2023年5月15日月曜日

20230515 株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋

株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061490397
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061490390

かつて私たちのまわりにも、いたるところに闇があった。深い闇があった。山は昼でも暗く、森蔭には黒々とした闇が隠れていた。町の通りは暗く、夜の空には満天の星の背後に底知れない闇があった。

 人の住居もまた暗かった。玄関も、座敷も、納戸も、はばかりに、物置きも、屋隅には昼間から闇がひそんでいた。とっぷり日が昏れると、たちまち墨を流したような一面の闇につつまれた。

 闇の中には何がいただろう。そこにはあきらかに死者がいた。見えない死者の群れがいた。暗い通りや、玄関や、庭をとおり抜けるとき、私たちは子ども心に、何よりも死者を思った。死者を連想し、死の観念におびえて足がすくんだ。

 ゲルマン神話には死者の赴く闇の国がある。戦いで倒れた者たちのいるヴァルハラでは、毎朝、死者たちが起きあがって武器をとり、戦いに出ていく、夕には800人ずつが一列になり、6400の門をとおってもどってくる。

 闇には、闇の兄弟がいる。闇を材質とする堕ちた天使たち、災いをなし、苦しみをひきおこし、悪をなして、死をもたらす黒天使たち。

 私たちのまわりから闇が追い払われてすでに久しい。いまやどこもかしこも眩いばかりに明るいのだ。町の盛り場は夜を知らない。どの家にも部屋ごとに電気じかけの光学機械があふれている。山野にゴルフ場の照明がつっ立ち、夜はナイターのための時間帯に下落した。

 闇を駆逐した。ついては私たちは、同時に何かも喪失したのではあるまいか。ひそかに生者を見はっていた死者の群れ、死の観念を失った。死にしたしまずして、どうして生を尊重できるだろう。外界の闇はまた、自分のなかの闇の部分の警告ではなかったか。息を殺して自分のなかにひそんでいる黒々とした悪の部分。おのれのなかの悪を知らずして、どうしてこの世の悪が識別できようか。おそかれ早かれ私たちは駆逐したはずの闇の力の報復を受けるにちがいない。

2023年5月14日日曜日

20230514 ブログ記事作成についての工夫から思ったこと

つい先日、当ブログの総投稿記事数が1990に到達し、その後も2記事投稿しましたので、2000記事の到達まで残り、当記事を含めて8記事の投稿を要することになりますが、この目標達成まであと少しというところで、ここ数日の不安定な気候といった環境によるものであるのか、本格的なスランプとまでは行きませんが、何やらブログ記事の作成が疎ましく思えてきました・・。

しかし、であるからと云って記事作成を行わないと、目標としている2000記事まで到達出来ませんので、記事作成を行うため環境を変えるべく、久しぶりに喫茶店に入り、そこでノートを開き、使い慣れたペリカンの万年筆を準備して、あまり考えずに書き始めてみますと、意外なことに比較的滑らかに文章は書かれていくのです。しかし、その書かれた文章を現在、判読を試みますと、なかなか難しいところもあり、また、その文章自体も、当ブログの記事として投稿出来るものであるのかは難しいように思われます。

そして、そのように考えた主な原因は、先述のノートに記した文章は何と云いますか、あまりにも「即物的」な文章であったと思われたからです。具体的にはノートに「・・席に着きノートを開いて向かうと、こうした文章は割にスラスラと出て来るようである。そして、ここまで書き進めることが出来たのは、先ほど、あまり考えずにペンを持ちノートに向かったからではあるが、であるからと云って、そこで作成された文章が、そのままでブログ記事に出来るかは、また別問題と云える。」と書いていましたが、ここで、その部分を実際に引用してみますと、たしかに物理的にはブログ記事の一部にはなりましたが、私としては、やはり、この引用部は当ブログの文章としては、未だに何か違和感を覚えてしまいます・・。他方で、久しぶりに、こうした行為(ノートに手書きした文章をPCで入力する)をしますと、さきの違和感も実のところ、そこまで意味を持つものではないことも、かなり以前でのブログ記事作成で経験して知っていたことが想起されたことから、こうした方法は、これまでにも種々試みており、そして現在では(すっかり)忘れてしまっていることもあるのでしょうが、本格的なスランプ状態に陥ることなく、記事作成を継続出来るように、色々と試みることは、さきの思い出すという観点から、それなりに意味があるように思われるのです。

そして、そのおかげで、当記事は、どうにか、ここまで書き進めることが出来ました(笑)。以前のほぼルーチンとして記事作成を行っていた時期であってもスランプはしばしば(慢性的に?)ありましたので、その際も、さきのように自分なりに考えて、ブログ記事作成を続けてきましたので、そうした折に経験した、記事作成に関する少しの工夫(場所を変える・ノートに書くなど)は、前述しました「想起」からも理解されるように、ある種「身体化」されていたのではないかとも思われるのです・・。

そして、文章作成に関して、これまでのブログ記事作成により半ば無意識ながらも蓄積された「何か」をさらに励起させて、今後、何かに役立たせることは出来るのでしょうか・・?

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20230513 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.6-8より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.6-8より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

長閑な、輝かしい一日が静かに暮れようとしていた。水面はなごやかにかがやき、雲一つない空は澄み切った夕映に、広々と微笑みかけている。エセックスあたりの沼沢地の薄靄までが、なにかまるで薄織のように照り映えながら、木深い丘脈をこめ、低い河岸を透きとおった襞模様に押し包んでいた。ただ西の方、上流河区の空を垂れこめた暗雲だけが、まるで太陽の接近を怒るかのように、刻一刻その暗澹さを加えていた。

 やがてついに、動くともない曲線を描きながら、陽が低く傾いた。そしてその大都市の群集の上を垂れこめた暗雲に触れると、頓死でも遂げたかのように、みつみつ白熱の輝きから、光も熱もない鈍赤色に変って行った。

 と、まもなく河面にも変化が起った。水面は艶やかな光沢を失うとともに、いっそう沈痛な澄明さを加えて来る。何千年か、両岸に住むあらゆる種族に豊かな余沢を恵んで来た老大河は、いまや落日の下に漣波一つ起らず、はるか地の果てまでつづく水路の威厳を誇るかのように、眼路のかぎり広々と静もり返っていた。いわば高徳の長者ともいうべきこの河の流れを、われわれは、ただ来ては去る短い一日のあざやかな夕映えの下に眺めていたのではない。もっと悠久な記憶をとどめた荘厳ともいうべき光の下に眺めまわしていたのだ。敬虔と愛とをもって「海に生きてきた」ものならば、あのテムズ河の下流河区を眺め渡して、それが持つ過去の偉大な精神を思い浮かべないものはあるまい。不断の恩沢をもたらしながら、あるいは故郷の安らかな休息へと、あるいはまた海の戦いへと、数知れぬ人と船とを載せて送った、そのさまざまな想いで出を秘めたまま、いまもなおたえまなく満干をくりかえしているのだ。サー・フランシス・ドレーク(1540-1596。英国の航海者、スペイン無敵艦隊を撃破す)の昔から、サー・ジョン・フランクリン(1786-1847。英国の北極探検家 第三回目の遠征に消息を絶ち、極地に死す)に至るまで、この国民のもって誇りとする海の騎士たちーそうだ、彼等こそ真の騎士だったのだ。爵位の有無など、それがなんだーを、この河はことごとく知っているばかりか、身親しく奉仕して来たのだった。

 かつてこの流れの運んで行った幾多の船、それらこそは、時という闇黒の中にまるで宝石のように光を放っている光栄の名前なのだ。円々と膨れ上がった船艙に数々の財宝を充して帰り、かしこくも女王陛下に親しく訪問の光栄をえたあと、そのまま偉大なる海洋発展史物語の上から姿を消してしまった「金鹿」(ゴールデン・ハインド)号(前記ドレイクの乗船、世界一周した最初の英国船)をはじめ、新たなる征服を目指して船出し、-ついにふたたび帰らなかった「エレバス」、「テラー」の二船(前記フランクリンが最後の遠征に用いた船名)に至るまで、流れはすべてそれらの船を知り、人を知っていた。デッドフォドから、グリニッジから、そしてエリスから、-冒険家、移住者、王室の所有船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会艦隊の新「将軍」たちー彼等はすべて船出して行ったのだ。黄金を求め、名声に憧れて、あるものは剣を、あるものは文化の炬を携えて、すべてこの流れを下って行ったのだ。奥地に対する力の使者、聖火を伝える光の使者、それにしても未知の国々の神秘へと、この河の退潮が載せて行ったもののいかに大きかったことだろう!・・・人類の夢、社会の胚種、そして帝国の萌芽!

 日は沈んだ。流れの上にも夕闇が落ちて、岸沿いには夜の灯が瞬きはじめた。泥床の上に三脚を据えたチャップマン灯台の灯が、にわかに光を増し、水路のあたりは、おびただしい船の灯が、あるいは高く、あるいは低く、静かに揺れて行く。だが、まだ遥か上流河区のあたりは、あの怪物のような大都会のあり場所が、落日の残映を受けた暗雲と、星空に赤く燃える反映とで、まるで凶事の前兆のように、夜目にもそれと眺められるのであった。

2023年5月13日土曜日

20230512 1990記事に到達して思ったこと・・

おかげさまで昨日の記事投稿により、総投稿記事数が1990に達しました。そして、当記事を含めてあと10記事の投稿により、当面の目標としている2000記事に到達します。しかし、現時点においては、あまりその実感もなく、これまでと同様、何やら書き連ねているといった感じしかありません。あるいは、さらに数記事ほど追加投稿しますと、この感じも変わってくるののかもしれません・・。そこで、以前、2018年に1000記事に到達した際の記事「20180526 1000記事の到達、多く読んで頂いた記事について」を読んでみますと「今回の記事投稿により総投稿記事数が1000に到達します。しかし、それに対しての感慨・感興はほぼ皆無であり・・」と述べており、それよりも、少し先のブログ開設から丸3年となる6月22日までのブログ記事作成を目指していたようです。

そこから2000記事到達まで10記事程度にまで迫った現在の状況を考えてみますと、やはり冒頭に述べたとおり、実感はなく、今後、2000記事に到達したとしても、しばらくはマラソン後のクール・ダウンのように、6月22日まではブログ記事を作成し続けるように思われます・・。

そして6月22日まで続けましたら、また何か異なった感慨でも湧いてくるのではないかとも思われたため、また同じく1000記事到達後、ブログ開設から丸3年となった2018年6月22日の記事に目を通してみますと「残念ながら、そうした感覚・実感はこれまで同様皆無であり、また多少なりともの感興といったものありません」と述べており、ここでもさきと同様に感慨などはなかったようです・・。

とはいえ、かれこれ8年近くブログ記事の作成を継続していますと「事務的に」とは云いませんが、特に感興などなくとも、(どうにか)記事作成は出来るようにはなってきました。また、それら記事の内容に関しましては、あまり文章の洗練などは考慮せずに、当時の考えを比較的率直に述べている記事が多かったのは、1000記事到達の少し前の2017年末頃から2018年春頃までの時期であったように思われます。その後、2020年以降からはコロナ禍や、2022年からは第二次宇露戦争もあり、当ブログの作成に関しても何かしら変化があり、特に2020年春以降、コロナ禍にて緊急事態宣言が発出された際は外出もままならず、家からあまり出ない(出れない)状況で一連の「架空の話」の作成がはじまりました。この「架空の話」は今現在また休止中ですが。2000記事まで(どうにか)無事に到達することが出来ましたら、あらためて続きを作成してみたいと考えています。また、これにつきましては、作成の波に乗ることが出来れば、しばらくは継続して作成することが出来るのではないかと思われるのです・・。

上述の「継続して作成」から思い出されましたが、過日二回にわたり作成しました我が国の横穴式石室の古墳を題材としたブログ記事は、思いのほかに閲覧者数が伸びました。これらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。こちらの題材については記事作成が出来ると思われますので、近日中に作成・投稿したいと思います。これまでに作成した我が国の古墳を題材としたブログ記事は、私の場合、和歌山、南紀在住期間に、その原点があったと云えます。この原点での感覚がなければ、その後の知見の獲得、そして、それらの自分なりの体系付けなどは出来なかった思われますので、この感覚については、これまでにも何度か当ブログにて記事として作成・投稿してきましたが、またあらためて述べることにより、これまた自分なりに新たな発見があるのではないかとも思われます。

さきの古墳についても同様ですが、何かの歴史などについて述べる文章の作成も楽しく感じられることがありますが、如上のような独白形式で述べていく文章もまた、少し間を置いて作成してみますと、これもまた楽しく感じられることが新たに分かりました・・。

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2023年5月11日木曜日

20230510 中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋

中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025091
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025098

陸奥の外交の巧みさというのは、例えば、周到に手を打ち、大義名分を失わないようなかたちで清との戦争に持ち込んだことに求められる。「蹇蹇録」には、外交上は被動者の位置を占めつつ軍事上は常に機先を制そうとした。大鳥圭介駐清公使に対し平和的対応というときの臨機の処分という表裏二個の主義を含む訓令を授けた、日本の共同朝鮮内政改革案を清が拒むのはわかっていた、などと書かれている、あたかも、事態が陸奥の想定通りに動き、事前に用意していた策がことごとく当たっているかのようである。

 林董は、あるとき、大をなした政治家というのは門閥の背景がなければあとはみな戦争の勝利によって台頭したと語り、それを聞いた陸奥は頭を傾けてしばらくして、「ヤッテ見ようかネ」と述べたという。そして、明治27年6月に朝鮮に兵を送るとなった際、陸奥、林、参謀次長の川上操六が集まり、いかにして平和にことをまとめるかではなく、いかにして戦いを起こしていかにして勝つかの相談をしたとする。つまり、陸奥としては初めから清と戦争を起こすつもりで、それに向けて着々と策を講じたという話である。林は、首相の伊藤は平和志向なので陸奥と川上が共謀してだましたことまで述べている。伊藤が混成旅団の規模を知らないことにつけ込んだというのと、旅団の派遣として決定して実際には混成旅団を出したというのと、二種類の回顧談で若干内容が違うが、ともかく、伊藤は派遣兵力が2~3000人であると誤認して7~8000人の派兵を決定したというのである(「後は昔の記也」)。

 こうした陸奥の外交姿勢に対し、帝国主義的であるという批判は数十年前からあった。あるいはさらにさかのぼると、強硬な軍・国内の圧力を受けながらなんとか外交を指導したというかたちで陸奥を評価する見方もあった。こちらは、軍の力が強まっていた昭和戦前期の時代状況を反映した見解である。百発百中の巧みな外交と捉えるのと、帝国主義外交と批判するのと、軍の圧力と渡りあった外交と評価するのは、それぞれまったく異なる議論のようだが、いずれも、陸奥が明確な方針や展望を持って整然と外交をおこなっていたというイメージは共通している。おそらくそれは、一般的に受け入れられている「陸奥外交」のイメージでもある。

陸奥外交の実像

 それに対し、実は近年の研究ではむしろ、こうした「陸奥外交」のイメージを崩すような陸奥論の方が盛んに唱えられている。例えば、条約改正交渉で失敗を重ねて行きづまっていたため、それを打開するべく日清開戦に持ち込んだとか、あるいは、朝鮮への派兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだったと指摘されている。「蹇蹇録」の記述に多くの脚色やウソがあることもわかってきている。

 また日清戦争自体、なぜ、どのような力学で始まったのかということについて、この30年ほどの間、学会では定説がない。そのなかで有力視されてきたのは、対清協調論者の伊藤首相が強硬な国内世論に押されて対決姿勢に転換したから、という見解である。それは必ずしも陸奥に対する評価の問題ではないが、コントロールされた外交、開戦、といったイメージとは異なる日清開戦過程の説明がなされているのである。 

 こうした、誤算と方針転換に満ちた日清開戦過程という近年の見方は、ある面で正しい。先々の展開を見通して次々に的確な判断を下していったと捉えるかつての「陸奥外交」像は、過大評価である。ただ、百発百中の見方を否定して、全体的に失敗が続いたかのように論じるというのもまた、極端に振れすぎている。

 陸奥は、限られた経験と情報に基づいて刻々と変化する情勢に対処していたのであって、ときに失敗や誤算が生じるのは当然だった。そのうえで、近代日本のさまざまな政治・外交指導者と比較して、このときの陸奥の情勢分析や各局面における判断をどのように評価できるかと言えば、それはやはり、総じて的確であった。「陸奥は速断し、時として当り、時として誤る。誤りて窮地に陥り、之を脱する際に最も才能を発揮す」という陸奥評がある(「同時代史」)。そのあたりが、陸奥万能論的なかつての「陸奥外交」像とそれに対する批判を越えた先にある、等身大の陸奥の日清戦争指導の姿である。

2023年5月10日水曜日

20230509 昨日の続き、横穴式石室について

元来、横穴式石室は中国で紀元前4-5世紀ごろにあらわれた「磚槨墓」という埋葬施設を起源としています。「磚」とは、レンガのような焼き物のブロックのことであり、これを積んで玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)をつけたものが磚槨墓です。以降、中国での王侯や貴族層の標準的な埋葬施設として微妙に形を変えながらも7-8世紀の唐の時代まで続きました。

一方、朝鮮半島では、紀元4世紀頃、まず、中国に接している北部の高句麗に、この埋葬様式が伝わりました。それは当地特有の石積みの方墳に横穴式石室を採用したものであり、当初は墳丘上部に玄室を造営していましたが、5世紀代に至ると、地上と同じ高さに玄室を造営して、それを丸い土の墳丘で覆うようになり、全体的に墳丘は小型化しました。こうした玄室の造営場所の変化は、約1世紀後の横穴式石室が伝来した我が国においても見受けられました。

朝鮮半島で高句麗の次に横穴式石室が伝わったのは朝鮮半島南西部に位置する百済でした。それは4世紀後半頃であり、当初は高句麗と同様、石積みの方墳が採用されました。やがて百済においても、横穴式石室に小墳丘を被せた円墳へと変化しました。そして5世紀後半になりますと、あらためて中国南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墳墓として造営されるようになりました。その意味で、6世紀前半に造営された百済の武寧王の陵墓は、その最高峰であると云えますが、墳丘は大きくはない円墳でした。

高句麗や百済と比べて、中国からは遠くに位置する新羅や伽耶での横穴式石室の採用は5世紀後半から6世紀前半と、やや遅れます。他方で面白いことに、新羅の王侯の墳墓が、当地特有の積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変化する際に、その造営場所も、王都である慶州から、その周辺各地域へと分散する傾向があるのです。そこから、横穴式石室の採用とともに、新羅においても日本列島と同様に造営の原則が、中央への集中から、本貫の土地での造営へと変化していく様相が看取できます。

日本列島において横穴式石室が造営されるようになるのは、九州北部では4世紀末期と、比較的早い時期であると云えます。しかし、それが在来の伝統的な竪穴式石室との折衷といった、いわば中途半端な段階から、地上の高さに玄室が造営され、墳丘も小型化して、名実ともに横穴式石室の葬送思想へ転換したのは、朝鮮半島辺縁に位置する新羅や伽耶と同じ頃の5世紀後半から6世紀前半のことであり、さらに、それが東日本、東北地方南部にまで達して普及するのは6世紀後半のことでした。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
横穴式石室の起源は、中国で紀元前4-5世紀に現れた「磚槨墓」と呼ばれる埋葬施設です。この埋葬施設は、レンガのような焼き物のブロック(磚)を積み上げて玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)を設けたものです。以降、中国では王侯や貴族層の埋葬施設として、微妙に形を変えながらも7-8世紀の唐代まで続きました。

朝鮮半島では、中国に接する北部の高句麗が最初に、この様式を取り入れ、4世紀頃には石積みの方墳に横穴式石室を採用しました。また初期には、墳丘の上部に玄室を造っていましたが、5世紀代に入ると、地上と同じ高さに玄室を設け、その上に丸い土の墳丘を被せ、墳丘全体としては小型化しました。このような玄室の造営場所、墳丘の大きさの変化は、約1世紀後の我が国においても見られました。

百済では、高句麗に続いて4世紀後半頃に、この様式を採用し、当初は高句麗と同様に石積みの方墳でしたが、やがて土による小さな円形の墳丘を被せた横穴式石室へと変化しました。そして5世紀後半になりますと、南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墓として造られるようになりました。

新羅や伽耶では、さきの高句麗や百済よりも遅れて、5世紀後半から6世紀前半に採用されました。また面白いことに、新羅の王侯の墳墓が、積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変わるときに、造営場所も、王都である慶州から周辺地域へと分散する傾向がありました。そして我が国においても、さきの新羅と同様、横穴式石室が採用されたことで墳墓の造営原則が中央集中から、本貫の土地での建設に移行する変化が見られました。

日本列島での横穴式石室は、4世紀後半に、九州北部にて造営されるようになりましたが、当初は伝統的な竪穴式石室との折衷的な段階に留まっていました。しかし、新羅や伽耶のような朝鮮半島での辺縁地域と同じ頃の5世紀後半から6世紀前半にかけて、元来の横穴式石室の葬送思想へと変化して、地上に玄室が造営され、墳丘も小型化していきました。さらに、これは6世紀後半頃には東日本や東北地方南部にまで伝播しました。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです②☟
横穴式石室の起源は、中国において紀元前4-5世紀に現れた「磚槨墓」と呼ばれる埋葬施設である。この埋葬施設は、焼き物のブロック(磚)を積み上げて玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)を設けたものである。その後、中国においては、微妙に形を変えながらも、王侯や貴族層の埋葬施設として、7-8世紀の唐代まで続いた。

朝鮮半島においては、最初に、中国に接する北部の高句麗が4世紀頃に、石積みの方墳に横穴式石室を採用し、地上と同じ高さに玄室を設け、その上に丸い土の墳丘を被せた。その後、百済でも高句麗に続いて4世紀後半頃に、石積みの方墳から土による小さな円形の墳丘を被せた横穴式石室へと変化し、さらに南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墓として造られるようになった。

新羅や伽耶においては、高句麗や百済よりも遅れて5世紀後半から6世紀前半に横穴式石室が採用され、新羅の場合は、王侯の墳墓が、積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変わるときに、造営場所も、王都である慶州から周辺地域へと分散する傾向があった。

日本列島においても、4世紀後半に九州北部にて横穴式石室が造営され始めたが、当初は竪穴式石室との折衷的な段階に留まっていた。しかし、新羅や伽耶のような朝鮮半島での辺縁地域と同じ頃、元来の横穴式石の葬送思想へと変化して、地上に玄室が造営され、墳丘も小型化していきました。そして、6世紀後半頃には東日本や東北地方南部にまで伝播しました。

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2023年5月8日月曜日

20230507 紀州・和歌山での特徴的な横穴式石室の造営様式から

一般的に、我が国の古墳造営様式は、はじめに弥生時代以来の墓制を継承したカタチで竪穴式石室が発達して、それが各地へ伝播しました。

その後、4世紀末頃に朝鮮半島・中国大陸から北部九州に新たな古墳造営様式である横穴式石室が伝来、そして列島を東漸して、6世紀に至ると東日本や東北地方南部にまで達しました。

竪穴式石室と異なり、横穴式石室は、玄室と羨道によって構成され、羨道は古墳外へとつながっています。この造営様式により、数世代にわたり、複数の遺体を同じ墓(玄室)に葬る「追葬」が可能になり、これが一般化していきました。

また、双方の造営数についても、全国的に後期古墳を特徴付ける横穴式石室の方が圧倒的に多く、その背景には、おそらく、どの地域であっても、安定した支配体制が確立して、また安定した食糧を含む各種生産が可能になると、ある程度手が込んでいて、さらに追葬も可能な(ある意味合理的な)造営様式(横穴式石室)での墳墓の造営が盛行するといった様相があるように思われます。

これを異言しますと、地域の支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が大幅に増加し、それに適応した墳墓の造営様式が横穴式石室であったのだと云えます。

こうした現象は、これまでにも何度か述べてきました紀州・和歌山においても概ね同様であり、彼の地においては、現在の県庁所在地である県北部の和歌山市およびその周辺に横穴式石室を造営様式を主体として、いくつかの古墳群を形成して、総数1000基程度の古墳があります。対して県全体での古墳の数は1600基程度とされていることから、およそ県全体での古墳総数の三分の二ほどが、和歌山市とその周辺に存在していることになります。

この横穴式石室を主とする和歌山市および、その周辺での古墳の造営様式は、当地ならではの特徴的な点がいくつかあり、それは、中央構造線もしくは紀ノ川流域にて多く採られる緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、さらに玄室内には同青石を用いた棚か梁状に懸架したものが多いことで、こうした特徴を持つ古墳は、県内有数の横穴式石室を主とする古墳群である岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。

くわえて、興味深いことは、前述のように本来、中央構造線あるいは紀ノ川流域(南岸)にて採掘される緑泥片岩(青石)を用いた同様の造営様式を持つ古墳が、奈良県北部の生駒郡平群町や、紀ノ川(吉野川)流域からほど近い現奈良県の複数地域からも見つかっており、それぞれの地域には、かつての紀州北部(現和歌山市およびその周辺)を治め、また、さきの「岩橋型横穴式石室」の有力な造営主体と考えられている紀氏との繋がりを示す地名や神社などが残っているため、おそらく、これらは当時のヤマト王権に何らかのカタチで出向していた紀氏に出自を持つ方々の墳墓であったのではないかと思われます。

やがて、そうした故地との繋がりが希薄になり中央官僚化した流れも出てきて、そこから文人として知られている紀長谷雄や同紀貫之が出てきたものと思われます。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
日本の古墳造営様式は、最初は弥生時代以来の墓制を継承、発展させた竪穴式石室が一般的でした。その後、4世紀末頃には横穴式石室が大陸から伝わり、6世紀代に至るとこれが一般化しました。横穴式石室は玄室と羨道で構成され、羨道は古墳の外に続いています。これにより複数世代の遺体を同じ墓に埋葬する「追葬」が一般化しました。横穴式石室の方が全国的に見て圧倒的に多いのは、ヤマト王権による支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が増加して、それに適応した墓制が横穴式石室であったためと云えます。

和歌山市とその周辺には、県全体での古墳総数の三分の二ほどが存在し、その主体である横穴式石室の古墳の多くには特徴的な点があります。それは当地特産の緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、玄室内には同じ青石を用いて棚か梁状に懸架したものが多いことです。そして、この造営様式を主体とする古墳は、市内にある岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。

同様の造営様式を持つ古墳は、奈良県北部の平群町や紀ノ川の上流である吉野川流域の複数地域からも見つかっており、そこから、それらの被葬者は、同地の豪族である紀氏に出自を持つ人々であった可能性があります。また、紀氏には、中央官僚化した流れもあり、そこを出自とする文人として紀長谷雄や紀貫之が挙げられます。

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