2016年11月14日月曜日

20160805 文体の進化とは・・☆☆

A「本日はどうしたわけか体調がすぐれず、また頭も重かったのですが、これまたどうしたわけか、知人二人から連絡がありました・・。

こうした時折やってくる連絡は大変嬉しいもので、おかげさまで本日は体調があまりすぐれない中ではありますが、ブログ記事を作成することに決めました・・。

しかし、この二人が示し合わせて前後して私に連絡をしたわけではないと思われますので、むしろ、こうした現象の方が何やら不思議な感じを受けなくもないです・・(笑)。

こうした現象には何か原因、背景があるのでしょうか・・?

とはいえ、この二人が私が現在記しているブログ記事を読んで頂いているかどうかは不明ではありますが、昨春、このうちの一人からブログ作成を勧められたことを不図、思い出しました・・。

ブログ作成開始当初の頃は書籍からの抜粋が多く、また自身の文章にしても、その文体は硬く、頑なであり、また同時に脆いものであったと記憶しております・・。

そのように考えてみますと、文体においても材料などの物性のように脆性、剛性、弾性、靭性、展延性などといった表現が出来るのかもしれません・・(笑)。

そうしますと、現在記しているブログ記事の文体とは一体どのような物性としての表現が適当なのでしょうか(笑)?

しかし、そもそもそれ以前に現在の私には、ある確立された文体といったものは存在するのでしょうか?

・・とはいうものの、それと同時にかつてのブログ記事作成当初の記事と現在のそれを比較してみますと、私見として、主題の深さにおいては、かつての記事の方が相対的に深いものが多いのではないかと思われる一方、その述べたいところを記すという意味においては、最近作成された記事の文体の方が優れているのではないかと思われます・・。

あるいは、これは記事の主題が深くなくなったために生じたことなのでしょうか・・(苦笑)?

何れにせよ、抽象度が高く、分かり難くなってしまう文体と、具象的であり簡明な文体とは、とりあえず文章を記し続けることにより徐々に融和、同化してゆくものであり、またそれが文体の確立であったり、あるいは洗練といったものではないかと多少手前味噌ともいえる考えが浮かびましたが如何でしょうか(笑)?

とはいえ、これまでブログ記事を継続して作成して実感することは、何かしら書き続けることにより、以前に比べ文章として著し難かった事柄を著すことが出来るようになったことです。

そして、この所謂表現力の進化に内容、主題の深さ、充実が付随していれば良いのですが、これがさきに記したように難しいところであると思われます・・(苦笑)。

あるいはこうしたこともまた「三歩進んで二歩下がる」といった感じなのでしょうか・・(笑)?

ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧と、その後の復興を祈念しております。」

20161113 北杜夫「楡家の人びと」読了 歴史を扱った長編小説の面白さ・・

『ついさきほど「楡家の人びと」第三部を読了しました。

この著作の読了後の充実感もなかなかのものであり、直近に読みました野上彌生子著「迷路」の読了感に近いものがありました・・。

また「楡家の人びと」の結末部での記述からは、これまでの著作、映画などにおいてよく見られる「戦後社会での希望の芽吹き」などよりも、どちらかというと、一つの時代精神、価値観の崩壊および、そこから否応なく生じる混乱、虚脱といった要素の方が強く描かれているように思われます・・。

そして、それ故にこの著作を現在なお読むに値するものと為し、また同時にこのことは「迷路」(「迷路」は具体的な戦後社会までは描いていないにしても、そうした予感については言及している)についても、ある程度共通していえるのではないかと考えます。

また「迷路」に関しては、その描かれている時代精神、価値観がさらに古い江戸時代をも包括しているという点から、作中に描かれる歴史の重層性あるいは反復性、関係性といったものがより明示され、そこから、この著作を面白く、味わい深いものとしているのではないかと考えさせられます・・。

そして、その伝で考えていきますと、近現代を扱った様々な著作において、こうした特徴(歴史の重層性あるいは反復性、関係性などが示唆されている)を持つものとは、思いのほか少ないのではないだろうか・・?と考えてしまうのですが、如何でしょうか・・?

その一方において、現在の我が国社会において「手軽に歴史を認識しよう、あるいは、したような気分になろう」といった、傾向が少なからず存在するのではないかとも考えさせられます・・。

こうした傾向とは、あるいは本職の史家、社会学者などの方々からしますと、噴飯ものであるのか、あるいは自身の仕事を増やし、その重要性を(一時的にではあれ)高めるものとして便乗するに悪くないものであるのかは分かりませんが、私見として、そうした傾向とは、本質的にはあまり良いものではないと考えます・・(特に現今の我が国の場合)。

それに加え、歴史の認識を面白いと感じる方々というのは、どの時代を通じてあまり多くはなく、さらには若い頃の情熱により、それを面白いと感じたとしても、その情熱がホンモノであるかどうかとは、ある程度の年月を経てみないと判然としないとも考えます。

また、自身についても、こうした著作を読むことに関しては特に問題なく、また同時に如上のようなことを記す程度においては特に問題はないのかもしれませんが、では実際にそうしたことを専門とする学問分野の研究者と伍することが出来るのか?と問われると、それはいささか躊躇してしまいます・・(苦笑)。

では何故、これまで少なからず「歴史」を主題としてブログ記事を作成、投稿してきたのかと考えてみますと、おそらく素人、アマチュアなりに表出したい主題が、この分野に集中しており、また、その表出の文体、語彙などにおいて、これまでの経験にて、どうにか間に合わせることが出来たからであると考えます・・。

その意味において、これまで作成し続けている一連のブログ記事とは、自身の文体、語彙を再認識あるいはそれらを精錬する上において一定の寄与をしているものと考えます・・。

また、それと同時に、これまでの記事を如何なる思い、興味によるものか分かりませんが(自身としては)比較的多くの方々に読んで頂いていることが、ブログ記事作成の主要な動力源となっております。

そして今後、特に何ごともなく500記事にまで到達することが出来ましたら、その次は一体どうなるのであろうかと最近不図思ってしまうところではありますが、こうしたことはあまり深く捉えず、500記事到達までは、ただ一記事ずつ作成投稿し続けるのみではないかと考えております・・。

そして、当初の主題から大分ずれてしまいましたが「楡家の人びと」は三部構成の長編ではありますが、我が国の近現代史上での具体的様相を知りたい方々、何か面白い長編を読みたいと考えている方々にとって、大変面白く読むことの出来る著作ではないかと思います。

興味がありましたら、是非、御一読ください。


そして、これを読了されましたら、次に野上彌生子「迷路」を読むのも面白いかもしれません・・。

また、そこで「さらに刺激の強い著作を!」と望まれるのでしたら「神聖喜劇」をおススメします。

私の方はまたインターバルを置き、次なる長編小説あるいは他のそれに類する著作に挑戦しようと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本での大地震、昨今の山陰東部での大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の復興を祈念しております。』











20160804 登山(開聞岳)とブログ作成・・具象から抽象へ・・

本日は若干帰宅が遅くなりました。

そしてまた現在、本日分のブログ記事作成を幾分面倒に思っております・・(笑)。

それでもとりあえず何かしら書いてみようと思い立ち、ここに記しはじめました・・(苦笑)。

書籍は相変わらず色々と読んでおりますが、どうもこの季節、夏とは、以前にも記した通り、あまり込み入った思想系の著作および小説などを読むのには適していないようです・・(苦笑)。

まあ、これもまた慣れではあるのかもしれませんが・・。

そのように考えてみますと、我々が興味を持つ対象の推移とは、一般的に、おそらく先ずはじめに実体が存在するモノに対する興味にはじまり、次にそれを用いる人間の動態、つまり歴史的なものに推移し、その次にその歴史の背景に存在すると認識される大きな思考の流れ、つまり思想的なものに推移してゆくのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

また、これを異言すると、具体的な対象への興味にはじまり、徐々に抽象的な対象への興味へと推移してゆくということであるといえます。

おそらく、こうしたことは、大きく見ますと年齢の上昇に伴う現象であると思われますが、同時に、さらにその内側においても、同じような現象(具体的な対象から抽象的な対象への興味の推移)が、より小さな規模においてもまた、生じているのではないかと思われます・・。

例えるならば、円錐状の山の周囲を周りながら徐々に登ってゆくような感じではないかと思われます。

一周分上に登ったならば、前(下)の一周における同じ位置にて同じような景色が山の外側に見えるものの、それと同時に高度が一周分異なるため、そこからの視野とは前(下)の一周におけるそれとは若干異なる。

そして、そうしたことを山の周囲を周り登ることにより、繰り返してゆくと、いつのまにか、高度の上昇により周囲の植生も異なり、また山の外側の景色も雲を介在させるようになり、随分と異なった様相を示すようになってくる・・。

といった感じではないでしょうか・・(笑)。

そして、こうした感覚を具体的に得られる山が開聞岳(薩摩富士)であったのではないかと記憶しております。

鹿児島在住時、開聞岳は幾度か師匠等と登りましたが、山頂からの眺めは素晴らしく、晴れた日には、はるか南の方角に屋久島および宮之浦岳が望め、北方にはほぼ直下に巨大ウナギあるいはイッシーで有名な池田湖、遠くには桜島、霧島連山などがのぞめます。

また、その登山道は概ね(頂上付近まで)樹林で覆われており、そのため登山中なかなか山の外側の景色が望めませんでしたが、時折視界が開け、外側の景色を見て「ああ、このくらい登ったのだな・・。」と実感することができるのも、これはこれで面白く、味のある登山道の一つでした・・。

さて、そのようなことを記していると不図「期せずして、これは私の作成し続けているブログ記事のことを寓言でもって語っているのではなかろうか?」と思うに至りましたが、果たしてこれは偶然なのでしょうか(笑)?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に発生した熊本での大地震によって被災された地域における出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の復興を祈念しております。」






2016年11月12日土曜日

20161112 記憶の最大公約数化 歴史感覚 時代精神について・・★★★

A「本日作成、投稿する記事により総投稿記事数が476となり、直近の一区切りであった450記事から25記事以上の投稿となり、500記事到達までの半分以上に至ります。

今後もスムーズに500記事到達に至るまで記事作成を継続出来ればと考えております・・。

さて、先日より読んでおります「楡家の人びと」は第三部を読みはじめ、現在200頁近くにまで至りました。

第三部になりますと、太平洋戦争の戦況も悪化の一途を辿り、主要登場人物が亡くなる、怪我を負うといった陰鬱な気持ちにさせるような描写が多くなってきますが、こうしたことは、おそらく我々日本人の多くが、同様、類似したものを、その父祖の記憶として持っている、知っているのではないかと思われます・・。

また、この著作に関しては、その著者が首都圏の御出身であることによってか、自身がかつて祖父母および親戚から伺った太平洋戦争での記憶と類似、重なる部分が幾つかありました・・。

その一方において、そうした記憶とは、地域、地方によっても幾分か最大公約数化出来る傾向らしきものがあるのではないかと考えさせられます・・。

無論、一つ一つの記憶もまた、それ自体で大切なものであるとは考えますが・・。

とはいえ、その地域、地方において最大公約数化出来るような歴史の流れにおける傾向・特徴を認識することもまた「歴史」認識においては重要であり、そこから認識される観念、感覚といったものが、様々な歴史を題材とした映画、物語などの大切な軸となっていくのではないかと考えます。

また、それと同時にそうした観念、感覚とは、学問としての「歴史」とも深く関連するのでしょうが、それは歴史感覚、時代精神の一つの側面から見た異名ではないかとも考えられます・・。

そして、そのように考えてみますと、我が国とは、かつて(少し前・10~20年前迄)は、そうした感覚を比較的明晰に保持されている方々が各界におられ、またそれらの方々が社会に対し一定の影響力を有していたのですが、現今の我が国社会とは、そうした存在を、あまり見受けることが出来ないのではないかと思われます・・。

さらに、こうした状況とは、世界各国においてもまた、同様の傾向を示しているのではないかとも考えさせられるのです・・。

そして、こうした様々なレベル、規模における世代間価値観(歴史感覚、時代精神)の共有が為されず歴史が進展していきますと、そこから様々な波風、軋轢が生じるのではないかとも考えさせられます・・。

とはいえ、こうしたことは『おそらくこれまでの歴史上幾度も繰り広げられてきた一つの現象ではあるまいか、それ故、特に現在こうしたことを悲観してもどうにもならないのではないか・・?』
とも考えさせられますが、しかし、そこで達観を装い、あるいは波風の立たぬよう、見て見ぬふりをし、言語として表現、何かしらのカタチで発信をしないこともまた、如何なものかと考えますので、本日のブログ記事は、こうしたことを題材として記すに至りました・・。

さて、これを読んで頂いている皆様はどのように考えますでしょうか・・?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、そうもありがとうございます。

先日の博多での道路陥没事故の早期の復旧、そして、さる熊本、山陰東部における大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年11月10日木曜日

20161110 凝集性の強さ?

本日の首都圏は幾分風が強く、また気温も特に日が沈んだ後は寒く感じました。

さて、昨日投稿したブログ記事の主題であった「我が国に移入された異文化由来の事物が、我が国にて定着する過程において、大きくその原型から変質していく」ということは、宗教といった極めて観念的なものであるほど、それが明瞭に認識されるのかもしれません・・。

そして、そのように考えてみますと16世紀に我が国にもたらされたキリスト教とは、一時的にその信徒数が数十万人に達したとのことですが、それが幾つかに渡る覇権者達による弾圧、迫害により、幾度かの叛乱を経て17世紀前半あたりまでには、ほぼいなくなっていたとのことです・・。

また、この時代を描いた小説として遠藤周作著「沈黙」が挙げられますが、この小説の最終部に近いところで、棄教したかつての神父の独白する内容が大変興味深く、また、それは以前にブログ記事にて記しましたが、その内容とは「日本にはキリスト教であ何であれ、それが齎されたオリジナルのカタチにて受容、定着することはない。そうしたもの全てをこの国の土地、空気、精神風土が溶かしていき、何か全く別のものにしてしまうのだ・・。」というものです。

これはおそらく我が国だけに当て嵌まるような現象ではないと考えますが、一方、我が国における、さきに述べたような特質、傾向とは、おそらく相対的に見てかなり強いのではないかと思われます・・。

そして、こうした特質、傾向を有していたが故に明治維新という突貫工事による近代化も、どうにか行うことが出来たのではないかと思います・・(これはたしかに一つの優秀さではあると思いますが・・)。

しかし、突貫工事とは、あくまでも突貫工事であり、歴史規模での経時的、自然発生的な要素などをあまり考慮する余裕?がなかったのではないかとも思われのです・・。

とはいえ、こうしたことは明治期から既に認識されており、夏目漱石の思想の主要な核の一つとして、さきに述べたようなことを基調とした諦念に近いものがあったのではないかと考えます・・。

それに加え、その弟子である芥川龍之介が徐徐に社会全般の軍事色が強くなりつつあり、また四年後に満州事変を控えた昭和二年に、かねてより抱いていた厭世的な思想により、自らの命を絶ったという夏目漱石から芥川龍之介に至るまでの一連の系譜とは、多少、単純化過剰の気味はありますが、明治以降の我が国における一つの文学および社会思想の系譜とも見ることが出来るのではないでしょうか・・?

とはいえ、こうした明治以降のどちらかという陰鬱な思想の系譜が、多くの犠牲者を出した太平洋戦争の敗戦によってリセットされることはないものと考えます・・。

それは現在もなお、我々が忘れようと、嗤おうと、いつまでも我々の社会の背後に存在しているのではないかと思われるのです・・それを明晰に認識するまで・・。

そして、ここまで記していて、不図思い起こしたのは偶然にも夏目漱石の短編集「夢十夜」の「第三夜」です。

興味のある方は是非お読みください。

あるいは朗読の動画もあるようです・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本での大地震により被災された地域、昨今の山陰東部の大地震により同じく被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興に加え、先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧を祈念しております。



2016年11月9日水曜日

20161109 ガラパゴス化 百家争鳴 歯科医療について・・☆☆

先日より言語、コトバの解像能について記してきましたが、これはなかなか大事なものではないかと思われます。

しかし、それと同時にここ数日はそうした形而上、思想的なものとは対極にあるともいえる、かつて研究に従事した歯科材料・補綴装置についてのハナシを伺うことが多かったです・・。

こうした偶然もまた、なかなか面白いものです(笑)。

とはいえ、これに関しては単純に現在仕事にて歯科医院を訪ねることが多いからであり、決して偶然とは云えないのかもしれませんが・・(笑)。

さて、現今、歯科医療にて用いられる様々な補綴物とは、概ねその発明、原案が海外(特に欧米)由来のものであり、それが我が国に移入し、歯科臨床にて広汎に用いられるようになりますと、どうもその発明、原案が保持していた、背景における意味合い、思想的なものが改変・変質あるいは除去され、あくまでも我が国における実用性、有用性に寄与するような形式に沿い、ある種独特の発展、変化の形態を辿るといった特徴・傾向があるのではないかと思われます・・。

そして、それが歯科医療の臨床にて傾向として認められるようになりますと、おそらく原理・守旧派、現実・改革派といった名称の付与が適当であるか分かりませんが、その構図を単純具体化しますと、海外よりもたらされた当該歯科臨床技術の移入初期に活躍された多くは海外著名大学への留学経験およびツテのある先生方と、移入以後の我が国での普及、発展期において国内にて活躍された先生方との当該臨床技術を巡る思想的な対立といった構図を示すようになるのではないかと思われます・・。

しかしながら、こうした対立とは我が国の場合、何も歯科医療の分野のみならず、他の様々な分野にもまた類似した構図を見出すことが出来るのではないかとも思われます・・。

そして、その結果の状態に付与される名称が「ガラパゴス化」といったものではないかと思われます。

また、それが工業により製造される機器であるならば、まだ妥協点を模索できるのかもしれませんが、これが人の生命・健康に対しても深く関与するものである場合、そうとばかりはいえなくなり、それこそ、さきに示した二者あるいはそれ以上の異なった思想をもつ主体、集団による、まさに百家争鳴といった事態をも招来するのではなかろうかと思われます・・。

さらに、我が国における、こうした構図の淵源について考えてみますと、それは古代における鋳造青銅器である銅鐸・銅矛あるいはそれ以前の縄文土器あたりからの系譜ではないかと考えさせられます・・。

くわえて、それらが歯科補綴物の作製に多用される鋳造技術によるものであり、また一方はこれまた歯科補綴物の作製に用いられるセラミックスであることは構図としては大変面白く、また見方によっては皮肉なものであるのかもしれません・・(苦笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。

20161108 コトバ・言語の解像能および詩、普遍とは・・

本日の首都圏は雨が降り、なかなか寒いものでした・・。
また九州の博多駅前にて地下鉄工事での何らかの異変により、道路の表面が陥没したとのことです。これにより怪我人が出なかったのは本当に幸いでした。
さて、昨日のブログ記事に記した「解像能」ですが、これは我々の用いるコトバ、言語に対しても便宜的にではあるかもしれませんが、用いることが出来るのではないかと思います・・。
つまり解像能が高い、低いコトバ、言語そして文章ということになります。
解像能の高いコトバ、言語、文章とは、それを読み、聞くことにより、その述べる、言わんとするところがスンナリと容易に理解出来るといった性質を持つものであると考えます。
そして、解像能の低いものとは、その逆です。
そのように考えてみますとコトバ、言語、文章ではありませんが、マンガとは、極めて解像能が高いといいますか、視覚即認識といったところがあるのではないかと思われます・・。
それに対し、音声言語、文字言語とは何れであれ、その内容理解に至るまでには様々な段階があるのではないかと思われます・・。
そして、本当に良いコトバ、文章とは、一見容易にその内容が理解出来るものでありながら、同時に、そこに様々な抽象度の段階における理解、認識、解釈の仕方があり、また、それが各々充実した内容を持っているようなものではないかと考えます。
そこまで考えてみますと、私には未だその価値の深遠さを理解することは出来ませんが「詩」の価値などは概ね、そうしたところを基盤としているのではないかと考えさせられます・・。
その一方において、あくまでもコトバ、言語の第一義的な解釈、あるいは多義的な解釈をあまり為さしめないコトバ、言語によって記された、いや、構築された文章といったものが論文など学術的な著作一般ではないかと考えます。
とはいえ、考えてみますと、さきのようにして構築された論文などにおいてもまた、表層のみならず深層的な意味において「詩的」な文章を持つものがあってもまた面白いのではないかとも思われますが・・(笑)。
繰り返し、私は詩に関しては門外漢ではありますが、それでも、さきに述べた「詩」の価値に基づいて考えてみますと、本当に「詩」あるいは「詩的な文章」にて充実した内容を持つと認識される要因とは、それが作成された時から長く経た後においても、何かしらの内容、意味、深さが認められる、つまり「普遍性」に関連するのではないかと考えるのです・・。
また、それは類似音、言語などの巧みな反復というような表層的、技巧的なものと少し(次元が)異なるように思われます・・。
そして、そのコトバ、文章が普遍性に触れる、貫くような(詩的な)内容、意味を持つようになるためには、個人は一体どのような過程・経験を経るのが良いのでしょうか・・?
あるいは、たとえ目指すものが普遍性であったとしても、そこに至るまでの過程、経験とは、各個人によって異なり、いわば個別性が高いようにも思われます・・。
いや、あるいは、それはいくつかのタイプぐらいには分類することが出来るのかもしれませんが・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。