2022年2月27日日曜日

20220226 投稿記事の閲覧者数から思ったこと

 ここ数日間はロシアのウクライナへの侵攻という世界規模の大きな出来事があり、当ブログにおいても、この出来事の考察に資するような書籍の記述を引用記事としてきましたが、おかげさまで、それらの記事はどれも、それなりに時宜を得ていたためか、比較的多くの方々に読んで頂けていました。そしてまた、本日に関しても、引用記事を以て充てようと考えていましたが、内からのよく分からない圧力によって、自らの文章にて作成することに考えを変えました。

たとえブログであっても、しばらくの期間、自らの文章を作成しないでいると、鈍ると云いますか、ある程度集中している状態での文章作成に至るまでに掛かる時間が長くなるようで、反対に、この時間が短い方が、より効率的な文章作成が出来ると思われ、実際にそれは間違いではないと云えますが、他方で、意識して効率的な文章作成を試みた方が良い文章をより多く作成出来るというわけではないようです・・。

これまでに(どうにか)ブログ記事の作成を続け、ある種の感覚が麻痺したためか、あまり気負いや気後れなどを感じることなく、公表する文章の作成が出来るようにはなった感覚はありますが、しかし未だに「自分の文体を獲得・確立した」といった認識はありません。では、そうした状態にて、良い文章の指標となるものを検討しますと、それは記事(文章)の閲覧者数により示されるのではないかと思われます・・。

それは「良い記事(文章)であれば、より多くの方々に読んで頂けるであろう」という単純な考えに基づきますが、ともあれ、そこから、比較的多くの閲覧者数を得ている当ブログの記事をいくつかあたり、各々作成していた頃を想起してみますと、概して効率的な文章作成を意識していた時期ではないものの、ほぼ毎日でのブログ記事の作成を日課としていた頃であり、具体的には2017~2018年の作成記事に集中していたと云えます。

丁度この頃は1000記事への到達が現実味を帯び、勢いづいていた頃であり、また、その文章からは、あまり意識はされていないものの「自信」のようなものが感じられます。では、それに対して現在はと考えてみますと、何と云いますか、そうした「勢いや自信」はないものの、ブログ記事作成いや、文章作成での新たな段階に至ろうとして、右往左往しつつ、どうにか続けているといった感じがあります。

こうした時期は、さきの大きな目標(1000記事到達)を目指し、進めていた時期と比べますと現実味のある大きな目標はなく、ただ、これまでのブログ継続の経験によって何とか続けているといった感が強く、また、その「勢い」は、かなり減衰していると云えます・・。とはいえ、それでも(どうにか)続けることが出来ていることから、客観的には、あまり、それらの間に違いなどは認められないのかもしれませんが、作成者側からしますと、明らかに異なるように感じられ、また、それが閲覧者数にも関与しているのではないかと思われるのですが、このあたりのことに関しては、あるいは「何か」があるのかもしれませんが、今後、またしばらく作成を続けつつ、その「何か」を検討し続けてみようと思います。

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2022年2月25日金曜日

20220224 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著 「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」pp.56-59より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.56-59より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

ここで少し歴史を紐解いて、ロシアとトルコの戦略・地政学的な対立構図を整理してみよう。ロシアは帝国として台頭する際に、ポーランドなど西欧方面への支配領域の拡大と、ウラル山脈を越えてシベリアを支配下に置き太平洋岸にまで到達する「東漸」、そして黒海北岸地域や南北コーカサス、中央アジアに侵攻する「南下政策」の三方向で拡大していった。西欧への拡大が先進国の仲間入りをするためであったとすれば、東漸の目的は資源獲得であり、南下政策の目的は世界帝国に不可欠な不凍港を求め、地中海へのアクセスを確保することにあっただろう。オスマン帝国はロシアの南下政策の圧力を正面から受け、繰り返し露土戦争を戦っていくことになる。

 露土戦争は、歴史を遡れば16世紀に始まる。クリミア半島を中心とした黒海北岸地域は、かつてはタタール人という、トルコ人とも類縁性の深い、広い意味でのトルコ系の言語(チュルク系諸語)を話す諸民族が住んでおり、「タタールの軛」とも言われたように、スラブ系のロシア人を征服・支配し従属させる立場だった。オスマン帝国は15世紀のスルターン・メフメト2世紀以来、たびたびクリミアに軍事遠征を行なって、タタール人の現地の政権である「クリミア・ハン国」を服属させることで、黒海沿岸地域を間接的に支配し属領とした。これに対してロシアがたびたび遠征を行なってクリミア半島を支配下に置こうとした。これがロシアとトルコの間で数世紀にわたって続けられた、数え方によっては十数回に及ぶ「露土戦争」の発端である。もっとも古くまで遡れば、1568年にオスマン帝国がロシアの支配下にあったアストラ・ハン国に遠征を行なってロシアと戦い、敗れて、1570年にコンスタンチノープル条約を結んだが、これ以降ロシアはオスマン帝国の黒海沿岸地域を脅かすようになる。

 この時点でオスマン帝国とロシアの関係は拮抗していた。しかし17世紀末以降。オスマン帝国が緩やかに軍事的な衰退期に入るのに対して、ロシアは帝国として勃興し、「南下政策」を推進してオスマン帝国領土を蚕食していった。

 オスマン帝国は軍事的な最盛期に達する16世紀までは、西欧・ロシアとの国際関係を圧倒的に優位な立場から結ぶことができた。イスラーム法に基づいたオスマン帝国側のルールを適用して西欧諸国との外交も行い、西欧諸国はオスマン帝国と外交・通称関係を結びたければそれに従うしかなかった。オスマン帝国在住の西欧諸国民に領事裁判権などの特権を与えた「キャピチュレーション」も、元来はイスラーム法の下での異教徒支配の原則を準用して、外国人の異教徒に「恩恵」として与えたものであった。

 オスマン帝国が軍事と外交面での優位性を失い、西欧の国際法秩序を受け入れることを余儀なくされた時期が、1699年にハプスブルグ帝国との間で締結したカルロヴィッツ条約とされる。1683年にオスマン帝国が、16世紀のスレイマン1世以来となる第二次ウィーン包囲でハプスブルグ帝国を脅かしたものの、失敗。逆に、ローマ教皇の呼びかけでカソリック諸国の「神聖同盟」が結成され、正教のロシアもこれに加わって、オスマン帝国の侵略に立ち向う同盟が結成されていた。それによって不利な条約の調印へ追い込まれたのである。

 ロシアがオスマン帝国との関係で決定的に優位に立つのが、1768-1774年の露土戦争の結果のキュチュク・カイナルジャ条約で、ここでオスマン帝国はクリミア・ハン国への宗主権を失うと共に、オスマン帝国領内のギリシャ正教徒にロシア皇帝が保護権を持つと認めさせられる。それ以来、ロシアは軍事的に領土を蚕食するだけでなく、正教信徒の保護を理由とした内政干渉を行うようになっていく。他の列強諸国も対抗して軍事介入を行うと共に、オスマン帝国内の少数派の保護を名目とした介入・内政干渉も競うようになる。ロシアはこの時、クリミア・ハン国をまず形式的にオスマン帝国から独立させた上で、1783年にクリミアを占領し、属国とした。軍事力を背景にした内政干渉により、外国の領土の中に親ロシア派の「自治」の領域を切り分け、のちに独立承認といった手続きを経てロシアに併合する、というロシアの拡張のパターンが定まってきた。

2022年2月24日木曜日

20220223 作成記事の書きぶりにより、体力消耗の様相が異なることから思ったこと

ここ数日間のブログへの投稿は、書籍からの引用としましたが、おかげさまで、どれも比較的多くの方々に読んで頂けました。くわえて、直近投稿の「【架空の話】・其の83」も自身作成の記事としては多い閲覧者数となっていました。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

また、本日に関しても、さきほどまでは書籍からの引用にて記事作成を行うつもりでしたが、考えをあらためて、自分の文章での作成としました。とはいえ、その主題は未だ決めておらず、見切り発車的に記事作成を始めたわけですが、こうして何やら作成していますと、それまでの印象的な出来事や書籍の記述などが思い出され「ああ、ここから、この展開で書き進めれば、またそれなりの文量を作成することが出来るかもしれない・・。」といった感じになることが多いのですが、スランプ状態にある場合では、この主題・テーマの飛び移りが上手く行かないといった感じがあると云えます。

あるいは、記事作成時の主題・テーマの飛び移りの際が、体力を多く消耗すると云えることから、端的にスランプ状態とは、何らかの理由により、体力が消耗している状態であるとも云えるのかもしれません・・。

また、それに加えて興味深く思われたことは【架空の話】の作成に際しては、その最中に主題・テーマの飛び移りをする必要はあまりなく、ある種、頭の中にあるストーリーを文章へと変換しているといった感があるのですが、このストーリーに関しては、大きな流れは既にありますが、その中の個々の話の展開については、ストーリーを文章へと変換をしているさ中に、作成した記述から、それに関連する記憶が想起されて、さらに先に繋がっていくといった感があると云えます。そして【架空の話】の作成においては、さきに述べた主題・テーマの飛び移りに際しての体力の消耗は少ないものの、一方で、記憶が励起され想起に至るまでの文章の作成において、体力が消耗するように思われるのです。

つまり、独白形式であれ【架空の話】であれ、作成時の体力の消耗の様相は若干異なるものの、消耗自体は少なからずあると云え、あるいは、それらにどうにか対応出来るようになったことも、私としては進化と評し得るのかもしれません・・。

また、であるからと云って、ここで更なる効率的な文章作成技術の向上を願うのではなく、多少緩慢ではあっても、ともかくも、何かしらの文章を作成し続けることの方が重要であるように思われるのです。

そして、ここで想起されたのは、以前投稿のブログ記事にて引用したゲーテ著「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」内以下の記述です。

「小説でも戯曲でも、われわれが見るのは、人間の性質と行為とである。両者の差別は単に外形にあるのではない。即ち一方では、人物が話をし、他方では、通常その人物について語られるというような点に、差別があるのではない。だが、情けないかな、多くの戯曲は対話体の小説に過ぎない。これでは、戯曲を書簡体で書くこともできないことはない。小説では特に心情と事件とが現されねばならない。戯曲では性格と行為とが現されねばならない。小説は徐徐に進行し、主人公の心情が、どんな方法によるにせよ、全体の急速な進展を引き止めるのでなければならない。戯曲は急ぐべきもので、主人公の性格は終局に向かってまっしぐらに進むべきであって、ただそれが食い止められているのでなければならない。小説の主人公は受動的であるべく、少なくとも甚だしく能動的であってはならない。戯曲の主人公には活動と行為とが望ましい。小説では偶然の働きを許すことはできるが、それは常に人物の心情によって導かれねばならない。これに反し、人間の関与をまたず、独立した外的の事情によって不測の破局へ人間を駆って行く運命は戯曲にのみ存在する。偶然というものは愁嘆場をひき起こしはするが、悲劇的な情態を作り出すことはできない。これに反し、運命は常に恐ろしいものでなければならない。そして、罪のある、あるいは罪のない、互いに独立した行為を、不幸に結びつけるような場合には、運命は最も高い意味で悲劇的となる。こういう考察は再び、あの驚嘆すべきハムレットと、この作品の特性との考察にもどった。みんなは次のように言った。この主人公は元来心情を持つだけである。また彼に起こって来るものは事件だけである。したがってこの戯曲には小説のように間ののびたところがある。しかし全体の結構は運命の描くところであり、全曲は恐ろしい行為から出発している。また主人公はたえず恐ろしい行為に向かって駆り立てられている。したがってこの戯曲は最高の意味で悲劇的であり悲劇的結末に終わるほかないのである。」

さて、以上を読み思ったことは、小説と戯曲の間にある相違について、それは書きぶりのなかで小説は心情と事件に重点を置き、それに対して戯曲は性格と行為に重きを置くと述べていますが、これは、さきに述べた当ブログでの独白形式と【架空の話】それぞれの、記事作成時における体力消耗の様相とも何かしら関連があるように思われたということです。そしてまた、今後作成する【架空の話】の書きぶりについては、以上の点をもう少し踏まえて検討してみたいと思います。というのは、ここ最近作成した【架空の話】から、その書きぶりが当初の頃と比べ、随分変化したと感じられたからですが、こうした変化の基層には、何らかの法則やパターンそして普遍的な要素といったものはあるのでしょうか?

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2022年2月22日火曜日

20220222 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.299-302より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.299-302より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

私たちはぞくっとするような「ポスト・トゥルース」の新時代に生きており、どちらを見ても嘘と作り事ばかりだと、近頃繰り返し言われている。例はいくらでも出に入る。たとえば2014年2月下旬、軍の徽章をつけていないロシアの特殊部隊がウクライナに侵入し、クリミア半島の主要な軍事基地を占領した。ロシア政府とプーチン大統領本人が、彼らをロシアの部隊であることを再三否定して、自発的に組織された「自警団」だとし、地元の店でロシア製のように見える装備を手に入れたかもしれないと主張した。この荒唐無稽な説明を口にしたとき、プーチンとその側近たちは、嘘をついていることを百も承知していた。

 ロシアのナショナリストたちは、より高い次元の真実のためになると言い張って、この嘘を大目にみることができるだろう。ロシアは正義の戦争を行っていたのであり、大義名分のためには人を殺すことが許されるなら、嘘をつくことも当然許されるのではないか?ウクライナ侵攻を正当化するとされる、このより高次の大義名分とは、ロシアという神聖な国家の維持だった。ロシアの国家神話によれば、ロシアは神聖な存在で、不埒な敵たちが侵略して分割しようと何度も試みたにもかかわらず、1000年にわたって持ちこたえてきたことになる。モンゴル人、ポーランド人、スウェーデン人、ナポレオンのグランダルメ(大陸軍)、ヒトラーのドイツ国防軍に続いて、1990年代にはNATOとアメリカとEUが、ロシアの一部を切り離してウクライナのような「似非国家」に仕立て上げて、ロシアを破壊しようと試みたという。ロシアの多くのナショナリストにとっては、ウクライナはロシアとは別個の国家であるという考え方のほうが、ロシアという国家を再統合する神聖な使命を果たす間にプーチン大統領が口にしたことのどれよりもはるかに大きな嘘となる。

 ウクライナ国民や傍から見ている人や専門の歴史学者がこの説明に呆れ返り、それをロシアの欺瞞の兵器庫から跳び出した「原爆級の嘘」と見なしたとしても当然だろう。ウクライナは一つの国民としても独立国としても存在しないと主張すれば、多くの歴史的事実を無視することになる。たとえば、ロシアが統合されていたはずの1000年間に、キエフとモスクワが同じ国に含まれていたのは約300年にすぎない。また、ロシアが以前は受け入れ、独立国ウクライナの主権と国境を保護してきた、非常に多くの法律や条約に違反することになる。そしてこれが最も重要なのだが、その主張は、自分はウクライナ人だと考えている何百万人もの人々の意見を無視している。彼らには、自分が何者かについて発言権がないというのだろうか?

 世界には似非国家がいくつかあることに関しては、ウクライナのナショナリストもロシアのナショナリストに間違いなく同意するだろう。だが、ウクライナはそのような似非国家ではない。むしろ、ロシアがいわれもなく行ったウクライナ侵攻を隠蔽するために打ち立てた「ルガンスク人民共和国」や「ドネツク人民共和国」こそが似非国家だ。

 どちらの側を支持するにしても、どうやら私たちは本当に、ポスト・トゥルースの恐ろしい時代に生きているらしい。今や、特定の軍事紛争だけでなく、歴史全体や国家全体が偽造されうるのだ。だが、もし今がポスト・トゥルースの時代ならば、いったいいつが、のどかな真実の時代だったのか?1980年代か?1950年代か?1930年代か?そして、何がきっかけで私たちはポスト・トゥルースの時代へと移行したのか?インターネットか?ソーシャルメディアか?プーチンとトランプの躍進か?

 歴史にざっと目を通すと、プロパガンダや偽情報は決して新しいものではないことがわかるし、ある国家や国民の存在をまるごと否定したり、似非国家を創り出したりする習慣さえ、はるか昔までさかのぼる。日本軍は1931年に自らに対して偽装攻撃を行って中国軍の犯行とし、中国侵略の口実とした後、翌32年に満州国という似非国家を設立して、征服行為を正当化した。その中国にしても、チベットが独立国として存在したことをずっと以前から否定してきた。オーストラリアのイギリスの植民は、無主の地(テラ・ヌリウス)という法原理によって正当化され、それによって五万年に及ぶ先住民の歴史が事実上消し去られた。

 20世紀初期には、シオニズムのお気に入りのスローガンは、「民なき土地[パレスティナ]への、土地なき民[ユダヤ人]の帰還を謳うものだった。地元のアラブ人住民の存在は、都合よく無視された。1969年、イスラエルのゴルダ・メイア首相は、パレスティナ人などというものは今も昔も存在したためしがないという、有名な言葉を残した。存在していないはずの人々を相手にした武力戦争が何十年も続いているというのに、そのような見方は今日でさえごく一般的だ。たとえば2016年、アナト・ベルコ議員はイスラエル議会で行った演説の中で、パレスティナの人々や彼らの歴史が現実に存在することを疑った。彼女が挙げた証拠は?アラビア語には「P」という文字が存在してさえいないのだから、どうしてパレスティナの人々など存在できるだろうか、というのだ(アラビア語では、「f」が「p」を表す。だからパレスティナのアラビア語名はファラスティンだ)。

2022年2月21日月曜日

20220221 中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.58-61より抜粋

中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.58-61より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120039153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120039157

 第一次世界大戦中にイギリス首相という要職に就き、同大戦後はこの戦争に極めて批判的な議論を展開したデビット・ロイド・ジョージと同様にリデルハートは、第二次世界大戦勃発当初、すなわち一般的には「奇妙な戦争」として知られる1939年から40年の時期において、イギリスとフランスがヒトラーによる和平への申し出を拒否してはならず、交渉による妥協を図るべきであると主張していた。なるほど連合国側にとって勝利が望ましいことはいうまでもないが、リデルハートは、イギリスとフランスがこの西側諸国の「文明」の防衛と侵略者に対する戦いにおいて、攻勢を用いない旨を宣言すべきであると主張した。こうすることで連合国側は、道義的に優位な立場を維持することができるうえ、ドイツが西側諸国を攻撃する口実を与えることになるこちらからの挑発行動を抑えることにもつながると期待したのである。つまり、リデルハートが主唱したことは相互に武装したままでの共存であった。双方が満足できる和平がドイツと交渉できないのであれば、既に西部戦線で闘われている「奇妙な戦争」が継続するだけにすぎない。そして、これこそ「冷たい戦争」という概念なのである。

 リデルハートによれば、連合国側にとって唯一現実的な選択肢はこうした低強度の「冷たい戦争」を継続することであり、また、それによってドイツを挑発する可能性も低下するのである。今度は、戦争を少しばかりエスカレートさせることによって、ドイツもまた勝利の可能性を有さず、そのために払う犠牲が大きすぎることを敵に示すことにより、交渉による和平への道が拓かれるとリデルハートは期待したのである。

 このようにリデルハートは第二次世界大戦当初、すなわち核兵器が登場する以前から既に「封じ込め」という戦略を主唱しており、さらには「冷たい戦争」の必要性を唱えていたのである。だが核兵器という巨大な破壊力や抑止力が存在しないなかで、ドイツとの総力戦へのエスカレーションを阻止し得る決定的な要因とは何であろうか。これに対するリデルハートの回答が、第一に、空軍力による攻撃によって迅速な相互破壊が生じるかも知れないといった一般的な恐怖心を利用するというものであった。1930年代及び40年代初頭のヨーロッパの人々は、後年に核兵器による脅威によって人々が感じたものと同じような恐怖を、上空からの攻撃に抱いていたのである。第二に、第一次世界大戦で明確に示されたように、以前と比べて大国間の大規模な戦争があらゆる意味で犠牲を必要とし、さらには、現代社会の価値や利益とはまったく相反するものになりつつあるという一般的認識に依存するというものであった。

 そこでリデルハートは、ドイツが予防的な行動を軽々にとらないよう、また、併せて戦争がエスカレートする可能性を低下させるため、連合国側が攻勢的な行動を放棄するという計算された戦略を主唱したのである。だがこうした背景の下、リデルハートは彼の生涯のなかでもっとも大きな過ちを犯してしまうことになる。すなわち、軍事戦略のレベルであれ国家戦略のレベルであれ、第二次世界大戦前からリデルハートは、攻勢に対する防勢の完全な優位を主張し続ていたのである。

 リデルハートによれば、自らが唱えた集団安全保障と限定関与という国家戦略が帰着するところは、封じ込め以外には考えられなかった。そしてそのためには、抑止力を強化することが求められたのである。だが、戦間期や第二次世界大戦初期を通じてリデルハートが、ドイツに対する包括的な安全保障戦略構想として封じ込め、限定関与、そして、抑止などを明確に打ち出せば打ち出すほど、彼は極端なまでに防勢の優位を主張することになる。すなわち、ドイツ側であれ連合国側であれ、攻勢が成功する可能性を少しでも考えることは、それだけで彼の戦略概念の根底を切り崩すことになったのである。前述したように、リデルハートは相互に破壊することなく、敵・味方がともに安全保障を確保できる唯一の方法が「冷たい戦争」であると考えていた。こうした皮肉なことには、第一次世界大戦前夜に「過剰な攻勢主義」が広く唱えられていたことに反発するかのように、この時期のリデルハートは、「過剰な防勢主義」とでも呼ぶべき、根拠に乏しい戦略を強引なまでに唱えていたのである。

 実は第二次世界大戦前、防勢の優位と集団安全保障や限定関与政策との関連は、フランスや東ヨーロッパの同盟諸国の安全保障に対するリデルハートのアプローチにとっては決定的であった。イギリスはヨーロッパ大陸に大規模な陸軍派遣軍を送る必要がないという認識(あるいは、せいぜい小規模な機械化部隊を派遣すればよいという認識)、フランスはドイツに十分に抵抗できるとの認識、仮にフランス軍がイギリス軍によって増強されたとしても西ヨーロッパでのドイツに対する大規模な攻勢は成功しないという認識、そして、ソ連の支援があればチェコは長期間にわたってドイツに抵抗できるとの認識は、すべて相互に密接に関連しており、防勢の優位という前提に大きく依存していたのである。

2022年2月20日日曜日

20220220 1800記事到達までの当ブログの進め方について②

気が付くと、先月末に1700記事に到達してから、さらに12記事作成していました。そして、この調子にて記事作成を続けますと、あるいは今月中に1720記事に到達することも可能であるかもしれません・・。

1720記事といえば、新規目標として定めた1800記事まで、1700記事からはじめて、五分の一に至ったことになりますので、私の感覚としては、これは速やか且つ順調な進み具合であると云えます。

さて、以前にも述べたことではありますが、この1700~1800記事の作成においては、書籍からの引用記事を多用しようと考えており、また、その考えは大きく変化していません。しかし、自らの文章にて作成出来る時は、やはり、自身で作成した方が良いと思われますし、何より、スランプに陥った時の解決策として「引用記事の作成」があることは、自転車操業である当ブログ運営者(私)からしますと、大変ありがたく、また、そうであるために、それ(引用記事)を多用、濫用することは避けた方が良いのではないかと思われるのです・・。

また、本日に関しては、さきほど「今日は自分の文章で・・」と思い立ったわけですが、こうして「思い立つ」ことは決して毎日というわけではありません・・。あるいは、もっと規則正しい生活を送るように心掛ければ、いくらかは良くなるのかもしれませんが、それでも、1000記事到達以前の頃と比べてみますと、明らかに記事作成に対する熱意のようなものは減衰していると云えます。しかしまた、他方においては、これまでブログを続けてきた経験により、あまり熱意を必要とせずに、毎日ではないにしても、どうにか記事作成が出来るようにもなってきました。こうした様相には、ある程度普遍的な要素があり、あるいは技術全般には、何かしら、そうした要素が付随するのかもしれません・・。

そして、これまでを要約しますと「今回の1700~1800記事においては、書籍からの引用記事を多用しつつも、それは一種の安全弁としてであり、実際には、出来るだけ自分の文章による記事作成を行う」といった主旨になりますが、こうしてまた文章として述べてみますと、この主旨も、自分の胸中にある考えとは若干異なるように感じられてくるのです・・(苦笑)。

その理由は、これまでに投稿してきた引用記事も、投稿後、ある程度の期間が経過した後に、それを新たにツイッターなどで発信することにより、その引用の文章の意味合いなどが以前とは異なって感じられ、そしてまた、その感覚を契機として、新たな、それに関連すると思しき書籍記述を引用記事としてみたくなるのです・・。この感覚は、当ブログにて引用記事をある程度作成した頃から生じたものであり、また最近に至っては「この感覚には何か大事なものが含まれているかもしれない」と考えるようにもなりました。そして、自分なりにこの感覚を、より精緻なものとして、さらに拡がりを持たせるためにも、書籍からの引用記事をさらに増やすことは、必ずしも悪い選択肢ではないと考えるに至ったことが、その理由にあると云えます。

あるいはこの状態を異言しますと、これまでのブログ記事の作成において「自らの文章」と「書籍からの引用」による「拮抗・緊張」のような状態が生じており、また自分としては、その状態があるからこそ1000記事到達後、しばらく経った現在のような状況であっても、どうにか継続することが出来ているのではないかとも思われるのです・・。

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2022年2月19日土曜日

20220219 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147-149

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147‐149

 志士によるテロ活動の対象は外国人だったが、外国人のために働いたり、外国人に媚びを売る日本人も数多く襲われた。1860年、ある志士の一派が、日米修好通商条約の調印を進めた大老井伊直弼の首をとる。日本人による外国人襲撃事件のなかでとくに目立つのが、薩摩藩士と長州藩士がかかわった1862年と63年のふたつの事件だ。1862年9月14日、28歳のイギリス人商人チャールズ・リチャードソンが生麦村の路上で薩摩藩士に刀で切りつけられ、そのまま失血死する。薩摩藩主の父親を含む行列に対して礼儀を欠く行為をしたというのがその理由だった。イギリスは損害賠償と謝罪および実行犯の処刑を、薩摩のみならず幕府にまで要求した。イギリスと薩摩との1年近くつづいた交渉は決裂し、ついにイギリスの艦隊が薩摩の城下町鹿児島に砲撃をしかけ町の大半を破壊した。ある推計では、薩摩藩士1500人が死亡したという。

 もう一つの事件は、1863年6月下旬に起った。長州が沿岸に設置した砲台から西洋の艦船を攻撃し、本州と九州を隔てる要である馬関海峡(関門海峡)を封鎖したのだ。1年後、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻の軍艦から成る連合艦隊が砲台を砲撃で破壊し、残っていた大砲も陸戦隊が上陸して持ち去った。

 このふたつの西洋による報復で、薩摩や長州の好戦的で過激な攘夷派も、さすがに西洋の大砲の威力を思い知らされ、まだ脆弱な日本の現状では外国人を追い出そうと努力するだけむだだと悟った。急進的な攘夷派とて、西洋に引けを取らない軍事力を日本が手に入れるまで待たねばならない。皮肉なことだが、それは、攘夷派が激しく非難していた幕府が進める政策であった。

だがここにきて薩長をはじめとする一部の藩は、江戸幕府は西洋と対抗できるところまで日本の国力を強化できない、と確信するにいたった。西洋の技術を導入するという目標は幕府と共通するものの、この目標達成には日本の政府と社会を再編する必要がある、というのが倒幕派の大名たちの出した結論だった。そこで大名たちは、しだいに将軍を出し抜くための方法を画策しはじめる。それまで薩長は、対抗心を燃やし、互いを信頼せず、ずっと争ってきた。だが、江戸幕府の軍事力強化が双方の藩にとって脅威となることを認識した薩長は手を組むことにする。

 1866年に14代将軍家茂が死去すると、15代将軍慶喜は近代化と改革に集中的に取り組みはじめる。フランスから軍備を輸入し、軍事顧問を呼び寄せたのもその一環である。これにより、薩長は危機感をつのらせた。1867年に孝明天皇が崩御すると、15歳で明治天皇が即位する。薩長の藩主らは、明治天皇の外祖父と共謀して、朝廷の後押しを取り付けた。1868年1月3日、門を封鎖して人の出入りを制限した京都の御所のなかで、討幕派の有力大名が会議を開き、徳川将軍家の領地を取り上げて官位官職を奪うことと、幕府廃止が決定され、将軍辞職が認められた。武家政治の終焉である。この会議の決定では、天皇に統治大権が戻る(王政復古)という神話が強調された。実際には長年にわたり、統治の実権はずっと幕府が担っていたものだった。これらが明治維新として知られる出来事であり、ここから新たな支配体制の時代、明治時代がはじまる。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792