さきに述べた九州南部東側地域において特徴的な墳墓様式である地下式横穴墓、薩摩半島南部地域にて特徴的な墳墓様式である立石土壙墓とは別に九州南部西側地域にて特徴的な墳墓様式として地下式板石積石室墓(板石積石棺墓)が挙げられる。
この墳墓様式は薩摩半島部を除いた九州南部地域あるいは霧島山地周辺ともいえる地域一帯においては、さきに述べた地下式横穴墓と併存する。
ともあれ、以上のことから、これまでに挙げた三種の九州南部における特徴的な墳墓様式とは、ある程度、地域的なまとまりがあることが認識されるものと考える。
くわえて、これら三種の墳墓様式が存在する各地域を史書に記されている隼人の居住区域と重ね合わせると、地下式横穴墓が日向、大隅隼人、立石土壙墓が阿多隼人、地下式板石積石墓が薩摩隼人と、粗くではあるが考えることが出来る。
また、この九州南部においては一般的に所謂『古墳』と称される高塚様式の墳墓が東岸地域に集中して存在することもまた特徴的なことであると云える。
さて、この地下式板石積石室墓の具体的な造営であるが、まず地表から一~二メートル程度の竪穴を掘り、その底に板石を立てて並べ、遺体を安置する領域を定める。
こうして定められた石室領域の形状は円形、楕円形、長方形など多様であり、遺体、副葬品などを安置した後、立てて並べた板石の上に横にした板石を積み重ね、天井部に行くにしたがい、徐々に持ち送り、最終的にはドーム状の天井とする。
そして、その上に地表面に至るまで土を埋め戻すのであるが、地表上に何らかの墓標が存在していたのかは不明である。
この地下式板石積石室墓の起源については朝鮮半島より伝来し弥生時代の北部九州にて造営された支石墓であるとされてきたが、その一方で弥生時代の五島列島における特徴的な墳墓様式である石棺墓との造営様式の類似性もまた指摘されている。
とはいえ、これらの墳墓様式とは、何れも地下式板石積石室墓に時代的に先行することから、その伝播経路あるいは変容の過程などは、さらに詳細に考える必要があると云える。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでの列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事もまた同様に祈念しています。
2017年11月13日月曜日
2017年11月12日日曜日
20171111 九州南部における古墳造営様式について①
さきに九州北部における古墳文化の様相について述べたが、大変興味深いことに九州島全土における古墳の造営様式とは、地域により多様であり、それは九州南部においての方があるいは北部に比べ著しいとも評し得る。
先ず九州最南端の現在の鹿児島県域においては九州北部地域において特徴的とされた石人石馬、装飾古墳は存在しない。
また、鹿児島県域においても西側の薩摩半島を包含する県西南地域においては、そもそも古墳と称し得る高塚様式の古墳時代(三世紀~七世紀)に造営された墳墓の数自体が極めて少なく、土壙墓上に墓標として石を立て置くといった独特の墳墓(立石土壙墓)が造営されていたとされるが、その数自体もかなり乏しいと云える。
一方、東側の大隅半島側においては、さきにも述べたように、地理的に我が国の古墳文化にある種の普遍性を付与した大和王権の朝鮮半島、大陸への大動脈である瀬戸内海の延長線上でもあることから、大和王権の様式に依拠した古墳が五世紀前半頃より造営され、またそれを別言すると、北隣の日向における様式とも共通することから、これらの地域には古墳造営様式を含む何らかの文化的な連続性、共通性が存在していたものと考えられる。
またこの日向、大隅地域さらに詳細には宮崎平野から肝属川下流域、国見山麓の肝属平野までを南北とし、そして西端を伊佐市として主に霧島山麓地域において特徴的であり、多く見られる古墳時代中期以降(五世紀中期以降~七世紀代)の墳墓造営様式が地下式横穴墓である。
それ故、この地下式横穴墓とは当地域の所謂『日向・大隅隼人』特有の墓制であるとされているが、これは時代、地域的にも重なるため適当な見解であると云える。
さて、この地下式横穴墓の造営様式とは具体的には地面から井戸のように垂直に穴を二~三メートル程度掘り下げ、さらに穴の底から水平方向に穴を掘り遺体を埋葬、安置する玄室を掘削作成する。
その玄室の形状はさまざまであり、四角形、長方形、楕円形などがあり、天井部もまた同様にドーム、切妻、寄棟と多様である。
さらに玄室内部壁面には家屋内部を意識したと思われる浮き彫り、線刻等が為されていることが散見されるため、それは死者のための家として認識されていたのではないかと考えられる。
また、埋葬の後、玄室入り口を封鎖し、竪穴を埋め戻すため、通常の横穴式石室様式の古墳に比べ、追葬は困難であると考えられるものの、追葬が為された痕跡(遺体の位置など)なども少なからず見受けられることから、その葬送における背景思想とは、さきに述べた九州北部における横穴式石室を用いた古墳のそれからの影響を受けたものであると考えられる。
とはいえ、この地下式横穴墓とは、地表からは古墳における墳丘といった存在を示すものを視認することが困難であることから、その発見は偶然に為されることが多いと聞く。
(墳墓上の地表を重量のある車両(トラクター)などが走行した際、その重さで玄室天井部が崩落し、上下にて事故が生じることもあるとのこと。)
しかしながら、それが造営当時よりそう(墳丘を持たない)であったかは未だ確たる見解はなく、造営当時は土盛り程度は為されていたのではないかと考えられている。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も同様に祈念しています。
先ず九州最南端の現在の鹿児島県域においては九州北部地域において特徴的とされた石人石馬、装飾古墳は存在しない。
また、鹿児島県域においても西側の薩摩半島を包含する県西南地域においては、そもそも古墳と称し得る高塚様式の古墳時代(三世紀~七世紀)に造営された墳墓の数自体が極めて少なく、土壙墓上に墓標として石を立て置くといった独特の墳墓(立石土壙墓)が造営されていたとされるが、その数自体もかなり乏しいと云える。
一方、東側の大隅半島側においては、さきにも述べたように、地理的に我が国の古墳文化にある種の普遍性を付与した大和王権の朝鮮半島、大陸への大動脈である瀬戸内海の延長線上でもあることから、大和王権の様式に依拠した古墳が五世紀前半頃より造営され、またそれを別言すると、北隣の日向における様式とも共通することから、これらの地域には古墳造営様式を含む何らかの文化的な連続性、共通性が存在していたものと考えられる。
またこの日向、大隅地域さらに詳細には宮崎平野から肝属川下流域、国見山麓の肝属平野までを南北とし、そして西端を伊佐市として主に霧島山麓地域において特徴的であり、多く見られる古墳時代中期以降(五世紀中期以降~七世紀代)の墳墓造営様式が地下式横穴墓である。
それ故、この地下式横穴墓とは当地域の所謂『日向・大隅隼人』特有の墓制であるとされているが、これは時代、地域的にも重なるため適当な見解であると云える。
さて、この地下式横穴墓の造営様式とは具体的には地面から井戸のように垂直に穴を二~三メートル程度掘り下げ、さらに穴の底から水平方向に穴を掘り遺体を埋葬、安置する玄室を掘削作成する。
その玄室の形状はさまざまであり、四角形、長方形、楕円形などがあり、天井部もまた同様にドーム、切妻、寄棟と多様である。
さらに玄室内部壁面には家屋内部を意識したと思われる浮き彫り、線刻等が為されていることが散見されるため、それは死者のための家として認識されていたのではないかと考えられる。
また、埋葬の後、玄室入り口を封鎖し、竪穴を埋め戻すため、通常の横穴式石室様式の古墳に比べ、追葬は困難であると考えられるものの、追葬が為された痕跡(遺体の位置など)なども少なからず見受けられることから、その葬送における背景思想とは、さきに述べた九州北部における横穴式石室を用いた古墳のそれからの影響を受けたものであると考えられる。
とはいえ、この地下式横穴墓とは、地表からは古墳における墳丘といった存在を示すものを視認することが困難であることから、その発見は偶然に為されることが多いと聞く。
(墳墓上の地表を重量のある車両(トラクター)などが走行した際、その重さで玄室天井部が崩落し、上下にて事故が生じることもあるとのこと。)
しかしながら、それが造営当時よりそう(墳丘を持たない)であったかは未だ確たる見解はなく、造営当時は土盛り程度は為されていたのではないかと考えられている。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。
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2017年11月10日金曜日
20171110 『Sapiens: A Brief History of Humankind』pp.23~26 Written by Yuval Noah Harari
『Sapiens: A Brief History of Humankind』pp.23~26
Written by Yuval Noah Harari
ISBN-10: 0099590085
『Most researchers
believe that these unprecedented accomplishments were the product of a
revolution in sapiens’ cognitive abilities.
They maintain that the people who
drove the Neanderthals to extinction, settled Australia, and carved the Stadel
lion-man were as intelligent, creative and sensitive as we are.
If we were to
come across the artists of the Stadel Cave, we could learn everything we
know-from the adventures of Alice in Wonderland to the paradoxes of quantumphysics- and they could teach us how their people view the world.
The appearance of new ways of thinking and
communicating, between 70000 and 30000years ago, constitutes the Cognitive
revolution.
What caused it? We’re not sure. The most commonly believed theory
argues that accidental genetic mutations changed the inner wiring of the brains
of sapiens, enabling them to think in unprecedented ways and to communicate
using an altogether new type of language.
We might call it the Tree ofKnowledge mutation.
Why did it occur in sapiens DNA rather than in that of
Neanderthals? It was a matter of pure chance, as far as we can tell. But it’s
more important to understand the consequences of the Tree of Knowledge mutation
than its causes. What was so special about the Sapiens language that it enabled
us to conquer the world?
It was not the
first language.
Every animal has some kind of language. Even insects, such as
bee and ants, know how to communicate in sophisticated ways, informing one
another of the whereabouts of food.
Neither was it the first vocal language.
Many animals, including all ape and monkey species, have vocal language. For
example, green monkeys use calls of various kinds to communicate.
Zoologists
have identified one call that means Careful! An eagle! A slightly different call
warns Careful! A lion! When researchers played a recording of the first call to
group of monkeys, the monkey stopped what they were doing and looked upwards in
fear. When the same group heard a recording of the second call, the lion
warning, they quickly scrambled up a tree. Sapiens can produce many more
distinct sounds than green monkeys, but whales and elephants have equally
impressive abilities.
A parrot can say anything Albert Einstein could say, as well
as mimicking the sounds of phones ringing, doors slamming and sirens wailing.
Whatever
advantage Einstein had over a parrot, it wasn’t vocal. What, then, is so
special about our language?
The most common
answer is that our language is amazingly supple. We can connect a limited
number of sentences, each with a distinct meaning.
We can thereby ingest, store
and communicate a prodigious amount of information about the surrounding world.
A green monkey can yell to its comrades, Careful! A lion! But a modern human
can tell her friends that this morning, near the bend in the river, she saw a
lion tracking a herd of bison.
She can then describe the exact location,
including the different paths leading to the area.
With this information, the
member of her band can put their heads together and discuss whether they should
approach the river, chase away the lion, and hunt the bison.
A second theory agrees
that our unique language evolved as a means of sharing information about the
world.
But the most important information that needed to be conveyed was about
humans, not about lions and bison.
Our language evolved as a way of gossiping.
According
to the theory Homo sapiens is primarily a social cooperation is our key for
survival and reproduction.
It is not enough for individual men and women to
know the whereabouts of lions and bison. It’s much more important for them to
know who in their band hates whom, who is sleeping with whom, who is honest,
and who is cheat. 』
20171109 総投稿記事数800に到達して思うこと・・
昨日分の記事を作成、投稿する際においてはすっかり忘れていましたが、昨日分の記事投稿によって総投稿記事数が800に到達しました。
しかしながら、そのことは投稿時において忘れているほどに、そこからの感慨といったものはありませんでした・・。
これは喜ぶべきことなのでしょうか?・・(笑)。
また、以前に書いていたことではありますが『800記事に到達の後、しばらくは記事作成を止める』件については、何も区切りの良い800記事に限定せず、今後何らかの事由により記事作成が困難と思われる場合において、それを行使してみようと思います。
それ故、今後もそうした事由がない限りは記事作成を継続し、とりあえず次の区切りの良い目標とする900記事までは書き続けようと考えています。
ともあれ、ここまでの記事を読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
おかげさまにて、どうにか800記事まで到達することが出来ました。今後もしばらくは書き続けようと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。
さて、昨日投稿の記事もまた比較的マニアックな主題(古墳)であったにもかかわらず割合多くの方々(55)に読んで頂けました。
しかし、それ以上に驚いたのが一昨日投稿分の記事についてであり、これは投稿二日後にしてかなり多くの方々(91)に読んで頂き、嬉しい反面において『自身の作成した文章による記事もまた、投稿後早い段階にて、この程度読んで頂ければ良いのはであるが・・』といった感慨もまた多少感じるところではあります・・(苦笑)。
また他方、特に宣伝的な意味合いはありませんでしたが、これを一つの(小さな)契機として抜粋引用した書籍が、より多くの方々に真剣に読まれることに繋がれば、それはそれで多少の意義もまたあるのかもしれません・・。
また、今後もこれまでに自身が専攻した分野、あるいは現在なお自分なりに探求している分野に関しての文章をブログ記事として投稿していこうと考えておりますので、こちらに関してもまた、どうぞよろしくお願いします。
先日まで、ある程度継続して書き連ねた我が国の古代についての記事は、当初予想したよりも多くの方々に読んで頂き、これもまた、自身としては嬉しい誤算であったと現在に至っては思うところです。
この十日間程度の連作にて書き連ねた内容とは、今なおさまざまな説がありますが、概括としてはそこまで的外れではないものと考えます。
また、この間に作成した総文量とは一般的な修士論文の三分の一程度にあたることから、多少は自身の文章作成能力とは向上したのではないかとも思われます・・(笑)。
しかし、大事であるのは、あくまでも文量ではなく、その内容であるのですが・・(苦笑)。
そういえば、つい先日必要があったことから、これまでに自身が作製したジルコニア-歯科用陶材の接着強さの測定に用いた実験試料数を調べたところ10000以上ということでした。
しかし、それ以外においてもかなりの数を作製した記憶がありますので、試作などを含めた全ての総計とは20000程度にはなるのではないかと思われます・・。
ブログ記事の作成と実験に用いる試料の作製においてどちらが難しいかとは、あまり考えたことはありませんが、いずれにせよ自身とは、こうした具体例を積み重ねていく、いわば帰納法的なアプローチを(無意識ながら)好む傾向を有していることが理解出来るのではないでしょうか・・(笑)。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
しかしながら、そのことは投稿時において忘れているほどに、そこからの感慨といったものはありませんでした・・。
これは喜ぶべきことなのでしょうか?・・(笑)。
また、以前に書いていたことではありますが『800記事に到達の後、しばらくは記事作成を止める』件については、何も区切りの良い800記事に限定せず、今後何らかの事由により記事作成が困難と思われる場合において、それを行使してみようと思います。
それ故、今後もそうした事由がない限りは記事作成を継続し、とりあえず次の区切りの良い目標とする900記事までは書き続けようと考えています。
ともあれ、ここまでの記事を読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
おかげさまにて、どうにか800記事まで到達することが出来ました。今後もしばらくは書き続けようと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。
さて、昨日投稿の記事もまた比較的マニアックな主題(古墳)であったにもかかわらず割合多くの方々(55)に読んで頂けました。
しかし、それ以上に驚いたのが一昨日投稿分の記事についてであり、これは投稿二日後にしてかなり多くの方々(91)に読んで頂き、嬉しい反面において『自身の作成した文章による記事もまた、投稿後早い段階にて、この程度読んで頂ければ良いのはであるが・・』といった感慨もまた多少感じるところではあります・・(苦笑)。
また他方、特に宣伝的な意味合いはありませんでしたが、これを一つの(小さな)契機として抜粋引用した書籍が、より多くの方々に真剣に読まれることに繋がれば、それはそれで多少の意義もまたあるのかもしれません・・。
また、今後もこれまでに自身が専攻した分野、あるいは現在なお自分なりに探求している分野に関しての文章をブログ記事として投稿していこうと考えておりますので、こちらに関してもまた、どうぞよろしくお願いします。
先日まで、ある程度継続して書き連ねた我が国の古代についての記事は、当初予想したよりも多くの方々に読んで頂き、これもまた、自身としては嬉しい誤算であったと現在に至っては思うところです。
この十日間程度の連作にて書き連ねた内容とは、今なおさまざまな説がありますが、概括としてはそこまで的外れではないものと考えます。
また、この間に作成した総文量とは一般的な修士論文の三分の一程度にあたることから、多少は自身の文章作成能力とは向上したのではないかとも思われます・・(笑)。
しかし、大事であるのは、あくまでも文量ではなく、その内容であるのですが・・(苦笑)。
そういえば、つい先日必要があったことから、これまでに自身が作製したジルコニア-歯科用陶材の接着強さの測定に用いた実験試料数を調べたところ10000以上ということでした。
しかし、それ以外においてもかなりの数を作製した記憶がありますので、試作などを含めた全ての総計とは20000程度にはなるのではないかと思われます・・。
ブログ記事の作成と実験に用いる試料の作製においてどちらが難しいかとは、あまり考えたことはありませんが、いずれにせよ自身とは、こうした具体例を積み重ねていく、いわば帰納法的なアプローチを(無意識ながら)好む傾向を有していることが理解出来るのではないでしょうか・・(笑)。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
2017年11月9日木曜日
20171108 竪穴式石室と横穴式石室の構造の相違から
我が国における横穴式石室とは、さきにも述べたように四世紀末頃に九州北部にて受容され、六世紀頃に至ると、東日本、東北地方南部をも含めた国内各地にて、群集墳といった様式による比較的小規模な古墳を主として急速に伝播・普及していったと評し得る。
竪穴式と横穴式は文字面からの印象では幾分類似しているが実際は双方かなり異なったものであり、竪穴式石室は基本的に遺体を収めた棺を保存、密閉するための構造であり、石室内部に余分な空間はなく、石室内部の棺周辺は土砂、粘土、石などにより充填され、その石室は二度と開かれないことを前提として造営される。
一方、横穴式石室は、構造的には玄室および羨道より構成され、玄室は棺を静置する場所であり、羨道は玄室と古墳外部をつなぐ通路であり、棺が収められたのち、羨道の入り口、あるいは古墳の入口は大小の岩石などを以って閉塞、封鎖される。
そして、その後必要があれば再度、閉塞、封鎖石を取り除き、羨道を通り玄室内部に入ることが出来る。
つまり、横穴式石室は、さきに述べたように棺を収めた後も繰り返し玄室内部に入ることを前提として造営されていると云える。
この源流と云えるものは、これまたさきにも述べたように、朝鮮半島、大陸にあり、我が国のそれと特に深い関連があると考えられているものは朝鮮半島北部(高句麗)のそれである。
ともあれ、この横穴式石室が普及した頃(六世紀初頭)から、冒頭の群集墳という名称から示されるように古墳そのものの数もまた急激に増加した。
その理由として考えられることは概ね以下のとおりである。
①:古墳造営を行うことが出来る人々が増加した。
②:人口そのものが急激に増加した。
③:多くの渡来人がこの時期に集中して日本に渡り、定住した。
といった理由が挙げられるが①~③それぞれある程度妥当であると思われる。
さて、さきに述べたように横穴式石室とは、埋葬の後も繰り返し、石室(玄室)内に入ることが可能な構造であるのだが、後世になり、その内部に入ってみると、複数の遺骸がおさめられていることが多く、おそらくそれは同じ血族にて数世代のものが埋葬されたことを示しているものと考えられている。
こうした埋葬の様式を追葬と云う。
そして、そのことから、竪穴式石室と横穴式石室の最も大きな構造上ひいては、その背景にある葬送思想の違いを認識することが出来るのではないかと考える。
さらに横穴式石室の場合、埋葬ののち、その遺骸が白骨化すると、それ(ら)を石室(玄室)隅にまとめ、空いた場所に新たな遺骸を埋葬するといった様式が一般的に採られていた。
これも竪穴式石室における遺骸を密閉した空間にて保存を試みる葬送思想とは根本的に異なるものであり、横穴式石室においては遺骸の保存よりも、白骨化することにより(遺骸の)体積を減少させることを予め企図したようにも考えられ、あるいは現代における火葬ともその意味においては類似した葬送思想であるとも評し得る。
ともあれ、この横穴式石室の構造に依拠する葬送思想から生じた記紀における神話がイザナギの黄泉国へ亡くなった妻イザナミのもとに訪れる一節であると考えられている。
イザナギが訪れた暗闇の黄泉国(おそらく石室(玄室)内)にて、自らの櫛の歯を欠き、それに火を灯すと、そこにはまさに腐敗過程にあるイザナミの遺骸があり、そのさまに驚嘆し恐れ、逃げ帰るというものであるが、おそらくこうした様子とは、おそらく横穴式石室の造営が為された六、七世紀当時においては比較的日常とも云える経験であったのではないかと思われる。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』
竪穴式と横穴式は文字面からの印象では幾分類似しているが実際は双方かなり異なったものであり、竪穴式石室は基本的に遺体を収めた棺を保存、密閉するための構造であり、石室内部に余分な空間はなく、石室内部の棺周辺は土砂、粘土、石などにより充填され、その石室は二度と開かれないことを前提として造営される。
一方、横穴式石室は、構造的には玄室および羨道より構成され、玄室は棺を静置する場所であり、羨道は玄室と古墳外部をつなぐ通路であり、棺が収められたのち、羨道の入り口、あるいは古墳の入口は大小の岩石などを以って閉塞、封鎖される。
そして、その後必要があれば再度、閉塞、封鎖石を取り除き、羨道を通り玄室内部に入ることが出来る。
つまり、横穴式石室は、さきに述べたように棺を収めた後も繰り返し玄室内部に入ることを前提として造営されていると云える。
この源流と云えるものは、これまたさきにも述べたように、朝鮮半島、大陸にあり、我が国のそれと特に深い関連があると考えられているものは朝鮮半島北部(高句麗)のそれである。
ともあれ、この横穴式石室が普及した頃(六世紀初頭)から、冒頭の群集墳という名称から示されるように古墳そのものの数もまた急激に増加した。
その理由として考えられることは概ね以下のとおりである。
①:古墳造営を行うことが出来る人々が増加した。
②:人口そのものが急激に増加した。
③:多くの渡来人がこの時期に集中して日本に渡り、定住した。
といった理由が挙げられるが①~③それぞれある程度妥当であると思われる。
さて、さきに述べたように横穴式石室とは、埋葬の後も繰り返し、石室(玄室)内に入ることが可能な構造であるのだが、後世になり、その内部に入ってみると、複数の遺骸がおさめられていることが多く、おそらくそれは同じ血族にて数世代のものが埋葬されたことを示しているものと考えられている。
こうした埋葬の様式を追葬と云う。
そして、そのことから、竪穴式石室と横穴式石室の最も大きな構造上ひいては、その背景にある葬送思想の違いを認識することが出来るのではないかと考える。
さらに横穴式石室の場合、埋葬ののち、その遺骸が白骨化すると、それ(ら)を石室(玄室)隅にまとめ、空いた場所に新たな遺骸を埋葬するといった様式が一般的に採られていた。
これも竪穴式石室における遺骸を密閉した空間にて保存を試みる葬送思想とは根本的に異なるものであり、横穴式石室においては遺骸の保存よりも、白骨化することにより(遺骸の)体積を減少させることを予め企図したようにも考えられ、あるいは現代における火葬ともその意味においては類似した葬送思想であるとも評し得る。
ともあれ、この横穴式石室の構造に依拠する葬送思想から生じた記紀における神話がイザナギの黄泉国へ亡くなった妻イザナミのもとに訪れる一節であると考えられている。
イザナギが訪れた暗闇の黄泉国(おそらく石室(玄室)内)にて、自らの櫛の歯を欠き、それに火を灯すと、そこにはまさに腐敗過程にあるイザナミの遺骸があり、そのさまに驚嘆し恐れ、逃げ帰るというものであるが、おそらくこうした様子とは、おそらく横穴式石室の造営が為された六、七世紀当時においては比較的日常とも云える経験であったのではないかと思われる。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』
2017年11月7日火曜日
20171107 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.35-38より抜粋引用
河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.35-38より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『ほとんどの研究者は、これらの前例のない偉業は、サピエンスの認知的能力に起った革命の産物だと考えている。
ネアンデルタール人を絶滅させ、オーストラリア大陸に移り住み、シュターデルのライオン人間を彫った人々は、私たちと同じくらい高い知能を持ち、創造的で、繊細だったと、研究者たちは言い切る。
仮にシュターデル洞窟の芸術家たちに出会ったとしたら、私たちは彼らの言語を習得することができ、彼らも私たちの言語を習得することができるだろう。
不思議の国でのアリスの冒険から、量子物理学のパラドックスまで、私たちは知っていることのいっさいを彼らに説明でき、彼らは自分たちの世界観を私たちに教えられるはずだ。
このように七万年前から三万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを、「認知革命」という。
その原因は何だったのか?それは定かではない。最も広く信じられている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になったのだという。
その変異のことを「知恵の木の突然変異」と呼んでもいいかもしれない[訳註 知恵の木は[創世記]に出てくるエデンの園に生えていた木で、アダムとイヴはその実を食べて[目が開け]た]。
なぜその変異がネアンデルタール人ではなくサピエンスのDNAに起ったのか?私たちの知るかぎりでは、それはまったくの偶然だった。だが、より重要なのは、「知恵の木の突然変異」の原因よりも結果を理解することだ。
サピエンスの新しい言語のどこがそれほど特別だったので、私たちは世界を征服できたのだろう。
それはこの世で初の言語ではなかった。どんな動物も、何かしらの言語を持っている。
ミツバチやアリのような昆虫でさえ、複雑なやり方で意思を疎通させる方法を知っており、食物のありかを互いに伝え合う。また、それはこの世で初の口頭言語でもなかった。
類人猿やサルの全種を含め、多くの動物が口頭言語を持っている。たとえば、サバンナモンキーはさまざまな鳴き声を使って意思を疎通させる。動物学者が、ある鳴き声が、「気をつけろ!ワシだ!」という意味であることを突き止めた。それとはわずかに違う鳴き声は、「気を付けろ!ライオンだ!」という警告になる。研究者たちが最初の鳴き声の録音を一群のサルに聞かせたところ、サルたちはしていることをやめて、恐ろしげに上を向いた。同じ集団が二番目の鳴き声(ライオンだという警告)の録音を耳にすると、彼らはたちまち木によじ登った。
サピエンスはサバンナモンキーよりもずっと多くの異なる音声を発せられるが、クジラやゾウもそれに引けを取らないほど見事な能力を持っている。
オウムは、電話の鳴る音や、ドアがバタンと閉まる音、けたたましく鳴るサイレンの音も真似できるし、アルベルト・アインシュタインが口にできることはすべて言える。
アインシュタインがオウムに優っていたとしたら、それは口頭言語での表現ではなかった、それでは、私たちの言語のいったいどこがそれほど特別なのか?
最もありふれた答えは、私たちの言語は驚くほど柔軟である、というものだ。
私たちは限られた数の音声や記号をつなげて、それぞれ異なる意味を持った文をいくらでも生み出せる。そのおかげで私たちは、周囲の世界について膨大な量の情報を収集し、保存し、伝えることが出来る。サバンナモンキーは仲間たちに、「気をつけろ!ライオンだ!」と叫ぶことはできる。
だが、原生人類は友人たちに、今朝、川が曲がっている所の近くでライオンがバイソンの群れの跡をたどっているのを見た、と言うことができる。それから、そのあたりまで続くさまざまな道筋も含めて、その場所をもっと正確に説明できる。すると、集団の仲間たちはこの情報をもとに、川に近づいてそのライオンを追い払い、バイソンの群れを狩るべきかどうか、額を集めて相談できる。
これとは別の説もある、私たちの独特の言語は、周りの世界についての情報を共有する手段として発達したという点では、この説も同じだ。とはいえ、伝えるべき情報のうちで最も重要なのは、ライオンやバイソンについてではなく人間についてのものであり、私たちの言語は、噂話のために発達したのだそうだ。この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。私たちにとって社会的な協力は、生存と繁殖のカギを握っている。個々の人間がライオンやバイソンの居場所を知っているだけでは十分ではない。自分の集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、誰が正直か、誰がずるをするかを知るほうが、はるかに重要なのだ。』
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『ほとんどの研究者は、これらの前例のない偉業は、サピエンスの認知的能力に起った革命の産物だと考えている。
ネアンデルタール人を絶滅させ、オーストラリア大陸に移り住み、シュターデルのライオン人間を彫った人々は、私たちと同じくらい高い知能を持ち、創造的で、繊細だったと、研究者たちは言い切る。
仮にシュターデル洞窟の芸術家たちに出会ったとしたら、私たちは彼らの言語を習得することができ、彼らも私たちの言語を習得することができるだろう。
不思議の国でのアリスの冒険から、量子物理学のパラドックスまで、私たちは知っていることのいっさいを彼らに説明でき、彼らは自分たちの世界観を私たちに教えられるはずだ。
このように七万年前から三万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを、「認知革命」という。
その原因は何だったのか?それは定かではない。最も広く信じられている説によれば、たまたま遺伝子の突然変異が起こり、サピエンスの脳内の配線が変わり、それまでにない形で考えたり、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をしたりすることが可能になったのだという。
その変異のことを「知恵の木の突然変異」と呼んでもいいかもしれない[訳註 知恵の木は[創世記]に出てくるエデンの園に生えていた木で、アダムとイヴはその実を食べて[目が開け]た]。
なぜその変異がネアンデルタール人ではなくサピエンスのDNAに起ったのか?私たちの知るかぎりでは、それはまったくの偶然だった。だが、より重要なのは、「知恵の木の突然変異」の原因よりも結果を理解することだ。
サピエンスの新しい言語のどこがそれほど特別だったので、私たちは世界を征服できたのだろう。
それはこの世で初の言語ではなかった。どんな動物も、何かしらの言語を持っている。
ミツバチやアリのような昆虫でさえ、複雑なやり方で意思を疎通させる方法を知っており、食物のありかを互いに伝え合う。また、それはこの世で初の口頭言語でもなかった。
類人猿やサルの全種を含め、多くの動物が口頭言語を持っている。たとえば、サバンナモンキーはさまざまな鳴き声を使って意思を疎通させる。動物学者が、ある鳴き声が、「気をつけろ!ワシだ!」という意味であることを突き止めた。それとはわずかに違う鳴き声は、「気を付けろ!ライオンだ!」という警告になる。研究者たちが最初の鳴き声の録音を一群のサルに聞かせたところ、サルたちはしていることをやめて、恐ろしげに上を向いた。同じ集団が二番目の鳴き声(ライオンだという警告)の録音を耳にすると、彼らはたちまち木によじ登った。
サピエンスはサバンナモンキーよりもずっと多くの異なる音声を発せられるが、クジラやゾウもそれに引けを取らないほど見事な能力を持っている。
オウムは、電話の鳴る音や、ドアがバタンと閉まる音、けたたましく鳴るサイレンの音も真似できるし、アルベルト・アインシュタインが口にできることはすべて言える。
アインシュタインがオウムに優っていたとしたら、それは口頭言語での表現ではなかった、それでは、私たちの言語のいったいどこがそれほど特別なのか?
最もありふれた答えは、私たちの言語は驚くほど柔軟である、というものだ。
私たちは限られた数の音声や記号をつなげて、それぞれ異なる意味を持った文をいくらでも生み出せる。そのおかげで私たちは、周囲の世界について膨大な量の情報を収集し、保存し、伝えることが出来る。サバンナモンキーは仲間たちに、「気をつけろ!ライオンだ!」と叫ぶことはできる。
だが、原生人類は友人たちに、今朝、川が曲がっている所の近くでライオンがバイソンの群れの跡をたどっているのを見た、と言うことができる。それから、そのあたりまで続くさまざまな道筋も含めて、その場所をもっと正確に説明できる。すると、集団の仲間たちはこの情報をもとに、川に近づいてそのライオンを追い払い、バイソンの群れを狩るべきかどうか、額を集めて相談できる。
これとは別の説もある、私たちの独特の言語は、周りの世界についての情報を共有する手段として発達したという点では、この説も同じだ。とはいえ、伝えるべき情報のうちで最も重要なのは、ライオンやバイソンについてではなく人間についてのものであり、私たちの言語は、噂話のために発達したのだそうだ。この説によれば、ホモ・サピエンスは本来、社会的な動物であるという。私たちにとって社会的な協力は、生存と繁殖のカギを握っている。個々の人間がライオンやバイソンの居場所を知っているだけでは十分ではない。自分の集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、誰が正直か、誰がずるをするかを知るほうが、はるかに重要なのだ。』
2017年11月6日月曜日
20171106 言語・文章とは本来抽象的なものであるからこそ・・
ここ直近十以上の投稿記事は我が国古代史を主題とするものにしました。
また、これを主題とするのであれば、もうしばらくは書き続けることが出来るのではないかと思われましたが、敢えてここで一旦止め、これまでのような散文的な記事に戻ろうと思います。
また、これを主題とするのであれば、もうしばらくは書き続けることが出来るのではないかと思われましたが、敢えてここで一旦止め、これまでのような散文的な記事に戻ろうと思います。
十日以上、割合硬質な文体にて記事を作成してきましたが、喜んで良いものか、閲覧してくださる方々の数は、それ以前とのあまり大きな変化は見受けられませんでした・・。
しかし一方、古代史に関連する主題にて記事を作成していますと、書いている最中に何かしら新たな文章の着想が湧いてくるといった感覚が度々生じ、また、この感覚とは、ここ久しく味わったことがないものであったことから、今後はより多く機会を見つけて、こうした主題にて記事を作成していきたいと思います。
しかし一方、古代史に関連する主題にて記事を作成していますと、書いている最中に何かしら新たな文章の着想が湧いてくるといった感覚が度々生じ、また、この感覚とは、ここ久しく味わったことがないものであったことから、今後はより多く機会を見つけて、こうした主題にて記事を作成していきたいと思います。
また、それに加えて白いと感じたことは、これまでのブログ記事作成においては、いくつかの理由から、記事作成当日に生じた具体的な出来事などは題材とせず、あるいはそうした出来事を書く場合においても、出来るだけ抽象化して書くことを心がけていました。
このことをもう少し詳しく書きますと、それは、外界の事象を視覚に基づいて言語にて説明するというよりも、あくまでも自身の思考・思想といった抽象的なことがらを言語を用いて出来るだけ精確に伝えることを主眼とする試みであったとも云えます。
このことをもう少し詳しく書きますと、それは、外界の事象を視覚に基づいて言語にて説明するというよりも、あくまでも自身の思考・思想といった抽象的なことがらを言語を用いて出来るだけ精確に伝えることを主眼とする試みであったとも云えます。
その意味で、おそらく今現在書き連ねている文章もまた、同様であると云えます。
ともあれ、その文体にて、いくらかの期間、文章を書き続けていますと、文章作成能力が向上したといった明瞭な認識は伴いませんが、昨日までのように、ある固定された主題にて文章(ブログ記事)を継続し記す場合、また、その主題がある程度自身にとって馴染みのある分野である場合は、比較的容易に、その主題に基づく文章の作成が出来るようになったのではないかと思われます。
そこから、おそらく抽象的ともいえる思考・思想を文章にて書き連ねるという行為は、そこに視覚性、具体性らしきものを感じることが困難であるという理由から、書き手、読み手の双方にとって退屈な文章となり易いものではあるのでしょうが、しかしながら、そうであるからこそ(本来抽象性の極みである)言語、文章における練達、上達とは、抽象性の中で為されていくのではないかとも思われるのです。
また、そのように考えてみますと、改めて、文系学問、就中思想、哲学関連の学問が、いくつかの文明圏においては重要視される理由が分かってくるようにも思われます。
そして同時に、何故我が国が一般的に実学と評される学問分野に偏重した文化背景(此岸的)を持っているように見える(実際もそうであるかもしれないが)理由に関しても多少の理解を得られるのではないかとも思われます。
さらにここまで書いており、先日和訳本を読了し、現在原書にてどうにか読み進めているユヴァル・ノア・ハラリ著『Sapiens: A Brief History of Humankind』の一節が思い起こされましたが、その部分につきましては次のブログ記事にて書いてみようと思います。
ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。
再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
そして同時に、何故我が国が一般的に実学と評される学問分野に偏重した文化背景(此岸的)を持っているように見える(実際もそうであるかもしれないが)理由に関しても多少の理解を得られるのではないかとも思われます。
さらにここまで書いており、先日和訳本を読了し、現在原書にてどうにか読み進めているユヴァル・ノア・ハラリ著『Sapiens: A Brief History of Humankind』の一節が思い起こされましたが、その部分につきましては次のブログ記事にて書いてみようと思います。
ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。
再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。
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