2020年7月21日火曜日

20200721 株式会社文藝春秋刊 山本七平著「ある異常体験者の偏見」pp.307‐309

「それはいずれの時代でも同じかもしれぬ。渦中にいる者は不思議なほど、大局そのものはわからない。従って今なら「戦史」で一目瞭然のことを知らなくても不思議ではない。しかしそれは、前述のような微細な徴候から全貌の一部が判断できなかった、ということではない。

 昭和19年6月ーこれもまた6月だったがーといえば、ガダルカナルの撤退からすでに1年4カ月、アッツ玉砕から1年、マキン、タワラ両島も半年前に全滅し、クェゼリン、ルオット両島の守備隊も、4カ月前の2月1日に全滅していた。とはいえ一方では大陸打通作戦が開始され、インパールへの快進撃がはじまり、その陥落占領は「時間の問題」といわれ、報道される全般の戦局は何となく一進一退という印象でも、大日本帝国の無条件降伏が1ヵ年余の後に迫っていようとは、だれも予想しないのが実情だった。そして自転する中で、それが生活になっている一歯車には、この機構が永久機構の如くつづくように思われた。-ふっと「我に返る」ことが時々あっても。

 いま考えれば不思議かもしれぬ。しかし人間は習慣の動物、同時に習慣的思考の動物である。昨日の如く明日があると、破局の瞬間まで信じている。信じればすべてはそう見え、そう見えるための理屈はどうにでもつく。ガダルカナルやアッツ等の苦戦・撤退・全滅が暗い予兆であったとはいえ、その損害はノモンハン、台児荘、平型関等で受けた打撃と比べれば、確かに微々たるもの。少なくとも軍隊内にいる限り、一個大隊の大損害は、珍しい事件ではないことは知っている。しかも過去においては、そういう損害を受けつつも満州を保持し、中国の戦線も維持して、一応、優勢は保ち続けていた。多少の損害はあっても、占領した地域は保持し続けたのが、昭和6年以来すでに12年つづいていた実績であり、人びとは何となく、この過去の経験の延長線上に現在と未来を見ていた。それは戦後の人が、何回かの不況に見まわれながら急激に回復した過去の経験から将来を予測しているのと同じ状態であろう。そして私も、その例外ではなかった。

 ただ現場にいる者は、「これはおかしいぞ」といった微細な、しかし見方によっては破局的と思える徴候を、一種の感触でつかみうることも事実。私のみならず多くの人が、敗戦の感触をひやりと膚で感じたのは、19年5月29日、門司で輸送船に乗船したときであったろう。

 連隊の「自転する組織」の中で日常業務に埋没していれば、その機構の永久存続を信じうる。動員下令で新部隊が編成されて営庭に整列しても、観兵式や射撃演習のときとそう変わらない。ただ被服が全部新品の夏物だということだけの差である。整々と四列で営門を出、品川から汽車に乗るときも、別にこれといった変わったことは起こらない。門司に着き、旅館・学校・民家等に分宿しても、これまた秋期大演習のときなどと余り変わらない風景であり、久々の畳の感触を楽しむ方が先になる。

 船舶司令部に幹部集合を命ぜられ、そこで参謀から説明を受けたが、これまた今まで何回も聞かされた訓示と同じ発想、同じ趣旨のもので、何の新味もない。当日私といっしょに出席していた102師団の石塚中尉は、その日記に次のように記している、「5月27日(細雨)・・打合会に出席、海難に於ける損害減少等すべて指揮官、幹部の能力に左右せらるること多きは当然。然るに説明する者も聴く者も依然シナ大陸式に適当に表面を糊塗せんとするもの多きを知り遺憾なり・・」と。私もこれを聞いていたわけだが、内容は何も頭に残っていない。結局、実情は説明せずの精神訓話と訓示、聞く方も、大方そんな内容だろうと、実際は何も聞いていなかったということである。そうなるのも今までの経験で、聞き流しても一向に支障がない内容であることを、すべての人間が知っていたからであろう。こういう「お偉いさん」と自転は、元来、無関係だからである。

 だが、その日から2週間近くたった今日、6月11日の夕刻、魔のバシー海峡の真中で、西の水平線に落ちて行く真っ赤な太陽を眺めていると、この2週間の悪夢のような体験のすべては、一切が、恐ろしい勢いで破滅に突き進んでいることを、否応なしに突きつけ、見せつけているように見えてくるのであった。」
株式会社文藝春秋刊 山本七平著「ある異常体験者の偏見」
ISBN-10: 4163646701
ISBN-13: 978-4163646701


2020年7月20日月曜日

株式会社文藝春秋刊 山本七平著「ある異常体験者の偏見」pp.198‐199

グアム島でまた日本兵が現れたらしいという記事が新聞に出ていた。こういうニュースは何となく気になる。何気なく読んでいると「兵隊はみな天皇の声を知っているから、天皇の声を録音して放送したら出てくるであろう」という意味の横井さんの談話が出ていた。一瞬「オヤ」と思う、同時に「これは戦前の人間の生き方そのものだなあ」とも思い、また「戦後も同じなのかな」とも思った。

 いうまでもなくこの横井さんの談話は一種の「嘘」である。兵隊は天皇の声など知らない。戦後すでに30年近くをすぎているから、「戦前そのもの」とは別の、戦後にそれを再構成した一種の「戦後神話」ともいうべきものが出来てしまっており、その「戦後神話」では「天皇の軍隊の兵隊は天皇の声を知っている」という言葉もしくは発想それ自体は必ずしも不自然ではないのかも知れぬ。

「戦後神話」しか知らず、「戦前」とは「戦後神話」だと思っている世代、「マック制」を「天皇制」だと思っている世代が、こういうことを言っても不思議ではないし、また戦前を経験している人々もいつしか「戦後神話」がしのびこんできており、この二つの自らの内に峻別することに、私自身が非常に神経質にならざるを得ないのが実情だから、戦後の日本に住みつづけた戦前の人が、そういうことを言っても、これまた必ずしも「嘘」とはいえない。が、しかし、横井さんはそうではなく、それが「戦後に創作された神話」にすぎないことを、最も正確に知っているはずの人なのである。ちょっと考えると、そういう人はこの「神話」を否定しそうに思うが、面白いことにそうならず、そういう人がまっさきに、その神話を事実だと証言するのである。私が「戦前の人間の生き方そのもの」といったのは、この点である。

 私はここで少し興味をおぼえて、横井さんの出て来て以来の、その談話乃至は談話として掲載された言動を、出来る限り詳細にたどってみた。そして一種の驚くべきことを、また見方によっては当然のことを発見した。この「戦後」も「戦後神話」も知らないはずの人が、一種の「見えざる触覚」のようなものを出して、あらゆる方法でこの「神話」を察知し、その神話が横井さんとの接触でかもし出す雰囲気を一種の「皮膚感覚」のようなもので捉えて、まるで「熱いものに触れたらサッと手をひくように」すばやくこれに反応し、それをもとにして、この神話との間に絶対に摩擦が生じないように、実に的確な、岸元首相も顔負けの、文字通り「ソツのない」応答をくりかえし、全くボロを出していない、という事実である。これは一種の「環境適応」の天才といえるだろうし、これだからこそ27年のジャングル生活を生き抜いたのであろうし、またこれが「すべての日本人」なるものの典型的な行き方かもしれないとも思い、同時に、それなるが故に全日本人が横井さん以上に巧みに戦後の大激動をくぐり抜けて今日の繁栄(?)に到着したのだとも思えた。

だが同時に「事実」を知っているはずのその人が、真先に神話を事実といえば、それは一人間を「現人神」にするのも、「南京大虐殺」を事実にしてしまうのも、実に簡単なことだろう、そしてこれが日本を破滅させたのであろうと思った。何しろ、それが事実でないことを確実に知っているその人が、真先に「事実だ」と証言するのだから、どうにもならない。
株式会社文藝春秋刊 山本七平著「ある異常体験者の偏見」
ISBN-10: 4163646701
ISBN-13: 978-4163646701

2020年7月19日日曜日

20200719 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」pp.335‐338

「人類は前代未聞の革命に直面しており、私たちの昔ながらの物語はみな崩れかけ、その代わりとなる新しい物語は、今のところ一つも現れていない。このような史上空前の変化と根源的な不確実性を伴う世界に対して、私たちはどう備え、次の世代にはどんな準備をさせておけるのか?

今日生まれた赤ん坊は、2050年には30代に入っている。万事が順調にいけば、その子供は2100年にも生きていて、22世紀に入っても溌剌と暮らしてさえいるかもしれない。

2050年あるいは22世紀の世界で生き延び、活躍するのに役立ててもらうためには、その子供に何を教えるべきなのか?その子は、仕事を得たり、周りで起こってることを理解したり、人生の迷路をうまく通り抜けていったりするためには、どんな技能を必要とするのか?

あいにく、2100年は言うまでもなく、2050年の世界がどうなっているかは誰にもわからないので、このような疑問の答えを私たちは知らない。もちろん、これまでも人間は未来を正確に予測することはできなかった。だが今日、未来の予想はかつてないほど難しくなっている。なぜなら、テクノロジーのおかげでいったん体と脳と心を作り変えられるようになってしまえば、もう何一つ確かに思えるものがなくなるからで、それには、これまで不変で永遠のように見えていたものも含まれる。

 今から1000年まえの1018年には、人々は未来についてわからないことはたくさんあったが、それでも人間社会の基本的特徴が変わることはないと確信していた。もしあなたが1018年に中国に住んでいたら、1050年までに宋王朝が崩壊したり、契丹が北から侵入してきたり、疫病で何百万もの人が亡くなったりしうることは承知していた。とはいえ、1050年にもほとんどの人が依然として農民や職工として働き、支配者たちが依然として軍隊や官僚制を人間で賄い、男性が依然として女性の上に立ち、平均寿命が依然としておよそ40年で、人間の体はまったく同じままであるだろうことは明白だった。したがって、1018年には中国の貧しい親は、子供たちに田植えの仕方や絹織物の織り方を教え、豊かな親は、息子たちに儒教の古典の読み方や書道、馬に乗っての戦い方を、娘たちには慎みのある従順な家庭婦人になることを教えた。こうした技能が1050年にも必要とされることは明らかだった。

 それに対して、今日私たちは、2050年に中国や世界のその他の国々がどうなっているか、想像もつかない。人々が何をして暮らしを立てているかも、軍隊や官僚制がどのように機能するかも、ジェンダー関係がどうなっているかも、まったくわからない。今よりもはるかに長く生きる人もおそらくいるだろうし、生物工学や、脳とコンピューターを直接つなぐブレイン・コンピューター・インターフェイスのおかげで、人間の殻らそのものが空前の革命を経ているかもしれない。したがって、今日子供たちが学ぶことの多くは、2050年までに時代遅れになっている可能性が高い。

 現在、情報を詰め込むことに重点を置いている学校が多過ぎる。過去にはそれは道理に適っていた。なぜなら、情報は乏しかったし、既存の情報の緩慢で、か細い流れさえ、検閲によって繰り返し堰き止められたからだ。たとえばあなたが1800年にメキシコの田舎の小さな町に住んでいたら、広い世界について多くを知ることは難しかっただろう。ラジオもテレビも日刊紙も公共図書館もなかったからだ。仮にあなたが字を読め、個人の書庫に出入りできたとしても、小説と宗教の小冊子以外には、ほとんど読むものなかっただろう。スペイン帝国は、各地で印刷される文書はすべて厳しく検閲し、外部からは念入りに検査した出版物がわずかに持ち込まれるのを許すだけだった。あなたがロシアやインド、トルコ、中国の田舎町に暮らしていても、状況はほとんど同じだった。近代的な学校が設立され、子供たち全員に読み書きを教え、チリや歴史た生物学の基本的事実を知らせるようになったのは、途方もない進化だった。

 それに対して21世紀の今、私たちは膨大な量の情報にさらされ、検閲官たちでさえ、それを遮断しようとはしない。むしろ彼らは、せっせと偽情報を広げたり、無関係な情報で私たちの気を散らしたりしている。もしあなたがメキシコの田舎町に住んでいて、スマートフォンを持っていたら、一生かけてさえとても足りないほど、ウィキペディアを読んだり、TEDの講演を観たり、無料のオンライン講座を受講したりできる。どんな政府も、気に入らない情報すべて隠すことは望めない。その一方で、相容れない報道や、人の気を逸らす情報を世間に氾濫させるのは、驚くほど易しい。世界中の人が一回マウスをクリックするだけで、シリアのアレッポの爆撃や、北極圏の氷の融解について、最新情報を手に入れられるが、矛盾する話があまりにも多いため、何を信じていいか困ってしまう。そのうえ、たった一回クリックするだけでアクセスできるものは他にも無数にあるので、的を絞るのが難しく、政治や科学があまりにも複雑に見えるときには、愉快な猫の動画や、有名人のゴシップや、ポルノに、ついつい切り替えたくもなる。

 そのような世界では、教師が生徒にさらに情報を与えることほど無用な行為はない。生徒はすでに、とんでもないほどの情報を持っているからだ。人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ。」
株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

20200718 株式会社講談社刊 谷川健一著「魔の系譜」pp.11‐14

「私は日本の歴史に触れて、しだいに一つの考えを抱くようになった。死者が生者を支配するーといった現象が、日本の歴史において、あまりにも多いように思うのだ。死者が生者を支配するーというのは、周知のようにオーギュスト・コントの有名な言葉だが、それは死者と生者の連帯を意味するのであろう。ヨーロッパでじゃ、伝統とは死者と生者の連帯というほかにない。

しかし日本では先祖とのつながりはあるにしても、普遍的な死者と生者の連帯はない。あるのは対立だ。しかも死者が生者を支配するのだ。
 いったいこういう歴史がほかのどの国にあるのか、寡聞にして私はそれを知らない。死者が生者をうごかす。生者は死者のそうした力を信じ、おそれ、それをとりなすためのあらゆる努力を傾ける。こういえば、悪霊をしずめる未開社会の心理を連想するだろうが、日本のばあいは未開社会とちがう発展の歴史をもっている。
 しかも日本ほどたやすく死者の復活を信じている国民はすくないだろう。わずかこの一世紀ばかりの、あるいは戦後20年ばかりの歴史を尺度にして私はいっているのではない。何千年もの伝統をふまえて、そういっているのである。
 普遍的な発展の法則にしたがっている日本歴史の裏側に、もう一つの奇怪至極な流れがある。それは死者の魔が支配する歴史だ。この死者の魔は、老ゲーテの信じた肯定的デーモン(地霊)とはちがって、否定的な魔である。
 それは表側の歴史にたいしては挑戦し、妨害し、畏怖させ、支配することをあえて辞さない。死者は、生者が考えるほどに忘れっぽくないということを知らせるために、ことあるごとに、自己の存在を生者に思い出させようとするかのようだ。
 この魔の伝承の歴史ーを抜きにして、私は日本の歴史は語れないと思うのだ。
 しかも、このばあい、死者は敗者であり、生者は勝者なのだ。弱者が強者を、夜が昼を支配することがあっていいものか。弱肉強食が鉄則になっているヨーロッパの社会などでは考えられないことだが、敗者が勝者を支配し、死者が生者を支配することが、わが国の歴史では、れんめんとつづいている。この奇妙な倒錯をみとめないものは、日本の歴史の底流を理解することはできない。
 死者の否定的な魔が歴史をうごかすーそれは史観と呼んでも差し支えないであろうが、私はそこまでいうつもりはない。ただ私は、日本人が忘れっぽくない民族であることを証明したいだけである。
 戦後の日本人のそれぞれが体験した労苦は生やさしいものではない。この時期に日本人は敗者としての意識をいやというほどに味わった。しかも敗者が敗者のままでとどまるかぎり、それは所詮どうにもならぬことであることも痛切に体験した。
 敗者として同情されることを日本人は嫌悪した。敗者の地位に立たされた日本人が、全力を尽くして考え抜いたことは、いかにして被害者が加害者になりうるかということであった。その証拠には残酷という言葉が、一時期を風靡したことでもわかる。
 こうした情念は、日本人が占領者アメリカにたいして、あるいは政党の被除名者がその政党にたいして抱く感情の代表的なものである。私が戦後の日本人の心情をもち出したのはほかでもない。挫折者または敗者の心情体験をとおして、死者の生者にたいする関係が、あらかじめ理解できるとおもうからだ。
 戦後の日本人が生きのびたという、それだけの理由のために勝利者づらするのを許さない死者たちがいる。彼らは、被害者から加害者への道おひらくことにおのれを賭けて、生者をゆさぶり、ひっぱたき、生者たちを眠りこませないようにしている。
 もとよりそうした死者は戦死者だけではない。政治的事件や反乱に参加して処刑された死者たちも含まれるのである。彼らの企ては挫折し、彼らは敗者としての死を強制された。勝者にたいして一言の抗弁もゆるされないときに、彼らができることといえば何か。
「夜に入り陰雨猛雨交々として来る。雷電激して閃光気味悪し、遠く近く雷鳴続く、鬼哭啾啾タリ 村兄は読経をす 余は 寺内、石本等不臣の徒に復讐す可くノロヒの祈りをなす、ノロヒなり、ノロヒなり。」
 これは二・二六事件の首謀者として死刑を宣告された磯部浅一が、処刑に先立って書いた獄中日記の一部である。一切の希望が絶たれたときに可能なことは、自分を理不尽な運命につき落とした神と生きた敵とをのろうほかにない。磯部は神々を叱咤し、罵倒し、それでなお神々がうごかないとみると
「余は祈りが日々に激しくなりつつある。余の祈りは成仏しない祈りだ。悪鬼になれるように祈っているのだ。優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ。必ず志をつらぬいて見せる。余の所信は一分も一厘もまげないぞ。」
という境地にまで達する。生きながら死者の列にかぞえられている人間の再生するすがたがここにみられる。
「地獄堂通夜物語」によると、佐倉惣五郎(木内宗吾)は処刑のさいに眼をかっと見開いて「極楽往生に望みなし、念仏供養も頼み致さず」といいきった。このとき一天にわかにかき曇り、篠をたばねたような大雨がふりかかって、雷が鳴りわたり、処刑に立ち会った連中は、いっせいに逃げ去ったという。
成仏ーつまり死者の安らかな眠りを断乎として拒否し、悪鬼として復活をねがう瞬間に、私たちは立ち会っているのだ。二・二六事件の被告にかぎらず、怨恨と呪詛が、ついに「魔」の誕生を必然化させる過程をここにみることができる。」
株式会社講談社刊 谷川健一著「魔の系譜」
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

2020年7月17日金曜日

20200717 潮書房光人社刊 エルンスト・ハスハーゲン著 並木 均訳 「Uボート、西へ!」pp.17‐20

「人間世界は変わるが自然は不変である。自然は永遠であり海もまた同じである。風は太古より西から東へ、東から西へ吹きすさぶ。世代は移りゆくが、海は人智を超えて悠久にして広漠である。

船乗りは幾千年前と同様、今日においてなお戦士である。

船は形を変えたが海は昔と変わらない。白い帆が消えても風は消えない。海岸には標識灯が置かれ、信号も発明された。海はなお相変わらず奔放で力強く、人間のあらゆる発明や技術を嗤い、無数の船を毎年のように浜辺に打ち上げる。それに勝つことはできない。海を渡ろうとする者は闘わねばならない。

歴史が教えるところによれば、陸戦は国家と民族の大変革を引き起こし得る。その影響は数千年を経てなお辿ることが可能である。海は征服というものを知らない。留置や横奪を許さない。海はあらゆる痕跡を消し去り、太初より日々新しく無垢である。
 陸戦の本質は常に変わる。海戦の基礎は永久に不変である。海は断固として権利を要求する。今日は友だが明日は敵だ。何をしでかすか分からぬ気分屋で凶暴でもある。せいぜい中立的といったところだが、捉えどころがないことからして敵である。それゆえあらゆる海戦には昔からの共通項がある。武器とその使用法も変わった。だが、基本は変わらない。すなわち、海戦は「海と船、人間、民族の間の相互作用」であるということだ。

海は運命そのものである。

海の恒久的な法と「海の自由」に関する人間の概念が海の状態を決したのである。それが1914年に始まった世界大戦だ。「海の自由」は言論界においては有名な概念であり、それが真実だと本心から信じた者もいただろう。彼らは歴史書を紐解いたことがないのだろうか。海は平時においては自由だが、戦時においては強国にのみ自由である。一民族が自らの存亡を賭けて戦うのなら、自力で海を自由にせねばならない。

だからこそ英国は海上封鎖を宣言したのである。外国からドイツに到着する船はもはや一隻もなくなった。アルゼンチン産小麦もアゾレス諸島産バナナも「禁制品」だったからである。概念や規則に何の価値があろうか。これは戦争だ。そのために拿捕規定があるのだ。それを少しだけ拡張して適切に使用する必要があった。それからじきにドイツは飢餓に苦しんだ。要するに海上封鎖だ。だが、それは海戦法規が規定したほどの効果的な海上封鎖ではなかったため、敵はわれわれの港湾や沿岸を厳に監視し、これを封鎖したのである。これを実施することは危険であり、不可能ではないにせよ困難だった。それで英国は封鎖を宣言するだけで我慢し、ドーバー海峡を通過あるいはスコットランドの北を迂回してドイツに向かおうとする船を全て拿捕したのである。実際に戦時中、西から来る商船は一隻たりともドイツに辿り着けなかった。ドイツにとって状況は絶望的だった。わが国民はいつまでこのような飢餓状態に耐え得るだろうか。それへの効果的対策を知っている者など一人とていなかった。

答えを出したのは戦争自体だった。新兵器の潜水艦(Uボート)が登場したのである。U17は1914年10月20日、ノルウェー沖で英汽船グリトラ号を臨検してからこれを撃沈した。禁制品を運んでいたからである。戦争勃発直前に諸国で議論されてきたこと、つまり潜水艦による通商破壊戦が突如として現実のものとなったのだ。英国の海上封鎖に対抗するドイツ潜水艦!これぞ現実的な対抗措置であり、かくしてUボート戦が始まったのである。

 英国が宣戦布告するや、Uボートはただちにフォース湾に潜入した。日中は潜望鏡で敵艦船の動向をうかがい、夜には吸気のため海面に浮上した。ドイツ海軍軍人は度肝を抜かれながらも英軍艦を見つめ、スコットランドの深く切り立った海岸を背にして自らの姿を隠し、無言の影のごとくそのそばを通過したのだった。それ以外の時間は海底に沈座し、乗組員が睡眠と休養を取った。敵地の真っ只中で信じがたいような静寂に包まれる。これは夢か現か?

 遠くの物音が鋼鉄の船殻を時たま叩く。艦が海底を静かに擦った。ここなら安全であり、敵に攻撃されることもない。翌朝、磨き込まれた小さな鏡が用心深く海面に上げられ、朝日を捕らえた・・。

少し考えてみれば、Uボートからのこの第一報が故国にいかなる影響を与えたかを想像することはさほど難しくないはずである。大胆な哨戒は今までのほかの戦争でもあった。だが、こんなことがあり得ただろうか。やすやすと敵中に入り込み、敵を丹念に監視し、空気がある限り留まり、再び跡形もなくその場から消え去る。今ではこれら全てが容易で当り前のように聞こえる。だが、当時の我々は驚きのあまり絶句したのだった。Uボートは死をもたらす兵器でありながら、自らは不死身であるように思えた。

 かくして初の経験が得られたのである。Uボートの戦果は急上昇した。哨区はドーバー海峡とその北へと拡大された。英国は包囲された。ヘルズィング英巡洋艦パスファインダーを撃沈したが、これはUボートによって破壊された初の英軍艦だった。さらにヴェディゲンは装甲巡洋艦ホーグ、クレッシー及びアブキールを沈めた。ドイツは覚醒し、英国は括目した。乗組員2000人が乗った巨艦を一度に3隻も撃沈したのである。乗組員20人の小さな船がそれを成し遂げたのだった。」
潮書房光人社刊 エルンスト・ハスハーゲン著 並木 均訳
「Uボート、西へ!」
ISBN-10: 4769831390
ISBN-13: 978-4769831396


2020年7月16日木曜日

20200716 対話形式:最近の状況について

A「最近はまた、新型コロナウィルス感染症の感染者数が、非常事態宣言解除後から増えてきているようですね。また、設備の充実によって、PCR検査を受ける人数が以前よりも大分多くなっているとも聞きますので、その陽性率も高くなってきているのではないでしょうか・・?」

B「うーん、先日の非常事態宣言解除によって、この新型コロナ禍も徐々に収束に向かうのではないかと少し楽観的に考えていましたが、現在の東京を中心とする首都圏の状況は、決して楽観視出来ませんね・・。こうして外に出るのも、また控えなければならなくなるかもしれません・・。しかし、そうした状況において、大雨による災害や領海や政界での贈収賄などの問題などが続々と出てくるのは、何だか痛ましい限りですね・・。」

A「ええ、どれも重要な問題であり、国として何らかの姿勢を示すか、あるいは介入しなければならないのでしょうが、その国の中心部が、こうした状況にあることは、たしかに痛ましく、楽観視どころか、暗澹たる気持ちにさせられますね・・。あるいは、この先に、全てを好変させるような「何か」でも生じるのでしょうか・・東京オリンピックも良くて延期ですし、また、こうした状況が来年まで続けば、延期でなくて開催中止になる可能性も十分にありますよね・・。」

B「うん、そうした感染症と共に生きなければならない生活を「withコロナ」と評していますが、イマイチ、それがどういったものであるのかが分かりませんね・・。そうしたコトバや標語も結構ですが、それよりも、明瞭な実地に沿ったビジョンを平易なコトバで提示して頂きたいと思いますね・・。いや、こうしたビジョンも、その文言についての責任問題などで、おいそれとは提示できないのかもしれませんが、それでも現在の特に首都圏では、そういったものが必要であるように思いますね・・。」

A「ええ、少し穿った見方かもしれませんが、最近はマスコミによる報道でも、いわばネタがベタになってしまい、新型コロナ禍についての報道も、メシのタネとして扱っているようにも見えますからね・・。しかし、それでも、たとえ紋切り型のようになってしまっても報道は続けなけれなならないのでしょうが・・。」

B「多分、総合的な視座を得ることが、競争が激しい我が国の社会では、困難であるように思われ、また他方で、そうした総合的な視座を持つと認められるような存在には、実質的な権力を付与されることは少ないのではないでしょうか・・?まあ、おそらく、これは戦前社会からの反動(反省)に由来しているのだと思いますが、それでも、何というのか、社会における伝統的な「父性」のようなものが、戦後以来徐々に減衰してきて、ここにきて完全に欠如に至り、その代用品のようなものとして、欧米人のような髪の色にした、身体の鍛錬を趣味とする大御所お笑い芸人が鎮座しているのではないでしょうか・・(苦笑)?」

A「・・ああ、たしかにそうかもしれませんが、しかし、そのお笑い芸人の方は、以前に日本の伝統的な「父性」のような存在を、ある種の共感できる滑稽さを加味して映画作品を撮っていましたし、また、さきの大戦での合衆国による原爆投下にも憤っていましたよね・・。つまり、根底には、おそらく「そうしたものを大事にしたい!」といった心情はあるのだと思いますが、ここで大事であると思うのは、インカーネーション、血肉化された歴史像であると思います・・。つまり、キレイごとやお為ごかしでない、本当の歴史像です・・。また、これこそが、現代において、多様化してしまい、そのクリアな像を得ることが著しく困難になってしまったものであると云えますが、これが、さきにBさんが仰っていた伝統的な「父性」と密接な関係があるのではないかと思うのです・・。」

B「・・伝統的な「父性」と歴史像ですか・・。ええ、たしかにそれらには関係があるかもしれません・・。いや、それこそが現在、全世界規模で、それらの評価が行われているのかもしれません・・。また、その意味において、近代以降、西欧諸国によって酷い目にあってきた我々の隣国が、明確に権益の拡張をはかっていることには、何らかの深い歴史的な意味あるいは、因果律といったものがあるのでしょうか・・?そして、我々はこの先、どのようにして国際社会にて振舞っていくべきなのでしょうか・・?おそらく、その精錬されていない答えも歴史の中にあるのだと考えます・・。父性的な権威が衰えて、価値観の多様性が広く社会にて許容されると、商品の製造やサービスの提供といった商業・経済活動には諸事都合が良くなるのかもしれませんが、その反面、個人レベルにおいて、自分なりのインカーネーション、血肉化された歴史像を得ることが出来ないままで感性の可塑性がある若い時期を過ごしてしまう方々が多くなっていくのではないでしょうか・・?そして「そうしたものは経済活動にとって有用ではなく、むしろ不要である。」と本音では考える方々が増えると、皮肉なことに、まさに現在のような世界状況になるのではないでしょうか・・?」

A「ううむ、それはたしかに世界規模においても、ある意味、共通しているのかもしれませんが、あるいは、それらの根底にあるものは、スマートフォンの普及による知識やコトバの皮相化であり、その意味で、やはり原始的ではありますが、読書は大事であるのかもしれません・・。」

*その意味で、今後しばらくの間、書籍からの抜粋引用をもって記事としようと思います。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

~勉強会の御案内~
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~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
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2020年7月14日火曜日

20200714 内的な力の基底にあるもの・・経験・記憶?

先日来の大雨により、大きな被害を被った九州を主とする諸地域にて被害を受けたインフラの速やかな復旧と、被災された方々が以前の生活に戻られることを願っています。

さて、昨今、再び、首都圏にて新型コロナウィルス感染症の感染者数が増加傾向にあり、一時期は「収束に向かうのでは・・」との見通しもあったことから、その落胆の具合は、自身においても決して小さいものではありません・・。

また、去る6月22日に迎えた、丸5年のブログ継続期間後の安心感からか、ここ最近は、あまり積極的にはブログ記事作成を行いたいと思うこともありません・・。どちらかと云うと、6月22日以降の記事は、義務感のようなものにより作成されたと云えます。しかしまた、その後、10記事以上は作成していますので、さきに述べた内面の状態(安心感)からすれば、決して「不本意」というわけではありません。そして、出来れば、今月中に新たな10記事投稿投稿し、1350にまで到達出来れば良いと考えています・・。

さて、ここ最近、歯系・文系の以前お世話になった先生方からご連絡を頂きましたが、その中で文系の先生から「君が以前に研究した歯のことは、現在の役に立っているのか?」とのご質問を頂きました。

この質問は、現在の自身にとって悩ましいものであり、端的に述べますと「それはその後の現在までの自分にとって、なくてはならないものではありましたが、現時点においては、相対的に、その要素は軽く、希薄であるように思われます・・。」といった感じになります。

しかし「軽く、希薄」ではあるものの、それは同時に、これまで5年間にわたり、当ブログ記事の作成をどうにか継続することが出来た、いわば「内的な力」の基底にあるものとも云えます・・。それ故、その意味においては、少なからず「現在の役に立っている」とは云えるのではないかとも思われるのです・・。

また、去る4月末から作成をはじめた【架空の話】も、現段階ではあまり「歯のこと」に深入りしていませんが、今後の展開にて、ある程度、そうしたことにも触れて行くことが予想されます。くわえて、先の展開にて描くであろう歯科分野での研究については、その具体的な研究のハナシ以上に、さきと同様、そうした生活の「基底」にあった「精神構造」をどうにか描き出すことの方が文章の作成としては面白いのではないかと思われるのです・・。

また、この「精神構造」は、現在になり振り返ってみますと、文系時代においても類似したものがあり、多少、不穏当かもしれない表現にはなりますが「何人かの集団で、ある種の変性意識状態になっていたのではないかと思われるのです・・(苦笑)。」

さらに興味深いことに、こうしたことは、文系・歯系であれ、少し勘の良い方は気が付いていたようであり、そうした自らの変になっている様子を、共通して、マンガ「おーい!竜馬」内の血気盛んな若者たちが色々と無茶苦茶なことをしているシーンと結び付けて話されていたことが思い出されます・・(笑)。(小山ゆう氏作中の変になっている若者達の描写はセンスがあると思います・・。)

ともあれ、そうした「変になっている状態」で、何かしら自分の研究課題を追究してゆく中で、よく分かりませんが、ブログを5年程継続出来るような「何か」がインストールされ、そして内在化していくのではないかと思われるのです・・。また、それは自身のような変則的な経路を辿った人間であるならば、猶更であるようにも思われます・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

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