2024年2月3日土曜日

20240203 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 吉田敦彦著「日本神話の源流」pp.180‐185より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 吉田敦彦著「日本神話の源流」pp.180‐185より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061598201
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-406159820

 日本神話との特異な類似に、われわれが注目したもう一つのギリシャ神話は、オルペウスの冥府行きを主題とするものであった。ナルト叙事詩の中には、われわれが前にオルペウス型神話に与えた「死んだ妻を上界に戻すため、冥府を訪問した男の冒険を主題とする話」という定義と正確に合致する話は見られぬようである。しかしながら、オルペウス神話の影響がイラン系遊牧民のあいだにまで強くおよんでいた痕跡は、この叙事詩伝説中につぎのような形で、明らかにみて取れると思われるのである。

 ナルト叙事詩中には、英雄の冥府訪問を主題とする二篇の説話があり、その主人公はいずれもナルトのソスランである。一方の話では、ソスランは彼が遠征に出かけた留守のあいだに、ナルトたちによって冥府に投げこまれた母のサタナを救出するために死者の国に赴き、冥府の王バラステュルの許可を得て、母を上界に連れ帰ることに成功したとされている。もう一方の話では、彼はオルペウスやイザナギと同様、冥府に亡妻を訪問したとされているが、この時のソスランの冥府訪問の目的は、死んだ妻を生き返らせることではなく、太陽の娘と結婚するため、亡妻の助けを借りることであった。

 しかしながら、この話には、主人公が冥府で与えられた禁令を守らなかったために、不幸な目に遭ったという、オルペウスとイザナギの話に共通する、前述した禁忌の話根とよく似たモチーフが含まれている。

 ソスランは、冥府を出発する前に亡妻から、帰途になにを見ようとも、けっしてそれに手を触れぬようにと、注意された。彼は、最初のうちはこの注意を守って、まず道の上に黄金の山を、つぎに黄金のきつねの尻尾を見ても、それらに眼もくれず通り過ぎた。しかし最後に古ぼけた帽子を見つけると、「これまでどんな宝物にも手を触れずにきたのだから、こんなつまらぬ物の一つぐらい拾っても何ということもあるまい。こんな古帽子でも家に持ち帰って女たちにやれば、石臼を磨く雑巾の役ぐらいにはたつだろう」

 とつぶやき、拾い上げて帯のあいだに挟んだ。

 彼はそのまま道を急いだが、ナルトの村の近くまでくると、疲れて一休みすることにした。そして馬を木につなぎ、鞍を外してやると、彼は突然気まぐれを起こし、この愛馬に向かって、「お前の急所はどこか、すぐにいえ、いわぬと痛い目に遭わすぞ」

 といって問いただしはじめた。馬は最初はなかなか答えようとしなかったが、ソスランが怒って激しく打ったために、ついにしぶしぶ口を開き、「私を殺す唯一の方法は、蹄の裏側を下から上へ突き通すことです。それ以外のやり方では、わたしを殺すことは絶対にできません。ソスランよ、ではあなたの急所はいったいどこにあるのですか」といった。ソスランが、「わたしの身体はすべて鋼鉄だが、ただ膝の部分だけが普通の肉でできている。だからパルセグの車輪がひざに当たれば私は死ぬ。それ以外の方法ではわたしを殺すことは絶対にできない」と答えると、馬は、「神があなたの過失を許したまうように。あなたは、わたしとあなたを破滅させたのです。あなたがさっき拾われた帽子が、今どこにあるか探してごらんなさい。あれはゲテグの息子の、ずる賢いシュルドンだったのです」といった。

 ソスランはあわてて帯のあいだをあらためてみたが、いわれたとおり、古帽子はいつのまにかなくなっていた。こうして彼は、冥府で与えられた亡妻の注意を最後まで守らなかったために、変身して彼の帰りを待ち伏せていた。ずるいシュルドンに、自分と自分の馬の弱点を知られてしまう破目に陥ったのである。そしてこのことは、結局彼の死の原因となる。

 ここで問題にしているソスランの冥府訪問の話に関して、われわれの注意をひくもう一つの点は、主人公のソスランが、死者の国に亡妻を訪ねるというオルペウス型に近いモチーフを含むことの話の中でだけ、例外的に、ギリシャ神話のオルペウスを髣髴させるような、霊妙な魔力をもつ音楽の奏者として、再度にわたち描写されていることである。

 ソスランのこの冥府訪問の目的は、前述したように、太陽の娘と結婚するための助けを亡妻に求めることであった。

 彼はあるとき、一頭の不思議な鹿の跡を追っていくうちに、太陽の娘の住む城に行き着き、そこで自分がこの美女の婚約者として定められた人物であることが知らされた。しかしそれと同時に、彼は結婚の条件として、いくつかの難題を課された。そしてその一つの、冥府に生える樹の葉を獲得するという課題を果たすために彼は亡妻の助けを得ようとして、死者の国を訪問したとされている。

 ところで、この太陽の娘の住居に足を踏みいれたときに、ソスランはフェンデュルという二弦の楽器を奏で、妙なる楽の音を鳴り響かせた。するとこの音楽に誘われて、野の獣や空の鳥が、彼の周囲に集まって演奏に耳を傾け、城の壁まで踊り出し、遠くの山々もこだまを返して伴奏をつとめたと物語られている。

 また太陽の娘との結婚の条件として、彼に要求されたことの中には、百頭の鹿と、百頭の野生の山羊と、百頭のその他の野獣と、すべてで三百頭の獣を集めて引き渡しという課題が含まれていたが、これを果たすために、彼は冥府から帰還した後に、野獣の主のエフサティから笛を借り受け、これを吹き鳴らすと、その音楽につられて三百頭の獣が、たちまちのうちに集まったといわれる。

 冥府訪問を中間に挟むこの二つの場面でのソスランは、明らかに霊妙な音楽の力で、野獣や木石をも感動させたといわれる、ギリシャ神話のオルペウスと酷似している。絃楽器をかき鳴らして、鳥獣や山にまで反応を起こさせたという最初の場面におけるこの類似の度合いは、ことにいちじるしいといえよう。

 このように、ナルト叙事詩のソスラン伝説の中には、その原型であったステップ地域のイラン系遊牧民の古神話に流入していたと考えられる、ギリシャのオルペウス神話の影響の痕跡が、かなりの変容を蒙りながらも、種々の形で明瞭に保存されていると思われるのである。

2024年2月2日金曜日

20240201 株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」 pp.17-18より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.17-18より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309207529
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309207520

 科学とは、この時代を生きる愚か者が、前世代の天才が到達した地点を越えることを可能にするあらゆる訓練のことである。この引用句とベルナルドゥスが言ったとされる文言のあいだには、八世紀の時間が経過しており、そのあいだに何かが起った、つまり、哲学的および神学的思想における父と子の関係について言及していた言い回しが、科学の進歩という性格を示す言い回しへと変化したのである。

 その起源である中世にこの箴言が人気だったのは、前世代の紛争を、一見変革的ではない方法で解決することに役立っていたからだ。古人はまちがいなくわたしたちよりも巨大だった。だがわたしたちは、小人ではあっても、巨人の肩に座ることで、すなわち、かれらの知恵を利用することで、かれらよりもよく見ることができる。この箴言は、元来慎ましいものであったのだろうか、それとも傲慢なものだったのだろうか。はたしてその意味するところは、わたしたちは古人よりもよく知っているが、それはかれらがわたしたちに教えてくれたことだ、ということだったのか、それとも、古人に負うところはあるにしても、わたしたちはかれらよりかなり多くのことを知っている。ということだったのか。

 世界はしだいに年をとる。というのが、中世文化のなかでよく扱われるテーマのひとつだったことを考えると、ベルナルドゥスの箴言はこう捉えられるのではないか。〈世界は年をとる〉mundus senescit〉からこそ、わたしたち若い世代は古人より年をとる、しかし、古人のおかげでわたしたちは、かれらの成し遂げられなかったことを理解したり、実際に云ったりすることができる。シャルトルのベルナルドゥスは、この箴言を文法の議論の分野で提案した。そこでは、古人の文体の知識とその模倣という概念が鍵であった。だが、証人であるソールズベリーのヨハネスによれば、ベルナルドゥスは古人たちを卑屈に真似する師弟たちを叱ったという。問題は、古人のように書くことではなく、かれらと同じくらい上手に書くことを学ぶことであり、わたしたちが古人に着想を得たように、後世の人たちがわたしたちから着想を得るようでなくてはならない。と言っていたそうである。したがって、今日のわたしたちの解釈と同じではないにせよ、オリジナリティや革新しようという勇気に対するよびかけが、ベルナルドゥスの箴言にはあったわけだ。 

 箴言は「わたしたちは古人より遠くが見える」と言っていた。この隠喩は明らかに空間的なもので、地平線へむかう歩みを意識している。歴史を未来へとむかう前進的な運動として、万物創造から贖罪へ、贖罪からキリストの復活の勝利への歩みとする見方は、カトリック教会の教父たちによる発明だったということを、わたしたちは忘れてはならない。したがって、好むと好まざるとにかかわらず、キリスト教が存在しなければ(ユダヤのメシア信仰が背後にあったとしても)、ヘーゲルもマルクスも、レオパルディが懐疑的に「偉大で進歩的な未来」とよんだものについて議論することはできなかったわけである。

2024年1月31日水曜日

20240131 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.21-25より抜粋

岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」
pp.21-25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003313313
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003313312

石炭は漢頃からぼつぼつ中国で使われ、石炭という文字も、隋頃から現れているようで、宋頃になると一般に人民の間にも使われ、官営の石炭販売場も出来ております。この話は唐の末頃でありますから珍しそうに炭と言うているので当時はまだ余り盛んには用いられていなかったことが分かります。そこで李使君は坊さんの注意に従って飯を炊く時に炭を使い出来る限りの準備を整えて宴を張った。いよいよ息子たちが客にやって来て、それに御馳走を薦めるけれども、一向食べようとしない。ちょっと箸を着けてみるが、あたかも針を飲むが如く兄弟たがいに顔を見合せてやめてしまう。折角お膳を沢山並べても何も食べない。最後に飯が出た。飯ならばどこでも同じ米と水から出来ていて、わざわざ炭で炊いたものであるからきっと食べてくれるだろうと思ったところ、これも一口食べて吐き出した様子である。折角お客を歓待したつもりであったところが、少しもお気に召さなかったので、李使君非常に意気阻喪してしまった。後で坊さんに、一体どういう点が客の気に入らなかったのか聞いてもらった。坊さんが再び貴族の子弟の所に行って「あなた方は折角招待されて行ったのに何も御意に召すものがなかったのは一体どうしたのですか」と聞くと、その子供たちは「料理がその法を得ないからだ」と答えた。そこで更に坊さんが「なるほどほかの料理は法を得なかったかもしれないが、石炭で炊いた飯はどこでも同じではありませぬか」と言うと、「いやその石炭にも法がある。炭を使う時には一度焼いて煙の気を取ってしまってから料理に使うべきものである、ところが李使君の家のはその手続を履まなかったから、飯が煙臭くて食えなかった」と言うたそうであります。

 この話は別に贅沢なのに感心する訳ではありませぬが、その手続は大いに同感を表して宜しい。とにかく石炭のような火力の強いもので、しかも特にその煙気を去ってコークスにして料理に使うというのであるかた、理窟が通っております。その前の時代のように、蝋で炊くとかあるいは酒の甕を人に抱かせるとか、そういう不合理なところがない。この火力ということが、今の話に出た唐の末頃から宋にかけて非常に進歩した。石炭なので高熱を出すので、鉄ではすぐ穴があくから銅の銅釜を使い、銅禁などいう禁令を出して銭を鋳潰して器に造ることを禁じている。また単に強い火力を出すというだけではない。強い火力だけでは物は十分に処理されない。強い上に、大きな火力を出し、更に長く続くことを要する。しかもそれが際限なしではなく適当に調節出来ねばならない。その思うままに火力を支配するということがこの時代の行われたので、更に火力を通じて、あらゆる物に対する人間の支配が確立し、一般文明がずっと進歩した、中華料理がうまくなったのもおそらくこの頃からであろうと思います。奴隷に甕を抱かせないでも、立派に飲める酒が醸されるようになった。この時代は近世中国文明と共に中華料理の黎明期でもあります。それから陶磁器は世界で最初に中国で、宋の時代に完成された。現今世界の陶磁器の祖先は宋の陶磁であると言っても宜しい位でありまして、宋代に陶器が堅牢に優美に、単に実用品のみならず立派な工芸品としての価値を有するに至ったのであります。それが外国に伝わって西洋の陶器にも日本の陶器にもなった。小にしては焼栗、冬になると日本でもやるいわゆる天津甘栗ですが、あの焼栗も既に宋代に流行して、当時の都、開封に、名物として知られた焼栗屋があったということが「老額庵筆記」に見えております。小は焼栗から大は陶器の製造に至るまで、色々な方面に、火力の支配、火力の応用ということが行われております。単にそればかりでなく、当時の一般の美術工芸、あらゆる方面にわたって技術がこれがために非常に進歩しました。

 その要素を考えてみますと、およそ二つの方面があると思います。

 一つは当時、科学的知識が非常に進歩した。火力などもその一つの現れであります。科学的知識といいますと、要するに、物の性質をよく究めて、この物はこういう性質を持っている。彼の物はこういう性質を持っている、その性質と性質を組み合わせて人間に必要な物を造って行く、その土台になる物の持っている長所を究める。それが結局科学的知識と言うて宜しいと思いますが、その一つ一つの物に対して、どういう性質を持っているかを研究し、そうしてその性質を生かして使う。こういうことが宋の頃に行われたのであります。

2024年1月30日火曜日

20240129 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.98-100より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

下からの議論の積み上げは許されるが、上が決断を下したら、全党一丸となってその決定に従い、分派活動は禁じられるというのが「民主集中制」です。レーニンが作ろうとしたのは、決定を下した後は上意下達を鉄則とする一枚岩の政党でした。彼はロシアの後発性を自覚し、「西欧の民主主義国とは違う。言論の自由もない。議会もお飾りのようで力がない。普通のやり方では変革できない」と主張します。そして、「ツァ―リズムを倒すためには、強力な戦闘力を持った共産党を作る以外に方法はない」と説きました。当然のことながら、彼の議論に対して「そんなものを造ったら独裁制になってしまう」という批判が、同時代のマルクス主義者から出ました。

 しかし、レーニンの主張は説得力があり、マルクス・レーニン主義は共産主義が進む基本路線になりました。ところが厄介なのは、専制体制をなくしても民主主義になるわけではないのです。困ったことに、敵を効果的にやっつけるためには自分が戦っている相手と似る傾向があり、専制体制を潰すための組織は自らも専制的になりました。この点では、日本のように、戦前の軍国主義体制をGHQのような赤の他人に潰してもらった方がうまくいくのかもしれません。「タナボタ主義の哲学」とでも言いましょうか、そのプロセスはされおき、結果は上々でした。敵と対峙すると相手に似てくるのは冷戦期にも見られ、アメリカがソ連と似てしまったのもその一例でしょう。

 同じく共産革命が起こった中国にも共通していますが、何百年どころか二〇〇〇年も専制君主支配にあった国では革命が成功しても民主主義は根付かないという説明もあります。ただし、ロシアの場合、十九世紀末に急速な工業化を成し遂げていたという見逃せない事実もあります。 

 話は脇道にそれますが、「ロシア」と呼ぶか、「ソ連」と呼ぶかにも議論がありまして、一昔前には「ロシア」と言うと、「それは祖連邦である。ロシアとはなんのかかわりもない」と叱られたものです。当時、いかにマルクス主義に威光があったかを示していますが、馬鹿な話で、ロシアと言えば話は簡単だったのです。中国も共産主義国だから「共中」でもいいようなものですが中国と言わなきゃいけない。とやかく呼称にうるさいのは、精神的になにか抑圧的なものがある証拠なのでしょう。

 十九世紀後半から二十世紀の初め、日本とロシアの工業化の進み具合はほぼ同じでした。日本は明治維新から一八九〇年までの二五年間で労働者が倍増しました。その後の一〇年も倍増していますから、結局、工業労働人口は四倍になります。

 さらに忘れてはいけないのは、日露戦争に負けてから第一次世界大戦まで、ロシアが急テンポで工業化を進めたことです。ひょっとすると、そのスピードは日本より速かったかもしれません。その時代、無用の対外的冒険主義をやめて平和に徹したのがよかったのでしょう。

 ただし、急速な発展は社会の矛盾を大きくします。さらに、よせばいいのに、帝政ロシアは第一次世界大戦に参戦します。それがなければ、ロシア経済はさらに発展し、二〇年もすれば、一度は敗れた日本を完全に打ち負かす経済力をつけていたかもしれません。ところが、「バルカンは自分の庭である」、「兄弟はほっておけない」と、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻が暗殺されたサラエボ事件後、同じスラブ人のセルビアを支援しました。国に挙げての総力戦でロシア経済はひどく疲弊し、国内では革命派と反革命派が争いました。革命の後の内戦には外国が介入し、一九一四年から二〇年までの期間、経済は二、三〇年分後退したと言ってよいえでょう。そのため、ソ連体制に移行した後、共産主義政権は大急ぎで国を立て直さなければいけませんでした。そこで推し進められたのが、強引な工業化だったのです。

2024年1月29日月曜日

20240128 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

歴史的にはナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古(レストレーション)の時代のヨーロッパには18世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現れたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族主義(principle of nationality; nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合さねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基盤を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的に更新的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を荷った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮定された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿していた。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放運動の成功が帝国内のこれらの集団を刺戟し、彼らの中における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存立自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのではないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭けをしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸のつづく限りこれ(革命)と闘うっことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。

 イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生まれたブリトン人」(freeborn Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勢となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

2024年1月26日金曜日

20240126 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

 クリミア戦争はナポレオン戦争につづく世界的規模での大戦争となった。ロシア帝国の北太平洋海軍拠点カムチャッカ半島ペテロパヴロフスク港を攻略するため、英国の太平洋艦隊(当時、東印度艦隊の守備範囲と区分されていた)四艦は仏艦三艦とともに一八五四年五月一七日、南米ペルーのカリャオ港を出港、七月一七日ハワイに寄港した後、同月二五日にはカムチャッカ近海に達し、八月三〇日、ぺ港に入港して猛烈な砲撃を開始した。しかしロシア側の守備は堅固で強力に応戦し、翌三一日、英国のプライス司令長官は自殺、九月一日と五日、二度にわたり海兵隊を上陸させて攻略を試みたが、いずれも失敗し、八日英仏艦隊は撤退を余儀なくさせられたのである。

 しかし、英仏艦隊のこのような攻撃が繰りかえされるならば長期にペ港は維持できないとも、ロシア側には明らかとなった。ロシア軍は一八五五年四月同港を撤退(カラフトのクシュンコタンに兵営を築いていたロシア兵も攻撃に備え同年六月に撤退する)、このことは同時にアリョーシャン列島とロシア領アラスカの維持が不可能となったことも意味したのである。

 この年五月二〇日、英艦九艘、仏艦五艘の連合艦隊がペ港攻略のため再入港するが敵兵は皆無、連合艦隊はアラスカに向かうこととなる。

 このペ港の壮烈な攻防戦はロシアの極東戦略の転換点となった。北米大陸進出の方向性が断たれ、それにかわり、清国領内を流れるアムール河を下って太平洋に進出し、サハリン島全域とアムール河以北及び後年沿海州と命名されるアムール河南岸・ウスリー河東岸の広大な清国領の自国編入が国家的課題となるのである。

 クリミア戦争はディアナ号を失ったプチャーチン以下五〇〇名のロシア海軍軍人の問題でもあった。プチャーチンは一日も早く帰国させたがっている幕府と交渉、伊豆半島西岸の戸田で洋式帆船建造にとりかかった。二本縦帆マスト、八〇トン(四〇〇石船に相当)、船の長さ八一尺、竜骨の長さ六二尺、船幅二三尺、砲門八口(実際には積まず)のスクーナー型船である。竜骨を骨格とする船舶建造は戸田村の船大工棟梁上田寅吉(後日の横須賀造船所初代工長)以下、協力する多くの日本人船大工にとっては、技術修得の絶好の機会となった。

 建造中の安政二(一八五五)年一月二七日、米船カロライン・フート号が下田に入港、クリミア戦争に参戦するため一五〇名余の士官・下士官たちが同船を雇って二月二五日下田を出帆、ペ港に到着する。

 つづいて竣工したヘダ号に乗ったプチャーチン等四八名は三月二二日出港、当初はオホーツク海のアヤンに寄ったのちペ港に向う予定であったが、英艦に追跡されアムール河河口のニコラエフスクに逃げ込むことに成功する。

 残置されたロシア人二八〇名余は、六月一日、ドイツ商船グレダ号で下田を出帆する。この中には掛川藩浪人の橘耕斎と彼から日本語を学ぶ中国語通訳ゴシケヴィッチ(後日、最初の函館領事となる人物)がいた。グレダ号はアヤン港に入港する直前、遊弋中の英艦バラク―タ号に拿捕されてしまい、乗組員全員はクリミア戦争終了後の一八五六年四月、ロンドンで釈放されるのである。

 ところで、ヘダ号の設計図をプチャーチンが残してくれたこともあり、上田寅吉ら戸田村の船大工は、その後スクーナー型船を六艘建造し、これらの船は君沢型(戸田村は伊豆国君沢郡にある)と呼称されることとなった。さらに函館で改良されたものが建造されることとなり、これは函館型と呼ばれ(その後「小廻船」といわれるようになる)、蝦夷地・北海道で長く活躍することとなった、現在北海道の利尻町立博物館には二本の縦帆と二つの船首三角帆をもつ「小廻船」模型が展示されているが、その解説には大正から昭和にかけ、動力船が出る前の帆船で、利尻では天塩と結ぶ航路に使われ、島からはニシンカスや海産物、天塩からは製材・薪材や米・味噌・醤油等の生活物資を運んだ、小廻船は動力船の出現と、利尻との交易地が稚内にかわったことにより消滅した、と述べられている。

2024年1月25日木曜日

20240124 早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」 pp.237‐239より抜粋

早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」
pp.237‐239より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4657909312
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4657909312

ジョウゼフ・コンラッドの反露感情には確かに根深いものがあった。日露戦争の終わつた1905年に発表された論文「専制政体と戦争」(Autocracy and War)において、この感情は日本軍に対する讃嘆の情とロシア軍に対する反感との対照を通じて表出されてゐる。例へば、彼は「日本軍が基盤にしているのは理性に裏打ちされた信念であり、日本軍の支へになつてゐるのは、夥しい血と財宝とを犠牲にしてでも鎮められねばならぬ信念、即ち理論的必然性を帯びた正しさへの深い信念である」と述べるが、その直前には「暗夜のやうな狂気の絶望」といふ表現がロシア軍に適用されてゐる。更にロシアの専制政体、即ち、「銃剣を逆毛のやうに帯び、鎖で武装し、聖像をいくつもぶら下げた恐怖すべき奇妙な亡霊」に他ならぬロシアの専制政体は今や「東郷〔平八郎〕の魚雷と大山〔巌〕の大砲とによって既に修復不能な程にひび割れを起してゐる」とも述べる。コンラッドは、日本軍の使命は「ロシア専制政体といふ亡霊」を鎮圧する事であつたと言ひ、最高級とも思へる賛辞を日本軍に呈するのを忘れない。「〔日本軍〕は己の過去と未来を十全に意識し、驚嘆の眼差しで眺める世界の人々の前で、試練に他ならぬこのいくさのいはば一歩一歩において、「己れを発見する」。この偉大な教訓は、大抵の場合、しばしば半ば無意識のうちに抱かれる偏見や人種的相違によって矮小化されてきた」。日本軍への高い評価は取りも直さずロシアへの烈しい反感を語る仕組みになつてゐる。

 コンラッドの反露感情には、1772年、1793年、1795年と、3回に亙つて行はれたロシア、プロシア、オーストリアによるポーランド分割に根を発する牢乎として抜き難いものがあつた。ポーランドはこの分割以来、国家として消滅してゐたのだが、イアン・ワットも言つているやうに、コンラッドが生れ育つた地域はロシアの支配するところとなつてゐて、他の二国に支配さててゐた地域に比して、その支配の形態は格段に苛酷な性質を帯びてゐた。エドワード・クランクショーの見るところでは、ロシアはコンラッドの世界観が形成される上で決定的に重要な役割を果たしてゐる。不可抗力的な専横な力としての悪の本質についてコンラッドは熟考を強ひた点で、ロシアのポーランド支配はコンラッドの物の見方に大きな影響を与へたとクランクショーは言ふ。コンラッドに限らず、ロシアに分割・統治されてゐた地域の人々はみな、専横な暴力、「自由に徘徊し、どこであらうと意のままに襲ひかかる事の出来る暴力といふむきだしの不可抗力の事実」をつねに意識させられてゐた、と言ふのである。

 コンラッドは船乗りになるべく単身マルセーユへ向つた年、1874年まで、即ち17歳までこの専横な暴力をぢかに身を以て体験するやう運命づけられていたのであるが、両親の肉体を(そして或程度までその精神を)破壊したと言つていい暴力の発生装置たるロシア帝国が、この世の存在すべからざる国とコンラッドに思はれるに至つたとしても無理はない。「ロシアの専制政体は歴史的過去を持たぬ。歴史的未来を望む事も出来ぬ。終焉を迎へる事が出来るのみである」。このやうに発言する時も、恐らく日本を念頭に置きつつ、「東洋の諸専制政体は人類の歴史に属する」。それらはその光輝、その文化、その芸術、その偉大な征服者等の英雄的行為によつて我我の精神と想像力に刻印を残してくれてゐる。東洋の専制政体には知的価値が具はつてゐる」と述べ、それとは違つて、ロシアの専制政体が他に類を見な凡そ反人類的なものであつたといふ事を導出せずにはゐられない。「この政体が人類に対して犯した最も重い罪は・・・無数の精神を仮借なく滅ぼした事である」。