2024年1月29日月曜日

20240128 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

歴史的にはナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古(レストレーション)の時代のヨーロッパには18世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現れたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族主義(principle of nationality; nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合さねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基盤を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的に更新的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を荷った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮定された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿していた。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放運動の成功が帝国内のこれらの集団を刺戟し、彼らの中における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存立自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのではないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭けをしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸のつづく限りこれ(革命)と闘うっことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。

 イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生まれたブリトン人」(freeborn Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勢となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

2024年1月26日金曜日

20240126 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

 クリミア戦争はナポレオン戦争につづく世界的規模での大戦争となった。ロシア帝国の北太平洋海軍拠点カムチャッカ半島ペテロパヴロフスク港を攻略するため、英国の太平洋艦隊(当時、東印度艦隊の守備範囲と区分されていた)四艦は仏艦三艦とともに一八五四年五月一七日、南米ペルーのカリャオ港を出港、七月一七日ハワイに寄港した後、同月二五日にはカムチャッカ近海に達し、八月三〇日、ぺ港に入港して猛烈な砲撃を開始した。しかしロシア側の守備は堅固で強力に応戦し、翌三一日、英国のプライス司令長官は自殺、九月一日と五日、二度にわたり海兵隊を上陸させて攻略を試みたが、いずれも失敗し、八日英仏艦隊は撤退を余儀なくさせられたのである。

 しかし、英仏艦隊のこのような攻撃が繰りかえされるならば長期にペ港は維持できないとも、ロシア側には明らかとなった。ロシア軍は一八五五年四月同港を撤退(カラフトのクシュンコタンに兵営を築いていたロシア兵も攻撃に備え同年六月に撤退する)、このことは同時にアリョーシャン列島とロシア領アラスカの維持が不可能となったことも意味したのである。

 この年五月二〇日、英艦九艘、仏艦五艘の連合艦隊がペ港攻略のため再入港するが敵兵は皆無、連合艦隊はアラスカに向かうこととなる。

 このペ港の壮烈な攻防戦はロシアの極東戦略の転換点となった。北米大陸進出の方向性が断たれ、それにかわり、清国領内を流れるアムール河を下って太平洋に進出し、サハリン島全域とアムール河以北及び後年沿海州と命名されるアムール河南岸・ウスリー河東岸の広大な清国領の自国編入が国家的課題となるのである。

 クリミア戦争はディアナ号を失ったプチャーチン以下五〇〇名のロシア海軍軍人の問題でもあった。プチャーチンは一日も早く帰国させたがっている幕府と交渉、伊豆半島西岸の戸田で洋式帆船建造にとりかかった。二本縦帆マスト、八〇トン(四〇〇石船に相当)、船の長さ八一尺、竜骨の長さ六二尺、船幅二三尺、砲門八口(実際には積まず)のスクーナー型船である。竜骨を骨格とする船舶建造は戸田村の船大工棟梁上田寅吉(後日の横須賀造船所初代工長)以下、協力する多くの日本人船大工にとっては、技術修得の絶好の機会となった。

 建造中の安政二(一八五五)年一月二七日、米船カロライン・フート号が下田に入港、クリミア戦争に参戦するため一五〇名余の士官・下士官たちが同船を雇って二月二五日下田を出帆、ペ港に到着する。

 つづいて竣工したヘダ号に乗ったプチャーチン等四八名は三月二二日出港、当初はオホーツク海のアヤンに寄ったのちペ港に向う予定であったが、英艦に追跡されアムール河河口のニコラエフスクに逃げ込むことに成功する。

 残置されたロシア人二八〇名余は、六月一日、ドイツ商船グレダ号で下田を出帆する。この中には掛川藩浪人の橘耕斎と彼から日本語を学ぶ中国語通訳ゴシケヴィッチ(後日、最初の函館領事となる人物)がいた。グレダ号はアヤン港に入港する直前、遊弋中の英艦バラク―タ号に拿捕されてしまい、乗組員全員はクリミア戦争終了後の一八五六年四月、ロンドンで釈放されるのである。

 ところで、ヘダ号の設計図をプチャーチンが残してくれたこともあり、上田寅吉ら戸田村の船大工は、その後スクーナー型船を六艘建造し、これらの船は君沢型(戸田村は伊豆国君沢郡にある)と呼称されることとなった。さらに函館で改良されたものが建造されることとなり、これは函館型と呼ばれ(その後「小廻船」といわれるようになる)、蝦夷地・北海道で長く活躍することとなった、現在北海道の利尻町立博物館には二本の縦帆と二つの船首三角帆をもつ「小廻船」模型が展示されているが、その解説には大正から昭和にかけ、動力船が出る前の帆船で、利尻では天塩と結ぶ航路に使われ、島からはニシンカスや海産物、天塩からは製材・薪材や米・味噌・醤油等の生活物資を運んだ、小廻船は動力船の出現と、利尻との交易地が稚内にかわったことにより消滅した、と述べられている。

2024年1月25日木曜日

20240124 早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」 pp.237‐239より抜粋

早稲田大学出版部刊 照屋佳男著「コンラッドの小説」
pp.237‐239より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4657909312
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4657909312

ジョウゼフ・コンラッドの反露感情には確かに根深いものがあった。日露戦争の終わつた1905年に発表された論文「専制政体と戦争」(Autocracy and War)において、この感情は日本軍に対する讃嘆の情とロシア軍に対する反感との対照を通じて表出されてゐる。例へば、彼は「日本軍が基盤にしているのは理性に裏打ちされた信念であり、日本軍の支へになつてゐるのは、夥しい血と財宝とを犠牲にしてでも鎮められねばならぬ信念、即ち理論的必然性を帯びた正しさへの深い信念である」と述べるが、その直前には「暗夜のやうな狂気の絶望」といふ表現がロシア軍に適用されてゐる。更にロシアの専制政体、即ち、「銃剣を逆毛のやうに帯び、鎖で武装し、聖像をいくつもぶら下げた恐怖すべき奇妙な亡霊」に他ならぬロシアの専制政体は今や「東郷〔平八郎〕の魚雷と大山〔巌〕の大砲とによって既に修復不能な程にひび割れを起してゐる」とも述べる。コンラッドは、日本軍の使命は「ロシア専制政体といふ亡霊」を鎮圧する事であつたと言ひ、最高級とも思へる賛辞を日本軍に呈するのを忘れない。「〔日本軍〕は己の過去と未来を十全に意識し、驚嘆の眼差しで眺める世界の人々の前で、試練に他ならぬこのいくさのいはば一歩一歩において、「己れを発見する」。この偉大な教訓は、大抵の場合、しばしば半ば無意識のうちに抱かれる偏見や人種的相違によって矮小化されてきた」。日本軍への高い評価は取りも直さずロシアへの烈しい反感を語る仕組みになつてゐる。

 コンラッドの反露感情には、1772年、1793年、1795年と、3回に亙つて行はれたロシア、プロシア、オーストリアによるポーランド分割に根を発する牢乎として抜き難いものがあつた。ポーランドはこの分割以来、国家として消滅してゐたのだが、イアン・ワットも言つているやうに、コンラッドが生れ育つた地域はロシアの支配するところとなつてゐて、他の二国に支配さててゐた地域に比して、その支配の形態は格段に苛酷な性質を帯びてゐた。エドワード・クランクショーの見るところでは、ロシアはコンラッドの世界観が形成される上で決定的に重要な役割を果たしてゐる。不可抗力的な専横な力としての悪の本質についてコンラッドは熟考を強ひた点で、ロシアのポーランド支配はコンラッドの物の見方に大きな影響を与へたとクランクショーは言ふ。コンラッドに限らず、ロシアに分割・統治されてゐた地域の人々はみな、専横な暴力、「自由に徘徊し、どこであらうと意のままに襲ひかかる事の出来る暴力といふむきだしの不可抗力の事実」をつねに意識させられてゐた、と言ふのである。

 コンラッドは船乗りになるべく単身マルセーユへ向つた年、1874年まで、即ち17歳までこの専横な暴力をぢかに身を以て体験するやう運命づけられていたのであるが、両親の肉体を(そして或程度までその精神を)破壊したと言つていい暴力の発生装置たるロシア帝国が、この世の存在すべからざる国とコンラッドに思はれるに至つたとしても無理はない。「ロシアの専制政体は歴史的過去を持たぬ。歴史的未来を望む事も出来ぬ。終焉を迎へる事が出来るのみである」。このやうに発言する時も、恐らく日本を念頭に置きつつ、「東洋の諸専制政体は人類の歴史に属する」。それらはその光輝、その文化、その芸術、その偉大な征服者等の英雄的行為によつて我我の精神と想像力に刻印を残してくれてゐる。東洋の専制政体には知的価値が具はつてゐる」と述べ、それとは違つて、ロシアの専制政体が他に類を見な凡そ反人類的なものであつたといふ事を導出せずにはゐられない。「この政体が人類に対して犯した最も重い罪は・・・無数の精神を仮借なく滅ぼした事である」。

2024年1月24日水曜日

20240123 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.233-235より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.233-235より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

21世紀に主要国が戦争を起こして勝利を収めるのがこれほど難しいのはなぜなのか?一つには、経済の性質の変化がある。過去には、経済的資産は主に物だった。だから、征服によって裕福になるのは比較的簡単だった。戦場で敵を打ち負かせば、敵の町を掠奪し、敵国民を奴隷市場で売り、価値ある麦畑や金鉱を占領すれば、利益をあげられた。ローマ人は捕らえたギリシャ人やガリア人を売って繁栄し、19世紀のアメリカ人は、カリフォルニアの金鉱や、テキサスの牧場を占有することで金持ちになった。

 ところが21世紀には、そのようなやり方ではわずかな利益しかあげられない。今日、主な経済的資産は、小麦畑や金鉱ではなく、油田でさえもなく、技術的な知識や組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織は、中東で都市や油田を掠奪して、以上を強奪し、2015年には石油の販売でさらに5億ドル稼いだ)が、中国やアメリカのような主要国にとって、そのような額は微々たるものでしかない。年間のGDPが20兆ドルを超える中国は、わずか10億ドルのために戦争を始めたりしそうにない。また、アメリカとの戦争に何兆ドルも費やしたら、中国はそのような出費や、戦争による損害、失われた交易の機会をどう埋め合わせることができるというのか?勝利を収めた人民解放軍はシリコンヴァレーの富を掠奪するのか?たしかに、アップルやフェイスブックやグーグルといった企業は何千億ドルもの価値があるが、そのような富は力ずくで奪うことはできない。シリコンヴァレーにはシリコン鉱山などないのだ。

 戦争で勝利を収めれば、イギリスがナポレオンに勝った後やアメリカがヒトラーに勝った後にしたように、自分に有利になるようにグローバルな交易制度を改変して、最大の利益をあげることが、依然として可能だろう。とはいえ、軍事テクノロジーが変化しているので、そのような離れ業を21世紀に再現するのは難しい。原子爆弾は、世界大戦での勝利を集団自殺に変えてしまった。広島への原爆投下以後、超大国が直接戦火を交えたことがなく、(彼らにとっては)得るものも失うものも少ない争いー敗北を避けるために核兵器を使う誘惑が小さいものーにしか乗り出していないのは、けっして偶然ではない。実際、北朝鮮のような二流の核保有国への攻撃さえも、きわめて魅力に乏しい。金一族が軍事的敗北に直面したら何をやりかねないかを考えると、ぞっとする。

 帝国主義者を目指す人にとって、サイバー戦争のせいで事態はなおさら悪くなる。ヴィクトリア女王とマキシム式速射機関銃の古き良き時代には、イギリス軍はマンチェスターやバーミンガムの平和を危険にさらすことなく、はるか彼方のどこかの砂漠で先住民を大虐殺することができた。ジョージ・w・ブッシュの時代になってさえ、アメリカはバグダードやファルージャに大損害を与えても、イラクはサンフランシスコやシカゴに報復攻撃を加える術がなかった。だが、もし今アメリカが、たとえ月並みなサイバー戦争の戦闘能力しか持たない国を攻撃しても、ほんの数分で戦争はカルフォルニア州やイリノイ州を巻きこむことになりうる。マルウェア〔訳注 悪意あるソフトウェア〕やロジックボムのせいでダラスで航空交通が停止したり、フィラデルフィアで列車が衝突したり、ミシガン州で送電網が使用不能になったりしかねない。

 征服者たちの黄金時代には、戦争は損害が少なくて利益が大きい事業だった。1066年のヘイスティングの戦いでは、ウィリアム征服王が数千人の戦死という代価でたった1日でイングランド全土を手に入れた。一方、核兵器とサイバー戦争は、損害が多くて利益が小さいテクノロジーだ。そうしたテクノロジーを使えば国をまるごと破壊できるか、利益のあがる帝国は築けない。

 したがって、武力による威嚇と棘棘しい雰囲気が満ちている世界では、戦争で成功した最近の例に主要国は馴染みがないというのが、平和の最善の保証になっているのかもしれない。チンギス・ハーンやユリウス・カエサルはどんなに些細なものでもきっかけさえあればすぐに外国を侵略したが、エルドアンやモディやネタニヤフのような今日のナショナリズムの旗手たちは、大言壮語はするものの、実際に戦争を始めることにはじつに慎重だ。もちろん、21世紀の状況下で戦争を起こして成功を収める公式を現に見つける人がいたら、たちまち地獄の門が開くだろう。だからこそ、クリミアでのロシアの成功は、とりわけ恐ろしい前兆なのだ。それが例外であり続けることを願おう。

2024年1月22日月曜日

20240122 株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ pp.204-206より抜粋

株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ
pp.204-206より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006031807
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006031800

 20世紀の歴史がわれわれにはっきり示したことは、ことにユーゴスラヴィアの戦争がその例だと思うのですが、ナショナリズムはなくならないということです。ナショナリズムが出てくる根源はいろいろあります。個人は社会の中で、それぞれ自分自身の個性とかアイデンティティを求めます。ところが個人が集まってある集団、たとえば民族的集団をつくると、個人のアイデンティティ、個性、顔つきではなくて、その集団がアイデンティティを求めるようになる。その集団の個性、顔つきを保ちたいという欲求が強くなってくる。その背景はやはり歴史と文化でしょう。

 それぞれの地域の歴史が違い文化が違う以上、ナショナリズムの感情というのはなくならないと思うのです。それをなくすような形で問題を解決しようとするとできない。ですから、戦争にならない、悲劇的な形にならないように、それぞれの歴史的文化的アイデンティティを失わないで、ナショナリズムを大きな国際的組織の中へ組み込んでいくことが必要になるわけです。20世紀はそれに失敗した。だから戦争が起こった。今でもあとからあとから暴力的ナショナリズムは起っている。

 問題は、ナショナリズムと、広い視野からの国際的な協力関係を作り上げていく動きとはどういうふうに融和できるかということです。それはおそらく21世紀の課題になるでしょう。

 この問題を解決するための原理・規範とは何か。それはわれわれの経験の中にあると思います。一国の中で、一民族の中でで、それぞれの人が個性を失わないで一つの国が平和的に成り立ち得るのは平等があるからです。それぞれの人が別の顔かたちをして別の能力を備えているわけですから、もちろん競争も生じます。要は、基本的に平等を認め、相手との違いの存在を容認するか否かです。それを全部消し去って同じ形にしようという力が強く出てくれば出てくるほど、個人と社会あるいは国家との緊張関係は強まります。同じように、民族的な集団がどの集団にも存在の権利を認めて平等な関係が基本的にあれば、多くの集団が激しい衝突にならないで協調することができると思うのです。

 しかし、そうでなくて、小さな集団、弱い集団の個性を消し去って、みんな同じようにする、別のコトバでいえば、優越している一つの大きな民族的集団あるいは国家が、自らの標準を世界中に強制するようになると、その反発が起こって、しばしば強い衝突になる。衝突はいきなり暴力の行使ではなく、経済的、技術的、文化的とさまざまな手段でおきますが、力が拮抗していれば抵抗は暴力的にならないと思います。ところが道がふさがれて、一方が非常に強くて他方がたいへん弱い場合は、弱い側が文化的にも政治的にも軍事的にもすべての点で押しつぶされる傾向がある。

 押し潰されそうになって、それでもアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティの表現の道がふさがれたときの最後の絶望的な反応です。誰もテロリズムを望んでいるわけではない。なぜならば、テロリズムは二つの集団の間にある関係をつくり出すための手段というよりも、自分の存在を証明するための絶望的な反応だからです。これを武力であるいは警察力でコントロールするといっても程度問題です。テロリズムというのは、ナショナリズムがなくならないかぎりなくならないでしょう。

 この対立を解決するには、相手のアイデンティティを認める、根本的にはどの集団にも平等な権利を認めるような国際社会をつくること以外にないと思います。20世紀はそのことに失敗し、その目的に達していない。だからテロリズムがだんだん強くなってきたのです。

2024年1月20日土曜日

20240120 歯科材料を基軸とした雑文(試作文章)

「天然歯に色調が最も近いセラミックスは何か?」と考えてみますと、硬質で半透明な陶磁器が先ず思い起こされるのではないかと思われます。陶磁器は英語にしますと「china」と表記されます。これは産地の名前が、そのまま物の名称になったものであり、我が国の「japan」であれば漆器を指し、そしてまた、我が国においても、古くは火縄銃のことを「種子島」と呼称していましたので、こうした名称付与の仕方には世界的に共通するものがあるようにも思われます。

さて、この陶磁器の「china」は、中国においては既に7世紀頃に作られていました。その背景には、技術の発展と同様、高温を長時間保持可能な熱源としての石炭が豊富であるという自然環境もあったと云えます。

こうして、中国で作成された陶磁器はシルクロードを経てヨーロッパにもたらされ、彼の地において、度々模倣が試みられましたが、それらは悉く失敗に終わりました。やがて時代はくだり、18世紀初頭になり、ドイツの錬金術師であるヨハン・ベトガーが繰り返しの実験により、各種鉱物と粘土の混合割合を編み出し、その複製に遂に成功しました。これが、所謂マイセン磁器の誕生の大まかな経緯です。

その後、フランス・英国においても、技術の伝播や独自の実験成果を踏まえてセーブル磁器、ウェッジウッド磁器、そしてスポード磁器などが続々と誕生しました。そこから、18世紀は西欧での陶磁器生産のはじまりの時代とも云えます。

そしてまた、この18世紀は近代歯科医療のはじまりの時代でもあるとも云えるのです。では、これらの関連(陶磁器の生産と近代歯科医療)を述べますと、まず、この時代は大航海時代以降、西欧諸国が世界各地へ進出し、さまざまな植物や、それらの加工品が安定して供給されるようになってきた時代でもあったことを認識する必要があります。

そうして西欧に齎されたもので代表的なものの一つが砂糖です。砂糖は、東南アジアあるいはインドが原産とされるサトウキビを主な原材料として作られます。そして、これが西欧諸国で広く普及するようになりますと、それに伴い、虫歯もまた多く、人々の間に見られるようになってきました。

現在では、西欧の国々は、虫歯予防をはじめ歯科医療全般について先進的とされていますが、当時はまだそうではありませんでした。つまり、砂糖と虫歯との因果関係については知られていませんでした。そうした事情から、虫歯の原因である歯を抜くことが増え、やがて、それを専門とする職業も社会において徐々に一般的なものになっていきました。

その職業は「歯抜き師」と呼ばれ、これは18世紀以前より存在し、17世紀初頭刊行の「ドン・キホーテ」作中にも登場します。 ともあれ、新大陸から齎された砂糖の普及によって虫歯が増加した18世紀の西欧では「歯抜き師」もまた一般的な職業となり、さらにそこから進化をして、歯を抜くことだけでなく口の中全般を扱う「歯の治療者」と呼ばれる職業も登場して、これが現在の歯科医師の直接的な起源であると考えられています。

とはいえ、歯を抜く以外の口の中の治療も行った「歯の治療者」も、現在のような歯科医学の知識が一般的ではなかった時代であったことから、そこで施される 治療も必ずしも適切なものではありませんでした。

それよりも現代の歯科医療に対する「歯の治療者」の大きな貢献は、いわゆる、入れ歯などの歯科補綴装置についてであったと云えます。そして、それと関連して、さきに述べた「西欧での磁器生産」が意味を持ってくるのです。

約言しますと、西欧諸国による新大陸の発見、そしてサトウキビから精製される砂糖の需要から、カリブ諸島を主とした大規模なサトウキビ栽培が始まり、生産された砂糖が西欧社会にもたらされて一般化しますと、それに伴って同地域での虫歯が多くなり、そして、それまでの歯科医療にも変化が生じ、この変化に、同じ18世紀に錬金術師によって編み出された中国由来の磁器の作成法が関係してくるといった流れになります。

ちなみに、前述の「ドン・キホーテ」作中に歯に関する面白い箴言があります。 ‘‘Every toooth in a man’s head is more valuable than a diamond.’’ 「頭の中にある全ての歯は、ダイアモンドよりも価値がある。」 Miguel de Cervantes, Don Quixote (1605)

そして、この ‘‘Every toooth in a man’s head is more valuable than a diamond.’’ 「頭の中にある全ての歯は、ダイアモンドよりも価値がある。」文中の「head」は和訳しますと「頭、頭部、首、脳、目、耳、鼻、顎を含む体の部位」となり、その中にはもちろん「口」も含まれます。そうしますと、原文にある「Every toooth」(全ての歯)は、口の中にある歯を意味することになり、それはそれで意味は通じるのですが 文脈を変えて読んでみますと、さまざまな知識や情報を咀嚼し理解するための「悟性」の能力を「歯」にたとえた文章であるとも読み取れます。そしてこの場合、著者は後者の意味合いで書かれたものと思われますが、いずれにしても、同じ言葉、文章であっても、複数の意味合いが読み取れることは、我々の生活のなかでもしばしばあることで、冒頭付近で挙げた陶磁器の「china」漆器の「japan」そして火縄銃の「種子島」なども、そうしたものであると云えます。

そしてまた、18世紀頃の西欧での砂糖の普及と、それに伴う虫歯の増加から生じる歯科医療の変化に関連させてみますと、 この時代に、それまでの虫歯を抜く「歯抜き師」による、いわば原初的な歯科治療であったものから変化をして、抜歯後の外観や機能の改善、修復を行う「歯の治療者」が職業として広く社会に認知されるようになりました。

「歯の治療者」とそれまでの「歯抜き師」との大きな違いは、その背景にある、口を含む人体の構造や、さまざまな材料についての知識の広さと深さであったと云えます。

つまり、かねてよりの歯を抜くことを業とする職人であった「歯抜き師」と比べて、18世紀頃から一般的となった「歯の治療者」は、さきに述べた「錬金術師」からの系譜に連なるものであり、そしてまた、18世紀に錬金術師であるヨハン・ベトガーがドイツ東部の都市マイセンにて、初めて西欧での陶磁器の製造に成功したことは、その後の歯科医療にも少なからぬ影響を及ぼしたと云うことになります。

現在においても高級陶磁器などで有名な英国のウェッジウッド社の設立も18世紀半ばであり、さきに述べたようにマイセンの陶磁器製造技術の伝播があったと思われますが、ウェッジウッド社で大変興味深いことは、当時、陶磁器の製造技術を用いて人工の歯(陶歯)を製造していたことです。

この陶歯を用いた入れ歯は、当時の技術水準においては大変に優れたものであり、陶磁器と同様、白く艶やかな人工歯が並んだ入れ歯は多くの人々を惹き付けたと思われます。とはいえ、この当時の入れ歯は、現在の陰圧を利用して口腔粘膜に吸着させるものではなく、上下の入れ歯がバネで繋がり、口に入れても、食いしばらなければ、バネの力で口から飛び出してしまうようなものであったとのことです。

アメリカ合衆国の初代大統領であるジョージ・ワシントンは現在、同国1ドル紙幣に印刷され、その描かれた表情を見ますと、頬が若干膨らみ気味であり、口が真一文字に結ばれていますが、これは、さきのバネが仕込まれた入れ歯を着けていたために食いしばっているため、こうした表情になっているというのが、現在では一般的な見解とされています。

18世紀西欧で製造が始まった陶歯を用いた入れ歯は、前述のような構造の問題もありましたが、それでも当時の水準としては先端技術の粋を集めたものであり、現在でいえば、口の中の状態をスキャナーを用いて3Dデータにて記録して、そのデータに基づき、入れ歯の設計をコンピュータ上で行い、その設計データに基づいてCAMのマシニング加工により作成された入れ歯にも比定することが出来ると云えます。

また、西欧においては陶磁器作成技術の確立による白く艶やかな陶歯の製造が可能になる以前は、カバやセイウチや象の牙や牛の骨などから入れ歯に用いる人工歯が作られ、さらには生死を問わずヒトから採取した歯も用いられていました。

そのため、こうしたヒトの歯は戦争の後になると多く出回り、19世紀に入ってからも、ワーテルローの戦いの後に大量のヒトの歯が市場に流通したとのことです。

現代の衛生観念からしますと、これらはきわめて不衛生なものであったといえますが、我が国においても、歯ではありませんが、亡くなったヒトの毛髪を抜いて鬘の材料とする話は、平安時代末期に成立した「今昔物語集」そして、それをベースとした書かれた芥川龍之介による短編「羅生門」などによって知られています。

ともあれ、これらの経緯によって18世紀に陶磁器製造技術を用いた陶材による人工歯が西欧で製造されるようになりました。他方、我が国では、おそらくは火山活動が活発であることからか古くから土器や陶器の製造が盛んであり、また、明治以降の近代化が為されて以降は、積極的に西欧の技術を模倣する段階において陶材による人工歯が製造されるようになりました。

そして、その拠点となったのは、やはり、古来より陶器の製造が盛んであった京都や名古屋などの地域であり、そこでは今なお、こうした企業が存続しています。

ちなみに「18世紀西欧での陶磁器製造技術の確立により、陶材で作成した人工歯を入れ歯に用いるようになった。」とさきに述べましたが、18世紀当時の入れ歯を作成する技術は、現存する当時の入れ歯や資料などから考えてみますと、西欧と我が国では、我が国の技術の方が優れていたのではないかとも思われるのです。

繰り返しになりますが、18世紀の後半においても、欧米諸国の入れ歯は、お口の中でのおさまりや機能性の良さはあまり考慮されていなかったと考えられ、当時の入れ歯は、咀嚼という歯の本来の機能よりも、キレイに歯が並んだ口許の方が重視されていたのではないかとも思われます。

他方、我が国での入れ歯の歴史を遡ってみますと、現存する我が国最古の入れ歯は、西暦1538(天文7)年に76歳で亡くなられた紀伊国(現在の和歌山県)の尼僧であり、仏姫とも呼ばれた中岡テイという女性が用いていたものであり、その材料は柘植(つげ)が用いられており、作り方としては、熱して軟化した蜜蠟に松脂などを混ぜたものを口に入れて型取りをしてから取り出し、そこで得られた口の中の様子(歯型)を柘植の小塊に、木彫りの要領で3次元的な写生を行い概形を作り、それを口に入れて、余分なところや、強く当たって痛いところを徐々に削り取り、そして口の中にピッタリと収まる入れ歯を作っていました。

仏姫は16世紀前半に亡くなっていますので、この我が国最古の柘植の木製入れ歯は15世紀末期か16世紀初頭に作成されたものであると思われますが、その背景には、室町時代末期、足利幕府による統治が綻び、戦国の世に向かおうとしている中で、それまで寺社からの依頼で彫像などを作成していた職人達が、寺社からの仕事の減少により、現世に合った職業を探す必要性があったという事情があると考えられています。つまり、少し大げさに表現しますと、我が国古来の木製入れ歯は、鎌倉時代初期の慶派の仏師等の手による東大寺南大門の金剛力士(仁王)像とも、技術の系譜として連なっているものであるとも云えるのです。

しかしながら、この優れた木製入れ歯を作成する古来からの技術は、近代以降、西洋の歯科医学が我が国に導入されるにつれて徐々に下火となり、そして20世紀初頭の明治末期の都市部においては、概ね西洋的な歯科医療に替わっていたと考えられています。

そして、こうした技術の変化をも含む、この時代での社会全体の西洋化のことを「文明開化」と云いますが、その影には、さきの木製入れ歯の作成にあるような、古くから脈々と伝えられてきた技術の衰亡が少なからずあったことは、記憶に留めておいても良いではないかと考えます。

とはいえ、また一方で、現在でも我が国の歯科技工の技術水準は世界においても優れたものとされていることは広く知られており、我が国の細部にわたる技術へのこだわりはマンガやアニメのみならず、歯科技工の世界においても良い意味で息づいていると云えます。そしてまた、その淵源まで遡ってみますと、さきに挙げた13世紀初期、独特の写実性を三次元的に彫像として表現した慶派の仏師達がいるのではないかとも思われるのです。

ともあれ、つきなみではありますが、結論として、西欧的な白く半透明で艶やかで磁器のような人工歯を用いた入れ歯も、我が国の古くからの木彫技術を受け継いだ固有の入れ歯作成技術にも、それぞれ素晴らしいと云いことになります。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

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どうぞよろしくお願い申し上げます。



2024年1月18日木曜日

20240117 新年のごあいさつにかわり(2120記事)

「新年あけましておめでとうございます。」と述べたいところではありますが、昨年暮れから元旦の能登半島地震をはじめ、国内外にて大きな出来事が続いたことから、年が改まったという感覚は乏しく、例年とくらべると「戦々恐々」といった観があります。

2020年から本格化したコロナ禍、一昨年2022年2月勃発の第二次宇露戦争、そして昨2023年10月イスラム原理主義武装組織ハマースによる大規模テロ攻撃ではじまったパレスチナ・イスラエル戦争は、2024年1月現在、いまだ収束の気配を見せず、逆に周辺地域などへ広がる動きも散見されることから、さきの新年の状況を「戦々恐々」と評した次第です。

他方、当ブログについては、ここ最近は専ら引用記事を充ててきましたが、やはり、しばらく引用記事の作成を続けていますと、作成している私の方にも情念・思いのようなものが生じ、それらを見識などのフィルターを通すことにより、自らのコトバとしての意見となり、そしてそれが当ブログでの独白形式記事の題材となります。

その意味において、引用記事の作成を継続していますと、自然、手持ちの題材が増えてしまい、スランプの際とはまた異なった悶々とした心情が生じ、それが現在、当記事の文章に結実しているのだと云えます。とはいえ、これがほぼ毎日コンスタントに作成出来れば良く、実際、当ブログ開始から丸3年は、ほぼ毎日、ブログ記事の作成を(どうにか)行ってきましたが、その当時と同様の活力は2024年の現在はないように感じられ、あるいは、そうした活力の鉱脈はいまだ見つかっていません。それでも、こうした活動は、継続していないと、新たな鉱脈を見つけること自体が困難になりますので、たとえ面白そうな引用記事題材のストックがあったとしても、引用記事一辺倒であってはあまり良くないのかもしれません・・。

そういえば、新年に入りしばらく経ってから、昨年の3月に訪問したドイツのケルンにて開催の国際デンタルショー(IDS2023)の取材記事が掲載された雑誌の別刷りが出版社さまより届きました。

これはもう少し先になると思っていたことから、新年早々大変嬉しい出来事でした。そこから、さきに述べた世界情勢から視座を変えて、自らの昨年を振返ってみますと、さきのドイツでの国際デンタルショーへの特派員としての訪問は自分にとって初めての経験でしたが、かねてより続いている第二次宇露戦争に関する海外ニュース番組動画などを視聴していたためか、多少リスニング能力がマシになっていたのか、言語ではそこまで苦労をすることはありませんでした。またデンタルショーの会場で驚いたことは、企業ブースに訪問した際、首から下げたプレス・パスを示し、そこに博士と記載があることを先方スタッフが認めると、対応がより丁寧なものに変ることが度々あったことです。

これはまさに「文化」であるのだと云えますが、しかし私からしますと、学位取得後10年を経て、初めての海外渡航にて、こうした経験をすることには、何か寓意や深意があったのか、あるいは皮肉めいた悪い冗談であったのか、今もって分かりかねるところです・・。

また、昨今SNS界隈で「博士」が少し話題となっていましたが、これについて私見を述べさせて頂きますと、人文系と医歯薬学を含む自然科学系では、それぞれの背景にある考えが異なり、自然科学系であれば博士号は運転免許に近いような感覚のものであり、他方の人文系であれば一種の称号に近い感覚があるのではないかと思われます。

実際、去る2015年に亡くなった伯父が法学博士の学位を授与されたのは60歳目前の2002年でした。この時はホテル勤務で南紀白浜にいた私も有給休暇を申請して実家に戻り、伯父の学位取得を銀座の中華料理店にて親戚一同で祝いました。つまり、学位取得とは、それほどの重みのあるものと認識していましたし、また現在、人文系アカデミアにて活躍されている諸先生方で博士号を取得されていない先生方は少なくなく、端的にさきと同様、そのような「文化」であるのだと思われます。

とはいえ、聞くところによると、専攻分野にもよるのでしょうが、以前と比較すると近年は、人文系でも学位取得が出来るようになってきたとのことであり、たしかに私の人文系院時代からの友人二人は、それぞれ大変なご苦労をされましたが学位取得に至りました。

そこから考えでみますと、私の学位は、さきの伯父や人文系院での友人二人と比べますと、まあ軽いものであるとも思われますが、しかし、私の場合はまた異なった種類の苦労があったのではないかとも思われます。そして、その先にある夢、具体的に今年の夢についてはまた近く、別の機会に述べたいと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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