2024年10月21日月曜日

20241020 株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」 pp.38-40より抜粋

株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」
pp.38-40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582447074
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582447071

 ポーランド人とハンガリー人の間では、ジェントリーー非常に大人数で、他の民族においてはこれに相当するものがほとんどなかったーが、中産階級にとって代った。彼らは民族主義的革命勢力として、中産階級よりもはるかに効果的であった。というのは、彼らは何世代にもわたって軍人教育を受けており、戦士の精神と伝統を持っていた。貴顕の有力者とともに、国政において権力を独占していたジェントリーは、民族主義思想の唯一の主唱者となった。さらに、ポーランド人のジェントリー国家は、リトアニア、白ロシアの地主階級と、ウクライナの地主階級の大部分を同化し、ポーランド農民の住む地域のおよそ三倍を覆ったことがあったので、ポーランドの偉大さは、ジェントリーによる階級支配と密接な関係を持っていた。多少異なっていたものの、ハンガリーでも同じことが言えた。しかし、ポーランド人ジェントリーと農民との間の隔たりは格段に大きかったので、ポーランド語を話す農民たちは大体において、自分たちが自分たちの主人と同じ民族に属すとは見なさなかった。一八四八年とその後半世紀近く、オーストリア系ポーランド人の主たる指導者の一人であったジェミャウコフスキは、ずっと後の一八六五年三月にこう書いた。「・・・ガリシアにおいては、農民はポーランドのことを考えもしないし、ポーランドを欲してもいない。一方で、都市の住民は、その眠りからやっと覚め始めたばかりである」。事態はむしろ悪化していた。というのは、大土地所有者と農民との関係は、重い賦役と世襲の領主裁判権によって未だに毒されていたし、敵対的なオーストリア官僚は、両者の悪化する関係を利用し続けていた。

 一八四五年、ポーランド民主協会員は、多くは西ヨーロッパにある亡命者組織の指令によって、ポーランドを分割する三カ国すべてにたいし民族蜂起を準備していた。この蜂起は、必要があって陰謀的な方法で計画されたが、そのために、財源が全く不足していたことと計画が夢のようなもので実際に役に立たないことは、指導者たちにさえも、隠されてしまった。一八三〇年と三一年には、貴族あるいはジェントリーといったポーランドの指導者たちは、農民の完全な解放を宣言して、彼らに訴えかけるような気持ちにはなれなかった。一八四五年から四六年に活躍した人びとは、自らジェントリー階級であったが、誤りに気づいた。つまり、ポーランド人の努力の持つ弱点とその失敗を、勝ち誇ったフランス革命軍(当時、彼らもまた不利な状況に直面し、見たところ勝ち目はなかったが)の勢いと比べてみて、社会的革命勢力を蜂起させることによってのみ、彼らもその敵や抑圧者の組織された勢力を打ち負かすことができる、と結論したのである。一方で、彼らは世界的な革命と戦争を夢想し、世界政治システムはポーランドによって決定され、ポーランドを中心に展開し、その復活によって完成し、最終的には新たな偉大なポーランドとして結実する。と絵空事を描いていた。このような空想とうぬぼれが、ポーランド人の運動を鼓舞し続けたのであるー当時も、そしてそれ以来ずっと。このようにして本質的に貴族的かつ好戦的な民族で、ジェントリーの剣の伝説が深く染みつき、不在地主とその広大な所有地に基づいた偉大さを備え、今もって愛国的動機から社会革命的行動へと身を投じる民族という、異常な類型が現われたのだった。ポーランド人は、代わるがわる、自由の主唱者として賞賛されたり、反動勢力として非難されたりしてきた。実際、彼らはそのどちらでもなかった。むしろ、どの民族もそうであるように特殊な事例の一つにすぎなかったのだ。だが、彼らの場合は、その立場の複雑さ故に、他よりももっと複雑であったのだが。

2024年10月20日日曜日

20241019 中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋

中央公論新社刊 司馬遼太郎著「古往今来」 改版 (中公文庫 し 6-44)pp.81-85より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122026180
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122026186

 薩摩藩には、郷中制度というものがあった。青少年団といってよく、藩士の部屋住みの子弟はみなこれに入る。「十八交リヲ結ブ健児ノ社」と頼山陽が謳った組織である。古くからあった。町内ごとに組織されていた。私見だが、南方習俗の若衆組の組織がなまのままで薩摩藩のなかに組み入れられたのが郷中制度でないかと思える。

 私は、一時期、若衆組に関心をもったことがあり、いまもそうである。西日本の現象で、とくに黒潮の洗う鹿児島県、高知県、和歌山県熊野地方には、大正初年うまれの人々の少年期までは濃厚に残っていた。要するに十八交リヲ結ブで、適齢になると入り、若衆組(薩摩藩では郷中頭)の支配に属し、若衆組織の中で、おとなになるための教育をすべてうける。

 若衆組に入ると、家で夕食を食ったあとは、一定の若衆宿へいく、そこで雑談したり、肝だめしをしたり、漁村なら海難救助の方法をおそわったり、山村なら山火事の消し方を習ったり、ときには夜這いの方法をならったり、あるいは連れて行ってもらったりする。

 「娘をもっている親で、若衆が夜這いに来ないようなら、親のほうがそのことを苦にした」ということを高知の西の端の中村で、土地の教育関係の人からきいた。熊野の山村で、「複数の若衆が行っていて、もし娘さんが妊娠したりするとどうなるのですか」ときいてみたことがある。故老がおだやかな表情で、「そういうときは娘に指名権があるのです。」といった。故老によれば、たれのたねであるかは問題ない、たれもが村の若衆である、たねがたれのものであっても似たようなものだ、という思想が根底にある。娘は、自分の好きな感じの、あるいは将来を安定させてくれそうな若者を、恣意的に指名すればよい。

 話が外れるが、こういうことーとくにたねに対する不厳密性ーは、たとえば北方アジアの遊牧民族には決してありえないことである。かれらには骨の信仰があった。男のたねが子供の骨をつくると信じ、骨が子々孫々へ相続してゆくと信じていた。朝鮮語では、この象徴的な(あるいはなまなましいといっていいかもわからないが)骨のことをポンという。朝鮮は中国の儒教社会システムごと取り入れながら、ポンについては北方遊牧民の信仰を相続していた。この点でいえば、若衆組があるかぎり、日本の(私は西日本しか知らないが)農村漁村は南方的であるといっていい。

 薩摩藩の郷中制度にもどる。ふつうの庶民の若衆組の場合とはちがい、山火事や海難への処し方は教わらないが、武芸や角力はやる。夜這いはない。西南戦争のとき西郷が可愛岳から深夜脱出したが、坂を這いのぼりながら「夜這が如たる」といってみなを笑わせた。しかしさすがに武士社会だけに「ヨベ」はなかった。胆だめしはある。自分の胆だめしどころか、他人の胆までとる。刑場では打首の刑があるときけば競って駆けつけ、まっさきに到着した者はまだ絶命してほどもない罪人の体にとりつき、短刀で腹を割いて胆をとるのである。その胆を蔭干しにして薬にするとも言い、あるいは単に度胸の競いあいだけだともいい、あるいはそれをその場で食ってしまうという凄い事例もあったらしい。南方の未開人は、敵の勇者の肉を食う。薩摩ではこれを「ひえもんとり」というが、あるいは遠い時代の食人の風の名残りかもしれない。

 薩摩の郷中制度では、妙円寺参りという強行軍の行事もあり、曾我どんの傘焼きという勇壮なものもあり、また関ケ原の日には故老の屋敷へその話をききにゆく。

 こういう郷中制度という、南方島嶼の若衆組の風習がそのまま藩体制の中に居すわり、その青少年教育を一手にひっつかまえたという重要な組織をもつのは、三百諸侯の中で薩摩藩しかない。会津藩にも、青少年に相互に教育させるという組織があって、他藩に類を見ないものだが、薩摩藩の郷中制度のように、ごく自然に発生して歴史のなかで無理なく生長を遂げたいわば習俗的なものではなく、人工的な制度である。

 薩摩藩の郷中制度が、西日本とくに南海道(紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐)や瀬戸内の島々、さらには薩摩とその西南諸島の農村漁村に濃厚にのこってきた若衆組の士族社会での形態であるということの証拠のひとつは、村落体制における郷中頭(若衆組では若衆頭)の権威が高いことである。

 その前に、若者の権威、もしくは発言権の高さ、あるいは若いというだけで当人も威張り、村の年寄りも遠慮し、ときにおもねる、というのは、中国や朝鮮の儒教社会では絶無である。この絶無ということをどう強調してもまちがいはない。なぜならば若いということで威張るというだけで、儒教の基本思想として悖徳的なことで、悖徳的という以上に儒教とはまったく相容れないものといっていい。長幼の序を人倫の基本的な秩序とする儒教にあっては、老ほど尊敬される。若い者は、木の端のように遇されて、発言権もほとんどなく、全体に価値のうすき存在といっていい。たとえば韓国社会では若い者が近眼鏡をかけて祖父もしくはそれに準ずる血族の長老に会うことすら、不倫とされる。めがねというのは近視、遠視を問わず、倫理的イメージとしてのそれは、すべて大久保彦左衛門がかけているような「老眼鏡」とされる。若い者が、老大人ぶってめがねをかけて老人の前に出ることほど無礼なものはない。要するに儒教社会においては若い者は木の端のようなものである。

2024年10月17日木曜日

20241017 株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」 pp.64-67より抜粋 

株式会社岩波書店刊 岩波現代文庫 岡義武著 「国際政治史」
pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

 歴史的には、ナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古の時代のヨーロッパには一八世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現われたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族意識に積極的な理論的基礎づけを与え、その意味において民族主義(principle of nationality: nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは、民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで、以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合わせねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基礎を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的には後進的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を担った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮圧された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディーニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿してした。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存在自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのでないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭をしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸の続く限りこれ(革命)と戦うことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生れたブリトン人」(freedom Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勝となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

20241016 慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋

慶應義塾大学出版会刊 ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン 編著 小坂恵理 訳「歴史は実験できるのか」pp.222-225より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766425197
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766425192

 アダム・スミスが一八世紀末に執筆活動を行っていたとき、西ヨーロッパと東ヨーロッパの繁栄の違いはすでに顕著だった。東に向かうほど繁栄は少なく、封建制は強力になった。封建制は東ヨーロッパで最も遅くまで残ったが、この地域はヨーロッパ大陸で最も経済の発展が遅れた。近代初期に最も勢いのあった二つの経済大国、すなわちオランダとイギリスとは対照的だ。おそらくオランダは農奴制など封建制の影響が最も小さな社会で、ギルドの力は弱く、絶対主義の脅威は一五七〇年代のオランダ革命によって取り除かれた。一方、イギリスではどこよりも早くアンシャンレジームの制度が崩壊した。農奴制は一五〇〇年までに廃止され、ギルドは一六世紀から一七世紀にかけて影響力を失った。教会は、一五三〇年代にヘンリー八世によって土地を没収・売却され、イングランド内戦と名誉革命によって独占状態や絶対王政に終止符が打たれた。そして少なくとも一八世紀はじめには、法の前の平等という概念が定着したのである。

 アンシャンレジームや封建制が早くから崩壊した場所で資本主義市場経済が台頭したことが証拠で裏付けられるなら、実際に古い制度が経済の発展を妨害して甦らせたと判断してよいのだろうか。このような結論を導き出しためには、少なくともふたつの問題が立ちはだかる。まず、アンシャンレジームの衰退と経済的成果の改善は時期が同じかもしれないが、この相関関係は逆の因果関係の結果だったとも考えられる。すなわち、資本主義の発達が封建主義制度衰退の原因であって、その逆ではなかったかもしれないのだ。たとえばアンリ・ピレンヌなど早い世代の学者は、貿易の拡大と商業社会の発達ーマイケル・M・ポスタンによれば「貨幣介在の台頭」-によって封建制の解体は説明できると論じている。

 二番目に考えるのが欠落変数バイアスで、その場合には、アンシャンレジームの衰退も経済成長のはじまりも、ほかの出来事や社会的プロセスの結果とみなされる。経済の制度を変更すべきか否かは社会の集団的決断であり、それはほかの諸要因に左右される。たとえば、イギリスの地理的立地や文化が中世後期に大きな経済的潜在力を生み出し、ひいいてはそれが封建制の深化を決定づけたが、近代に入ると封建制度は社会にそぐわなくなり、重要な因果的役割を果たせず衰退したのかもしれない。

 まさにこのような状況で欠落変数バイアスがどのような影響を生み出すか、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで興味深く論じている。近代初期、イギリスではヨーロッパで最もダイナミックな経済と、最も自由で絶対主義からかけ離れた政治制度が同時に発達した。たとえばダグラス・ノースやバリー・ワインガストらは、経済的成果は政治のイノベーションの直接的結果だと論じているが、ヴェーバーによると、つぎのように反論されることになる。「モンテスキューは「法の精神」のなかでイギリスに関してこう述べている。「イギリス人は三つの重要な事柄ー信仰と商業と自由ーを世界のどの国民よりも進歩させた」。そうなると、イギリスが商業で優位に立ち、自由な政治制度に適応したのは、モンテスキューが指摘している信仰と何らかの関わりがあったと考えられないだろうか」。このようにしてマックス・ヴェーバーは、宗教という欠落変数によってイギリスでの民主主義と資本主義の発達を説明できることを明言している。 

 したがって、アンシャンレジームの崩壊と資本主義の台頭の関係を調べる際には、逆の院が関数と欠落変数バイアスの二つが発生している可能性を認識しなければならない。自然科学では、このような問題を解決するために実験を行う。たとえば、似たような国の集団ーどの国も制度の発達が遅れているなどーを編成したうえで、無作為に選んだ一部の国(「処置」群)ではアンシャンレジームを廃止して、残りの国(「比較」一群)では制度を残して結果を確認できれば理想的だろう。二つの集団の相対的な繁栄に何が生じたか観察することも可能だ。もちろん、実際にそのような実験を行えるわけではない。しかし歴史家や社会科学者は、歴史が時として提供してくれる「自然実験」を利用することができる。

 自然実験においては、何らかの歴史上の偶然や出来事をきっかけに経済・政治・社会的な要因が働いた結果、一部の地域には変化がもたらされるが、一部の地域では条件が同じでも変化が生じなかったと考える。もしも、変化の程度が異なる地域同市の比較が可能だとすれば、変化を経験した地域は実験の処置群、経験しなかった地域は対照群とみなしてよいだろう。

 アンシャンレジームの衰退に関しては、一七八九年のフランス革命後にフランス軍がヨーロッパの大半に侵略した出来事に注目し、それが制度にバリエーションを生み出した原因だったと仮定すれば、自然実験を行うことができる。フランス軍はアンシャンレジームの中心的な制度を廃止した。年貢や特権など、封建制度の遺産の数々を取り除き、ギルドを解散させ、法の前の平等を採用した結果、ユダヤ人にも自由が与えられ、教会の土地は再分配された。この経験に注目すれば、アンシャンレジームを支えてきた重要な制度の一部が経済成長におよぼした影響を推測することができる。ヨーロッパのなかでもフランス軍に侵略されて制度が改革された地域を「処置」群、侵略されなかった地域を「対照」群として分類すればよい。これならば、処置群の制度が改革される前後のふたつのグループの経済的成果を比較したうえで、改革が行われたグループのほうが豊かになっているかどうか調べることができる。それが確認されれば、制度の改革がその後の繁栄に貢献した証拠が提供されるだろう。

2024年10月16日水曜日

20241016 集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻pp.11-13(日本語版への序文)より抜粋

集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻pp.11-13(日本語版への序文)より抜粋
ISBN-10: 4087607372
ISBN-13: 978-4087607376 

 文明の衝突というテーゼは、日本にとって重要な二つの意味がある。第一に、それが日本は独自の文明をもつかどうかという疑問をかきたてたことである。オズワルド・シュペングラーを含む少数の文明史家が主張するところによれば、日本が独自の文明をもつようになったのは紀元五世紀ごろだったという。私がその立場をとるのは、日本の文明が基本的な側面で中国の文明と異なるからである。それに加えて、日本が明らかに前世期に近代化をとげた一方で、日本の文明と文化は西欧のそれと異なったままである。日本は近代化されたが、西欧にはならなかったのだ。

 第二に、世界のすべての主要な文明には、二カ国ないしそれ以上の国々が含まれている。日本がユニークなのは、日本国と日本文明が合致しているからである。そのことによって日本は孤立しており、世界のいかなる他国とも文化的に密接なつながりをもたない。さらに、日本のディアスポラ(移住者集団)はアメリカ、ブラジル、ペルーなどいくつかの国に存在するが、いずれも少数で、移住先の社会に同化する傾向がある。文化が提携をうながす世界にあって、日本は、現在アメリカとイギリス、フランスとドイツ、ロシアとギリシャ、中国とシンガポールのあいだに存在するような、緊密な文化的パートナーシップを結べないのである。そのために、日本の他国との関係は文化的な紐帯ではなく、安全保障および経済的な利害によって形成されることになる。しかし、それと同時に、日本は自国の利益のみを顧慮して行動することもでき、他国と同じ文化を共有することから生ずる義務に縛られることがない。その意味で、日本は他の国々がもちえない行動の自由をほしいままにできる。そして、もちろん、本書で指摘したように、国際的な存在になって以来、日本は世界の問題に支配的な力をもつと思われる国と手を結ぶのが自国の利益にかなうと考えてきた。第一次世界大戦以前のイギリス、大戦間の時代におけるファシスト国家、第二次世界大戦後のアメリカである。中国が大国として発展しつづければ、中国を東アジアの覇権国として、アメリカを世界の覇権国として処遇しなければならないという問題にぶつからざるをえない。これをうまくやってのけるかどうかが、東アジアと世界の平和を維持するうえで決定的な要因になるだろう。したがって、本書が日本で刊行されることから、日本の人びとのあいだに文明としての日本の性格、多極的で多文明の世界における日本の地位などをめぐって真剣な議論がうながされることを、著者として希望するものである。

                    一九九八年五月

20241015 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.135‐138
ISBN-10 ‏ : ‎ 4532176794
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4532176792

 日本は非ヨーロッパの国でありながら、ヨーロッパおよびネオ・ヨーロッパ(アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド)社会と比肩する生活水準、工業化、科学技術を実現した最初の近代国家である。今日の日本は、経済や科学技術の分野のみならず、政治や社会でもヨーロッパやネオ・ヨーロッパと多くの共通点がある。議会制民主主義国家で、識字率が高く、みな洋装である。音楽も、日本の伝統音楽以外に、西洋音楽が楽しまれている。しかし、日本にはいまだにヨーロッパ諸国と違う点が、とくに社会生活や文化で顕著にみられ、その違いはヨーロッパ諸国間でみられる差異よりもはるかに大きい。日本社会に非ヨーロッパ的な面があるのは、驚くべきことではない。日本は西ヨーロッパから一万二〇〇〇キロも離れており、古代から交流のあった近隣のアジア大陸の国々(とくに中国と朝鮮半島)から多大な影響を受けていたのだから、それも当然である。

 一五四二年以前には、ヨーロッパからの影響はまったく日本にもたらされていない。それ以後、一五四二年から一六三九年までのあいだ、ヨーロッパの海外進出にともなう影響がつづいた。(とはいえ、あまりにも遠いせいで、その影響はごく小さくなっていた。現代の日本社会のヨーロッパ的側面は、ほとんどが一八五三年以降に日本にやってきたものだ。もちろん、昔からの日本的なものをすべて西洋的なものに置き換えてしまったわけではない。伝統的な要素は、今も数多く残っている。日本は、ココナッツグローブ大火の被害者や、第二次世界大戦後のイギリスのように、古い自己と新しい自己が混在するモザイクなのだ。本書で取り上げた他の六カ国と比べても、日本のモザイク性は際立っている。

 明治維新以前、日本の実質的支配者は、征夷大将軍と呼ばれる世襲制の軍事独裁者であり、天皇には実権がなかった。一六三九年から一八五三年までのあいだ、江戸幕府は日本人と外国人との接触を制限していた。島国であるという地理的条件の影響もあり、孤立の歴史がつづくことになる。だが、世界地図をざったみて日本とイギリス諸島の地理的条件を比較すると、この孤立の歴史に驚くかもしれない。

 ユーラシア大陸の東西の果てに海に浮かぶふたつの島国は、一見すると地理的条件がそっくりに思える(ちょっと地図をみて確かめてもらいたい)日本とイギリスは面積もほぼ同じようだし、どちらもユーラシア大陸のすぐそばに位置しているから、大陸との関係も当然似たようなものだろうと思われがちだ。だがイギリスがキリスト生誕の頃から大陸勢力に計四回も侵略されているのに対し、日本の一度も大陸勢力に侵略されたことがない。逆に、イギリスは西暦一〇六六年のノルマン・コンクエスト以後、一世紀に一度の割合で大陸に軍を派遣して戦っているが、日本は一九世紀末頃まで、ごく短期間の二度の出兵以外、一度も大陸に軍を派遣したことがない。また、三〇〇〇年前の青銅器時代から、ブリテン島とヨーロッパ大陸のあいだでは活発に交易がおこなわれていた。ヨーロッパ大陸で生産される青銅の原料となる錫は、コーンウォール地方の鉱山が主要輸出元となっていた。一、二世紀前のイギリスは世界でも屈指の貿易大国だった一方で、日本の貿易規模は非常に小さかった。地理的条件から単純に予測されることと明らかに矛盾する。この日英の差はなぜ生じたのだろう?

 この矛盾を説明するためには、もっと詳細に地理的条件をみるのが重要だ。一見、日本とイギリスの面積と隔絶度は似ているが、実際は日本のほうが大陸から五倍遠い(一八〇キロと三五キロ)。また日本はイギリスの一・五倍の面積があり、土地もはるかに肥沃だ。したがって、現在の日本の人口はイギリスの二倍以上で、農作物や木材の生産量と沿岸漁業の漁獲高も日本のほうが多い。近代工業が発展し、石油や鉄鉱石などの金属鉱物の輸入が必要となるまで、日本は必要不可欠な天然資源をほぼ自給でき、外国貿易の必要性は低かったーだが、イギリスはそうではなかった。日本史の特色ともいえる孤立には、以上のような地理的背景があった。一六三九年以降の鎖国は、その傾向を強めたにすぎない。

2024年10月15日火曜日

20241014 2022年2月から身に付いた習慣について

 2020年初頭から本格的に感染が広まった新型コロナ禍以来、2022年2月のロシアによる侵攻で始まった第二次宇露戦争、そして2023年10月からパレスチナのイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの越境攻撃によって勃発した紛争はいまだ収束の兆しを見せていません。そこから、ここ直近の2年間は、1945年の第二次世界大戦終結以降、最も世界情勢が不安定で緊張している期間であると云い得ます。

私自身、こうした状況をできるだけ広く精確に理解したいと考え、2022年の第二次宇露戦争勃発以降、海外報道機関の動画を視聴するようになりました。現在も十分に聴き取れてはいませんが、字幕機能を使ったり、同報道機関によるウェブ記事を読むことで、以前と比べ多少理解できるようにはなってきました。また、それ以前は(わざわざ)海外の報道動画を視聴することはなかったため、ある意味では、学びの機会を得たとも云えます。

とはいえ、これらの動画視聴や記事閲覧は「学び」というよりも、精確な情報収集のために行っているといった感覚です。また「情報を収集してどうなるのか?」と思われるかもしれませんが、情報を集め、自分なりにではあれ、理解が深化してきますと、これまでの経験や読書経験を参照して歴史上の類似あるいは共通する出来事が不図、想起されることが度々あるのです。そして、こうした経緯から、最近「1848年の欧州」に関する引用記事やオリジナル記事をいくつか作成したわけですが、これらは、前述の現在の戦争や紛争に関連する歴史上の出来事として検討してきた結果であると云えます。

そして、上記のように歴史と現在の出来事を関連付ける中で得られた感覚や考えは、当ブログや会話などを通じて発信する機会もありますので、面倒に感じることも多々ありますが、ここ2年半ほどは、世界情勢に即した書籍を読み、海外報道の動画を視聴し続けています。またそれらの具体的な内容につきましては、これまで当ブログにて、いくつか記事を作成しました。

ともあれ、現在の世界情勢は、2020年のコロナ禍以降、急速に悪化しているように見受けられます。また、この悪化は放置すれば自然に改善するものではなく、いずれ大きな国際間の衝突が起こり、関係諸国に甚大な被害が及んだ後、ようやく安定に向かうのではないかと危惧しています。もちろん、こうした予測が杞憂であってほしいと願ってはいますが、東欧や中東での事態の推移を見ていますと、ある程度悲観的に見ておいた方が、この先、どのような展開となっても「まだマシ」であるように思われるのです…。しかし、いずれにしましても今後、事態はどのように進展するのでしょうか。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


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