設便所が並び、糞尿は船倉をつたって海に流れ落ちる。だがその数も十分ではないから、便所への長蛇の列が切れ目なくつづき、その結果、糞尿の流れが24時間つづくから、船自体が糞尿まみれで走っている。天気ならまだよい。しかし門司を出てから殆ど雨。順番が来るまで雨でぐっしょり濡れる。その兵士が、寒さにふるえながら船倉におりてくる。濡れた衣服と垢だらけの体と便臭から発散する異様な臭気とむっとする湿気。それはますます船倉内を耐えがたくし、そのため人々は、呼吸を求めて甲板へと出て行き、一寸の余地でも見つければそこを占領して動かない。「組織の自転」も不可能、軍紀も何もあったものではない。それでも甲板に出られる人数は、せいぜい3分の1の、千人であろう。

 こんな異常な事態は船舶司令部の「居眠り訓示」などで、どうにかなる状態ではない。戦局は到底内地で想像しているような事態ではない。だがそう思わせたのは、船内のこの状況だけではなかった。バシー海峡までなぜ2週間もかかるのか。南へ向かっているにになぜ雨に濡れた兵士が寒がったか。理由は潜水艦を恐れて前頁の航路をとり、しかもジグザグ行進をするからである。だが、この航路をとれば安全というわけではない。アメリカの潜水艦はすでに沖縄列島の線を越え、東シナ海で縦横に活躍している。そのため海防艦3、駆潜艇5が船団を護衛しており、すでに3回の対潜警報と、1回の爆雷攻撃が行われていた。バシー海峡が危いという話は聞いていたが、日本が、「天皇の浴槽」日本海とともに自分の海同様に思っていた沖縄以北さえもうこの有様とは、当時の内地では想像もできず、戦争はまだ遠い遠い南のはて、そこで一進一退の前哨戦が行われているとみなが思っているのだ。だがこの現実を見れば、大陸への兵站線さえ、すでに半ば遮断されている。驚いた、「こりゃ、とんでもないことになっている」。すべての者が船内船外のこの実情を膚で感じてそう考えないわけにはいかなかった。

 人間は、置かれた実情が余り苦しいと、未来への恐怖を感じなくなる。というのはいまの状態に耐えているのが精一杯、「どうでもいい」という形で、それ以外の思考が停止するからである。ラッシュアワーの電車の中で水の配給・食事の配給・排泄まで行いつつ2週間もたてば、「もし衝突したら・・」という恐怖を抱く余裕のある者は、一人もいなくて不思議ではない。簡単にいえばそういう状態であろう。従って、それまでに聞かされていた「日本のボロ船は、アメリカ製高性能魚雷2溌で15秒で沈む。三千人のうち助かるのは十二、三名」といった恐ろしい話さえ、実感とはならなかった。