2021年2月13日土曜日

20210213 株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著 「サイファ 覚醒せよ!」pp.76-78より抜粋

株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著 
「サイファ 覚醒せよ!」pp.76-78より抜粋

ISBN-10 : 448086329X
ISBN-13 : 978-4480863294

森喜朗首相(当時)の「日本は天皇を中心とする神の国」発言で内閣支持率が二割を切ったように、日本を「一君万民」に戻してくれなどと望む人が多数を占める時代は、未来永劫やってこないでしょう。三島が好んだ「家畜人ヤプー」の主人公、燐一郎じゃありませんが、今から振り返ると、「私たち」は『それ』を望んだのだ」というほか、ないんですよ。その意味では、責任というならば、私たちに責任があるというしか言いようがなくなっているわけです。私たちが望んで選び続けている道なんですから。しかし、経済的に豊かな成熟社会を達成したあとの後知恵でしかないけど、私たちが望んで実現した「それ」とは、ひるがえってみると何だったのかということが、問題にならざるを得なくなっている。
 実はパブリックの不在は、耐久消費財が一巡して「経済的豊かさ」が達成された後、何が幸いなのかが人それぞれ分化し不透明化する近代成熟期(成熟社会)が到来した七〇年代前半には、一部で顕在化していたんです。それが三島事件の背景です。つまりこういうことです。戦後はアメリカが、近代天皇制的な擬似公共性(一君万民)を消去るのと引き換えに「政治的自由」をくれた。その自由の担保に必要な公共財を守ってくれるアメリカの核の傘の存在を前提にして、しかし紛うことなき国民的努力によって「経済的豊かさ」を達成した。そのプロセスで、国民的に合意された「経済的豊かさ」という目標の存在がー誰もがアメリカ的生活という輝きを欲望するはずだという前提がー、天皇主義的な擬似公共性が破壊されたあとの「政治的民度の低さ」すなわち近代的なパブリックマインドの不在を覆い隠してきた。正確に言えば、敗戦と経済成長の「共通体験」が、「同じ日本人」という共同体的共通前提を確保してくれた一方で、公共財を自ら守るという意志を欠落させたままでいられるという、両輪の一方を欠く状況が続いたわけです。

 ところが七〇年代の幕開け。国民的目標を達成した「あと」の成熟社会が始まる。そこで誰よりも早く三島由紀夫が、今私たちが右往左往しているような問題に気づいた。君や僕と同じで「SF好き」だった三島なればこその先見性だったと思うよ。国民の大半は、九〇年前後に、冷戦体制とバブル経済がほぼ同時に崩壊するまで、三島的な問題に全く気づかなかったわけです。しかし七〇年に三島事件が起こってしまった以上、この事件が提起している二つの選択肢の存在に、本来私たちは気がつくべきだったんだよ。一つが、三島が言うような一君万民メカニズムへの回帰という選択肢なのは言うまでもないとして、もう一つ、三島的な選択肢を否定するならば当然意識しなければならない選択肢があったはずなんです。すなわち鈍感な国民の多くが未だに「経済的豊かさ」という国民的目標があると錯覚してくれて政治的統合(パブリック)問題を免除されているうちに、否定された一君万民メカニズムに代わる、新しい近代的パブリックを樹立する必要があったということです。

 ところが、そこに起こったのは、新しい近代的パブリックの樹立じゃなかった。むろん三島由紀夫が気づいていたように、一部でアノミー(目標の空白)は確実に進行しつつあったんだが、しかし、それを埋め合わせるべく進行したのは、パブリックの樹立どころか、七〇年代半ばから一挙に進んだ日本的な「学校化」だったというわけなんだね。

2021年2月11日木曜日

20210211 ツイッターとの連動を契機として作成した記事 “大豆ミート”の焼肉について

昨年の1月にツイッターを始めましたので、丁度1年以上経ったわけですが、当ブロガーにて作成したブログ記事をツイッターにて共有しますと、相手が分かるカタチでの反応があり、他方でよく分からない悪意的ともとれるカラミもありますが、全体としては大変面白く、この1年で当ブロガーでの記事を、ツイッターにて共有することは一連の流れになってきたと云えます。

とはいえ、これまでは必ずしも「ツイッターありき」の記事を作成していたわけではありませんが、今回おそらく初めて、ツイッターでの反応に基づきブロガーにて記事を作成することになります。

と云いますのは、先日テレ東ニュースにてアップされた動画「ここまで美味しくなった“大豆ミート” トップ企業の挑戦とは!?【2分で見るカンブリア宮殿】」を興味深く思い共有させて頂いたところ、思いのほかにインプレッションが伸び、さらに、かねてより私のツイートに反応してくださっている方より「良い動画を紹介している」とのコメントを頂き、そこでボクとしても「これは実際に行くべきでは・・」と思い、そして前掲動画にて紹介されていた「焼肉ライク」さんに行き、件の“大豆ミート” の焼肉定食を注文させて頂いた次第です。

ちなみに「焼肉ライク」さん神保町店は、偶然ながら昨年暮れから比較的頻繁に訪問させて頂いていました。また、それまで「一人焼肉」の習慣がなかったボクが、このお店に行くようになった契機は、これまたツイッターにて某作家先生による「たしかに落ち込んでいる時には焼肉が効くようだ」といった主旨のツイートがあるのを見て、それに対しボクも経験から「たしかにそれはあるかもしれない」と思い、そして、よく行く神保町に「一人焼肉」の「焼肉ライク」さんがあることを思い出し、次第に通うようになっていきました。

そうしたことから、この1年にてボクもツイッターからは思いのほか多くの影響を受けているようであり、また、つい先日も、ツイートを拝読させて頂いている感染症を専門とされている某先生と同名が著者となっている新書を見つけ、しばらく間をおいて「あ、同一人物だ・・」と判然とした記憶があります・・。また、これは人文社会科学方面においても同様であり、ツイートを拝読していて「この先生の著書は今度探してみよう・・」といった感じで書店にて探すことは度々あります。そうした意味からもスマホは、やはり検索ツールとしても大変便利であると云えます。

さて、ハナシを“大豆ミート”の焼肉定食に戻します。神保町の「焼肉ライク」さんに入り、スタッフの方に「あの、YouTubeの動画で、こちらのお店に大豆ミートの焼肉があると聞いたのですが?」と訊ねてみますと「ああ、それはこちらです。」とタッチパネルの注文画面から操作をして「NEXTカルビ&NEXTハラミ 匠カルビ&ハラミセット」の画面を開いてくださいました。これまで私はこの定食に気が付かなかったわけですが、ともあれ、こちらを注文しますと、いつも通り、あまり待つことなくプレートに載った定食が運ばれてきました。


上掲画像が「NEXTカルビ&NEXTハラミ 匠カルビ&ハラミセット」200gであり、右側の二皿の左側が「NEXTカルビ&NEXTハラミ」そして、右側が「 匠カルビ&ハラミ」となっています。

この定食にてホンモノの肉と“大豆ミート”双方を食べ比べることが出来るわけですが、ボクはまずはじめに今回の本命とも云える“大豆ミート”を網の上に乗せて焼きました。写真を見てお分かりの通り、もともと“大豆ミート”は、生肉のように火を通す必要性はなく、まあ焦げ目がついて、それらしくなれば良いとのことでした。

焼いた匂いや焼け目の感じは、やはり、肉特有のそれとは異なるように感じられましたが、これをタレにつけて食べてみますと「ああ、こういう肉もあるのかもしれない・・」といった歯ごたえであり、さきの先入感からしますと美味しく感じられました。ただ、惜しむらくは、ホンモノの肉には大抵少しはある、あの少し硬いゼラチン状の脂肪がないことであり、これ(脂肪)に肉特有の風味を追加すれば、結構イイ線行くのではないかと思われます。

あるいは、人工にて牛脂や豚脂状のものを作成し、それにひき肉状にした“大豆ミート”を加えることにより、既存のホンモノのハンバーグに近いものは出来るのではないかと思われました。これは是非「いきなりステーキ」さんの「ワイルドハンバーグ」にて挑戦して頂きたいところです。

ともあれ、こうして「NEXTカルビ&NEXTハラミ」を食べ終え、次に「 匠カルビ&ハラミ」を焼きはじめましたが、やはり「こちらがホンモノの焼肉だ!」といった感慨が湧いてくることは避けられませんでした。とはいえ「焼肉」という、これまで「ホンモノの肉」のみが肉として、その網上に乗ることを許されたところに“大豆ミート”を乗せようと考えたことは、それはそれで「未来につながる壮挙である」と私には思われました。

そしてまた、この先の更なる“大豆ミート”の新たな展開を期待しています。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!



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2021年2月10日水曜日

20210209 現代版吟遊詩人の可能性について

 かねてより、当ツイッターでの自身のプロフィール、および投稿記事下段にて、勉強会のご案内を掲示してきましたが、どうしたわけか、ここ最近ツイッターを介して(オンライン)勉強会のお問合せを立て続けに二件頂きました。

そこではまず、先方様に開催を希望される勉強会の概要・予算を伺ったのち、私の周囲にて、その講師に適任と思しき先生方がいるかどうかを相談・検討し、そこで適切と思われた先生にこちらからご連絡を差し上げ、勉強会の概要および予算をお伝えし、その可否をお問合せすることになるわけですが、かなり幸運なことに、それぞれのお問合せに対し、国内での第一人者と云える先生方から前向きなお返事を頂くことができました。

これは自身としてもかなり幸運なことであると云え、また今後も、こうしたお問合せを頂きましたら、出来る限り良質な勉強会を開催出来るように進めて行きたいと考えています。くわえて、こうした勉強会は、これまでは歯科医療分野に留まってきましたが、出来ましたら今後は、人文社会科学分野、就中、国際関係論・近現代史などのトピックにて勉強会を開催出来ればと考えています。こちらの分野につきましても、さきの歯科医療分野と負けず劣らずの研究者による勉強会をご案内したいと考えておりますので、特に大学様や医療法人様あるいは地域の医師会・歯科医師会様などで「現在、海外情勢も少し荒れ気味であるため、これを機に、ここに至るまでの近現代史や国際関係を理解するために勉強でもしておこうか。」というご要望がございましたら、是非、お気軽にお問合せ頂ければと思います。

とはいえ、冒頭にも書きましたが、これらは今なお続くコロナ禍のため、オンラインでの開催となっていますが、自身としては、出来るだけ近いうちに実際の対面形式で行う勉強会を開催出来ればと考えています。

さて、こうした勉強会の仲介につきましては、まったくの無報酬にて行ってきましたが、今後、こちらからの収入ではなくとも、理想を述べさせて頂きますと西日本在の医療系学部を擁するいくつかの私立大学様での新たな取組みなどについての記事を週イチ(程度)にて作成し、ブログやツイッターなどの媒体でご紹介させて頂き、そこから、いくらかの収入を頂ければ大変嬉しいと考えてはいますが、いずれにしましても、そのためには、今しばらく書き続ける必要があるのではないかと思われます・・。

さてここで、唐突ではありますが、加藤周一による「日本文学史序説」上巻に以下の記述があります。

「欧州の文学では、その遠心的な傾向が、中国の場合よりさらに徹底していた。欧州の中世は、吟遊詩人の時代であり、各地の大学を渡り歩いてラテン語の詩をつくっていた学生たちの時代である。」

これに対して我が国の文学あるいは文化全般とは、遠心的傾向を示さず、むしろその真逆であると云い得ます。他方で、今後の我が国は「活力のある地方」が極めて重要になってくると云えます。そこで、抜粋文中にある、各地の大学を渡り歩き詩作を行った欧州中世の吟遊詩人の我が国における現代版として、さきに述べたような活動を、ある程度継続してみますと、それはそれで何らかの面白い効果が生じるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?

ハナシを具体的且つ卑近にいたしますと、私は現在の居地と仕事を足場・基軸としながらも、いくつかの大学を定期的に巡り、それぞれの大学にまつわる何らかの情報を継続的に発信するような、現在ではあまり聞かない、かつての吟遊詩人にも比定出来る「職」のようなものを創造出来れば良いと考えています・・(笑)。

また、基本的に自由な発想を創造の源泉として重視する大学においては、そうした緩く紐づけされた職とは、むしろあっても良いのではないかと思われますので、当記事を読まれましたら是非、ご一考頂ければと思います。

追記として、ここまで書いており不図、想起されたのは、主に織豊期大名の側に仕えた「御伽衆」という職です(たしか半村良氏の小説「戦国自衛隊」にて少し知名度が上がりました。)これも、さきに述べました「現代版吟遊詩人」にも似たようなところがあるのではないかと思われます。

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2021年2月7日日曜日

20210207 「ホンモノの興味」を知覚するための背景について

本日の首都圏での日中の気温は、この時季では珍しいほどにまで上昇したと聞きましたが、本日はほとんど外に出る機会がなかったため、それを体感することはありませんでした。

ともあれ、この先からは徐々に暖かくなる、所謂「三寒四温」であり、今しばらく寒さに負けず、目標到達に向けて書き続けていこうと思います。また、以前にも書いたことではありますが、1000記事に到達する前の900記事程投稿の頃と、1500記事まで残り30記事程である現在とを比較してみますと、明らかに現在の方が精神的に「辛い」と云えます。

その理由は、精確にはわかりませんが、自らを省みますと、それは、文章作成の様式あるいは文体と云って良いか分かりませんが、それが以前と比べ、明確化しているからであると思われます。

そうしますと、他の文章様式が、ブログ記事作成時の際に採り得る選択肢として考えられなくなり、ある意味「自分を追い込むようになる」と云えます。これが以前であれば、書籍からの抜粋引用や対話形式など、他の様式や文体を割合気軽に選択していたという記憶があるのですが、しかし他方で、こうした自然に「自分を追い込む」という状況もまた悪いことばかりでもなく、以前は、この作成様式にて書き続けることは困難であったと記憶していますので、現在どうにか書き続けることが出来ているということは、自身の文章作成能力が一段階進んだようにも感じられるのです。

とはいえ、この先どの程度まで書き続ければ、この新たな文体が自身に血肉化し、定着するのでしょうか・・?もとい、この自問については、これまで何度も繰り返してきましたので、その不毛さには既に慣れてはいますが、同時に、私はこの繰り返しの自問を通じ「文章を書けるようになってきた」という、ある種の「身体化された感覚」をも得ることが出来たと云えますので、たしかに、この自問は観念的には不毛であったとは云えますが、他方で、身体化された感覚の知覚という点において、この自問は、定型化された適切な探針であったのではないかと現在では思っています。

さて、おかげさまで一昨日投稿の「20210205 時代精神の背景にある歴史意識について思ったこと」も思いのほか多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆様どうもありがとうございます。こちらの記事では「ホンモノの興味が大事である」といった主旨を述べましたが、一方で、これは個々人が自身の思う事を正直に表明・告白するといった文化習慣がないところでは、その延長上とも云える個人内面での率直な自問自答を行うことは困難となり、そこから、自身内面にて抱いている思いや考えに対しての知覚、つまり、自分自身が持つ考えを自分のコトバにて表明することも困難になり、そして自分自身の「ホンモノの興味」もまた感知することが難しくなり、そこから、自身内部にある「ホンモノの興味」を自我の無意識の領域に埋没させたままになってしまうのではないかと思われます・・。

このことは2015年頃の自身を鑑みますと、大変身につまされるものがあり、そして現在においても悩ましいものがあると云えます。また、冒頭でのブログ記事作成の進め方においても同様であり、やはりどのようなものであれ、文体の獲得のためにも「ホンモノの興味」を知覚できるための率直さ(言語≒意味の感覚)が重要であるのではないかと思われますが、さて、如何でしょう?

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2021年2月5日金曜日

20210205 時代精神の背景にある歴史意識について思ったこと

 おかげさまで、一昨日投稿の「時代精神を人工的に再現する様式としての映画作品について思ったこと」は思いのほかに多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さて、ここでも以前からの続きにて「時代精神」や「地域性」について述べましたが、これらは、ある程度の期間、その対象となる時代や地域に向き合い続けないと、知覚することが困難な性質を持ち、さらに、これは運動神経などのように、個々人の性質による向き・不向きといったものが顕著にあるように思われます。

他方で、我々が学校で学ぶ履修科目の中には「時代精神」や「地域性」などについての学びとも云える日本史、世界史そして地理といった科目があります。しかしながら、そうした学ぶ機会がありながらも、我が国においては多くの場合「時代精神」や「地域性」についての能動的な学びまでには結びつかず、何やら実態を伴わない「お題目的なもの」になり下がっているように見受けられます。

そして、その理由とは端的に、社会において、それらについてのホンモノの興味を持っている人々が少ないからであると思われます。またさらに、そうした状況に多数派による同調圧力も加わり、その結果、さきに述べたような状況へと至るのではないかと思われます。

この状況を異言してみますと、社会の公的なレベルでの発言においては「歴史や地域独自の文化などは大変重要である。」としておきながら、それらを実際に公的な機関(私立・公立問わず教育機関)にて学ぶ際には、学習科目として扱われ、その習熟度は、テストによって判断されるようになります。そうしますと、本来、生きたものであると云える「時代精神」や「地域性」は、我々の精神には作用しなくなり、それらは単によく分からない観念やコトバの寄せ集めのように感じられていくのではないかと思われます。

そうした中、それらが履修科目であろうがなかろうがあまり関係なく、学ぼうとする方も、ごく少数ながらいるようであり、多くの場合、そうした方は、学生時代を過ぎた後でも、その自転運動を止めようとはしないように見受けられます。

他方で、そうしたごく少数の方々も含めた殆どの方々は、学生時代を過ぎますと「時代精神」や「地域性」とは決して近しいとは云えない、営利の世界に入って行きます。そして、その世界での実質的な正義とは「経済力」であり、それはそれで、たしかにとても重要ではありますが、しかし、そうした正義を調整あるいは相対化するものとして「時代精神」や「地域性」が本来は存在するはずであると云えるのですが、どうしたわけか、そうした思考段階での結び付き・融合は、殆ど生じることはなく、片方が他方をマウントし貶めていくというのが、必ずしも視野が広いとは云えない我々の持つ、変えがたく、そして悲しい性であるように思われます・・。

また、この中で「時代精神」とは、その背景もしくは基層に「歴史意識」が存在する感覚であると考えますが、この「歴史意識」については、以前、当ブログにて抜粋引用した文章に以下の記述があります。

「日本人に「歴史意識」が薄いというのが真理であるならば、他方で歴史観における強さをいうことは虚偽でなければならない。(あらかじめいえば、私はそのとおりだと考える。)」

ここでは日本人は歴史意識が希薄であり、それに代わり「擬歴史意識」があると述べています。この「擬」とは「まがい物」という意味であり、それは具体的には、本当の歴史について知り、そこから生じる意識という意味ではなく、たとえば「マンガ・アニメなどの架空世界におけるそれらしいもの」といった意味であるものと考えます。

つまり、我が国では、ホンモノの歴史意識の代わりに、こうした「擬歴史意識」が繁茂しているといった様相を呈しているではないかと思われます。

そして、その淵源について考えてみますと、おそらくは近代以前に遡り、あるいは「太平記」さらには「平家物語」の頃にまで至るのではないかとも思われますが、詳細については未だよく分かりません。

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2021年2月4日木曜日

20210203 時代精神を人工的に再現する様式としての映画作品について思ったこと

今回の記事投稿により、総投稿記事数が1470に到達します。そうしますと当面の目標としている1500記事への到達までは残り30記事となります。またさらに今後も、概ね2日に1記事のペースにて投稿を続けますと、2カ月程度にて達成出来る目算が立ち、来る4月中には、どうにか達成出来るのではないかと思われてきます。とはいえ、これまでと同様、必ずしも目算通りにコトが運ぶとは云えませんので、この先も、あまり意識せず肩の力を抜いて、今しばらく記事作成を続けていきたいと思います。これまで読んで頂きました皆様、どうもありがとうございます。また、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

さて、前々回、前回の投稿記事では「時代精神」また「地域性」について書きましたが、ハナシを更に具体的にしますと、これら「時代精神」や「地域性」を人工的に再現した典型的な表現様式が「映画」であると云えます。

また、特に過去の歴史に属する出来事を扱った映画作品においては、殆どの場合、作品の舞台となる時代当時の世界を再現していますが、その再現を精確に行うための職が「時代考証」と云えます。そしてまた、おそらく、この「時代考証」は、凝ろうと思えば、どこまでも凝ることが出来ることから「映画作品の舞台となる時代を高い再現性にて撮りたい」と監督・スタッフが意気込んで取り組んだ作品とは、観客として観ていても、自然と、その意気込みが伝わってくるように思われます。

その意味において、かつての大作ハリウッド映画などは、画面のデジタル加工技術があまり進化していなかったこともあり、膨大な数のスタッフと巨大なセットにて撮影しており、そこから、現在では存在しない歴史上の世界を創意工夫して、意欲的に再現したことが観て取れ、それはそれで圧巻の世界観と云えます。

他方で、撮影に用いるセットなどの大道具あるいは小道具による歴史の再現性と同様、用いる言語などを努力して当時の再現を試みた作品もあり、それもまた大変意欲的であり、当時の世界観を感じさせられると云えます。

そして、この映画作品での「時代考証」にもまた、世界規模での地域性があり、それは「歴史」が古くから学問として確立している地域においては、やはり、それなりの注意が払われているように見受けられます。その意味において我が国は、ある種独特であるように思われます。それはマンガ・アニメ文化による影響であるのか分かりませんが、おそらくは、太平洋戦争後の1945年から現在に至るまでの我が国の主要公開映画作品を、いくつかの要素にてカテゴライズしてみますと、そこから、何かしら特徴的とも云えるものが明らかになってくるのではないかと思われます。また、それを他の国での主要映画作品に対しても行い、それら特徴的なことがらの相違を比較検討してみるのも、それはそれで面白く、意義深いのではないかと思われましたが、さて如何でしょうか?

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2021年2月3日水曜日

20210202 昨日の続き「時代精神」について思ったこと

おかげさまで、直近投稿の「記事作成時の脱主体化(没頭)と「時代と繋がっている」というについて」は思いのほか多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さて、この記事にて述べた「時代精神」ですが、それは、ある地域、ある時代において特徴的な諸要素を総合的にとらえたものと云えます。また、思うにそれは、論文のような硬質な文体では的確に表現することが困難なものとも云え、あるいは実際に、ある時代精神を認識することを試みる場合、その時代を扱った論文を読み込むよりも、同時代に著された物語、小説などを多く読み込むことによって、より的確に認識することが出来るのではないかと思われます。

そして、そうした経験がある程度蓄積しますと、自身内部に、その地域・時代において独特な雰囲気のようなものが醸成されてきます。この雰囲気とは他面において、その地域・時代を扱った文物を鑑賞・観察する際の評価基準ともなり得るものでもあり、それに基づき考えたことを基礎として、なおもその地域・時代について考えていきますと、その評価基準はさらに洗練され、そして、その地域・時代に実際には存在していないにも関わらず、観念的ではあるのですが、そのさまざまな様相を(的確に)知覚することが可能になるのだと思われます。

また、私見ではありますが、端的に、さまざまな歴史や地域を対象とする(ホンモノの)研究者とは、この独特な雰囲気・評価基準を我が物とされている方々を指すものと考えます。

そして、そうした方々について考えてみますと、自然と想起されるのか、以前、当ブログにて抜粋引用した小林秀雄氏による以下のコトバです。

「だから伝統というものをキャッチすることのむずかしいことは、いま決して伝統なんてものはなくなっちゃったからではないのだな。むしろ、伝統を経験している人々がいるか、ということに気が付くと、これが大事なんだな。
どこに捜すこともない。ただ、ふつうの書画好き、道具好きのなかにいるのですよ。
いわゆる書画骨董の世界というもののなかに、たいへん、なんというか時代錯誤的な、たいへん複雑な形で現に生きているのです。断っておきますが、時代錯誤的なものというのは、知的な評価なのです。審美的な評価ではない。
伝統が今日も生きているということが時代錯誤と見えるのは、傍観者の知的な目です。
好き者には、そんな目はない。伝統を内側から見ますから。そういう目に伝統の命が見えている。これは日に新たなはずのものなのです。
いったんこれを見てしまった人には、これは消そうといったって消えるものではない。そんな不自然なことができるものではない。」

特に最後の二行は自身の記憶に基づいてみましても「たしかにそうである。」と云えます。しかし、そうしたことに対し、あまり興味を持たない(所謂実務的な方面の)方々からしますと、あるいは「得体のしれない、おかしな野郎だ!」と思われ、さらには、現今のコロナ禍によって一層同調圧力が顕著になった我が国社会においては、排除される対象にもなり得ると云えます・・。

そして、考えがこのあたりにまできますと、今度はトーマス・マンによる「トニオ・クレーゲル」作中にて、主人公が久しぶりの帰郷での滞在中、手配中の詐欺師と間違われた件が思い出されるわけですが、こうしたある種、人文社会科学的な素養を持つ(少し変わった)方々に対する社会全般の態度が抑圧の方向に向かって行きますと、その社会とは、おそらく早晩衰亡に向かって行くと考えていましたが、昨今の隣国での事情を知るにつれ、それもまた単純には云い切れないということが分かりました。

ともあれ、そこで不図思ったことは、昨今の我が国においては、本当のこうした方々に代わり、よく分からない芸術家気取りのお笑い芸人の方々が(過分に)幅をきかせていることであり、そして、それを伝統に基づく審美的な視点から批判する言論勢力もまた乏しく、そこから見える実質とは、つまるところ、貨幣が流れるビジネスモデルに有利に参加出来ていれば、別に問題はないといったところであるように思われます・・(苦笑)。

しかし、そうした流路(ビジネスモデル)のなかで「消費されるもの」として作られた種々作品は徐々に劣化してゆき、そしてついには、さきに述べた「貨幣が流れるビジネスモデル」が、伝統に基づく審美的な視点などをあまり考慮されない消費者の方々にも透けてきてしまっているのが、ここ最近の状況といったところではないでしょうか?

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