2024年2月15日木曜日

20240214 株式会社平凡社刊 オーガスタス・マウンジー著 安岡昭男訳「薩摩反乱記」 pp.113‐116より抜粋

株式会社平凡社刊 オーガスタス・マウンジー著 安岡昭男訳「薩摩反乱記」pp.113‐116より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582803504
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582803501

 二月七日、衆徒は薩摩の諸郷より、銃器を携え刀を帯びて、鹿児島の城下へおいおい参集す。これよりして、薩摩の国境を鎖し、街道に哨兵を配置し、南方へ旅行する者を検察せしむ。

 同十日、西郷(隆盛)の軍に従わんとする者多く聚集し、わずか二日間に隊伍の編成充分に整頓す。けだしこれは、予め百事用意のありし一證なり。同十四日、賊軍の先鋒鹿児島を発す。翌十五日は、旧暦によれば先年伏見戦争の日に当たり、西郷および薩人、力を尽くして王政恢復を助け将軍の兵を破りし碁年日(一周年)なり。この日、中軍の第一兵四千人、篠原(国幹)これを率して鹿児島の城下を発し、他の分兵四千人は、同十六日に発す。しかして後備軍に千人と大砲十六門を具したる砲兵は、翌十七日の払暁に発し、次に西郷みずから精兵五十人(よりなる護衛隊)率して郷土を出発せり。その総勢一万四千人なり。その内一万二千人は歩兵にして、これを六隊に分かち各々二千人、ことごとく(私学校)党なり。

 ある説に曰く、「西郷出発の時に臨み、多人数集して従軍を請うといえども、私学生徒のほかは誰人にもこれを許さず。その他、日向の城邑飫肥、佐土原の士族は、西郷に統合せんとして既に出陣せし者ありといえども、またこれを許さざりし」という。

 西郷のこの挙動をなすゆえんの意思は、わが企つるところの事業において規則の厳粛なる形状を示し、もって己の企てに抵抗する者なからしめん事を欲せしなり。またかくのごとき著目(考慮)をもって、西郷みずから平和的かつ適法なる申し立てありて上京する事を公示し、またこの出立の趣旨に関係なき他の者と同盟せざる事を公布す。この時西郷は、陸軍大将(この時西郷、名のみ大将の位置にあり)の権を恣にし、近傍の熊本鎮台司令長官に使いを遣わし、「余みずから熊本に到り指揮に及ぶべきに付き、必ず動揺すべからざる事」を告知せり。

 《私学校生徒》は、各自所持の兵器を携え、また出兵の時は、各自貯うるところの金十円すなわり二封度(ポンド)を用意す。生徒はみな、式様、染色を同じくせる日本服を着し、西郷、篠原、桐野の三士は、かつて皇軍において着用せし軍服を着せり。

 鹿児島を出発したる兵は、薩摩の北方に向かい、二つの大道に分かれて行進す。一隊は、肥後の人吉より熊川(球磨川)を渉り八代に達す。他の一隊は、海浜に循い湊および向田等を行進し、また八代路に達し、これより真北に向かい熊本に進む。この両道は、山嶽(山と谷)多く、時に海浜より行進する路は高さ千九百英尺の嶮隘〔の道〕たり。これを越ゆる事ははなはだ困難にして、大砲は担夫をしてこれを運搬せしめたり。

 右の二隊は、八代において出会し、西郷は目算を立てておもえらく、一日十五英里を行進するときは、十二日間には九州の最北下関海峡にある港小倉に達し、それより大陸(本州)に渡り、山陽道の大街道を行進いて京都に達せんと。この西郷の見込みは、すでに一兵の我を支うる者なからん事を信ぜしが故なり。

 二月二十日、賊兵(反徒)は川尻に進む。熊本鎮台兵、これを追討せんとして出発す。賊兵これを破り、勢いに乗じて二十一日、二十二日に、熊本に進入す。熊本は肥後国の首府にして、九州地方においては最大の城邑(鹿児島を除く)なり。その住民は、およそ四万四千人あり。故にはなはだ要衝の地というべし。しかして城は、この邑の一部を成し、官兵の営所となり、日本に最も多き衛城のごとく、幾層の土台を重ね、外面は石をもってこれを蓋い、また深き濠をもってこれを防禦し、この濠は、幅広く、人をして恐怖せしむ。しかのみならず、これより先、旧熊本の大名、なお防禦の術を尽くし、掘割を作りてこれに水門を備え、事あるに臨みてこれを開くときは、近傍の村落は大半水中に沈溺するの方法を設置せり。熊本鎮台兵は、無慮二、三千の兵員にして、城内には営砲十二門を備え、谷(干城)少将、これに将たり。その兵員中には薩摩人あり。これによりて、賊徒の胸中すでに、「鎮台司令長官、もし西郷の命令を拒みてこれに従わざるときは、城内にある薩摩人は必ず城門を開きて我に応ずべし」と思えり。

 しかるに、谷少将は、既に兵備を整頓し、十九日には熊本城近傍の家屋をことごとく焼き、要害の切所を守りて、賊軍大将の告知を肯ぜず。ここにおいて戦端を開くにいたり、谷少将は、賊兵の大勢なるを見て兵を城内に引き上げ、ここに嬰守(籠城)す。賊兵これに乗じて熊本城を囲み、城の要害をもってわが要害となし、邑の周囲に水を灌ぎ、この三面の通路を鎖し、しかして、他の一方すなわち東側に賊兵(一隊)を置きて城兵を防ぎ、〔他の〕諸隊は直ちに北方高瀬に向かい、ここにおいて、賊兵を救わんとして行進せし些少の官兵に出会い、二十二日、これを破りて南ノ関(南関)に退走せしむ。南ノ関は、熊本を隔つる事〔北へ〕およそ二十五英里にして、最も要害の地なり。二月二十五日、西郷みずから官軍二隊の兵と対立せり。


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