*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
~勉強会の御案内~
tsurukiclinic2001@gmail.com
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一昨日から読み始めた村上春樹著「風の歌を聴け」は昨夜、読了に至りました。読後の感想は「どうも小説らしくない不思議な小説だな・・。」といったところですが、同時に「面白くない」という感覚はありませんでした。してみると、当著作を含め、村上春樹氏による小説の多くは、こうした謂わば「雰囲気を読ませる・感じさせる」物語であるのかもしれません・・。また、その雰囲気について考えてみますと、これまた不思議と、40年以上前に著された作品であるとは自身には感じられませんでした。(もっとも考えてみますと、私は最近の小説を(殆ど)読んだことがありませんが・・(苦笑)。)
ともあれ、そこから多くの批評家の方々が云うように「氏の小説作品は場所性といった概念を出来るだけ捨象している。」のと同様、時代性についても、同様であり、敢えて、あまりそういった要素を深掘りしないといった傾向があるのではないかと思われました。また、それにより、より多くの読者層を得ることが可能になるとも云えることから、これはこれで少なくとも、悪い作風ではないようにも思われます。
また、当著作は「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」との三部作であるとのことから、今後は機会を見つけ、とりあえず両作品を読んでみようと考えています。
他方で、もう一つ読み進めている大岡昇平著「俘虜記」は200頁過ぎまで至りましたが、そこでは、未だ収容所社会様相の描写はそこまで深彫りされておらず、周囲の収容者達、監視米兵の様子が主に描かれていると云えます。そして今後、徐々に収容所社会様相の描写が詳細になっていくのですが、おそらく、それらの描写が、現代の我が国社会との対比によって、憂鬱さ(多分それは司馬遼太郎が晩年「昭和という時代は実に不健康な時代です・・。」と宣っていたのと類似するか同根の感覚であるように思われます。)を生じさせるのだと思われます。しかしまた同時に、当作品の重要性の配分は、これまでの前半部に多く描かれていた「何故、目の前の米兵を撃たなかったか?」という著者自身の内的な問いよりも、後半部分での収容所社会の描写、および、それに対しての洞察に大きく因っているものと私は考えます。
さて、突然ハナシは変わりますが、最近は主にツイッターでのインプレッション数を注視していたため、ここに来て当ブロガーの全期間での総閲覧者数が493000人を超えていることに気が付きました。
そして現在の調子にて書き進めて行きますと、おそらく、本格的に冬に入る前には、以前から目標としていた50万人に到達することが出来るのではないかと思われます。
もとより、所謂アルファ・ブロガーと呼ばれる方々と比較しますと、本当に大したことではないのかもしれませんが、それでも自身としては一つの目途が立ち、区切りになるとは云えます・・。
さらに、これまた現在の調子にて書き進めますと、来月には総投稿記事数が1400に至るとも予測されることから、とりあえずは、これらを目標として、さらに書き続けて行こうと考えています。
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
帰路の御茶ノ水から本八幡までの電車内にて30頁以上まで読み進みましたが、特に面白いと感じることはないものの、以前と違い、どうにか普通に読み進めることが出来ています。おそらく、氏の小説を読まなかった期間に私の何かが変わったのだと思われますが、それが一体何であるかは、未だに分かりません・・。
これを読了してみると、また少し風向きも変わるものなのでしょうか(笑)?
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
当ブロガーにて作成した記事をツイッター、フェイスブックなどで共有していますと、時折、ある特定の記事にインプレッション、閲覧者が集中するといった事態が生じることがあります。そこから「何故、この記事が今読まれるのだろうか?」といった疑問が生じるわけですが、こうした疑問はこれまで自身の中で明解な答えに至ったことはありません・・。
そして、ここにこうしたことを記している理由は、本日また、それに類する事態が生じたことによるのですが、これについても、さきと同様、答えらしきものは思いつかず、見つかっていません・・。
あるいは今後、そうしたことも分かるようになってくるのでしょうか・・?いや、こうしたことの精確な経緯とは、自身にとって、あまりにも複雑であるように思われることから、今後も分かるまでには至らないと思われます。多少残念ではありますが・・(苦笑)。
とはいえ、こうした時折生じる事態は、少なくとも、自身に新たなブログ記事作成のネタを与えてくれるものでもありますので、それはそれでありがたく、あまり過度な理解への期待など抱かず、とりあえず、こうして記録に留めるだけでも、自身にとっては、それなりに意味があるのではないかとも思われます。
昨日投稿の記事にも書きましたが、現在はスランプ気味といって良い状態であり、調子が良い時のような「この題材をもとに記事作成をしよう・・」といった感情は湧かず、中身が乏しくなったチューブから無理やり押し出しているような感さえ多少感じます・・(苦笑)。
あるいはしばらくの期間、記事作成を止めて、そのネタとなる読書や他の経験に時間を割いた方が、その後の記事作成にも弾みがつくのかもしれません・・。
しかし、一方で、現在よりもさらに記事作成を面倒に感じるようになり、そのまま止めてしまう可能性もなくはないと思われることから、やはり、ここは出来るだけ記事作成を行った方が良いのではないかとも思われるのです。
そうした状況下で、さきに書いたような記事題材となり得る事態が生じることにより、現在の記事が作成されていると云えますが、ともあれ、それでこの程度まで書くことが出来れば、それはそれで自身としては及第の域には達したと云えます・・(笑)。
また、その背景には、現在読み進めている大岡昇平著「俘虜記」の文体があるのではないかと考えます。たとえ記事題材となり得る事態が存在しても、それを文章として表出するためには文体が不可欠であり、それは題材となる事態と等価に重要なものであると考えます。そして、この文体とは、それまでの経験の蓄積によって個人に定着しているものであると同時に、その最表層は、直近の文章的な刺激に左右される性質があるのではないかと思われます。そのため、ブログ記事ではあっても、個人を感じさせる文章の継続的な作成のためには、作成者にとって良質と感じられる読書もまた継続した方が良いのだと思われるのです・・。
そして、ここに自然科学系学問のさらに根幹部・基礎にある人文社会科学系学問の重要性があるのではないかとも思われるところです。多少ハナシを広げ過ぎた感はあるかもしれませんが、さて、如何でしょうか?
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
おかげさまで昨日のツイッターでのインプレッションが一昨日に続き5桁に到達しました。共有した記事、動画などを「いいね!」およびリツイートして頂いた皆さま、どうもありがとうございます。とはいえ、私の方は、季節の変わり目によるものか、現在スランプ気味であると云え、勢いのある時期と比べますと、多少スムーズな記事作成が困難な状態であると云えます。それでも2日に1日程度は記事作成を継続しておかないと記事作成自体が困難になると危惧されることから、こうした状態であっても、やはり記事作成は継続しつつ風向きが変わるのを待つこととします・・(笑)。
また、連休ということもあり、あまり遠出はしませんでしたが、書籍はまた何冊か購入し、現在読み進めています。その中の一冊に、以前の版にて読了した大岡昇平著「俘虜記」がありますが、今回購入の新版は、以前の版と比べ、文字が若干大きく、また紙面に対してクリアであり、目にやさしいことから読み易く、既に60頁あたりの主人公が米軍に捉えられるところまで進みました。
当著作に書かれているような内面の描写が出来るようになれば、それはそれでスゴイものであり、こうしたブログなども比較的容易に作成できるようになるのではないかと思われますが、しかしまた、ここブログの記事にて、そうしたことを書くことが出来ていること自体が、ある意味で当著作を読み進めていることから生じた、ある意味、良い効果と云えるのかもしれません・・(笑)。
他方で、ノンフィクションであっても小説には総じて学術的な価値などは乏しく、あまり大したものではないと考える方々が少なからずおられるとは思いますが、しかし、小説こそ、まさしくピンキリであり、マンガに近いものもある一方で、優れた学術論文とも比肩し得るものがあるのではないかと思われるのです・・。
そして、そのピンキリを判断するのが我々読者であり、また、そうした視点から所謂「国民文学」というコトバも生じ得るのだと云えます・・。それはスペインであればセルバンテスの「ドン・キホーテ」、英国であればシェイクスピアの「マクベス」など、そしてドイツであればゲーテの「若きウェルテルの悩み」などといった感じです。
さて、そうした視点から我が国を眺めてみますと紫式部の「源氏物語」あたりが妥当であると思われますが、しかし、私を含め、多くの人々はそれを実際に読んだことはなく、また自然な興味をその著作に持っているとも云えません・・。自然な興味からのものであれば、おそらく現代の「風の歌を聴け」の著者による一連の著作の方がより適切であるのではないかと思われます・・(笑)。
私見として、我が国は古来より識字率の高さを誇ってはきましたが、その活用の方向性は、こうした文学を楽しむというよりも、実生活での活用による利得の最大化を目指したものであるように思われます・・。
約言しますと「勉強をして文字を媒介とした知識を積み、深めて、そしてより高所得の職に就く」ことを志向する性質が強いのではないかということになります。
無論、それは悪い事ではなく、むしろ良いことであると考えますが、しかし他方で、もう一つの古くからの我が国社会が持つ性質として同調圧力・社会凝集性といったものがあり、これら(実用的な学問を志向する性質と同調圧力・社会凝集性)が、近代以降の情報化の持続的な進展によって混淆し、そして化合しますと「やりすぎ」に転じ、そして、それらが本来有してした人間の精神に対する良い作用が働かなくなり、逆に悪い方へと行ってしまうのではないかと思われるのです・・。
また、こうしたある種のメカニズムを史家の宮崎市定が述べる我が国のターミナル文化的性質と関連させて考えてみますと、国内のさまざまな地域における「地域性」の概容を理解することが出来るのではないかとも思われます・・。
こうしたこと(地域性)は、現在、あまり声高に述べられることはありませんが、今後の地域社会そして、それらを複合したものとも云える我が国社会全体のあり方を考えるうえで、それなりに重要(地域ごとの得意なことと、そうでないことを考える)であるようにも思われるのですが、さて如何でしょうか。
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
おかげさまでここ数日間は、当ブロガーにて作成した記事を共有しているツイッターでのインプレッションが5桁にまで達しました。これは、以前にも述べましたが、共有させて頂いた動画へのインプレッションおよびリツイートによって、そのようになったと云えますが、また同時にツイッターにて共有した自身による作成記事へのインプレッションも、同様に、以前と比べ増加していると云えます。
未だ精確には分かりませんが、こうしたSNSでのインプレッションの(大きな)変化とは、半ば期せずして採った行動・アクションから、それに連なる何らかの反応を惹起させた結果として生じることが多いとは云えるものの、その(行動・アクションの)効果については事前には分からず、読めないことが殆どであるのではないかと思われます。
そうした、ある種、偶然が少なからず作用する(効果が読めない)といった事情のために、SNS上にて投稿したものがバズッたり、あるいは炎上といったことも生じるのではないかと思われます。
投稿したものの効果を事前にある程度理解できるようになるまで考えて、そして続けるのも、それはそれで面白いのかもしれませんが、しかし、その面白さとは、記事作成に対して感じる、ある種、複雑な面白さとは根本的に異なるものであり、それは、投稿による効果の理解によって生じる面白さとは、必ずしも親和性があるものとは云えないのではないかと思われるのです・・。
ともあれ、これまで一応、5年以上にわたりブログ記事の作成・投稿を継続してきましたが、その中で1日で5桁のインプレッション、閲覧者数に至ったことはありませんでした。一番多い日でも1000人程度であったことから、さきに述べた1日でのインプレッションは、自身としてはやはり驚愕に値するものであると云えます・・(苦笑)。
そして、そうした状況に対して、多少弱気になっていた(いる)のが、ここ数日来からの自身の偽らざる心境であり、また本日の新規記事作成・投稿についても「出来ることなら避けたい」と云うのが本音であると云えます・・(苦笑)。
あるいはまた、ここに来て、さきに述べたような功利的とも云える下心(面白さ)を自身内部に感じるようになったことから、新たな記事作成を「手間だけかかる面倒な作業」と、わずかでも考えるようになった結果、新規の記事作成を「出来ることなら避けたい」と思うに至ったとも云えます・・(苦笑)。
そして、そうした葛藤から解放されるためには、そうしたことをあまり気に留めることなく、単純に記事作成をすれば良いのだと思われるところですが、一方で、そうした現今の事情をもあまり脚色することなく表現することが出来れば、それはそれで、いくらかの意味はあるのではないかと思われるのです。さらに、多少大風呂敷を広げますと、何らかの創造を行う際には、そうした心的なスタンス(視座)の発見および維持が、思いのほかに重要ではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!