おかげさまで昨日のブログ閲覧者数も1000人に到達し7月の総閲覧者数もはじめて20000人に到達しました。
どうもありがとうございます。
また、その時々にて読まれている記事の傾向を見ると勉強になることが多く、同時に「今後どのような記事を作成したら面白いだろうか?」といった指針にもなります・・。
とはいいながら、これまでにそれを活かして記事を書いているとは必ずしも言い切れませんが・・(苦笑)。
しかし、それらを見て、無意識のうちに吸収している部分もまた、少なからずあるのではないかとも思います。
また、意識、無意識といえば、現代を生きる我々は、意識をより励起、明瞭化する様々な周辺機器の進化発展により、より(外部の)コトバに捉われ、その精神、心が硬直化してしまい、本来持っていたしなやかさ(?)が失われつつあるのではないかと思われますが如何でしょうか?
あるいはこういうことを「感情の劣化」というのかしれません・・。しかし一方、現在私がこのようにブログ記事を作成、投稿し、それを読んで頂いている方々がいるという状況もまた、さきに述べた様々な周辺機器の進化発展によって支えられています。
・・こうしたことから多少のジレンマも感じないこともありません・・(苦笑)。
しかし、そこで問題となってくることが「では、そこには創造性があるのか?」ということではないでしょうか?
この文脈は一見唐突であると思われる方々がいらっしゃるかもしれませんが、意識を励起、明瞭化する周辺機器を使用することによって創造的なコトが為されていれば、それはあくまでも周辺機器を運用、活用していることとなり、それらに「支配されていない」ということになるのですが、一方、そうした機器の利便性のみを上澄み的に利用しているのであれば、それは時間の経過に伴い、機器に(思考、思想を)支配されるようになり、結果的に創造性をも次第に失ってしまうのではないかと思われます・・。
また、こうしたこと(創造性の有無)の峻別、認識とは、自身の内心(ここが大事であると思います。)により為されると思います。
とはいえ、こうしたテーマとは、かねてより言い古されてきたことではありますが、昨今の我が国においては機器の進化発展ばかりのみ注視されている感がありますので、時にはこうした意見を記しておくこともまた、悪くないものと考えます(笑)。
また、これまでブログ記事を作成、投稿し続けている者が考える、より卑近な意味での【創造性】とは「とりあえず、これまでに書物に書かれたことのない、またネット検索しても検索されない、ある程度内容のある文章を作成すること。」となります・・(笑)。
そういえばハナシは変わりますが、特に男性において、人をいじる能力(いじめっこになれる能力)により組織における序列が決まる組織、社会とは、幼児、青年期程度までは健全と評されても良いのかもしれませんが、それがそのまま大人の社会にまで延長されると、それは持続可能性、発展持続性に乏しく、速やかな衰亡に至ることが多いのではないかと思われます・・。
そして、何よりもこうしたことを何かしらの理系学問、実験等を通じ、より多くの『女性』が真剣に考えるようになると、彼女等のそして後には彼女等の子供達の社会に対する見方、認識も変化が生じ、それに伴い社会が(多少は)良くなってゆくのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
またさる四月の熊本での大地震にて被災された地域における早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年7月31日日曜日
20160730 地域性について・・
本日は気温が上がり、日中の日差しはなかなかのものであり、梅雨が過ぎて本格的に夏になったことが実感される一日でした・・。
また、このような暑い季節になりますと、私は哲学、思想系などの多少こみいった内容の著作を読むことが(大変)困難になってきます・・(苦笑)。
それ故、少なくとも私にとって、様々な分野の著作とは、それが読み易い季節といったものがあるのではないかと思われるのです。
あるいはこうしたことは、他の方々においても(多少は)当てはまるのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
そして、ここ最近私は我が国の様々な「地域性」について記された著作を読んでおります。
こうしたトピックとは、日常的な話題とも結び付き易いため「科学的な学問、研究としては如何なものであろうか?」といった意見も少なからずあるのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした学問・研究こそ、現在世界各国において傾向、潮流として挙げられている国、地域レベルにおける閉鎖性、凝集性の特徴、メカニズムを認識するために重要ではないかと思われますが如何でしょうか?
また、その分野における一つの著作として挙げられる宮城音弥の「日本人の性格」などは、かなりハナシが具体的であり、また自身の経験とも大きく矛盾することはなく、そのことから、このような著作とは「現在ではむしろ書きにくいのかもしれない・・。」と考えさせられます・・(苦笑)。
私見として、地域性について記された学問的な著作である和辻哲郎著「風土」、梅棹忠夫著「文明の生態史観」などは、主に世界規模でのそれ(地域性)について記したたものであり、そこからさら
に細分化、具体化したものが、さきに示した宮城音弥著「日本人の性格」であると思われます。
そして、この著作からさらに文化人類学的色彩を濃厚にしたものが、岩波書店刊の岡正雄論文集「異人その他・他十二篇」大林太良編ではないでしょうか・・。
この最後に挙げた著作は地域学を専攻していた修士課程在籍に巡り合うことができなく、大変残念ではありましたが、こうした著作からの思索と実際の出土物に基づいて検討考察を行う考古学からの視点を複合、組み合わせることにより、また何かしら面白い発見があるのではないかと思います・・。
また、そうしたことはかねてより民俗学の谷川健一などが行っておりましたが、今後は、そうしたことがより具体的な方法論を以って研究されてゆくのではないかと思われます。
たとえば、出土遺物を試料として各種分析機器によるデータと様々な同時代の史料内容との比較・考察、すり合わせなどです。
しかし、そういったことも考古学の森浩一が既にはじめていたのではないかといったことがここに至り思い出されました・・(苦笑)。
とはいえ、このような文系と理系の学際的な研究とは今後、より発展の余地、可能性があるのではないかと思われますが如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本において発生した大地震で被災された地域における諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
また、このような暑い季節になりますと、私は哲学、思想系などの多少こみいった内容の著作を読むことが(大変)困難になってきます・・(苦笑)。
それ故、少なくとも私にとって、様々な分野の著作とは、それが読み易い季節といったものがあるのではないかと思われるのです。
あるいはこうしたことは、他の方々においても(多少は)当てはまるのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
そして、ここ最近私は我が国の様々な「地域性」について記された著作を読んでおります。
こうしたトピックとは、日常的な話題とも結び付き易いため「科学的な学問、研究としては如何なものであろうか?」といった意見も少なからずあるのではないかと思われます・・。
しかしながら、こうした学問・研究こそ、現在世界各国において傾向、潮流として挙げられている国、地域レベルにおける閉鎖性、凝集性の特徴、メカニズムを認識するために重要ではないかと思われますが如何でしょうか?
また、その分野における一つの著作として挙げられる宮城音弥の「日本人の性格」などは、かなりハナシが具体的であり、また自身の経験とも大きく矛盾することはなく、そのことから、このような著作とは「現在ではむしろ書きにくいのかもしれない・・。」と考えさせられます・・(苦笑)。
私見として、地域性について記された学問的な著作である和辻哲郎著「風土」、梅棹忠夫著「文明の生態史観」などは、主に世界規模でのそれ(地域性)について記したたものであり、そこからさら
に細分化、具体化したものが、さきに示した宮城音弥著「日本人の性格」であると思われます。
そして、この著作からさらに文化人類学的色彩を濃厚にしたものが、岩波書店刊の岡正雄論文集「異人その他・他十二篇」大林太良編ではないでしょうか・・。
この最後に挙げた著作は地域学を専攻していた修士課程在籍に巡り合うことができなく、大変残念ではありましたが、こうした著作からの思索と実際の出土物に基づいて検討考察を行う考古学からの視点を複合、組み合わせることにより、また何かしら面白い発見があるのではないかと思います・・。
また、そうしたことはかねてより民俗学の谷川健一などが行っておりましたが、今後は、そうしたことがより具体的な方法論を以って研究されてゆくのではないかと思われます。
たとえば、出土遺物を試料として各種分析機器によるデータと様々な同時代の史料内容との比較・考察、すり合わせなどです。
しかし、そういったことも考古学の森浩一が既にはじめていたのではないかといったことがここに至り思い出されました・・(苦笑)。
とはいえ、このような文系と理系の学際的な研究とは今後、より発展の余地、可能性があるのではないかと思われますが如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本において発生した大地震で被災された地域における諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年7月30日土曜日
20160729 学問間の交流の重要性について・・
これまでに作成したブログ記事も370を超え、あともう少しで400記事に到達します。
400記事といえば、特に区切りが良いというわけでもありませんので、その次は500記事まで書いてみようと思うかどうか分かりませんが、とりあえず自身の意志と着想の続く限り、途中多少の間があいたとしても、何かしら書き続けてみようと思います。
そういえば、昨日ブログを閲覧してくださった方々は、私が寝入った後、ロシアから閲覧してくださった方々が多く「もしかしたら、これは共有した動画(ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」内「狩人の合唱」)の影響によるものなのであろうか?」と思いました。
この男声合唱団とは、ロシア、モスクワにある国立原子力研究大学(以前のモスクワ工科物理研究所)(ほぼ直訳、少し間違っているかもしれませんが、大体こんな感じであると思います・・。)内のクラブであり、合唱も素晴らしく、同時に、指揮をさてれいる女性の躍動感にも感銘を受けました。
また、こうしたスタイルの合唱(しかも歌い手がおそらく皆、理系研究者)というのはなかなか我が国においては見受けることがないと思いますが如何でしょうか・・?
とはいえ、背景文化も異なるため、どちらが上下、良い、悪いとはいえず、これは単に文化の違いを示しているのでしょう。
私がこれまでに見た我が国の理系研究者あるいはそのタマゴたちの多くは、文系の同様の方々に比べ、チームワークに長け、様々な研究、活動をする上において、実に自然に役割分担が決まり整然と行動をしていたように思われます。
これには甚く感心しました・・。
そして、こうした特徴はまた、それが研究に関係のない合唱などであっても、能動的な意志によるものであれば、かなり良い方向に生かされるのではないかと思います。
その点、文系の方々とは、全般的に研究者一人一人の個性が強く、また、そうした環境により、この分野とは、研究が駆動、進展するのではないかと思います。
こうしたことはある種、芸術家などにも通じる何かがあるのかもしれません・・。
しかし一方、我が国の知的風土の風通しを良くするという目的に立ち、理系、文系双方研究者を(基本的に自身が希望する)異種(理系であれば文系、文系であれば理系)研究分野にインターンシップのように、しばらくの間在籍し、そこ(異種研究分野)で研究活動に従事するということは、実際の研究進捗にはあまり寄与することがないかもしれませんが、より長い目、広い視点で見ますと、結果的に彼等・彼女等にとって有益な経験を得ることが出来る蓋然性が高くなるのではないかと思われます・・。
こうした試みは、なかなか面白いと思われますが、如何でしょうか(笑)?
また、ハナシは少し変わりますが、理系、文系では同じ研究者とはいいましても、何といいますか、その背景となる知識、見識の相が異なるためか、発する何かが異なるように思われます・・。
極端にいいますと、種族?が違うような感じを受けることがあります・・。
科学的なハナシではなく恐縮ですが、同時にこうした特徴、性質の相異とは、何かしら存在するのではないかと私は考えております・・(笑)。
そして今後は、それをもっと上手く言語化出来ることを一つの課題とさせていただきます・・。
とはいえ、こうしたことを記していると、不図「では、これまでのブログ記事にて言語化してきた中に、ある程度普遍化することが出来る新しい事柄、知見らしきものはあったのだろうか?」と考えてしまいますが、それは少なくとも今現在の私が判断できることではないように思われます・・(苦笑)。
それ故、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早い復旧そして、その後の復興を祈念しております。
400記事といえば、特に区切りが良いというわけでもありませんので、その次は500記事まで書いてみようと思うかどうか分かりませんが、とりあえず自身の意志と着想の続く限り、途中多少の間があいたとしても、何かしら書き続けてみようと思います。
そういえば、昨日ブログを閲覧してくださった方々は、私が寝入った後、ロシアから閲覧してくださった方々が多く「もしかしたら、これは共有した動画(ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」内「狩人の合唱」)の影響によるものなのであろうか?」と思いました。
この男声合唱団とは、ロシア、モスクワにある国立原子力研究大学(以前のモスクワ工科物理研究所)(ほぼ直訳、少し間違っているかもしれませんが、大体こんな感じであると思います・・。)内のクラブであり、合唱も素晴らしく、同時に、指揮をさてれいる女性の躍動感にも感銘を受けました。
また、こうしたスタイルの合唱(しかも歌い手がおそらく皆、理系研究者)というのはなかなか我が国においては見受けることがないと思いますが如何でしょうか・・?
とはいえ、背景文化も異なるため、どちらが上下、良い、悪いとはいえず、これは単に文化の違いを示しているのでしょう。
私がこれまでに見た我が国の理系研究者あるいはそのタマゴたちの多くは、文系の同様の方々に比べ、チームワークに長け、様々な研究、活動をする上において、実に自然に役割分担が決まり整然と行動をしていたように思われます。
これには甚く感心しました・・。
そして、こうした特徴はまた、それが研究に関係のない合唱などであっても、能動的な意志によるものであれば、かなり良い方向に生かされるのではないかと思います。
その点、文系の方々とは、全般的に研究者一人一人の個性が強く、また、そうした環境により、この分野とは、研究が駆動、進展するのではないかと思います。
こうしたことはある種、芸術家などにも通じる何かがあるのかもしれません・・。
しかし一方、我が国の知的風土の風通しを良くするという目的に立ち、理系、文系双方研究者を(基本的に自身が希望する)異種(理系であれば文系、文系であれば理系)研究分野にインターンシップのように、しばらくの間在籍し、そこ(異種研究分野)で研究活動に従事するということは、実際の研究進捗にはあまり寄与することがないかもしれませんが、より長い目、広い視点で見ますと、結果的に彼等・彼女等にとって有益な経験を得ることが出来る蓋然性が高くなるのではないかと思われます・・。
こうした試みは、なかなか面白いと思われますが、如何でしょうか(笑)?
また、ハナシは少し変わりますが、理系、文系では同じ研究者とはいいましても、何といいますか、その背景となる知識、見識の相が異なるためか、発する何かが異なるように思われます・・。
極端にいいますと、種族?が違うような感じを受けることがあります・・。
科学的なハナシではなく恐縮ですが、同時にこうした特徴、性質の相異とは、何かしら存在するのではないかと私は考えております・・(笑)。
そして今後は、それをもっと上手く言語化出来ることを一つの課題とさせていただきます・・。
とはいえ、こうしたことを記していると、不図「では、これまでのブログ記事にて言語化してきた中に、ある程度普遍化することが出来る新しい事柄、知見らしきものはあったのだろうか?」と考えてしまいますが、それは少なくとも今現在の私が判断できることではないように思われます・・(苦笑)。
それ故、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早い復旧そして、その後の復興を祈念しております。
2016年7月29日金曜日
20160728 数値による評価と創造性・・原理からの理解により発生する「何か」
本日も少し帰宅が遅くなり、またブログ記事の作成を躊躇しておりましたが、それでもやはり何かしら書いておかないと思い、本日分の記事を書きはじめた次第です。
また、相変わらず現在の状態においては、特にこれといった着想、アイデアがあるわけではありません・・。
そういえば、昨日投稿したブログ記事において「各々のブログ記事の面白さを決めるものは、その閲覧者数であることは、大きな間違いではないかもしれないが、同時にそれが精確な事実を言い当てているかどうかは不明である。」といったことを記しました。
そして、こうしたことは、様々なことについていえるのではないかと思われますが、同時に現在の世界規模での思想的潮流において「数値化出来る事実のみが明晰な考えとして許容できる事実である。」といった風潮が強いように思われます・・。
これは世の中全体がある意味で理系化しているということなのでしょうか・・?
しかし、同時に本当の理系学問分野のスゴイ方々からよく聞かれる意見として「あまり効果が望めない(金にならない)基礎研究にこそ、もっと力を注ぐべきだ。」といったものがあります。
私はスゴイ理系の人間ではなく、そもそも理系の人間であるかどうかもかなり怪しいのではありますが(苦笑)、それでも、この意見とは、決して付和雷同あるいは知的虚栄心からでなく、あるいはまた、その背後の理屈は多少異なる可能性もありますが、自身の実感、経験に基づき賛成します。
我々日本人はかねてより、その物真似、吸収といった受容的才能に富んだ国民であると各国より評され、また、それは我々自身が認識する強い此岸性、実際的傾向と強い親和性があるものと云えます。
こうした性質とは、国全体の経済面での見通しが明るくなく、またこの先の更なる低迷もまた予測される現在および今後の状況においては、ますます増強・促進してゆくのではないかと思います・・。
その結果として、さきに述べたような実際的でない(無駄・コスパが悪い)と考えられる基礎研究などに費用を投じることは無駄なことではないかと考えるのが自然になってゆくのではないかと思われます・・。
しかしながら、これまでで一言も触れていなかったものが「創造性」です。
創造性とは、乏しい私の経験から述べさせて頂きますと、どのような分野であれ、一見無駄とも評することが出来る行為の積重ね、蓄積を通じて知覚、体得された、ある物事、事柄に対する原理からの理解により発生する「何か」ではないかと思われます・・。
そして、出来るならば、こうした創造性を持った(特に若い)人々が多くいた方が、その国における未来には好ましいのではないと思われますが、もしかすると現今の我々の状況とは、そうした若い方々を食いものにしている部分もまた少なからずあるのではないかと考えさせられます・・・・。
あたかも太平洋戦争後期、末期の我が国のように・・・。
あまり、いや決して認めたくはありませんが、もしかすると我々とは、たとえ無意識にではあったとしても、こうした傾向を精神のどこかに秘めているのではないでしょうか・・?
そして、ここまで記していますと、不図、以前抜粋引用した北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284ー294からの内容を想起しました・・・。
以下「」抜粋引用部です。
「トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。
また、相変わらず現在の状態においては、特にこれといった着想、アイデアがあるわけではありません・・。
そういえば、昨日投稿したブログ記事において「各々のブログ記事の面白さを決めるものは、その閲覧者数であることは、大きな間違いではないかもしれないが、同時にそれが精確な事実を言い当てているかどうかは不明である。」といったことを記しました。
そして、こうしたことは、様々なことについていえるのではないかと思われますが、同時に現在の世界規模での思想的潮流において「数値化出来る事実のみが明晰な考えとして許容できる事実である。」といった風潮が強いように思われます・・。
これは世の中全体がある意味で理系化しているということなのでしょうか・・?
しかし、同時に本当の理系学問分野のスゴイ方々からよく聞かれる意見として「あまり効果が望めない(金にならない)基礎研究にこそ、もっと力を注ぐべきだ。」といったものがあります。
私はスゴイ理系の人間ではなく、そもそも理系の人間であるかどうかもかなり怪しいのではありますが(苦笑)、それでも、この意見とは、決して付和雷同あるいは知的虚栄心からでなく、あるいはまた、その背後の理屈は多少異なる可能性もありますが、自身の実感、経験に基づき賛成します。
我々日本人はかねてより、その物真似、吸収といった受容的才能に富んだ国民であると各国より評され、また、それは我々自身が認識する強い此岸性、実際的傾向と強い親和性があるものと云えます。
こうした性質とは、国全体の経済面での見通しが明るくなく、またこの先の更なる低迷もまた予測される現在および今後の状況においては、ますます増強・促進してゆくのではないかと思います・・。
その結果として、さきに述べたような実際的でない(無駄・コスパが悪い)と考えられる基礎研究などに費用を投じることは無駄なことではないかと考えるのが自然になってゆくのではないかと思われます・・。
しかしながら、これまでで一言も触れていなかったものが「創造性」です。
創造性とは、乏しい私の経験から述べさせて頂きますと、どのような分野であれ、一見無駄とも評することが出来る行為の積重ね、蓄積を通じて知覚、体得された、ある物事、事柄に対する原理からの理解により発生する「何か」ではないかと思われます・・。
そして、出来るならば、こうした創造性を持った(特に若い)人々が多くいた方が、その国における未来には好ましいのではないと思われますが、もしかすると現今の我々の状況とは、そうした若い方々を食いものにしている部分もまた少なからずあるのではないかと考えさせられます・・・・。
あたかも太平洋戦争後期、末期の我が国のように・・・。
あまり、いや決して認めたくはありませんが、もしかすると我々とは、たとえ無意識にではあったとしても、こうした傾向を精神のどこかに秘めているのではないでしょうか・・?
そして、ここまで記していますと、不図、以前抜粋引用した北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284ー294からの内容を想起しました・・・。
以下「」抜粋引用部です。
「トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。
対立した教育者たちは、この青年をそれぞれの自分の陣にひきいれようとする。
だがあるときカストルプは吹雪に迷い、雪のなかで美しくも怖ろしい夢を見た。はじめ彼の前には、明るい霧雨のヴェールの下から、深い紺青の南海があらわれる。
海浜の砂地の上では美しい太陽の子らが、楽しげに子どもっぽい、同時に品位にみちてつつましく、馬に乗ったり弓をひいたりして遊んでいる。それは見ていても胸がふくらみ温かくなるような光景だった。
だがやがてカストルプは背後の神殿で行われているむごたらしい饗宴にも気づく。
そこでは魔女のような老婆が白髪を乱し半裸体で、野蛮な落着いた様子で嬰児を裂いて食べている。
彼はもろい骨が老婆の口の中でくだける音を聞き、醜悪な唇から血がしたたるのを見た。
そこで彼は目ざめるが、それらの光景をどこかで知っているような気がする。
「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?
「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?
誰も自分の心だけで夢を生むのじゃなくて、めいめい思い思いの見様はしても、本当は無名で共同で夢を見るのではなかろうか。
ある大きな塊があり、それが僕という一小部分を通して、僕は僕なりに、いつもその魂がひそかに夢見ている事柄を夢見るのだろう」。
そしてカストルプは人間の地位と本領を考え、はっきりと彼の「陣」をとる。
「僕は人間の地位を夢に見、また人間の礼儀正しい聡明な恭謙な社会を夢に見た。
その後ろの神殿では凄惨な血の饗宴が行われていることをひそかに考えているから、太陽の子らはあのように礼儀正しく麗しくいたわりあうのだろうか?」
「死の冒険は生のなかにあって、それがなかったら生は生でなくなるだろう。
そしてその真中、冒険と理性との中間こそ人間の位置すべき場所である。
その真中の位置にあって、人間は上品にやさしくうやうやしく自己を遇さねばならない。
なぜなら人間だけが尊いのであって、対立する考え方が尊いのではないからだ。
対立しあう考え方も人間があってこそ存在するのだ。
だから人間はどんな対立よりも尊いのだ。人間は死よりも尊く、死に耽溺するには尊すぎる。
知性の自由を持つからだ。
また人間は生よりも尊く、生に耽溺してしまうには尊すぎる。心に敬虔な気持をもつからだ。
なんだこれは詩のようだぞ。
人間についての夢の詩のようだ。僕はこれを覚えておこう」。
その通り、忘れさられたように見えたこの夢は、彼の魂の底ではずっと生きつづけていた。だから彼は「大きな無感覚」から目覚め、魔の山をくだるようになるのである。」
さて、何かしら関連性はあるのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した大地震によって被災された九州、熊本地域の早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
さて、何かしら関連性はあるのでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月に発生した大地震によって被災された九州、熊本地域の早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年7月27日水曜日
20160727 文章の質の向上と相変態 分裂と統一
A「大分前に投稿した記事が何故であるかわかりませんが、突然閲覧者数が増加する現象が時折生じます。
こうした現象を見て、その記事を読んでみますと「おそらく現今記している一連の記事よりもよく書けているのではないか?」と考えさせられます・・(苦笑)。
そして、直近のそうした記事とは昨秋に記した「迦微、神、カミについて・・」であり、何故であるかよくわかりませんが1日で閲覧者数が急激に上昇しました。
また、そのことを不思議に思い、その記事を読み返してみますと、たしかにここ最近ほぼ日課のように記している一連の記事に比べて内容が深いように思われます・・(苦笑)。
また、そこで述べている考えについては、現在なお特に大きく変化しておらず、何れ機会があれば続編らしきものを書いてみようとも思います・・。
さて、そこまで記していると、これからのブログ記事作成の新たな手法として、これまでに投稿した記事に対する加筆訂正、そして、それら内容の更なる検討、考察を行うのもまた、悪くないのではないかと思いましたが如何でしょうか?
とはいえ、そうしたことも、今後ある程度記事作成を行った後にしてみようと思います・・(笑)。
そして、その具体的な「ある程度」とは、区切りの良い400記事ということにします。
ブログ記事作成をはじめて1年以上が経過し、投稿記事数も400に近く(370)なってきましたが、そうした状況においてもよく分からない、判然としないのは、果たして自身の作成する記事、文章の質が(多少は)向上しているのかということです・・(笑)。
さらに一体何を以って「文章の質が向上しているのか」といえるのでしょうか?
これを単純に閲覧者数として認識、考えることも出来ます。
また、たしかに「閲覧者数が多いブログ記事の方が、少ないそれよりも面白い」という蓋然性は高いと思われます。
しかし、それは決してイコールというわけではありません。
そして科学全般の弱味の真髄とは、もしかしたら、ここにあるのかもしれません・・・。
いうなれば、それ(ブログ記事における閲覧者数)とは、あくまでも指標に過ぎず、そのものの実態を絶対的な精確さで評価、表現しているというわけではありません・・。
さらに、振り返って考えてみますと、こうしたことは、実験等を行っていた際に度々考えていたことであり、あるいは、そうした思考のある程度の蓄積の先に、何かしら意識における相変態・相転移といった現象が生じるのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、そうした現象がこれまでに実際に生じていたか、生じていなかったか、あるいは、今後生じるか、生じないかとは、今もって分かりませんが、とりあえず出来ることとして、以前よりかは更に肩肘を張らず、力まずにを意識しつつ(・・しかし意識してそうするのもおかしなハナシではありますが(笑))またしばらくブログ記事の作成を継続しようと思います・・(苦笑)。
暗中模索とはこうしたことを示すのかもしれません・・(笑)。
そして、ここまで書いて突然、昨日のブログ記事の概要である「意識、タマシイが分裂している状態である方がそれが統一されている(感動している)状態に比べ、文章などを記す際においては適しているのではないか?」といった主張とは、もしかすると渡辺美里の「My Revolution」の歌詞にも近いのではないかと思うに至りましたが、如何でしょうか(笑)?
そして、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の九州・熊本における大地震で被災された地域における諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
こうした現象を見て、その記事を読んでみますと「おそらく現今記している一連の記事よりもよく書けているのではないか?」と考えさせられます・・(苦笑)。
そして、直近のそうした記事とは昨秋に記した「迦微、神、カミについて・・」であり、何故であるかよくわかりませんが1日で閲覧者数が急激に上昇しました。
また、そのことを不思議に思い、その記事を読み返してみますと、たしかにここ最近ほぼ日課のように記している一連の記事に比べて内容が深いように思われます・・(苦笑)。
また、そこで述べている考えについては、現在なお特に大きく変化しておらず、何れ機会があれば続編らしきものを書いてみようとも思います・・。
さて、そこまで記していると、これからのブログ記事作成の新たな手法として、これまでに投稿した記事に対する加筆訂正、そして、それら内容の更なる検討、考察を行うのもまた、悪くないのではないかと思いましたが如何でしょうか?
とはいえ、そうしたことも、今後ある程度記事作成を行った後にしてみようと思います・・(笑)。
そして、その具体的な「ある程度」とは、区切りの良い400記事ということにします。
ブログ記事作成をはじめて1年以上が経過し、投稿記事数も400に近く(370)なってきましたが、そうした状況においてもよく分からない、判然としないのは、果たして自身の作成する記事、文章の質が(多少は)向上しているのかということです・・(笑)。
さらに一体何を以って「文章の質が向上しているのか」といえるのでしょうか?
これを単純に閲覧者数として認識、考えることも出来ます。
また、たしかに「閲覧者数が多いブログ記事の方が、少ないそれよりも面白い」という蓋然性は高いと思われます。
しかし、それは決してイコールというわけではありません。
そして科学全般の弱味の真髄とは、もしかしたら、ここにあるのかもしれません・・・。
いうなれば、それ(ブログ記事における閲覧者数)とは、あくまでも指標に過ぎず、そのものの実態を絶対的な精確さで評価、表現しているというわけではありません・・。
さらに、振り返って考えてみますと、こうしたことは、実験等を行っていた際に度々考えていたことであり、あるいは、そうした思考のある程度の蓄積の先に、何かしら意識における相変態・相転移といった現象が生じるのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、そうした現象がこれまでに実際に生じていたか、生じていなかったか、あるいは、今後生じるか、生じないかとは、今もって分かりませんが、とりあえず出来ることとして、以前よりかは更に肩肘を張らず、力まずにを意識しつつ(・・しかし意識してそうするのもおかしなハナシではありますが(笑))またしばらくブログ記事の作成を継続しようと思います・・(苦笑)。
暗中模索とはこうしたことを示すのかもしれません・・(笑)。
そして、ここまで書いて突然、昨日のブログ記事の概要である「意識、タマシイが分裂している状態である方がそれが統一されている(感動している)状態に比べ、文章などを記す際においては適しているのではないか?」といった主張とは、もしかすると渡辺美里の「My Revolution」の歌詞にも近いのではないかと思うに至りましたが、如何でしょうか(笑)?
そして、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の九州・熊本における大地震で被災された地域における諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
20160726 意識の統一と分裂 ナンセンスの暴走そして氾濫
先日記した記事において「何かしら文章などを作成している時の自身と日常生活における自身とは少なくとも、その意識表層の次元において異なり、この時、双方は分離しているのではないか。」と記しました。
では、それとは反対の状態つまり、自身の意識が統一されている時とは、如何なる状態であるかと考えてみますと、それは一つに何かに感動している時ではないかと思われます。
こうしたことを書きますと、そういえば、小林秀雄がどこかで「人は感動している時はタマシイが一つとなり誰であれ自分自身になっている。」といったことを述べていたことを思い起こさせます・・。
また、それは自身の経験、実感より、たしかにそうではないかと思われます。
さて、これらの想起、思い描いたことを前提として、もう少しハナシを進めてみますと「では、文章を記しているときの自身とは、自分自身になり、感動を以って記しているのではなく、意識、タマシイが統一されていない分裂した状態にて記しているのであろうか・・?」と考えさせられますが、これは確かに間違いではなく、少なくとも現在の私の場合とは、感動している状態にて何かしら文章を書くことは、かなり難しいといえます・・。
文章を書く際において、意識上に想起される様々な観念、事象などを意識的に留意し、さらにそれらの取捨選択を為し、その適当な配列、配置を検討し、とりあえず書きはじめ、そして、ある程度記した段階において、それがハナシ、物語としてどうにかカタチになっているか、筋が通っているかを実際に読み検討し、さらに推敲、加筆訂正を行うといった行程の繰り返しを辿ることが多く、その場合、さきの「感動」とは、この一連の行程作業を行う上において(積極的に)あまり歓迎されるものではありません。
しかし一方、そのようにして作成された文章を誰かが読み、時として感動するということは、なかなか面白い現象ではないでしょうか・・(笑)。
あるいはそれと関連しているかどうか明確ではありませんが、ゲーテがイタリアに赴いた際、法王庁の誰かに言われたコトバとして「人は決して一つのことを考え続けてはなりません、そのようなことをしているとおかしくなります。人は常時様々なことを心のなかに浮かべておくべきです。」といったものが記録されております。
あるいはこれもまた、何かしら、さきに述べたことを支持する内容を含んでいるのではないかと考えさせられますが、如何でしょうか?
とはいえ、同時にそこにはまた、限度、センスあるいはコトバのニュアンスといった微妙且つ重要な問題もまた存在し、短絡的にハウツー本の要領で鵜呑みにして真似すれば良いというものではないと思われますが如何でしょうか?
そして、何かを学ぶということの真髄とは、こういった感覚の認識、知覚にあるのではないかとも考えさせられます・・。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
また、さる四月の九州、熊本における大地震で被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
Hyoe-Murakami [Japan the years of trial 1912-52] Kodansha America, Inc (1983/8/1) pp.64-65
「Ishihara addressed the group in a friendly manner,
explaining the aims of the central authorities and
expressing his own hopes that the Kwantung Army would
show prudence.
This prompted Lieutenant Colonel Muto, the staff officer
in charge of operation in Inner Mongolia, to ask with a
smile, Are you merely voicing the opinions of your
superiors or do you yourself truly believe what you are
saying?
That’s enough!
Ishihara retorted, his voice suddenly stern.
I’m opposed to any operations whatsoever in Inner
Mongolia.
Just when the building of Manchukuo is finally under
way, you want to risk stirring up trouble with Russia and
China with these clumsy plots.
Doesn’t common sense tell you what the results will be!
You amaze me, Muto said, the smile still on his lips.
At the time when you were so active in the Manchurian
Incident, Imamura and I were working at General Staff
Headquarters.
It was your actions then that opened our eyes; we admired
you.
We are only putting into practice in Inner Mongolia what
we learned from you.
The staff officers laughed in unison when Muto finished,
as if to voice approval of what he had said.
Ishihara, shocked into silence, turned to Itagaki, but his
old friend and ally made no move to speak.
A sudden chill fell over the meeting.
Assistant Chief of Staff Imamura stepped in to act as
mediator.
What do you say sir-he said, addressing Chief of staff
Itagaki, it’s time to eat, so why don’t we discuss this
further tomorrow, when there’s more time…Yes, Itagaki
agreed, greatly relieved, let’s move to the dining room and
relax.
The following day Ishihara reiterated the aims of the
central command to the commander, Itagaki, and
Imamura, but he was fully aware they were not listening
in earnest to what he had to say. It was Ishihara himself,
together with Itagaki, who had created these headstrong
tendencies in the Kwantung Army.
Now he was partaking of the bitter fruit of a tradition he
had helped create. It was like preaching to a blank wall.
For the first time in his life, Ishihara tasted defeat.
When Imamura saw him off at the airfield, it seemed to
him Ishihara was a different man from when he arrived,
that a shadow of forlornness had fallen upon him. 」
ISBN-10: 087011610X
ISBN-13: 978-0870116100
では、それとは反対の状態つまり、自身の意識が統一されている時とは、如何なる状態であるかと考えてみますと、それは一つに何かに感動している時ではないかと思われます。
こうしたことを書きますと、そういえば、小林秀雄がどこかで「人は感動している時はタマシイが一つとなり誰であれ自分自身になっている。」といったことを述べていたことを思い起こさせます・・。
また、それは自身の経験、実感より、たしかにそうではないかと思われます。
さて、これらの想起、思い描いたことを前提として、もう少しハナシを進めてみますと「では、文章を記しているときの自身とは、自分自身になり、感動を以って記しているのではなく、意識、タマシイが統一されていない分裂した状態にて記しているのであろうか・・?」と考えさせられますが、これは確かに間違いではなく、少なくとも現在の私の場合とは、感動している状態にて何かしら文章を書くことは、かなり難しいといえます・・。
文章を書く際において、意識上に想起される様々な観念、事象などを意識的に留意し、さらにそれらの取捨選択を為し、その適当な配列、配置を検討し、とりあえず書きはじめ、そして、ある程度記した段階において、それがハナシ、物語としてどうにかカタチになっているか、筋が通っているかを実際に読み検討し、さらに推敲、加筆訂正を行うといった行程の繰り返しを辿ることが多く、その場合、さきの「感動」とは、この一連の行程作業を行う上において(積極的に)あまり歓迎されるものではありません。
しかし一方、そのようにして作成された文章を誰かが読み、時として感動するということは、なかなか面白い現象ではないでしょうか・・(笑)。
あるいはそれと関連しているかどうか明確ではありませんが、ゲーテがイタリアに赴いた際、法王庁の誰かに言われたコトバとして「人は決して一つのことを考え続けてはなりません、そのようなことをしているとおかしくなります。人は常時様々なことを心のなかに浮かべておくべきです。」といったものが記録されております。
あるいはこれもまた、何かしら、さきに述べたことを支持する内容を含んでいるのではないかと考えさせられますが、如何でしょうか?
とはいえ、同時にそこにはまた、限度、センスあるいはコトバのニュアンスといった微妙且つ重要な問題もまた存在し、短絡的にハウツー本の要領で鵜呑みにして真似すれば良いというものではないと思われますが如何でしょうか?
そして、何かを学ぶということの真髄とは、こういった感覚の認識、知覚にあるのではないかとも考えさせられます・・。
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
また、さる四月の九州、熊本における大地震で被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
Hyoe-Murakami [Japan the years of trial 1912-52] Kodansha America, Inc (1983/8/1) pp.64-65
「Ishihara addressed the group in a friendly manner,
explaining the aims of the central authorities and
expressing his own hopes that the Kwantung Army would
show prudence.
This prompted Lieutenant Colonel Muto, the staff officer
in charge of operation in Inner Mongolia, to ask with a
smile, Are you merely voicing the opinions of your
superiors or do you yourself truly believe what you are
saying?
That’s enough!
Ishihara retorted, his voice suddenly stern.
I’m opposed to any operations whatsoever in Inner
Mongolia.
Just when the building of Manchukuo is finally under
way, you want to risk stirring up trouble with Russia and
China with these clumsy plots.
Doesn’t common sense tell you what the results will be!
You amaze me, Muto said, the smile still on his lips.
At the time when you were so active in the Manchurian
Incident, Imamura and I were working at General Staff
Headquarters.
It was your actions then that opened our eyes; we admired
you.
We are only putting into practice in Inner Mongolia what
we learned from you.
The staff officers laughed in unison when Muto finished,
as if to voice approval of what he had said.
Ishihara, shocked into silence, turned to Itagaki, but his
old friend and ally made no move to speak.
A sudden chill fell over the meeting.
Assistant Chief of Staff Imamura stepped in to act as
mediator.
What do you say sir-he said, addressing Chief of staff
Itagaki, it’s time to eat, so why don’t we discuss this
further tomorrow, when there’s more time…Yes, Itagaki
agreed, greatly relieved, let’s move to the dining room and
relax.
The following day Ishihara reiterated the aims of the
central command to the commander, Itagaki, and
Imamura, but he was fully aware they were not listening
in earnest to what he had to say. It was Ishihara himself,
together with Itagaki, who had created these headstrong
tendencies in the Kwantung Army.
Now he was partaking of the bitter fruit of a tradition he
had helped create. It was like preaching to a blank wall.
For the first time in his life, Ishihara tasted defeat.
When Imamura saw him off at the airfield, it seemed to
him Ishihara was a different man from when he arrived,
that a shadow of forlornness had fallen upon him. 」
ISBN-10: 087011610X
ISBN-13: 978-0870116100
2016年7月26日火曜日
20160725 文語と口語との関係について、語り得ぬものとは・・
本日は若干帰宅が遅くなり、既に366記事は作成したので、ブログ記事作成は止めて早めに寝ようかと思いましたが、日常性もしくは慣れというものはなかなか恐ろしいものであり、こうして本日分ブログ記事の作成を始めていました・・(苦笑)。
ともあれ、こうして記事を作成していますと「さて、では次の目標は400記事にしてみようか・・。」と考える私が他方におります・・(笑)。
そうしますと「ここでブログ記事を作成している私とは、日常生活を送っている私とは、また別の相にいるのではないか?」と不図考えてしまいます・・(笑)。
これを異言しますと、文章を書く相の私と、日常生活を送る私とは、その基層の部分においては同一であるものの、その表層(?)においては分離しており、あるいは分離しているように見え、このことは、さきに抜粋引用したエルンスト・ユンガーの記した文章と何かしら関連があるのではないかとも考えさせられます・・。
また、この主題ににこだわっているようにも見受けられるかもしれませんが、それは、こうした文章を記す私がはじめて経験していることであるからと云えます。
また、こうした経験とは、通常文章を記す際において書き著すことがないのが通常であるのかもしれません・・。
いや、あるいは、こうした経験とは、特に普遍性を持つものではなく、私自身がそうした経験をしているように他者に対して見せるために記しているだけという可能性も否定できません・・(苦笑)。
そして、こうした、いわゆる精神内部の動態、状況をできるだけ精確に書き記そうという行為とは、そもそもが徒労に終わることの方が多いのかもしれません・・。
それ故、様々な宗教および宗派が併存しながらも、その平和的な相互理解があまり進まず、それとは逆にそれらの間での観念上の対立が実際の闘争にまで至るのではないでしょうか?
まあ、こうした意見とは比較的陳腐なものではあるのですが・・(苦笑)。
ともあれ、「では、そうした精神内部の動態、状況の精確な記述を妨げているものは一体何であろうか?」と考えた場合、おそらくそれはコトバでいうと割合簡単であり「自己欺瞞」といったものではなかろうかと思います・・。
もちろん自身を含め、我々とは、この自己欺瞞を日常的に行っているのではないでしょうか?
そしてそれは、様々な事物に対して自己欺瞞を思考のなかに置かないようにする学問が再現可能性・普遍性を重視する理系学問分野一般の特徴ではないでしょうか?
それ故、理系的な哲学の著作ともいえるヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」の最終章、結語において「人は語り得ないものについては沈黙するほかない。」という結論にたどり着いたのかもしれません・・。
とはいえ、後年著者は自身で、この結論を含め、この著作での主張を撤回しております。
それはつまり、新たな創造・思索を行うために我々人間とは、語り得ない対象についてもコトバを用いて認識あるいは認識の共有を試みなければならならないという現実が、沈黙することよりも有効であるという考えに達したからであると思われます・・(我々日本人はこの認識がイマイチ苦手であるのではないだろうか?)。
また、たとえ、認識の共有が図られず、逆に対立に終わったとしても、まだそちらの方が持続可能性・発展持続性があると考えたのかもしれません・・。
そして、このように記していると「日常生活における自身と文章を書く自身の相が少なくとも表層においては分離しているのではないか?」といったさきの意見も、たとえ、それが無意識的な自己欺瞞によるものであるとしても、少なくとも、故意にその現象を歪めようとする意図に基づかないという意味においては、まあ、許容されても良いのではないかと思われましたが如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本における大地震によって被災された地域の今後の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。
ともあれ、こうして記事を作成していますと「さて、では次の目標は400記事にしてみようか・・。」と考える私が他方におります・・(笑)。
そうしますと「ここでブログ記事を作成している私とは、日常生活を送っている私とは、また別の相にいるのではないか?」と不図考えてしまいます・・(笑)。
これを異言しますと、文章を書く相の私と、日常生活を送る私とは、その基層の部分においては同一であるものの、その表層(?)においては分離しており、あるいは分離しているように見え、このことは、さきに抜粋引用したエルンスト・ユンガーの記した文章と何かしら関連があるのではないかとも考えさせられます・・。
また、この主題ににこだわっているようにも見受けられるかもしれませんが、それは、こうした文章を記す私がはじめて経験していることであるからと云えます。
また、こうした経験とは、通常文章を記す際において書き著すことがないのが通常であるのかもしれません・・。
いや、あるいは、こうした経験とは、特に普遍性を持つものではなく、私自身がそうした経験をしているように他者に対して見せるために記しているだけという可能性も否定できません・・(苦笑)。
そして、こうした、いわゆる精神内部の動態、状況をできるだけ精確に書き記そうという行為とは、そもそもが徒労に終わることの方が多いのかもしれません・・。
それ故、様々な宗教および宗派が併存しながらも、その平和的な相互理解があまり進まず、それとは逆にそれらの間での観念上の対立が実際の闘争にまで至るのではないでしょうか?
まあ、こうした意見とは比較的陳腐なものではあるのですが・・(苦笑)。
ともあれ、「では、そうした精神内部の動態、状況の精確な記述を妨げているものは一体何であろうか?」と考えた場合、おそらくそれはコトバでいうと割合簡単であり「自己欺瞞」といったものではなかろうかと思います・・。
もちろん自身を含め、我々とは、この自己欺瞞を日常的に行っているのではないでしょうか?
そしてそれは、様々な事物に対して自己欺瞞を思考のなかに置かないようにする学問が再現可能性・普遍性を重視する理系学問分野一般の特徴ではないでしょうか?
それ故、理系的な哲学の著作ともいえるヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」の最終章、結語において「人は語り得ないものについては沈黙するほかない。」という結論にたどり着いたのかもしれません・・。
とはいえ、後年著者は自身で、この結論を含め、この著作での主張を撤回しております。
それはつまり、新たな創造・思索を行うために我々人間とは、語り得ない対象についてもコトバを用いて認識あるいは認識の共有を試みなければならならないという現実が、沈黙することよりも有効であるという考えに達したからであると思われます・・(我々日本人はこの認識がイマイチ苦手であるのではないだろうか?)。
また、たとえ、認識の共有が図られず、逆に対立に終わったとしても、まだそちらの方が持続可能性・発展持続性があると考えたのかもしれません・・。
そして、このように記していると「日常生活における自身と文章を書く自身の相が少なくとも表層においては分離しているのではないか?」といったさきの意見も、たとえ、それが無意識的な自己欺瞞によるものであるとしても、少なくとも、故意にその現象を歪めようとする意図に基づかないという意味においては、まあ、許容されても良いのではないかと思われましたが如何でしょうか?
ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる四月の熊本における大地震によって被災された地域の今後の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。
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