2023年9月17日日曜日

20230916 歯科技工について(試作文章)

歯科技工士は歯科医療分野の専門職のひとつであり、専門学校や短期大学や大学での養成課程を修了して、国家試験を経て免許取得に至ります。その主な職務内容は、歯科医師の指示に基づき、来院された患者さんのために歯科補綴装置を製作することです。そのため、歯科技工士は歯科材料や補綴装置の製作技術に詳しく、また、歯の解剖学的な形態やその特徴なども熟知している必要があります。その存在は決して目立つものではありませんが、歯科医療においては必要な存在であると云えます。

また、かねてからの我が国の社会全体の高齢化の進展に伴い、入れ歯や銀歯などの補綴装置の需要も増加しており、そこから、歯科技工士の重要性が増しているとのことです。

多くの場合、歯科技工士は歯科技工所で働きます。ここでは、各種歯科補綴装置の作製が行われ、歯科技工士の約7割が勤務しています。また、一部の歯科医院には歯科技工室が設置されており、ここで働く歯科技工士も約2割ほどいます。さらに歯科関連の企業などにおいても、多くはありませんが技術職や営業職として勤務している歯科技工士もいます。

歯科技工士は独立して開業することも可能であり、歯科技工所での勤務経験を経て、独自の技術を研鑽して独立される方々もおられます。また、その場合、新たな雇用を創出して歯科技工士の育成にも寄与することが出来ます。

とはいえ、歯科技工士の職業には、いくつかの難問があります。それは、高い離職率や後継若手技工士の不足、そして養成機関の閉鎖といったものであり、比較的近い将来、歯科技工士の需要と供給のバランスが崩れてしまうといった懸念も現実的であると云えます。

また、近年、歯科技工はデジタル化(DX)による影響を強く受けており、くわえて、CAD/CAMや3Dプリンターといった、現在、巷を賑わせている新技術も続々と導入されておりますが、これからの歯科技工士は、こうした新たな技術体系全般に、ある程度は適応する必要があると云えます。

こうした新技術の導入や、若年人口の減少により、歯科技工士養成校の閉鎖が続く一方で、歯科衛生士の養成機関は新設が相次いています。この、ある意味対照的とも云える状況は、おそらく、歯科技工士と歯科衛生士の専門職としての性質の違いに起因しているのではないかと思われます。歯科衛生士は臨床にて患者さんと接する機会が多く、また、養成課程もそれに合わせています。一方、歯科技工士は各種歯科補綴装置の製作に専念し、対人的な要素は少ないと云えます。

将来、歯科技工士の養成機関がどのように変化するかについて、その具体像は未だ不明ではありますが、デジタル化の進展とともに、その役割は歯科医療において、もう少し重要なものになるのではないかと思われるのですが、現実的に考えますと、歯科技工は、歯科衛生士の一職分となるのが妥当ではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?


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2023年9月15日金曜日

20230914 株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会 pp.101-104より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会
pp.101-104より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061495755
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061495753

 スターリニズムの支持者は、本当はそれが嘘であることを知っている。しかしだからこそ、彼らはそれを信じるふりを止められない。実質と形式のこのねじれた関係は、コジューヴが「スノビズム」と呼んだ態度と同じものである。

スノッブでシニカルな主体は、世界の実質的価値を信じない。しかしだからこそ、彼らは形式的価値を信じるふりを止められないし、ときにはその形式=見かけのために実質を犠牲にすることもいとわない。コジューヴはこの「だからこそ」を主体の能動性として捉えていたが、ジジェクは、その転倒はむしろ主体にはどうにもならない強制的なメカニズムだと述べている。人々は無意味だと分かっていても切腹を行い、嘘だと分かっていてもスターリニズムを信じる。そしてそれは嫌でも止められないのだ。

 ジジェクの理論によれば、この逆説は人間心理の原理に関係している。したがって彼の著作を読むと、「だからこそ」の転倒は、ギリシャ哲学からヒッチコックやコカ・コーラまで、あらゆる時代のあらゆる場所で確認されるように記されている。

 しかし筆者の考えでは、そのような普遍性はいささか疑わしい、ここでその詳しい根拠を述べる余裕はないが、ただひとつ。「イデオロギーの崇高な対象」のシニシズム論が、そもそも、ドイツの批評家、ペーター・スローターダイクが83年に出版した「シニカル理性批判」のうえに作られていることには注意しておきたい。スローターダイクが検討したシニシズムは、あくまでも20世紀の現象である。彼はつぎのように記している。 

 第一次世界大戦は、近代シニシズムの転回点を意味する。大戦によって旧来の素朴に対する腐食・分解が本格化する。たとえば戦争の本質や社会秩序、進歩、市民的な価値、要するに市民文明全般の本質についての素朴な見地が崩れてゆく、この戦争以来、ヨーロッパ諸大国を覆うこの散乱した分裂症質の風土が晴れたためしはもはやない。[中略]すべての『肯定』はこれ以後『されどなお』でしかなく、それとて底のほうでは潜在的な絶望によって浸食されている(注41)。

 第一次世界大戦の経験とその結果訪れたヨーロッパの荒廃は、啓蒙や理性に対する19世紀的な信頼を徹底的に壊してしまった、筆者の考えでは、ジジェクのシニシズム論は、彼自身の主張とは異なり、人間の普遍的原理というより、むしろこの戦争の結果生まれた「20世紀の精神」の分析として精緻にできている。これはある意味で当り前で、というのも、彼が頻繁に参照するフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの理論そのものが、じつはその同じ大戦の経験から導き出されたものだったからである。たとえばラカンはフロイトのなかでも晩年の仕事(死の欲動や反復強迫)に注目していたが、それらはまさに第一次大戦中から戦後にかけて生み出されたものだ。さらにまた、フロイトに加えて彼に影響を与えたハイデガーの哲学やシュールレアリスムの運動も、すべて同じ時代に生まれている。したがって、前述のようなジジェクの分析は、じつは、第一次大戦によって生まれた現実(冷戦期のイデオロギー)を、同じく第一次大戦によって生まれた理論(ラカン)で説明する試みだったことになる。ここで具体的に紹介できないのが残念だが、ジジェクの様々な文化批評や社会批評は、このような距離を取って読めばきわめてよく練り上げられている。彼の著作では、ほとんどの現象がシニシズムの転倒により説明されるのだが、じつはそれは過ぎ去った20世紀、私たちの社会がまさにシニシズムに支配されていたことの反映なのだ。

2023年9月12日火曜日

20230911 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.292‐294より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.292‐294より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188498
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188498

現在のSNSのユーザーは(とくに日本では)、しばしば「本アカ」と「裏アカ」を使い分ける。前者は、ユーザーの実名と紐づけられ、現実の友人や知人も読むものと見なされているアカウントで、後者は、実名から切り離され、匿名でだらだらと好き勝手なことを書いてよいと見なされているアカウントである。

 この区別を援用して説明すれば、ギブスンが描いたのは、いわば本アカと裏アカがきちんと区別できている世界である。本アカは現実のぼくたちが運営し、裏アカは電子的な分身が運営している。サイバースペースへの「没入」とは、つまち裏アカへのログインだ。サイバースペースの比喩に引きずられた1990年代の情報社会論は、裏アカの確保がいかに人間を自由にするか、その肯定的で解放的な側面ばかりを強調していた。そして、それはまた、主体の分裂を夢みるぼくたちの時代にとって、いかにも都合のいい言説であったのである。ネットワークはぼくたちを「分人」にしてくれる、万歳!というわけだ。

 けれども、2017年のいまでは明らかなように、情報社会の怖さというのは、まさにその夢が夢でしかないこと、すなわち本アカと裏アカの使い分けがだんだんとできなくなっていくことにあるのである。本アカと裏アカの使い分けはしばしば失効する。実名が暴露され「炎上」する。そのような光景は日常茶飯事である。しかしそれだけではない。より恐ろしいのは、本アカと裏アカの使い分けを、その使い分けをしているはずの当人もだんだんできなくなっていくことだ。虚構で毒を吐き続けていれば、やがて現実にも影響を及ぼす。ひとはそんなに器用に「分人」にはなれない。分身が裏アカで吐いた毒は、まさに不気味なものとして本体に貼りつき、少しずつ本アカのコミュニケーションにもゆがみを与えていく。ぼくたちはいま、まさにそのような事例をヘイトやフェイクニュースの隆盛というかたちで日常的に目にしているように思われる。

2023年9月11日月曜日

20230911 某芸能事務所についての報道から、および当ブログの休止期間について思ったこと

ここ最近また、ブログ記事の作成を休止していました。その間に何度か「ブログ記事を作成したい。」といった思いも生じましたが、まだしばらくは基本的には記事作成を休止する予定であることから、この期間は敢えて作成しませんでした。そうしたこともあってか、ここにきて時折、より大きな、記事作成への欲求を感じるようになりました。

それは、これまでにあまり感じたことのないものであり、期せずして、当ブログ開始当初の頃の感覚が思い起こされました。そして、これをしばらく継続しますと、より大きな自らの変化、あるいは、より大きな記事作成への意欲の鉱脈などを見出すことも出来るのではないかと思われるのです。

それ故、今しばらくは記事作成を休止するつもりです。これまでの8年間、平均しますと10日間のうち7日は記事作成を行ってきましたので、目標到達から4カ月ほど経った現在であってもブログ記事作成に関しては、まだ休止・休養期間であって良いと思われます。自分を奮い立たせて記事作成を行うことも、おそらくは可能であるとは思うのですが、おそらくそれでは継続することは出来ないと思われます。また、現状から考えますと、おそらく今後、少なくとも2100記事程度まではブログ記事を作成することになると思われますので、そのためにも、現在であれば休養を優先した方が良いのではないかと思われるのです。

しかし、それでもこうして現在、記事作成を行っているのですが、これもまた以前に触れましたが、休止・休養期間であっても、時々は記事作成を行っていた方が文章作成能力の低下などは避けられるといった実感もあることから行っています。そして、その記事作成のタイミングについては、自らの感覚に委ねており、本日は「久々であるため記事作成をしようか・・」となり作成している次第ですが、特にスランプに陥ることなく、ここまで比較的スムーズに作成することが出来ています。また、こうして久しぶりにブログ記事の作成を行っていますと、文章を考える頭脳の方ではなく、何やらキーボード上の指の方が、ブログ記事の作成をよろこぶような感覚もあり、それはそれでなかなか面白い感覚であると云えます・・。

また、そうした感覚を、来るブログの本格的な再スタート後に繋げるためにも、やはり今しばらく当ブログは休止して休養を優先したいと思います。とはいえ、ほぼ一週間ぶりに記事作成を行い、この程度までスムーズに文章を書き進めることが出来たことは、やはり、これまでの休養期間によるのではないかと思われます。

そういえば、先日来の我が国の某芸能事務所を巡る報道を動画サイトなどで視聴していたためか、一昨日の睡眠時に司馬遼太郎にある短編小説が思い出されました。それは同著者による短編「人斬り以蔵」などと比べると、比較的地味な作品であると思われます。作品の題名は「牛黄加持」というのですが、この作品の内容は忘れて、言語で説明出来る状態ではありませんでしたが、昨日出向いた先にあった書店にて当作品が収蔵された文庫本を購入して、早速、移動の電車内にて読みましたが、そこで何故、夢に当作品が出て来た理由が判りました。また、これをはじめて読んだ頃の私の理解は、意外にも深かったのかもしれないと思われました。少し気になりましたら、文庫本ですので、購入しても昼食代を何日間か少し削れば大丈夫であると思いますので、是非、購入して読まれてみては如何でしょうか?

また後日、当ブログの引用記事として作成したいとも思います。ともあれ、ここ最近はさきの司馬遼太郎による作品「牛黄加持」ではなく、いわゆる思想書に分類される著作を読んでいたため、おそらくは少し脳の方が疲れ気味でしたが、司馬遼太郎の著作であれば、読み始めますと比較的集中して読むことが出来ることが判りました。小学生の頃から現在に至るまで、同一の作家による作品を読み続けておりますので、読み始めますと、ごく自然とその文体に乗せられるのではないかと思われますが、またこうしたことは、人との会話においても同様にあるのではないかと思われますが、さて、こちらも実際のところはどうなのでしょうか?

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2023年9月4日月曜日

20230904 株式会社東洋書林刊 セバスチァン・ハフナー著 魚住昌良監訳 川口由紀子訳「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」pp.61‐64より抜粋

株式会社東洋書林刊 セバスチァン・ハフナー著 魚住昌良監訳 川口由紀子訳「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」pp.61‐64より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4887214278
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4887214279

さて次はいよいよフリードリヒ大王である。大王の言葉、「王は国家第一の奉仕者なり」は良く知られており、しばしばいろいろに関連づけて用いられている。しかしフランス語の初稿では、後にしばしば用いられているように「奉仕者」ではなく、「下僕」-「国家第一の下僕」となっていたことはあまり知られていない。「下僕」となると、この言葉は突然まったく別の響きをもち、やはりいろいろなニュアンスでくり返されているもう一つのフリードリヒの言葉、「私は、出生という盲目的な偶然によって定められたこの仕事がどんなに嫌わしいことか!」を想起させるのである。

 フリードリヒは生まれからの文人であり、「哲学者」(今日ではさしずめインテリとでも言おうか)であり、ヒューマニストであった。それゆえ皇太子時代には、父とのすさまじい葛藤があった。ここでは、それについてはくり返し述べるつもりはない。フリードリヒ大王はその後半生に着用した専用の制服のことを、初めのころ、いまいましげに「死の作業着」と呼んでいた。

 フルート奏者、芸術愛好家、啓蒙主義者で人間愛に満ちた「反マキャベリスト」、ヴォルテールとの昵懇な友情、即位の際に矢継ぎばやに出された人道的な公布のかずかずー拷問の廃止(例外つきの)、「新聞は自由に書いてよい」、「わが国では、誰もが自分の流儀で暮らしてよい」-これらは決して仮面でもなければ、気まぐれのおおらかさでもない。これが真のフリードリヒであり、彼本来の姿である。

 フリードリヒは、彼が宿命と見た「大嫌いな仕事」のためにそれを犠牲にした。より具体的に言えば、彼に権力政治を行わせ、戦争・戦闘を行わせ、領土を強奪させ、同盟や契約を破棄させ、まがいものの金貨を造らせ、彼の臣下や兵士、わけても彼自身に、その能力を最大限に発揮することを要求したプロイセンの国家理性のために、つまりプロイセン王であることのために、である。

 フリードリヒはそのためにひねくれた人間となった。父のような狂暴な人間にはならなかったが、氷のように冷たい皮肉屋となり、周囲の者を手こずらせる意地悪な気むずかし屋となった。人を愛さず、人に愛されず、自分自身におそろしくなげやりで、身だしなみが悪く、身ぎれいでなく、いつも同じ着古した制服に身を包み、それでいてつねに才気に溢れ、しかし絶望的な否定の精神に包まれ、心の奥底は不幸で、しかも休みなく働き、つねに仕事に向かい、つねに職務に忠実で、自分の忌み嫌う仕事に疲れを知らず、ずたずたに引き裂かれた心を引きずりながらも、息をひきとる最後の瞬間まで一人の偉大な王であった男ーこのような人間に、彼はなったのだ。

 ここでぜひフリードリヒの著作の中からー王の著作は二十五巻あるが、不当にも今日ほとんど読まれないままになっているー彼お心の奥底を垣間見せてくれる一節を引用しておきたい。一通の私信からの抜粋である。

「私が天意ということを口にしないのは、私の権利やもめごと、私個人、国全体といったものが天意を引き合いに出すにはあまりにも卑小な対象だと思うからだ。くだらない愚かな人間の争いなどは、天意を煩わせるに値しない。それはまた、神はシェレジェンがオーストリアやアラブ人やサルマチア人[往時、中央アジアに住んだイラン系の遊牧民。象徴的にポーランド人]のものであるよりはプロイセンのものであるために奇跡を起こすようなことをして下さらないだろう。それゆえこのような厳粛さのないものに、かくも聖なる御名を私は濫用しないのだ。」

 フリードリヒは実際そのように考えていた。とはいいながらフリードリヒは、この厳粛さのないもののために無数の人の命を、そしてある意味では自分自身の命をも犠牲にしたのである。

 これを皮肉だと感じることもできようし、あるいは感動的だと感じることもできるだろう。フリードリヒは英国人の言ういわゆる「とっつきは悪いが、だんだん好きになる(acquired taste)タイプの人間で、初対面では反撥を感じさせるが、いったん親しくなった人は彼の虜になり、愛とは呼べないまでも、もしかすると愛よりも強いある種の感情を呼び起こさせる。過去の大いに誇張された愛国的でへつらい敬うような追従によって、「老フリッツ」は人気のある逸話の英雄にまつりあげられている。実際のフリードリヒを知悉すればこれはまったく滑稽でしかないが、今日ではむしろ一般的となっている大王の記念像に爪を立てる誹謗も、妙にフリードリヒから逸れている。どんなに必死に引きずり降ろそうとしても、フリードリヒにはそれは通じない。フリードリヒはそうしたことをすべて誰よりも承知していた。どんなに悪く言われようとも、フリードリヒは結局昔も今も魅力的な存在でありつづける。

2023年9月3日日曜日

20230903 サルコペニアについて(試作文章)

「サルコペニア」は、筋肉の減少を指す用語で、1989年にアメリカの学術雑誌で初めて提唱された言葉です。この言葉は、ギリシャ語の「サルコ(sarx/sarco)」(筋肉)と「ペニア(penia)」(喪失)を組み合わせたもので、加齢に伴い運動機能や認知機能の低下と関連する虚弱(フレイル)とも深い関係があります。

サルコペニアに関しての研究では、高齢者のたんぱく質摂取について注目されることが多いですが、そうした研究から、たんぱく質のサプリメント単独では十分な筋肉増加が得られないことが分かっています。また、たんぱく質のサプリメントと筋力トレーニングの併用であっても、有意な筋肉増加がないことが確認されています。同様に、さまざまな生活能力の指標を用いた研究でも、サプリメントと筋力トレーニングの組み合わせには、有意な効果を示すことはありませんでした。

かねてより我が国は先進諸国のなかでも比較的平均寿命が高いですが、他方、近年、我が国では低栄養や不適切な食生活などが問題となっています。特に高齢の方々は、摂取する栄養や、それらのバランスが偏りがちであり、そこから体重減少、筋肉減少、免疫力低下などを引き起こす可能性があります。低栄養は高齢の方々に対してはとくに、健康や生活能力に悪影響を及ぼす要因であるとされています。我が国の食生活の変化により、高齢の方々も低栄養に陥りやすく、これがフレイルや生活能力の低下そして感染症のリスク増加につながる可能性があります。

サルコペニアとフレイルは、低栄養が共通の要因であることが指摘されており、栄養状態の改善が対策の鍵とされています。また介護分野の視座からは、低栄養による疲労感、活力低下、筋力低下、歩行速度低下そして活動量の低下などが、介護リスクを増加させるため対策の必要性が高まってきています。

最後に、栄養学の観点からは、伝統的な食事パターンが認知機能の維持に寄与していることが指摘されており、我が国であれば、伝統的な和食の食事習慣が同様に、認知症のリスク低減に寄与していることが示唆されています。

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2023年8月28日月曜日

20230827 歯科医療と栄養管理との連携について(試作文章)

近年、高齢者人口の増加もあり、口の健康に対する歯科医療のアプローチ変化してきたと云えます。以前であれば、歯科医療は主として口の機能向上に重点が置かれていましたが、近年の変化として、栄養摂取効率の改善も同程度に重要視されてきています。また実際に、口の機能に問題があることと栄養不足との関連性も報告されています。

さて、高齢の方々の健康寿命の延伸のためには、筋肉の減少やフレイル(虚弱化)への対応が大切になってきます。たとえ、口の機能に問題がある場合であっても、安全な調理方法や、栄養バランスを考慮したアドバイスによって、十分な栄養を摂取することは可能です。そのためにも、歯科医師や歯科スタッフは、栄養についての基礎的な知識を備え、そして管理栄養士との連携が必要になってくると云えます。

医療や福祉全般の視座から見ても、口に問題を抱える患者さんの治療には、歯科医師や医師、介護スタッフなどが連携して取り組むことが重要になってきます。また、退院後も、歯科医療スタッフと管理栄養士が協働してリハビリや栄養管理に取り組むことが求められます。くわえて、健康診断でも食事に関する質問が増えており、そこからも歯科医療スタッフには栄養学についての基礎知識が必要であると云えます。

しかし、現状では、口の問題を抱える患者さんへの歯科医療と管理栄養士との連携が不十分であるケースも数多くあります。この問題に対処するため、日本老年歯科医学会では、歯科医療スタッフと管理栄養士との連携を強化して、相互の専門知識向上のための研修を提供することを検討しています。そして、この連携により、我が国の健康寿命延伸に貢献することが期待されます。

しかしながら、歯科医療の視点からは、噛む機能改善に適した食事の提案は依然として重要であると云えます。このためにも、やはり、歯科医師をはじめとする歯科医療スタッフと管理栄養士の協力が不可欠になります。また、とくに昨今、食事や栄養に関する問題は、歯科医療サイドからも関心が強く、医師や管理栄養士をはじめとする医療スタッフの方々とも協力して、治療にあたることがもとめられます。そしてまた、地域の栄養サポートチーム(NST)にも、歯科医療からの関与が求められます。とはいえ、現状としては、食事や嚥下障害に関する栄養指導や管理栄養士の連携が医療・介護保険の対象外となる場合も多々あります。

他方で、歯科医療機関にて勤務する管理栄養士は増加していますが、そこでは、管理栄養士本来の栄養相談以外にも歯科助手や医療事務などの業務を兼務するケースが多いです。また、歯科訪問診療では管理栄養士が食事のアドバイスを提供することもありますが、こちらも、保険請求手続きの複雑さが課題となっています。

地域の食生活や栄養状態の改善や疾患再発予防のためには、管理栄養士の適切な関与が欠かせません。そして、その基盤を築くためには、歯科医療側も地域での活動の重要性を認識する必要があります。

昨今は、介護施設などで歯科医療と管理栄養士との(自然発生的な)連携が進んでおり、そして、地域における重要性が高まってきています。こうした取り組みには、地域での医療や福祉との連携が不可欠であるのですが、現状では、さらに多くの、こうした地域に根ざした管理栄養士の存在が求められていると云えます。

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