2024年1月31日水曜日

20240131 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.21-25より抜粋

岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」
pp.21-25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003313313
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003313312

石炭は漢頃からぼつぼつ中国で使われ、石炭という文字も、隋頃から現れているようで、宋頃になると一般に人民の間にも使われ、官営の石炭販売場も出来ております。この話は唐の末頃でありますから珍しそうに炭と言うているので当時はまだ余り盛んには用いられていなかったことが分かります。そこで李使君は坊さんの注意に従って飯を炊く時に炭を使い出来る限りの準備を整えて宴を張った。いよいよ息子たちが客にやって来て、それに御馳走を薦めるけれども、一向食べようとしない。ちょっと箸を着けてみるが、あたかも針を飲むが如く兄弟たがいに顔を見合せてやめてしまう。折角お膳を沢山並べても何も食べない。最後に飯が出た。飯ならばどこでも同じ米と水から出来ていて、わざわざ炭で炊いたものであるからきっと食べてくれるだろうと思ったところ、これも一口食べて吐き出した様子である。折角お客を歓待したつもりであったところが、少しもお気に召さなかったので、李使君非常に意気阻喪してしまった。後で坊さんに、一体どういう点が客の気に入らなかったのか聞いてもらった。坊さんが再び貴族の子弟の所に行って「あなた方は折角招待されて行ったのに何も御意に召すものがなかったのは一体どうしたのですか」と聞くと、その子供たちは「料理がその法を得ないからだ」と答えた。そこで更に坊さんが「なるほどほかの料理は法を得なかったかもしれないが、石炭で炊いた飯はどこでも同じではありませぬか」と言うと、「いやその石炭にも法がある。炭を使う時には一度焼いて煙の気を取ってしまってから料理に使うべきものである、ところが李使君の家のはその手続を履まなかったから、飯が煙臭くて食えなかった」と言うたそうであります。

 この話は別に贅沢なのに感心する訳ではありませぬが、その手続は大いに同感を表して宜しい。とにかく石炭のような火力の強いもので、しかも特にその煙気を去ってコークスにして料理に使うというのであるかた、理窟が通っております。その前の時代のように、蝋で炊くとかあるいは酒の甕を人に抱かせるとか、そういう不合理なところがない。この火力ということが、今の話に出た唐の末頃から宋にかけて非常に進歩した。石炭なので高熱を出すので、鉄ではすぐ穴があくから銅の銅釜を使い、銅禁などいう禁令を出して銭を鋳潰して器に造ることを禁じている。また単に強い火力を出すというだけではない。強い火力だけでは物は十分に処理されない。強い上に、大きな火力を出し、更に長く続くことを要する。しかもそれが際限なしではなく適当に調節出来ねばならない。その思うままに火力を支配するということがこの時代の行われたので、更に火力を通じて、あらゆる物に対する人間の支配が確立し、一般文明がずっと進歩した、中華料理がうまくなったのもおそらくこの頃からであろうと思います。奴隷に甕を抱かせないでも、立派に飲める酒が醸されるようになった。この時代は近世中国文明と共に中華料理の黎明期でもあります。それから陶磁器は世界で最初に中国で、宋の時代に完成された。現今世界の陶磁器の祖先は宋の陶磁であると言っても宜しい位でありまして、宋代に陶器が堅牢に優美に、単に実用品のみならず立派な工芸品としての価値を有するに至ったのであります。それが外国に伝わって西洋の陶器にも日本の陶器にもなった。小にしては焼栗、冬になると日本でもやるいわゆる天津甘栗ですが、あの焼栗も既に宋代に流行して、当時の都、開封に、名物として知られた焼栗屋があったということが「老額庵筆記」に見えております。小は焼栗から大は陶器の製造に至るまで、色々な方面に、火力の支配、火力の応用ということが行われております。単にそればかりでなく、当時の一般の美術工芸、あらゆる方面にわたって技術がこれがために非常に進歩しました。

 その要素を考えてみますと、およそ二つの方面があると思います。

 一つは当時、科学的知識が非常に進歩した。火力などもその一つの現れであります。科学的知識といいますと、要するに、物の性質をよく究めて、この物はこういう性質を持っている。彼の物はこういう性質を持っている、その性質と性質を組み合わせて人間に必要な物を造って行く、その土台になる物の持っている長所を究める。それが結局科学的知識と言うて宜しいと思いますが、その一つ一つの物に対して、どういう性質を持っているかを研究し、そうしてその性質を生かして使う。こういうことが宋の頃に行われたのであります。

2024年1月30日火曜日

20240129 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

下からの議論の積み上げは許されるが、上が決断を下したら、全党一丸となってその決定に従い、分派活動は禁じられるというのが「民主集中制」です。レーニンが作ろうとしたのは、決定を下した後は上意下達を鉄則とする一枚岩の政党でした。彼はロシアの後発性を自覚し、「西欧の民主主義国とは違う。言論の自由もない。議会もお飾りのようで力がない。普通のやり方では変革できない」と主張します。そして、「ツァ―リズムを倒すためには、強力な戦闘力を持った共産党を作る以外に方法はない」と説きました。当然のことながら、彼の議論に対して「そんなものを造ったら独裁制になってしまう」という批判が、同時代のマルクス主義者から出ました。

 しかし、レーニンの主張は説得力があり、マルクス・レーニン主義は共産主義が進む基本路線になりました。ところが厄介なのは、専制体制をなくしても民主主義になるわけではないのです。困ったことに、敵を効果的にやっつけるためには自分が戦っている相手と似る傾向があり、専制体制を潰すための組織は自らも専制的になりました。この点では、日本のように、戦前の軍国主義体制をGHQのような赤の他人に潰してもらった方がうまくいくのかもしれません。「タナボタ主義の哲学」とでも言いましょうか、そのプロセスはされおき、結果は上々でした。敵と対峙すると相手に似てくるのは冷戦期にも見られ、アメリカがソ連と似てしまったのもその一例でしょう。

 同じく共産革命が起こった中国にも共通していますが、何百年どころか二〇〇〇年も専制君主支配にあった国では革命が成功しても民主主義は根付かないという説明もあります。ただし、ロシアの場合、十九世紀末に急速な工業化を成し遂げていたという見逃せない事実もあります。 

 話は脇道にそれますが、「ロシア」と呼ぶか、「ソ連」と呼ぶかにも議論がありまして、一昔前には「ロシア」と言うと、「それは祖連邦である。ロシアとはなんのかかわりもない」と叱られたものです。当時、いかにマルクス主義に威光があったかを示していますが、馬鹿な話で、ロシアと言えば話は簡単だったのです。中国も共産主義国だから「共中」でもいいようなものですが中国と言わなきゃいけない。とやかく呼称にうるさいのは、精神的になにか抑圧的なものがある証拠なのでしょう。

 十九世紀後半から二十世紀の初め、日本とロシアの工業化の進み具合はほぼ同じでした。日本は明治維新から一八九〇年までの二五年間で労働者が倍増しました。その後の一〇年も倍増していますから、結局、工業労働人口は四倍になります。

 さらに忘れてはいけないのは、日露戦争に負けてから第一次世界大戦まで、ロシアが急テンポで工業化を進めたことです。ひょっとすると、そのスピードは日本より速かったかもしれません。その時代、無用の対外的冒険主義をやめて平和に徹したのがよかったのでしょう。

 ただし、急速な発展は社会の矛盾を大きくします。さらに、よせばいいのに、帝政ロシアは第一次世界大戦に参戦します。それがなければ、ロシア経済はさらに発展し、二〇年もすれば、一度は敗れた日本を完全に打ち負かす経済力をつけていたかもしれません。ところが、「バルカンは自分の庭である」、「兄弟はほっておけない」と、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻が暗殺されたサラエボ事件後、同じスラブ人のセルビアを支援しました。国に挙げての総力戦でロシア経済はひどく疲弊し、国内では革命派と反革命派が争いました。革命の後の内戦には外国が介入し、一九一四年から二〇年までの期間、経済は二、三〇年分後退したと言ってよいえでょう。そのため、ソ連体制に移行した後、共産主義政権は大急ぎで国を立て直さなければいけませんでした。そこで推し進められたのが、強引な工業化だったのです。

2024年1月29日月曜日

20240128 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

歴史的にはナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古(レストレーション)の時代のヨーロッパには18世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現れたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族主義(principle of nationality; nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合さねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基盤を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的に更新的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を荷った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮定された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿していた。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放運動の成功が帝国内のこれらの集団を刺戟し、彼らの中における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存立自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのではないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭けをしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸のつづく限りこれ(革命)と闘うっことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。

 イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生まれたブリトン人」(freeborn Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勢となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

2024年1月26日金曜日

20240126 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

 クリミア戦争はナポレオン戦争につづく世界的規模での大戦争となった。ロシア帝国の北太平洋海軍拠点カムチャッカ半島ペテロパヴロフスク港を攻略するため、英国の太平洋艦隊(当時、東印度艦隊の守備範囲と区分されていた)四艦は仏艦三艦とともに一八五四年五月一七日、南米ペルーのカリャオ港を出港、七月一七日ハワイに寄港した後、同月二五日にはカムチャッカ近海に達し、八月三〇日、ぺ港に入港して猛烈な砲撃を開始した。しかしロシア側の守備は堅固で強力に応戦し、翌三一日、英国のプライス司令長官は自殺、九月一日と五日、二度にわたり海兵隊を上陸させて攻略を試みたが、いずれも失敗し、八日英仏艦隊は撤退を余儀なくさせられたのである。

 しかし、英仏艦隊のこのような攻撃が繰りかえされるならば長期にペ港は維持できないとも、ロシア側には明らかとなった。ロシア軍は一八五五年四月同港を撤退(カラフトのクシュンコタンに兵営を築いていたロシア兵も攻撃に備え同年六月に撤退する)、このことは同時にアリョーシャン列島とロシア領アラスカの維持が不可能となったことも意味したのである。

 この年五月二〇日、英艦九艘、仏艦五艘の連合艦隊がペ港攻略のため再入港するが敵兵は皆無、連合艦隊はアラスカに向かうこととなる。

 このペ港の壮烈な攻防戦はロシアの極東戦略の転換点となった。北米大陸進出の方向性が断たれ、それにかわり、清国領内を流れるアムール河を下って太平洋に進出し、サハリン島全域とアムール河以北及び後年沿海州と命名されるアムール河南岸・ウスリー河東岸の広大な清国領の自国編入が国家的課題となるのである。

 クリミア戦争はディアナ号を失ったプチャーチン以下五〇〇名のロシア海軍軍人の問題でもあった。プチャーチンは一日も早く帰国させたがっている幕府と交渉、伊豆半島西岸の戸田で洋式帆船建造にとりかかった。二本縦帆マスト、八〇トン(四〇〇石船に相当)、船の長さ八一尺、竜骨の長さ六二尺、船幅二三尺、砲門八口(実際には積まず)のスクーナー型船である。竜骨を骨格とする船舶建造は戸田村の船大工棟梁上田寅吉(後日の横須賀造船所初代工長)以下、協力する多くの日本人船大工にとっては、技術修得の絶好の機会となった。

 建造中の安政二(一八五五)年一月二七日、米船カロライン・フート号が下田に入港、クリミア戦争に参戦するため一五〇名余の士官・下士官たちが同船を雇って二月二五日下田を出帆、ペ港に到着する。

 つづいて竣工したヘダ号に乗ったプチャーチン等四八名は三月二二日出港、当初はオホーツク海のアヤンに寄ったのちペ港に向う予定であったが、英艦に追跡されアムール河河口のニコラエフスクに逃げ込むことに成功する。

 残置されたロシア人二八〇名余は、六月一日、ドイツ商船グレダ号で下田を出帆する。この中には掛川藩浪人の橘耕斎と彼から日本語を学ぶ中国語通訳ゴシケヴィッチ(後日、最初の函館領事となる人物)がいた。グレダ号はアヤン港に入港する直前、遊弋中の英艦バラク―タ号に拿捕されてしまい、乗組員全員はクリミア戦争終了後の一八五六年四月、ロンドンで釈放されるのである。

 ところで、ヘダ号の設計図をプチャーチンが残してくれたこともあり、上田寅吉ら戸田村の船大工は、その後スクーナー型船を六艘建造し、これらの船は君沢型(戸田村は伊豆国君沢郡にある)と呼称されることとなった。さらに函館で改良されたものが建造されることとなり、これは函館型と呼ばれ(その後「小廻船」といわれるようになる)、蝦夷地・北海道で長く活躍することとなった、現在北海道の利尻町立博物館には二本の縦帆と二つの船首三角帆をもつ「小廻船」模型が展示されているが、その解説には大正から昭和にかけ、動力船が出る前の帆船で、利尻では天塩と結ぶ航路に使われ、島からはニシンカスや海産物、天塩からは製材・薪材や米・味噌・醤油等の生活物資を運んだ、小廻船は動力船の出現と、利尻との交易地が稚内にかわったことにより消滅した、と述べられている。

2024年1月25日木曜日

20240124 早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」 pp.237‐239より抜粋

早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」
pp.237‐239より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4657909312
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4657909312

ジョウゼフ・コンラッドの反露感情には確かに根深いものがあった。日露戦争の終わつた1905年に発表された論文「専制政体と戦争」(Autocracy and War)において、この感情は日本軍に対する讃嘆の情とロシア軍に対する反感との対照を通じて表出されてゐる。例へば、彼は「日本軍が基盤にしているのは理性に裏打ちされた信念であり、日本軍の支へになつてゐるのは、夥しい血と財宝とを犠牲にしてでも鎮められねばならぬ信念、即ち理論的必然性を帯びた正しさへの深い信念である」と述べるが、その直前には「暗夜のやうな狂気の絶望」といふ表現がロシア軍に適用されてゐる。更にロシアの専制政体、即ち、「銃剣を逆毛のやうに帯び、鎖で武装し、聖像をいくつもぶら下げた恐怖すべき奇妙な亡霊」に他ならぬロシアの専制政体は今や「東郷〔平八郎〕の魚雷と大山〔巌〕の大砲とによって既に修復不能な程にひび割れを起してゐる」とも述べる。コンラッドは、日本軍の使命は「ロシア専制政体といふ亡霊」を鎮圧する事であつたと言ひ、最高級とも思へる賛辞を日本軍に呈するのを忘れない。「〔日本軍〕は己の過去と未来を十全に意識し、驚嘆の眼差しで眺める世界の人々の前で、試練に他ならぬこのいくさのいはば一歩一歩において、「己れを発見する」。この偉大な教訓は、大抵の場合、しばしば半ば無意識のうちに抱かれる偏見や人種的相違によって矮小化されてきた」。日本軍への高い評価は取りも直さずロシアへの烈しい反感を語る仕組みになつてゐる。

 コンラッドの反露感情には、1772年、1793年、1795年と、3回に亙つて行はれたロシア、プロシア、オーストリアによるポーランド分割に根を発する牢乎として抜き難いものがあつた。ポーランドはこの分割以来、国家として消滅してゐたのだが、イアン・ワットも言つているやうに、コンラッドが生れ育つた地域はロシアの支配するところとなつてゐて、他の二国に支配さててゐた地域に比して、その支配の形態は格段に苛酷な性質を帯びてゐた。エドワード・クランクショーの見るところでは、ロシアはコンラッドの世界観が形成される上で決定的に重要な役割を果たしてゐる。不可抗力的な専横な力としての悪の本質についてコンラッドは熟考を強ひた点で、ロシアのポーランド支配はコンラッドの物の見方に大きな影響を与へたとクランクショーは言ふ。コンラッドに限らず、ロシアに分割・統治されてゐた地域の人々はみな、専横な暴力、「自由に徘徊し、どこであらうと意のままに襲ひかかる事の出来る暴力といふむきだしの不可抗力の事実」をつねに意識させられてゐた、と言ふのである。

 コンラッドは船乗りになるべく単身マルセーユへ向つた年、1874年まで、即ち17歳までこの専横な暴力をぢかに身を以て体験するやう運命づけられていたのであるが、両親の肉体を(そして或程度までその精神を)破壊したと言つていい暴力の発生装置たるロシア帝国が、この世の存在すべからざる国とコンラッドに思はれるに至つたとしても無理はない。「ロシアの専制政体は歴史的過去を持たぬ。歴史的未来を望む事も出来ぬ。終焉を迎へる事が出来るのみである」。このやうに発言する時も、恐らく日本を念頭に置きつつ、「東洋の諸専制政体は人類の歴史に属する」。それらはその光輝、その文化、その芸術、その偉大な征服者等の英雄的行為によつて我我の精神と想像力に刻印を残してくれてゐる。東洋の専制政体には知的価値が具はつてゐる」と述べ、それとは違つて、ロシアの専制政体が他に類を見な凡そ反人類的なものであつたといふ事を導出せずにはゐられない。「この政体が人類に対して犯した最も重い罪は・・・無数の精神を仮借なく滅ぼした事である」。

2024年1月24日水曜日

20240123 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.233-235より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.233-235より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

21世紀に主要国が戦争を起こして勝利を収めるのがこれほど難しいのはなぜなのか?一つには、経済の性質の変化がある。過去には、経済的資産は主に物だった。だから、征服によって裕福になるのは比較的簡単だった。戦場で敵を打ち負かせば、敵の町を掠奪し、敵国民を奴隷市場で売り、価値ある麦畑や金鉱を占領すれば、利益をあげられた。ローマ人は捕らえたギリシャ人やガリア人を売って繁栄し、19世紀のアメリカ人は、カリフォルニアの金鉱や、テキサスの牧場を占有することで金持ちになった。

 ところが21世紀には、そのようなやり方ではわずかな利益しかあげられない。今日、主な経済的資産は、小麦畑や金鉱ではなく、油田でさえもなく、技術的な知識や組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織は、中東で都市や油田を掠奪して、以上を強奪し、2015年には石油の販売でさらに5億ドル稼いだ)が、中国やアメリカのような主要国にとって、そのような額は微々たるものでしかない。年間のGDPが20兆ドルを超える中国は、わずか10億ドルのために戦争を始めたりしそうにない。また、アメリカとの戦争に何兆ドルも費やしたら、中国はそのような出費や、戦争による損害、失われた交易の機会をどう埋め合わせることができるというのか?勝利を収めた人民解放軍はシリコンヴァレーの富を掠奪するのか?たしかに、アップルやフェイスブックやグーグルといった企業は何千億ドルもの価値があるが、そのような富は力ずくで奪うことはできない。シリコンヴァレーにはシリコン鉱山などないのだ。

 戦争で勝利を収めれば、イギリスがナポレオンに勝った後やアメリカがヒトラーに勝った後にしたように、自分に有利になるようにグローバルな交易制度を改変して、最大の利益をあげることが、依然として可能だろう。とはいえ、軍事テクノロジーが変化しているので、そのような離れ業を21世紀に再現するのは難しい。原子爆弾は、世界大戦での勝利を集団自殺に変えてしまった。広島への原爆投下以後、超大国が直接戦火を交えたことがなく、(彼らにとっては)得るものも失うものも少ない争いー敗北を避けるために核兵器を使う誘惑が小さいものーにしか乗り出していないのは、けっして偶然ではない。実際、北朝鮮のような二流の核保有国への攻撃さえも、きわめて魅力に乏しい。金一族が軍事的敗北に直面したら何をやりかねないかを考えると、ぞっとする。

 帝国主義者を目指す人にとって、サイバー戦争のせいで事態はなおさら悪くなる。ヴィクトリア女王とマキシム式速射機関銃の古き良き時代には、イギリス軍はマンチェスターやバーミンガムの平和を危険にさらすことなく、はるか彼方のどこかの砂漠で先住民を大虐殺することができた。ジョージ・w・ブッシュの時代になってさえ、アメリカはバグダードやファルージャに大損害を与えても、イラクはサンフランシスコやシカゴに報復攻撃を加える術がなかった。だが、もし今アメリカが、たとえ月並みなサイバー戦争の戦闘能力しか持たない国を攻撃しても、ほんの数分で戦争はカルフォルニア州やイリノイ州を巻きこむことになりうる。マルウェア〔訳注 悪意あるソフトウェア〕やロジックボムのせいでダラスで航空交通が停止したり、フィラデルフィアで列車が衝突したり、ミシガン州で送電網が使用不能になったりしかねない。

 征服者たちの黄金時代には、戦争は損害が少なくて利益が大きい事業だった。1066年のヘイスティングの戦いでは、ウィリアム征服王が数千人の戦死という代価でたった1日でイングランド全土を手に入れた。一方、核兵器とサイバー戦争は、損害が多くて利益が小さいテクノロジーだ。そうしたテクノロジーを使えば国をまるごと破壊できるか、利益のあがる帝国は築けない。

 したがって、武力による威嚇と棘棘しい雰囲気が満ちている世界では、戦争で成功した最近の例に主要国は馴染みがないというのが、平和の最善の保証になっているのかもしれない。チンギス・ハーンやユリウス・カエサルはどんなに些細なものでもきっかけさえあればすぐに外国を侵略したが、エルドアンやモディやネタニヤフのような今日のナショナリズムの旗手たちは、大言壮語はするものの、実際に戦争を始めることにはじつに慎重だ。もちろん、21世紀の状況下で戦争を起こして成功を収める公式を現に見つける人がいたら、たちまち地獄の門が開くだろう。だからこそ、クリミアでのロシアの成功は、とりわけ恐ろしい前兆なのだ。それが例外であり続けることを願おう。

2024年1月22日月曜日

20240122 株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ pp.204-206より抜粋

株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ
pp.204-206より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006031807
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006031800

 20世紀の歴史がわれわれにはっきり示したことは、ことにユーゴスラヴィアの戦争がその例だと思うのですが、ナショナリズムはなくならないということです。ナショナリズムが出てくる根源はいろいろあります。個人は社会の中で、それぞれ自分自身の個性とかアイデンティティを求めます。ところが個人が集まってある集団、たとえば民族的集団をつくると、個人のアイデンティティ、個性、顔つきではなくて、その集団がアイデンティティを求めるようになる。その集団の個性、顔つきを保ちたいという欲求が強くなってくる。その背景はやはり歴史と文化でしょう。

 それぞれの地域の歴史が違い文化が違う以上、ナショナリズムの感情というのはなくならないと思うのです。それをなくすような形で問題を解決しようとするとできない。ですから、戦争にならない、悲劇的な形にならないように、それぞれの歴史的文化的アイデンティティを失わないで、ナショナリズムを大きな国際的組織の中へ組み込んでいくことが必要になるわけです。20世紀はそれに失敗した。だから戦争が起こった。今でもあとからあとから暴力的ナショナリズムは起っている。

 問題は、ナショナリズムと、広い視野からの国際的な協力関係を作り上げていく動きとはどういうふうに融和できるかということです。それはおそらく21世紀の課題になるでしょう。

 この問題を解決するための原理・規範とは何か。それはわれわれの経験の中にあると思います。一国の中で、一民族の中でで、それぞれの人が個性を失わないで一つの国が平和的に成り立ち得るのは平等があるからです。それぞれの人が別の顔かたちをして別の能力を備えているわけですから、もちろん競争も生じます。要は、基本的に平等を認め、相手との違いの存在を容認するか否かです。それを全部消し去って同じ形にしようという力が強く出てくれば出てくるほど、個人と社会あるいは国家との緊張関係は強まります。同じように、民族的な集団がどの集団にも存在の権利を認めて平等な関係が基本的にあれば、多くの集団が激しい衝突にならないで協調することができると思うのです。

 しかし、そうでなくて、小さな集団、弱い集団の個性を消し去って、みんな同じようにする、別のコトバでいえば、優越している一つの大きな民族的集団あるいは国家が、自らの標準を世界中に強制するようになると、その反発が起こって、しばしば強い衝突になる。衝突はいきなり暴力の行使ではなく、経済的、技術的、文化的とさまざまな手段でおきますが、力が拮抗していれば抵抗は暴力的にならないと思います。ところが道がふさがれて、一方が非常に強くて他方がたいへん弱い場合は、弱い側が文化的にも政治的にも軍事的にもすべての点で押しつぶされる傾向がある。

 押し潰されそうになって、それでもアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティの表現の道がふさがれたときの最後の絶望的な反応です。誰もテロリズムを望んでいるわけではない。なぜならば、テロリズムは二つの集団の間にある関係をつくり出すための手段というよりも、自分の存在を証明するための絶望的な反応だからです。これを武力であるいは警察力でコントロールするといっても程度問題です。テロリズムというのは、ナショナリズムがなくならないかぎりなくならないでしょう。

 この対立を解決するには、相手のアイデンティティを認める、根本的にはどの集団にも平等な権利を認めるような国際社会をつくること以外にないと思います。20世紀はそのことに失敗し、その目的に達していない。だからテロリズムがだんだん強くなってきたのです。