2023年5月17日水曜日

20230517 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.470-472より抜粋

株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻
pp.470-472より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

「なんのための銃剣か。殺すためじゃろうが?人殺しをするための道具じゃろうが?味方だけが持っとりゃせん。敵も持っとる。殺さにゃ殺されるだけのことよ。うんと余計殺したほうの国が勝つとじゃ。それが戦争よ。それが戦地の軍隊よ。どこの国のどげな軍隊が、負くるために戦争をするとか。そげなバカはなかろうもん?そんなら敵ちゅう敵は殺して殺し上げて、土地でんなんでん取って取り上ぐるとじゃ。見てみろ、四国やらどこやらじゃ百姓どもが、水もろくに引かれん山の上んほうまで田圃作りをしてふうふう言うとるちゅう話かと思や、対馬に来てみりゃ山ばっかりの、どこちゅうて満足にゃ田も畠もなかじゃろうが?対馬だけのことじゃないぞ。だいたい大日本帝国の暮らしちゅうとは、そげなもんよ。大将やら大臣やら博士やらが上っ面だけどげん体裁のええごたぁることを仰せられましても、殺して殺し上げて、取って取り上ぐるとが戦争じゃ。・・・ふむ、それが忠義ちゅうことにもなっとろうが?臣民の義務ちゅうことにもなっとろうが?誰が決めたとか、おれはよう知らんが、そげなことになってしもうとる。ー違うか。おぉ?」

 大前田は、問いを投げて口をつぐみ、野砲のすぐ真うしろまで十一、二歩ずかずかと前進した。ちょうど四番砲手が「目標。」という号令に応じて立ち上がったときのように、彼は両足を左右一歩間隔に開き、わずかに前に倒した上半身の両手で照準棍副木を握ると、中央射界をきっと注視する形になった。問いにたいするわれわれの返答を期待したふうでもなく、彼は、その姿勢で鳴りを静めた。

 私は、彼の「違うか。おぉ?」を聞いて、「いいえ、違いません。」と答えねばならぬような気持に強く突き動かされながら、皆とおなじように何も言わなかったのであった。彼の激情が赴くままにぶちまけられたであろう戦争哲学は、それなりに一本立ちの風格を持っているとみえた。「耕スコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、貧ノ極ナリ。耕サザルコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、亦貧ノ極ナリ。」というような内容を実際的に語った彼の農民的着眼にも、私は、感心せずにはいられなかった。彼が知らぬにちがいなかろうその成句を私は知っていたけれども、そしてまた津阪東陽著「薈瓉録」(化成度(ほぼ十九世紀第一四半分)脱稿?)中の「対馬ハ米一粒出来ザル地ナリ、鮮米ヲ以テ国中ノ食トス、今モ交易シテ取来ルナリ、「三国志」ノ「倭人伝」ニ、「対馬ノ国ハ土地山険ニシテ良田無シ、舟ニ乗リテ南北ニ市糴ス。」トシルセリ、此方ノ人ハ却テ知ラズ、彼方ニテハ筆マメニ書伝フルヲ以テ三国ノ時ヨリ既ニ知リテアリ、「聖ハ知ヲ得ル」ト謂フベシ。」という記述を読んで覚えていたけれども、対馬なり四国なりの実地に立脚して大前田のごとく端的な感じ方・見方をすることは従来私にできなかったのである。まだ多くの何かを吐き散らさねば彼は治まらないのであろうか、と私は、斜めうしろから彼の頑丈な軀幹を打ち眺めて想像していた。この間、神山上等兵は、さりげなく行動を起こして、北側三個分隊の最左翼まで退却しおおせた。

「違わんじゃろう?違やせん。」大前田は、数呼吸ののち照準棍からの両手を放し、くるりとまわりの東面の仁王立ちになって、彼の設問にみずから答えた、「違おうが違うまいが、どっちでもおれはあんまり構わんぞ。構やせんが、そげんことになっとる。それじゃけん、百姓しとりさえすりゃええはずのおれまでが、人殺しに召し出されて、足かけ四年も支那三界をいのちからがらうろつきまわらにゃならんじゃったとじゃ。やっとのことで生きて帰って来りゃ、一服したかせんかに、またありがた涙の零るるごたぁる二度の、いんにゃ、二度じゃなか、三度じゃ、三度の御奉公ちゅうわけで、いまごろは麦踏みでもしとるどころか、こげな海ん中に持って来られて、遅かれ早かれ南方要員にまわさるる身が、おんなじ軍隊の貴様たちから、あさましゅうめずらしがられとる。引き合やせんぞ。何がめずらしいか。

2023年5月16日火曜日

20230516 株式会社筑摩書房刊 森 浩一著「日本の深層文化」 pp.29-31より抜粋

株式会社筑摩書房刊 森 浩一著「日本の深層文化」
pp.29-31より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480064761
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480064769

倭人伝は、正しくは「三国志」魏書烏丸鮮卑東夷伝の倭人条の俗称である。俗称とはいえ、日本人にはよく知られた言葉であるので、以下は「倭人伝」とする。

「倭人伝」には、日本列島の北西部、とくに九州島の北西地域での中国人(帯方郡の役人)の見聞が記録されている。日本列島全域の見聞ではないけれども、三世紀代の貴重な情報がえられる資料である。中国歴代の史書のなかでも、日本列島のことえお地域に即して記述することに努め、それにある程度成功した貴重な史書であり、地理書でもある。

 ここで問題としたいのは、「倭人伝」では海での生業については、航海のことや漁労のことがくり返し述べられているのに、広い意味での農耕関係、とくに稲作についての描写がとぼしい。

「倭人伝」が描く時代は、厳密に時間との関係でいえば初期お古墳時代にさしかかっている気配はある。ただし人びとの生業や生活については、”弥生時代後期的な稲作を基盤とした社会”とみるのが通説である。だがこの通説は、考古学者がいだいている常識であって、「倭人伝」の記述からの結論ではない。以下検討しよう。

 倭地での帯方郡使の見聞は旅行の目的どおりの順で記事が作られている。まず朝鮮半島南部と九州島のあいだの対馬海峡にある対馬国が描写されている。この国(島)の記述は、地形や土地利用などが簡にして要を尽くしていることについては、ぼくは昔から指摘している。

 ”良田なく、海物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴している”とある。

”良田なく”を読んで、”水田がないとか乏しい”とおもっては駄目である。この文は中国人の文章、前にふれたように中国でいう田には日本でのハタケも含まれている。いずれにしても、良田がないので”海産物で自活している。だがそれだけでは生活にはならず、船に乗って南の九州島方面や北の朝鮮半島方面に市糴している。”市糴は厳密には穀物の買い入れだが、ぼくはこの個所ではもう少し意味をひろげて交易とみたほうがよいと考えている。対馬国からさらに南の海中に一支国がある。中国の三、四世紀ごろの金石文(銅鏡に多い)には漢字の減筆がよくおこなわれている。例えば「仙」を「山」にしたり「鏡」を「竟」とするようなことである。その観点では、一支は壱岐の減筆とみられ、一支国は今日の壱岐島であろう。

 ここでは、”田地は少しあるが、田を耕してもなお食べるのに不足するから、やはり南北に市糴している。”このことは対馬島よりは農耕しやすいが、それでも盛んとはいえないという意味であろう。

 一支国(島)のあと末盧国(古代の松浦、唐津市を含む臨海の地域)や伊都国の記述になるが、農耕関係の記事はない。

 伊都国は福岡県前原市域とその周辺で、古代の日本側の史料にも伊斗、伊覩、怡土などと同じ地名が別の表記でよくあらわれ、確実に土地の比定はできる。

 注意を要するのは、「倭人伝」では伊都国の描写に費やした字数は112字で、地域描写では第一位である。このことは伊都の地名に都がついていることと無関係ではなく、新井白石が「古史通或問」で説くように、女王国の都があったとみてよかろう。伊都国王もいたが女王国の都でもあった。室町時代の京都に天皇と将軍がいたのに似ている。都だったから、主な記述が政治や外交についてのもので、農耕などの生業の記述はない。

2023年5月15日月曜日

20230515 株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋

株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061490397
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061490390

かつて私たちのまわりにも、いたるところに闇があった。深い闇があった。山は昼でも暗く、森蔭には黒々とした闇が隠れていた。町の通りは暗く、夜の空には満天の星の背後に底知れない闇があった。

 人の住居もまた暗かった。玄関も、座敷も、納戸も、はばかりに、物置きも、屋隅には昼間から闇がひそんでいた。とっぷり日が昏れると、たちまち墨を流したような一面の闇につつまれた。

 闇の中には何がいただろう。そこにはあきらかに死者がいた。見えない死者の群れがいた。暗い通りや、玄関や、庭をとおり抜けるとき、私たちは子ども心に、何よりも死者を思った。死者を連想し、死の観念におびえて足がすくんだ。

 ゲルマン神話には死者の赴く闇の国がある。戦いで倒れた者たちのいるヴァルハラでは、毎朝、死者たちが起きあがって武器をとり、戦いに出ていく、夕には800人ずつが一列になり、6400の門をとおってもどってくる。

 闇には、闇の兄弟がいる。闇を材質とする堕ちた天使たち、災いをなし、苦しみをひきおこし、悪をなして、死をもたらす黒天使たち。

 私たちのまわりから闇が追い払われてすでに久しい。いまやどこもかしこも眩いばかりに明るいのだ。町の盛り場は夜を知らない。どの家にも部屋ごとに電気じかけの光学機械があふれている。山野にゴルフ場の照明がつっ立ち、夜はナイターのための時間帯に下落した。

 闇を駆逐した。ついては私たちは、同時に何かも喪失したのではあるまいか。ひそかに生者を見はっていた死者の群れ、死の観念を失った。死にしたしまずして、どうして生を尊重できるだろう。外界の闇はまた、自分のなかの闇の部分の警告ではなかったか。息を殺して自分のなかにひそんでいる黒々とした悪の部分。おのれのなかの悪を知らずして、どうしてこの世の悪が識別できようか。おそかれ早かれ私たちは駆逐したはずの闇の力の報復を受けるにちがいない。

2023年5月14日日曜日

20230514 ブログ記事作成についての工夫から思ったこと

つい先日、当ブログの総投稿記事数が1990に到達し、その後も2記事投稿しましたので、2000記事の到達まで残り、当記事を含めて8記事の投稿を要することになりますが、この目標達成まであと少しというところで、ここ数日の不安定な気候といった環境によるものであるのか、本格的なスランプとまでは行きませんが、何やらブログ記事の作成が疎ましく思えてきました・・。

しかし、であるからと云って記事作成を行わないと、目標としている2000記事まで到達出来ませんので、記事作成を行うため環境を変えるべく、久しぶりに喫茶店に入り、そこでノートを開き、使い慣れたペリカンの万年筆を準備して、あまり考えずに書き始めてみますと、意外なことに比較的滑らかに文章は書かれていくのです。しかし、その書かれた文章を現在、判読を試みますと、なかなか難しいところもあり、また、その文章自体も、当ブログの記事として投稿出来るものであるのかは難しいように思われます。

そして、そのように考えた主な原因は、先述のノートに記した文章は何と云いますか、あまりにも「即物的」な文章であったと思われたからです。具体的にはノートに「・・席に着きノートを開いて向かうと、こうした文章は割にスラスラと出て来るようである。そして、ここまで書き進めることが出来たのは、先ほど、あまり考えずにペンを持ちノートに向かったからではあるが、であるからと云って、そこで作成された文章が、そのままでブログ記事に出来るかは、また別問題と云える。」と書いていましたが、ここで、その部分を実際に引用してみますと、たしかに物理的にはブログ記事の一部にはなりましたが、私としては、やはり、この引用部は当ブログの文章としては、未だに何か違和感を覚えてしまいます・・。他方で、久しぶりに、こうした行為(ノートに手書きした文章をPCで入力する)をしますと、さきの違和感も実のところ、そこまで意味を持つものではないことも、かなり以前でのブログ記事作成で経験して知っていたことが想起されたことから、こうした方法は、これまでにも種々試みており、そして現在では(すっかり)忘れてしまっていることもあるのでしょうが、本格的なスランプ状態に陥ることなく、記事作成を継続出来るように、色々と試みることは、さきの思い出すという観点から、それなりに意味があるように思われるのです。

そして、そのおかげで、当記事は、どうにか、ここまで書き進めることが出来ました(笑)。以前のほぼルーチンとして記事作成を行っていた時期であってもスランプはしばしば(慢性的に?)ありましたので、その際も、さきのように自分なりに考えて、ブログ記事作成を続けてきましたので、そうした折に経験した、記事作成に関する少しの工夫(場所を変える・ノートに書くなど)は、前述しました「想起」からも理解されるように、ある種「身体化」されていたのではないかとも思われるのです・・。

そして、文章作成に関して、これまでのブログ記事作成により半ば無意識ながらも蓄積された「何か」をさらに励起させて、今後、何かに役立たせることは出来るのでしょうか・・?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




20230513 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.6-8より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.6-8より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

長閑な、輝かしい一日が静かに暮れようとしていた。水面はなごやかにかがやき、雲一つない空は澄み切った夕映に、広々と微笑みかけている。エセックスあたりの沼沢地の薄靄までが、なにかまるで薄織のように照り映えながら、木深い丘脈をこめ、低い河岸を透きとおった襞模様に押し包んでいた。ただ西の方、上流河区の空を垂れこめた暗雲だけが、まるで太陽の接近を怒るかのように、刻一刻その暗澹さを加えていた。

 やがてついに、動くともない曲線を描きながら、陽が低く傾いた。そしてその大都市の群集の上を垂れこめた暗雲に触れると、頓死でも遂げたかのように、みつみつ白熱の輝きから、光も熱もない鈍赤色に変って行った。

 と、まもなく河面にも変化が起った。水面は艶やかな光沢を失うとともに、いっそう沈痛な澄明さを加えて来る。何千年か、両岸に住むあらゆる種族に豊かな余沢を恵んで来た老大河は、いまや落日の下に漣波一つ起らず、はるか地の果てまでつづく水路の威厳を誇るかのように、眼路のかぎり広々と静もり返っていた。いわば高徳の長者ともいうべきこの河の流れを、われわれは、ただ来ては去る短い一日のあざやかな夕映えの下に眺めていたのではない。もっと悠久な記憶をとどめた荘厳ともいうべき光の下に眺めまわしていたのだ。敬虔と愛とをもって「海に生きてきた」ものならば、あのテムズ河の下流河区を眺め渡して、それが持つ過去の偉大な精神を思い浮かべないものはあるまい。不断の恩沢をもたらしながら、あるいは故郷の安らかな休息へと、あるいはまた海の戦いへと、数知れぬ人と船とを載せて送った、そのさまざまな想いで出を秘めたまま、いまもなおたえまなく満干をくりかえしているのだ。サー・フランシス・ドレーク(1540-1596。英国の航海者、スペイン無敵艦隊を撃破す)の昔から、サー・ジョン・フランクリン(1786-1847。英国の北極探検家 第三回目の遠征に消息を絶ち、極地に死す)に至るまで、この国民のもって誇りとする海の騎士たちーそうだ、彼等こそ真の騎士だったのだ。爵位の有無など、それがなんだーを、この河はことごとく知っているばかりか、身親しく奉仕して来たのだった。

 かつてこの流れの運んで行った幾多の船、それらこそは、時という闇黒の中にまるで宝石のように光を放っている光栄の名前なのだ。円々と膨れ上がった船艙に数々の財宝を充して帰り、かしこくも女王陛下に親しく訪問の光栄をえたあと、そのまま偉大なる海洋発展史物語の上から姿を消してしまった「金鹿」(ゴールデン・ハインド)号(前記ドレイクの乗船、世界一周した最初の英国船)をはじめ、新たなる征服を目指して船出し、-ついにふたたび帰らなかった「エレバス」、「テラー」の二船(前記フランクリンが最後の遠征に用いた船名)に至るまで、流れはすべてそれらの船を知り、人を知っていた。デッドフォドから、グリニッジから、そしてエリスから、-冒険家、移住者、王室の所有船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会艦隊の新「将軍」たちー彼等はすべて船出して行ったのだ。黄金を求め、名声に憧れて、あるものは剣を、あるものは文化の炬を携えて、すべてこの流れを下って行ったのだ。奥地に対する力の使者、聖火を伝える光の使者、それにしても未知の国々の神秘へと、この河の退潮が載せて行ったもののいかに大きかったことだろう!・・・人類の夢、社会の胚種、そして帝国の萌芽!

 日は沈んだ。流れの上にも夕闇が落ちて、岸沿いには夜の灯が瞬きはじめた。泥床の上に三脚を据えたチャップマン灯台の灯が、にわかに光を増し、水路のあたりは、おびただしい船の灯が、あるいは高く、あるいは低く、静かに揺れて行く。だが、まだ遥か上流河区のあたりは、あの怪物のような大都会のあり場所が、落日の残映を受けた暗雲と、星空に赤く燃える反映とで、まるで凶事の前兆のように、夜目にもそれと眺められるのであった。

2023年5月13日土曜日

20230512 1990記事に到達して思ったこと・・

おかげさまで昨日の記事投稿により、総投稿記事数が1990に達しました。そして、当記事を含めてあと10記事の投稿により、当面の目標としている2000記事に到達します。しかし、現時点においては、あまりその実感もなく、これまでと同様、何やら書き連ねているといった感じしかありません。あるいは、さらに数記事ほど追加投稿しますと、この感じも変わってくるののかもしれません・・。そこで、以前、2018年に1000記事に到達した際の記事「20180526 1000記事の到達、多く読んで頂いた記事について」を読んでみますと「今回の記事投稿により総投稿記事数が1000に到達します。しかし、それに対しての感慨・感興はほぼ皆無であり・・」と述べており、それよりも、少し先のブログ開設から丸3年となる6月22日までのブログ記事作成を目指していたようです。

そこから2000記事到達まで10記事程度にまで迫った現在の状況を考えてみますと、やはり冒頭に述べたとおり、実感はなく、今後、2000記事に到達したとしても、しばらくはマラソン後のクール・ダウンのように、6月22日まではブログ記事を作成し続けるように思われます・・。

そして6月22日まで続けましたら、また何か異なった感慨でも湧いてくるのではないかとも思われたため、また同じく1000記事到達後、ブログ開設から丸3年となった2018年6月22日の記事に目を通してみますと「残念ながら、そうした感覚・実感はこれまで同様皆無であり、また多少なりともの感興といったものありません」と述べており、ここでもさきと同様に感慨などはなかったようです・・。

とはいえ、かれこれ8年近くブログ記事の作成を継続していますと「事務的に」とは云いませんが、特に感興などなくとも、(どうにか)記事作成は出来るようにはなってきました。また、それら記事の内容に関しましては、あまり文章の洗練などは考慮せずに、当時の考えを比較的率直に述べている記事が多かったのは、1000記事到達の少し前の2017年末頃から2018年春頃までの時期であったように思われます。その後、2020年以降からはコロナ禍や、2022年からは第二次宇露戦争もあり、当ブログの作成に関しても何かしら変化があり、特に2020年春以降、コロナ禍にて緊急事態宣言が発出された際は外出もままならず、家からあまり出ない(出れない)状況で一連の「架空の話」の作成がはじまりました。この「架空の話」は今現在また休止中ですが。2000記事まで(どうにか)無事に到達することが出来ましたら、あらためて続きを作成してみたいと考えています。また、これにつきましては、作成の波に乗ることが出来れば、しばらくは継続して作成することが出来るのではないかと思われるのです・・。

上述の「継続して作成」から思い出されましたが、過日二回にわたり作成しました我が国の横穴式石室の古墳を題材としたブログ記事は、思いのほかに閲覧者数が伸びました。これらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。こちらの題材については記事作成が出来ると思われますので、近日中に作成・投稿したいと思います。これまでに作成した我が国の古墳を題材としたブログ記事は、私の場合、和歌山、南紀在住期間に、その原点があったと云えます。この原点での感覚がなければ、その後の知見の獲得、そして、それらの自分なりの体系付けなどは出来なかった思われますので、この感覚については、これまでにも何度か当ブログにて記事として作成・投稿してきましたが、またあらためて述べることにより、これまた自分なりに新たな発見があるのではないかとも思われます。

さきの古墳についても同様ですが、何かの歴史などについて述べる文章の作成も楽しく感じられることがありますが、如上のような独白形式で述べていく文章もまた、少し間を置いて作成してみますと、これもまた楽しく感じられることが新たに分かりました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2023年5月11日木曜日

20230510 中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋

中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025091
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025098

陸奥の外交の巧みさというのは、例えば、周到に手を打ち、大義名分を失わないようなかたちで清との戦争に持ち込んだことに求められる。「蹇蹇録」には、外交上は被動者の位置を占めつつ軍事上は常に機先を制そうとした。大鳥圭介駐清公使に対し平和的対応というときの臨機の処分という表裏二個の主義を含む訓令を授けた、日本の共同朝鮮内政改革案を清が拒むのはわかっていた、などと書かれている、あたかも、事態が陸奥の想定通りに動き、事前に用意していた策がことごとく当たっているかのようである。

 林董は、あるとき、大をなした政治家というのは門閥の背景がなければあとはみな戦争の勝利によって台頭したと語り、それを聞いた陸奥は頭を傾けてしばらくして、「ヤッテ見ようかネ」と述べたという。そして、明治27年6月に朝鮮に兵を送るとなった際、陸奥、林、参謀次長の川上操六が集まり、いかにして平和にことをまとめるかではなく、いかにして戦いを起こしていかにして勝つかの相談をしたとする。つまり、陸奥としては初めから清と戦争を起こすつもりで、それに向けて着々と策を講じたという話である。林は、首相の伊藤は平和志向なので陸奥と川上が共謀してだましたことまで述べている。伊藤が混成旅団の規模を知らないことにつけ込んだというのと、旅団の派遣として決定して実際には混成旅団を出したというのと、二種類の回顧談で若干内容が違うが、ともかく、伊藤は派遣兵力が2~3000人であると誤認して7~8000人の派兵を決定したというのである(「後は昔の記也」)。

 こうした陸奥の外交姿勢に対し、帝国主義的であるという批判は数十年前からあった。あるいはさらにさかのぼると、強硬な軍・国内の圧力を受けながらなんとか外交を指導したというかたちで陸奥を評価する見方もあった。こちらは、軍の力が強まっていた昭和戦前期の時代状況を反映した見解である。百発百中の巧みな外交と捉えるのと、帝国主義外交と批判するのと、軍の圧力と渡りあった外交と評価するのは、それぞれまったく異なる議論のようだが、いずれも、陸奥が明確な方針や展望を持って整然と外交をおこなっていたというイメージは共通している。おそらくそれは、一般的に受け入れられている「陸奥外交」のイメージでもある。

陸奥外交の実像

 それに対し、実は近年の研究ではむしろ、こうした「陸奥外交」のイメージを崩すような陸奥論の方が盛んに唱えられている。例えば、条約改正交渉で失敗を重ねて行きづまっていたため、それを打開するべく日清開戦に持ち込んだとか、あるいは、朝鮮への派兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだったと指摘されている。「蹇蹇録」の記述に多くの脚色やウソがあることもわかってきている。

 また日清戦争自体、なぜ、どのような力学で始まったのかということについて、この30年ほどの間、学会では定説がない。そのなかで有力視されてきたのは、対清協調論者の伊藤首相が強硬な国内世論に押されて対決姿勢に転換したから、という見解である。それは必ずしも陸奥に対する評価の問題ではないが、コントロールされた外交、開戦、といったイメージとは異なる日清開戦過程の説明がなされているのである。 

 こうした、誤算と方針転換に満ちた日清開戦過程という近年の見方は、ある面で正しい。先々の展開を見通して次々に的確な判断を下していったと捉えるかつての「陸奥外交」像は、過大評価である。ただ、百発百中の見方を否定して、全体的に失敗が続いたかのように論じるというのもまた、極端に振れすぎている。

 陸奥は、限られた経験と情報に基づいて刻々と変化する情勢に対処していたのであって、ときに失敗や誤算が生じるのは当然だった。そのうえで、近代日本のさまざまな政治・外交指導者と比較して、このときの陸奥の情勢分析や各局面における判断をどのように評価できるかと言えば、それはやはり、総じて的確であった。「陸奥は速断し、時として当り、時として誤る。誤りて窮地に陥り、之を脱する際に最も才能を発揮す」という陸奥評がある(「同時代史」)。そのあたりが、陸奥万能論的なかつての「陸奥外交」像とそれに対する批判を越えた先にある、等身大の陸奥の日清戦争指導の姿である。