2024年4月11日木曜日

20240411 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

 紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、ヤマト朝から国造に任じられてからである。

 いらい、国造家(紀直系)の活躍ぶりはすさまじい。これら紀氏の政治活動の根底になったのは、いうまでもなく紀ノ川流域に形成された豊穣な農耕地帯である。紀氏は、畿内でもめずらしいほどの美田にめぐまれていた。もともと農耕を主とした部族である。農業土木の法に長じていた。関西大学の薗田香融氏は、平安末期の民間史料で、紀氏の奉祭するヒノクマ・クニカカスの宮のことを農耕民たちは名草溝口の神とよんでいた例がみられるといわれ、さらにまた日前宮のすぐ背後には音浦樋とよぶ用水取り入れ口があり、ここから広大な条理区へ向けて蜘蛛手のように灌漑用水が分配される仕組みになっている。大規模な名草用水を開き、広大な耕田用地を開発したのは、紀伊国造の遠祖にあたる紀直の族長であり、その時期は古墳時代の初頭とみても、おそらくあやまりはあるまい、とも述べておられる。

 農耕民たちの信奉する溝口神とは、農業用水をもたらす神であり、そしてその司祭者の紀氏は、この水利権を一手につかんで農耕民たちを支配したのであろう。さらに紀氏は、農耕集団だけではなく、片手に紀ノ川平野の穀倉地帯をにぎり、もう一つの手に紀州沿岸から瀬戸内におよぶ海人集団(水軍)をも掴んでいた。

 しかし、紀氏の勢力がヤマト国家のなかでも異例と思える発展を見せるのは、景行天皇の三年、天皇の命をうけて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国国造の六代、莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰(『古事記』〈孝元天皇条〉『日本書紀』〈景行天皇三年条〉「紀伊続風土記」「紀伊国造系図」)を始祖とする竹内流紀氏(紀臣系)がヤマト朝廷の中央貴族として根を張り枝をひろげるようになった頃からである。

 事実、紀氏の勢力は目をそばだたせるほどの勢いでヤマト政権のなかに膨れ上がり、各地に拡がっていく。

 この紀という国名を姓にもった紀氏は、その分流の多いことは源氏、平氏、藤原氏の三姓につぎ、橘氏に匹敵するほどである。

 いま仮りに、それら諸般各様な紀氏をここに書きつらねてみるとー

まず、出雲系の紀氏・紀直(紀伊国造)・和泉の紀直・河内の紀直・肥前の紀直・紀臣(武内宿禰の子、紀〈木〉角宿禰の裔)・和泉の紀臣・紀伊の紀臣・伊予の紀臣・伊賀の紀臣・紀奥・紀君・紀宿禰(紀伊国造の一族)・大和の紀宿禰・丹波の紀宿禰・筑前の紀宿禰・紀朝臣(武内宿禰の裔)・平群流の紀朝臣・波多野流の紀朝臣・和泉の紀朝臣・巨勢流の紀朝臣・紀角宿禰の紀朝臣(己智の裔)・越中の紀朝臣・川瀬流の紀朝臣(紀伊国造の裔)・紀伊の紀朝臣・苅田流の紀朝臣・大宰府の紀氏・山城の紀氏・大和の紀氏・摂津の紀氏・和泉の紀氏・伊賀の紀氏・尾張の紀氏・駿河の紀氏・武蔵の紀氏・安房の紀氏・常陸の紀氏・近江の紀氏・美濃の紀氏・下野の紀ノ党・岩代の紀氏・磐城の紀氏・陸奥の紀氏・出羽の紀氏・伊賀の紀氏・越前の紀氏・能登の紀氏・丹後の紀氏・伯耆の紀氏・因幡の紀氏・石見の紀氏・美作の紀氏・周防の紀氏・長門の紀氏・紀伊の紀氏・阿波の紀氏・讃岐の紀氏・伊予の紀氏・筑前の紀氏・筑後の紀氏・豊前の紀氏・肥前の紀氏・肥後の紀氏・薩摩の紀氏・大隅の紀氏ー

 といった具合で、かぞえあげればキリがない。煩雑を承知のうえで各地における紀氏を書き並べてみたのだが、これだけでもザっと七十はこえている。紀氏は、この他にもまだある。平氏と混じて生まれた紀平、藤原氏と合した紀藤などまでも含めるとすれば、それはおびたたしい数にのぼる。

でー

これらの沢山な紀姓の発生は、もちろんヤマト中央政権のなかで紀氏が強大な勢力をふるっていたからにちがいないが、その紀氏系の活躍を背後から支えていたのは、かれらの本貫の地である紀伊国に君臨する紀伊国造の掴んでいたコメと水軍と、そしてその船を造る木であった。紀伊国は温暖の地で、良材にめぐまれている。ヤマト朝廷の宮殿やその他の建築用材の供給地でもあったし、また海に囲まれている紀伊国は、古代からすぐれた造船技術をもっていた。紀伊独自の大型外洋船の建造技術と航海術がある。おりからヤマト政権が朝鮮半島へ軍事的進出をする最盛期にあたっていたことも紀氏の発展に拍車をかけた。

 朝鮮といえば、紀伊国は古代から朝鮮とのつながりがふかく、帰化人も多い、だいいち、木の国の国名にもなった木の出現の神話にしても、主人公のイソタケルと父スサノオが新羅から紀伊にくだったということになっている。そのうえ、この伝承じたい、奇妙に朝鮮の神話にダブりをみせるのである。

 朝鮮の檀君神話では、

〈あるとき、神様が朝鮮を支配するために檀というところへ子供をおろし、平定させた。そのときに神様は、下界におりていく子供のために雨師、風師、雲師という神々(職能神)をつけてやった〉

のだという。

 それは、新羅から紀伊国にむかうイソタケルが、スサノオの分身である八十の木種をもらってくるシーンとひどく酷似しているのだ。


2024年4月9日火曜日

20240409 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 一九〇二年に日英同盟が結ばれたとき、イギリスの政治家たちが期待したのは、特定の状況のもとで日本を援助するためのコストがかかっても、中国における戦略上の負担が軽減されるということだった。そして一九〇二年から三年のあいだには、イギリスの上層部は、植民地問題についてフランスと和解できると考えるようになった。先のファショナダ事件でも明らかだったように、フランスはナイル川流域をめぐって武力に訴えるつもりはなかったのである。

 こういった協定はいずれも、初めのうちこそヨーロッパ以外の問題にのみかかわるようにみえたが、それらはヨーロッパの大国の地位に間接的な影響を与えた。西半球におけるイギリスの戦略的なジレンマが解消し、極東では日本海軍から援助を受けることになったため、イギリス海軍の海上配備にたいする圧力はいくらか弱まり、戦時に足場を固められる可能性が大きくなった。また、英仏間の反目が和らいだ結果、イギリス海軍の信頼性はいちじるしく高まった。こうした状況のすべてがイタリアにも影響を与えた。イタリアは沿岸地帯が非常に無防備で、英仏の連合に対峙することができなかったからだ。とにかく、二十世紀初頭の数年間に、フランスとイタリアには(経済と北アフリカ問題における)関係を改善する絶好の口実ができたのである。しかし、イタリアが三国同盟から離れていけば、オーストリア‐ハンガリーとのあいだで表面化しかけていた小競り合いに影響をおよぼすはずだった。結局は、日英同盟という距離的に隔たった結びつきですら、ヨーロッパにおける国家間の秩序に間接的な影響をおよぼすこととなった。一九〇四年に、日本が朝鮮と満州の将来をめぐってロシアに強い態度でのぞんだとき、その同盟のおかげで第三者たるどの大国も介入できなかったのである。さらに日露戦争が勃発したときにも、日英同盟および仏露同盟の特別条項によって、「セコンド」としてのイギリスとフランス両国は、公然と戦争に巻き込まれることをたがいに避けるよう、しっかりと釘をさされていた。それゆえ、極東で戦争が起こるやいなや、ロンドンとパリが植民地をめぐる争いを終結させ、一九〇四年四月に英仏協商を結んだことは驚くにはあたらない。長年にわたる英仏の争いー一八八二年にイギリスがエジプトを占領したことに端を発していたーは、もはや立ち消えとなっていた。


20240408 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

ドイツのヨーロッパ外への膨張については、しかし、なお一つの途があった。それは、陸路によってドイツ本国と連絡された植民帝国または勢力圏を建設することであった。そして、現にこの時期のドイツはオーストリア=ハンガリーとの同盟を拠点としてその勢力をバルカン半島へのばし、さらにこの半島を「東方世界への橋」として、中東(Middle East)へ帝国主義的支配を及ぼそうと企てていたのであり、それは、具体的にはコンスタンティノープルからアジア・トルコを貫いてバグダード(Baghdad)にいたる鉄道敷設計画を根幹として進められていたのであった。しかも、この計画もペルシャ湾を窮極の目標としるものであった点において、イギリスの「インドへのルート」を脅威するものとなり得たのであり、従って、この鉄道敷設計画は現に対英関係を甚だしく緊張せしめることになった。

 ドイツは、以上のようにして、世界帝国イギリスと経済的・政治的に次第に鋭い帝国主義的対立の関係に立つことになった。ドイツの海軍大拡張、および、それにともなって英独両国間に展開されることになった建艦競争は、実にその集中的表現にほかならない。ドイツは一八九八年に海軍拡張七ヶ年計画を立てたが、それは沿岸守備を主たる建前とした在来のドイツ海軍を大洋において作戦行動を行い得るものに発展させ、海相ティルピッツ(v. Tirpitz)の言葉をかりていえば、ドイツ海軍を列国にとって無視し得ない存在たらしめることがその目的であった。しかも、それから僅か二年後の一九〇〇年には、南ア戦争(South African War;ブーア戦争 BoerWar)によりドイツ人心の中に反英感情が沸騰するにいたった機会をとらえて、以上の計画をさらに飛躍的に拡大した海軍拡張一七ヶ年計画を作成した。この計画の目標は、明白にイギリスに拮抗し得るところの海軍を建設することにあった。ドイツがこのように海軍大拡張を企てるにいたったのに対しては、イギリスももとより傍観することはできず、一九〇三年には巨大な海軍拡張計画を立案、これに対抗するにいたった。

 さて、英独帝国主義の次第に先鋭化するこの対立を軸として、国際政治は大きくその様相を改めることになった。イギリスは一九〇四年にフランスとの間に英仏協商(Anglo-French Entente)-それはアンタント・コルディアール(Entente cordiale)(心からの諒解という意味)ともよばれているーを成立させた。すなわち、イギリスとフランスとは、エジプトおよびモロッコをめぐって長年にわたって演じてきた烈しい帝国主義的対立関係、ならびに、ニューファンドランド(Newfoundland)、シャム(Siam)、マダガスカル(Madagascar)、ニューヘブリデス(New Hebrides)に関する両国間の係争問題を互譲的に解決して、その国交の調整を行ったのである。イギリスとしては、かくすることによって、ドイツ帝国主義の烈しい攻勢により強力に対処し得る地位に立とうと欲したのであり、またフランスは、ドイツと次第に鋭く対立し出しているイギリスに接近することによって、ドイツに対するその地位を有利ならしめることを望んだのであった。

2024年4月7日日曜日

20240406 2170記事に到達して:(読書や文章作成から感じられることについて)

昨日の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2170に至りました。そして、さらに30記事の更新により、当面の目標としている2200記事に到達することが出来ます。その時期は、今後毎日1記事の更新であれば約1カ月後、つまり5月初旬と見込まれますが、その投稿頻度での継続は困難であると思われることから、期間を延長し、5月中での2200記事達成を目標にしたいと考えます。

さて、別件ですが、つい先日オーランド―・ファイジズによる「クリミア戦争」上下巻を読了しました。当著作は近年の私にとっては久々の文量であり、さらに、これまで自らの専門、あるいは、その周辺分野として慣れ親しんだ経験がない分野の著作であったことから、当初は読み進めていても文章の理解が伴わないことが度々ありましたが、読み進めるにつれ、徐々に慣れて楽になり、下巻に入ってからは、文章に何らかの変化があったのか、あるいは、私の方がさらに慣れたのか、読み進めることが楽になり、下巻に関しては思いのほか早く読了に至ったように感じられます。また、その読了後の実感は、さきに述べた文量と比例するものであったのか、相対的に大きなものであり、現在でも、このように文章などを作成していて少し集中してきますと、どうしたわけか、その感覚が想起されてくるのです。

そして、こうした経験を通じて思ったことは、私には読書の習慣がありますが、そこで読む著作とは、概ね、新書や選書や学術文庫や文庫の小説といった比較的手軽な様式の書籍であり、そしてまた、それらの読了後の感覚は、さきに述べた「クリミア戦争」上下巻でのそれとは異なり、相対的に軽いものであり、また、長期間は継続しません。そうした実感から、さらには当ブログ継続の見地からも、比較的手軽であるからと、文庫様式の著作ばかり読まずに、時には重要と考えるハードカバーの著作を、古書であっても良いので入手して読むことが重要であるということです。

また、現在になり少し面白く感じられたことは、さきの著作上下巻は、移動や外出の際にも持参して読んでいましたが、これを読了後から肩が少し軽く感じられるようになったことです・・。おそらくハードカバーの著作を持ち歩いて、外出時に読むことは、身体に対しても少し負荷を掛けていたのかもしれません。とはいえ、おそらく、これも慣れであると思われますので、今後もう少し意識しつつ継続してみようと考えています。

と、如上のように先日の読書経験から思ったことを述べましたが、当ブログ自体の継続もまた、自らの読書経験に基づいていると云え、引用記事などは、その最たるものであると云えます・・。そういえば、当記事は久々の自らの独白形式によるものであり、そのためか、書き進め方がぎこちなく、文章の流れもどうも滑らかではないように感じわれるのです・・。しかし、こうしたことも、これまでのブログ記事作成の経験から、継続により徐々に自然に、そして自分なりに、出来るようになっていくのではないかと考えています。そして、この「自分なりに出来るように・・」という感覚の積み重ねにより上達するということは、我々の活動の多くに共通して云えるのではないかと考えます。

とはいえ、私の場合、これまで8年以上にわたり当ブログを(どうにか)継続してきましたが、文章作成の上達の実感を記憶に残るほど強く受けたことはないと記憶していますので、さきの著作読了後に得た感覚と同程度に強く、今後、自らの文章作成について、上達などの変化を実感してみたいと願うところではあるのですが、さて、どうなるのでしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2024年4月5日金曜日

20240405 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.302-304より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.302-304より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

実際には、人間はつねにポスト・トゥルースの時代に生きてきた。ホモ・サピエンスはポスト・トゥルースの種であり、その力は虚構を創り出し、それを信じることにかかっている。

自己強化型の神話は石器時代以来ずっと、人間の共同体を団結させるのに役立ってきた。実際、ホモ・サピエンスがこの惑星を征服できたのは、虚構を創り出して広める人間ならではの能力に負うところが何より大きい。

私たちは、非常に多くの見ず知らずの同類と協力できる唯一の哺乳動物であり、それは人間だけが虚構の物語を創作して広め、膨大な数の他者を説得して信じ込ませることができるからだ。誰もが同じ虚構を信じているかぎり、私たちは全員が同じ法や規則に従い、それによって効果的に協力できる。

 だから、新しい、ぞっとするようなポスト・トゥルースの時代をもたらしたとして、あなたがフェイスブックやトランプやプーチンを責めるなら、何世紀も前に何百万ものキリスト教徒が自己強化型の神話のバブルの中に閉じこもり、聖書の記述が事実どうかをけっして問おうとはしなかったことや、何百万ものイスラム教徒がクルアーンを疑うことなく信じ込んでいたことを思い出してほしい。何千年にもわたって、人間の社会的ネットワークの中で「ニュース」や「事実」として通ってきたことの多くは、奇跡や天使、魔物、魔女についての物語であり、想像力に富む報告者が奈落の底から直接、生中継したものだ。イヴがヘビに誘惑されたことや、異教徒はみな死ぬと地獄で魂が焼かれることや、宇宙の創造主はバラモンの人が不可触賤民と結婚するのを好まないことを裏づける科学的証拠はいっさいない。それにもかかわらず、何十億もの人がこうした物語を何千年にもわたって信じてきた。フェイクニュースのなかには、いつまでも消えないものもあるのだ。

 私が宗教をフェイクニュースと同一視したため腹を立てた人も多いかもしれないことは承知しているが、それがまさに肝心の点だ。でっち上げの話を一〇〇〇人が一カ月信じたら、それはフェイクニュースだ。だが、その話を一〇億人が一〇〇〇年間信じたら、それは宗教で、信者の感情を害さない(あるいは、怒りを買わない)ために、それを「フェイクニュース」と呼ばないように諭される。とはいえ、私が宗教の有効性や潜在的な善意を否定していないことに注目してほしい。むしろ、その逆だ。良くも悪くも、虚構は人間の持つ道具一式のなかでもとりわけ効果的だ。宗教の教義は、人々をまとめることによって、人間の大規模な協力を可能にする。宗教の教義は人間を鼓舞して、軍隊を組織したり刑務所を設置したりさせるだけでなく、病院や学校や橋も建設させる。アダムとイヴはけっして存在しなかったが、それでもシャルトル大聖堂は美しい。聖書の大半は虚構だろうが、それでも何十億人の人に喜びをもたらすことができるし、慈悲深く、勇敢で、創造的であるようにと、人間を促すことに変わりはないー「ドン・キホーテ」や「戦争と平和」や「ハリー・ポッター」といった、他のフィクションの名作と同じように。

 私が聖書を「ハリー・ポッター」になぞらえたので、またしても機嫌を損ねた人もいるだろう。もしあなたが科学を重んじるキリスト教徒なら、聖書はもともと事実に基づく説明としてではなく、深い叡智を含むたとえ話として意図されていたと主張して、聖書の中の誤りや神話の釈明をするかもしれない。だが、それは「ハリー・ポッター」にも当てはまるのではないか?

 もしあなたがキリスト教原理主義者なら、聖書の言葉は一つ残らず文字どおりの真実だと言い張る可能性が高い。それならば、あなたは正しいと、しばらく仮定しよう。聖書は本当に唯一の真の神の絶対信頼できる言葉だ、と。では、あなたはクルアーンやタルムード、モルモン書、ヴェーダ、アヴェスタ〔訳註ゾロアスター教の教典〕、古代エジプトの「死者の書」はどう考えるのか?こうした文書は、生身の人間が、(あるいはことによると悪魔が)創作した、手の込んだ虚構だと言いたくならないだろう?そして、アウグスゥスやクラウディウスのようなローマの皇帝の神格は、どう見るか?古代ローマの元老院は、人を神に変える力を持っていると主張し、そうして生まれた神々を、帝国の臣民が崇拝することを求めた。それは虚構だったのではないか?実際、自らの口でその虚構を認めた偽りの神の例が、歴史上に少なくとも一つは存在する。前述のように、日本の軍国主義は一九三〇年代から四〇年代前半にかけて、昭和天皇の神格に対する熱狂的な信心を拠り所としていた。日本の敗戦後、天皇は、それが真実でないこと、自分はけっきょく神ではないことを公に宣言した。

20240404 株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」 pp.90~92より抜粋

株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」
pp.90~92より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065209218
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065209219

 一九三〇年、日本は米英主導のロンドン海軍軍縮条約に調印した。また、日米対立の大きなきっかけの一つであった排日移民法についても、移民法は日本人の面子を守る形で修正しようという排日移民法修正運動がアメリカ民間人の間に起こっており、日米関係は安定しているかのように見えた。そして、ついには一九三一年九月一七日に、ワシントンでスティムソン国務長官が出渕勝次駐米大使に、移民法修正への楽観的見通しを語るにまでなっていた。

田中上奏文と満州事変

 ところが翌一八日、満州事変が勃発する。すると、黄禍論を恐れていた米英人は、来るべきものが来たと感じた。彼らがまず想起したのは田中上奏文であった。

 田中上奏文とは、日本の世界征服計画が記された怪文書で、昭和初期に田中義一首相が天皇に宛てた上奏文の形をとっていた。当時すでに他界していた山県有朋が協議に加わっていたり、上奏文が内大臣でなく宮内大臣を通じて奉呈されているとするなど内容的に明らかに偽書であった。しかし、その征服計画において、世界征服にはまず中国を支配すべきであり、中国を支配するにはまず満蒙を征服しなければならないとの記述があったため、満州事変の勃発途ともに想起されたのである。

 日本側が強く偽書であると否定していたため、欧米人の多くはこの文書を信憑性あるものととらえられていなかった。しかし、そこに記されたとおりに日本の世界征服プランが実行に移されているように見える事態が現出したのであった。「ニューヨーク・タイムズ」は、「狂った軍国主義者の夢想」としか見なされてこなかった田中上奏文は、いまや現実に姿を現し、「中国侵略はその第一歩である」との中国政府関係者の発言を報じた。

 一方で、アメリカ政府の満州事変への対応は当初は微温的であった。当初、現地からの情報が少ない中、スティムソン国務長官は、一部の兵による反乱であるとみなしていたし、東京に駐在していたキャメロン・フォーブズ駐日大使などは、偶発的事件ですぐに収まるという日本外務省の説明を信じて、事変勃発二日後に、休暇のためアメリカへ向けて出港している。時の共和党政権は、東アジアに対しては、日本とのビジネス関係を維持しつつ、中国ともその領土保全を前提として友好関係を維持するという、漠然とした政策に終始していた。フーバー大統領は介入に消極的であったため、結局国務省としては、長官名で不承認主義のスティムソン・ドクトリンを送付するに留まった。

 当時、南京に住んでいたパール・バックは、仕事を手伝ってくれていた中国人から、「日本が満州をとったということが何を意味するのかを米英人が理解しないということがどうして可能なのでしょうか。二回目の世界戦争になりますよ」と言われたことを記録している。日本の満州獲得は、これまでの西洋によるアジア抑圧に対して反抗する狼煙を日本があげたのであって、アメリカとの最終戦争を優位に進めるためのものであると、当時の中国人や中国在住の外国人は直感したのである。

 一九二〇年代の日本のアジア主義は無名の国会議員や民間人が主導したものであったが、満州事変以降は政府内部の人間も含めた有力者によって繰り広げられていくことになる。それは、日露戦争以降の黄禍論を否定しようという日本政府の姿勢から大きく転換するものであった。それまでは西洋列強が人種的に国際関係を捉え、合同して日本に対抗するのを避けるため、日本政府は、アジア主義的野心など日本は持っていないと示すことに腐心してきた。それが、自らアジア主義を率先して露にするようになっていくのである。

2024年4月3日水曜日

20240403 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 pp.234-236より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 
pp.234-236より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309227368
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309227368 

 科学には、宗教が下す倫理的な判断を反証することも確証することもできない。だが、事実に関する宗教的な言明については、科学者にもたっぷり言い分がある。「受精後一週間のヒトの胎芽には神経系があるか?胎芽は痛みを感じられるか?」といった、事実に関する疑問に答えるには、聖職者よりも生物学者のほうが適格だ。

 事実をもっとはっきりさせるために、ある歴史的実例を詳しく考察しよう。この例は、宗教のコマーシャルではめったに耳にしないが、当時、途方もなく大きな社会的・政治的影響を及ぼした。中世のヨーロッパでは、ローマ教皇は絶大な政治権力を誇っていた。ヨーロッパのどこで争いが起こっても、教皇はそのたびに問題の決着をつける権限を主張した。その権限の正当性を立証するために、教皇は繰り返しコンスタンティヌス帝の寄進状を挙げ、ヨーロッパの人々の注意を喚起した。この寄進状の物語によれば、三一五年三月三〇日、ローマ皇帝コンスタンティヌスは公式の命令書に署名し、ローマ教皇シルウェステル一世とその後継者たちにローマ帝国西部の永続的な支配権を与えたという。歴代の教皇はこの貴重な文書を保管し、野心的な君主や好戦的な都市や反抗的な農民が敵対の構えを見せたときにはいつも、強力なプロパガンダの道具として利用した。

 中世ヨーロッパの人々は、昔の皇帝の命令にはおおいに敬意を払っており、文書が古いほどその権威を増すと考えていた。彼らはまた、王や皇帝は神の代理人だとも考えていた。コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を異教徒の領域からキリスト教帝国に変えたので、とりわけ崇められていた。だから、当時の都市の議会の要求と、ほかならぬコンスタンティヌス帝が発した命令とが衝突したら、古い文書のほうに従うべきなのは、中世ヨーロッパの人々には明らかだった。したがって、教皇は政治的な抵抗に遭うたびにコンスタンティヌス帝の寄進状を振りかざし、服従を求めた。ただし、いつもうまくいったわけではない。だがコンスタンティヌス帝の寄進状は、教皇のプロパガンダと中世の政治秩序の重要な土台だった。

 コンスタンティヌス帝の寄進状を念入りに調べてみると、この物語が上の表のように三つの別個の要素から成ることがわかる。

 古い皇帝の命令が持つ倫理的な権威は、およそ自明とは言い難い。二一世紀のヨーロッパ人の大半は、現在の人々の願望のほうが、とうの昔に死んだ君主たちの命令に優先すると考えている。とはいえ、この倫理的な論争に科学は参加できない。どんな実験も方程式も、この問題に決着をつけられないからだ。現代の科学者が七〇〇年前にタイムトラベルしても、昔の皇帝たちの命令はいまの政治の議論には無関係であることを、中世のヨーロッパ人に証明できないだろう。

 もっとも、コンスタンティヌス帝の寄進状の物語は、倫理的な判断だけに基づいていたわけではない。そこには、とても具体的な事実に関する言明も含まれており、それは科学にも立証したり反証したりする資格が十分ある。一四四〇前、カトリックの司祭で言語学の先駆者ロレンツォ・ヴァッラが科学的な研究を発表し、コンスタンティヌス帝の寄進状が偽造文書であることを証明した。ヴァッラはその文書の文体や文法や使われている語句を分析した。そして、この文書には四世紀のラテン語では知られていない単語が含まれており、コンスタンティヌス帝の死後およそ四〇〇年を経てから捏造された可能性が非常に高いことを実証した。この文書には、他にも重大な問題がある。そこに記された日付は「コンスタンティヌスが四度目に執政官に、ガリカヌスが初めて執政官を務めた年の三月三〇日」だ。ローマ帝国では毎年二人の執政官が選ばれ、文書では誰が執政官かで年を表すのが習いだった。あいにく、コンスタンティヌス帝が四度目の執政官になったのは三一五年だったのに対して、ガリカヌスが初めて執政官に選ばれたのは三一七年になってからだった。これほど重要な文書が本当にコンスタンティヌス帝の時代に書かれたのなら、これほど明白な誤りが含まれていることはけっしてなかっただろう。トマス・ジェファーソンと同僚たちが、アメリカの独立宣言に「一七七六年七月三四日」と日付を書き込んだようなものだ。

 今日、コンスタンティヌス帝の寄進状は八世紀のいずれかの時点に、教皇の下で捏造されたということで、歴史学者全員の意見が一致している。ヴァッラは古い皇帝の命令の道徳的権威にけっして異議を唱えることはなかったものの、彼の科学的分析は、ヨーロッパ人は教皇に従うべきであるという実際的な指針の効力を間違いなく切り崩した。