2024年10月27日日曜日

20241026 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」 pp.18-20より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」
pp.18-20より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188552
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188559

 ユーゴスラヴィアの戦争は一九九一年から二〇〇一年まで、衝突勢力と地域を変えながら断続的に続いた。その展開はかなり複雑なので、詳しくは専門書を読んでほしい。それでも最低限の知識だけ確認するとすれば、紛争の軸はまずはセルビア民族と他民族の葛藤にあった。
 ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の中心は、名実ともにセルビア社会主義きょうわこくだった。連邦の首都はセルビアの首都であるベオグラードにあったし、面積も人口も最大だった。歴史を遡っても、一九世紀にこの地域の統合で大きな役割を果たしたのはセルビア王国だった。
 それゆえ連邦の解体にもっとも強く抵抗したのもセルビアだった。とくにクロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの二共和国、そしてセルビア共和国内の自治州だったコソヴォには多くのセルビア人が住んでおり、ミロシェヴィッチ政権はそれらの地域が支配から離れることを警戒した。むろんそれは他民族からすれば時代錯誤な「大セルビア主義」の押しつけにほかならない。しかしそれはセルビアからは民族の危機に見えたのだ。
 というわけで、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言すると、ユーゴスラヴィア人民軍は、彼らの独立を阻止すべく介入を始めた。スロヴェニアにはあまりセルビア人がいなかったので、戦闘は一〇日で終わった。けれどもクロアチアでの戦闘は、いま記した理由でたいへん長引くことになる。
 翌年の一九九二年には隣のボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立を宣言し、連邦はそちらにも介入し始めた。人民軍は両国でセルビア人が結成した民兵組織を支援し、大規模な戦闘を展開した。その過程でのちに紹介する「サラェヴォ包囲」も行われた。クロアチアでの戦争は一九九五年一一月まで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争は一九九五年一二月まで続き、多くの歴史ある町が廃墟になり、あちこちで「民族浄化」が行われた。
 民族浄化は、虐殺や迫害や強姦などの手段を用い、特定の地域から特定の民族以外を排除して民族構成を純粋化すなわち「浄化」することを意味する言葉である。この言葉そのものがユーゴスラヴィア紛争のなかで生まれた。民族浄化の展開は当時の欧米メディアで積極的に報道され、二〇世紀も末になってヨーロッパでまだこんな残酷なことが行われているのかと驚きをもって受け止められた。それは、二〇二二年二月にロシアがウクライナに侵攻したとき、二一世紀にもなってヨーロッパでまだこんな大規模な戦争が起こるのかと驚かれたこととよく似ている。
 クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナでの戦争が終わったあと、一九九八年から九九年にかけては、こんどは南セルビアのコソヴォが紛争の舞台となった。コソヴォも一九九一年に独立を宣言していたが、ミロシェヴィッチ政権はそれを抑え込み続けていた。しかしアルバニア人の民兵組織が力をつけ、一九九八年についに政府軍と本格的に衝突し始めたのである。こちらでも凄惨な民族浄化が展開され、セルビア人とアルバニア人双方で多数の難民が発生した。NATOがその戦争を止めるために空爆に踏み切ったのは、さきほども記したとおりだ。
 空爆の結果、ミロシェヴィッチ政権はコソヴォから軍を引き上げ、かわりにNATO主導の治安維持部隊が進駐した。とはいえ、紛争の余波はセルビアとコソヴォの境界付近や隣のマケドニアで続き、二〇〇一年になってようやく事態は安定することになる。
 ユーゴスラヴィア紛争とはこのようなできごとだった。この一連の戦争は、当時、第二次大戦後のヨーロッパで展開されたもっとも大規模な紛争だった。死者と行方不明者は一〇万人にのぼり、難民と国内避難民をあわせて二〇〇万人を越えた[★3]。その傷跡はいまもあちこちに残っている
。

2024年10月25日金曜日

20241024 株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」 pp.38-43より抜粋

株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」
pp.38-43より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480434828
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480434821

 慶長(一六〇〇)年九月十五日午前四時、島津義弘率いる島津隊が関ケ原に到着した。第十六代島津宗家当主・義久は彼の兄、その後継者で次期島津家当主・忠恒(のちの家久)は彼の息子にあたる。

 すでに六十六歳となっていた義弘は、当時としては相当な老人であるが、戦場を駆けまわることで鍛え上げた足腰はいまだに衰えを感じさせなかった。

 小西行長、宇喜多秀家隊も相次いで顔を揃え、西軍(豊臣方)の陣容はほぼ整った。夜が明けるにつれ昨日から降り続いた雨はほぼ上がったが足下はぬかるみ、霧のために見通しがきわめて悪かった。

 午前七時過ぎ、東軍(徳川方)の徳川家康四男・松平忠吉隊と井伊直正隊が宇喜多秀家隊に向い攻撃を仕掛け、いよいよ合戦の火ぶたが落とされた。濃い霧の中、鬨の声や銃声が響き渡り、敵か味方がの区別がつかないまま無数の足音が地面を揺らした。

 やがて霧が晴れ、周囲の状況がはっきりとしてきた。

 この時、空から関ケ原を見下ろせば、色とりどりの軍旗、指物、馬印が風になびき、華やかな祭りの会場さながらの光景が広がっていたはずだ。

 明治初期に陸軍大学校教官として来日したドイツ人のヤーコプ・メッケル少佐が、関ケ原の陣営配置図を見せられると即座に「西軍勝利」の判定を下したという逸話はあまりにも有名である。それほど西軍の布陣は有利であったし、武力においても勝っていた。が、多くの武将の裏切りにより、西軍は敗北を喫した。死闘の裏でひそかに取り交わされるさまざまな駆け引き、関ケ原の戦いは武力と武力の衝突というよりも、知力と謀略に彩られた人間ドラマそのものであった。その多くの登場人物の中でも、最も知力に溢れていたのは、勝者・徳川家康であったことは今さらいうまでもあるまい。

 さて、この戦いにおいて、西軍島津義弘隊はまるで傍観者のように孤立していた。史料によりばらつきはあるが、この日義弘に従った兵員は、千人から千五百人の間。薩摩から日向一帯を治め厖大な数の家臣団を抱えていた島津家にしてはいささか寂しい陣容であるが、一騎当千の彼らはこの大混戦の中、一歩も前へ出ることなく、ひたすら何事か待っているかのようであった。そして、陣容に近づく者は西軍であれ東軍であれ、構わず撃退していた。

 いったいなぜ、彼らはこのような不思議な戦い方をしていたのだろうか。

 そもそも島津隊の政治方針は中央政権とは一線を画し、自分たちだけの楽園・薩摩のみを守り抜くという独特なものである。織田や豊臣などのような、天下統一といった途方もない夢などは彼らには興味がない。この戦乱を利用して自領を増やしたいという企画はあったが、それも九州内の話であり、それ以上の領土欲はない。

 なのに、こうして天下分け目の戦いに参加する仕儀に相成ったのは、たまたま義弘が伏見に滞在中であったためである。そして、行きがかり上、西軍に引き込まれることになったが、本音をいえばこの合戦自体に参加したくなかった。島津は豊臣家再興だのといった御大層な大義にはとんと興味がない。大事なのはわが所領のみ。

 とはいえ戦場でこのような振る舞い方はまことに紛らわしい。 

 島津隊を味方だと信じて逃げてきた宇喜多秀家、小西隊までもが斬り払われ、宇喜多隊の多くは池寺池に落ちて溺死した。

 慶長五年九月十五日午後三時ー開戦からおよそ八時間経過した今も、島津隊は関ケ原にいた。すでに西軍は総崩れしつつあり、戦場にはぽつんと彼らのみ取り残される結果となった。東軍はジリジリと迫り来て、ついに彼らは敵方に取り囲まれてしまう。

 いかにもやる気のない戦いぶりから想像がつくように、彼らは西軍に殉じて全員討ち死にするつもりなどなかったが、さりとて、おめおめと白旗をあげて東軍に投降するつもりもなかった。

 そこで彼らは「名誉ある撤退」を決意する。西軍への義理はすでに果たした。ここにとどまる理由はない。よって撤退するというわけである。

 だが、それを見越した東軍は予想される二つの退路にすでに兵を終結している。このまま進めば袋の鼠となることは確実だった。義弘は目をつぶり耳をすませ、自らの進むべき方向を考えた。 

 そこで彼の得た結論はー敵中突破。

雲霞のごとく満ちている敵の真っ只中に突っ込んで、戦場を離脱するなど通常の感覚ではありえない選択肢だった。だが百戦錬磨の義弘の直感は「どの退路をとっても敵が待ち構えているのならば、いっそ相手の意表を突いて、戦場の中央を突破せよ」と告げていた。

 義弘は周囲の者たちを一団にまとめると、

「突き進め!」

 と叫ぶや否や馬を走らせ、たちまち一団は立ち上る砂の塊となり猛然と敵陣中へと前進したのである。

 何が起きたのだろうー東軍の誰もが呆然と島津隊の動きを見つめていた。それは島津隊に相対していた福島正則も同じである。

「敵ならば斬り通れ、さもなくば自らの腹を切れ!」

 義弘の言葉に応じて島津隊は一斉に刀を抜き、福島隊の方向へと殺到した。島津隊は福島隊との斬り合いを覚悟していた。

 だが、福島隊は思わず身を引き、島津隊の前に自然と道が開かれた。それはまさに海が割れ、道が現われたという「出エジプト記」モーゼの話を地でゆく光景だった。

 ちなみにこの時、福島正則の息子で、十七歳の正之が島津隊に立ち向おうとして、家臣から諫められたという逸話が遺されている。

 すでに勝敗は決している。死を覚悟し、目を血走らせて猛進する島津隊と戦っても何の意味もない。福島隊の家臣は若様に「犬死してはなりませぬ」と教えたのだ。これは現在に生きる私たちにもうなずける、合理的な判断である。

 しかし薩摩武士の考え方はまったく違っていた。彼らの内部には、合理的な思考では説明のできない、野生の血がたぎっていた。自分の死が有益なのか無益なのか、どう生きるのが得なのか、そのような小ざかしい線引きは彼らにとってはどうでもよい。

 「薩摩の男はここぞと決めた時、ここぞと決めた場所で、自らの意志に従い死んでゆくのみ」

 猛獣の群れと化した島津隊。気を呑まれて彼らを通過させた東軍は、ふと我に立ちかえり追撃を開始するが、後の祭り。義弘は主要な武将を次々と失いながらも、大垣から伊勢路を越え大阪へ落ち延びた。途中、大阪に留め置かれていた人質の妻子らを連れ戻し、九月の末に薩摩へと帰還した。

2024年10月22日火曜日

20241022 岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」 pp.414‐416より抜粋

岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」
pp.414‐416より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003812824
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003812822

 横穴式石室は、すでにふれたように遺骸を石室の側面から搬入する墓室で、単に遺骸を納めた棺を囲う竪穴式石室と違い、石室自身がひろい空間をもち、そこに何人かの追葬を可能としたものである。もっとも朝鮮から日本に伝わった当初は、たとえば福岡県老司古墳にみるように、一墳に小形の数石室がつくられ、石室自体も小さく、一室一遺体、せいぜい二、三遺体の埋葬という状況にあった。この種の竪穴系横口式石室とよばれるものは、五世紀に北部九州を中心にひろがったが、なお畿内や瀬戸内沿岸においては普及をみず、一部の中・小墳の墓室として採用されたにすぎなかった。朝鮮との交流が深かったと考えられる北部九州にまず定着し、ついで、瀬戸内、畿内へとひろがっていったものである。

 この横穴式石室が玄室と羨道と前庭部とを整え、普遍的な墓室型式として全国各地に採用されてくるのは、六世紀中葉以降である。その直前には畿内および西日本における一部の首長層の間にひろがったが、六世紀中葉以降は、一部の地域や集団を除いて東北南部から九州南部にまで、それ以前の竪穴式石槨・粘土槨・各種石棺・箱式石棺・木棺直葬など多様な埋葬施設のほとんどにとってかわるかのように普及していった。中には横穴式石室の影響によって同じ思想をもって営まれた横穴という型式をとる地域や集団も、出雲・豊前京都郡・肥後・能登・東海・東国など各地にあったし、南九州では地下式横穴という型式をとった。

 横穴式石室の羨道部は埋葬のたびに閉塞がなされるのが普通であった。その玄室には、組み合わせまたは釘どめの木棺、組み合わせ式箱式石棺、また吉備東部・北部などでは陶棺などに納められた遺骸が安置されるが、首長墳とみなされる大形石室の場合には、しばしば刳抜造りの家形石棺が置かれる。羨道部は玄室と現世とをつなぐ通路の役を果たすものであったが、やや新しい段階となると、そこへ追葬がおこなわれる場合もある。羨道部のちにはその入り口をもって閉塞する行為の過程で祭祀がおこなわれたらしく、石塊にまいって土器類が発見されることがある。前庭部もまた遺骸搬入の一種の通路でもあるが、そこに大甕が掘り据えられていたり、破砕した土器類が発見されることなどから、祭祀がおこなわれたことが考えられる。これらのことからみて、この石室の普及に伴って、墳頂を中心とする祭祀から羨道前面ないし前庭部を中心とする祭祀への移行が進みつつあったことは確実である。このことは墳丘の高さや大きさとの関係を薄め、やがて墳丘の強大性の意味を漸次失わせることになる。

2024年10月21日月曜日

20241020 株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」 pp.38-40より抜粋

株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」
pp.38-40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582447074
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582447071

 ポーランド人とハンガリー人の間では、ジェントリーー非常に大人数で、他の民族においてはこれに相当するものがほとんどなかったーが、中産階級にとって代った。彼らは民族主義的革命勢力として、中産階級よりもはるかに効果的であった。というのは、彼らは何世代にもわたって軍人教育を受けており、戦士の精神と伝統を持っていた。貴顕の有力者とともに、国政において権力を独占していたジェントリーは、民族主義思想の唯一の主唱者となった。さらに、ポーランド人のジェントリー国家は、リトアニア、白ロシアの地主階級と、ウクライナの地主階級の大部分を同化し、ポーランド農民の住む地域のおよそ三倍を覆ったことがあったので、ポーランドの偉大さは、ジェントリーによる階級支配と密接な関係を持っていた。多少異なっていたものの、ハンガリーでも同じことが言えた。しかし、ポーランド人ジェントリーと農民との間の隔たりは格段に大きかったので、ポーランド語を話す農民たちは大体において、自分たちが自分たちの主人と同じ民族に属すとは見なさなかった。一八四八年とその後半世紀近く、オーストリア系ポーランド人の主たる指導者の一人であったジェミャウコフスキは、ずっと後の一八六五年三月にこう書いた。「・・・ガリシアにおいては、農民はポーランドのことを考えもしないし、ポーランドを欲してもいない。一方で、都市の住民は、その眠りからやっと覚め始めたばかりである」。事態はむしろ悪化していた。というのは、大土地所有者と農民との関係は、重い賦役と世襲の領主裁判権によって未だに毒されていたし、敵対的なオーストリア官僚は、両者の悪化する関係を利用し続けていた。

 一八四五年、ポーランド民主協会員は、多くは西ヨーロッパにある亡命者組織の指令によって、ポーランドを分割する三カ国すべてにたいし民族蜂起を準備していた。この蜂起は、必要があって陰謀的な方法で計画されたが、そのために、財源が全く不足していたことと計画が夢のようなもので実際に役に立たないことは、指導者たちにさえも、隠されてしまった。一八三〇年と三一年には、貴族あるいはジェントリーといったポーランドの指導者たちは、農民の完全な解放を宣言して、彼らに訴えかけるような気持ちにはなれなかった。一八四五年から四六年に活躍した人びとは、自らジェントリー階級であったが、誤りに気づいた。つまり、ポーランド人の努力の持つ弱点とその失敗を、勝ち誇ったフランス革命軍(当時、彼らもまた不利な状況に直面し、見たところ勝ち目はなかったが)の勢いと比べてみて、社会的革命勢力を蜂起させることによってのみ、彼らもその敵や抑圧者の組織された勢力を打ち負かすことができる、と結論したのである。一方で、彼らは世界的な革命と戦争を夢想し、世界政治システムはポーランドによって決定され、ポーランドを中心に展開し、その復活によって完成し、最終的には新たな偉大なポーランドとして結実する。と絵空事を描いていた。このような空想とうぬぼれが、ポーランド人の運動を鼓舞し続けたのであるー当時も、そしてそれ以来ずっと。このようにして本質的に貴族的かつ好戦的な民族で、ジェントリーの剣の伝説が深く染みつき、不在地主とその広大な所有地に基づいた偉大さを備え、今もって愛国的動機から社会革命的行動へと身を投じる民族という、異常な類型が現われたのだった。ポーランド人は、代わるがわる、自由の主唱者として賞賛されたり、反動勢力として非難されたりしてきた。実際、彼らはそのどちらでもなかった。むしろ、どの民族もそうであるように特殊な事例の一つにすぎなかったのだ。だが、彼らの場合は、その立場の複雑さ故に、他よりももっと複雑であったのだが。

2024年10月20日日曜日

20241019 中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋

中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122026180
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122026186

 薩摩藩には、郷中制度というものがあった。青少年団といってよく、藩士の部屋住みの子弟はみなこれに入る。「十八交リヲ結ブ健児ノ社」と頼山陽が謳った組織である。古くからあった。町内ごとに組織されていた。私見だが、南方習俗の若衆組の組織がなまのままで薩摩藩のなかに組み入れられたのが郷中制度でないかと思える。

 私は、一時期、若衆組に関心をもったことがあり、いまもそうである。西日本の現象で、とくに黒潮の洗う鹿児島県、高知県、和歌山県熊野地方には、大正初年うまれの人々の少年期までは濃厚に残っていた。要するに十八交リヲ結ブで、適齢になると入り、若衆組(薩摩藩では郷中頭)の支配に属し、若衆組織の中で、おとなになるための教育をすべてうける。

 若衆組に入ると、家で夕食を食ったあとは、一定の若衆宿へいく、そこで雑談したり、肝だめしをしたり、漁村なら海難救助の方法をおそわったり、山村なら山火事の消し方を習ったり、ときには夜這いの方法をならったり、あるいは連れて行ってもらったりする。

 「娘をもっている親で、若衆が夜這いに来ないようなら、親のほうがそのことを苦にした」ということを高知の西の端の中村で、土地の教育関係の人からきいた。熊野の山村で、「複数の若衆が行っていて、もし娘さんが妊娠したりするとどうなるのですか」ときいてみたことがある。故老がおだやかな表情で、「そういうときは娘に指名権があるのです。」といった。故老によれば、たれのたねであるかは問題ない、たれもが村の若衆である、たねがたれのものであっても似たようなものだ、という思想が根底にある。娘は、自分の好きな感じの、あるいは将来を安定させてくれそうな若者を、恣意的に指名すればよい。

 話が外れるが、こういうことーとくにたねに対する不厳密性ーは、たとえば北方アジアの遊牧民族には決してありえないことである。かれらには骨の信仰があった。男のたねが子供の骨をつくると信じ、骨が子々孫々へ相続してゆくと信じていた。朝鮮語では、この象徴的な(あるいはなまなましいといっていいかもわからないが)骨のことをポンという。朝鮮は中国の儒教社会システムごと取り入れながら、ポンについては北方遊牧民の信仰を相続していた。この点でいえば、若衆組があるかぎり、日本の(私は西日本しか知らないが)農村漁村は南方的であるといっていい。

 薩摩藩の郷中制度にもどる。ふつうの庶民の若衆組の場合とはちがい、山火事や海難への処し方は教わらないが、武芸や角力はやる。夜這いはない。西南戦争のとき西郷が可愛岳から深夜脱出したが、坂を這いのぼりながら「夜這が如たる」といってみなを笑わせた。しかしさすがに武士社会だけに「ヨベ」はなかった。胆だめしはある。自分の胆だめしどころか、他人の胆までとる。刑場では打首の刑があるときけば競って駆けつけ、まっさきに到着した者はまだ絶命してほどもない罪人の体にとりつき、短刀で腹を割いて胆をとるのである。その胆を蔭干しにして薬にするとも言い、あるいは単に度胸の競いあいだけだともいい、あるいはそれをその場で食ってしまうという凄い事例もあったらしい。南方の未開人は、敵の勇者の肉を食う。薩摩ではこれを「ひえもんとり」というが、あるいは遠い時代の食人の風の名残りかもしれない。

 薩摩の郷中制度では、妙円寺参りという強行軍の行事もあり、曾我どんの傘焼きという勇壮なものもあり、また関ケ原の日には故老の屋敷へその話をききにゆく。

 こういう郷中制度という、南方島嶼の若衆組の風習がそのまま藩体制の中に居すわり、その青少年教育を一手にひっつかまえたという重要な組織をもつのは、三百諸侯の中で薩摩藩しかない。会津藩にも、青少年に相互に教育させるという組織があって、他藩に類を見ないものだが、薩摩藩の郷中制度のように、ごく自然に発生して歴史のなかで無理なく生長を遂げたいわば習俗的なものではなく、人工的な制度である。

 薩摩藩の郷中制度が、西日本とくに南海道(紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐)や瀬戸内の島々、さらには薩摩とその西南諸島の農村漁村に濃厚にのこってきた若衆組の士族社会での形態であるということの証拠のひとつは、村落体制における郷中頭(若衆組では若衆頭)の権威が高いことである。

 その前に、若者の権威、もしくは発言権の高さ、あるいは若いというだけで当人も威張り、村の年寄りも遠慮し、ときにおもねる、というのは、中国や朝鮮の儒教社会では絶無である。この絶無ということをどう強調してもまちがいはない。なぜならば若いということで威張るというだけで、儒教の基本思想として悖徳的なことで、悖徳的という以上に儒教とはまったく相容れないものといっていい。長幼の序を人倫の基本的な秩序とする儒教にあっては、老ほど尊敬される。若い者は、木の端のように遇されて、発言権もほとんどなく、全体に価値のうすき存在といっていい。たとえば韓国社会では若い者が近眼鏡をかけて祖父もしくはそれに準ずる血族の長老に会うことすら、不倫とされる。めがねというのは近視、遠視を問わず、倫理的イメージとしてのそれは、すべて大久保彦左衛門がかけているような「老眼鏡」とされる。若い者が、老大人ぶってめがねをかけて老人の前に出ることほど無礼なものはない。要するに儒教社会においては若い者は木の端のようなものである。

2024年10月17日木曜日

20241017 株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」 pp.64-67より抜粋 

株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」
pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

 歴史的には、ナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古の時代のヨーロッパには一八世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現われたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族意識に積極的な理論的基礎づけを与え、その意味において民族主義(principle of nationality: nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは、民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで、以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合わせねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基礎を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的には後進的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を担った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮圧された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディーニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿してした。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存在自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのでないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭をしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸の続く限りこれ(革命)と戦うことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生れたブリトン人」(freedom Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勝となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

20241016 慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋

慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766425197
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766425192

 アダム・スミスが一八世紀末に執筆活動を行っていたとき、西ヨーロッパと東ヨーロッパの繁栄の違いはすでに顕著だった。東に向かうほど繁栄は少なく、封建制は強力になった。封建制は東ヨーロッパで最も遅くまで残ったが、この地域はヨーロッパ大陸で最も経済の発展が遅れた。近代初期に最も勢いのあった二つの経済大国、すなわちオランダとイギリスとは対照的だ。おそらくオランダは農奴制など封建制の影響が最も小さな社会で、ギルドの力は弱く、絶対主義の脅威は一五七〇年代のオランダ革命によって取り除かれた。一方、イギリスではどこよりも早くアンシャンレジームの制度が崩壊した。農奴制は一五〇〇年までに廃止され、ギルドは一六世紀から一七世紀にかけて影響力を失った。教会は、一五三〇年代にヘンリー八世によって土地を没収・売却され、イングランド内戦と名誉革命によって独占状態や絶対王政に終止符が打たれた。そして少なくとも一八世紀はじめには、法の前の平等という概念が定着したのである。

 アンシャンレジームや封建制が早くから崩壊した場所で資本主義市場経済が台頭したことが証拠で裏付けられるなら、実際に古い制度が経済の発展を妨害して甦らせたと判断してよいのだろうか。このような結論を導き出しためには、少なくともふたつの問題が立ちはだかる。まず、アンシャンレジームの衰退と経済的成果の改善は時期が同じかもしれないが、この相関関係は逆の因果関係の結果だったとも考えられる。すなわち、資本主義の発達が封建主義制度衰退の原因であって、その逆ではなかったかもしれないのだ。たとえばアンリ・ピレンヌなど早い世代の学者は、貿易の拡大と商業社会の発達ーマイケル・M・ポスタンによれば「貨幣介在の台頭」-によって封建制の解体は説明できると論じている。

 二番目に考えるのが欠落変数バイアスで、その場合には、アンシャンレジームの衰退も経済成長のはじまりも、ほかの出来事や社会的プロセスの結果とみなされる。経済の制度を変更すべきか否かは社会の集団的決断であり、それはほかの諸要因に左右される。たとえば、イギリスの地理的立地や文化が中世後期に大きな経済的潜在力を生み出し、ひいいてはそれが封建制の深化を決定づけたが、近代に入ると封建制度は社会にそぐわなくなり、重要な因果的役割を果たせず衰退したのかもしれない。

 まさにこのような状況で欠落変数バイアスがどのような影響を生み出すか、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで興味深く論じている。近代初期、イギリスではヨーロッパで最もダイナミックな経済と、最も自由で絶対主義からかけ離れた政治制度が同時に発達した。たとえばダグラス・ノースやバリー・ワインガストらは、経済的成果は政治のイノベーションの直接的結果だと論じているが、ヴェーバーによると、つぎのように反論されることになる。「モンテスキューは「法の精神」のなかでイギリスに関してこう述べている。「イギリス人は三つの重要な事柄ー信仰と商業と自由ーを世界のどの国民よりも進歩させた」。そうなると、イギリスが商業で優位に立ち、自由な政治制度に適応したのは、モンテスキューが指摘している信仰と何らかの関わりがあったと考えられないだろうか」。このようにしてマックス・ヴェーバーは、宗教という欠落変数によってイギリスでの民主主義と資本主義の発達を説明できることを明言している。 

 したがって、アンシャンレジームの崩壊と資本主義の台頭の関係を調べる際には、逆の院が関数と欠落変数バイアスの二つが発生している可能性を認識しなければならない。自然科学では、このような問題を解決するために実験を行う。たとえば、似たような国の集団ーどの国も制度の発達が遅れているなどーを編成したうえで、無作為に選んだ一部の国(「処置」群)ではアンシャンレジームを廃止して、残りの国(「比較」一群)では制度を残して結果を確認できれば理想的だろう。二つの集団の相対的な繁栄に何が生じたか観察することも可能だ。もちろん、実際にそのような実験を行えるわけではない。しかし歴史家や社会科学者は、歴史が時として提供してくれる「自然実験」を利用することができる。

 自然実験においては、何らかの歴史上の偶然や出来事をきっかけに経済・政治・社会的な要因が働いた結果、一部の地域には変化がもたらされるが、一部の地域では条件が同じでも変化が生じなかったと考える。もしも、変化の程度が異なる地域同市の比較が可能だとすれば、変化を経験した地域は実験の処置群、経験しなかった地域は対照群とみなしてよいだろう。

 アンシャンレジームの衰退に関しては、一七八九年のフランス革命後にフランス軍がヨーロッパの大半に侵略した出来事に注目し、それが制度にバリエーションを生み出した原因だったと仮定すれば、自然実験を行うことができる。フランス軍はアンシャンレジームの中心的な制度を廃止した。年貢や特権など、封建制度の遺産の数々を取り除き、ギルドを解散させ、法の前の平等を採用した結果、ユダヤ人にも自由が与えられ、教会の土地は再分配された。この経験に注目すれば、アンシャンレジームを支えてきた重要な制度の一部が経済成長におよぼした影響を推測することができる。ヨーロッパのなかでもフランス軍に侵略されて制度が改革された地域を「処置」群、侵略されなかった地域を「対照」群として分類すればよい。これならば、処置群の制度が改革される前後のふたつのグループの経済的成果を比較したうえで、改革が行われたグループのほうが豊かになっているかどうか調べることができる。それが確認されれば、制度の改革がその後の繁栄に貢献した証拠が提供されるだろう。