2017年9月5日火曜日

20170904 引き続きスランプにて記事作成をしていて思ったこと・・【銅鐸について思い出せないこと】

A「本日の首都圏は日中断続的に雨が降り、そして気温も上がらず九月初旬としては涼しい日であったのではなかと思われます・・。

つい先日割合長めの通史ものの著作を読了しましたが、それに次いで、また新たに長めの通史ものの著作を読み始めた次第ですが、その読み進めるスピードは遅く、あるいは著作を読む間隔のインターバルをもう少し長めにとっておけば良かったのではないかとも今になって思われます・・(苦笑)。

また、以前にもブログ記事に書きましたが、読み進めるのに多少苦労する著作を読んでいる折は、ブログ記事作成などを含めた文章作成ひいては能動的行為全般の活性が鈍化する傾向があると思われるのですが、今現在もまた、そうした例に漏れず時折ボンヤリとしながら、この記事を作成している次第です・・(苦笑)。

とはいえ、これまでのブログ記事作成期間とは、総じてこのような状態であったかというわけでもなく、あまり明瞭な記憶としては残っていませんが、割合熱心に何やら文章を書き連ねることが出来ていた時期・期間もまた、たしかにあったように思われるのです・・。

そして大変面白いことに今現在、まさしくこうしてブログ記事を作成している時とは、過去にどのような感じで自身がブログ記事を書いてきたかとはあまり思い出せないのです。

おそらく視点が過去へ向かっている時とは、他方にある創造的な活動全般があまり活発に為されないのかもしれません・・。

また、そうしたことに視点が向かうと、文章の進みとは顕著に遅くなるのです・・(苦笑)。
(それは決して悪いことであるとは考えませんが・・。)

そのように考えてみますと、これまでに作成した一連の文章とは、(ほぼ)毎日とりあえず、ある程度書いてみて、そして、その書かれた文章が自身の精神・心情あるいは既存一般的な知見(意見ではない)と合致しているかどうかを読み返し検討・加筆訂正することを重ね、繰り返すことにより(どうにか)作成されているといえるのですが、こうした流れが(一応)ある程度確立してきますと、比較的文章が湧いてくる時期であっても、そうでない現在のような時期であっても(その内容が面白いかどうかは別として)何かしらの文章は書き続けることが出来るようです・・。

ちなみに今現在においては自身の作成した文章の面白さなどは、あまり意識的に考えを巡らすようなものではなく、書かれた文章全体の中に後知恵的にわずかに面白い記事が見出すことが出来れば、それで良いのではないかと考えています・・(笑)。(砂金採取と同様の要領)

そういえば、さきほど自身の意識が過去に向いている時とは、文章作成が進まない傾向があると書きましたが、これと多少関連することであるかもしれませんが、大分前に読んだ記憶のある記述が、どの著作に記載されていたかを忘れてしまうことは時折あることであり、今現在も一つあまり大きなことではないのかもしれませんが、そうしたものを抱えているのです・・。

それは和歌山県にて出土した特徴的な形式を持つ銅鐸に関してなのですが、もしも私が記憶しているとおりの書籍での記述であれば、それはこの形式の銅鐸の出土分布から云える傾向が変化するのですが、そのことは和歌山市の太田黒田遺跡から出土した外縁付紐式の銅鐸(当地特有の緑泥片岩製の舌を持つ)が島根県雲南市の我が国これまでの最大個数の銅鐸出土地である加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸四つと同笵(同じ鋳型にて製作)である事実と、私としては同程度に面白いことであるのですが・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」


参考文献:「銅鐸民族の謎_争乱の弥生時代を読む」
      臼田篤伸著
      ISBN-10: 4882029286
      ISBN-13: 978-4882029281











2017年9月3日日曜日

20170903 昨日の続き・・読書の傾向から思ったこと・・

A「休日ということもあってか、昨日投稿分の記事は思いのほか多くの方々に読んで頂けました(47)。

また、この記事においては読了した書籍内容に対しての感想はあまり書かず、主に書籍の種類による読み易さ、およびその効果といったことを書きましたが、本日はこれに対する補足を少し書いてみようと思います。

さて、ある程度学術的な内容の書籍、論文などに関しては比較的明瞭にその書籍が頭脳・感性のうちの頭脳の運動を促すものであると認識することが出来るのでしょう。

一方で、たとえばある程度史実に沿い、時代考証が為された小説・物語の体裁の著作であれば、それは頭脳・感性双方の運動を促すものとなり、そして継続的な読書により、そうした体裁あるいは文体に慣れていきますと、徐々に感性の運動の方が優位となり、それに伴い感性的なものとして作中にて述べられているさまざまな知見・考えなどを吸収・受容することが出来るようになるのではないかと思われます・・
(これは実際に書いてみますと、自身の筆力の不足もさることながらなかなか微妙で伝わり難い感覚であるのかもしれませんが・・)。

私事にて恐縮ですが、自身に関しては、さまざまな歴史小説、物語などの読書を通じて初期の段階における歴史・人文社会科学知識全般を得てきたと云えます・・。

しかし、こうした知識獲得の仕方とは必ずしも(学校教育的に)効率的なものではなく、それ故にか、学校の成績に関しては悪い方ではなかったですが、ずば抜けて良いというわけでもありませんでした・・(無駄なことをよく知っているといった評価が多かったように思います・・(苦笑))。

そうしたことから、このかなり非効率的な自分の勉強(?)方法およびそれを敢えて行ってしまう変に頑固な性格を呪うこともありましたが、その後20代にてさまざまな良い先生方に出会うことを直接的な契機として、こちらの方の才能に関してはどうにか、こうしてある程度の期間、ブログ記事を書き続ける程度までは開花したのではないかとも思われるのです(・・はたしてそれは開花なのであろうか?)(笑)。

いや、何れにしましても、それはさきの先生方からして頂いたことに比べれば、あまり大したことではないといえますが・・(苦笑)。

ともあれ、自身はこのあまり大きな緊張を心身に対して強いらない緩やかな感性方面の経路からの比較的長期間にわたる知識・知見の流入にて、これまでどうにかやってきたのではないかと思われるのです・・。

このことは、特に卑下することもありませんが、一方でもちろん自慢に値するものなどでもありません・・。

単純に自身の元々の性格・性情がそうした方面に進ませ、そしてある程度どうにかなってしまったということになります・・(苦笑)。

しかし、ここに至るまでに失ってきたものもまた少なからずあるようにも思われますので、結局のところそれは、プラス・マイナス差し引きゼロであったのかとは、今現在はよく分からないところです・・(笑)。

とはいえ、今後もまた何かした面白い書籍を見つけ読んでみようと思いますが・・。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」


20170902 『銃・病原菌・鉄』上下巻読了・・読書の種類について思ったこと・・

A「本日さきほど先日来より読み進めていた著作を読了しました。

これは上下巻各々400頁程度といった、それなりに読み応えのあるものでしたが、同時に長編文学作品などと比べますと、その読了後の感覚はやはり異なると云えます。

しかし、どこが異なるのかとは今現在上手く言語化出来る自信はありませんが、強いて書いてみますと、それは本日読了した通史的な著作とは、頭脳に対しての負担をより強いるのに対し、感性(情感?)に対しての負担はそこまでないものと云えます。

また、これは、昨日投稿したブログ記事にて書いたことでもありますが、そうした種類の著作(感性よりも頭脳を使わせる)を読んだ直後における能動的な活動に対して抑制的な影響をもたらすのではないかと思われます・・。

とはいえ、そうした著作の読書が能動的活動に対して徹頭徹尾、抑制的な影響しかもたらさないというわけでもなく、それはおそらく筋肉でいうところの持久力に富む遅筋の発達を促すものであり、特に体力のある若い時期において、こうした種類の著作に数多く触れておくことは、後に続く青年期以降の知的活動全般を励起、活性化するといった効果があるのではないかと思われます・・(とはいえ、それはわざわざ意識して行うことでもないと思われますが・・)。

一方で、どちらかというと読み易い文学作品などに関しては、頭脳よりも感性により働きかけるといった効果をもっているようであり、これは特に日常的に頭脳を使う文章を扱っている方々からすれば、表層的なコトバのお遊び程度の認識であるのかもしれませんが、しかし、こうした言語の用い方の方がおそらく言語それ自体としては古来より正統な用い方であり、そして今後もまたそうであるのです・・。
【ここの視座を掘り返してみるとかなり深いのではないかと思われるのです・・。】

それ故、小説、物語特に古典などをあまり価値のないもの、あるいは科学的ではないと考えている理系学問分野全般の方々は、御自身が能動的な興味を持って読み込むことが出来る一つの著作、一人の著者といったものを書店での立ち読み等を通して見つけ、それを継続していますと、保証は出来かねますが、いずれ少なからぬ確率にて、何かしら面白い(小さくても・新しい)発見をすることが出来るのではないかとも思われます・・。

何れにしましても、こうしたことは行ってみても特段損をすることはありませんので、また、もうじき読書の秋ということもありますので、試みては如何でしょうか・・(笑)?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂いて、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」


2017年9月2日土曜日

20170901 文章作成に対しての読書も持つ意味について・・書籍を読むとは?

A「本日、九月初日の首都圏は未だ『残暑』といっても良いこの時季であるにもかかわらず、いささか早急に秋が訪れたような陽気でした。

さて、先日より読み進めている著作は残り50頁程度となりました。おそらく明日には読了に至るのではないかと思われます。

ともあれ、
久々に通史的な著作を読んでいるためであるのか、昨今、能動的にブログ記事を作成することへの困難さをおぼえるのです・・(苦笑)。

やはり書籍を読む行為、そしてその時期とは主に『受容』の態勢にあると云えますので、それが何かしらブログ記事作成といった能動的な行為に対して影響を及ぼしているとは十分に考え得ることです。

いや、もう少しこのことを【読書とブログ記事作成】考えてみますと、それは精確には自身にとって身近な、慣れ親しんだ、血肉化された言語・著者・分野における書籍の読書であるならば、さきに書いたように読書という行為が本質的に『受容的』なものであるとしても、それとは逆に能動的な(ブログ記事をも含めた)文章作成に対して促進的な役割を果たすことの方が多いのではないかと思われるのです・・。

このあたりには如何なる精神のメカニズムが関与しているのか分かりませんが、何れであれ、これまで一応ブログ記事を作成してきた実感として、以上のようなことが認識し得るのです。

しかし、そのように考えてみますと『では、文章作成行為を励起させる、自身のより基層に近い部分にある(一連の)書籍とは何か?』と考えてみますと、それは端的に『その著作を読むと比較的文章がスムーズに書くことが出来る。』と分類、認識し得るものであり、当然ながらそうした著作とは個人により異なると云えます。

また、そうした著作を未だ見出していない方もいるのではないかと思われます。
【もちろん見出す必要性などまったくないのですが・・(笑)。】

さらに、もちろんそこには表層的な文体の【読書の影響による】真似もいくらかは含まれるのでしょうが、おそらく、そこには無意識にも至るさらに深い何かがあるのではないかと思われるのです・・。

つまり、その程度(無意識にも至る)まで深く読み込んだ書籍があるということが、その反面にある文章作成という能動的な活動に対しても影響を及ぼしているのではないかと思われるのです・・。

そして、書籍の乏しかった時代における読書とは、そうしたものであったのではないかと思われます・・。

また、現代の我々もまた、そうした経験を教育の何処かの段階で経ることは、なかなか重要なことではないかとも思われるのです。

とはいえ、そこで極めて重要であると思うことは、個人にとって、そうした核ともいえる存在となる書籍を選ぶことは、現代の我が国においては、あくまでも個人の裁量に任せられることであり、また、そうした意味においてキリスト教文化圏(特に新教)での信教に必ず付随する『聖書』という(書籍の)存在が極めて意義深いものであることが認識されるのです・・。

一方、我々日本人にはそうした種類の書籍はありません。
(あると主張される方々もいるかもしれませんが、キリスト教文化圏における『聖書』のような存在はないと思われる。)

それ故、もちろん無理強いはしませんが、それに代わり得る書籍(複数でも)を何かしら持つことは、我々先祖の行ってきた伝統的な読書の方法にも適い、少なくとも、文章作成という能動的行為に対しては、あるいは多少の効果を持つのではないかとも思われます・・。
【昨今巷にていわれる『紋切り型社会』とは、おそらくこうした社会での(読書の)傾向がPC・スマホの普及により侵食され、劣化していることを示しているのではないかとも思われます・・。】

他面
、私事になりますと、これまでに書いてきたブログ記事とは、そうした核となる存在が自身にとって何であるのか、あるいはそれ以前に、その核となる存在の有無に対する賭けであるようにも思われるのです。

もちろん、まだ勝負はついていませんが・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」









2017年9月1日金曜日

20170831 通史ものの書籍を読んでいて思ったこと・・

本日八月最終日の首都圏は断続的に雨が降り、また気温も上がらず、八月としてはかなり冷涼な一日であったのではないかと思われます・・。

さて、先日より読み進めております上下巻より成る通史ものの著作は、残り100頁程度となりましたが、小説、物語などと違い、大団円などといったものはないようであり、このままの調子にて比較や分析に終始するのではないかと思われます・・。

この著作を読みつつ、文中にてこれまでに知らなかった知見に出会うと、その都度、その箇所に横線を書き入れ、あるいは頁に折り目などを入れておりますが、現在になり、これら箇所を振り返りつつ眺めてみますと、やはりそれなりに面白く、自身がその箇所に横線を記入した理由も納得出来ます。また読了の後も、機会を見つけて再読してみようと思います・・。

また、この著作を読んでいる際に内容を思い起こさせる他の著作とは多々ありますが、とりわけ多いと感じたものはフレーザー著『金枝篇』、金関丈夫著『日本民族の起源』、石田英一郎らによる同名著作、あるいは岡正雄論文集『異人その他』といったところではないかと思われます・・。

とはいえ、斯様に思いかえしてみますと、どうも私を含めて我々日本人とは純粋に遺伝子、血液型の分布といった(情動的要素を伴わない)理系的とも云える要素についての自民族への分析、考察とは躊躇なく客観的態度にて行うことが出来るものの、そのさらに上に築かれる文化についての分析、考察とは情動的価値感が惹起せられることにより躊躇するのか、あるいはあまりにも日常的過ぎて、対自的な存在として認識することが困難になってしまうというような傾向があるのではないかと思われるのです・・。

そして、何といいますか、それに対してツジツマを合わせるようにどちらかというと(扱い易い)比較的皮相的な歴史ネタを散りばめた種々アイコン、文化事物を生みだすといった事態になるのでしょうが、とりわけ昨今の我が国社会にて広く見受けられるタイム・スリップ、タイム・リープものとは、あるいは興味へのきっかけにはなるのかもしれませんが、しかし、こうした『分かり易さを核として急激に凝集する』ことは、いつもの我が国の流行ものの伝で、結局のところ、早晩のうちに忘れてしまうのではないかといった危惧をおぼえるのです・・(苦笑)。

しかし、こうした傾向とは見方を変えてますと、勘が良い、察しが良い(空気を読む)ということにもなると思われますので、そうしたことからも、何と云いますか、自身をも含めて我が国のなかなか変えることの難しい根の深い習性らしきものを感じてしまうのです・・(苦笑)。

それ故、私見としては社会全体として生活の資になり易い理系学問分野に注力するのは大変結構ではあると思うのですが、その一方で、もう少し、こうした(観念的な)ことを嗤わずに考える習性を自然と身に着けていくような工夫が為されたら良いのではないかと思うのです・・。

しかし、そうしますと、そうした工夫が本職であるはずの文系研究者の方々の多くとは、自身がようやく手にすることが出来た正規の研究者という地位に安住、惑溺してしまい、こうした、いわば泥臭いことをスッカリ忘れ、心身ともに爽やかな存在になってしまうことが多いのではないかとも思われます・・。

いや、たしかにその方が(我が国の場合)女性はハナシを聞いてくれるのでしょうが・・しかし同時に、その内容や実効性については当人自身も余程自己欺瞞をしていなければ『至極あやしいものである』と気付いているのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・(苦笑)?

他方、反対のキャラクターを押し通すと洗礼者ヨハネのようになってしまうように思います・・(笑)。
(また、少なくとも近代以降の我が国に本格的な哲学、思想などが生まれ得ない大きな原因は、このあたりにあるのではないかとも思われます・・。)

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」











2017年8月30日水曜日

20170830 書き続けることにより強迫観念から単なる観念へ・・文体の獲得?

A「対話の中にて自身のことを振り返り話す際、思い出されるように、かつての自身の状態が明瞭になることがあります・・。

これまでに何度か当ブログ記事にて書いたことではありますが2009年冬から2010年秋に掛けては自身にとってはいささか重過ぎる耐出来事が連続して生じました・・。

これら期間の私とは、対外的、表面的には【ある程度】まともには振る舞っているつもりでしたが、週末の散歩の際などは、視線を落とし、そうした状況を忘れるためかMP3プレーヤーにて音楽を聴きながら無心で鹿児島市街を歩いていたことが思い出されます・・。

それでも2013年の春頃には多少おかしくもなりましたが、しかしそれは、この週末の長い散歩が無ければ、それ以上にひどいことになっていたのではないかと思われるのです・・。

また同時に現在であれば、そうした(精神的に)危険な状態から完全に脱し、安全圏にいるというわけでもなく、現在は現在で『何かしら文章を書いていないとおかしくなってしまう』といった強迫観念にも近いものに支配されつつ、こうしてブログ記事の作成を継続しているとも表し得るのです・・(苦笑)。

しかし同時に、現在になり思うことは、こうして強迫観念らしきものに促されブログ記事を作成し続ける自身に対し慣れつつあるということであり、またそれを決しておぞましいものであるとは感じないということです・・。

そして、こうした感覚に完全に慣れ、そしてそれが自己同一化が為された時に、あるいは自身の文体といったものが得られるのではないかとも思われるのです・・。

あまり科学的、理路整然とした内容ではありませんが、整理、認識のための後付けの理論を考え得ない、持ち得ない内的な現象に対しては、斯様に、とりあえずのところは感覚に基づいた言語を以って書いてみても良いのではないかと考えます。

また、おそらく詩と理論の間にある認識の層とは、多くの場合、そのようなものではないかとも考えられます。

そして、そのように考え得ることにより、さきに書いた強迫観念らしきものは、そうであることを止めて、単なるニュートラルな観念へと変態・収束するのです【とはいえその収束のためにはある程度継続しなかれば安定化しないようです・・】。

さらに同時にその収束点あるいはその近いところに『文体の獲得』があるのではないかと考えることは特に不自然なことではないと考えますが、さて、如何でしょうか・・?


とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在までに生じた地震・大雨・水害といった一連の大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」

















2017年8月29日火曜日

20170829 組織および人を見る上での一つの視座について思ったこと・・昨日の続き

本日は複数の著名とされている先生からお電話を頂き、かなり驚きました。

こうした種類の対人での緊張感とは昨今なかなか経験することがなかったため、あるいは電話での応対の際、かなり『あやしげ』であったのではないかと思われます・・(苦笑)。

メールでのやりとりであれば、概ね大丈夫であると思われるのですが、やはり実際の対人応接能力に関しては慣れておくことが重要であることを再認識しました・・。

その意味において、昨日投稿のブログ記事にて書いた『医局・講座』は、始終何かしらの人がいる環境であることから、たとえ臨床を含まない基礎講座においても、ある程度、多岐にわたる対人応対能力は自然に修練そして保持されるのではないかと思われます・・。

またそれは他の理系の研究室とも微妙に異なり、さらに文系の研究室とも大きく異なるといえます・・。
(医療系においてもバラつきは少なくないかもしれないが)

ともあれ、自身としては、最も居心地が良かったと思われるのは、自由度が極めて大きかった文系院の研究室であり、また、おそらくこれが自身の学問に関しての原風景・刷り込みであったのではないかと考えます。

それ故、のちに歯系院の講座に所属することになった当初の自身とは、かなり浮いた変な存在であったのではないかと察せられます・・(苦笑)。

そしてまた、そのことから周囲の方々に対して色々とご迷惑をおかけすることもあったのではないかとも思います・・。

しかし、そこで大変偉いと思うのは周囲の先生方であり、そうした(異様な存在である)私に対し特に頭ごなしに型に填めようとするのではなく、何となく、自然に講座に馴染むような接し方をしてくださったように思われるのです
(あるいはこれも一種の地域性の発露であるのかもしれません)・・。

とはいえ、もう少しこれを考えてみますと、自身が属した講座とは、一般的な見地から何らかの意味で『変わった人』が多く、そのことから当時のこの講座とは、そうした方々が集まってくる『何か』があったのではないかとも思われるのです・・(笑)。

そして、そこまで書いておりますと不図思い起こされるコトバは大分以前に文系の師匠が仰った『教育者の本当の力量というものが如実にあらわれるのは、時折いる良くも悪くもの規格外の学生等に対する伸び代へのアプローチとその後でしょう・・』というコトバであり、そして今になり振り返ってみますと、たしかに、この師匠のもとにも、どうしたわけか、多少変わった方々が多く集まっておりました・・。

また、同様に文系院においても、よく議論を交わした方々と連れ立って質問を携え度々訪問した先生もまた、現在に至るまで、時折いるこうした種類の(変わった)院生に慕われているとのことです・・。

私はこうしたことを的確に認識出来るような感覚およびその感覚の洗練とは、きわめて重要ではないかと考えるのですが、さて如何でしょうか・・?

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」