2023年6月24日土曜日

20230623 これまでのブログ記事作成の基層にあるもの②

昨日より本日にかけて、所用のため和歌山市に訪問しました。今回の和歌山訪問は滞在期間が短く、市内を巡るほどの余裕はありませんでしたが、所用の方はどうにか達したと思われます。

先日投稿のブログにて書きました通り、やはり移動をしていますと、ブログ記事の題材となる、さまざまな想念などが、比較的よく生じるようであり、今回の記事作成に関しても、身体的に少し疲れ気味でありつつも、何かしら書いておこうと、先ほどから作成を始めた次第です。また、当記事の作成後に、いくつかのメッセージや文章を作成する必要がありますが、本日に関しては、どうしたわけか、この夜半を過ぎた時刻であっても、あまり気落ちせずに記事作成が出来ています。

あるいは、昨日からの和歌山への訪問によって多少活力が戻ったのかもしれません・・。そういえば2012年以来、概ね半年毎に和歌山市を訪問させて頂いていますが、市内の閑散とした様子は、総じて年を追う毎に強くなり、今回の短い滞在であっても、やはりそれを感じました。

しかし他方で、和歌山市は、その南の紀三井寺・海南方面や、東の紀ノ川上流(吉野川)方面からの自然豊かな環境の大気が流入する地域であるためか、何と云いますか、大気に自然の薫りが濃厚であり、まさしく「空気が美味しい」と感じられる場所であると私見ながら思います。

そして、その大気の薫りは、南紀のそれとも相通じるものがありますが、南紀の方がより野性的で、自然の薫りが濃厚であるように思われます。そして、そうした環境の中でしばらく在住していますと、コンラッドの「闇の奥」にもあったように、こちらの内面の方に何か変化が生じるのではないかと思われるのです。

私の場合、そうした環境にて、読書や勉強の延長のような活動を何となく続けていたことが、その後に意外と大きな影響を及ぼしたのではないかと思われるのです。そして、その後の和歌山市に在住した人文系の院生時代では、それまでではないほどに書籍を読み、それは、たしかに面倒なこともあり、また辛いと感じることも度々ありはしましたが、それでも全体としての和歌山市での人文系の院生生活は、読書や議論など体感を通じて学ぶことが出来た、大変有益で充実した期間であったと云えます。

あまり人から聞くことはありませんが、人文系での大学院修士課程で自分が扱ったテーマ、およびその周辺領域については、かなり強く記憶に残るものであると思われます。

実際に私も、当ブログ開始当初の頃「何をテーマにブログ記事を作成すれば良いか・・。」と考えて、修士論文の一部に加筆した文章を幾つかに分けて複数のブログ記事として投稿していました。

これは、以前に書籍や資料をあたって調べた情報を、脈絡とまとまりのある文章(修士論文)にしたものに、あらためて加筆をしてブログ記事にしたということになりますが、ここで大事であると思われるのは、以前に、自らの手で、ある程度精魂を込めて作成した文章がデジタル情報として、比較的気軽に読むことが出来るようになっていたことであると思われます。

そして、そうした気軽に閲覧可能な自らのの作成した文字情報(ブログ記事)が、ある程度蓄積しますと、それらの蓄積したブログ記事が、自らの記憶を参照する際の補助機能(データベース?)を持つようになるのではないかと思われるのです。これは先日の2000記事到達以前から度々思っていたことですが、これについては未だ明文化出来る状態ではありませんが、また以降、こうしたことも考えて、ブログ記事を作成出来ればと考えています。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2023年6月21日水曜日

20230620 これまでのブログ記事作成の基層にあるもの

先月5月27日(土)当ブログの総投稿記事が2000記事に到達して以来、本日にいたるまで、新規の自らによる独白形式のブログ記事を作成してきませんでした。

その間、やはり「自らの文章によるブログ記事を作成したい・・。」と思うことは度々ありましたが、特に強いものではなく、またそれは、徒歩や電車での移動時に訪れることが多かったです。

以前、当ブログ開始当初の頃(2015~2016前半)であれば、そうした折に訪れた想念・考えを、手持ちのメモにペンで記録しておき、帰宅後にメモ帳を開き、乱暴に書かれた文章をなかば解読するように思い出し、そして、キーボードでPC上の文章として入力していましたが、この、しばらくの期間継続した習慣は、ブログ記事の作成を強く促す内的衝動の結果、いわば苦肉の策としてはじめられたものでした。

またこれは、それ以前のホテル勤務であった頃から身に着いたものでもあり、再び何らかの目的を設けて実施することはあまり苦にはなりませんでした。やがて、この習慣をしばらく続けた2016年の半ば頃、どうしたものか、昼間に書いたメモを読み返すことなしに、それに該当する昼間の記憶がよみがえり、そして、それをどうにか文章化することができるようになり、他方でブログ記事作成のためにメモとペンを用いることは少なくなりました。

以来、こうした独白形式のブログ記事の文章は、PC前に座り、しばらくしますと、何となく作成し始めて、やがて徐々に興に乗り、集中することが出来るようになりました。

この、ある程度身体化された習慣もまた、さきのメモとペンと同様、それ以前の人文系・歯系の院生時に身に着いた習慣と云え、オンライン辞書を用いてPC前で英論文を翻訳しつつ読み進めたり、さらに以前の経験であれば、映画作品を英語字幕にして観つつ、興味深い、あるいは仕事で使えそうなセリフの場面で一時停止をして、その口語文章を構成している単語を手持ちの辞書や電子辞書を用いて調べつつ(チンタラ)勉強らしきことを遊び半分で行っていた南紀白浜のホテル勤務時の経験もあったのではないかとも思われます。

そして、これらの経験全てが噛み合いつつ駆動して、どうにか総投稿2000記事まで(どうにか)8年近く継続することが出来たのではないかとも思われます。またおそらく、来る6月22日までは当ブログは継続すると思われますが、その後、新規で目標を設定して、さらに当ブログを継続するのかは、考えてもいませんし、また現時点ではあまり考えたくありません・・(苦笑)。

とはいえ、以前の1000記事到達後も、いつのまにか当ブログを再開していましたので、あるいは我がことながら、今回もまた、そのようになってしまうのではないかという危惧があります・・。

また、さきに少し出ましたが1000・2000記事到達後の違いを思い返してみますと、1000記事到達と比べ、2000記事への到達は、私にとってかなり大きな負担となりました。そしてまたこの先、3000記事・・と考えてみますと、さきにも述べましたが現時点では、少なくとも、あまり前向きな気持ちにはなれません・・(苦笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


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2023年6月19日月曜日

20230618 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」pp.560‐562より抜粋

中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」pp.560‐562より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120023044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120023040

日本の古墳時代は、大きくとらえるならば、中国の華北と華中の分裂、対立の時代に存続し、髄から唐による統一の時代には、終末期をむかえ、やがて終わりを告げる。日本の古墳時代の成立や存続について、中国の国家からの政治的影響を強くみようとする説もあるが、私は基本的にはその見方は、こと古墳時代については、まったく逆であるとみている。

 ところで「海と陸のあいだの前方後円墳」において、大和や山城と海への交通路について一つの見通しを立てた。それは、簡単にいえば、日本海の要港敦賀津から近江、山城、摂津(北河内も)への交通路を中心にした淀川水系と越にまたがる一つの政治的まとまりで、文献的には”継体勢力の南下”といってもよいし、古墳としては、今城塚や宇治二子塚を重視した。また水運にたずさわる集団として、紀伊勢力と隼人を重視した。このうち紀伊勢力については、紀ノ川の水運と淀川の水運とが類似したものであることが、さらに注目される。 

 また短期間とはいえ、淀川水系と越の中継地として宇治の勢力についても改めて注目した。この時期、いいかえれば、紀ノ川の河口地帯に、左岸では岩橋千塚、とくに井辺八幡山古墳、右岸では大谷古墳などが造営されていて、大きな勢力をほこっているが、「日本書紀」では紀直の遠祖を菟道彦(うじひこ)としていて、その女影媛(むすめかげひめ)と大王家との婚姻関係も伝えている(景行三年条)。時代はともかくとして、宇治を根拠地とした淀川水系と紀伊勢力とのつながりを示すものとして注目される。

 継体勢力に象徴される淀川水系と越との地ーさらに日本海沿岸の各地ーが五世紀後半ごろから急速に発展し、とくに六世紀前半の古墳にはその時期として注目すべきものが造営されだすが、その背景には、東アジアでの高句麗勢力の強大化があるだろう。

2023年6月18日日曜日

20230618 中央公論新社刊 今井むつみ・秋田喜美著「言語の本質」 -ことばはどう生まれ、進化したかー pp.164‐165より抜粋

中央公論新社刊 今井むつみ・秋田喜美著「言語の本質」
-ことばはどう生まれ、進化したかー

pp.164‐165より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121027566
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121027566

実は、オノマトペの持つアイコン性には、二つの種類がある。一つは、ことばを覚える前の赤ちゃんでも感じることのできる、脳が自然と感じる音と対象の間の類似性である。もう一つは、解釈によって生まれる類似性である。前者が「似ているから似ている」なら、後者は「似ていると思うから似ている」と言ってもよい。

 「似ていると思ってしまう」原因は多数あるが、その中でも注目すべきは言語と文化の習慣で、とりわけ強力なのは、「同じことば」が適応されることである。ある言語で○と△が同じことば(単語)で表現される場合に、別の言語では異なることばで区別されることは頻繁にある。

 たとえば、日本語では「水」と「湯」は別のことばで区別される。英語ではどちらもwaterである。逆に、英語ではwatchとclockは区別されるが、日本語ではどちらも「時計」である。このように、ほぼ同じ意味を持つが、日本語では別のことばで言い分け、英語では区別しない概念のペアをたくさん用意して、それぞれのペアの類似度を日本語話者、英語話者に評価してもらった研究がある。予想どおり、日本語話者も英語話者も、自分の言語で区別しないペアのほうを、区別するペアより類似性が高いと評価した。つまり、日本語話者なら〈腕時計〉ー〈壁時計〉のペアを〈水〉ー〈湯〉よりも「似ている」と判断したのである。

 私たち人間は多様な基準で類似性を感じる。とくに二つのモノ(あるいはことば)が同じ概念領域に属していたり、あるシステムの中で同じ要素を持っていたり、接辞を共有していたりすると、それだけで「似ている」感覚は強くなることが実験的にも示されている。たとえば、〈イヌ〉と〈首輪〉、〈イヌ〉と〈犬小屋〉、〈懐中電灯〉と〈寝袋〉、はては〈サル〉と〈バナナ〉などは、非常に類似性が高いと評価される。

 つまり人が感じる類似性は、見た目が似ている、内部構造や関係が似ているなどのいわゆる規範的な類似性だけではないのである。いつもいっしょに現れる(使われる)もの同士にも類似性を感じるし、同じ接辞がつく、同じ重複の形で現れるなど、同じ形の言語パターンを見つけると、それだけで類似性を感じる。このような文化や言語によって作られた「類似性」は、音と意味の間の類似性(アイコン性)の感じ方にも影響を与える。

2023年6月14日水曜日

20230614 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 pp.202-205より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.202-205より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

本来、ナチスの防衛団であるSAを、その母体から生まれたSSが、どうして襲撃したのか?それについてはSAの成り立ち、以後の発展、指導者をたどらなくてはわからない。1919年のワイマール共和国誕生とともに、さまざまな政党が誕生した。共産党、社会民主党、国家人民党、中央党、国権党・・・。ひところは30にあまる政党が林立していた。絶えず離合集散し、多数派をつくって政権についても、たがいに足を引っぱり合って何ごとも決まらない。短命の政府があわただしく入れ替わる間に、天文学的インフレが進行し、一時はドイツ通貨が用をなさなくなった。

 当時の主要な政治的メディアはホールや広場での演説である。ラジオは始まっていたが、受信機が高価で、一般の人には手が出ない。党首が演台、あるいはベランダに立ち、長々と演説をする。それを支持者が取り巻いて、要所ごとに熱烈な拍手を送った。

 当然、反対党が妨害にくる。支持者が撃退に打って出る。政治集会がしばしば乱闘の場になった。そのころの写真は、広場を埋めた大群衆の一方で、つかみ合い、殴り合う山高帽や鳥打帽のむれを伝えている。

 おのずとどの政党も防衛団をそなえていた。極右団体にかぎらず、リベラルな党も屈強な若者をよりすぐって演説防衛隊をつくり、演台の周りに配置した。ワイマール憲法は、世界でもっとも民主的な憲法といわれたが、各政党はいずれも、前近代的な暴力組織に頼っていた。

 1921年7月、ナチスの臨時大会でヒトラーは党首に選ばれ、直ちに組織の改変に取りくんだ。これまで「整理隊」「秩序隊」「警備隊」などと呼んでいたのを「体育・スポーツ隊」に統一した。会場防衛が任務で、具体的には共産主義者の妨害を排除する狙いがった。「体育・スポーツ」の名称は無害化して目的をくらますためだったが、意味不明で意気が上がらないといった声が隊員から出てきたのだろう。二か月後の9月、「突撃隊(SA)」と改め、11月の党大会で正式に発表した。弱小政党ながら、それまでに何度か、集会場の乱闘で勝利を得ており、勇ましくて格好いい名称に昇格したわけだ。ヒトラーの古くからの盟友エルンスト・れーむが突撃隊指揮官についた。

 レームは1887年、ミュンヘンの生まれ。ヒトラーより2歳年長。第一次世界大戦では陸軍大尉であって、この点で伍長どまりのヒトラーのはるかな上官にあたる。軍事組織をつくる才能の持ち主だったのだろう。ミュンヘン一揆失敗のあと、党首ヒトラーが入獄中に「戦線団(フロントバン)」という3万人の組織をつくり、それをそっくり再建されたナチスの突撃隊として採用した。

 ヒトラーにとってはSAはナチスの下部団体だが、育ての親レームには、自立した軍事部門であり、いずれナチスが政権につくときには、国防軍を補助する予定だった。そんな両者が折り合うはずはなく、1925年4月、対立が激化してレームは突撃隊指揮官を辞任した。ヒトラーは党員ザロモンを後任に任命、レームはボリビアより軍事顧問に招かれ、ミュンヘンを去った。

 やがてナチスは国内の政情不安のなかで着々と勢力をのばし、1930年の国会選挙で第二党に躍進。この間、突撃隊は着実に増加したが、その一方で不満が高まってきた。薄給に据えおかれ、党員でありながら国会議員選挙の名簿にも加えられない。

 1930年8月には、ベルリンの東部SA副司令官が部下を率いて、ナチス・ベルリン大管区長ゲッペルスの選挙演説を妨害する事態になった。守るべき者が逆に妨害を引きおこした。ザロモンが辞任したが、責任をとったというより、いっこうに改善されない待遇を党本部に抗議するためだった。さしあたりヒトラー自身が指揮官を兼務しつつ、急遽ボリビアのレームに帰国を促し、あわせて突撃隊員の報酬増額を約束した。

 11月、レーム、帰国。ナチスの要請に答えたもので、SAの指揮官はSSに命令する権限を持たない。独立を強調するため、SS独自の黒い制服を定めた。

 以上が「長いナイフの夜」の前史にあたる。この間の三年間にレームの育成のもと、突撃隊は300万を数えるまでに増大した。国防軍をはるかに凌駕する勢力である。ヒトラーが権力を掌握し、全権委任を取りつけて二年目。1934年の初頭から、出所不明の不穏な風評がひろまっていた。SAが武装蜂起するというのだ。

2023年6月12日月曜日

20230612 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.10-12より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.10-12より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880


日本の18世紀において絶えず進んだ過程は、学校教育の普及である。幕府は教育を奨励し地方政府もその経営する学校(藩校)を新設した。この傾向は、ことに18世紀後半に著しい(創立年代のあきらかな278校のうち、18世紀中葉以前の創立は、40校にすぎず、18世紀後半の創立は80校に及ぶ。すなわち18世紀後半の50年間は、それ以前の150年間の2倍に相当する速さで、藩校を新設したということになる。笠井助治「近世藩校に於ける学統学派の研究」上、吉川弘文館、1969、72頁、参照)。藩校は武士の子弟の教育を目的とし、その教育の内容は次第に実用的なものになろうとしていた。

 ただし地方政府も有能な官僚の必要を自覚しはじめたからであろう。その結果、後述するように、武士知識層に専門分化の傾向を生じたのである。他方幕府は、武家ばかりでなく、一般町人にも官立学校の一部を開放し(昌平坂学問所の一般人向け講座開設、1718)、町人のための私塾を援助して、官立に準じるものとした(江戸の会輔堂、1723、大阪の懐徳堂、1725)。また京都の町人を対象として開かれたいわゆる「心学」の塾(1729)は、18世紀後半に至ると多数の人を集めて、全国的な支部をもつようになった。「寺子屋」の初等教育を除いて、武家・僧侶による教育の独占は、18世紀に破られたのである。もしこの世紀を町人の時代と称び得るとすれば、その背景は、上層・中層の町人(および)一部の農家)にとって、高等教育が手のとどくものになったということにほかならない。町家出身の学者は輩出したばかりでなく、その思想の独創性において、武家出身の知識人を圧倒するようになった。 

 この時代を通じて絶えず繰り返された現象は、農民大衆の蜂起である。18世紀を通じて、「一揆」・「とりこわし」の有名なものだけでも35件以上、「強訴」・「越訴」の類を加えると、70件に及ぶ。動員された農民は、しばしば数千人、稀には数カ国にわたって数十万人の参加したことさえある(たとえば「伝馬騒動」、1764年12月~65年1月、には、武蔵・上野・下野・信濃の中山道沿いの村民、20万人以上が加ったといわれる)。原因は多くの場合に、飢餓と絡んで年貢米や米の買溜めに係っていた。その背景には、商品経済の発達と全国市場における米価の著しい動揺があり(幕府は米価が下落すると、商家に米を買支えさせ、価格が上がると、買溜めの商家を罰し、数年毎にそれを繰り返していた)、また年貢米に依存する武家の財政難とそれに伴う取立ての強化があったろうと察せられる(徳川時代に幕府が繰返した「改革」は、いずれも「倹約」を主要な「プログラム」の一つとしていた。また徂徠の「政談」以来、儒者の献策として今なお残るもののなかに、中央または地方政府の財政難の対策を説かぬものは少ない)。一揆の結果は、支配者側が農民の要求(年貢米の軽減、代官の交替など)を容れた場合にも、容れなかった場合にも、武力弾圧と農民指導者の処刑であった。徳川時代の全体を通じて知られている百姓一揆は、3000件に近いというが(2967件、年平均10.6件、青木虹二「百姓一揆の年次的研究」)、そのいずれも武家独裁の体制の変革をもとめたのではなく、その体制を前提として局地的な政策をもとめていたということは、この国の事情の中国や欧州とのちがいを示している。太平天国の乱や農民戦争はおこらなかった。しかし一揆とは性質のちがう大衆運動に、18世紀以後数度繰返された「おかげ参り」(または「抜け参り」)もある。町家および農家の妻女子弟や下男下女などが、夫や親にも告げず、領主の「往来手形」も持たず、しばしば旅費さえも調えずに、集団的に伊勢神宮の旅へ出かけた現象である。その数およそ数百万(1705年と1771年の「おかげ参り」では、2・300万とされ、1830年には、500万人ほどが参加したといわれる)。ここにも抑圧された大衆感情の発作的な表現があった。

2023年6月11日日曜日

20230611 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.242-244より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.242-244より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

対馬の島影は、古代からこの海を渡った人々にとって、きわめて印象的だったにちがいない。「万葉集」巻一に入唐使節団を送る春日蔵首老の歌が一首のっている。

 ありねよし対馬の渡りわた中に幣とり向けて早かへり来ね

「ありねよし」は対馬の枕言葉とされているが、これは海上から対馬に近づく人々の実感をきわめてよくあらわした言葉である。海上十里くらいのところから見た全島の姿(もっとも、上島の方は霞んで見えないのが普通だろう)の中心をなしているのが「有嶺よし」と歌われた有明嶽(558メートル)である。その左手にやや遠く対馬第一の高峰矢立山(649メートル)がそびえているが、これは島の左手に偏っており、稜線が有明ほどに流麗ではないので、船人の眼にひきつけるポイントになりにくい。対馬の国府厳原は、ちょうどこの有明の真下にいだかれている。

 船は、壱岐の勝本に20分ばかり寄港したのち、針路をやや北に向けて、いよいよ厳原に向かって直行する。かつて、バルチック艦隊が二列縦陣を作って北上した東水道である。壱岐海峡では明るいブルーに輝いていた海流が、ここではほとんど黒く見えるほどの紺色にかわる。

 後方には壱岐の島影がしだいに霞みはじめたのに、行手の対馬の島影はなお模糊として遠いというあたりでは、「夫木和歌抄」にあるという古歌の心がそのままに現代人にも了解されるであろう。

 漕出る対馬の渡り程遠み跡こそかすめゆき(壱岐)の島松

 たしかにこの海上では、古代の人々の心がまざまざと想像される。先史時代から日本と大陸とを結ぶ海上交通の要路に当たっていたために、「百船の泊つる」津の島と万葉にも歌われたこの島への道を、古来、幾千幾万の人々が渡って行ったかもしれない。三世紀に書かれた「魏志倭人伝」に、この島に夷守とよばれる国防官庁の支所がおかれていたことが記されているが、その後の遣外使節団の人々も、兵団の将兵たちも、多くはこの海を渡って対馬に着き、浅茅湾の船待ちして、やがて外洋へと船出して行ったのである。

 こうした海上の往来の途上、おそらくは幾つもの大事件がもち上がったはずである。そしてそれらの事件の記憶は、幾つもの神話や伝説にその姿を変え、それらはさらに複雑に習合しあって、今もこの「神々の島」とよばれる対馬各地の津々浦々にあるおびただしい神社の縁起として伝えられている。また、そのあるものは、歌に詠まれ、たまたま歌集に収められることによって、今もなお私たちの想像力に強い刺激を与えることになった。「万葉集」巻十六に収められた「筑前国志賀白水郎歌十首」なども、海上に起こった無数の人間の冒険や悲劇のほんの一端を示すものにほかなるまい。

 大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る

 荒雄らは妻子のなりをば潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも

万葉の註記によれば、神亀年間(724-728、聖武天皇の代)大和朝廷が朝鮮半島に対する国防前線として、また兵站基地として重視していた対馬に、糧食を送る官吏の役目を自らすすんで代行した志賀島の海人荒雄の遭難を悼んで作られた歌である。作者は筑前国守山上憶良とも伝えられているが、こうした海上の悲劇の実感は、現実にこの海を渡るとき、いっそう生々しくよみがえってくる。最後の歌など、この海の澄みきった海中をのぞくとき、むしろ悲痛な凄味をさえ感じさせるであろう。

 ともかく、現在考古学的に確認されているところでは、対馬にはおよそ四千年前から人々が住んでいたといわれる。そして、それら先史時代の人々の遺品は、対馬が縄文式文化圏の西の辺境をなしていたこと、つまり、対馬原住民が、早くから日本列島の文化圏に生きていたことを示している。この島に「高御魂神社を始めとして、別天神、神代七代、橘水門、三貴子、綿津見宮、出雲国作り、大八島最初の県直以下の神々が揃いも揃って鎮座せられている。この事実は、実に古事記から見た日本建国の縮図である」(「新対馬島誌」)といわれるのも、いかにもありうべきことと思われる。