2024年2月29日木曜日

20240228 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」 pp.93‐95より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」
pp.93‐95より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188501
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188504

 保守もリベラルも抽象的な目標では一致する。たとえば弱者を支援しろといわれて反対する政治家はいない。けれどもリベラルはそこで、できるだけ広く「弱者」を捉え、国籍や階級、ジェンダーなどを超えた普遍的な制度を構築しようとする。それに対して保守はまず「わたしたち」のなかの「弱者」を救おうとする。むろん、その「私たち」の内実は事例により異なる。「わたしたち日本人」のこともあれば「わたしたち男性」「わたしたち富裕層」のこともある。いずれにせよ、そのような共同体を優先させる発想、それそのものがリベラルにとっては反倫理的で許しがたいということになる。他方で保守にとっては、身近な弱者を救わなくてなにが政治だということになろう。いまの日本の保守とリベラルの対立は、抽象的な主義主張の対立としてというより、そのような連帯の感覚の対立として捉えたほうが理解しやすい。

 これは、いまの日本で使われている保守とリベラルの対立が、本書でいう閉鎖性と開放性の対立にほぼ重なっていることを意味している。保守は共同体が閉じていることを前提としている。そのうえで仲間を守る。それに対してリベラルは共同体は開かれるべきだと信じる。だから保守を批判する。

 それゆえ、ここまで検討してきた開放性をめぐる逆説は、保守とリベラルの非対称性を考えるうえでも重要な示唆を与えてくれる。法や制度は万人に開かれねばならない。それは正しい。だれも反対しない。けれども肝心の閉鎖性と開放性の対立がそれほど自明なものではない。

 現在は左派に階級闘争のような実質的な理念がない。それゆえ、いまの左派、つまりリベラルは、自分たちの倫理的な優位を保証するため、形式的な開放性の理念に頼るほかなくなっている。けれども、ここで繰りかえし指摘してきたように、開かれている場を志向すること、それそのものが別の視点からは閉鎖的にみえることがある。これはけっして抽象的な話ではない。現実にいま日本のリベラルは、彼らの自意識とは裏腹に、閉じた「リベラル村」をつくり、アカデミズムでの特権や文化事業への補助金など、既得権益の保持に汲々としている人々だとみなされ始めている。

 そんな意見は一部の「ネトウヨ」が言っているだけだ、と鼻で笑う読者もいるかもしれない。その認識は誤っている。左派への厳しい視線はもはやネットだけのものではないし、日本だけのものでもない。たとえば二〇二一年には、作家のカズオ・イシグロのあるインタビューが話題になった。彼はつぎのように述べている。「俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなど飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」[★43]。イシグロは二〇一七年のノーベル文学賞受賞者で、リベラルを代表する世界的な作家である。そんな彼が漏らしたこの述懐は、現在の「リベラル知識人」たちが、世界の市民と連帯しているかのようにふるまいながら、じつのところは同じ信条や生活習慣をもつ同じ階層の人々とつるみ、同じような話題について同じような言葉でしゃべっているだけの実態を鋭く抉り出している。

 保守は閉ざされたムラから出発する。リベラルはそれを批判する。けれども、そんなリベラルも結局は別のムラをつくることしかできないのだとすれば、最初から開き直りムラを肯定する保守のほうが強い。いまリベラルが保守よりも弱いのは、原理まで遡ればそのような問題なのではないか。

2024年2月27日火曜日

20240226 現在読み進めている著作の淵源にあるもの・・

昨日の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2146に到達しました。私の場合、記事作成の方に注力していますと投稿記事数への注意が乏しくなる傾向があるようです。また、昨日の引用記事の作成により不図、判然としたことは、引用記事作成の場合、ある程度、作成に要する時間が読めるため先の予定も組み立てやすいと云うことです。このことは、あらためて重要であると思われました。しかしながら、そのために引用記事作成が習慣化しますと、自らによる記事作成が困難になると思われるのです。そのため以前に述べましたように、たとえ現在が「引用記事作成のレジーム」であったとしても、出来る限り、こうした記事の作成をした方が良いと思われるのです。

さて、かねてより読み進めているオーランド ・ファイジズ著「クリミア戦争」は、先日ようやく下巻に至り、その後も興味深く読み進めてはいますが、やはりこの年齢(40代後半)になり、あまり読む機会がなかった歴史的出来事について、ある程度、専門的に扱った著作を読み進めることは、それなりに困難が伴います。しかし同時に云えることは、当著作は去る2022年2月以来の第二次宇露戦争がなければ読むことはなかったということです。

他方、2022年の露軍による侵攻以前から当地域の情勢は緊迫化していたことは周知であり、そうした情勢をもう少し知るために、私も2022年以前からロシアの軍事を扱った新書などは数冊読んでいました。それでも現在思い返してみましても、何故当時、それらの著作を選び、読んでいたのかは判然としないのです。そしてまた、そうした経緯から、今回の第二次宇露戦争を「予言」したと思うことは全くありません。

とはいえ、こうした感覚自体はおそらく私にとって初めてであり、また、いまだ明確に言語化することは出来ていません。それでも、こうした認識の感覚を記憶しておくことにより、今後認識する過去・未来の出来事に対しても、この認識の感覚を一つの指標、基準として用いることが出来るのではないかとも思われるのです。ともあれ、それ故に、出来るだけ理解を得つつ書籍を読み進めるのことは、多少難しいのかもしれませんが、なお面白いのかもしれません・・。

そして、そうした経験が年数の経過と共に蓄積していきますと、やがて井筒俊彦が儒教の教えとして挙げていた「脱然貫通」のような、さらに相変態した認識へと至るのではないかとも思われるのです。

また、こうした「認識の相」といったものはSNSなどを見ていますと、しばしば看取され、そして、そこから「文は人なり」という諺の由来をあらためて認識させられもします。また、先日投稿の記事にて述べた「ギャップの認識が創造を生む」もまた、そこに何らかの関連があるようにも思われます。

そのように考えますと、ブログ記事作成のような活動の継続のためには、出来るだけ内向的にならず、自らにとって新たな経験を求めた方が良いのだと思われます。しかし、今現在、春は近いとは云え、いまだ寒い日が続いていますので、内に籠りたくもなります。そうした時に敢えて外向きにするのは好奇心なのでしょうか、あるいは、何らかの義務感なのでしょうか、はたまた、それらが混合したものなのでしょうか・・。いずれにしましても、これまで読まなかった、否、読めなかった分野の、ある程度踏み込んだ著作を読めるようになったことは、ポンコツを基調とする私としては、それなりに進歩であるとも思われるところですが、さて実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年2月26日月曜日

20240225 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.171-174より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.171-174より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

日本のテロリズムを追求する場合、神風連とならんで、どうしても見のがすことができないのが、二・二六の思想である。

われわれは、そこに、日本テロリズムのメタフィジクともいうべきものを明瞭に見ることができる。そして、とくに、あらゆるメタフィジクにともなう究極的な二律背反、逆説の凄まじい肉体化をそこに見ることができるであろう。

二・二六の青年将校の思想ないし信仰は、とくに磯部浅一、栗原安秀、村中孝次らの獄中遺書に鬼気をはらんだ姿で示されている。

例えば磯部の遺書はあたかも大魔王ルチフェルのごとき呪詛と反逆のパトスにあふれ、村中のそれは冷徹な異端神学者の弁証によってつらぬかれている。そして、彼らの灼熱した頭脳から奔流する思想は、いずれもある絶対的な二律背反に激突して黒い焔の中に挫折している。

 彼らの厖大な遺書が多少とも北一輝の「日本改造法案大綱」によって打ち出された国家批判の方法につらぬかれていることはいうまでもないが、全体として、その観点にもとづく熱烈な護教論的調子のものである。

それは行動の弁明や弁解を全く意図しておらず、むしろ激しい攻撃的批判の趣きをそなえている。たとえば「世紀の遺書」などと全く異質のものであり、日本人の遺書としてはほとんど稀有のものとさえいえよう。かれらの己の刑死を陰謀による虐殺として、絶対に容認していないのであり、何らの意味でも容認しようとはしていない。かれらの遺書にあふれる阿修羅のような気魄は主としてそれにもとづいている。

 問題は彼らのテロリズムの正当性の根拠である。その点について、磯部は書いているー

「死刑判決主文中の〈絶対に我が国体に容れざる〉云々は、如何に考えてみても承服出来ぬ、天皇大権は干犯せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ、剣を以てしたのが国体に容れずと言うのか、兵力を以てしたのが然りと言うのか

 天皇の玉体に危害を加えんとした者に対しては忠誠なる日本人は直ちに剣をもって立つ、この場合剣をもって賊を斬ることは赤子の道である、天皇大権は玉体と不二一体のものである。(略)忠誠心の徹底せる戦士は簡短に剣をもって斬奸するのだ。〈略〉天皇を侵す賊を斬ることが国体であるのだ。国体を徹底すると国体を侵すものを斬らねばおれなくなる、而してこれを斬ることが国体であるのだ、云々」(傍点引用者)

遺書全体をとおして、国体擁護の求道的行動が、なぜテロリズムを正当化するかという点については、ほとんど論証されていない。

わずかに磯部がここに記したていどの暗示しか見られないのであり、むしろ「斬奸」は自明のものとして考えられていたようである。同じ磯部の手記の中に、同志の河野寿が語った思い出が記されているが、それは少年の頃、天皇の行幸を迎えた時、もし天皇に危害を加えようとする人間が飛び出したら、お前たちはどうするか、という河野の父の問いに対して河野もその兄も答えなかったところ、その時は飛びついていって殺せ、という教訓が与えられたという話である。

なぜその場合個人的テロリズムが許されるかについて、河野は「私は理窟は知りません。しいて私の理窟を言えば、父が子供の時教えて呉れた、賊にとびついて殺せと言う、たった一つがあるだけです」と語ったといわれている。磯部はこの話を録したのち「其の信念のとう徹せる其の心境の澄み切ったる余は強く肺肝をさされた様に感じた」と述べている。

 磯部自身のテロリズムの考え方もそれと同じ起源をもっている。しかし、前掲の文章の中に含まれる一種の逆説は、何人にも明らかであろう。

つまり、彼は一面では自然人としての天皇(=玉体〉の擁護を理由とするテロリズムの積極的容認と、理念としての「国体」擁護の現実的多様性との間にある亀裂を感じとらねばならなかったはずであり、それ故にこそ、天皇大権=国体という客観的理念と「斬ることが国体」という強烈な主観性との矛盾をそこにあらわすことになっている。

いわば、自然人としての天皇擁護が、かえって恣意的な国体にもとづく一切の行動(テロリズム)の容認として理念化されるという矛盾がそこにある。

 ここに孕まれた悲劇的矛盾は、二・二六の行動に対する権力的処置の明確化の後に、もっとも激烈・凄惨な姿であらわれている。

つまり、ほとんど宗教的情熱にもとづく求道として追求されたまさにそのもの(天皇)の名によって、かれらの行動全体の絶対的拒否が表明せられたとき、そこにいかなるドラマが生じうるかということである。そこにはほとんど神学的な問題が含まれる。たとえば、一生を賭して善行を追求した人間が、ある絶対者によって徹底的に拒絶されるというカルヴァン的な問題にそれは似ている。磯部の獄中の手記が、ほとんど「ヨブ記」を思わせるような凄まじい呪いを奔騰させており、悪鬼羅刹の面影をあらわしているのは理由なしとしない。それは日本の国体論者が、その限界状況において、かえって致命的な国体否定論者に転化する劇的な瞬間を記録している。

2024年2月23日金曜日

20240223 ギャップの認識から創造が始まるのでしょうか?

本日は久しぶりの休日の金曜日でしたが、日中は別件の書類を作成していました。また、先週のことを思い起こしてみますと、先週の金曜日は木曜日に続き文章を作成しており、その日はおそらく合計で1万字程度の文章は作成したと思われます。また、日に1万字の文章を作成しますと、私の場合、芯からグッタリと疲れるような感覚があります。しかしながら、それがあったからこそ、その後に投稿した比較的長めの雑文記事2つに加え、PTSDと着想の類似性について述べた記事の作成に至ったのではないかとも思われるのです。

これを換言しますと、先週の長めの文章作成によりエンジンが掛かり、その後、幾つかの長文記事の作成に至ったということになります。しかし、そのエンジンは現在も掛かっているのかと問われますと、それは掛かっていないように感じられますが、しかしながら他方で、自らの文章で、あまり苦慮せずに、この程度の長さの文章を作成出来ていることは「引用記事作成のレジーム」と、つい先日述べていた私からしますと、それなりに変化が認められるようにも思われるのです・・。

また、そのようにして思い返してみますと、以前、当ブログにて、自らの文章で継続的にブログ記事を作成するためには「ある種の精神のスタンス」を保持する必要があると述べていたことが思い起こされますが、この「精神のスタンス」を内面にて惹起そして保持するために、読書や読書の一形態とも云える引用記事の作成などが効果的であったのかもしれません。

そして、この読書については、ここ最近は引用記事のネタ探し以外での読書は専らオーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上巻であり、当著作は、私にとって、これまであまり馴染みの少ない歴史的出来事を専門的に扱ったものであり、読み進めるのにそれなりに難儀はしていますが、しかし、こうしたことは面白いもので、ある程度まで読み進めますと、あとの方が自然と読み易くなっているのです。

何のことはない、それは自分の方が、読み進めることにより、その著作の文体に乗せられているだけであるのだと思われますが、しかしながら、読み手である自分が自然と文体に乗せられるためにも、おそらく、それなりの読む訓練が必要であるのだと思われます。そして、そうしたことを実感するのが、外国語の勉強をしている時であると思われます。

外国語、ここでは英語を具体例として述べますと、私は大学院博士課程までは、そこまで英語を熱心に勉強したという自覚はありませんでした。またさらに以前に溯りますと、ホテルフロント勤務にて用いる一般的な英語は、おそらく扱うことが出来ていたのだと思います。

しかし、であるからと云って、その言語の文章で書かれた論文や小説などを能動的に読んでみようと思うことは全くありませんでした。

ただ、映画などに関しては、文系の師匠から時折届くお便りに、そうしたことが書かれていたり、あるは同封の冊子などの記事に書かれており、それらに基づいて映画作品などをDVDでレンタルして観ますと、やはり、それなりに歴史的背景などの含蓄があり面白く思われました。

また、映画での興味深く感じたセリフを英語字幕にして、それを一時停止して辞書引きして意味を調べるといった遊びのようなことをしていました・・。

そして、さきの文系師匠からの経緯で知った映画作品の一つがノーベル賞受賞作家(当時はまだですが。)カズオ・イシグロ原作(残念ながら原作はまだ未読です。)によるジェームズ・アイヴォリー監督の「日の名残り」(1994)という作品でした。

当作品の主人公は英国貴族の屋敷に務める執事であり、その言葉の用い方などが参考になるかと思われましたが、しかしながら、文系師匠のセンスらしく、1930年代後半、徐々にきな臭くなってきた戦間末期での欧州国際情勢の様相が縮図的にその屋敷に展開しており、そうした事情により「言葉の用い方云々」は全く関係なく、興味深く観ていた記憶があります・・。

しかし、そうした西欧を舞台とした映画をDVDにて興味深く観ていた私は当時、どの季節であっても大概、濃厚な自然の薫りがする南紀白浜にてホテルフロントとして勤務していました。

つまり、観ている映画の舞台は「西欧」でありながら、それを観ている私の方は「照葉樹林文化圏ド真ん中の西日本」にいたわけです。そして、こうしたいわば強くギャップが感じられるところから、あるいは否応なく何かが創造されるのではないかとも思われます。

それは、先述のオーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上巻を読み進める際に感じた西欧的な要素が、負荷となって、しかしそれが同時に燃料ともなって、我が国の金属文化や青銅器について述べた比較的長めのブログ記事に変換されたのではないかとも思われるのです・・。

また、こうしたことは皆さまの内面においても、思いのほか日常的に生じているのではないかとも思われますが、さて、如何でしょうか?

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2024年2月22日木曜日

20240221 我が国の青銅器文化についての雑文

二千数百年前、弥生時代後期の西日本では、中国地方を中心として東西二つの文化圏が存在しました。それぞれ、西は銅剣や銅矛を祭器とする文化圏であり、東は銅鐸を祭器とする文化でした。中国地方の中心とも云える出雲地方では、さきの東西双方の文化圏にて特徴的な祭器である銅剣・銅矛と銅鐸が、それぞれ多量に出土しており、そこから、双方勢力の接点であったのと同時に、双方に対して強い影響力を持つ勢力が出雲にいたことが理解出来ます。また、そこから記紀にある「国譲り神話」のようなことが実際に、当地であったのではないかと考えさせられるのです・・。

さて、この出雲地方にて出土が多い銅鐸は、元来、朝鮮半島およびさらに北部の遊牧文化での家畜の首に下げる鈴を祖としたものであり、それが徐々に大きくなり、我が国に至っては祭器となり、さらに大きくなり、装飾性も高くなり、全長1mを越えるような近畿式・三遠式銅鐸へと至るのだと云えます。

換言しますと、銅鐸祭祀文化での最終形態の銅鐸が近畿式・三遠式であり、双方共に大きく、装飾性が高く、比較してみますと、近畿式の方がより、形態が繁縟的で縄文以来の文化が引き継がれていることを思わせ、他方の三遠式の方は、形状の華やかさよりも、むしろ、描かれた文様の線の職人的な巧みさの方に目がいき、当三遠地域が我が国近代工業の祖の地であったことにも通底する何かがあるのではないかと考えさせられます。また他にも銅鐸は文様や取っ手部分の断面の形状などからの分類の仕方がありますが、分かり易いのが、後期式を代表する近畿式と三遠式とそれ以外に分類するのが、簡便であると思われます。そして、この「それ以外」をさらに細かく分類していきますと、技術の進化、それぞれの時代の新旧や形式の伝播の仕方なども理解することが出来るのではないかと思われます。

そうした中で大変興味深いと思われる銅鐸の一つが和歌山市の太田・黒田遺跡から出土した銅鐸です。これは全長30㎝ほどの最初期型よりかは少し大型化した弥生時代中期に作製されたものであり、面白いことは、その作製に用いたのと同じ鋳型により、さらに四つの鋳型が作製されており、それらは全て島根県雲南市の銅鐸の国内最多出土として知られる、加茂岩倉遺跡にて出土していることです。そこから、それらが作製された当時から、紀ノ川下流域と出雲地方には、祭祀を基軸とした同盟関係があったのではなかと考えられます。

また、30㎝ほどの大きさの場合は、鋳型の型を材料となる石に刻み込む、彫り込むことが可能でしたが、これが大型化しますと、石を用いた鋳型では作製が困難となり、粘土にて鋳型を作製してから内子を設置して、それらをある程度熱してから溶湯状態の青銅を流し込むことになりますが、この粘土による鋳型に溶湯を鋳込むと、鋳込まれた青銅器を取り出す際に、通常の手順で考えますと鋳型を破壊することになります。

そうしますと、同じ鋳型にて作製された銅鐸とは、同時に大型の近畿式・三遠式では存在しないことが、技術の進化の一般的な様相から理解することが出来ます。

そしてまた、粘土に文様を比較的自在に刻み込むことが可能な、大型の近畿式・三遠式の銅鐸は、自然と文様が多く、高装飾になっていったのかが理解出来るのではないかと思われます。

ともあれ、その後、銅鐸が祭器として用いられていた弥生時代の水稲耕作社会に大きな変化が生じたのが3世紀初頭でした。この時代から、それまでの弥生時代が終り、古墳時代に移行したとされています。つまり、多少の端境期はあったと思われますが、それまでの祭祀に用いていた銅鐸を地下に埋納秘匿して、代わりに、地域毎での首長霊を祀る墳墓を祭祀の基軸とする古墳時代へと比較的短期間で変化、収斂していったものと思われます。

そして、このあたりの経緯を伝えるのが、さきに述べた「国譲り神話」であると思われますが、さきに挙げた太田・黒田遺跡の銅鐸と同じ鋳型にて作製した銅鐸全てが出雲地方で出土していることも、さらに出雲での国譲りではなくとも、和歌山には複数、神武東征による土着勢力の国譲りの話が伝わっており、そのために、多くが、地域第一の神格を持つ神社が一ノ宮と称されており、和歌山でのそれは、旧国造家が代々祀っておられる日前神宮・國懸神宮(通称:にちぜんさん)がそれなのですが、地元では、その他に二つの一ノ宮があるとのことでした。それらは丹生都比売神社と伊太祁󠄀曽神社ですが、これらの神社には元来、日前神宮・國懸神宮の場所にあったのを、神武東征による国譲りで、少し離れた所に行かされたとのことであったが、この地域では、おそらく他の地域と比較して、神武東征に関しては、それなりにリアリティを持っている方々がおられるのではないかと思われます。記紀で神武東征の際に神武勢と戦ったとされる登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)との河内湖沿岸での上陸戦で手に矢傷を負った神武天皇の兄、五瀬命は亡くなってしまい、紀伊国に上陸して土着の女酋長を誅してから、五瀬命の遺骸を葬ったとされています。そして、この墳墓があるとされているのが、和歌山市内の竈山神社です。そしてまた、面白いことに、さきの紀州に上陸して成敗されたとされる女酋長を祀る社も、その比較的近辺にあるのです。こうした神武東征時とされる説話の断片が、その登場人物を祀った古社の存在によって、ある程度現実感を以て迫ってくるのではないかとも思われました。

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2024年2月20日火曜日

20240220 ブログ記事の着想と心的外傷後ストレス障害の発現経緯について

ここ数日の首都圏は例年に比べて暖かく、多少、調子が狂ってしまいましたが、これは首都圏だけでなく、日本全国でそうした傾向があったようです。また、直近に投稿しました記事「金属材料を基軸とした雑文(試作文章)」は、投稿後、何度か加筆修正を行いましたが、当初思ったより多くの方々に閲覧して頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。さて、当記事にて述べていることは、自らの口語による記憶を基軸としたものであり、記事作成時に、科学的なことについては、ネット検索にて裏を取りましたが、記事全体の流れは、先述のようにあくまでも口語の記憶であり、あるいはこうしたことは、対外的に話すことによって、より強く記憶として保持されるのではないかとも思われます。

しかし、そうした記憶に基づきブログ記事を作成している私としては、ある意味「ネタの鉱脈」とも云える「記憶」は、当然であるのかもしれませんが、日常的に顕在しているわけではありません。これらの記憶は(私の場合)何らかの契機により励起され、顕在化するといった性質があります。

以前に述べたことではありますが、こうした契機とは、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と同様、事前に分かるようなものではなく、突如として訪れるような性質があると云えます。そして、私の場合は、2013年以降、PTSDのような症状に見舞われることが何度かあったため心療内科を受診したことがありました。そしてしばらく経ち、徐々に寛解していったのか、さきのようなことは少なくなりました。しかし同時に面白いことは、この2013年以降から、さきの症状と類似したような経緯で、ある事柄に関する自らの知る知見が突如として意識上に顕現するといったことも生じるようになりました。これは喩えるならば、火山の噴火や河川の奔流のような、いわば「勢い」といったイメージのものであり、これがしばらく続きますと、そこから更なる顕現化を求めるためであるか精神的に苦しくなってきました。それが2014・2015年の頃であり、そうした様子を見かねたのか、これまでに当ブログにて述べました複数の方々からの「何か書いた方が良いよ」というアドヴァイスになったのだと思われます。

そしてそこから、現在に至るまで10日のうち6日以上は当ブロガーにて記事更新を行ってきましたが、それによって「救われた」と実感することは、残念ながら、これまでのところありません。しかし同時に、どうにか8年以上にわたり当ブログを続けることが出来ていますので、影響力の多寡などは考慮せずに、自らのためとして、もうしばらくは継続した方が良いのではないかと思われるのです。

とはいえ、自らのためであっても、実名にて公開する文章を作成することには、今なお、少なからず緊張感があり、あるいは、そうした緊張感を持って文章を作成するための練習となっていたのが、書籍からの引用記事であり、また対話形式の記事であったのだと思われます。

そして、そうした練習・助走期間を経て、前述しました2013年以降からの「ある事柄に関する知見が、突如として意識上に顕現する」を「機に応じた私なりの反応」と、いわばポジティブなものへと変換し、そしてブログ記事作成のため着想としたのが、一連の当ブログでの自らによる記事の多くに当てはまることと云えます・・。

しかし他方で、こうしたことは思いのほかに一般的なことであるようにも思われてきましたが、実際のところはどうなのでしょうか・・?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


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2024年2月18日日曜日

20240218 金属材料を基軸とした雑文(試作文章)

二千数百年前、弥生時代後期の西日本では、鋳造技術を用いて作製された銅矛や銅鐸が、当時の村邑国家群において祭器として用いられてきました。銅矛・銅鐸双方の材料である青銅は、銅と錫の合金であり、そこから二千年以上前の列島西部には、合金を溶かして鋳込んで成型する技術がすでに存在していたことが分かります。

他方、我々が日常用いている火・炎を用いて、合金である青銅を溶かすことは困難ですが、二千年以上前であれば、現代以上に困難であったと思われます。それでも当時既に、その技術自体は存在していたのです。

そのように考えてみますと「当時の人々はどのようにして金属や合金を溶かしていたのだろう?」と思いますが、これに関しても考古学分野の方々は研究されており、現在までに、弥生時代の青銅鋳造遺跡が西日本を中心としていくつか発見・発掘されています。そしてまた、遺跡内の作業所遺構や、そこから分かる集落での立地状況や、そこで出土した青銅片の成分などから、それぞれ遺跡の時代の新旧、あるいは、列島における青銅鋳造技術の伝播の経路などが明らかになります。それによると、鋳造技術は、ユーラシア大陸を東遷し、中国を経て朝鮮半島を南下して、北部九州に至り、そこから東西そして南へと伝播したことが分かります。

そしてその後、数世紀も経たないうちに同じ経路をたどり今度は鉄の加工技術が伝播してきました。つまり、我が国には、さきに青銅の鋳造技術が伝わり、次いで、しばらく経って鉄の加工技術が伝播してきたのです。この様相は、世界史で教わった青銅器時代と鉄器時代との関係(青銅が先、鉄が後)とも通底するものがあり、さらに、その背景には、共通する科学的知見があります。

具体的には、それぞれの金属・合金としての融点・液相点です。これを少し詳説しますと、鉄単体での融点はおよそ千五百度程度であり、そこに炭素が自然に添加された炭素鋼となりますと、千二百度ほどにまで液相点が下がります。対して、銅単体での融点は千九十度であり、そこに錫を混ぜて合金化することにより、溶ける温度(液相点)は千度ほどにまで下がります。つまり、鋳造の材料として青銅を用いるためには、千度以上まで加熱する必要があり、他方の鉄は合金化された炭素鋼で千二百度ほどになります。そして、これがさきに述べました青銅器時代と鉄器時代の時代の前後にある物質の化学的性質です。

こうした物質の化学的性質は、時代で変わることはありません。つまり、現在であっても、あるいは千年、二千年前であっても、青銅の溶ける温度(液相点)は千度ほどであるという性質は変わりはありません。こうしたことは当り前であるのかもしれませんが、人類がそれぞれの金属・合金が溶ける高温の炎を意図的に用いることが出来るようになったのは、人類が誕生した五百万年前と比べると、かなり新しく、せいぜい五千五百年前(紀元前三千五百年)頃でした。

これらの技術が世界各地の文明圏に達するには、さらに数千年を要し、日本列島に青銅の鋳造技術が齎されたのは紀元前三百〜四百年頃とされています。そこから、我が国は、世界の中でも青銅の鋳造技術の伝播は遅い方であったとも云えます。 しかしながら、伝播が遅ければ、その齎された技術水準も低いままに留まり、また発達も遅くなるというわけではありません。そのことは、奈良の大仏様(東大寺盧舎那仏像)を想起すればお分かりになると思います。

そしてまた、物の大小は問わず、こうした技術を用いて作製するものに対するこだわりや熱意に、それを生み出した国や地域の持つ特徴的な性質が反映されると思われるのです。

このことを例を挙げて具体的に述べると、冒頭で挙げた青銅の鋳造技術で作製された銅鐸や銅矛ですが、それらの意匠や形状から、それぞれを生み出した各地域の文化的特性の一面が窺えるといったところになります。

それは前時代である縄文時代の文化の系譜を背景とするものであったり、あるいは、作製物の少し前の時代での朝鮮半島や中国大陸に文化的背景を持つものであったりします。ともあれ、やがてそれらは、次第に混淆して次の時代の文化を生みだす共通の土壌となっていきます。

その意味において銅鐸や銅矛もまた、その一例であり、それらもやがて、その次の時代の精巧な銅鏡や巨大な釣鐘へと進化発展を遂げていく技術的な土壌になっていったと考えられます。 また、こうした進化発展の基礎にあるものが「高温の炎を意図的に用いる技術」であると云えるのですが、さらに、この技術の背景にあるものを考えますと、そこには多くの場合、その国や地域を包括した埋蔵資源を含む自然環境といったものがあると云えます。そしてまた、その環境が青銅や鉄といった金属・合金類の加工の進化の程度を決定するのだと云えます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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