A「本日作成、投稿する記事により総投稿記事数が476となり、直近の一区切りであった450記事から25記事以上の投稿となり、500記事到達までの半分以上に至ります。
今後もスムーズに500記事到達に至るまで記事作成を継続出来ればと考えております・・。
さて、先日より読んでおります「楡家の人びと」は第三部を読みはじめ、現在200頁近くにまで至りました。
第三部になりますと、太平洋戦争の戦況も悪化の一途を辿り、主要登場人物が亡くなる、怪我を負うといった陰鬱な気持ちにさせるような描写が多くなってきますが、こうしたことは、おそらく我々日本人の多くが、同様、類似したものを、その父祖の記憶として持っている、知っているのではないかと思われます・・。
また、この著作に関しては、その著者が首都圏の御出身であることによってか、自身がかつて祖父母および親戚から伺った太平洋戦争での記憶と類似、重なる部分が幾つかありました・・。
その一方において、そうした記憶とは、地域、地方によっても幾分か最大公約数化出来る傾向らしきものがあるのではないかと考えさせられます・・。
無論、一つ一つの記憶もまた、それ自体で大切なものであるとは考えますが・・。
とはいえ、その地域、地方において最大公約数化出来るような歴史の流れにおける傾向・特徴を認識することもまた「歴史」認識においては重要であり、そこから認識される観念、感覚といったものが、様々な歴史を題材とした映画、物語などの大切な軸となっていくのではないかと考えます。
また、それと同時にそうした観念、感覚とは、学問としての「歴史」とも深く関連するのでしょうが、それは歴史感覚、時代精神の一つの側面から見た異名ではないかとも考えられます・・。
そして、そのように考えてみますと、我が国とは、かつて(少し前・10~20年前迄)は、そうした感覚を比較的明晰に保持されている方々が各界におられ、またそれらの方々が社会に対し一定の影響力を有していたのですが、現今の我が国社会とは、そうした存在を、あまり見受けることが出来ないのではないかと思われます・・。
さらに、こうした状況とは、世界各国においてもまた、同様の傾向を示しているのではないかとも考えさせられるのです・・。
そして、こうした様々なレベル、規模における世代間価値観(歴史感覚、時代精神)の共有が為されず歴史が進展していきますと、そこから様々な波風、軋轢が生じるのではないかとも考えさせられます・・。
とはいえ、こうしたことは『おそらくこれまでの歴史上幾度も繰り広げられてきた一つの現象ではあるまいか、それ故、特に現在こうしたことを悲観してもどうにもならないのではないか・・?』
とも考えさせられますが、しかし、そこで達観を装い、あるいは波風の立たぬよう、見て見ぬふりをし、言語として表現、何かしらのカタチで発信をしないこともまた、如何なものかと考えますので、本日のブログ記事は、こうしたことを題材として記すに至りました・・。
さて、これを読んで頂いている皆様はどのように考えますでしょうか・・?
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、そうもありがとうございます。
先日の博多での道路陥没事故の早期の復旧、そして、さる熊本、山陰東部における大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年11月12日土曜日
2016年11月10日木曜日
20161110 凝集性の強さ?
本日の首都圏は幾分風が強く、また気温も特に日が沈んだ後は寒く感じました。
さて、昨日投稿したブログ記事の主題であった「我が国に移入された異文化由来の事物が、我が国にて定着する過程において、大きくその原型から変質していく」ということは、宗教といった極めて観念的なものであるほど、それが明瞭に認識されるのかもしれません・・。
そして、そのように考えてみますと16世紀に我が国にもたらされたキリスト教とは、一時的にその信徒数が数十万人に達したとのことですが、それが幾つかに渡る覇権者達による弾圧、迫害により、幾度かの叛乱を経て17世紀前半あたりまでには、ほぼいなくなっていたとのことです・・。
また、この時代を描いた小説として遠藤周作著「沈黙」が挙げられますが、この小説の最終部に近いところで、棄教したかつての神父の独白する内容が大変興味深く、また、それは以前にブログ記事にて記しましたが、その内容とは「日本にはキリスト教であ何であれ、それが齎されたオリジナルのカタチにて受容、定着することはない。そうしたもの全てをこの国の土地、空気、精神風土が溶かしていき、何か全く別のものにしてしまうのだ・・。」というものです。
これはおそらく我が国だけに当て嵌まるような現象ではないと考えますが、一方、我が国における、さきに述べたような特質、傾向とは、おそらく相対的に見てかなり強いのではないかと思われます・・。
そして、こうした特質、傾向を有していたが故に明治維新という突貫工事による近代化も、どうにか行うことが出来たのではないかと思います・・(これはたしかに一つの優秀さではあると思いますが・・)。
しかし、突貫工事とは、あくまでも突貫工事であり、歴史規模での経時的、自然発生的な要素などをあまり考慮する余裕?がなかったのではないかとも思われのです・・。
とはいえ、こうしたことは明治期から既に認識されており、夏目漱石の思想の主要な核の一つとして、さきに述べたようなことを基調とした諦念に近いものがあったのではないかと考えます・・。
それに加え、その弟子である芥川龍之介が徐徐に社会全般の軍事色が強くなりつつあり、また四年後に満州事変を控えた昭和二年に、かねてより抱いていた厭世的な思想により、自らの命を絶ったという夏目漱石から芥川龍之介に至るまでの一連の系譜とは、多少、単純化過剰の気味はありますが、明治以降の我が国における一つの文学および社会思想の系譜とも見ることが出来るのではないでしょうか・・?
とはいえ、こうした明治以降のどちらかという陰鬱な思想の系譜が、多くの犠牲者を出した太平洋戦争の敗戦によってリセットされることはないものと考えます・・。
それは現在もなお、我々が忘れようと、嗤おうと、いつまでも我々の社会の背後に存在しているのではないかと思われるのです・・それを明晰に認識するまで・・。
そして、ここまで記していて、不図思い起こしたのは偶然にも夏目漱石の短編集「夢十夜」の「第三夜」です。
興味のある方は是非お読みください。
あるいは朗読の動画もあるようです・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本での大地震により被災された地域、昨今の山陰東部の大地震により同じく被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興に加え、先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧を祈念しております。
さて、昨日投稿したブログ記事の主題であった「我が国に移入された異文化由来の事物が、我が国にて定着する過程において、大きくその原型から変質していく」ということは、宗教といった極めて観念的なものであるほど、それが明瞭に認識されるのかもしれません・・。
そして、そのように考えてみますと16世紀に我が国にもたらされたキリスト教とは、一時的にその信徒数が数十万人に達したとのことですが、それが幾つかに渡る覇権者達による弾圧、迫害により、幾度かの叛乱を経て17世紀前半あたりまでには、ほぼいなくなっていたとのことです・・。
また、この時代を描いた小説として遠藤周作著「沈黙」が挙げられますが、この小説の最終部に近いところで、棄教したかつての神父の独白する内容が大変興味深く、また、それは以前にブログ記事にて記しましたが、その内容とは「日本にはキリスト教であ何であれ、それが齎されたオリジナルのカタチにて受容、定着することはない。そうしたもの全てをこの国の土地、空気、精神風土が溶かしていき、何か全く別のものにしてしまうのだ・・。」というものです。
これはおそらく我が国だけに当て嵌まるような現象ではないと考えますが、一方、我が国における、さきに述べたような特質、傾向とは、おそらく相対的に見てかなり強いのではないかと思われます・・。
そして、こうした特質、傾向を有していたが故に明治維新という突貫工事による近代化も、どうにか行うことが出来たのではないかと思います・・(これはたしかに一つの優秀さではあると思いますが・・)。
しかし、突貫工事とは、あくまでも突貫工事であり、歴史規模での経時的、自然発生的な要素などをあまり考慮する余裕?がなかったのではないかとも思われのです・・。
とはいえ、こうしたことは明治期から既に認識されており、夏目漱石の思想の主要な核の一つとして、さきに述べたようなことを基調とした諦念に近いものがあったのではないかと考えます・・。
それに加え、その弟子である芥川龍之介が徐徐に社会全般の軍事色が強くなりつつあり、また四年後に満州事変を控えた昭和二年に、かねてより抱いていた厭世的な思想により、自らの命を絶ったという夏目漱石から芥川龍之介に至るまでの一連の系譜とは、多少、単純化過剰の気味はありますが、明治以降の我が国における一つの文学および社会思想の系譜とも見ることが出来るのではないでしょうか・・?
とはいえ、こうした明治以降のどちらかという陰鬱な思想の系譜が、多くの犠牲者を出した太平洋戦争の敗戦によってリセットされることはないものと考えます・・。
それは現在もなお、我々が忘れようと、嗤おうと、いつまでも我々の社会の背後に存在しているのではないかと思われるのです・・それを明晰に認識するまで・・。
そして、ここまで記していて、不図思い起こしたのは偶然にも夏目漱石の短編集「夢十夜」の「第三夜」です。
興味のある方は是非お読みください。
あるいは朗読の動画もあるようです・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本での大地震により被災された地域、昨今の山陰東部の大地震により同じく被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興に加え、先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧を祈念しております。
2016年11月9日水曜日
20161109 ガラパゴス化 百家争鳴 歯科医療について・・☆☆
先日より言語、コトバの解像能について記してきましたが、これはなかなか大事なものではないかと思われます。
しかし、それと同時にここ数日はそうした形而上、思想的なものとは対極にあるともいえる、かつて研究に従事した歯科材料・補綴装置についてのハナシを伺うことが多かったです・・。
こうした偶然もまた、なかなか面白いものです(笑)。
とはいえ、これに関しては単純に現在仕事にて歯科医院を訪ねることが多いからであり、決して偶然とは云えないのかもしれませんが・・(笑)。
さて、現今、歯科医療にて用いられる様々な補綴物とは、概ねその発明、原案が海外(特に欧米)由来のものであり、それが我が国に移入し、歯科臨床にて広汎に用いられるようになりますと、どうもその発明、原案が保持していた、背景における意味合い、思想的なものが改変・変質あるいは除去され、あくまでも我が国における実用性、有用性に寄与するような形式に沿い、ある種独特の発展、変化の形態を辿るといった特徴・傾向があるのではないかと思われます・・。
そして、それが歯科医療の臨床にて傾向として認められるようになりますと、おそらく原理・守旧派、現実・改革派といった名称の付与が適当であるか分かりませんが、その構図を単純具体化しますと、海外よりもたらされた当該歯科臨床技術の移入初期に活躍された多くは海外著名大学への留学経験およびツテのある先生方と、移入以後の我が国での普及、発展期において国内にて活躍された先生方との当該臨床技術を巡る思想的な対立といった構図を示すようになるのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした対立とは我が国の場合、何も歯科医療の分野のみならず、他の様々な分野にもまた類似した構図を見出すことが出来るのではないかとも思われます・・。
そして、その結果の状態に付与される名称が「ガラパゴス化」といったものではないかと思われます。
また、それが工業により製造される機器であるならば、まだ妥協点を模索できるのかもしれませんが、これが人の生命・健康に対しても深く関与するものである場合、そうとばかりはいえなくなり、それこそ、さきに示した二者あるいはそれ以上の異なった思想をもつ主体、集団による、まさに百家争鳴といった事態をも招来するのではなかろうかと思われます・・。
さらに、我が国における、こうした構図の淵源について考えてみますと、それは古代における鋳造青銅器である銅鐸・銅矛あるいはそれ以前の縄文土器あたりからの系譜ではないかと考えさせられます・・。
くわえて、それらが歯科補綴物の作製に多用される鋳造技術によるものであり、また一方はこれまた歯科補綴物の作製に用いられるセラミックスであることは構図としては大変面白く、また見方によっては皮肉なものであるのかもしれません・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。
しかし、それと同時にここ数日はそうした形而上、思想的なものとは対極にあるともいえる、かつて研究に従事した歯科材料・補綴装置についてのハナシを伺うことが多かったです・・。
こうした偶然もまた、なかなか面白いものです(笑)。
とはいえ、これに関しては単純に現在仕事にて歯科医院を訪ねることが多いからであり、決して偶然とは云えないのかもしれませんが・・(笑)。
さて、現今、歯科医療にて用いられる様々な補綴物とは、概ねその発明、原案が海外(特に欧米)由来のものであり、それが我が国に移入し、歯科臨床にて広汎に用いられるようになりますと、どうもその発明、原案が保持していた、背景における意味合い、思想的なものが改変・変質あるいは除去され、あくまでも我が国における実用性、有用性に寄与するような形式に沿い、ある種独特の発展、変化の形態を辿るといった特徴・傾向があるのではないかと思われます・・。
そして、それが歯科医療の臨床にて傾向として認められるようになりますと、おそらく原理・守旧派、現実・改革派といった名称の付与が適当であるか分かりませんが、その構図を単純具体化しますと、海外よりもたらされた当該歯科臨床技術の移入初期に活躍された多くは海外著名大学への留学経験およびツテのある先生方と、移入以後の我が国での普及、発展期において国内にて活躍された先生方との当該臨床技術を巡る思想的な対立といった構図を示すようになるのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした対立とは我が国の場合、何も歯科医療の分野のみならず、他の様々な分野にもまた類似した構図を見出すことが出来るのではないかとも思われます・・。
そして、その結果の状態に付与される名称が「ガラパゴス化」といったものではないかと思われます。
また、それが工業により製造される機器であるならば、まだ妥協点を模索できるのかもしれませんが、これが人の生命・健康に対しても深く関与するものである場合、そうとばかりはいえなくなり、それこそ、さきに示した二者あるいはそれ以上の異なった思想をもつ主体、集団による、まさに百家争鳴といった事態をも招来するのではなかろうかと思われます・・。
さらに、我が国における、こうした構図の淵源について考えてみますと、それは古代における鋳造青銅器である銅鐸・銅矛あるいはそれ以前の縄文土器あたりからの系譜ではないかと考えさせられます・・。
くわえて、それらが歯科補綴物の作製に多用される鋳造技術によるものであり、また一方はこれまた歯科補綴物の作製に用いられるセラミックスであることは構図としては大変面白く、また見方によっては皮肉なものであるのかもしれません・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。
20161108 コトバ・言語の解像能および詩、普遍とは・・
本日の首都圏は雨が降り、なかなか寒いものでした・・。
また九州の博多駅前にて地下鉄工事での何らかの異変により、道路の表面が陥没したとのことです。これにより怪我人が出なかったのは本当に幸いでした。
さて、昨日のブログ記事に記した「解像能」ですが、これは我々の用いるコトバ、言語に対しても便宜的にではあるかもしれませんが、用いることが出来るのではないかと思います・・。
つまり解像能が高い、低いコトバ、言語そして文章ということになります。
解像能の高いコトバ、言語、文章とは、それを読み、聞くことにより、その述べる、言わんとするところがスンナリと容易に理解出来るといった性質を持つものであると考えます。
そして、解像能の低いものとは、その逆です。
そのように考えてみますとコトバ、言語、文章ではありませんが、マンガとは、極めて解像能が高いといいますか、視覚即認識といったところがあるのではないかと思われます・・。
それに対し、音声言語、文字言語とは何れであれ、その内容理解に至るまでには様々な段階があるのではないかと思われます・・。
そして、本当に良いコトバ、文章とは、一見容易にその内容が理解出来るものでありながら、同時に、そこに様々な抽象度の段階における理解、認識、解釈の仕方があり、また、それが各々充実した内容を持っているようなものではないかと考えます。
そこまで考えてみますと、私には未だその価値の深遠さを理解することは出来ませんが「詩」の価値などは概ね、そうしたところを基盤としているのではないかと考えさせられます・・。
その一方において、あくまでもコトバ、言語の第一義的な解釈、あるいは多義的な解釈をあまり為さしめないコトバ、言語によって記された、いや、構築された文章といったものが論文など学術的な著作一般ではないかと考えます。
とはいえ、考えてみますと、さきのようにして構築された論文などにおいてもまた、表層のみならず深層的な意味において「詩的」な文章を持つものがあってもまた面白いのではないかとも思われますが・・(笑)。
繰り返し、私は詩に関しては門外漢ではありますが、それでも、さきに述べた「詩」の価値に基づいて考えてみますと、本当に「詩」あるいは「詩的な文章」にて充実した内容を持つと認識される要因とは、それが作成された時から長く経た後においても、何かしらの内容、意味、深さが認められる、つまり「普遍性」に関連するのではないかと考えるのです・・。
また、それは類似音、言語などの巧みな反復というような表層的、技巧的なものと少し(次元が)異なるように思われます・・。
そして、そのコトバ、文章が普遍性に触れる、貫くような(詩的な)内容、意味を持つようになるためには、個人は一体どのような過程・経験を経るのが良いのでしょうか・・?
あるいは、たとえ目指すものが普遍性であったとしても、そこに至るまでの過程、経験とは、各個人によって異なり、いわば個別性が高いようにも思われます・・。
いや、あるいは、それはいくつかのタイプぐらいには分類することが出来るのかもしれませんが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。
また九州の博多駅前にて地下鉄工事での何らかの異変により、道路の表面が陥没したとのことです。これにより怪我人が出なかったのは本当に幸いでした。
さて、昨日のブログ記事に記した「解像能」ですが、これは我々の用いるコトバ、言語に対しても便宜的にではあるかもしれませんが、用いることが出来るのではないかと思います・・。
つまり解像能が高い、低いコトバ、言語そして文章ということになります。
解像能の高いコトバ、言語、文章とは、それを読み、聞くことにより、その述べる、言わんとするところがスンナリと容易に理解出来るといった性質を持つものであると考えます。
そして、解像能の低いものとは、その逆です。
そのように考えてみますとコトバ、言語、文章ではありませんが、マンガとは、極めて解像能が高いといいますか、視覚即認識といったところがあるのではないかと思われます・・。
それに対し、音声言語、文字言語とは何れであれ、その内容理解に至るまでには様々な段階があるのではないかと思われます・・。
そして、本当に良いコトバ、文章とは、一見容易にその内容が理解出来るものでありながら、同時に、そこに様々な抽象度の段階における理解、認識、解釈の仕方があり、また、それが各々充実した内容を持っているようなものではないかと考えます。
そこまで考えてみますと、私には未だその価値の深遠さを理解することは出来ませんが「詩」の価値などは概ね、そうしたところを基盤としているのではないかと考えさせられます・・。
その一方において、あくまでもコトバ、言語の第一義的な解釈、あるいは多義的な解釈をあまり為さしめないコトバ、言語によって記された、いや、構築された文章といったものが論文など学術的な著作一般ではないかと考えます。
とはいえ、考えてみますと、さきのようにして構築された論文などにおいてもまた、表層のみならず深層的な意味において「詩的」な文章を持つものがあってもまた面白いのではないかとも思われますが・・(笑)。
繰り返し、私は詩に関しては門外漢ではありますが、それでも、さきに述べた「詩」の価値に基づいて考えてみますと、本当に「詩」あるいは「詩的な文章」にて充実した内容を持つと認識される要因とは、それが作成された時から長く経た後においても、何かしらの内容、意味、深さが認められる、つまり「普遍性」に関連するのではないかと考えるのです・・。
また、それは類似音、言語などの巧みな反復というような表層的、技巧的なものと少し(次元が)異なるように思われます・・。
そして、そのコトバ、文章が普遍性に触れる、貫くような(詩的な)内容、意味を持つようになるためには、個人は一体どのような過程・経験を経るのが良いのでしょうか・・?
あるいは、たとえ目指すものが普遍性であったとしても、そこに至るまでの過程、経験とは、各個人によって異なり、いわば個別性が高いようにも思われます・・。
いや、あるいは、それはいくつかのタイプぐらいには分類することが出来るのかもしれませんが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。
2016年11月7日月曜日
20161107 能動性 目標の設定 達成感の有無・強弱
A「先日より読んでいる「楡家の人びと」は第二部の読了に至り、今後、第三部(最終部)を入手、読んでみようと考えておりますが、これは週末までとって置こうと思います。
その理由は、そちらの方が比較的ゆっくりと読むことが出来、また、週末までは、これまでに読んだ第一、第二部をもう一度読み返してみることに因り、より最終部たる第三部を面白く読むことが出来ると考えるからです。
とはいえ、これまでブログ記事にて記した通り、少なくとも私の場合、ある程度の長編小説を読む場合においては、ある程度の間隔、インターバルを設けた方が、よりスムーズに読み進むことが出来るのではないかということが今回の事例により理解、認識することが出来ました・・。
また、それと同時に、これまで継続的に作成しているブログ記事も、こうしたことをリアルタイムに記すことにより、記事数を稼ぐことが出来るということも理解、認識することが出来ました・・(笑)。
やはり、インプット・アウトプットおよびその均衡とはなかなか大事なものであるのかもしれません。
さて、そのアウトプットたるブログについてですが、昨日の記事投稿により470記事に至り、本日の記事投稿により500記事到達まで残り30記事を切ることになります。
そして500記事とは、それなりにキリがいいのですが、果たしてそれで一端記事作成を止めてみると、その後、どのようなことが生じるのかとは、なかなか興味深いものです・・(笑)。
それこそ、煮物などの具に出汁の味が染込むのは、熱を加えるのを止めた後であるといった極めて具体的な事例、(物理的な)現象から鑑みますと、自身の外部、周辺の出来事でなくとも、内面における何かしらの変化といったものが生じるのではないかとも予想されるのです・・。
いや、実際のところ、そうした変化とは、現在の私が考えるよりも、より小さなものであるのかもしれませんが・・(笑)。
とはいえ、以前にもブログ記事にて記した通り、これまでに各々記事の中身の濃さ、深さは別として継続的に文章を作成したことはありませんでしたので、これはこれで自身としては多少の意味があるものと考えます・・。
まあ、それもあくまでも自己満足に類するものであることは否定出来ませんが・・(苦笑)。
しかし、そのように考えてみますと、大抵の自身の根源から由来する能動性にしたがい、はじめた行動とは、その目標達成の感覚の有無、強弱とは、本質的には自身が決めるものであるのかもしれません・・。
もちろん客観的な評価基準もまた、一面においては重要であるとは考えますが・・。
そして、そうした視座から考えてみますと、果たして今回の投稿記事数500とは、適当な数値目標であるのでしょうか・・?
こうしたことは、残念ながら判然としませんし、あるいはそれが自身の自信のなさの表れであるのかもしれません・・(苦笑)。
そして、そのように考えてみますと、以前様々な条件にて行った実験において、そのNの多さに自身がこだわったことにも、こうしたことは何かしらの基層における類似性があるのかもしれません。
また、このことを記しておりますと、丁度この時期であったためか、作成した様々な条件の試料を有機溶媒(アセトン50・エタノール50)にて超音波洗浄(5分)を行い、試料ケース(ウェル)に収納し、観察のため、電子顕微鏡室に持ち込んだことを思い起こします・・。
しかし、この時に行う試料への蒸着処理(CVD)を通例の金でなく、より細かい導電被膜が得られる粒子の微細なオスミウムを用いていたならば、より良い観察画像を得ることが出来ていたのかもしれません・・。
とはいえ、こうしたことは電子顕微鏡の解像能との兼合いであり、あの場合は金で良かったのかもしれません・・。
また、この時に観察を試みたものは、ジルコニア基材に歯科用陶材を焼き付けた接着界面であり、これは試料の作製条件によっては、高倍率(~30000)にて観察してもあまり意味あるものではなく、単純に条件間による焼き付け、接着具合の比較画像を得るためであるならば、それで良かったのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に発生した熊本における大地震、昨今の山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早くの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
その理由は、そちらの方が比較的ゆっくりと読むことが出来、また、週末までは、これまでに読んだ第一、第二部をもう一度読み返してみることに因り、より最終部たる第三部を面白く読むことが出来ると考えるからです。
とはいえ、これまでブログ記事にて記した通り、少なくとも私の場合、ある程度の長編小説を読む場合においては、ある程度の間隔、インターバルを設けた方が、よりスムーズに読み進むことが出来るのではないかということが今回の事例により理解、認識することが出来ました・・。
また、それと同時に、これまで継続的に作成しているブログ記事も、こうしたことをリアルタイムに記すことにより、記事数を稼ぐことが出来るということも理解、認識することが出来ました・・(笑)。
やはり、インプット・アウトプットおよびその均衡とはなかなか大事なものであるのかもしれません。
さて、そのアウトプットたるブログについてですが、昨日の記事投稿により470記事に至り、本日の記事投稿により500記事到達まで残り30記事を切ることになります。
そして500記事とは、それなりにキリがいいのですが、果たしてそれで一端記事作成を止めてみると、その後、どのようなことが生じるのかとは、なかなか興味深いものです・・(笑)。
それこそ、煮物などの具に出汁の味が染込むのは、熱を加えるのを止めた後であるといった極めて具体的な事例、(物理的な)現象から鑑みますと、自身の外部、周辺の出来事でなくとも、内面における何かしらの変化といったものが生じるのではないかとも予想されるのです・・。
いや、実際のところ、そうした変化とは、現在の私が考えるよりも、より小さなものであるのかもしれませんが・・(笑)。
とはいえ、以前にもブログ記事にて記した通り、これまでに各々記事の中身の濃さ、深さは別として継続的に文章を作成したことはありませんでしたので、これはこれで自身としては多少の意味があるものと考えます・・。
まあ、それもあくまでも自己満足に類するものであることは否定出来ませんが・・(苦笑)。
しかし、そのように考えてみますと、大抵の自身の根源から由来する能動性にしたがい、はじめた行動とは、その目標達成の感覚の有無、強弱とは、本質的には自身が決めるものであるのかもしれません・・。
もちろん客観的な評価基準もまた、一面においては重要であるとは考えますが・・。
そして、そうした視座から考えてみますと、果たして今回の投稿記事数500とは、適当な数値目標であるのでしょうか・・?
こうしたことは、残念ながら判然としませんし、あるいはそれが自身の自信のなさの表れであるのかもしれません・・(苦笑)。
そして、そのように考えてみますと、以前様々な条件にて行った実験において、そのNの多さに自身がこだわったことにも、こうしたことは何かしらの基層における類似性があるのかもしれません。
また、このことを記しておりますと、丁度この時期であったためか、作成した様々な条件の試料を有機溶媒(アセトン50・エタノール50)にて超音波洗浄(5分)を行い、試料ケース(ウェル)に収納し、観察のため、電子顕微鏡室に持ち込んだことを思い起こします・・。
しかし、この時に行う試料への蒸着処理(CVD)を通例の金でなく、より細かい導電被膜が得られる粒子の微細なオスミウムを用いていたならば、より良い観察画像を得ることが出来ていたのかもしれません・・。
とはいえ、こうしたことは電子顕微鏡の解像能との兼合いであり、あの場合は金で良かったのかもしれません・・。
また、この時に観察を試みたものは、ジルコニア基材に歯科用陶材を焼き付けた接着界面であり、これは試料の作製条件によっては、高倍率(~30000)にて観察してもあまり意味あるものではなく、単純に条件間による焼き付け、接着具合の比較画像を得るためであるならば、それで良かったのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に発生した熊本における大地震、昨今の山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早くの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年11月6日日曜日
20161106 470記事到達 文学から歴史 歴史から文学
お蔭様で昨日のブログ閲覧者数も1000人に到達しました。
また、それと同時に今回の記事投稿により総投稿記事数が470に到達します。
そうしますと、残り30記事にて500記事へ到達ということになりますが、これは直近の450記事から考えてみますと、今回の470記事到達とは、割合早かったものと感じております。
そして、年内中に500記事到達までの残り30記事の投稿ということになりますが、今年は残り50数日でありますので、まあ3日に2日程度の頻度にて新記事の投稿、更新を行っていけば、特に無理なく年内中に500記事に到達することが出来そうです。
とはいえ、そこであまり気を抜いてしまいますと、後になり、しわ寄せが来ますので、出来る限り毎日に近い状態にて500記事到達まで記事作成、投稿を行って行こうと考えております・・。
さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部も先ほど読了しました。
第二部は昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦すなわち真珠湾攻撃のあたりでハナシが終わっており、これが次の結末たる第三部にどのように続くのか楽しみです・・。
また、こうした長編小説を母国語にて著すことが出来る歴史・文化を持つ我が国とは、やはり様々な点において優れた要素を持っているのではないかと改めて考えさせられます・・。
しかし、そうは云いましても文化というものは、おそらく発展し続けるものではありません(この著作が著された時代に比べ現代の我が国が発展しているとは必ずしもいえない)。
具体的な刺激、精神の活性ながどといった要素が減衰、欠如していきますと、それはやはり衰頽、荒廃してゆくものであると考えます。
そして、そうしたものとは経済、文化的にある程度までの発展を遂げると必ずしも直線的にではありませんが、必然的に衰頽、荒廃に向かって行くのではないかと思われます。
そして、それが様々な国家、地域などの興亡の歴史における大雑把な枠組みであるように思います。
もっとも、こうしたことは既にかなり陳腐なこととして認識されているとは考えますが・・。
ともあれ、このような興亡の歴史の流れを一つ認識し、それに対する認識をさらに深化させるという意味において、さきに挙げた「楡家の人びと」とは、適当な材料になるものと考えます。
そして、このように何か一つの題材を深化させる過程において、必然的に近現代史から文学に結節、あるいは逆からのアプローチであれば文学から近現代史に結節するというのが一般的な文系学問の研究における見取り図であるように思います。
やはり、こうした意味でのタコツボ化とはあまり良いものではないと私は考えます。
ともかく、いくつかの分野において、ある程度の認識に達しますと、何といいますか、自然とそれら分野の認識の深層の方から根が生じ、それらが深層において絡み合うことにより、何とも表し得ぬ極めて個人的な学問体系が生成するのではないかと思われます。
こうしたことは、コトバを以て説明するより、実際にそういった人物の著した著作を読むことにより判然とするのではないでしょうか・・?
その私見による具体例として南方熊楠、金関丈夫などが挙げられると考えます。
また、多少スケールが異なりますが、これまでにブログ記事にて記した私の師匠の方々もまた、皆、そうした傾向があるのではないかと思われます・・。
そして、ここまで記していて不図ゲーテの言葉を思い起こしましたので下に示します。
「ユーモアは天才の一要素である。しかし、それが勝ち過ぎると、天才の代用品に過ぎなくなる。それは、芸術の下落を伴い、ついには芸術を破壊し、滅ぼしてしまう。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
また、それと同時に今回の記事投稿により総投稿記事数が470に到達します。
そうしますと、残り30記事にて500記事へ到達ということになりますが、これは直近の450記事から考えてみますと、今回の470記事到達とは、割合早かったものと感じております。
そして、年内中に500記事到達までの残り30記事の投稿ということになりますが、今年は残り50数日でありますので、まあ3日に2日程度の頻度にて新記事の投稿、更新を行っていけば、特に無理なく年内中に500記事に到達することが出来そうです。
とはいえ、そこであまり気を抜いてしまいますと、後になり、しわ寄せが来ますので、出来る限り毎日に近い状態にて500記事到達まで記事作成、投稿を行って行こうと考えております・・。
さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部も先ほど読了しました。
第二部は昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦すなわち真珠湾攻撃のあたりでハナシが終わっており、これが次の結末たる第三部にどのように続くのか楽しみです・・。
また、こうした長編小説を母国語にて著すことが出来る歴史・文化を持つ我が国とは、やはり様々な点において優れた要素を持っているのではないかと改めて考えさせられます・・。
しかし、そうは云いましても文化というものは、おそらく発展し続けるものではありません(この著作が著された時代に比べ現代の我が国が発展しているとは必ずしもいえない)。
具体的な刺激、精神の活性ながどといった要素が減衰、欠如していきますと、それはやはり衰頽、荒廃してゆくものであると考えます。
そして、そうしたものとは経済、文化的にある程度までの発展を遂げると必ずしも直線的にではありませんが、必然的に衰頽、荒廃に向かって行くのではないかと思われます。
そして、それが様々な国家、地域などの興亡の歴史における大雑把な枠組みであるように思います。
もっとも、こうしたことは既にかなり陳腐なこととして認識されているとは考えますが・・。
ともあれ、このような興亡の歴史の流れを一つ認識し、それに対する認識をさらに深化させるという意味において、さきに挙げた「楡家の人びと」とは、適当な材料になるものと考えます。
そして、このように何か一つの題材を深化させる過程において、必然的に近現代史から文学に結節、あるいは逆からのアプローチであれば文学から近現代史に結節するというのが一般的な文系学問の研究における見取り図であるように思います。
やはり、こうした意味でのタコツボ化とはあまり良いものではないと私は考えます。
ともかく、いくつかの分野において、ある程度の認識に達しますと、何といいますか、自然とそれら分野の認識の深層の方から根が生じ、それらが深層において絡み合うことにより、何とも表し得ぬ極めて個人的な学問体系が生成するのではないかと思われます。
こうしたことは、コトバを以て説明するより、実際にそういった人物の著した著作を読むことにより判然とするのではないでしょうか・・?
その私見による具体例として南方熊楠、金関丈夫などが挙げられると考えます。
また、多少スケールが異なりますが、これまでにブログ記事にて記した私の師匠の方々もまた、皆、そうした傾向があるのではないかと思われます・・。
そして、ここまで記していて不図ゲーテの言葉を思い起こしましたので下に示します。
「ユーモアは天才の一要素である。しかし、それが勝ち過ぎると、天才の代用品に過ぎなくなる。それは、芸術の下落を伴い、ついには芸術を破壊し、滅ぼしてしまう。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
20161105 文章、文体、認識の枠組みについて・・
A「先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は第二部の200頁まで至りました。
こうした長編小説とは、ある程度期間のインターバルを設けて読むと、読書の進行が多少早くなるものであるのかもしれません・・(笑)。
また、この著作は自身の感想としては大変面白く、おそらくこの土・日曜日の間に第二部もまた読了に至るのではないかと思われます・・。
そしてその後さらに第三部(最終部)読了に至ったならば、今度は同著の英訳版を購入し読んでみようと考えております・・。
英訳された日本の小説とは、著作によっては(私にとって)大変高価なものもありますが、幸いなことに、この著作については比較的手頃な価格にて求めることが可能であるようです。
また、以前投稿したブログ記事においても記しましたが、この著作は、現代の若い方々が読まれると何か面白い、不思議な感覚、認識を得ることが出来るのではないかとも思います。
いや、こうしたことはむしろ一般的であり、あるいは論理一辺倒の科学的な論文などにおいても同様であるのかもしれませんが、我々とは、何かしらの著作、文章を読むことにより、肯定的、否定的であれ、そこから様々な感覚、認識を惹起します。
そして、その(感覚、認識の)蓄積、そしてそれらの精神内部における経時的な反応、化合等に加え、実際の経験を積むことにより、より大きな観念、思想といったものの核が徐徐に形成され、それが様々な形で文字、言語を以て表出されることにより、明瞭化、体系化された観念、思想と称するに堪えうるものとして顕現に至るのではないかと思われます・・。
そして、こうした営みとは無意識である場合も多いのではないかと思われますが、何れにせよ殆どの方々が日常的に行っていることであると考えます。
ただ、そこで特に重要であると思われることは、実際の経験とは、各人各様に日常生活を送る上にて得ているのでしょうが、それ(経験)を認識するための、あるいは認識の枠組み(言語化、評価)を形成するための基盤、母材(マトリックス)として、何かしらの文章、そしてその文体の果たす役割の大きさということです。
そして、これが各人各様である経験をある一定の方向へ収斂するものであると同時に、その個性、特徴を発揮する基盤でもあるということは、なかなか面白いことであると思われます・・。
その意味において広告、出版業界とは、依然として、ある程度大きな影響力を我々の社会に対し有しているのではないかと思われます・・。
しかしその一方、さきのブログにおいても記した通り、昨今、インターネットの普及により、膨大な情報が容易に広く入手可能となり、これまでのマスメディア、新聞、出版業界が関与、把持してきた認識の枠組みの重要性が希釈されつつあるということもまた事実であると思われます。
とはいえ、この認識の枠組みの重要性とは本質的(人間に付随する能力としての価値)には希釈される性質のものではないと考えます・・。
それ故、訪れつつある新しい時代においては、おそらく我々と文章そしてその文体(認識の枠組)の間にもまた、何かしら大きな変化が生じる、いや生じつつあるのではないかとも思われるのです・・。
それが如何なるものであるかは分かりませんが、あるいはこうしたこともまた、歴史の進行およびその方向性に対し、大きく関与しているのではないかと考えます。
また、それが古来より云われている「言霊」に関連するものであるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震、昨今山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」
こうした長編小説とは、ある程度期間のインターバルを設けて読むと、読書の進行が多少早くなるものであるのかもしれません・・(笑)。
また、この著作は自身の感想としては大変面白く、おそらくこの土・日曜日の間に第二部もまた読了に至るのではないかと思われます・・。
そしてその後さらに第三部(最終部)読了に至ったならば、今度は同著の英訳版を購入し読んでみようと考えております・・。
英訳された日本の小説とは、著作によっては(私にとって)大変高価なものもありますが、幸いなことに、この著作については比較的手頃な価格にて求めることが可能であるようです。
また、以前投稿したブログ記事においても記しましたが、この著作は、現代の若い方々が読まれると何か面白い、不思議な感覚、認識を得ることが出来るのではないかとも思います。
いや、こうしたことはむしろ一般的であり、あるいは論理一辺倒の科学的な論文などにおいても同様であるのかもしれませんが、我々とは、何かしらの著作、文章を読むことにより、肯定的、否定的であれ、そこから様々な感覚、認識を惹起します。
そして、その(感覚、認識の)蓄積、そしてそれらの精神内部における経時的な反応、化合等に加え、実際の経験を積むことにより、より大きな観念、思想といったものの核が徐徐に形成され、それが様々な形で文字、言語を以て表出されることにより、明瞭化、体系化された観念、思想と称するに堪えうるものとして顕現に至るのではないかと思われます・・。
そして、こうした営みとは無意識である場合も多いのではないかと思われますが、何れにせよ殆どの方々が日常的に行っていることであると考えます。
ただ、そこで特に重要であると思われることは、実際の経験とは、各人各様に日常生活を送る上にて得ているのでしょうが、それ(経験)を認識するための、あるいは認識の枠組み(言語化、評価)を形成するための基盤、母材(マトリックス)として、何かしらの文章、そしてその文体の果たす役割の大きさということです。
そして、これが各人各様である経験をある一定の方向へ収斂するものであると同時に、その個性、特徴を発揮する基盤でもあるということは、なかなか面白いことであると思われます・・。
その意味において広告、出版業界とは、依然として、ある程度大きな影響力を我々の社会に対し有しているのではないかと思われます・・。
しかしその一方、さきのブログにおいても記した通り、昨今、インターネットの普及により、膨大な情報が容易に広く入手可能となり、これまでのマスメディア、新聞、出版業界が関与、把持してきた認識の枠組みの重要性が希釈されつつあるということもまた事実であると思われます。
とはいえ、この認識の枠組みの重要性とは本質的(人間に付随する能力としての価値)には希釈される性質のものではないと考えます・・。
それ故、訪れつつある新しい時代においては、おそらく我々と文章そしてその文体(認識の枠組)の間にもまた、何かしら大きな変化が生じる、いや生じつつあるのではないかとも思われるのです・・。
それが如何なるものであるかは分かりませんが、あるいはこうしたこともまた、歴史の進行およびその方向性に対し、大きく関与しているのではないかと考えます。
また、それが古来より云われている「言霊」に関連するものであるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震、昨今山陰東部にて発生した大地震により被災された地域の今後出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」
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