A「1日ブログ記事投稿を休んだからといって、特に書きたいことが増えるわけでもないことがわかりました・・(苦笑)。
また、それは本日に関しても同様です。
しかしながら、ここでもう1日休んで記事の投稿を止めておくと、今度はそれがクセになってしまうのではないかという危惧により、本日は記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。
こうした動機とは、見方によれば、あまり良いものではない(不純)のかもしれませんが、実際のところ、こうした動機により(少なくとも部分的には)これまでの継続的な記事作成は為されたといっても良いと思われます・・(苦笑)。
そのように考えてみますと、何かを為すにおいて能動性が大事であるとはいいながら、付加的なものとして、こうした外圧的な心理的効果といったものも有用でないといい切れないところが、我々の心の甚だ面白いところではないかと思われます・・(笑)。
そういえば、最近は作家の山田風太郎の著作を読んでおりますが、その文体から感じられる著者の人柄とは、もしかすると、水木しげるに類似している部分が(少なからず)あるのではないかと思われます・・。
これを読まれている方々はどのようにお考えになりますでしょうか?
そして、この意見がある程度の普遍性を持っていると認められますと、改めて地域性といった議題を提示すことが出来るのではないかと思われます・・(笑)。
そしてまた、そのように記しますと、以前のブログ記事にて「近代以降の我が国の作家で東京都(特に都心部)出身で長編を多く著した作家、著述家は少ないのではないか?」といった意味のことを記しましたが、その考えと同じ地平に立ち、先ほどの山田風太郎、水木しげるの類似性(それが認められるのであれば)を考えてみますと、同様に、その他(の(地域、地方)においても何かしらの仮説、試案などが出てくるのではないかとも思われます・・。
そして、(そうであれば)それもまた、我が国における面白い地域性の学び方の一つとなる可能性があるのではないかと思われます。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年9月5日月曜日
2016年9月3日土曜日
20160903 岩波書店刊 金関丈夫著 「発掘から推理する」pp.1ー5より抜粋引用
「前線で戦死した巫女ーヤジリがささった頭骨」
「昭和25年(1950)の秋、長崎県平戸島の根獅子という所で発見された、弥生時代中期のはじめころの女性人骨は、頭骨のてっぺんに、銅の鏃がつきささっていた。
上から見ると、その折れ口が、長さ6.5ミリ、幅3ミリの、緑色の長い菱形を作り、その尖は頭骨の内面に達して、そこに小さな孔をのこしている。
レントゲンで透写すると、骨の中に埋もれているのは、鏃のさきの部分で、三角形に写り、その形や折れ口の形から、矢の全形もほぼわかった。
また、同じような銅鏃は、壱岐や北九州の弥生時代の遺跡から、他にも出土していることがわかった。
しかし、このように人骨につきささったままで、銅鏃が発見されたのは、これがはじめてだった。その時代には貴重品だったろうと想像されていた銅鏃が、このように実戦に使われていたことも、これでわかる。骨から推定すると、成年の女性で、上アゴの左右の犬歯、下アゴの切歯の全部が若いときに抜かれたあとがある。同じ所から出た他の人骨にも同様の抜歯のあとがあるから、風習的なものだということがわかる。この風習は縄文時代からあるが、日本の先史時代では、これが今まで知られているうちで、最も新しい時代の風習的抜歯である。鏃がささって損傷された部分には、頭骨の表面にも、わずかながら生前の変化があり、おそらく負傷後十数日は生きていたらしく、またおそらく、この傷のために起った、脳膜や脳の化膿性の炎症が原因で死亡したと思われる。しかし、女性がこのように鏃で負傷したということ、つまり、女性が戦場の前線にでたということは、どう解釈したらいいだろうか。いろいろの推理は成り立つが、しかし最もありそうな、そして最も興味ある推理は、この女性がこの地の小さい集団の中での統率者であり、いわば女酋長だっただろう、戦争ともなれば、全集団の先頭に立って敵に向っただろうという想像である。しかし、そのとき彼女が持ってでたのは、けっして刀や槍ー少なくとも実用目的のーではなかった。何であったかはわからないが、霊力あらたかな呪いの道具であったに違いない。武力よりもまず呪力で、戦争を有利に導こうというのが、当時一般の戦法であったのだろう。これは今からほぼ二千年前の、平戸島の内部で起った、地方的な小さな事変の犠牲者であるが、こうした呪力をもつ女酋長が、大集団を統治した例は「魏志」の倭人伝にあるヤマト国を支配した、有名な女王のヒミコや、その娘のイヨがある。
ヒミコは鬼道に従事するもの、すなわちマジシアンだと書かれている、これは三世紀のはじめごろの日本の国情を伝えた記録である。また、これに近いころ、女性の身で水軍を統率して、朝鮮に出兵したと伝えられる神功皇后の例にも、その匂いがある。皇后もそうした霊力をもつ女性として記録されている。「崇神紀」にはタケハニヤスビコの叛乱のとき、巫女であったその妻アタヒメが、一部の軍を率いて、帝京(みやこ)を襲わんとするが、大阪で戦死したことがみえる。また、神功皇后のころにも、またその前に景行天皇が九州を征伐したときにも、女土蜘蛛が九州各地、ことに肥前にはたくさんいたことが、「風土記」などにみえている。女土蜘蛛というのも、やはりこうした巫術でもって、部民を統率していた女酋長とみていい。これらの例からみると、それより少し以前の、肥前の平戸島に、こうした女酋長がいて、政治もやり、戦争も指導したということは、きわめてあり得ることである。しかし、それにしても、彼女らは戦場で自ら傷つくほどの、第一線の活躍をしたかどうか。だが、これにも例がある。琉球というところは、今でもそうした巫女の勢力が幾らかのこっている所だが、そこでは古い諺に「ウナグヤ、イクサノ、サキハイ(女や戦の先駆)というのがある。また現に明の弘治十三年(1500)、八重山のアカハチ(赤蜂)が叛いたとき、その討伐軍には、久米島の祝女キミハエ(君南風)という者が従軍して功を建てた有名な例がある。この戦争では叛軍のほうでもたくさんの巫女が戦死している。近年複製出版された寛元二年(1244)の漂流記「漂到琉球国記」には、この漂流船の乗員と一戦を交えようとして、小舟を艤して出動する琉球軍の活動がいきいきと描かれているが、弓や刀や盾を持った琉球戦士の中に、ただ一人、額に日蔭のかつらをつけ呪具とおぼしき飾りつきの矛をもった女性の、先頭とはいえないが、最も近景の舟上に立つ者が描かれている。この絵ははなはだ写実的で、祝女従軍の光景はこれで遺憾なくわかる。
銅鏃を頭に受けた平戸の女性は、このようにして戦った巫女の女酋長であったと推理する。」
「発掘より推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫
上から見ると、その折れ口が、長さ6.5ミリ、幅3ミリの、緑色の長い菱形を作り、その尖は頭骨の内面に達して、そこに小さな孔をのこしている。
レントゲンで透写すると、骨の中に埋もれているのは、鏃のさきの部分で、三角形に写り、その形や折れ口の形から、矢の全形もほぼわかった。
また、同じような銅鏃は、壱岐や北九州の弥生時代の遺跡から、他にも出土していることがわかった。
しかし、このように人骨につきささったままで、銅鏃が発見されたのは、これがはじめてだった。その時代には貴重品だったろうと想像されていた銅鏃が、このように実戦に使われていたことも、これでわかる。骨から推定すると、成年の女性で、上アゴの左右の犬歯、下アゴの切歯の全部が若いときに抜かれたあとがある。同じ所から出た他の人骨にも同様の抜歯のあとがあるから、風習的なものだということがわかる。この風習は縄文時代からあるが、日本の先史時代では、これが今まで知られているうちで、最も新しい時代の風習的抜歯である。鏃がささって損傷された部分には、頭骨の表面にも、わずかながら生前の変化があり、おそらく負傷後十数日は生きていたらしく、またおそらく、この傷のために起った、脳膜や脳の化膿性の炎症が原因で死亡したと思われる。しかし、女性がこのように鏃で負傷したということ、つまり、女性が戦場の前線にでたということは、どう解釈したらいいだろうか。いろいろの推理は成り立つが、しかし最もありそうな、そして最も興味ある推理は、この女性がこの地の小さい集団の中での統率者であり、いわば女酋長だっただろう、戦争ともなれば、全集団の先頭に立って敵に向っただろうという想像である。しかし、そのとき彼女が持ってでたのは、けっして刀や槍ー少なくとも実用目的のーではなかった。何であったかはわからないが、霊力あらたかな呪いの道具であったに違いない。武力よりもまず呪力で、戦争を有利に導こうというのが、当時一般の戦法であったのだろう。これは今からほぼ二千年前の、平戸島の内部で起った、地方的な小さな事変の犠牲者であるが、こうした呪力をもつ女酋長が、大集団を統治した例は「魏志」の倭人伝にあるヤマト国を支配した、有名な女王のヒミコや、その娘のイヨがある。
ヒミコは鬼道に従事するもの、すなわちマジシアンだと書かれている、これは三世紀のはじめごろの日本の国情を伝えた記録である。また、これに近いころ、女性の身で水軍を統率して、朝鮮に出兵したと伝えられる神功皇后の例にも、その匂いがある。皇后もそうした霊力をもつ女性として記録されている。「崇神紀」にはタケハニヤスビコの叛乱のとき、巫女であったその妻アタヒメが、一部の軍を率いて、帝京(みやこ)を襲わんとするが、大阪で戦死したことがみえる。また、神功皇后のころにも、またその前に景行天皇が九州を征伐したときにも、女土蜘蛛が九州各地、ことに肥前にはたくさんいたことが、「風土記」などにみえている。女土蜘蛛というのも、やはりこうした巫術でもって、部民を統率していた女酋長とみていい。これらの例からみると、それより少し以前の、肥前の平戸島に、こうした女酋長がいて、政治もやり、戦争も指導したということは、きわめてあり得ることである。しかし、それにしても、彼女らは戦場で自ら傷つくほどの、第一線の活躍をしたかどうか。だが、これにも例がある。琉球というところは、今でもそうした巫女の勢力が幾らかのこっている所だが、そこでは古い諺に「ウナグヤ、イクサノ、サキハイ(女や戦の先駆)というのがある。また現に明の弘治十三年(1500)、八重山のアカハチ(赤蜂)が叛いたとき、その討伐軍には、久米島の祝女キミハエ(君南風)という者が従軍して功を建てた有名な例がある。この戦争では叛軍のほうでもたくさんの巫女が戦死している。近年複製出版された寛元二年(1244)の漂流記「漂到琉球国記」には、この漂流船の乗員と一戦を交えようとして、小舟を艤して出動する琉球軍の活動がいきいきと描かれているが、弓や刀や盾を持った琉球戦士の中に、ただ一人、額に日蔭のかつらをつけ呪具とおぼしき飾りつきの矛をもった女性の、先頭とはいえないが、最も近景の舟上に立つ者が描かれている。この絵ははなはだ写実的で、祝女従軍の光景はこれで遺憾なくわかる。
銅鏃を頭に受けた平戸の女性は、このようにして戦った巫女の女酋長であったと推理する。」
「発掘より推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫
2016年9月2日金曜日
20160902 岩波書店刊 クロード・ベルナール著 「実験医学序説」pp.112ー114より抜粋引用
「物理学者と生理学者は、一方は無機体内に起る現象を研究する者であり、他は生物内で行われる現象を研究する者として相互に区別されるが、その到達しようとする目的に至っては、なんら相異なるものではない。
実際また両者はいずれも共通の目的として、現在研究している現象の近接原因に遡ることを期しているのである。
さて我々がここである現象の近接原因と呼んでいるものは、その現象が存在したり、または発現したりするために必要な物質的条件にほかならない。
したがって実験的方法の目的、即ちあらゆる研究の窮極は生物に対しても無生物に対しても全く同一である。
結局ある現象とその近接原因との間の関係を見出すことである。換言すればこの現象の発現に必要な条件を決定することにある。
実際また実験家は、ある現象の存在条件を知るに至ったならば、いわばその現象の支配者になったわけである。
その経過、その発現を予言することはもとより、任意にこれを促進し、また停止させることができる。
実験家の目的はこれで達せられたと言わねばならない。
このようにして彼は科学の力によって、自分の力を自然現象の上にまで拡張したのであった。
そこで我々は生理学を「生物現象を研究し、その現象の発現に関する物質的条件を決定することを目的とする科学」と定義しよう。
我々が各種現象の生起する条件を決定することのできるのも、ただこの分析的方法、即ち実験的方法によるのみであって、この点に関しては生物も無生物もなんら異なるところはない。
何となれば、我々は実験するに当り、いかなる科学においても同様に推理を進めて行くからである。
実験生理学者にとっては、心霊論も唯物論もない。
このような言葉はすでに陳腐な一種の自然哲学に属するものであって、学問の進歩とともにやがて消滅するであろう。
我々は永遠に心霊も物質も知らないだろう。
もしも心霊や物質を認めるに至るならば、いずれの議論も結局は科学の否定に終わるということを証明することができる。
したがってこの種のいかなる考えも明らかに無益徒労である。我々にとっては現象を研究し、それが発現の物質的条件を知り、さらにその間の法則を決定するだけで十分なのである。
物の第一原因は科学の領域を超越した問題である。
このものは無機物の科学においてのみならず、生物の科学においてもまた、永遠に我々の捕捉するところとはならないであろう。
実験的方法は、生命原理の研究などという空中楼閣のものからは必然的に踵を返すのである。
無機力などというものが存在しないと同様に、有機力などというものも存在しないか、或いはまた諸君が欲するならば、いずれも同様に存在すると言って差支えなかろう。
我々が使用している力という文字は、単に言葉の便利のために用いている抽象名詞にすぎない。
力学者にとっては、力は運動をその原因に結びつけた関係である。
物理学者、化学者、生理学者にとってもこれは根本において同様である。物の本質は永遠に我々に知られない。我々は単にこれらの事物の関係を知ることができるのみである。」
「実験医学序説」
ISBN-10: 4003391616
ISBN-13: 978-4003391617
実際また両者はいずれも共通の目的として、現在研究している現象の近接原因に遡ることを期しているのである。
さて我々がここである現象の近接原因と呼んでいるものは、その現象が存在したり、または発現したりするために必要な物質的条件にほかならない。
したがって実験的方法の目的、即ちあらゆる研究の窮極は生物に対しても無生物に対しても全く同一である。
結局ある現象とその近接原因との間の関係を見出すことである。換言すればこの現象の発現に必要な条件を決定することにある。
実際また実験家は、ある現象の存在条件を知るに至ったならば、いわばその現象の支配者になったわけである。
その経過、その発現を予言することはもとより、任意にこれを促進し、また停止させることができる。
実験家の目的はこれで達せられたと言わねばならない。
このようにして彼は科学の力によって、自分の力を自然現象の上にまで拡張したのであった。
そこで我々は生理学を「生物現象を研究し、その現象の発現に関する物質的条件を決定することを目的とする科学」と定義しよう。
我々が各種現象の生起する条件を決定することのできるのも、ただこの分析的方法、即ち実験的方法によるのみであって、この点に関しては生物も無生物もなんら異なるところはない。
何となれば、我々は実験するに当り、いかなる科学においても同様に推理を進めて行くからである。
実験生理学者にとっては、心霊論も唯物論もない。
このような言葉はすでに陳腐な一種の自然哲学に属するものであって、学問の進歩とともにやがて消滅するであろう。
我々は永遠に心霊も物質も知らないだろう。
もしも心霊や物質を認めるに至るならば、いずれの議論も結局は科学の否定に終わるということを証明することができる。
したがってこの種のいかなる考えも明らかに無益徒労である。我々にとっては現象を研究し、それが発現の物質的条件を知り、さらにその間の法則を決定するだけで十分なのである。
物の第一原因は科学の領域を超越した問題である。
このものは無機物の科学においてのみならず、生物の科学においてもまた、永遠に我々の捕捉するところとはならないであろう。
実験的方法は、生命原理の研究などという空中楼閣のものからは必然的に踵を返すのである。
無機力などというものが存在しないと同様に、有機力などというものも存在しないか、或いはまた諸君が欲するならば、いずれも同様に存在すると言って差支えなかろう。
我々が使用している力という文字は、単に言葉の便利のために用いている抽象名詞にすぎない。
力学者にとっては、力は運動をその原因に結びつけた関係である。
物理学者、化学者、生理学者にとってもこれは根本において同様である。物の本質は永遠に我々に知られない。我々は単にこれらの事物の関係を知ることができるのみである。」
「実験医学序説」
安部公房 ・渡邊格 対談完全版
2016年9月1日木曜日
20160901 興味関心の変化・・?
A「本日は久しぶりに若干早く帰宅することが出来ました。
とはいうものの、本日分のブログ記事の主題については特に考えておりませんでしたので、現在またこうして記しながら何かしら考えていこうと思います・・(笑)。
そういえば、昨日投稿のブログ記事もまた、おかげさまで投稿2日目にしては多くの方々に閲覧して頂きました。
どうもありがとうございます。
そして、その主題である渋谷について思い起こしてみますと、祖父が一時期渋谷に住んでいたと聞いたことがあります。
但し、渋谷といいましても、少し西に外れた辺りであり、通っていた学校の近くであったからとのことでした・・・。
また、私自身の記憶としては、かつて90年代、明治神宮前~渋谷~代官山周辺には当時の流行の先端、発信源とされる洋服店が数多くありました。
そして現在、それらの場所に行ってみますと、継続して営業している店、移転した店、閉店した店など様々ありますが、私見としましては、概ね、どうも90年代のような熱気、活気といったものは感じることが出来ません・・いや、それは実は私(の内面)が変化したからであるのでしょうか・・?
とはいえ、当時、この周辺に数多く存在し、それぞれ個性を競っていた洋服店に置いてある様々な洋服、雑貨等から強く外国(多くはアメリカ)の文化を感じさせ、それに対し(私は)強い憧れを抱いておりました・・。
そして、チノクロスパンツ、オックスフォード生地のボタンダウンシャツといった現在ではありふれた洋服からも当時(の私)は、日常とは異なる、外国、異文化の香りを感じていました・・。
しかし現在において、こうした洋服はそのカタチ、作りは我が国大手メーカーにて販売されているものと(一見)大差なく、またその値段は国産メーカーのものの方がはるかに安価であるため、特に強くは購入したいとは思いません・・。
あるいはかつてに比べ、洋服など服飾品に対する興味関心が薄れていったのかもしれません・・。
そして現在、その興味関心の対象とは、一体何へと変化していったのでしょうか・・?
それは読書であるのかもしれませんが、これは「そうである。」と断言することはどうも難しいです・・。
・・何故ならば、私の読書への興味とは、その淵源を遡ると洋服、服飾品に対する興味よりも大分以前に遡るからであり、それは「興味の対象が変化した」と表現するよりも「読書の興味へと収斂していった」とした方が精確であるということになると考えるからです・・。
そして、そこからの紆余曲折の結果、現在このようにブログ記事を記しているのかもしれません・・(笑)。
しかしながら、そこで思うことは「こうしたことは果たして進化・発展なのであろうか?あるいは退化といった表現の方が適切なのであろうか?」ということです・・(苦笑)。
こうしたことも未だによく分かりません・・(苦笑)。
とはいえ、現在まで一応このようにブログ記事作成を継続出来ているということは、そのかなりの部分をこれまでの読書、研究での経験に負っているものと考えますので、それと同様、かつて強く興味を持っていた洋服、服飾品における経験も、何らかのカタチで、現在のブログ記事作成に寄与しているではないかとも思います・・。
少なくとも、苦慮しておりました本日作成分の記事をここまで記すことが出来ましたので・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早急な復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
とはいうものの、本日分のブログ記事の主題については特に考えておりませんでしたので、現在またこうして記しながら何かしら考えていこうと思います・・(笑)。
そういえば、昨日投稿のブログ記事もまた、おかげさまで投稿2日目にしては多くの方々に閲覧して頂きました。
どうもありがとうございます。
そして、その主題である渋谷について思い起こしてみますと、祖父が一時期渋谷に住んでいたと聞いたことがあります。
但し、渋谷といいましても、少し西に外れた辺りであり、通っていた学校の近くであったからとのことでした・・・。
また、私自身の記憶としては、かつて90年代、明治神宮前~渋谷~代官山周辺には当時の流行の先端、発信源とされる洋服店が数多くありました。
そして現在、それらの場所に行ってみますと、継続して営業している店、移転した店、閉店した店など様々ありますが、私見としましては、概ね、どうも90年代のような熱気、活気といったものは感じることが出来ません・・いや、それは実は私(の内面)が変化したからであるのでしょうか・・?
とはいえ、当時、この周辺に数多く存在し、それぞれ個性を競っていた洋服店に置いてある様々な洋服、雑貨等から強く外国(多くはアメリカ)の文化を感じさせ、それに対し(私は)強い憧れを抱いておりました・・。
そして、チノクロスパンツ、オックスフォード生地のボタンダウンシャツといった現在ではありふれた洋服からも当時(の私)は、日常とは異なる、外国、異文化の香りを感じていました・・。
しかし現在において、こうした洋服はそのカタチ、作りは我が国大手メーカーにて販売されているものと(一見)大差なく、またその値段は国産メーカーのものの方がはるかに安価であるため、特に強くは購入したいとは思いません・・。
あるいはかつてに比べ、洋服など服飾品に対する興味関心が薄れていったのかもしれません・・。
そして現在、その興味関心の対象とは、一体何へと変化していったのでしょうか・・?
それは読書であるのかもしれませんが、これは「そうである。」と断言することはどうも難しいです・・。
・・何故ならば、私の読書への興味とは、その淵源を遡ると洋服、服飾品に対する興味よりも大分以前に遡るからであり、それは「興味の対象が変化した」と表現するよりも「読書の興味へと収斂していった」とした方が精確であるということになると考えるからです・・。
そして、そこからの紆余曲折の結果、現在このようにブログ記事を記しているのかもしれません・・(笑)。
しかしながら、そこで思うことは「こうしたことは果たして進化・発展なのであろうか?あるいは退化といった表現の方が適切なのであろうか?」ということです・・(苦笑)。
こうしたことも未だによく分かりません・・(苦笑)。
とはいえ、現在まで一応このようにブログ記事作成を継続出来ているということは、そのかなりの部分をこれまでの読書、研究での経験に負っているものと考えますので、それと同様、かつて強く興味を持っていた洋服、服飾品における経験も、何らかのカタチで、現在のブログ記事作成に寄与しているではないかとも思います・・。
少なくとも、苦慮しておりました本日作成分の記事をここまで記すことが出来ましたので・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早急な復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年8月31日水曜日
20160831 過去と現在のギャップ
A「通常でしたら、職務のことについてブログ記事には記さない方針ではあるのですが、本日は少し書いてみようと思います。
本日は、実家周辺を廻ったのち、一度出社し、資料(しりょうと変換するとはじめに試料と出てくる・・(笑)。)をそろえた後、御茶ノ水に行き、そして飯田橋までJR総武線にて移動し、そこから徒歩にて半蔵門まで行き、地下鉄半蔵門線に乗り、渋谷まで行きました。
渋谷は相変わらずの大変な雑踏でしたが、これにも随分と慣れ、目的とする場所に着きました。
そして、この目的地にて伺ったお話しが極めて興味深く、途中、民俗学を専攻していた時の習性からか、これを録音したいという衝動に駆られました・・(笑)。
この時伺ったお話しとは、主に当地域の過去についてのことであり、その中には高名な歌人、作家等が出てきて、それはこれまでに読んだ、どの評伝等書籍に記されていないことであり、大変興味深いものでした(あたかも山田風太郎の開化物の小説のように)。
そして、それは、まさしく、かつてのこの地域の土着文化の記憶についてであり、また、それと同時に、それはこれまで私があまり扱ったことのない、東京(渋谷周辺)についてのものであったため、そのように感じたのではないかとも思われます・・。
面白いことにこうしたお話しをひとしきり伺うと、私は少し酔った、興奮したような状態になり、そこを辞し、そのままの状態にて再び渋谷の街の雑踏に呑み込まれ、歩きはじめました(そういえば、こうした状態とは、和歌山在住時のヒアリングの際は度々ありました。)。
そうした酔い、興奮が冷めやらない状態にてテレビ番組の収録にて、大物お笑い芸人を囲んだ人だかりに出くわし、その横を通ることになりましたが、それはあまり眼中に入らず、一瞥ののち、歩みを緩めず、そのまま通り抜けました・・。
そしてそのまま歩いていると、不図「こうした私の状態とは、もしかするとフェデリコ・フェリーニ監督の映画「ローマ」の狂言回しのようであるかもしれない・・。」と思いました・・。
この時に私が感じたのは、この渋谷という場所における過去と現在の強烈なギャップであったと考えます。
通常、我々は、そうしたことを日常生活において特に意識しておりませんが、上に示すような契機(過去と現在のギャップ)により、そうしたことを強く感じますと、その思いとは一時的にではあるかもしれませんが、人の心を支配するのではないかと思います・・。
あるいはまた、異郷在住時の不図した契機にて惹起される郷愁の念なども、それと類似する性質を持っているのではないかと考えられますが如何でしょうか・・?
そして、そこから下に示す筑摩書房刊・橋川文三著「ナショナリズム」からの一節です。
『このような形成過程からも想像されるように、郷土感情の方は人間のパーソナリティの内部に深く潜在しており、何かの折にふれて湧然とよみがえるという場合が多い。
ミヘルスの伝えているエピソードであるが、フランス軍に加わっていたスイスの傭兵隊は、しばしば異常な郷愁のパニックにおそわれ、算を乱して脱走、帰郷していったことがあるという。そのため、スイスの民謡のあるものを歌うことは、死刑によって禁止されていたともいう。』
我々の心とはなかなか面白いものです・・(笑)。
あるいはまた、こうしたことは、以前のブログ記事にて記しましたゲーテがローマ滞在時に法王庁の役人から聞いたという『人間は始終心の中に様々な考え、想念を持っていないと(意識が分裂していないと)おかしくなってしまう。』の意味合いにも通じる何かがあるのかもしれません・・。
しかし一方、様々な音楽、芸術といったものは、どちらかというと我々を感動させ、そして心を統一させるような性質がその根源にあるのではないかと思われます。
そうしますと、我々の意識とは、分裂しているぐらいの状態が日常生活をおくる上においては適しているのでしょうが、時には音楽、芸術などによって、その統一を図る習慣を持っていないと、時によっては重要なそうした心の状態(統一された)あるいはそれに至る方法を忘れてしまい、結果として、心そのものが荒廃、劣化してしまうのではないかとも考えさせられますが如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
本日は、実家周辺を廻ったのち、一度出社し、資料(しりょうと変換するとはじめに試料と出てくる・・(笑)。)をそろえた後、御茶ノ水に行き、そして飯田橋までJR総武線にて移動し、そこから徒歩にて半蔵門まで行き、地下鉄半蔵門線に乗り、渋谷まで行きました。
渋谷は相変わらずの大変な雑踏でしたが、これにも随分と慣れ、目的とする場所に着きました。
そして、この目的地にて伺ったお話しが極めて興味深く、途中、民俗学を専攻していた時の習性からか、これを録音したいという衝動に駆られました・・(笑)。
この時伺ったお話しとは、主に当地域の過去についてのことであり、その中には高名な歌人、作家等が出てきて、それはこれまでに読んだ、どの評伝等書籍に記されていないことであり、大変興味深いものでした(あたかも山田風太郎の開化物の小説のように)。
そして、それは、まさしく、かつてのこの地域の土着文化の記憶についてであり、また、それと同時に、それはこれまで私があまり扱ったことのない、東京(渋谷周辺)についてのものであったため、そのように感じたのではないかとも思われます・・。
面白いことにこうしたお話しをひとしきり伺うと、私は少し酔った、興奮したような状態になり、そこを辞し、そのままの状態にて再び渋谷の街の雑踏に呑み込まれ、歩きはじめました(そういえば、こうした状態とは、和歌山在住時のヒアリングの際は度々ありました。)。
そうした酔い、興奮が冷めやらない状態にてテレビ番組の収録にて、大物お笑い芸人を囲んだ人だかりに出くわし、その横を通ることになりましたが、それはあまり眼中に入らず、一瞥ののち、歩みを緩めず、そのまま通り抜けました・・。
そしてそのまま歩いていると、不図「こうした私の状態とは、もしかするとフェデリコ・フェリーニ監督の映画「ローマ」の狂言回しのようであるかもしれない・・。」と思いました・・。
この時に私が感じたのは、この渋谷という場所における過去と現在の強烈なギャップであったと考えます。
通常、我々は、そうしたことを日常生活において特に意識しておりませんが、上に示すような契機(過去と現在のギャップ)により、そうしたことを強く感じますと、その思いとは一時的にではあるかもしれませんが、人の心を支配するのではないかと思います・・。
あるいはまた、異郷在住時の不図した契機にて惹起される郷愁の念なども、それと類似する性質を持っているのではないかと考えられますが如何でしょうか・・?
そして、そこから下に示す筑摩書房刊・橋川文三著「ナショナリズム」からの一節です。
ISBN-10: 4480096876
ISBN-13: 978-4480096876
P.28『このような形成過程からも想像されるように、郷土感情の方は人間のパーソナリティの内部に深く潜在しており、何かの折にふれて湧然とよみがえるという場合が多い。
ミヘルスの伝えているエピソードであるが、フランス軍に加わっていたスイスの傭兵隊は、しばしば異常な郷愁のパニックにおそわれ、算を乱して脱走、帰郷していったことがあるという。そのため、スイスの民謡のあるものを歌うことは、死刑によって禁止されていたともいう。』
我々の心とはなかなか面白いものです・・(笑)。
あるいはまた、こうしたことは、以前のブログ記事にて記しましたゲーテがローマ滞在時に法王庁の役人から聞いたという『人間は始終心の中に様々な考え、想念を持っていないと(意識が分裂していないと)おかしくなってしまう。』の意味合いにも通じる何かがあるのかもしれません・・。
しかし一方、様々な音楽、芸術といったものは、どちらかというと我々を感動させ、そして心を統一させるような性質がその根源にあるのではないかと思われます。
そうしますと、我々の意識とは、分裂しているぐらいの状態が日常生活をおくる上においては適しているのでしょうが、時には音楽、芸術などによって、その統一を図る習慣を持っていないと、時によっては重要なそうした心の状態(統一された)あるいはそれに至る方法を忘れてしまい、結果として、心そのものが荒廃、劣化してしまうのではないかとも考えさせられますが如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年8月30日火曜日
20160830 虹を見ました。
A「本日も仕事で東京市街地におりましたが、雨が降ったり、日が差したりと二転三転するようなおかしな天気でした・・。
しかし、そのおかげで久しぶりに水道橋、神保町の周辺にて虹を見ることができました・・(笑)。
周囲の方々が空に向けてスマートフォンを向けている先を見てみましたら虹が出ていた次第です・・。
また、それと同様面白いことに、昨日記したブログ記事は投稿1日目にしては思いのほか、多くの閲覧者を得ることができました・・(笑)。
興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
また、本日は日中仕事にて街を歩いた疲れが出た為か、ブログ記事の更新を止めておこうかと思いましたが、さきの二点を題材にして何かしら記すことができるのではないかと考え、現在このようにブログ記事を記している次第です・・(笑)。
しかし一方、目標とする400記事までは到達しましたので、とりあえずしばらく記事作成を休んでも良いのではないかとも思い、また先日再び読んでいた岩波文庫刊・バートランド・ラッセル著「幸福論」にて下に示す記事に出くわしたため、現在、記事作成継続への思いが多少揺らいでおります・・(苦笑)。
P.47
「文学者のグループは、社会生活と生き生きとした接触を保っていない。もしも、人間の感情に、悲劇と真の幸福の双方が営まれる際の真剣さと深みを持たせたいのであれば、そうした接触は不可欠である。
世界には自分のすることなど何もない、という思いをいだいてぶらぶらしているいわゆる才能ある若者たちに、私は言いたい。
「ものを書こうとするのをやめて、それよりも、書かないように努めてみたまえ。
世の中に出ていき、海賊なり、ボルネオの王様なり、ソビエト・ロシアの労働者なりになってみることだ。基本的な体の要求を満足させることで、君のエネルギーの全部が費やされるといった、そういう生活に飛びこんでみることだ。」
私は、なにもすべての人にこの行動指針をお勧めするのははない、ただ、クルーチ氏の診断する病気(厭世、絶望)にかかっている人たちだけにだけお勧めするのである。
私の信じるところでは、このような生活を何年か送れば、元インテリ青年は、いくら書くまいとしての、もはや、ものを書かずにはいられなくなっているのに気づくだろう。そして、この時がきたとき、彼の書きものは彼にとって空しいものとは思えないだろう。」
この文章を読み、少し考えてみますと「今現在果たしてブログ記事を記し続けた方が良いのか、あるいはそうではないのか・・?」と考え込んでしまいます・・(苦笑)。
しかし、何れにしても揺れ動いていることは確かなのです・・。
あるいは、こうしたものは単なる言い訳探し、ポーズ、カッコつけなのでしょうか・・(笑)?
とはいうものの、現在記しているこの記事とは、まさしくこの「揺れ」そのものを題材としており、またそれは同時に少なくとも空しいものではありませんので、まあ、こうしたことを題材として記事を書けるのであれば、書いておくに越したことはないのかもしれません・・(笑)。
そして、ここまで記していて、昨日投稿した記事への反応もまた大変興味深く面白いものであったことを思い出しました。
果たして私自身がそうした反応を出来るかどうかはかなり疑問です・・(苦笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
しかし、そのおかげで久しぶりに水道橋、神保町の周辺にて虹を見ることができました・・(笑)。
周囲の方々が空に向けてスマートフォンを向けている先を見てみましたら虹が出ていた次第です・・。
また、それと同様面白いことに、昨日記したブログ記事は投稿1日目にしては思いのほか、多くの閲覧者を得ることができました・・(笑)。
興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
また、本日は日中仕事にて街を歩いた疲れが出た為か、ブログ記事の更新を止めておこうかと思いましたが、さきの二点を題材にして何かしら記すことができるのではないかと考え、現在このようにブログ記事を記している次第です・・(笑)。
しかし一方、目標とする400記事までは到達しましたので、とりあえずしばらく記事作成を休んでも良いのではないかとも思い、また先日再び読んでいた岩波文庫刊・バートランド・ラッセル著「幸福論」にて下に示す記事に出くわしたため、現在、記事作成継続への思いが多少揺らいでおります・・(苦笑)。
P.47
「文学者のグループは、社会生活と生き生きとした接触を保っていない。もしも、人間の感情に、悲劇と真の幸福の双方が営まれる際の真剣さと深みを持たせたいのであれば、そうした接触は不可欠である。
世界には自分のすることなど何もない、という思いをいだいてぶらぶらしているいわゆる才能ある若者たちに、私は言いたい。
「ものを書こうとするのをやめて、それよりも、書かないように努めてみたまえ。
世の中に出ていき、海賊なり、ボルネオの王様なり、ソビエト・ロシアの労働者なりになってみることだ。基本的な体の要求を満足させることで、君のエネルギーの全部が費やされるといった、そういう生活に飛びこんでみることだ。」
私は、なにもすべての人にこの行動指針をお勧めするのははない、ただ、クルーチ氏の診断する病気(厭世、絶望)にかかっている人たちだけにだけお勧めするのである。
私の信じるところでは、このような生活を何年か送れば、元インテリ青年は、いくら書くまいとしての、もはや、ものを書かずにはいられなくなっているのに気づくだろう。そして、この時がきたとき、彼の書きものは彼にとって空しいものとは思えないだろう。」
この文章を読み、少し考えてみますと「今現在果たしてブログ記事を記し続けた方が良いのか、あるいはそうではないのか・・?」と考え込んでしまいます・・(苦笑)。
しかし、何れにしても揺れ動いていることは確かなのです・・。
あるいは、こうしたものは単なる言い訳探し、ポーズ、カッコつけなのでしょうか・・(笑)?
とはいうものの、現在記しているこの記事とは、まさしくこの「揺れ」そのものを題材としており、またそれは同時に少なくとも空しいものではありませんので、まあ、こうしたことを題材として記事を書けるのであれば、書いておくに越したことはないのかもしれません・・(笑)。
そして、ここまで記していて、昨日投稿した記事への反応もまた大変興味深く面白いものであったことを思い出しました。
果たして私自身がそうした反応を出来るかどうかはかなり疑問です・・(苦笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年8月29日月曜日
20160829加筆修正 「20150707 八幡宮、喜捨、放生会について」
無事に400回目の投稿も終えましたので本日はブログ記事の投稿を止めておこうかと思いましたが、そうしますと、どうも落ち着かないため、やはり記事作成をはじめました・・(苦笑)。
さて、本日も特にこれといった主題はないのですが、先日ブログ記事にて記したように現在また野上彌生子著「迷路」上巻を読んでおりますが、その中で興味深く思われた記述がありましたので下に抜粋引用します。
P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」
おそらく多くの方々は、この記述を読み、そこから他の書籍、文献に記されている熊襲、隼人といった、かつて南九州に蟠踞した屈強な種族、そしてその様々な伝説、伝承を想起するのではないかと思います。
あるいはまた、こうした近現代における人物像から随筆家の白洲正子を想起される方もまた、いらっしゃるのではないかと思います・・。
たしか白洲正子の場合、御自身でそうした内容をどこかに記していたと記憶しております。
しかしながら、現代我が国における一般通念から考えてみますと熊襲、隼人からその野生さが示されるのは、主に男性からであり、同地、同種族の女性からは、あまりそういった印象(蕃女)を受けることは少ないと思われます・・。
むしろ、どちらかというと、一般的に九州の女性とは、上に記された印象とは反対の、芯の強い、(どちらかというと)おとなしい女性といった印象が漠然とあるのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
そして、こうしたことを含め、いくつかの土地に住んでみて思うことは、それぞれの土地、地域の文化風土といったものは、実際にその土地、地域にしばらく(少なくとも数年程度)住んでみないと(ある程度明瞭に)理解することは難しいのではないかということです・・(いくら文献、書籍を読んだとしても・・)。
さて、そうしたことを念頭に置き「20150707 八幡宮、喜捨、放生会について」の加筆訂正を試みます。
鹿児島市の郡元周辺に鴨池という地名があります。
文字通り、ここにはかつて鴨がすむ大きな池があったということですが現在ここにそうした池はありません。
私の知る限りにおいて、鴨池には、かつて動物園(現在はさらに南に移転した)があり、また、現在のその場所には大規模商業施設、市民球場、医療保健施設などが立地しております。
そして、この鴨池から県道20号線(市電通り)沿いに騎射場(きしゃば)を経て天文館方面にしばらく北上しますと鹿児島有数の古社の一つである荒田八幡宮に至ります。
かつて、この荒田八幡宮では、武の神である八幡神を祀る神社に相応しく流鏑馬神事が為されていましたが、おそらくその名残が、さきに出て来た(荒田八幡の)ごく近隣にある騎射場という地名となっているのではないかと思われます。
しかし他の八幡宮を含めた神社にて、流鏑馬神事が為される場所のことを騎射場と表現する例は聞いたことがありませんので、これは当地域独特の文字文化(文字による事物表現の仕方の傾向?)によるものであるのかもしれません・・。
その一方、この騎射場(きしゃば)と同じ音を持つコトバを以前聞いたことがありました。
それは琉球、沖縄における地名、苗字の喜舎場(きしゃば)
です。
さらに、この喜舎場の「喜舎」について考えてみますと、それは仏教用語の「喜捨」に起源を持つのではないかと考えられます。
この「喜捨」とは「布施」とも似ているのですが、その意味合いとは「功徳を積むために喜んで自身の財物を施す」という現代でいうところの「寄付」にあたります。
そして、この功徳という意味合いにおいて「喜捨(舎)」には宇佐八幡宮をはじめとする全国の諸八幡宮にて流鏑馬神事と同様に為される魚、鳥などを野に放つ「放生会」神事に相通じる要素があるのではないかと考えられます。
また、この八幡宮における「放生会」神事の起源とは、南九州にて朝廷に対し反乱を起こし、戦にて倒れた隼人の鎮魂の意味で当初為されたといわれております・・。
そして、そのように考えてみますと、この一連の鴨池(放生会神事により魚、鳥を野に放つ為の池)、喜舎(捨)場(功徳を施す場)、荒田八幡がごく近隣に存在すること、そしてさらに現代においても、この鴨池にかつて動物園が存在したことは、大変興味深く、この地域の文化の基層から現代に至るまで貫かれている何かしらの信仰的な観念の存在、あるいはそれらの持つ大変興味深い多義性(我が国における原初的な詩心といっても良いかもしれません・・)を示しているのではないかと考えさせられるのです。
また、そうしたことを念頭に置き、さきに抜粋引用した野上彌生子著「迷路」の一節を読んでみますと、多少またその感慨が異なってくるのではないでしょうか?
P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
さて、本日も特にこれといった主題はないのですが、先日ブログ記事にて記したように現在また野上彌生子著「迷路」上巻を読んでおりますが、その中で興味深く思われた記述がありましたので下に抜粋引用します。
P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」
おそらく多くの方々は、この記述を読み、そこから他の書籍、文献に記されている熊襲、隼人といった、かつて南九州に蟠踞した屈強な種族、そしてその様々な伝説、伝承を想起するのではないかと思います。
あるいはまた、こうした近現代における人物像から随筆家の白洲正子を想起される方もまた、いらっしゃるのではないかと思います・・。
たしか白洲正子の場合、御自身でそうした内容をどこかに記していたと記憶しております。
しかしながら、現代我が国における一般通念から考えてみますと熊襲、隼人からその野生さが示されるのは、主に男性からであり、同地、同種族の女性からは、あまりそういった印象(蕃女)を受けることは少ないと思われます・・。
むしろ、どちらかというと、一般的に九州の女性とは、上に記された印象とは反対の、芯の強い、(どちらかというと)おとなしい女性といった印象が漠然とあるのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?
そして、こうしたことを含め、いくつかの土地に住んでみて思うことは、それぞれの土地、地域の文化風土といったものは、実際にその土地、地域にしばらく(少なくとも数年程度)住んでみないと(ある程度明瞭に)理解することは難しいのではないかということです・・(いくら文献、書籍を読んだとしても・・)。
さて、そうしたことを念頭に置き「20150707 八幡宮、喜捨、放生会について」の加筆訂正を試みます。
鹿児島市の郡元周辺に鴨池という地名があります。
文字通り、ここにはかつて鴨がすむ大きな池があったということですが現在ここにそうした池はありません。
私の知る限りにおいて、鴨池には、かつて動物園(現在はさらに南に移転した)があり、また、現在のその場所には大規模商業施設、市民球場、医療保健施設などが立地しております。
そして、この鴨池から県道20号線(市電通り)沿いに騎射場(きしゃば)を経て天文館方面にしばらく北上しますと鹿児島有数の古社の一つである荒田八幡宮に至ります。
かつて、この荒田八幡宮では、武の神である八幡神を祀る神社に相応しく流鏑馬神事が為されていましたが、おそらくその名残が、さきに出て来た(荒田八幡の)ごく近隣にある騎射場という地名となっているのではないかと思われます。
しかし他の八幡宮を含めた神社にて、流鏑馬神事が為される場所のことを騎射場と表現する例は聞いたことがありませんので、これは当地域独特の文字文化(文字による事物表現の仕方の傾向?)によるものであるのかもしれません・・。
その一方、この騎射場(きしゃば)と同じ音を持つコトバを以前聞いたことがありました。
それは琉球、沖縄における地名、苗字の喜舎場(きしゃば)
です。
さらに、この喜舎場の「喜舎」について考えてみますと、それは仏教用語の「喜捨」に起源を持つのではないかと考えられます。
この「喜捨」とは「布施」とも似ているのですが、その意味合いとは「功徳を積むために喜んで自身の財物を施す」という現代でいうところの「寄付」にあたります。
そして、この功徳という意味合いにおいて「喜捨(舎)」には宇佐八幡宮をはじめとする全国の諸八幡宮にて流鏑馬神事と同様に為される魚、鳥などを野に放つ「放生会」神事に相通じる要素があるのではないかと考えられます。
また、この八幡宮における「放生会」神事の起源とは、南九州にて朝廷に対し反乱を起こし、戦にて倒れた隼人の鎮魂の意味で当初為されたといわれております・・。
そして、そのように考えてみますと、この一連の鴨池(放生会神事により魚、鳥を野に放つ為の池)、喜舎(捨)場(功徳を施す場)、荒田八幡がごく近隣に存在すること、そしてさらに現代においても、この鴨池にかつて動物園が存在したことは、大変興味深く、この地域の文化の基層から現代に至るまで貫かれている何かしらの信仰的な観念の存在、あるいはそれらの持つ大変興味深い多義性(我が国における原初的な詩心といっても良いかもしれません・・)を示しているのではないかと考えさせられるのです。
また、そうしたことを念頭に置き、さきに抜粋引用した野上彌生子著「迷路」の一節を読んでみますと、多少またその感慨が異なってくるのではないでしょうか?
P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
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