2024年2月20日火曜日

20240220 ブログ記事の着想と心的外傷後ストレス障害の発現経緯について

ここ数日の首都圏は例年に比べて暖かく、多少、調子が狂ってしまいましたが、これは首都圏だけでなく、日本全国でそうした傾向があったようです。また、直近に投稿しました記事「金属材料を基軸とした雑文(試作文章)」は、投稿後、何度か加筆修正を行いましたが、当初思ったより多くの方々に閲覧して頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。さて、当記事にて述べていることは、自らの口語による記憶を基軸としたものであり、記事作成時に、科学的なことについては、ネット検索にて裏を取りましたが、記事全体の流れは、先述のようにあくまでも口語の記憶であり、あるいはこうしたことは、対外的に話すことによって、より強く記憶として保持されるのではないかとも思われます。

しかし、そうした記憶に基づきブログ記事を作成している私としては、ある意味「ネタの鉱脈」とも云える「記憶」は、当然であるのかもしれませんが、日常的に顕在しているわけではありません。これらの記憶は(私の場合)何らかの契機により励起され、顕在化するといった性質があります。

以前に述べたことではありますが、こうした契機とは、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と同様、事前に分かるようなものではなく、突如として訪れるような性質があると云えます。そして、私の場合は、2013年以降、PTSDのような症状に見舞われることが何度かあったため心療内科を受診したことがありました。そしてしばらく経ち、徐々に寛解していったのか、さきのようなことは少なくなりました。しかし同時に面白いことは、この2013年以降から、さきの症状と類似したような経緯で、ある事柄に関する自らの知る知見が突如として意識上に顕現するといったことも生じるようになりました。これは喩えるならば、火山の噴火や河川の奔流のような、いわば「勢い」といったイメージのものであり、これがしばらく続きますと、そこから更なる顕現化を求めるためであるか精神的に苦しくなってきました。それが2014・2015年の頃であり、そうした様子を見かねたのか、これまでに当ブログにて述べました複数の方々からの「何か書いた方が良いよ」というアドヴァイスになったのだと思われます。

そしてそこから、現在に至るまで10日のうち6日以上は当ブロガーにて記事更新を行ってきましたが、それによって「救われた」と実感することは、残念ながら、これまでのところありません。しかし同時に、どうにか8年以上にわたり当ブログを続けることが出来ていますので、影響力の多寡などは考慮せずに、自らのためとして、もうしばらくは継続した方が良いのではないかと思われるのです。

とはいえ、自らのためであっても、実名にて公開する文章を作成することには、今なお、少なからず緊張感があり、あるいは、そうした緊張感を持って文章を作成するための練習となっていたのが、書籍からの引用記事であり、また対話形式の記事であったのだと思われます。

そして、そうした練習・助走期間を経て、前述しました2013年以降からの「ある事柄に関する知見が、突如として意識上に顕現する」を「機に応じた私なりの反応」と、いわばポジティブなものへと変換し、そしてブログ記事作成のため着想としたのが、一連の当ブログでの自らによる記事の多くに当てはまることと云えます・・。

しかし他方で、こうしたことは思いのほかに一般的なことであるようにも思われてきましたが、実際のところはどうなのでしょうか・・?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


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2024年2月18日日曜日

20240218 金属材料を基軸とした雑文(試作文章)

二千数百年前、弥生時代後期の西日本では、鋳造技術を用いて作製された銅矛や銅鐸が、当時の村邑国家群において祭器として用いられてきました。銅矛・銅鐸双方の材料である青銅は、銅と錫の合金であり、そこから二千年以上前の列島西部には、合金を溶かして鋳込んで成型する技術がすでに存在していたことが分かります。

他方、我々が日常用いている火・炎を用いて、合金である青銅を溶かすことは困難ですが、二千年以上前であれば、現代以上に困難であったと思われます。それでも当時既に、その技術自体は存在していたのです。

そのように考えてみますと「当時の人々はどのようにして金属や合金を溶かしていたのだろう?」と思いますが、これに関しても考古学分野の方々は研究されており、現在までに、弥生時代の青銅鋳造遺跡が西日本を中心としていくつか発見・発掘されています。そしてまた、遺跡内の作業所遺構や、そこから分かる集落での立地状況や、そこで出土した青銅片の成分などから、それぞれ遺跡の時代の新旧、あるいは、列島における青銅鋳造技術の伝播の経路などが明らかになります。それによると、鋳造技術は、ユーラシア大陸を東遷し、中国を経て朝鮮半島を南下して、北部九州に至り、そこから東西そして南へと伝播したことが分かります。

そしてその後、数世紀も経たないうちに同じ経路をたどり今度は鉄の加工技術が伝播してきました。つまり、我が国には、さきに青銅の鋳造技術が伝わり、次いで、しばらく経って鉄の加工技術が伝播してきたのです。この様相は、世界史で教わった青銅器時代と鉄器時代との関係(青銅が先、鉄が後)とも通底するものがあり、さらに、その背景には、共通する科学的知見があります。

具体的には、それぞれの金属・合金としての融点・液相点です。これを少し詳説しますと、鉄単体での融点はおよそ千五百度程度であり、そこに炭素が自然に添加された炭素鋼となりますと、千二百度ほどにまで液相点が下がります。対して、銅単体での融点は千九十度であり、そこに錫を混ぜて合金化することにより、溶ける温度(液相点)は千度ほどにまで下がります。つまり、鋳造の材料として青銅を用いるためには、千度以上まで加熱する必要があり、他方の鉄は合金化された炭素鋼で千二百度ほどになります。そして、これがさきに述べました青銅器時代と鉄器時代の時代の前後にある物質の化学的性質です。

こうした物質の化学的性質は、時代で変わることはありません。つまり、現在であっても、あるいは千年、二千年前であっても、青銅の溶ける温度(液相点)は千度ほどであるという性質は変わりはありません。こうしたことは当り前であるのかもしれませんが、人類がそれぞれの金属・合金が溶ける高温の炎を意図的に用いることが出来るようになったのは、人類が誕生した五百万年前と比べると、かなり新しく、せいぜい五千五百年前(紀元前三千五百年)頃でした。

これらの技術が世界各地の文明圏に達するには、さらに数千年を要し、日本列島に青銅の鋳造技術が齎されたのは紀元前三百〜四百年頃とされています。そこから、我が国は、世界の中でも青銅の鋳造技術の伝播は遅い方であったとも云えます。 しかしながら、伝播が遅ければ、その齎された技術水準も低いままに留まり、また発達も遅くなるというわけではありません。そのことは、奈良の大仏様(東大寺盧舎那仏像)を想起すればお分かりになると思います。

そしてまた、物の大小は問わず、こうした技術を用いて作製するものに対するこだわりや熱意に、それを生み出した国や地域の持つ特徴的な性質が反映されると思われるのです。

このことを例を挙げて具体的に述べると、冒頭で挙げた青銅の鋳造技術で作製された銅鐸や銅矛ですが、それらの意匠や形状から、それぞれを生み出した各地域の文化的特性の一面が窺えるといったところになります。

それは前時代である縄文時代の文化の系譜を背景とするものであったり、あるいは、作製物の少し前の時代での朝鮮半島や中国大陸に文化的背景を持つものであったりします。ともあれ、やがてそれらは、次第に混淆して次の時代の文化を生みだす共通の土壌となっていきます。

その意味において銅鐸や銅矛もまた、その一例であり、それらもやがて、その次の時代の精巧な銅鏡や巨大な釣鐘へと進化発展を遂げていく技術的な土壌になっていったと考えられます。 また、こうした進化発展の基礎にあるものが「高温の炎を意図的に用いる技術」であると云えるのですが、さらに、この技術の背景にあるものを考えますと、そこには多くの場合、その国や地域を包括した埋蔵資源を含む自然環境といったものがあると云えます。そしてまた、その環境が青銅や鉄といった金属・合金類の加工の進化の程度を決定するのだと云えます。

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2024年2月15日木曜日

20240215 2140記事に到達して思ったこと、ブログ継続の意味について

昨日の記事投稿によって、総投稿記事数が2140に到達しました。そして、そこからさらに60記事の投稿により、目標としている2200記事に到達します。これは毎日1記事の新規投稿にて2カ月で達することが見込まれますが、この投稿頻度での継続は困難であると思われることから、そこに1カ月を追加した3カ月の期間にて、どうにか達成することが出来ればと考えています。そうしますと、具体的には来る5月半ば頃となりますが、そこからさらに1カ月程度継続しますと当ブログ開始から丸9年になります。

9年間、2日に1回以上は新規での記事投稿をしたことは、自分としても『多少は努力をした』とは云えるのかもしれませんが、私の場合、おそらく、そのような活動を継続していなければ、現在以上に心身がおかしくなっていたのではないかと思われます。そこから、2015年頃私に『何か書いたら良いよ』とアドヴァイスをくださった方々の洞察は、少なくとも間違いではなく、あるいは、そこには普遍的ともいえる『作用』があるのではないかとも思われます。

そういえば、昨年10月以降は本格的に書籍からの引用記事を主として作成してきましたが、これは当ブログ開始当初、自らによる記事の作成が困難であった時期にも多く用いてきたものですが、現在のそれは、ブログ開始当初のそれとは若干異なり、おそらく『引用記事を作成するレジーム』に入っているのではないかと思われます。そして、ある程度の期間それを継続して、そしてまた、自然と次の流れに入っていくのではないかと思われます。とはいえ、そのレジームが変わる、あるいは脱け出すのは、何時になるのかと考えてみますと、明瞭な感覚はないものの、おそらく本格的に春に入り、初夏とも云える丸9年間のブログ継続に至った頃になるのではないかと思われます。

この引用記事の作成は、自らの文章によるものと比べ、創造性をあまり駆動させる必要はないと考えられることから大変ではないようにも思われるのですが、何かしらの視座で時宜に叶ったと云える引用記事の題材を探すためには、当然ながら書籍を読み続ける必要があります。他方で、継続的に何かしら新たな書籍も読み続けてもいるため、自然、読書の種類が増え、読書が嫌いでない私としても、多少億劫に感じることもしばしばあります・・。そのため、一度、昨今流行りのデジタルでなく、書籍デトックスを実行したいと思うこともあるのですが、これも後日、2200記事到達あるいは丸9年の継続に達した時に検討したいと思います。ともあれ、斯様なことを書いていますと、本格的に丸9年の継続も視野に入ってきたことが再認識されてきます。不思議と、記事作成を継続していますと、そのようなことにはあまり意識は向かずに、こうした、いわば我に返っている時に、不図思い起こされるといった感覚があります。しかし、さらに我が事ながら驚かされることは、丸9年の継続が出来たのであれば、さらに1年追加して10年間の継続を目指す『べき』ではないかと、自然に考えてしまうことです・・。おそらく、10年継続したら何かが大きく変わるといったことはなさそうではありますが、それでも興味深く、新たな達成可能性のある挑戦ではあることから、試みた方が良いのではないかと思われます。そして、そうした意識を保持し続けることこそが、冒頭近くにて述べた『心身がおかしく・・』さらには、最近しばしば聞くことがある『中年の危機』からも、(どうにか)私を救ってくれているのではないかとも思われることがあります・・。

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20240214 株式会社平凡社刊 オーガスタス・マウンジー著 安岡昭男訳「薩摩反乱記」 pp.113‐116より抜粋

株式会社平凡社刊 オーガスタス・マウンジー著 安岡昭男訳「薩摩反乱記」pp.113‐116より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582803504
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582803501

 二月七日、衆徒は薩摩の諸郷より、銃器を携え刀を帯びて、鹿児島の城下へおいおい参集す。これよりして、薩摩の国境を鎖し、街道に哨兵を配置し、南方へ旅行する者を検察せしむ。

 同十日、西郷(隆盛)の軍に従わんとする者多く聚集し、わずか二日間に隊伍の編成充分に整頓す。けだしこれは、予め百事用意のありし一證なり。同十四日、賊軍の先鋒鹿児島を発す。翌十五日は、旧暦によれば先年伏見戦争の日に当たり、西郷および薩人、力を尽くして王政恢復を助け将軍の兵を破りし碁年日(一周年)なり。この日、中軍の第一兵四千人、篠原(国幹)これを率して鹿児島の城下を発し、他の分兵四千人は、同十六日に発す。しかして後備軍に千人と大砲十六門を具したる砲兵は、翌十七日の払暁に発し、次に西郷みずから精兵五十人(よりなる護衛隊)率して郷土を出発せり。その総勢一万四千人なり。その内一万二千人は歩兵にして、これを六隊に分かち各々二千人、ことごとく(私学校)党なり。

 ある説に曰く、「西郷出発の時に臨み、多人数集して従軍を請うといえども、私学生徒のほかは誰人にもこれを許さず。その他、日向の城邑飫肥、佐土原の士族は、西郷に統合せんとして既に出陣せし者ありといえども、またこれを許さざりし」という。

 西郷のこの挙動をなすゆえんの意思は、わが企つるところの事業において規則の厳粛なる形状を示し、もって己の企てに抵抗する者なからしめん事を欲せしなり。またかくのごとき著目(考慮)をもって、西郷みずから平和的かつ適法なる申し立てありて上京する事を公示し、またこの出立の趣旨に関係なき他の者と同盟せざる事を公布す。この時西郷は、陸軍大将(この時西郷、名のみ大将の位置にあり)の権を恣にし、近傍の熊本鎮台司令長官に使いを遣わし、「余みずから熊本に到り指揮に及ぶべきに付き、必ず動揺すべからざる事」を告知せり。

 《私学校生徒》は、各自所持の兵器を携え、また出兵の時は、各自貯うるところの金十円すなわり二封度(ポンド)を用意す。生徒はみな、式様、染色を同じくせる日本服を着し、西郷、篠原、桐野の三士は、かつて皇軍において着用せし軍服を着せり。

 鹿児島を出発したる兵は、薩摩の北方に向かい、二つの大道に分かれて行進す。一隊は、肥後の人吉より熊川(球磨川)を渉り八代に達す。他の一隊は、海浜に循い湊および向田等を行進し、また八代路に達し、これより真北に向かい熊本に進む。この両道は、山嶽(山と谷)多く、時に海浜より行進する路は高さ千九百英尺の嶮隘〔の道〕たり。これを越ゆる事ははなはだ困難にして、大砲は担夫をしてこれを運搬せしめたり。

 右の二隊は、八代において出会し、西郷は目算を立てておもえらく、一日十五英里を行進するときは、十二日間には九州の最北下関海峡にある港小倉に達し、それより大陸(本州)に渡り、山陽道の大街道を行進いて京都に達せんと。この西郷の見込みは、すでに一兵の我を支うる者なからん事を信ぜしが故なり。

 二月二十日、賊兵(反徒)は川尻に進む。熊本鎮台兵、これを追討せんとして出発す。賊兵これを破り、勢いに乗じて二十一日、二十二日に、熊本に進入す。熊本は肥後国の首府にして、九州地方においては最大の城邑(鹿児島を除く)なり。その住民は、およそ四万四千人あり。故にはなはだ要衝の地というべし。しかして城は、この邑の一部を成し、官兵の営所となり、日本に最も多き衛城のごとく、幾層の土台を重ね、外面は石をもってこれを蓋い、また深き濠をもってこれを防禦し、この濠は、幅広く、人をして恐怖せしむ。しかのみならず、これより先、旧熊本の大名、なお防禦の術を尽くし、掘割を作りてこれに水門を備え、事あるに臨みてこれを開くときは、近傍の村落は大半水中に沈溺するの方法を設置せり。熊本鎮台兵は、無慮二、三千の兵員にして、城内には営砲十二門を備え、谷(干城)少将、これに将たり。その兵員中には薩摩人あり。これによりて、賊徒の胸中すでに、「鎮台司令長官、もし西郷の命令を拒みてこれに従わざるときは、城内にある薩摩人は必ず城門を開きて我に応ずべし」と思えり。

 しかるに、谷少将は、既に兵備を整頓し、十九日には熊本城近傍の家屋をことごとく焼き、要害の切所を守りて、賊軍大将の告知を肯ぜず。ここにおいて戦端を開くにいたり、谷少将は、賊兵の大勢なるを見て兵を城内に引き上げ、ここに嬰守(籠城)す。賊兵これに乗じて熊本城を囲み、城の要害をもってわが要害となし、邑の周囲に水を灌ぎ、この三面の通路を鎖し、しかして、他の一方すなわち東側に賊兵(一隊)を置きて城兵を防ぎ、〔他の〕諸隊は直ちに北方高瀬に向かい、ここにおいて、賊兵を救わんとして行進せし些少の官兵に出会い、二十二日、これを破りて南ノ関(南関)に退走せしむ。南ノ関は、熊本を隔つる事〔北へ〕およそ二十五英里にして、最も要害の地なり。二月二十五日、西郷みずから官軍二隊の兵と対立せり。


2024年2月14日水曜日

20240213 株式会社岩波書店刊 富永茂樹著「トクヴィル:現代へのまなざし」pp.2‐5より抜粋

株式会社岩波書店刊 富永茂樹著「トクヴィル:現代へのまなざし」pp.2‐5より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 400431268X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4004312680

 アレクシス・ド・トクヴィルには彼の姿を描くいくつかの絵画作品が残っています。そのなかでアンドレ・ジャルダンの手になる伝記をはじめとして、彼をめぐる書物の表紙のデザインにしばしば用いられていて、もっともよく見かけるのはテオドール・シャセリオーの描いた油彩の肖像でしょうか。本書の冒頭をごらんください。これは一八五〇年つまりトクヴィルの亡くなる九年前に制作されたもので、現在ヴェルサイユの美術館に所蔵されています。その次に知られているのは、レオン・ノエルの手になる石版画でしょう。 

 そのいずれも私は現物を見たことはないのですが、この二点を並べると、トクヴィルが後者ではどちらかというと凡庸な顔つきを示しているようであるのにたいして、前者では四〇歳代の半ばに達しているとは思えないほどの若わかしい表情とともに、とりわけ彼の眼の輝きが見る者の注意を惹き、そのまなざしがどこに向けられているのかたいへん気になるところです。画家を、あるいは作品に対峙する者を正面から見据えているようでありながら、本人からして心もち左のほうを向いているとも思えるトクヴィルの視線は、遠く世界の果てにまで到達しているのではないかとさえ考えたくなってきます。

 二〇世紀の終わりから二一世紀のはじめにかけて刊行されたガリマール社のプレイヤード版の著作集では、その第二巻にノエル、第三巻にはシャセリオーの肖像の一部分が使用されていますが、第一巻にはまだ幼児の頃のトクヴィルの顔が現れます。全体としてはまだあどけない表情を残しているけれども、その眼もまた独特の光を放っているようで、この顔つきを眺めていると、彼のまなざしは終生とおして変わることがなかったのではないかという印象が強まります。

 あるいはこの眼の光り具合は、彼が近視であったかもしれないことを想像させます。「政治的に不適切な」いいかたかもしれませんが、近視のかたの眼はふつうの人間のそれよりもずっと美しい。これら三点の肖像に加えてもう一つ、あの風刺画家のオノレ・ドーミエが「政治家さまざま」と題した石版画シリーズのなかでトクヴィルを採りあげています(第四章の扉に出てきます)。

 そこには小さな鼻眼鏡を手にした姿があり、「彼がいつも手にしているこの眼鏡のお蔭で外交問題を明晰に見ることができますように」という文言が添えられているのが大変興味深い。この眼鏡は近視のためのものだったのでしょうか。それともひょっとすると老眼鏡なのでしょうか。

「外交問題」とあることからもわかりますが、これはトクヴィルが一八四九年に外務大臣となった頃の作品です。つまりこのとき彼は四四歳になっています。その年齢で老眼は少し早すると思われるかもしれませんが、同じく四四歳で老眼鏡をかけることになった私には、そちらの可能性も否定はできません。そして早くから老眼鏡を必要とする者には、その以前から遠くにあるものがよく見えていたこともわかります。

 ただし私のようにふつうの者であるなら、その「遠く」というのは物理的な距離にとどまります。ところがトクヴィルの場合は、視線が一方では大西洋の向こう側にまでとどいて、まだ見ぬ世界へと出発する決心をさせ、他方では自身が生れる以前に崩壊し消滅してしまっている、アンシャン・レジームつまりフランス革命の以前の社会の解剖へとも導きます。空間的ばかりではなく時間的な隔たりをも乗り越えて、なにごとかを見つめるまなざしなのです。

 トクヴィルの眼の光はさらに、ある種の悲哀と諦念を帯びているようにも思えます。石版画の彼の表情を凡庸と形容してしまいましたが、しかしここからも社会にたいする無関心あるいは距離を感じることができないわけではない。いや、同時代のアメリカ社会とアンシャン・レジームのフランスの社会を詳細に記述し分析した彼が、社会についてただ無関心であったはずはけっしてなく、なにか思案げにいささか左のほうへ流れているのです。

 この視線の流れが、主著の「アメリカのデモクラシー」(以下「デモクラシー」と記します)や「アンシャン・レジームとフランス革命」(同じく「アンシャン・レジーム」と記します)の文体などから受け取ることのできる、どこか人間と社会の深い部分を見てしまったトクヴィルの悲しみに近い感情を思い出させてしまいます。自身もふくめて「デモクラシー」と彼が名づける社会を生きる人間についての洞察力についてもいうなら、彼のまなざしの向かう「遠さ」には「深さ」も加えるべきなのかもしれません。

2024年2月12日月曜日

20240212 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」 pp.82-85より抜粋

中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」
pp.82-85より抜粋
ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

茶と同時に、中国から磁器が輸入された。イギリス東インド会社の研究で知られるロンドン大学のチョウドリ博士はつぎのようにのべている。「十七、八世紀における中国磁器の輸入は、ヨーロッパにおけるティ、コーヒー、チョコレートの消費と関連して出現してきた新しい社会習慣の、文化的美的側面を代表している。・・・中国陶磁器は藁で包むと、臭いがせず、したがってティといっしょに選ぶには、理想的な補助的貨物であった。磁器をつめ込んだ茶の包装箱は、ひどく重量があり、船に必要なバラストとして積み込まれたのである」

 中国磁器の名は、すでに十四、五世紀に、ヨーロッパ諸国の諸王族の調度控えなどに現れていたといわれるが、十六世紀以降、西欧諸国の東アジア進出につれて、中国磁器のヨーロッパへ輸出されるものが、ようやく莫大な数にのぼっていった。十七世紀中頃から十八世紀中頃にいたる時代は磁器輸入のピークをなし、当時のヨーロッパにおける中国磁器の流行はすさまじく、中国磁器ブームにのって、日本からも有田の染付や柿右衛門の赤絵がオランダの手をへて大量にヨーロッパへ輸出された。

 中国の磁器生産の中心はいうまでもなく景徳鎮で、そこの窯からつくり出された芸術の香り高い名品が、「世界各地に伝播して異常なる賞賛を博し」つつあった。(ダントルコール、小林市郎訳注「中国陶瓷見聞録」東洋文庫)。ティやチョコレートの舶来飲料を飲むものは、高価な芸術品であった中国製のティ・ポットや茶碗などを使うのが当時のナウな風俗であった。ヨーロッパは食事文化のみならず、磁器文化においても、中国や日本の前に頭を下げざるをえなかったのである。

 中国磁器は、はじめバンタムで中国船から買ったものがオランダをへてヨーロッパへ輸入されたものが多かったが、イギリス東インド会社は一七一七年以後、広東をつうじて盛んに磁器買付けを行った。イギリスは、たとえば把手のついたチョコレート茶碗、うけ皿と組みになった紅茶茶碗、ティ・ポット、ミルク入れ、砂糖入れといったものを特別に注文して作らせた。また多くの皿には日本風の飾り絵をデザインするように注文した。

 こうしたヨーロッパ人の東洋文化への傾倒はふつう東洋趣味として片づけられているが、たんなる美術史上の東洋趣味という以上の重要な意味をもっていたのである。というのは、東洋趣味はオランダ、フランス、イギリスなど十七世紀から十八世紀はじめにかけてのヨーロッパ諸国に広くみられたけれども、そのなかで茶を選択したのはイギリスであった。茶とほぼ同時に入ってきたコーヒーにはアラビア文化の背景があったにしても、十七世紀のヨーロッパ人にとって、コーヒーはもはや神秘的な飲み物ではなかった。またチョコレートについては、ヨーロッパ人の優越感をかき立てるものでこそあれ、その文化的背景は問題にしなくてよかった。ところが、東洋文化のシンボルであった茶はコーヒーやチョコレートに比べると、はるかに高いランクを占めていたばかりか、西洋人に強いコンプレックスを抱かせるものであった。とくにコーヒーにおいてオランダに敗れたイギリスが、風土的条件に適していたこともあって茶を選択しなければならなかったことが、中国へのコンプレックスとなり、それがインパクトとなって逆に文化的・経済的・政治的シンボルへとイギリスをかき立てることになる。このようにしてイギリス近代史が形成されてゆく。

2024年2月11日日曜日

20240211 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 山上正太郎著「第一次世界大戦」 pp.18-20より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 山上正太郎著「第一次世界大戦」
pp.18-20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4062919761
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062919760

 オーストリアとセルビアのバルカン半島をめぐる勢力争いは、二〇世紀初頭にさかのぼる。元来、オスマン・トルコ帝国領であったボスニア地方自治体が、トルコの弱体化に乗じて、一九〇八年、この地に対するセルビアの野心を押さえて、オーストリアによって併合されたものである。同じくセルビアが抱くアルバニアからアドリア海進出の野心は、一九一三年、同じくオーストリアによって阻止された。

 当時、スラヴ民族の国であるセルビアには大セルビア主義と称して、バルカンにおいて自国を強国たらしめようとする民族主義が高揚していた。ところがオーストリアにはスラヴをはじめ、多様な民族が同居している。隣国セルビアからの民族運動の高まりは、国内の諸民族を刺激して統治を乱すものであった。セルビア側からすれな。オーストリア帝国の専制政治による民族主義の弾圧である。フランツ・フェルディナンドはこのオーストリア専制主義のいわば象徴として、暗殺の対象となった。

 ところでスラヴ民族主義のもとに勢力拡大をはかるロシア帝国が連想されよう。当然、ロシアはセルビアを支持していたが、それはロシア自体の勢力をバルカン方面に伸張させるためである。前述のように一九〇八年と一三年、二度にわたってセルビアがオーストリアに屈したとき、前者を援助できなかった無力さは、ロシアの国威を傷つけずにはすまなかった。いま、またもセルビアを見棄てるならば、さらに威信の失墜であるともに、ロシアの南進にとっても打撃である。ここでオーストリアのセルビアに対する強硬措置から戦争が起こり、そしてオーストリアが勝利を得れば、バルカンの勢力分布は変動して、ロシアに不利となるであろう。ロシア帝国主義にとって南進、すなわちバルカンからトルコのボスポラス、ダーダネルス両海峡への進出は命運を賭するものであった。

 オーストリアを支持し、年来、軍事同盟をさえ結んでいた国はドイツ帝国である。ドイツはあの汎ゲルマン主義によって、東ヨーロッパからバルカン、そしてトルコ、西アジアをめざしていた。それはドイツ帝国主義の東方への野望であり、やがてヒトラーの侵略主義に組みこまれるものである。このドイツとオーストリアとの軍事同盟の一つ、いわゆる三国同盟(一八八二年成立)にはイタリア王国が属していた。しかしイタリアの動向には信がおけず、それだけにドイツ、オーストリアはゲルマン民族主義のもと、同盟国として緊密な関係を保たねばならなかった。

 ドイツに依存しているオーストリアは、セルビアに強硬措置を決意したとき、この同盟国ドイツの全面的支持を求めた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、首相ベートマン=ホルヴォークはためらいもなく支持を約したのみならず、機を逃さず、強硬手段に訴えることを促すほどの積極性を示した。さらにウィーン駐在のドイツ大使は、連日のようにオーストリア外務省に出向き、セルビアに強硬手段をとるように圧力をかけた。

 ドイツはオーストリア対セルビアの戦いが局地戦にとどまるにこしたことはないが、セルビア側にロシア、さらにフランスが加わったとしても、二、三年先はともかく、いまならば軍事力で成算ありと自負していた。ロシア、フランスとの戦いが不可避であれば、両国の軍備が整う前に、という予防戦争の気配もあった。

 一九世紀末以来、独墺伊三国同盟と対立していたのがロシア、フランス共和国の露仏同盟(一八九四年成立)である。一八七一年、プロシアを中心としてドイツ帝国を成立させるべきいわゆるドイツ統一戦争のとき、このプロシアはその統一のため、フランスに戦勝する必要があり、これを果たした「復讐」を期しているであろうフランスを孤立化させておきたい統一後のドイツ外向は、いまや露仏接近のために破綻したといえよう。こうして独墺の連合勢力とこれに対する露仏の軍事同盟によって、ヨーロッパ大陸の列強は二分されることとなった。

 そして「光栄ある孤立」を誇っていた植民地帝国イギリスも、諸国との競合が高まるうちに外交政策の変更を迫られたのである。