2024年4月5日金曜日

20240404 株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」 pp.90~92より抜粋

株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」
pp.90~92より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065209218
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065209219

 一九三〇年、日本は米英主導のロンドン海軍軍縮条約に調印した。また、日米対立の大きなきっかけの一つであった排日移民法についても、移民法は日本人の面子を守る形で修正しようという排日移民法修正運動がアメリカ民間人の間に起こっており、日米関係は安定しているかのように見えた。そして、ついには一九三一年九月一七日に、ワシントンでスティムソン国務長官が出渕勝次駐米大使に、移民法修正への楽観的見通しを語るにまでなっていた。

田中上奏文と満州事変

 ところが翌一八日、満州事変が勃発する。すると、黄禍論を恐れていた米英人は、来るべきものが来たと感じた。彼らがまず想起したのは田中上奏文であった。

 田中上奏文とは、日本の世界征服計画が記された怪文書で、昭和初期に田中義一首相が天皇に宛てた上奏文の形をとっていた。当時すでに他界していた山県有朋が協議に加わっていたり、上奏文が内大臣でなく宮内大臣を通じて奉呈されているとするなど内容的に明らかに偽書であった。しかし、その征服計画において、世界征服にはまず中国を支配すべきであり、中国を支配するにはまず満蒙を征服しなければならないとの記述があったため、満州事変の勃発途ともに想起されたのである。

 日本側が強く偽書であると否定していたため、欧米人の多くはこの文書を信憑性あるものととらえられていなかった。しかし、そこに記されたとおりに日本の世界征服プランが実行に移されているように見える事態が現出したのであった。「ニューヨーク・タイムズ」は、「狂った軍国主義者の夢想」としか見なされてこなかった田中上奏文は、いまや現実に姿を現し、「中国侵略はその第一歩である」との中国政府関係者の発言を報じた。

 一方で、アメリカ政府の満州事変への対応は当初は微温的であった。当初、現地からの情報が少ない中、スティムソン国務長官は、一部の兵による反乱であるとみなしていたし、東京に駐在していたキャメロン・フォーブズ駐日大使などは、偶発的事件ですぐに収まるという日本外務省の説明を信じて、事変勃発二日後に、休暇のためアメリカへ向けて出港している。時の共和党政権は、東アジアに対しては、日本とのビジネス関係を維持しつつ、中国ともその領土保全を前提として友好関係を維持するという、漠然とした政策に終始していた。フーバー大統領は介入に消極的であったため、結局国務省としては、長官名で不承認主義のスティムソン・ドクトリンを送付するに留まった。

 当時、南京に住んでいたパール・バックは、仕事を手伝ってくれていた中国人から、「日本が満州をとったということが何を意味するのかを米英人が理解しないということがどうして可能なのでしょうか。二回目の世界戦争になりますよ」と言われたことを記録している。日本の満州獲得は、これまでの西洋によるアジア抑圧に対して反抗する狼煙を日本があげたのであって、アメリカとの最終戦争を優位に進めるためのものであると、当時の中国人や中国在住の外国人は直感したのである。

 一九二〇年代の日本のアジア主義は無名の国会議員や民間人が主導したものであったが、満州事変以降は政府内部の人間も含めた有力者によって繰り広げられていくことになる。それは、日露戦争以降の黄禍論を否定しようという日本政府の姿勢から大きく転換するものであった。それまでは西洋列強が人種的に国際関係を捉え、合同して日本に対抗するのを避けるため、日本政府は、アジア主義的野心など日本は持っていないと示すことに腐心してきた。それが、自らアジア主義を率先して露にするようになっていくのである。

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