2015年7月15日水曜日

野矢茂樹著「ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」 (ちくま学芸文庫)より抜粋


1-1「論理哲学論考」はまちがっているのか
「論理哲学論考」―この著作をわれわれは以下、単に「論考」と呼ぶ。
その序文の終わり近く、ウィトゲンシュタインは次のように記している。

問題はその本質において最終的に解決された。

問題とは、哲学問題であり、哲学問題のすべてである。

まともなひとであれば、こんな結論をもつというだけで、この本のどこかにまちがいがあるに違いないと判断するだろう。しかもこの直前にはこう述べてもいる。

本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる。

「論考」の出版は1922年であるが、序文には1918年とある。夏である。ウィトゲンシュタインは1889年の春に生まれているから、この序文を書いたときは29歳だったいうことになる。

若きウィトゲンシュタインには失礼だが、侵しがたく決定的に真であり、かつ重要であるような思想が存在すると信じるほど私はもう若くない。
他方、この著作は侵しがたく決定的に重要であると私は信じている。ということは、この著作はどこかでまちがっているということだ。

実際、ウィトゲンシュタイン自身が後に「論考」を自己批判するに至っている。
そこで、ウィトゲンシュタインの哲学は大きく分けて前期と後期の二つに区分される。あるいはもう少し細く、その間に中期ないし移行期がはさまれて三つに区分される。
いずれにせよ、「論考」は前期ウィトゲンシュタインの著作であり、それを批判し、乗り越えて後期ウィトゲンシュタインの思索が展開されることになる。
現実から可能性へ

2-1「世界」と「論理空間」
別にこれから「論考」の「本文を一行ずつ読んでいこうというわけではないが、何はともあれ、やはり冒頭の一文から見ておこう。「論考」は次の文から始められる。
一 世界は成立していることがらの総体である。
「成立していることがら」というのは、たとえばウィトゲンシュタインはウィーン生まれであるとか、ウィトゲンシュタインは四人の兄と三人の姉をもつ末っ子であるといった、この現実世界の事実のことである。これに対して、「可能性としては成立することもありえたのに、現実には成立しなかったこと」というのもある。たとえば、ウィトゲンシュタインは結婚したことがあるとか、ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士であったといったことである。どちらも、可能性としては考えられるが、現実には事実ではない。
そこで、「世界は成立していることがらの総体である」と言われる。ということは、ここにおいてウィトゲンシュタインは、「世界」という語をあくまでも「現実世界」を意味するようなものとして導入しているのである。この点をまず抑えておかねばならない。想像の世界、たんに思考されただけの世界は「世界」ではない。
そうすると気になるのは、思考された世界である。つまり、あくまでも現実的なものとしての「世界」は「成立している事柄の総体」であるが、それに対して、現実には成立しなかったことも合わせ、それら成立したこと・しなかったことをともにもつような「成立しうることがらの総体」、すなわち、「世界をその一部として含み、世界よりも大きい何ものか。
ウィトゲンシュタインは、それを「論理空間」と呼ぶ。「論理空間」なるものがいったいどのようなものなのかは、まだここで明確に論じることはできない。後でゆっくり主題的に検討することにして、今のところは、現実性を受け持つものとしての「世界」と、それに対して可能性を受け持つものとしての「論理空間」とを、次のように漠然と対置させて据えておくことにしよう。

世界・・・現実に成立していることの総体

論理空間・可能性として成立しうることの総体

「論理空間」は、「論考」において最上級の重要概念である。前章の話を思い出してほしい。「論考」の目指すところは思考の限界を画定することであった。我々にはどれほどのことが考えられるのか。それが「論考」の根本問題である。

他方、論理空間とは、可能性として成立しうることの総体、つまり、世界のあり方の可能性として我々が考えられるかぎりのすべてである。

とすれば、まさに論理空間のあり方を明らかにすることは、思考の限界を画定することに直接結びつくものとなるだろう。もっと単刀直入に言うならばその分少しラフな言い方になるが、論理空間の限界こそ、思考の限界にほかならない。

かくして、まずめざされるべきは「論理空間」のあり方を明確にすることである。
つまり、可能性の総体とはどのようにあるのか。
そして、そこにたどりつくためにわれわれが立っている、その出発点のここ、それが現実のこの「世界」にほかならない。つまり、「成立していることがらの総体」としての現実世界。我々はそこにいる。そして、そこから可能性へと歩み出ようとしている。

ここで「論考」が、徹底的に現実に立ちつつ可能性を捉えようとしているという点は強調しておくべきだろう。
ここには、我々が可能性について哲学的に考察するときに不可欠の感受性がある。
あたりまえの物言いになってしまうが、現実化していない可能性など、現実には何一つ存在しない。そしてわれわれはこの現実世界を生きるしかない。
しかし、それでもわれわれは現象を取り巻く広大な可能性を了解している。
こんなこともありえた、あんなこともありうる。そんな無数の可能性の中のひとつが、この現実なのである。しかし、可能性が現実を「取り巻く」とは、どういうことなのだろうか。もちろん「取り巻く」という言い方は比喩にほかならない。そして、日常的なこの何気ない比喩の実質を見定めるのは、哲学の仕事である。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
ISBN-10: 4480089810
ISBN-13: 978-4480089816

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著 丘沢静也訳 青土社刊 「反哲学的断章―文化と価値」pp.65-66より抜粋

「哲学ってぜんぜん進歩しないんですね」とか、「哲学って、その昔、ギリシャ人が頭を悩ませていたのと同じ問題で、今も頭を悩ませてるんでしょう」とか。
何度も何度も聞かされてきたセリフである。
ところで、そういうセリフを口にする人は、なぜそうなのか、理由がわかっていないのだ。その理由とは、われわれの言語が相変わらず同じであり続けているからであり、われわれの言語が何度も何度もわれわれを同じ問題へと誘惑するからである。
「sein(存在する、・・・である)」という動詞は「食べる」とか「飲む」と似た働きをするようだが、この「存在する、・・である」という動詞がある限り、また「同一の」とか「真の」とか「偽の」とか「可能な」という形容詞がある限り、また、時間の流れとか、空間のひろがりとかが語られるかぎり・・・、何度も何度も、同じような謎めいた困難にぶつかることになるだろう。そして、どんな説明によっても解決できない問題を、見つめることになるだろう。ちなみに、こういう堂々めぐりは、この世ならざるものへの望みを満足させてくれる。というのも、「人間の知性の限界」を見ているのだと思うことによって、当然、限界のむこうまで見えているのだと思うからである。
「哲学者たちは、プラトンが近づいた以上には「実在」の意味に近づいてはいない・・。」という英語を読む。
なんと奇妙な事態だろう。
それでは、プラトンがずいぶん遠くまで行けた、ということになってしまう。
あるいは、私たちがプラトンより遠くに行けなかった、ということになってしまう。
どちらにしても、なんと奇妙な話だろう。
プラトンがそんなに利口だったから、ということだろうか。
MS111 133:24.8.1931
反哲学的断章―文化と価値
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
ISBN-10: 4791757327
ISBN-13: 978-4791757329







2015年7月14日火曜日

20150714 角山榮著「新しい歴史像を探し求めて」ミネルヴァ書房刊pp.103-108より抜粋

ちなみに戦国時代末期、堺より南の和歌山(紀伊)にて、おそらく堺にて製造された大量の火縄銃を装備した国人、土豪連合組織(雑賀衆)が存在し、この地を統治していたことは大変興味深く、同じく当時商人連合組織(堺衆、会合衆)が統治していた堺と何らかの共通性があるのではないかと考えさせられます。そして、その共通性とは大阪湾沿岸南部地域だけに限定されるものなのか?

あるいは、瀬戸内東部地域あたりまで延長可能であるのか?は同じく大変興味深く、同時代の九州、山陽、山陰、四国、近畿、そして戦国の群雄を数多く輩出した東海地域と比較した場合、何らかの特徴の存在が示唆されます。

そして、さらに同上地域の古代における銅鐸の意匠、古墳造営における傾向などとも何らかの相関を見出すことが可能かもしれません。また、それは現代において見出すことができる地域性においても同様であるかもしれません。

以上を踏まえ、以下、書籍からの抜粋となります。

「アジア経済の問題は、中国と日本がアジア特産品である生糸と茶の世界市場の販売競争においてどちらが勝利を占めるかという問題ではない。むしろ世界市場に組み込まれた中国・日本その他アジア各国・各地域に西洋諸国から激流のごとく流入してくる近代文明の製品に対して、中国・日本はどう対応したか、という問題こそ、その後のアジアの未来像と深く関わる点において重要な課題ではないだろうか。

それでは人々の欲望をかきたて近代文明の製品とは、どんなものであり、どんな特徴を持っていたか。それはひと口でいえば産業革命以降、旧文明にはなかった日常生活便宜品がつぎつぎと開発され生産普及したことである。例えば日常生活のなかに入ってきたものとして、マッチや石鹸、洋傘、懐中時計、石油ランプ、ミシンなどが挙げられるが、これらはその使用が制限されていた明治維新前の身分制の制約から解放された商品であるだけに人々の欲望をかきたてた。これら近代文明の製品に共通している特徴は、第一に機能性、効率性、便利性である。第二には脱身分制、脱宗教制、脱階級性、脱民族性、第三には資本主義的「商品」であるという特徴を持っていた。従って現代に至るまでなお続いているのである。

例えば、火打石に代わるマッチは、火打石よりも早くしかもかんたんに火を起こすことができるし、石鹸は、糠袋や軽石よりも手軽に身体が洗えるし、便利で効率がよい。だからマッチや石鹸などは身分や宗教、民族を越えて金さえあれば誰でも購入しその恩恵に与ることのできる「商品」として提供され、すべてのものにとって憧れの的になったのである。西洋式生活便宜品革命が開国とともに日本・中国・東南アジアへもたらされたのである。

そのとき日本と中国とではまったく異なった対応をとったことは注目すべきである。例えばマッチは開国・明治維新とともにスウェーデンマッチを中心とする欧州のマッチが日本に入ってきた。中国では日本より少し早く欧州マッチの輸入が始まった。従って上海、香港といった都市はたちまち欧州製マッチが充ち溢れる状態になった。ところが日本では洋式マッチを自分自身で開発・製造する方策をとった。明治九年(1876)四月、清水誠が東京に新火遂社を設立して早速製造を開始した。これを先頭にマッチ製造業がぱっと関西や中部地方にも拡大し、数年のうちに国内市場はほぼ完全に日本製マッチによって掌握された。そして明治十三年以降には、輸出が本格的になる一方、輸入マッチは数量、金額ともに急激に減少した。この点が中国と日本の技術力・経済力における大きな相違点であることに注目すべきである。この差が生まれたのはいつ頃であったかはのちほど述べる。

こうして日本は国内市場から西洋製マッチを駆逐した上に、輸出をつうじて釜山・仁川といった朝鮮、それに上海、香港を中心とする中国市場に進出、そこでオーストリア、ドイツ、スウェーデンのマッチと激しい競争を演じることになった。市場競争のポイントは値段であった。

当時の日本の労働力は、ヨーロッパ諸国と比べてはるかに安かった。また当時の朝鮮や中国の消費者の生活水準も低かったので、商品の品質がいくら良質であっても値段の高い西洋のマッチは敬遠された。少々粗悪であっても値段が安い日本のマッチの方に引かれた。西洋のマッチはマッチ一箱でないと買えない。それを敢えてマッチの軸、一本、二本いくらで買っていたのが中国の貧しい消費者であった。それに対して安い日本製マッチなら、欧州マッチ軸一本、二本の値で一箱分買えたのである。こうして日本のマッチは西洋のマッチとの競争に打ち勝ち、どんどんシェアを伸ばしていき、明治二十年には香港の市場は日本マッチによって占められるまでに到ったのである。

そうしたなかで中国マッチ工業が日本より約十年ほど遅れて台頭してくるのであるが、製造技術および材料の一部は日本からの伝授あるいは購入というかたちで、しかも日本以下的賃金労働者による製造で中国マッチは日本マッチを独占市場から退出させてゆくのである。

いま見てきたマッチのケースは、他の石鹸、洋傘、石油ランプなどいわゆる洋式雑貨工業や近代的紡績業などについてもいえることであって、アジアの近代化、工業化の展開のなかで、日本が辿った道、あるいは果たした役割は、ヨーロッパ諸国が産業革命(テイク・オフ=工業化)の発電所であったとすれば、強い電流が直接アジアへ配電されても落差が余りにも大きくて、ときと場所によっては危険な状態であった。そこで日本が果たした役割は変電所的役割というか、いったんは日本においてアジアの人たちがより買い易い、使い易い商品に転化して提供する役割を果たしたのである。日本はこうしてアジアの工業化の先頭に立ち、中国およびASEAN諸国はマッチ工業において日本からの技術と材料の提供、模倣をつうじて発展したように、日本はアジアの変電所的役割をつうじてリーダーシップをとることになる。

日本はいつ中国文明から脱出して独自の文化を開拓したのか。

それでは日本が西洋物質文明の製品をいとも簡単にとはいわないまでも、たちどころにその模造品を製作する才能はいつどのようにして修得したのか。日本は長い間、中国文明の影響下にあって中国文明のフレームワークから脱出することができなかったが、福沢諭吉のいう日本の脱亜入欧は明治維新後のことといわれている。しかし果たしてそうかというと、少なくとも堺の火縄銃の大量生産に関しては十六世紀中頃まで遡ることができる。堺の刀鍛冶が火縄銃を見ただけで、数年のちにそれが欧州製か東南アジア製かについては未解決ではあるかれども製作に成功したことは事実である。それも全国の武将から堺に集まってきた大量の火縄銃注文に対し、現代でいうところの部品互換方式によって大量生産で対応したことには驚かされる。

十六世紀のヨーロッパでは、鉄砲・大砲の生産はふつう一品注文生産といって、一人の鍛冶工が部品のすべてを作って組み立てたといわれるが、堺においては、鉄砲鍛冶が社会的分業によって部品を生産に、それを組み立てたのである。因みに、社会的分業とは具体的にいうと、火縄銃の銃身をつくる鉄砲鍛冶と、台座をつくる台師、および引き金をつくる金具師の三つの社会的分業から構成されていた。といっても、正確なサイズによる規制の徹底したシステムの存在がなければできるはずがない。まして鉄砲が武器として機能するためには銃身にこめられる弾丸のサイズと銃身の口径に狂いがあってはならない。

経営史の教科書では部品互換方式による大量生産方式は、十九世紀中頃、アメリカがコルトのピストル、マコーミックの刈取機、シンガーのミシンの生産に採用されたのが世界で最初と記されている。それが十六世紀堺で鉄砲生産に採用されていたのであれば、アメリカより三百年も早いということになる。鉄砲の生産において十六世紀日本は中国より進んでいただけでなく、天下をわがものにした秀吉に到っては、朝鮮から明までその支配下に置こうとして兵を朝鮮半島に進めたことは、結果として失敗であったにしても、日本の脱中華文明、とくに中国王朝への朝貢貿易はまさに十六世紀中頃には消えていたのであって、その日本台頭の動きは中華的アジアの歴史に大きな転機をもたらすことになった。

その中心的地位を占め、独自の技術、技術創造の役割を果たしたのが、実は堺であった。大阪はまだ存在しなかったから、本来なら京都が中心的役割を果たすべき地位にあったはずである。
しかしフランシスコ・ザビエルが1550年に堺に来て、都の有力者に布教の許可を得る目的で逢うべく、折角上京したにもかかわらず、応仁の乱以後の戦火で荒れ果てた姿に絶望して、在京数日にして帰退したように、京都の現状はとても文化的活動に主導的役割を演じる状況にはなかった。」
角山榮





ウィンストン・チャーチルの戦争についての記述 (これは現代日本にとって興味深い記述であると思います。)

『戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレクサンダーやシーザーやナポレオンが軍隊を勝利に導き、兵士たちと危険を分かち合いながら馬で戦場をかけめぐり、緊張したわずか数時間の中で彼等の決断と行動が帝国の運命を決するというようなことは、もうなくなったのだ。これからは彼等は政府省庁のような安全で静かでものうい事務室に書記官たちに取り囲まれてすわり、一方何千という兵士たちが電話一本で機械の力で殺され息の根を止められるのだ。我々は既に最後の偉大なる総指揮官たちを見てしまった。おそらく彼等は国際的な大決戦が始まる前に絶滅してしまったのだろう。そして勝利の女神は、その様な殺戮を大規模な形で組織した勤勉な英雄と不本意な結婚をすることだろう。

 自己の生存が危うくなっていると信じた諸国は、その生存を確保する為にあらゆる手段を使うことになんの制約を受けなくなる、ということは確かである。そしておそらく、いや確かに、やがてそれら諸国が自由に使えるようになる手段の中に、大規模な限界のない、そして多分一度発動されたら制御不可能となるような破壊のための機関と工程が含まれるだろう。


 人類がこのような立場に置かれたことは以前にはなかった。美徳をいくぶんか高めたり、より賢明な導きを受けたりするようなこともなしに、人類はそれによって彼等自身の絶滅を確実に達成できるような道具を、初めてその手にしたのである。これこそが人類の過去の栄光と苦労の全てが彼等を導き最後に到達させた人類の運命の特質なのである。人類は彼等の新しい責任について思い巡らし熟考するが良い。死が気をつけをして立っている。彼はまさに働こうとして従順に待ち受けている。まさに諸国民をそっくり消し去ってしまおうとして、そしてもし呼ばれれば文明の残したものを再建の望みなきまでに粉砕しようとして待ち受けている。死は、誘惑に弱く当惑しきった存在であり、長いことその犠牲者であったが今この時期だけその主人になっている人間からの命令を待っているのである。』




2015年7月4日土曜日

銅鐸について 4 和歌山県における出土銅鐸の分布および傾向


和歌山県を主とした紀伊半島西部地域は我が国有数の銅鐸出土地域の一つであり、これまでに伝和歌山出土を含めると、およそ30の遺跡から40個程の出土例がある。また、他の多くの銅鐸出土例を持つ他府県として島根、兵庫、徳島、大阪、愛知などが挙げられる。

これら地域から出土する銅鐸には、各々地域間にて共通性・相違性が存在し、それは製作地、製作時期等により生じたものと考えられる。

一例として1996年に島根県大原郡加茂町(加茂岩倉遺跡)にて39個の銅鐸が出土したが、その内の4個が1970年に和歌山県和歌山市大田黒田遺跡にて出土した旧式小型の「聞く銅鐸」と同じ鋳型にて作製された物であることが判明したことが挙げられる。

銅鐸の鋳造に用いられる鋳型は旧式小型の「聞く銅鐸」の場合、石製であり数回の複製は技術的に可能である。一方、新式大型の「見る銅鐸」の場合、鋳型は土砂製となり、土砂製の鋳型を用いて鋳造する場合、溶湯合金を鋳込み、鋳造体を得る際に鋳型を破砕することから同一の鋳型にて複製することは不可能であると云える。

紀伊半島西部地域における銅鐸の出土分布の様相は、紀ノ川から富田川までの県内主要河川流域の周辺丘陵地からの出土例が大半であると云える。

また今日の海浜地域・内陸山間地域からの出土例がなく、また、その新旧別の出土傾向は、紀北地域に旧式小型の「聞く銅鐸」の出土例の割合が多く、南下に随い新式大型の「見る銅鐸」の出土例の割合が増加する傾向が認められる。

紀ノ川流域にて出土した銅鐸は、和歌山市周辺を中心に7個であり、そのうち新式大型の「見る銅鐸」は破砕状態にて1個のみである。前述の地域内での出土銅鐸総数が40個程のうちの7個が地域内最大の水稲耕作可耕地を含む紀ノ川流域にて出土していることは銅鐸が水稲耕作社会における祭器であったことを併せて考えると、その全体に占める割合が過分に小さく、また同時に大変興味深い現象であるといえる。

日高川流域にて出土した銅鐸は、御坊市を中心に計7個であり、その内訳は旧式小型の「聞く銅鐸」が4個、新式大型の「見る銅鐸」が3個であることから、この地域は、南下に随い新式大型の占める割合が増加する紀伊半島西部地域内における新旧様式が均衡並存していると云える。
また、特徴的なこととして、18世紀に道成寺境内(現日高川町)から新式大型の「見る銅鐸」が出土したこと、さらに1999年御坊市にて発掘された堅田遺跡において現在日本最古である紀元前200年頃の青銅を溶かした溶炉遺構、ヤリガンナの鋳型等が瀬戸内をはじめとする西日本各地、朝鮮半島系の様式を持つ土器、遺物を伴い出土したことが挙げられる。

これらのことから伝承、物語等の地域における根が深いこと、現在の都鄙感覚を用いてこの様な現象を検討、考察することの困難さを示し、同時にこれは我が国における水稲耕作の伝来、伝播経路と矛盾しないものであるともいえる。
南部川流域にて出土した銅鐸は計6個であり、これらは概ね新式大型の「見る銅鐸」に分類される。この地域にておいて特徴的なことは、前述の紀ノ川、日高川流域における新旧銅鐸の出土傾向からさらに変化、逆転していることである。

また、みなべ町西本庄の通称雨乞い山頂上付近にて新式大型の「見る銅鐸」の出土例があり、その出土地は隣接する須賀神社のかつての社叢に含まれており、これは地域の歴史を考える上で極めて示唆に富むことであると考える。

2015年6月30日火曜日

銅鐸について 3 奈良県、大阪府、三重県における銅鐸の出土、およびその傾向

奈良県、大阪府、三重県における銅鐸の出土、およびその傾向

奈良県においては旧式小型の「聞く銅鐸」の出土例が大半であり、新式大型の「見る銅鐸」の確かな出土例は存在しない。このことから奈良県における銅鐸祭祀とは「見る銅鐸」に移行する以前に終焉を迎えたと考えられる。
これと同じ傾向を示す地域として島根、香川県が挙げられる。
また、その出土は、奈良盆地東側の笠置山地麓地域からが多く、大阪府と同県を分かつ生駒山地東麓からも幾つか出土し、南は五條市、北は奈良市秋篠町から出土している。それらの総数は二〇個程である。

大阪府においては多くの銅鐸が出土し、その総数は四〇個程であり旧式小型の「聞く銅鐸」新式大型の「見る銅鐸」の割合はおよそ半々である。
また、地域における新旧銅鐸の出土傾向は混交しており、ここから傾向を見出すことは困難である。
しかし新旧を併せた大阪における出土傾向として、かつて淀川河口部に存在した潟湖である河内湖の南東岸部周辺、大阪平野南部の丘陵地から多く出土することが挙げられる。
また、それらは、北は東部では京都府に近い高槻市、西部では兵庫県に近い吹田市から、南は西部では和歌山県に隣接する泉南市、東部では金剛山地西麓の太子町からそれぞれ出土している。

三重県においては出土総数が二〇個程であり、志摩半島以南の紀伊半島に連なる地域からの出土例はなく、伊勢湾内西岸地域の雲出川北岸の津市がその南端である。また、伊勢湾に流れる鈴鹿川流域からも幾つか出土し、その北端は四日市市であり、内陸部では奈良県と隣接する名張市からの出土が西端である。
そして、それらは丘陵地からの出土例が多い傾向を示す。
また、当県は新式大型の「見る銅鐸」の一種、三遠式銅鐸が出土する太平洋側西端であり、且つ三遠式、近畿式双方の銅鐸が混在し、さらに前述紀伊半島東部に属する県南部地域からの出土例が皆無であることは、紀伊半島西部との地域性を比較する上において示唆に富む。

2015年6月29日月曜日

銅鐸について 2 銅鐸を用いた祭祀について

銅鐸祭祀が行われた社会とは、弥生時代の水稲耕作を主軸とする社会であり、それ以後の古墳時代における様な社会の明確な階級分化は為されていなかった。

この様な社会とは、それ以前の縄文時代における様な生産性は低いものの原始的平等を保持していた社会と、古墳時代における様な生産手段が安定し且つ神聖とされる王、権力者の為に壮大な墳墓を造営した社会との過渡期であるといえる。

そこには古墳時代以降の一人あるいは少人数に集約される神格は代を通じ持続して存在しない一方、縄文時代に比べ複雑に体系化された自然崇拝的な信仰は存在していたと考えられる。
銅鐸とはその様な時代、社会、そして信仰の祭器であった。

出土した銅鐸を様々な要素によって分類することは可能である。しかし、それらがどの様な祭祀に用いられていたかは、全て想像の域を出ない。それ故、その祭祀を具現化しようとする場合、記録された過去、現代の祭祀を重ね合わせ、さらにそこに銅鐸の役割、機能を重ね合わせることより、ある程度の妥当性は得られるのではないかと考える。
以上のことを踏まえ、その具体的祭祀形態の記述を下に示す。

 村外れの鎮守の森ほどの、円形、方形の広場があり、参道がついている。広場の周囲と参道沿いには玉垣の様に鳥竿が立ち並び、広場の中心には巨木が立っている、そしてそのやや奥まった所に二棟の高床の建物があり、そこに男女の木彫りの彫像が置かれてあり、種籾も保存されている。春祭りの日、広場中心の巨木に銅鐸が懸けられ鳥装の神官達が神像を取り出し、性的和合の所作をする。鹿を犠牲に捧げ、種籾をその血に浸す。また、海辺の村では、祖霊または穀霊を迎える為、舟を漕ぎ出してゆく、村人は酒盛りし、歌い、大地を踏みしめて踊り舞う(金関(2004)・p.27)。
弥生の習俗と宗教
 
上に示した記述により銅鐸祭祀形態をある程度具現化できたものと考える。また、銅鐸は引用記述内の春の祭祀のみならず雨乞い祭祀を含めた当時の祭祀全般に用いられたものと考えられている。
しかし、その後の時代において祭器としての銅鐸を見出すことは皆無である。その理由とは、弥生、古墳時代間に広域を統一する王権が樹立したことにより、地域社会における祭器としての性質が強かった銅鐸は、統一王権の安定化を阻害するものとして廃されたからと考えられている。