これまでに幾つかの地域にて在住した経験から、それら地域での文化、価値観と、現在住んでいる首都圏のそれとで異なっていると感じたことが少なからずあります。その中の一つについて、先日ある機会により思い起こしましたので、それを記そうと思います。
首都圏あるいは我が国を代表する伝統芸能として「歌舞伎」が挙げられます。そして、特に首都圏などの都市部においては「歌舞伎」の観劇とは、どちらかというと高級な趣味とされているのではないかと思われます・・。またそれに伴い、歌舞伎役者もまた、どちらかというと、通常の俳優、役者とはまた異なった種類の有名人として認識されているのではないでしょうか?こうした価値観に対し、首都圏以外での在住経験のない頃は、特に疑問を持つこともなく、ただ、当然・所与のものとして受け入れてきました。しかし、これまでに住んだ幾つかの地域での生活、日常会話などにおいて時折、そうした自身が所与の、当たり前の価値観としているものについての相違が認識されることがありました。その中で印象的であった一つが「歌舞伎」についてです・・。
A「君の実家はたしか千葉県の市川市のようですが、何故幼稚園から中学校まで東京の学校に通っていたのかね?」
B「ええ、やはり同じ公立校とはいっても都心部の学校の方が色々と進んでいると云われていましたし、また、祖父母の家がそちらにありましたので、当時千葉県の市川市に住んではおりましたが、実際に育った場所は、その半分は都心部であるといっても良いのではないかと思います・・。まあ、それでもあくまでも出身は千葉県ではありますが・・(笑)。
しかし、それら都心の公立校においては、私のような生徒は少なからずいましたので、そこまで珍しいことでもないように思いますが・・。」
A「ふーん、B君の祖父母は東京の人なのですね、それでその方々は東京には何時頃から住んでいたのですか・・?」
B「父方は明治以降に上京してきたようですが、母方は明治以前から、つまり東京が江戸であった頃から住んでいたようでして、聞いたハナシに拠ると日本橋人形町あたりで商家を営んでいたようです・・。ですから、祖母などは現在考えてみますと着物の着方から様々な趣味に至るまで、江戸からの文化を受け継いでいたのではないかと思います・・。」
A「・・・そうですか・・それで、その江戸からの文化の趣味とは、具体的にはどのようなものですか?」
B「ええと、そうですね・・祖母は歌舞伎の観劇が随分と好きな方でして、私も幼い頃連れられて何度か観に行った記憶もあります・・。」
A「はああ・・歌舞伎ですか・・それが東京での伝統的な江戸文化なのですか・・?」
B「まあ、現在では様々な地域、地方で興行されるようですが、そういっても良いのではないかと思いますが・・。」
A「しかし、君、歌舞伎とは元々、なんだね、君も知っているとは思うけれども、あまり良いとされる文化ではなかったし、現在でもそれは基本的には変わっていないでしょう・・?梨園といったって、あれは要するに疑似皇室みたいなものではないかと思うよ・・。まあ、昨今は、マスコミの話題作りの一環で随分もてはやされてはいるようですがね・・。」
B「はあ、なるほど・・・しかし、ここ***では、そうした観劇文化自体があまり盛んでなかったことから、そのようにお考えになるのであって、江戸、東京においては、そこそこの歴史があり一般的に伝統芸能と認識されているものと考えますが・・。」
A「・・ふうむ、まあ、たしかに、此処には昔からあまり観劇といった文化自体があまり盛んではなかったし、また歌舞伎といっても、地方巡業に来るような旅芸人一座の一種として認識されているのかもしれないね・・。それでも東京では歌舞伎が立派な伝統芸能とされているのがよく理解できないね・・。」
B「しかし、地方巡業でしたら相撲なども行いますけれど、あれはかつて盛んに行われた地域の村相撲などとは、また別のものとして認識されますよね・・?」
A「いや、相撲は歌舞伎とは違うよ、あれこそまさしく伝統ではないかね・・?だから、村相撲には村相撲の良さみたいなものがあって、大相撲にはまた別のそれがあるのだと思うのだが・・。」
B「それでしたら歌舞伎もそれと同じように考えれば良いのではないでしょうか・・?」
A「まあ、それは理屈としてはそうなのかもしれないが、実際にそうした文化を肌身に知らないと、いくら君が力説・説得したところで、こちらは納得できないよ・・(笑)。」
B「ええ、それは仰る通りであると思いますし、またそれ(肌あるいは骨身に知ること)が文化そしてそれを認識する価値観にて不可欠なことであるとは思いますが・・。
かといって、これ以上、この話題では、あまり有意義な進展は望めないようですね・・(苦笑)。」
こうした経験とは、実際には往々にして、もう少しナマグサイものでしたが、それこそ数多くあります。しかし、現在では貴重な経験をさせて頂いたと考えています。
少なくとも、都心部の文化、価値観が「絶対」ではないということは肌あるいは骨身に知り得ました。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本の大震災、山陰東部での大震災により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の復興を祈念しております。
2016年11月20日日曜日
2016年11月19日土曜日
20161119 根源的な変化と継続的な文章の作成の関係について・・
これまでに480記事以上を既に投稿しているため、本日に関しては特にブログ記事の作成、投稿を行わないでも良いのではないかと不図考えましたが、あとになり500記事到達を前にして書けなくなる可能性も否定できないため、とりあえず何か書きはじめようと思いたちました・・(苦笑)。
しかし、このような、いい加減ともヨコシマともいえる考えに基づき書きはじめてみても、何かしら書いておりますと、それなりに主題、テーマは思いつくようです・・(笑)。
さて、そういえばここ最近は映画をレンタルDVDをも含め観ていないことに気が付きました・・。
以前の鹿児島在住時は週末によく映画をDVDにてレンタルして観ておりましたが、その後からは不思議なことに、その習慣がほぼなくなっておりました・・。
しかしそれは「日常の生活が映画よりも面白いからである」といった考えには結び付きません・・。
それとは異なる次元にある、自身の根源的な「欲求」において何かしら変化が生じたからではないかと思われます・・。
また、こうしたことは、ある程度の年齢になりますと、頻繁に生じることはないように思います。
そして、変化が生じた後になると、むしろ変化以前の状態、嗜好を不思議に思ってしまうようなところもまた、あるのではないでしょうか・・?
そして、このような現象を「憑き物が落ちた」と表するのではないでしょうか?
そのように考えてみますと、現在、どうにかブログ記事を継続的に作成を出来ている状態とは、「何かに憑かれているのではない!」と断じ切るのは困難であるように思います・・。
加えて、昨春に強烈に感じた「文章を書くことが出来ない!」という思いは、さらにそれ以前の、ある程度文章を書くことが出来ていた時期と比べた結果であり、それは正直なところ、精神的な圧迫・苦痛を伴うものであり、漠然とした生命力の枯渇を感じさせる自身としては極めて恐ろしいものでした・・。
そして、その当時に比べますと、現在の状態とは、どうにかブログ記事として継続的に文章の作成が出来ていることから、かつてほど強烈な危機感(生命力の枯渇)を感じさせる状態ではありません・・。
とはいえ、あくまでも、これまでの継続的なブログ記事作成とは、その次(大学での研究支援、コーディネーターなどの職に就くこと)に目標を据えた、創造力の枯渇を防ぐためのものであり、その目標とは今現在、残念ながら達しておりません。
あるいは、今後それを達した場合においても、何かしらの方法に依り、こうした文章の作成そして発信を継続したいと考えております・・。
そして、それは、克己心といった積極的・前向きな性質のものではなく、どちらかというと、自身の鹿児島在住時における週末の散歩のように、自身の精神衛生を保つための消極的、防御的な性質のものであると判断されます・・。
しかし、そこで面白いと思うことは、こうした消極的・防御的な手段に拠って積極的といえる創造性の保持を図っているということです・・(笑)。
とはいえ、こうしたことは、さまざまな運動などの練習目的においてもいえるのでしょうが、このように、その「流れ」をこれまでの文章の流れにより書いてみますと、なかなか面白いものであると感じると同時に、命題、反対命題の止揚・揚棄により(創造的な)新たな統合された意見を得るといった考えにも一脈通じるのではないかと思われることです・・(笑)。
しかしながら、これもまた一つの仮説ですので、その実相とは、今後更なる検証を通じ判断していくのが良いのでしょう・・。
また、最後に不図思ったのは、もし今現在のブログ記事の継続的な作成が、何かに憑かれて為し得ているのであるとすれば、それは一体何に憑かれているのでしょうか・・?
あるいは、それは単に自己の行ってきた結果、自然に付随するものであると判断しても良いものであるのだろうか・・?
また、そうであると判断出来る自信とは、どこに由来するのであろうか・・?
しかし、現時点の自身としては何れでも構わず、とりあえず500記事まで作成するのみではあるのですが・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部での大地震により被災された地域の今後の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
しかし、このような、いい加減ともヨコシマともいえる考えに基づき書きはじめてみても、何かしら書いておりますと、それなりに主題、テーマは思いつくようです・・(笑)。
さて、そういえばここ最近は映画をレンタルDVDをも含め観ていないことに気が付きました・・。
以前の鹿児島在住時は週末によく映画をDVDにてレンタルして観ておりましたが、その後からは不思議なことに、その習慣がほぼなくなっておりました・・。
しかしそれは「日常の生活が映画よりも面白いからである」といった考えには結び付きません・・。
それとは異なる次元にある、自身の根源的な「欲求」において何かしら変化が生じたからではないかと思われます・・。
また、こうしたことは、ある程度の年齢になりますと、頻繁に生じることはないように思います。
そして、変化が生じた後になると、むしろ変化以前の状態、嗜好を不思議に思ってしまうようなところもまた、あるのではないでしょうか・・?
そして、このような現象を「憑き物が落ちた」と表するのではないでしょうか?
そのように考えてみますと、現在、どうにかブログ記事を継続的に作成を出来ている状態とは、「何かに憑かれているのではない!」と断じ切るのは困難であるように思います・・。
加えて、昨春に強烈に感じた「文章を書くことが出来ない!」という思いは、さらにそれ以前の、ある程度文章を書くことが出来ていた時期と比べた結果であり、それは正直なところ、精神的な圧迫・苦痛を伴うものであり、漠然とした生命力の枯渇を感じさせる自身としては極めて恐ろしいものでした・・。
そして、その当時に比べますと、現在の状態とは、どうにかブログ記事として継続的に文章の作成が出来ていることから、かつてほど強烈な危機感(生命力の枯渇)を感じさせる状態ではありません・・。
とはいえ、あくまでも、これまでの継続的なブログ記事作成とは、その次(大学での研究支援、コーディネーターなどの職に就くこと)に目標を据えた、創造力の枯渇を防ぐためのものであり、その目標とは今現在、残念ながら達しておりません。
あるいは、今後それを達した場合においても、何かしらの方法に依り、こうした文章の作成そして発信を継続したいと考えております・・。
そして、それは、克己心といった積極的・前向きな性質のものではなく、どちらかというと、自身の鹿児島在住時における週末の散歩のように、自身の精神衛生を保つための消極的、防御的な性質のものであると判断されます・・。
しかし、そこで面白いと思うことは、こうした消極的・防御的な手段に拠って積極的といえる創造性の保持を図っているということです・・(笑)。
とはいえ、こうしたことは、さまざまな運動などの練習目的においてもいえるのでしょうが、このように、その「流れ」をこれまでの文章の流れにより書いてみますと、なかなか面白いものであると感じると同時に、命題、反対命題の止揚・揚棄により(創造的な)新たな統合された意見を得るといった考えにも一脈通じるのではないかと思われることです・・(笑)。
しかしながら、これもまた一つの仮説ですので、その実相とは、今後更なる検証を通じ判断していくのが良いのでしょう・・。
また、最後に不図思ったのは、もし今現在のブログ記事の継続的な作成が、何かに憑かれて為し得ているのであるとすれば、それは一体何に憑かれているのでしょうか・・?
あるいは、それは単に自己の行ってきた結果、自然に付随するものであると判断しても良いものであるのだろうか・・?
また、そうであると判断出来る自信とは、どこに由来するのであろうか・・?
しかし、現時点の自身としては何れでも構わず、とりあえず500記事まで作成するのみではあるのですが・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部での大地震により被災された地域の今後の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
2016年11月18日金曜日
20161118 惰性・日常、無意識化による変化が上達?
昨日投稿したブログ記事は投稿翌日にしては閲覧者数が伸びました・・。
また、正直これまで500記事近くブログ記事を投稿してきましたが、一体どのような記事が、より多くの閲覧者を得ることが出来るのか、未だ現在イマイチよく分かりません・・(苦笑)。
とはいえ、たとえそれが分かったとしても、そうしたことをねらい記事を書く、書き続けるのも、あまり面白くないのかもしれません。
もし、そうしたことを自分なりに理解、意識していたとしたら、ここに至るまで記事作成、投稿は出来なかったのではないかとも思われます・・(笑)。
そして、そのように考えてみますと、案外と上手い具合にここまで書き続けることが出来たのではないかとも思えるのです・・(笑)。
それに加え、これまでのブログの炎上が生じることがなかったのも、幸運であったのかもしれません・・。
いや、あるいはこれは単に、これまで作成したブログ記事が衆目を集めるに至っていない、つまり、あまり面白くないことによるものであるのかもしれませんが・・(苦笑)。
しかし、これ(面白くない)は意外と良いことであったのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、何れにせよ、そうした思いにあまり振り回されることなく500記事に到達できることが現在の目標であるといって良いと思います・・。
また、記事作成に関しては、今回もそうであるように、感覚的に半分以上惰性にて作成している感がありますが、実のところ、この「惰性」あるいはもう少し聞こえの良い表現を用いますと「記事作成の日常化(無意識化)」により、これまでどうにか記事作成を継続出来ているものと考えます・・。
そのように考えますと、如何なる種類の訓練であれ、何かしらの行動、行為の日常化(無意識化)こそが、その継続そして上達への大切な要素ではないかと思うに至ります・・。
(意外と命題、反対命題の生成過程に似ているのかもしれない。)
しかし一方「下手の考え休むに似たり」ともいいますが・・(苦笑)。
もとい、では現在継続して作成しているブログ記事以外、これまでに私は如何なる行動、行為を日常化(無意識化)してきたのかと考えてみますと、それは書籍、文献を読むことではないかと思われます・・。
これに関しては特に自信といったものはありませんが、多少の断続はあるものの、おそらく20年以上は継続してきたと思われます・・。
(しかし、それは努力というよりも、欲求といった側面の方が強いと考えますが・・。)
そして、それがこれまでのブログ記事作成の基盤であったのならば、もう少しは継続することが出来るのではないかと思われるのです・・。
(何せ20年以上と1年半ですから・・(笑)。)
とはいえ、これもあくまでも希望論であり、実際のところは直近の未来においてすら、何が生じるか分からないといった状況にて毎回記事作成を行っているのが現状であるといえます・・(苦笑)。
(しかし、そのような中でこそ、ある行動、行為の日常化(無意識化)といったものが進行し、第二の天性のように精神に定着していくのかもしれない・・?)
そして、そうした(不安定ともいえる)状態にて、ほぼ毎日記事を作成し、ブログの更新を行ってきたことに、どのような効果があるか、あるいはどの程度の変化が望めるかとは、まったく見当がつきませんが、何かしらの効果、変化といったものは精神の深層において生じているのではないかとも考えることが出来る、あるいは考えたいと思う部分が(少なからず)あるといえます・・(笑)。
まあ、それでも、それ(のみ)を期待しつつ毎回記事を作成しているわけではありませんが・・(苦笑)。
それに加え、これまでの習慣を支えている何かしらの精神的要素が何時まで継続するかも分かったものではありませんし・・(笑)。
そして、ここまで書いて不図、思い起こしたのはゲーテの「ファウスト」にてファウストが聖書のヨハネによる福音書の冒頭部を訳している以下の記述です・・。
「こう書いている。
「初めにことばありき!」
ここでわしはもうつかえる!
だれかわたしを助けて先へ進ませてくれないか。
わしはことばというものをそう高く値ぶみすることはできない。
わしは霊の光に正しく照らされているなら、別に訳さなくてはならない。
こう書いてある。
「初めに意味ありき!」
ペンが先走りせぬように
第一行をよく考えよ!
一切を作り出すものは意味だろうか。
こう書いてあるべきだ。
「初めに力ありき!」
しかしこう書きつけているうちに、もうこれでは済まされないと警告するものがある。
霊の助けだ!不意に思いついて
安んじてこう書く。
「初めにおこないありき!」」
では、ことばを用いて何かを記すことは「おこない」なのであろうか?
あるいは、あくまでもそれも「ことば」なのであろうか?
と、考えてしまいました・・(苦笑)。
ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。
また、正直これまで500記事近くブログ記事を投稿してきましたが、一体どのような記事が、より多くの閲覧者を得ることが出来るのか、未だ現在イマイチよく分かりません・・(苦笑)。
とはいえ、たとえそれが分かったとしても、そうしたことをねらい記事を書く、書き続けるのも、あまり面白くないのかもしれません。
もし、そうしたことを自分なりに理解、意識していたとしたら、ここに至るまで記事作成、投稿は出来なかったのではないかとも思われます・・(笑)。
そして、そのように考えてみますと、案外と上手い具合にここまで書き続けることが出来たのではないかとも思えるのです・・(笑)。
それに加え、これまでのブログの炎上が生じることがなかったのも、幸運であったのかもしれません・・。
いや、あるいはこれは単に、これまで作成したブログ記事が衆目を集めるに至っていない、つまり、あまり面白くないことによるものであるのかもしれませんが・・(苦笑)。
しかし、これ(面白くない)は意外と良いことであったのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、何れにせよ、そうした思いにあまり振り回されることなく500記事に到達できることが現在の目標であるといって良いと思います・・。
また、記事作成に関しては、今回もそうであるように、感覚的に半分以上惰性にて作成している感がありますが、実のところ、この「惰性」あるいはもう少し聞こえの良い表現を用いますと「記事作成の日常化(無意識化)」により、これまでどうにか記事作成を継続出来ているものと考えます・・。
そのように考えますと、如何なる種類の訓練であれ、何かしらの行動、行為の日常化(無意識化)こそが、その継続そして上達への大切な要素ではないかと思うに至ります・・。
(意外と命題、反対命題の生成過程に似ているのかもしれない。)
しかし一方「下手の考え休むに似たり」ともいいますが・・(苦笑)。
もとい、では現在継続して作成しているブログ記事以外、これまでに私は如何なる行動、行為を日常化(無意識化)してきたのかと考えてみますと、それは書籍、文献を読むことではないかと思われます・・。
これに関しては特に自信といったものはありませんが、多少の断続はあるものの、おそらく20年以上は継続してきたと思われます・・。
(しかし、それは努力というよりも、欲求といった側面の方が強いと考えますが・・。)
そして、それがこれまでのブログ記事作成の基盤であったのならば、もう少しは継続することが出来るのではないかと思われるのです・・。
(何せ20年以上と1年半ですから・・(笑)。)
とはいえ、これもあくまでも希望論であり、実際のところは直近の未来においてすら、何が生じるか分からないといった状況にて毎回記事作成を行っているのが現状であるといえます・・(苦笑)。
(しかし、そのような中でこそ、ある行動、行為の日常化(無意識化)といったものが進行し、第二の天性のように精神に定着していくのかもしれない・・?)
そして、そうした(不安定ともいえる)状態にて、ほぼ毎日記事を作成し、ブログの更新を行ってきたことに、どのような効果があるか、あるいはどの程度の変化が望めるかとは、まったく見当がつきませんが、何かしらの効果、変化といったものは精神の深層において生じているのではないかとも考えることが出来る、あるいは考えたいと思う部分が(少なからず)あるといえます・・(笑)。
まあ、それでも、それ(のみ)を期待しつつ毎回記事を作成しているわけではありませんが・・(苦笑)。
それに加え、これまでの習慣を支えている何かしらの精神的要素が何時まで継続するかも分かったものではありませんし・・(笑)。
そして、ここまで書いて不図、思い起こしたのはゲーテの「ファウスト」にてファウストが聖書のヨハネによる福音書の冒頭部を訳している以下の記述です・・。
「こう書いている。
「初めにことばありき!」
ここでわしはもうつかえる!
だれかわたしを助けて先へ進ませてくれないか。
わしはことばというものをそう高く値ぶみすることはできない。
わしは霊の光に正しく照らされているなら、別に訳さなくてはならない。
こう書いてある。
「初めに意味ありき!」
ペンが先走りせぬように
第一行をよく考えよ!
一切を作り出すものは意味だろうか。
こう書いてあるべきだ。
「初めに力ありき!」
しかしこう書きつけているうちに、もうこれでは済まされないと警告するものがある。
霊の助けだ!不意に思いついて
安んじてこう書く。
「初めにおこないありき!」」
では、ことばを用いて何かを記すことは「おこない」なのであろうか?
あるいは、あくまでもそれも「ことば」なのであろうか?
と、考えてしまいました・・(苦笑)。
ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。
20161117 継続的な着想、(循環論法・トートロジー)、弁証法について・・☆☆☆
総投稿記事数も480に到達し、500記事まで残すところ20記事未満となりました。
そこで少し前を振り返ってみますと、直近の適当な区切りであった450記事到達から現在に至るまでは思いのほか早いものであったと思います。
そして、このままのペース(1日1記事)にて書き続けることにより来月12月初頭の500記事到達が予測されます。
とはいえ、この先如何なることが生じるか分かりませんので、とりあえず500記事到達までは「継続的な着想」が枯渇しないように書き続けようと考えております・・。
さて、その「継続的な着想」ですが、これは昨日投稿のブログ記事にて扱った「循環論法」あるいは「トートロジー」(これも以前ブログ記事にて扱った)と深く関連するものであり、さらにこれらは特に文系学問分野における思考方法に類縁関係を持つのではないかと考えます・・。
その一方において、文系学問分野における思考法として即座に思い浮かぶのは「弁証法」(ヘーゲル以降)ですが、この弁証法において定義される命題、反対命題もまた、その各々(命題・反対命題)の生成過程を考えてみますと、おそらくさきの「循環論法」「トートロジー」に拠るものが多いのではないかと考えられます・・。
そして命題・反対命題であれ、それらの生成過程とは、その次の段階ともいえる弁証法による議論よりも、内面性が強く、明らかにされることが少ない、無意識のうちに生成が為される部分が多いのではないかと思われます・・。
「循環論法」「トートロジー」とは、本質的にそうした性質を帯びていると私は考えます。
そして我々は日常において、そうした思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)の様相を言明、記述の何れであれ、明示しようとはあまり考えません・・。
むしろ、そうしたことを試みるのは「変」であるとされるのが通常ではないでしょうか・・(笑)。
また、この点について、我々日本人とは、相対的にその傾向が強いのではないでしょうか?
それ故、我々には「常識」といった感覚はありながら、議論により構築された汎用性を持つ「哲学」といったものに未だ持つに至っていないのではないかとも考えられます・・。
あるいはそうしたものが苦手であるのかもしれないです・・。
これを別言すると、個別的ともいえる思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)と「弁証法」の議論の間に大きな溝がありながら、論理的な議論に対し何らかの知的な理解を示さなければならない場合においては、感情的な能力ともいえる「共感」の(名人的ともいえる)駆動により、どうにかその場をやり過ごすことが多いといった感じです・・。
これはたしかに一種のユーモアではあるのかもしれませんが、そればかりではやはりダメであると思います・・。
とはいえ、それでも「循環論法」「トートロジー」といった議論、思想のタネともいえるものが大事に扱われないのは、それらが持つ一種の悩んでいるような感じ、暗さとも見られる鬱屈した感じからではないでしょうか・・?
そうしたものよりも、それを表層的なユーモアにていじり倒す方が余程「見ていて」気持ちがいいことは間違いありませんが・・(笑)。
しかし、それだけでいいのでしょうか・・?
あるいは、実のところそれが(我が国における)適当な価値の配分であるのでしょうか・・(苦笑)。
また、国民性とは、こうしたところにも表れるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本における大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
そこで少し前を振り返ってみますと、直近の適当な区切りであった450記事到達から現在に至るまでは思いのほか早いものであったと思います。
そして、このままのペース(1日1記事)にて書き続けることにより来月12月初頭の500記事到達が予測されます。
とはいえ、この先如何なることが生じるか分かりませんので、とりあえず500記事到達までは「継続的な着想」が枯渇しないように書き続けようと考えております・・。
さて、その「継続的な着想」ですが、これは昨日投稿のブログ記事にて扱った「循環論法」あるいは「トートロジー」(これも以前ブログ記事にて扱った)と深く関連するものであり、さらにこれらは特に文系学問分野における思考方法に類縁関係を持つのではないかと考えます・・。
その一方において、文系学問分野における思考法として即座に思い浮かぶのは「弁証法」(ヘーゲル以降)ですが、この弁証法において定義される命題、反対命題もまた、その各々(命題・反対命題)の生成過程を考えてみますと、おそらくさきの「循環論法」「トートロジー」に拠るものが多いのではないかと考えられます・・。
そして命題・反対命題であれ、それらの生成過程とは、その次の段階ともいえる弁証法による議論よりも、内面性が強く、明らかにされることが少ない、無意識のうちに生成が為される部分が多いのではないかと思われます・・。
「循環論法」「トートロジー」とは、本質的にそうした性質を帯びていると私は考えます。
そして我々は日常において、そうした思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)の様相を言明、記述の何れであれ、明示しようとはあまり考えません・・。
むしろ、そうしたことを試みるのは「変」であるとされるのが通常ではないでしょうか・・(笑)。
また、この点について、我々日本人とは、相対的にその傾向が強いのではないでしょうか?
それ故、我々には「常識」といった感覚はありながら、議論により構築された汎用性を持つ「哲学」といったものに未だ持つに至っていないのではないかとも考えられます・・。
あるいはそうしたものが苦手であるのかもしれないです・・。
これを別言すると、個別的ともいえる思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)と「弁証法」の議論の間に大きな溝がありながら、論理的な議論に対し何らかの知的な理解を示さなければならない場合においては、感情的な能力ともいえる「共感」の(名人的ともいえる)駆動により、どうにかその場をやり過ごすことが多いといった感じです・・。
これはたしかに一種のユーモアではあるのかもしれませんが、そればかりではやはりダメであると思います・・。
とはいえ、それでも「循環論法」「トートロジー」といった議論、思想のタネともいえるものが大事に扱われないのは、それらが持つ一種の悩んでいるような感じ、暗さとも見られる鬱屈した感じからではないでしょうか・・?
そうしたものよりも、それを表層的なユーモアにていじり倒す方が余程「見ていて」気持ちがいいことは間違いありませんが・・(笑)。
しかし、それだけでいいのでしょうか・・?
あるいは、実のところそれが(我が国における)適当な価値の配分であるのでしょうか・・(苦笑)。
また、国民性とは、こうしたところにも表れるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本における大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
2016年11月17日木曜日
20161111 「楡家の人びと」から「迷路」「神聖喜劇」などの長編について・・☆☆
A「昨日は風が強く、またそこそこ寒いなか、屋外にいる時間が長かったためか、風邪をひいてしまい、今現在多少頭が重く、体全体が気怠い感じがしております。
それ故、本日の記事更新は止めにしようと考えましたが、これまでに培った習い性とは、意外と強いものであるようで、こうして本日分の記事作成に取り組んでいる次第です・・(笑)。
また、面白いもので、一旦記事作成に取り掛かりますと、多少頭の重さ、気怠さも忘れるか、軽減されるようであり、こうしていくうちに、何かしらの主題が見つかるのではないかと思われます・・。
さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は、残すところ第三部のみとなりましたが、これは明日早々に購入し読んでみようと考えております。
そして、おそらくこの調子にて読み進めますと、来週中には全巻読了に至るのではないかと思われます。
そうしますと、また久々に野上彌生子著「迷路」以来の長編読了ということになりますが、この比較的新しい読書記憶に基づき、両著(「楡家の人びと」、「迷路」)を比較してみますと、後者は前者に比べ思想的あるいは内面の情緒的な記述の分量が多く、そのことにより、著作内容の理解が多少困難となり、また、そのことから読み進む速度においても相違が生じるのではないかと思われます・・。
あるいは、これはあくまでも私見ではありますが、各々著作に対象年齢を設けるとすれば「迷路」の方が、多少その年齢層が高くなるのではないかとも考えます。
また、そのような視点にて考えてみますと、我が国の長編小説の一つの金字塔?ともいえる大西巨人著「神聖喜劇」は一体どのような扱い(対象年齢)となるのでしょうか・・(笑)。
この著作に関しては端的、一言にて感想を述べることが困難であり、ただ「面白く、大変勉強になると思いますので機会、興味がありましたら、是非読んでみてください。」といった感じになります・・。
また、私も機会がありましたら、この著作全巻をもう一度読み、そして、その面白いと思われる部分をタイムリーに抜粋引用してみたいとも考えております・・。
しかし「迷路」にても、そうした傾向はあると思われますが、特に、この著作(「神聖喜劇」)に関しては、そうしたことを行っていると「何かしら問題が生じるのではないか・・」といった危惧もまたありますが・・(苦笑)。
そして、その危惧を含めて、この著作を大変魅力的なものにしているとはいえますが・・。
また、何といいますか、我が国の社会、歴史の深層、古層からの問題点を作中にて抉り出し、あからさまに提示しているという意味において「神聖喜劇」、「迷路」とは類似した要素を持っているともいえます。
とはいえ、前者の方がより強烈であるとは思いますが・・(笑)。
そして、そこから正直なところ「神聖喜劇」は女性向けの著作ではないと考えます。
また、そのよう考えてみますと、不図疑問に思ったことは、加藤周一著「日本文学史序説」下巻にて野間宏著「真空地帯」という「神聖喜劇」と類似した主題を扱った著作に関して割合長く述べられているのに対し「神聖喜劇」には一行も触れられていないのは、一体何故であろうか・・?ということであり、これは単純に双方の出版年度によるものなのでしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧、さる熊本での大地震、山陰東部での大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
それ故、本日の記事更新は止めにしようと考えましたが、これまでに培った習い性とは、意外と強いものであるようで、こうして本日分の記事作成に取り組んでいる次第です・・(笑)。
また、面白いもので、一旦記事作成に取り掛かりますと、多少頭の重さ、気怠さも忘れるか、軽減されるようであり、こうしていくうちに、何かしらの主題が見つかるのではないかと思われます・・。
さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は、残すところ第三部のみとなりましたが、これは明日早々に購入し読んでみようと考えております。
そして、おそらくこの調子にて読み進めますと、来週中には全巻読了に至るのではないかと思われます。
そうしますと、また久々に野上彌生子著「迷路」以来の長編読了ということになりますが、この比較的新しい読書記憶に基づき、両著(「楡家の人びと」、「迷路」)を比較してみますと、後者は前者に比べ思想的あるいは内面の情緒的な記述の分量が多く、そのことにより、著作内容の理解が多少困難となり、また、そのことから読み進む速度においても相違が生じるのではないかと思われます・・。
あるいは、これはあくまでも私見ではありますが、各々著作に対象年齢を設けるとすれば「迷路」の方が、多少その年齢層が高くなるのではないかとも考えます。
また、そのような視点にて考えてみますと、我が国の長編小説の一つの金字塔?ともいえる大西巨人著「神聖喜劇」は一体どのような扱い(対象年齢)となるのでしょうか・・(笑)。
この著作に関しては端的、一言にて感想を述べることが困難であり、ただ「面白く、大変勉強になると思いますので機会、興味がありましたら、是非読んでみてください。」といった感じになります・・。
また、私も機会がありましたら、この著作全巻をもう一度読み、そして、その面白いと思われる部分をタイムリーに抜粋引用してみたいとも考えております・・。
しかし「迷路」にても、そうした傾向はあると思われますが、特に、この著作(「神聖喜劇」)に関しては、そうしたことを行っていると「何かしら問題が生じるのではないか・・」といった危惧もまたありますが・・(苦笑)。
そして、その危惧を含めて、この著作を大変魅力的なものにしているとはいえますが・・。
また、何といいますか、我が国の社会、歴史の深層、古層からの問題点を作中にて抉り出し、あからさまに提示しているという意味において「神聖喜劇」、「迷路」とは類似した要素を持っているともいえます。
とはいえ、前者の方がより強烈であるとは思いますが・・(笑)。
そして、そこから正直なところ「神聖喜劇」は女性向けの著作ではないと考えます。
また、そのよう考えてみますと、不図疑問に思ったことは、加藤周一著「日本文学史序説」下巻にて野間宏著「真空地帯」という「神聖喜劇」と類似した主題を扱った著作に関して割合長く述べられているのに対し「神聖喜劇」には一行も触れられていないのは、一体何故であろうか・・?ということであり、これは単純に双方の出版年度によるものなのでしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧、さる熊本での大地震、山陰東部での大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
2016年11月16日水曜日
20161116 循環論法・堂々巡り・変化について・・☆☆
A「昨日から、この時期にしては比較的温暖な日が続いたと思います・・。
ブログ記事の作成も480記事に到達し、今後も500記事到達までは、とりあえず現在の1日1記事投稿のペースにて継続していこうと考えております・・。
しかし、500記事到達前の現在、心配するのもおかしいのかもしれませんが、それでもここ最近不図思うことは「今後500記事に到達した場合、その後、このブログ記事作成はどうなるのであろうか?」ということであり、単純に記事作成を全く止めるということは、現状では逆に難しいのではないかとも思われるのです・・。
無論、書く題材がないということでしたら仕方がないのかもしれませんが、以前もブログ記事に記した通り、ブログ記事いや、こうした文章といったものは、少なくとも自身にとっては、書き続けることにより、何かしら書くことが出来ているのではないかとも思えるのです・・。
それ故、500記事到達後、記事作成を止めた場合、自身が記事を書かないでいる状態を(半ば生理的に?)許容できるのか?とも考えてしまうわけなのです・・(苦笑)。
とはいえ同時に500記事とは、自身にとってそこそこ大きな区切りであると考えますので、その(500記事到達)後、たとえブログ記事作成を継続する場合においても、記事作成のペースは500記事到達以前に比べ、多少、投稿の間隔が長くなるものと考えます・・。
また、そうしたことをも含め、果たしてこのブログを作成している自身とは多少なりとも良い方向に進んでいるのであろうか?とも時折考えてしまうのです・・(苦笑)。
以前はそのようなことをあまり考えませんでしたが、500記事到達が可能に見えるようになった昨今、そうしたことを考えるようになったことは、なかなか面白いことであり、また同時にそこから一種の不安感らしきものをおぼえることがあるのです・・。
しかしながら、ハナシを元に戻しますと、未だ現在500記事まで到達しておりませんので、とりあえずは、そうした迷い、不安感などについては考えず(しかし一方、それ自体はブログ記事の題材にはなるのですが・・(苦笑))500記事到達まで残りの20記事あまりを作成していこうと考えております・・。
そして「ハナシは全てその後」と割り切って考えた方が諸事都合がいいのではないかと思います・・(笑)。
ここまで記しており、不図思ったことは、まさしくこうした想念とは「循環論法」なのではないかということであり、また、それは往々にして「堂々巡り」ではあるのでしょうが、それでも、こうしたことを繰り返していくなかで、おそらく用いる言語・コトバのわずかな変化により、それまでの想念、考えのニュアンスもまた若干変化し、そして、それが上手い具合に行けば、言語化された納得出来る解決というものを得ることが出来るのではないかとも思われます・・。
しかしまた、そうしたことには、ある程度客観的な評価も必要ではあると考えますが・・。
そして、進化であれ退化であれ、変化自体を惹起するものは、既存要素内部のわずかな変化であり、そこから生じる全体への伝播、影響が、少なくとも「変化」全般の一側面であるといえるのではないでしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
ブログ記事の作成も480記事に到達し、今後も500記事到達までは、とりあえず現在の1日1記事投稿のペースにて継続していこうと考えております・・。
しかし、500記事到達前の現在、心配するのもおかしいのかもしれませんが、それでもここ最近不図思うことは「今後500記事に到達した場合、その後、このブログ記事作成はどうなるのであろうか?」ということであり、単純に記事作成を全く止めるということは、現状では逆に難しいのではないかとも思われるのです・・。
無論、書く題材がないということでしたら仕方がないのかもしれませんが、以前もブログ記事に記した通り、ブログ記事いや、こうした文章といったものは、少なくとも自身にとっては、書き続けることにより、何かしら書くことが出来ているのではないかとも思えるのです・・。
それ故、500記事到達後、記事作成を止めた場合、自身が記事を書かないでいる状態を(半ば生理的に?)許容できるのか?とも考えてしまうわけなのです・・(苦笑)。
とはいえ同時に500記事とは、自身にとってそこそこ大きな区切りであると考えますので、その(500記事到達)後、たとえブログ記事作成を継続する場合においても、記事作成のペースは500記事到達以前に比べ、多少、投稿の間隔が長くなるものと考えます・・。
また、そうしたことをも含め、果たしてこのブログを作成している自身とは多少なりとも良い方向に進んでいるのであろうか?とも時折考えてしまうのです・・(苦笑)。
以前はそのようなことをあまり考えませんでしたが、500記事到達が可能に見えるようになった昨今、そうしたことを考えるようになったことは、なかなか面白いことであり、また同時にそこから一種の不安感らしきものをおぼえることがあるのです・・。
しかしながら、ハナシを元に戻しますと、未だ現在500記事まで到達しておりませんので、とりあえずは、そうした迷い、不安感などについては考えず(しかし一方、それ自体はブログ記事の題材にはなるのですが・・(苦笑))500記事到達まで残りの20記事あまりを作成していこうと考えております・・。
そして「ハナシは全てその後」と割り切って考えた方が諸事都合がいいのではないかと思います・・(笑)。
ここまで記しており、不図思ったことは、まさしくこうした想念とは「循環論法」なのではないかということであり、また、それは往々にして「堂々巡り」ではあるのでしょうが、それでも、こうしたことを繰り返していくなかで、おそらく用いる言語・コトバのわずかな変化により、それまでの想念、考えのニュアンスもまた若干変化し、そして、それが上手い具合に行けば、言語化された納得出来る解決というものを得ることが出来るのではないかとも思われます・・。
しかしまた、そうしたことには、ある程度客観的な評価も必要ではあると考えますが・・。
そして、進化であれ退化であれ、変化自体を惹起するものは、既存要素内部のわずかな変化であり、そこから生じる全体への伝播、影響が、少なくとも「変化」全般の一側面であるといえるのではないでしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
2016年11月15日火曜日
20161115 時代毎の好まれる職業および個人の資質・家系などに関して・・ ★★★
本日は多少風邪気味であり日中に気温があまり低くならなかったことには救われました・・。
さて、先日知人と話しておりましたら、そのハナシの中で何度か「医者の家系」というコトバが出てきました・・。
思い返してみますと、以前にも何度か肯定・否定何れの意味合いであれ、このコトバを聞いたことがありました。
またかつての自身とは、このコトバがあまり心地いいものとして聞いておりませんでした・・(苦笑)。
もちろん、それは現在なお同様ではあるのですが、しかしながら、自身に関しては、周囲の親類およびその系譜について考えてみますと、このコトバが適用されないものであることが明確と認識されるのです・・。
また、そうした考えがより強くなった要因とは、文系学問分野の研究者であった叔父が、こうした考え(医者の家系云々)をとるに足らないものと広言していたことに大きく因ります・・。
叔父は「もともとうちの家系などは大したものではなく、近代以降たまたま医者になった者が数人いたとしても、それは以前からの文化的背景ともいえる文字、文章を読むこと、書くことを、どうにか日常的な行為態度としていたことに因り、そのように考えてみて、はじめて家系の持つ何かしらの傾向、あるいは不思議な意味合いといったものは認識、理解出来るのではないかな・・。」といったことを述べておりました・・。
さらに加えて「それ故、別にA君はそうした考えに捉われることなく、何れの学問分野であれ、自分なりにがんばればいいのだ・・。」とハナシを結ばれておりましたが、これはおそらく当時そして現在の私が納得出来る、最善ともいえる考えであり、また同時に、それが最も事実に沿った考えではないかとも考えます・・(笑)。
とはいえ一方、そうした古くさい家系のハナシとは関係なく、昨今の我が国社会においては不景気故にか、医療系資格の取得により多くの若い方々が向かっているではないかと思われます・・。
たしかに医療系資格の有無により、その手にすることの出来る収入および得られる安定性とは大きく変わってくる可能性は決して低くありません・・。
しかし、そうであるからといって医療系資格(ばかり)がエライというわけでもないとも考えます・・。
とはいえ、こうした医療系の資格とは、社会においては大変有益であり、少なくとも一般的な意味で普通に職務にあたっていれば「けしからん!」といった対象には(ほぼ絶対に)なりません・・。
あるいはまた、こうした社会において広範に認められる、あるいは意識すらされない一般的(過ぎる)ともいえる価値観を起点として、さまざまな時代における社会での凝集性、傾向(ある程度長期的な流行・ブーム)といったものが惹起されるのではないかとも思われます・・。
それは1931年~1945年に至るまでの陸海軍軍人がそうであったかのように・・。
そして、現代におけるそうした対象職種がおそらく医療系資格ということになります。
とはいえ、それは決して悪いものではなく、さきに記した1931~1945のそれと比較すれば、大分平和的(自衛隊は平和的でないという意味ではない)ともいえるのではないかと思われます・・。
では、そこの「何が問題であるのか?」と考えてみますと、それは、そうした時代時代の価値観(それ自体は悪くない)が社会全体に浸透し、そこから同調圧力らしきものが生じ、その価値観「のみ」が正しく、そうでないものは正しくないと判断される(同調圧力をも含めた)情動あるいは認識の(短絡的な)経路、構造、メカニズムそれ自体ではないでしょうか・・?
おそらく、こうした傾向もまた、以前の時代に比べれば大分良くはなったのかもしれませんが、それでも案外根強いものであるように思われます・・(もちろん我が国だけではないと考えますが)。
また同時に、自身もそのように考え、判断していると認識されることが少なからずあります・・(苦笑)。
また、こうした行為態度(同調圧力に同調する、便乗する)を社会の中においては常識的ともとらえられることに果たして普遍的な意味合いあるいは創造的な価値とは幾分かでも存在するのでしょうか・・?
あるいはまた、そうしたことを記すことすらも、いわば天に唾をするような行為として認識される傾向がある社会におけるコトバ、言語(就中、解像度の高い)の根源的な意味、価値とは、どのようなものであるのでしょうか・・?
いや、少なくとも我が国とは、古代における様々な遺物が示すところから考えてみても「はじめにコトバありき」といった状態ではなかったようにも思われます・・。
今回もここまで興味をもって読んで頂き、どうもありがとうございます。
おかげさまで今回の投稿により総投稿記事数が480となります。
さる熊本での大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
さて、先日知人と話しておりましたら、そのハナシの中で何度か「医者の家系」というコトバが出てきました・・。
思い返してみますと、以前にも何度か肯定・否定何れの意味合いであれ、このコトバを聞いたことがありました。
またかつての自身とは、このコトバがあまり心地いいものとして聞いておりませんでした・・(苦笑)。
もちろん、それは現在なお同様ではあるのですが、しかしながら、自身に関しては、周囲の親類およびその系譜について考えてみますと、このコトバが適用されないものであることが明確と認識されるのです・・。
また、そうした考えがより強くなった要因とは、文系学問分野の研究者であった叔父が、こうした考え(医者の家系云々)をとるに足らないものと広言していたことに大きく因ります・・。
叔父は「もともとうちの家系などは大したものではなく、近代以降たまたま医者になった者が数人いたとしても、それは以前からの文化的背景ともいえる文字、文章を読むこと、書くことを、どうにか日常的な行為態度としていたことに因り、そのように考えてみて、はじめて家系の持つ何かしらの傾向、あるいは不思議な意味合いといったものは認識、理解出来るのではないかな・・。」といったことを述べておりました・・。
さらに加えて「それ故、別にA君はそうした考えに捉われることなく、何れの学問分野であれ、自分なりにがんばればいいのだ・・。」とハナシを結ばれておりましたが、これはおそらく当時そして現在の私が納得出来る、最善ともいえる考えであり、また同時に、それが最も事実に沿った考えではないかとも考えます・・(笑)。
とはいえ一方、そうした古くさい家系のハナシとは関係なく、昨今の我が国社会においては不景気故にか、医療系資格の取得により多くの若い方々が向かっているではないかと思われます・・。
たしかに医療系資格の有無により、その手にすることの出来る収入および得られる安定性とは大きく変わってくる可能性は決して低くありません・・。
しかし、そうであるからといって医療系資格(ばかり)がエライというわけでもないとも考えます・・。
とはいえ、こうした医療系の資格とは、社会においては大変有益であり、少なくとも一般的な意味で普通に職務にあたっていれば「けしからん!」といった対象には(ほぼ絶対に)なりません・・。
あるいはまた、こうした社会において広範に認められる、あるいは意識すらされない一般的(過ぎる)ともいえる価値観を起点として、さまざまな時代における社会での凝集性、傾向(ある程度長期的な流行・ブーム)といったものが惹起されるのではないかとも思われます・・。
それは1931年~1945年に至るまでの陸海軍軍人がそうであったかのように・・。
そして、現代におけるそうした対象職種がおそらく医療系資格ということになります。
とはいえ、それは決して悪いものではなく、さきに記した1931~1945のそれと比較すれば、大分平和的(自衛隊は平和的でないという意味ではない)ともいえるのではないかと思われます・・。
では、そこの「何が問題であるのか?」と考えてみますと、それは、そうした時代時代の価値観(それ自体は悪くない)が社会全体に浸透し、そこから同調圧力らしきものが生じ、その価値観「のみ」が正しく、そうでないものは正しくないと判断される(同調圧力をも含めた)情動あるいは認識の(短絡的な)経路、構造、メカニズムそれ自体ではないでしょうか・・?
おそらく、こうした傾向もまた、以前の時代に比べれば大分良くはなったのかもしれませんが、それでも案外根強いものであるように思われます・・(もちろん我が国だけではないと考えますが)。
また同時に、自身もそのように考え、判断していると認識されることが少なからずあります・・(苦笑)。
また、こうした行為態度(同調圧力に同調する、便乗する)を社会の中においては常識的ともとらえられることに果たして普遍的な意味合いあるいは創造的な価値とは幾分かでも存在するのでしょうか・・?
あるいはまた、そうしたことを記すことすらも、いわば天に唾をするような行為として認識される傾向がある社会におけるコトバ、言語(就中、解像度の高い)の根源的な意味、価値とは、どのようなものであるのでしょうか・・?
いや、少なくとも我が国とは、古代における様々な遺物が示すところから考えてみても「はじめにコトバありき」といった状態ではなかったようにも思われます・・。
今回もここまで興味をもって読んで頂き、どうもありがとうございます。
おかげさまで今回の投稿により総投稿記事数が480となります。
さる熊本での大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
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