2022年10月21日金曜日

20221020 【架空の話】の背景の詳細について

おかげさまで昨日の投稿記事は、投稿翌日としては比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、そこでの内容から、本日の投稿記事については【架空の話】の続きを・・といった流れになると思われるところですが、過日の新型コロナ感染下での朦朧とした中で生じた、意識の変化は、前述の通り【架空の話】続編の作成を促すものであったのと同時に、その背景・文脈となる出来事の記憶や考えについてもまた、文章として著してみたいというものでもあり、そこから、本日についても昨日と同様、続編の作成はせずに、その周辺にあることについて述べて行きたいと思います。

 先ず、一連の【架空の話】では、設定として「医療専門職大学運営機構」という組織が存在し、その運営は、主に民間のシンクタンクが担っており、さらに、その資金の出所は、医師会・歯科医師会や民間運営の大手医療機関、あるいは製薬会社や医療機器メーカー、そして大学といった研究機関となっています。これらの組織から、それぞれ「医療専門職大学運営機構」へスタッフが出向・派遣されて、その中で、さまざまなデータに基づき、各地域毎に設置される専門職大学の立地や学科編制などが、さきのシンクタンク・スタッフ等と検討され、その結果が各地域自治体等の既存組織に報告され、今度は、その中で、ある程度具体的な設置の方向性について検討されるのですが、ここで、スムーズに、ほぼ運営機構側から提出された原案のままで通る地域があったり、あるいはまた、議論が難航し、差し戻しの再検討が繰り返された地域もありましたが、しかし、その骨子である「地域に学費が安価な医療系大学の新設を」自体は、どの地域であっても共通する要望であったことから、最終的には、概ね一年程度の交渉にて、運営機構側と自治体等の既存の地域組織との間に合意が成立し、比較的スムーズな設置合意に至り、用地の選定や地域毎の運営側組織の選定へと至ったのですが、ここでの在地運営組織の選定も思いのほかに難航して、二転三転することもありましたが、地域の医師会・歯科医師会、そして民間大手医療機関や在地志向の研究所などが入ることは、概ね当初からの読み通りであったと云えますが、ここで、さきに述べた「製薬会社や医療機器メーカー、そして大学」といった在地志向性が比較的乏しい組織からの意向が強くなると、話が難航することが多かったとのことですが、これに関しては、これまでに既に国内複数地域に、いくつもの看護大学を擁している学校法人日本赤十字学園や青葉学園(東京医療保健大学の運営元)などが運営機構に属し、スタッフも出向していたことから、それまでの在地各組織との交渉経験が活かされたと聞いているが、しかし、運営機構に属している大学組織は、これら二つのみではなく、その他には、首都圏の老舗私立歯科大学や医学部の新設を狙う老舗私立大学や、医歯薬看護などを網羅した地方の国立大学法人といった大学が加盟していましたが、具体的には【架空の話】内に登場するK医療専門職大学の場合では、これまでの【架空の話】での文脈から、在地の国立大学法人が加盟している可能性が濃厚と云え、そうした事情のあらわれが、登場するS教授のように、設立当初の医専大各学科の教授職は、在地国立大学法人の教授が兼任するといった様相になっていると云えます。

【架空の話】を作成している側としましても、背景組織などについても少しは考えているつもりではありましたが、こうしてあらためて文章として書いてみますと、これはこれで自分なりにまた考えさせられました。しかし、ともかく、私見としましては、こうした学費が安価な医療系の専門職大学が国内に多数新設されることは、国の力を先細りさせることのない、比較的妥当とも云える未来への投資であるように思われるのですが、実際のところはどうなのでしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



2022年10月20日木曜日

20221019 【架空の話】への思いの変化について

先週の水曜日(10/12)に体調の悪化を自覚し、同日に検査を受けて新型コロナウィルス感染症に感染していることが判明してから、当初の2日ほどは、立って歩くことも儘ならず、頭が重く、咽喉も痛く、そして体の節々が痛むといった状態でした。それでも発熱はそこまで高くなく39℃まで届くことはありませんでした。やがて発症から3日ほど経つと、さきに挙げた症状も大分おさまりを見せ、書籍を読むことも出来るようになりました。とはいえ、ここでの読書はあまり頭に入らず、とりあえず字面を追うといった感覚が強かったと云えます。しかし、この字面を追い、文章を読むという行為自体も継続しておかないと、後の回復の際、大変になってしまう恐れがあることから、とりあえず、手に取ってはしばらく読み、そして次の書籍に換えてまた読む、といったことを意図などは気にせずに繰り返していました。しかし、こうした読書方法は、これまであまり行ったことがなかったことから、それなりに新鮮に感じられるものがありました。

そして、その「新鮮に感じられる」の内容とは何であったのかと考えてみますと、それは、奇しくも当ブログの作成についてであったと云えます。とりわけ、その中でも、これまでに90話以上作成してきました【架空の話】の続きをあらためて作成したいと思うようになりました。

しかしながら、さきに述べた比較的短時間での取っ替え引っ替えの読書が、どのような経緯により、新たな【架空の話】の作成意欲に結び付いたのかと考えてみますと、それは不明であり、あるいは、さきの読書方法に因らなくとも、病床に臥してから、少し回復に向かってきますと、これまで少しは留意していたものの、手をつけるまでには至っていなかったことに意識が向くものであるのか、さらに「では、次はどのようにして【架空の話】の続きを作成するか?」と考え、そして現時点までに作成した【架空の話】の内容の整理をはじめました。現在までに展開している【架空の話】では、K医専大口腔保健工学科での実務家教員選定の下準備として、医専大にて兼任教授も務めているK大学大学院医歯学総合研究科のS教授からの依頼により、かつてのS教授門下であり、現在は医専大口腔保健工学科にて助教として勤務しているE先生と、人文系(英文学)での背景を持ち、医専大OBであり、現在はK大学大学院医歯学総合研究科の博士課程に在籍している主人公「私」の二人が、東京・首都圏を訪問し、知己である地元の開業歯科医師から得た情報に基づき、はじめの歯科医院へ訪問したところになりますが、こちらの歯科医院での情報が比較的多いことから、ここで一度止まってしまい、そのままであり、他方では、主人公が、医専大の口腔保健学科・口腔保健工学科の1年生を対象とした教養科目の講義を担当することとなり、その1日目の様子と、K大学歯学部の3年生を対象とした歯科理工学実習「鑞付け」の様子を描いたものを【架空の話】として作成しましたが、これらも個人的には、それなりに思い入れのある、印象深い記憶ではあるのですが、どうも先が進まず、そのままにしてしまいました。

また、この【架空の話】に関しては、この1年間にて、何人かの方々から「あれはその先どうなっているの?」や「【架空の話】に登場する医専大は実在するの?」といったご質問などを何度か頂いていたことから「これはいつか続きを作成しなくては・・」と考えていましたが、これまでは、何かに制御されていたのか、どうも先を書き進めることが出来ませんでしたが、今回、さきに述べた新型コロナウィルスの感染による病臥の期間での読書により意識に変化が生じて【架空の話】の先を作成したいと思うようになりました。ああしたものは、同じブログ記事ではありながら「勢い」が重要であると思われることから、また勢いのあるうちの現在のストーリーの展開具合を整理して、さらに、そのことをブログ記事として公表することにより、否応なく先に進むようにと今回の当記事を作成した次第となります。

作成してみましたら、意外と長い文章となってしまいましたが、また今後も、とりあえず1900までは作成したいと考えておりますので、引続き、どうぞよろしくお願いいたします。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2022年10月18日火曜日

20221018 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「歴史を動かすもの」pp.113-115より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「歴史を動かすもの」pp.113-115より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである。江戸体制の惰力がすっかり消え、明治国家の重さが消滅し、昭和軍閥のデモーニッシュなイデオロギーも去り、可憐な日本人たちは数百年の深海生活から浅海に浮き上がってきた小魚のむれのように一時は水圧の変化に適応できずとまどいはしたが(あるいは、なおもとまどっているともいえるが)とにかく、有史以来、日本人がやっと自由になる、しかも近年にいたって日本人が有史以来、はじめて食える社会を持った(この食えて自由であるという事実を直視しなければならない。この事実に虚構のフィルターをかぶせることだけはやめてもらわねばならない)。

 活動家の学生諸子は権力ということばをつかいたがるが、過去との比較において、こんにちのこの国に「権力」らしい権力が存在すると考えることじたい、幻想である。政治はせいぜい調整的機能を果たしているにすぎず、今後、権力どころか政治そのものまでがその分野を小さくしてゆき、ついにはゲームになるかもしれず、あるいはいますでになりつつある。機動隊と学生活動家との間の表面的もしくは本質的光景がその一例であろう。

 しかしこまったことに、権力というこの魔神的な存在をめぐらなければ、酩酊的体質の人間は酩酊できないということである。虚構を実在たらしめるには大権力の存在が必要であり、ときには権力が敵方のものであっても、それが大きければ大きいほど、それを攻撃する側の虚構はいきいきとした現実感をもち、酩酊の度は深くなる。学生が、たかが調整機能でしかないいまの政府に対し「権力、権力」とお題目のようにさわぎたてるという心理の深層のなかに権力の大成長をのぞむ願望が当然秘められており、また政府を支援する重国家願望の酩酊体質者たちもまた学生さわぎを誇大に幻想し、重国家の到来を願望している。いずれにしてもひどい目にあうのは、普通のひとー非酩酊体質である。非酩酊体質としてはもうええかげんにせい、と叫びたいが、残念ながら叫ぶには酩酊を必要とする。酔ってもおらぬのに馬鹿元気を出して叫ぶわけにもゆかず、なんとなくテレビの騒動ニュースをみてむっつりしている。

 こういう非酩酊体質はカトリックでも日本の古念仏でも、古来地獄にも極楽にもゆけないとされておどされてきたが、しかし人間のうちの大部分を占めるこの種の人間どもを救ったのが、イデオロギーが支配権をうしなった近代的市民社会であった。日本史でいえば戦後二十数年の社会であったであろう。ただしここに、タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている。どうかそういう国が二度と日本にやってこないよう、タダの人間としては空念仏でもとなえているしか仕方がないようでもある。

 歴史はときに酩酊者に勝利を得さしめるが、ながい目でみれば歴史はこの空念仏群の強靭さの前に屈しつづけてきたようである。歴史を動かし社会に黙々と衣食を供給してきたのはこの層であるとむしろ自信をもって思ってやりたいが、どういうものであろう。

2022年10月8日土曜日

20221008 株式会社文藝春秋刊 大岡昇平著「対談 戦争と文学と」pp.108-111より抜粋

株式会社文藝春秋刊 大岡昇平著「対談 戦争と文学と」pp.108-111より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4168130509
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4168130502

いいだ 私は過去の日本の戦争というものを考えてみて、相変わらず全面的否定の立場ですけれども、ただこういうことがあるのですね。戦後の通念の一つに、ああいう戦争というものは、いわば日本の近代化とか西欧化というものと正反対のものであって、だから近代化して西欧化するということが、戦後の平和の出発であるという問題の立て方がありますね。私はそれにもまったく反対なんです。ある意味では、明治以来百年の、日本の近代化、西欧化というものの帰結が、ああいう戦争なんだと。兵隊を一銭五厘の赤紙で引っぱり出して、ぶったり蹴ったりして戦わせる、そういう、いわば暴虐な、前近代的な野蛮みたいなものも、私に言わせれば、やはり日本の近代化、西欧化、つまり追いつこう追いつこうということの避けがたい結果なんだ。私たちは特攻隊の世代ですから、学校で特攻死しているのがいますけれども、だから普通の世の中の通説と違うものを、僕ら特攻隊にも感じますけれども、無謀な玉砕であり、犬死であるという見方があるけれども、それを支えた特攻隊自身は、かなり、どうやってぶっつけるかということについての、精密な、数学グラフ的な処理もやっているわけですね。それから、彼らは一種の心情だけではないわけですね。自分は死ぬんだ、パッと散って、桜のようにきれいだということだけであれば、主観的な心情だけれども、彼らはそうではないわけで、自分の死によって、結果として、どういう戦争上のプラスが生れて、そのことは全体の戦局転換にとって、どういう意味があるかというような、自分の死自体をも一つの技術的計量のなかに組み込むという、一種の技術主義の極致みたいなものがあるのですよ、あのときの二十歳の若者のなかには、そういうものを考えてみると、単にあれが、よく言われる意味での玉砕精神で、単なる精神主義なんだということでななく、追いつき追い越そうということで、死にものぐるいにやってきて、しかもいろいろなものが足りない、いわば遅れたものとして、そこのところを追いつくにはどうしたらいいかという、かなり技術的な計量があってやっているのだと思いますね。

大岡 僕は「レイテ戦記」で神風特攻は全部記録しましたが、レイテ戦からリンガエンまでは、そういう技術的な面が主なんですよ。パイロットもまだ少しは訓練を受けた経験がありますからね、突っ込むのにも技術がいるのですから。従って自然に全機特攻となったリンガエンがいちばん効果的なんで、二百機ぐらいでそうとうの効果をあげている。沖縄戦の段階に大本営で全機特攻の方針がきまり、特攻用の若者を召集しはじめる。海軍の天号作戦には七千機が参加している。敵の艦隊と神風との決戦になるわけなんです。こういう戦争の形はこの後歴史でくりかえされることはないでしょうけれど、これには日本が第三世界的なところにいた証拠かもしれませんね。第三世界にいながら近代的な装備を持った国が、一方にいなければ沖縄戦は成り立たなかった。しかしおしまいのほうになると、日本の軍隊構成の欠陥が出て来るんです。「きけわだつみのこえ」というのは、実に痛ましくて、ずっと読めなかったので、こんど必要から読んだのですけれども、特攻という行為と送り出されるまでの兵営の生活に矛盾があるのですね。突っ込む操縦だけ教えられて、生死の問題は自分で論理的に解決する。ところが敗戦間際になると「神風」だと思って大きな顔をするなと言ってなぐられたり、出撃前夜、女にふられたりする。兵営の生活の現実というものが自分の覚悟を支えてくれない。日本の勝利も信じられなくなる。使いものにならない練習機に乗らないとぶんなぐられるというようなことで、沖縄へ行く途中でふらふらと海におっこちてしまうというようなことが起きてくる。結局、日本の軍隊の組織の欠陥、腐敗からだめになる。本土決戦は支配層が暴動をおそれてやめたんですが、どうせ成立しなかった。自分で手段を選びとってやったパイロットはそれぞれ立派で、実際、戦果もあげるのですけれども。

20201007 歴史への理解の経緯と、もののあはれ?

連携させるブログ記事やツイートなどを変えて投稿したためか、昨日の引用記事は投稿翌日としては多くの方々に読んで頂けました。こちらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、その内容については7年前に投稿した引用記事である「20151030 竹山道雄著「昭和の精神史」講談社刊pp.113-119より抜粋」内に「特攻隊や「七つボタン」は真に悲劇だった。あれがナチスのような人間奴隷視から生まれたのなら、まだしも救いはあるが、日本の場合はそうではなかった。絶体絶命の窮余の戦術だった。その責任者の大西中将は自刃した。そして、あのくわしい日記「戦藻録」をつづった宇垣纏海軍中将は、みずから八月十五日に「まだ停戦命令がでてゐないから」とて、沖縄に特攻突入した。そのときのことを、この日記のあとがきにつぎのように記してある。・・」と、同じ場景の記述があり、それぞれの書きぶりから、現在の我々では理知的には理解し難く、しかし同時に現在の我々の感性とも全く無関係とは云えない、通底する、ある種の悲劇性や悲壮感が感じられ、手のひらで額と両目を覆いたくなります・・。

そしてまた、こうした悲劇性や悲壮感に思いを巡らしますと「では、何故、当時の我が国はこうした局面に至るまで戦争を継続したのか?いや、それ以前に、何故、そして誰が、このような戦争をはじめたのか?」と考えが至るのですが、その歴史的経緯については、以前より、そうした、やるせない思いから生じる疑問を抱くことが度々あったことから、その理解が深まるであろうと考えられる著作をいくらか読んできました。

そして、そうした著作ついても、過日投稿の記事にて述べた、自分なりの人間交際(じんかんこうさい)から得た情報に基づいて入手してきました。

しかし、以前の投稿記事においても述べましたが、それ以前から私は、太平洋戦争・第二次世界大戦を含む近現代史が好きであり、関連する著作や映像資料はそれなりに目を通してきたつもりですが、若い時分は、我が国からの視座から生じる、さきの悲劇性や悲壮感といったものは、どうしたわけか、あまり感じることはありませんでした。

これは、現在考えてみますと、おそらく、実人生での経験が乏しく、著作や映像資料にて扱っている歴史的経緯や各々の場面に対して、内発的な興味や、それに伴う知識などは、ある程度あるものの、それらに対する血の通った情感を伴う理解、あるいは古いコトバで云うところの「もののあはれ」と近しいものであるかもしれませんが、そうした、ある種の感覚が発達していなかったことに因るのではないかと考えられます・・。

しかし他方で、当時は、こうした感覚が発達していなかったからこそ、悲劇性や悲壮感といった、ネガティブな痛みを伴う感情をおぼえることなく、興味の赴くままに書籍や映像資料に目を通し、より多くの知識を得ることが出来たのではないかとも思われるのです。

そこから、こうした時期も、播種と云う意味においては、きわめて重要であり、ここで得られた、さまざまな知識が後になり発展し、そして変転や変態を遂げて、自分なりの考えとして結実するのではないかと思われます。

そしてまた、こうした結実に至る現象自体は、人文社会科学・自然科学系といった分野を問わず、知識の集積と実人生での経験の化合により結実する、ある程度体系的な考えと云う意味において、共通しているのではないかとも思われますが、どうも我が国においては傾向として、おそらくは相当古くから「情感を伴う内発的な興味を抱きつつ、歴史的経緯を事実から類推する」といったことが、かなり苦手であり、また、おそらくはそれに因り、当記事冒頭にある悲劇的な場景へと至ってしまったのではないかとも思われるのです・・。こうした堂々巡りもまた、それなりに苦しいものではありますが、しかし、昨今の我が国での出来事を見聞きしていましても、どうも、この堂々巡りから脱するような気配や出来事といったものが無いように見受けられますが、こちらも実際のところはどうなのでしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2022年10月6日木曜日

20221006 早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」〔新版〕5 :平和への道 pp.313‐314より抜粋

早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」〔新版〕5 :平和への道
pp.313‐314より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504385
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504380

 九州の大分基地では、宇垣中将が最後の神風攻撃の準備をしていた。彼は、日記で報復を呼びかけた。

 事ここに至る原因については種々あり。自らの責また軽しとせざるも、大観すれば、これ国力の相違なり。独り軍人たるのみならず帝国臣民たるもの今後に起るべき万難に抗し、ますます大和魂を振起し皇国の再建に最善を尽し、将来必ずやこの報復を完うせんことを望む。余また大楠公精神をもって永久に尽すところあるを期す。

 宇垣は階級章をすべてむしり取った制服をつけ、双眼鏡と山本から与えられた小刀を持って、飛行場にやって来た。計画では三機による攻撃だったが、十一機の小型爆撃機が待機していた。宇垣は小さな台に上がると、集まった航空隊員に「皆、それほど、私といっしょに征ってくれるのか」と問いかけた。いっせいに手が上がった。宇垣は先導機の飛行士の後部座席にのぼって入った。彼に座席をとり換えられた遠藤明義兵曹長が抗議した。「長官は私の座席をとってしまわれました。」

「貴様はクビだ」宇垣は意味ありげに微笑して言った。遠藤は負けずに、よじ登り、宇垣のわきに割り込もうとした。宇垣はよしよしと体をずらした。

 四機がエンジンの不調で引き返さねばならなかったが、その他はそのまま沖縄に向かって行った。午後七時二十四分、遠藤は宇垣の感動的な別れの言葉を打電した。

 過去半歳ニワタル麾下各隊ノ奮戦ニカカワラズ 驕敵ヲ撃砕シ 神州護持ノ大任ヲ果スコト能ワザリシハ本職不敏ノ致ストコロナリ。本職ハ皇国無窮ト天航空部隊特攻精神ノ高揚ヲ確信シ 特攻隊員ガ桜花ト散リシ 沖縄ニ進攻 皇国武人ノ本領ヲ発揮シ 驕敵米艦ニ突入撃沈ス。指揮下各部隊ハ本職ノ意ヲ体シ 来ルベキアラユル苦難ヲ克服シ 精強ナル国軍ヲ再建シ 皇国ヲ万世無窮ナラシメヨ。天皇陛下万歳。

数分後、遠藤は機が目標に突入しつつあると報告してきた。

2022年10月5日水曜日

20221005 自分にとって重要な意味を持つ著作を見つける意味について(口語と文語・人間交際?)

おかげさまで、昨日投稿分の記事も比較的多くの方々に読んで頂けました。こちらを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。さて、この記事では文章の作成において「読書や会話などが良い効果を齎すのではないか」と述べましたが、これまでの経験から、これは間違いではないと思われます。また、その中での読書、つまり書籍を読むということは、多くの場合、その著者との対話を行うということであり、これがスムーズに為されれば、それに応じて頁もまた進み、そしてより楽しい読書経験になると云えます。しかし、読み進めるのが困難である場合は、その文章の意味を調べたり、あるいは考えながら進めなければならないため、決して楽しい読書とは云えないと思われます。とはいえ、それが自分にとって何か重要な意味を持つ著作であるのならば、調べ、考えながらの読書もまた、決して面倒ばかりではなく、さきの意味とは異なった楽しさが感じられるのではないかとも思われます。

そして、そこで問題となってくるのが「自分にとって重要な意味を持つ著作」を探し出すことであると思われます。他方で、図書館や大型書店などに行きますと、一生掛けても到底読み切れないほどの書籍が刊行されていることを実感させられます。その中から「自分にとって重要な・・」を見出すことは、少なくとも、そこまで簡単ではないように思われます。では、どのようにして、その「重要な著作」を見つけ出すのかと考えてみますと、ここで「人との会話」に一つの重要な意味があるように思われるのです。これについて私見を述べさせて頂きますと、我々が日常用いている言語は、当初に口語として発達し、そして、その意味を凝結させたものが文語・文章であると云えます。つまり「はじめに口語ありき」であると云えます。それに伴い、我々の言語に対しての感性もまた、口語の方に理解の重点が置かれているものと考えます。端的に、自分の感性に基づいた判断に際しては、口語による経験、つまり会話に基づいてした方が良いと思われるのです。しかしながら他方、会話において、あまり事実には依拠しない、感性的とも云える内容を、それらしく流麗に語ることと、さまざまな事実とされるデータに基づいて、ある程度事実と云い得る妥当性を呻吟しながら訥々と語るのでは、前者の方により魅力を覚えるのが、我々多くの一般的な反応であると思われます。しかし、それを起点として、さらに研鑽を重ねることにより、後者の方がより妥当であり、且つ伝わり易い言語表現にたどり着き、そして徐々に前者を凌駕していくのが、ある程度の長さの期間で見た、社会にて度々生じている循環のようなものではないかと思われるのです。その意味で、丁度、現在の我が国社会あるいは、より広く、世界のさまざまな場面において、後者が前者を凌駕していく過程にあるのではないかと思われるのです。こうした社会の変化とは、おそらく江戸時代から明治時代への変化がそうであったように、人々の話すコトバつまり口語に変化が生じて、それが徐々に文語にも影響を及ぼしていくのだと思われますが、そうした中で「自分にとって重要な意味を持つ著作」を人との会話を通じて見出していくということは、一つの道楽的な趣味としても、また社会をよく見抜くための勉強としても、それなりに面白く、あるいは福沢諭吉が「学問のすすめ」内で述べた「人間交際」(じんかんこうさい)にも時代背景的に、そうした意味合いもあったのではないかとも思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。