2024年1月24日水曜日

20240123 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.233-235より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.233-235より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

21世紀に主要国が戦争を起こして勝利を収めるのがこれほど難しいのはなぜなのか?一つには、経済の性質の変化がある。過去には、経済的資産は主に物だった。だから、征服によって裕福になるのは比較的簡単だった。戦場で敵を打ち負かせば、敵の町を掠奪し、敵国民を奴隷市場で売り、価値ある麦畑や金鉱を占領すれば、利益をあげられた。ローマ人は捕らえたギリシャ人やガリア人を売って繁栄し、19世紀のアメリカ人は、カリフォルニアの金鉱や、テキサスの牧場を占有することで金持ちになった。

 ところが21世紀には、そのようなやり方ではわずかな利益しかあげられない。今日、主な経済的資産は、小麦畑や金鉱ではなく、油田でさえもなく、技術的な知識や組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織の知識から成る。そして、知識は戦争ではどうしても征服できない。イスラミックステートのような組織は、中東で都市や油田を掠奪して、以上を強奪し、2015年には石油の販売でさらに5億ドル稼いだ)が、中国やアメリカのような主要国にとって、そのような額は微々たるものでしかない。年間のGDPが20兆ドルを超える中国は、わずか10億ドルのために戦争を始めたりしそうにない。また、アメリカとの戦争に何兆ドルも費やしたら、中国はそのような出費や、戦争による損害、失われた交易の機会をどう埋め合わせることができるというのか?勝利を収めた人民解放軍はシリコンヴァレーの富を掠奪するのか?たしかに、アップルやフェイスブックやグーグルといった企業は何千億ドルもの価値があるが、そのような富は力ずくで奪うことはできない。シリコンヴァレーにはシリコン鉱山などないのだ。

 戦争で勝利を収めれば、イギリスがナポレオンに勝った後やアメリカがヒトラーに勝った後にしたように、自分に有利になるようにグローバルな交易制度を改変して、最大の利益をあげることが、依然として可能だろう。とはいえ、軍事テクノロジーが変化しているので、そのような離れ業を21世紀に再現するのは難しい。原子爆弾は、世界大戦での勝利を集団自殺に変えてしまった。広島への原爆投下以後、超大国が直接戦火を交えたことがなく、(彼らにとっては)得るものも失うものも少ない争いー敗北を避けるために核兵器を使う誘惑が小さいものーにしか乗り出していないのは、けっして偶然ではない。実際、北朝鮮のような二流の核保有国への攻撃さえも、きわめて魅力に乏しい。金一族が軍事的敗北に直面したら何をやりかねないかを考えると、ぞっとする。

 帝国主義者を目指す人にとって、サイバー戦争のせいで事態はなおさら悪くなる。ヴィクトリア女王とマキシム式速射機関銃の古き良き時代には、イギリス軍はマンチェスターやバーミンガムの平和を危険にさらすことなく、はるか彼方のどこかの砂漠で先住民を大虐殺することができた。ジョージ・w・ブッシュの時代になってさえ、アメリカはバグダードやファルージャに大損害を与えても、イラクはサンフランシスコやシカゴに報復攻撃を加える術がなかった。だが、もし今アメリカが、たとえ月並みなサイバー戦争の戦闘能力しか持たない国を攻撃しても、ほんの数分で戦争はカルフォルニア州やイリノイ州を巻きこむことになりうる。マルウェア〔訳注 悪意あるソフトウェア〕やロジックボムのせいでダラスで航空交通が停止したり、フィラデルフィアで列車が衝突したり、ミシガン州で送電網が使用不能になったりしかねない。

 征服者たちの黄金時代には、戦争は損害が少なくて利益が大きい事業だった。1066年のヘイスティングの戦いでは、ウィリアム征服王が数千人の戦死という代価でたった1日でイングランド全土を手に入れた。一方、核兵器とサイバー戦争は、損害が多くて利益が小さいテクノロジーだ。そうしたテクノロジーを使えば国をまるごと破壊できるか、利益のあがる帝国は築けない。

 したがって、武力による威嚇と棘棘しい雰囲気が満ちている世界では、戦争で成功した最近の例に主要国は馴染みがないというのが、平和の最善の保証になっているのかもしれない。チンギス・ハーンやユリウス・カエサルはどんなに些細なものでもきっかけさえあればすぐに外国を侵略したが、エルドアンやモディやネタニヤフのような今日のナショナリズムの旗手たちは、大言壮語はするものの、実際に戦争を始めることにはじつに慎重だ。もちろん、21世紀の状況下で戦争を起こして成功を収める公式を現に見つける人がいたら、たちまち地獄の門が開くだろう。だからこそ、クリミアでのロシアの成功は、とりわけ恐ろしい前兆なのだ。それが例外であり続けることを願おう。

2024年1月22日月曜日

20240122 株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ pp.204-206より抜粋

株式会社岩波書店刊 加藤周一著「私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ
pp.204-206より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006031807
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006031800

 20世紀の歴史がわれわれにはっきり示したことは、ことにユーゴスラヴィアの戦争がその例だと思うのですが、ナショナリズムはなくならないということです。ナショナリズムが出てくる根源はいろいろあります。個人は社会の中で、それぞれ自分自身の個性とかアイデンティティを求めます。ところが個人が集まってある集団、たとえば民族的集団をつくると、個人のアイデンティティ、個性、顔つきではなくて、その集団がアイデンティティを求めるようになる。その集団の個性、顔つきを保ちたいという欲求が強くなってくる。その背景はやはり歴史と文化でしょう。

 それぞれの地域の歴史が違い文化が違う以上、ナショナリズムの感情というのはなくならないと思うのです。それをなくすような形で問題を解決しようとするとできない。ですから、戦争にならない、悲劇的な形にならないように、それぞれの歴史的文化的アイデンティティを失わないで、ナショナリズムを大きな国際的組織の中へ組み込んでいくことが必要になるわけです。20世紀はそれに失敗した。だから戦争が起こった。今でもあとからあとから暴力的ナショナリズムは起っている。

 問題は、ナショナリズムと、広い視野からの国際的な協力関係を作り上げていく動きとはどういうふうに融和できるかということです。それはおそらく21世紀の課題になるでしょう。

 この問題を解決するための原理・規範とは何か。それはわれわれの経験の中にあると思います。一国の中で、一民族の中でで、それぞれの人が個性を失わないで一つの国が平和的に成り立ち得るのは平等があるからです。それぞれの人が別の顔かたちをして別の能力を備えているわけですから、もちろん競争も生じます。要は、基本的に平等を認め、相手との違いの存在を容認するか否かです。それを全部消し去って同じ形にしようという力が強く出てくれば出てくるほど、個人と社会あるいは国家との緊張関係は強まります。同じように、民族的な集団がどの集団にも存在の権利を認めて平等な関係が基本的にあれば、多くの集団が激しい衝突にならないで協調することができると思うのです。

 しかし、そうでなくて、小さな集団、弱い集団の個性を消し去って、みんな同じようにする、別のコトバでいえば、優越している一つの大きな民族的集団あるいは国家が、自らの標準を世界中に強制するようになると、その反発が起こって、しばしば強い衝突になる。衝突はいきなり暴力の行使ではなく、経済的、技術的、文化的とさまざまな手段でおきますが、力が拮抗していれば抵抗は暴力的にならないと思います。ところが道がふさがれて、一方が非常に強くて他方がたいへん弱い場合は、弱い側が文化的にも政治的にも軍事的にもすべての点で押しつぶされる傾向がある。

 押し潰されそうになって、それでもアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティを強調するから、最後の表現手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティの表現の道がふさがれたときの最後の絶望的な反応です。誰もテロリズムを望んでいるわけではない。なぜならば、テロリズムは二つの集団の間にある関係をつくり出すための手段というよりも、自分の存在を証明するための絶望的な反応だからです。これを武力であるいは警察力でコントロールするといっても程度問題です。テロリズムというのは、ナショナリズムがなくならないかぎりなくならないでしょう。

 この対立を解決するには、相手のアイデンティティを認める、根本的にはどの集団にも平等な権利を認めるような国際社会をつくること以外にないと思います。20世紀はそのことに失敗し、その目的に達していない。だからテロリズムがだんだん強くなってきたのです。

2024年1月20日土曜日

20240120 歯科材料を基軸とした雑文(試作文章)

「天然歯に色調が最も近いセラミックスは何か?」と考えてみますと、硬質で半透明な陶磁器が先ず思い起こされるのではないかと思われます。陶磁器は英語にしますと「china」と表記されます。これは産地の名前が、そのまま物の名称になったものであり、我が国の「japan」であれば漆器を指し、そしてまた、我が国においても、古くは火縄銃のことを「種子島」と呼称していましたので、こうした名称付与の仕方には世界的に共通するものがあるようにも思われます。

さて、この陶磁器の「china」は、中国においては既に7世紀頃に作られていました。その背景には、技術の発展と同様、高温を長時間保持可能な熱源としての石炭が豊富であるという自然環境もあったと云えます。

こうして、中国で作成された陶磁器はシルクロードを経てヨーロッパにもたらされ、彼の地において、度々模倣が試みられましたが、それらは悉く失敗に終わりました。やがて時代はくだり、18世紀初頭になり、ドイツの錬金術師であるヨハン・ベトガーが繰り返しの実験により、各種鉱物と粘土の混合割合を編み出し、その複製に遂に成功しました。これが、所謂マイセン磁器の誕生の大まかな経緯です。

その後、フランス・英国においても、技術の伝播や独自の実験成果を踏まえてセーブル磁器、ウェッジウッド磁器、そしてスポード磁器などが続々と誕生しました。そこから、18世紀は西欧での陶磁器生産のはじまりの時代とも云えます。

そしてまた、この18世紀は近代歯科医療のはじまりの時代でもあるとも云えるのです。では、これらの関連(陶磁器の生産と近代歯科医療)を述べますと、まず、この時代は大航海時代以降、西欧諸国が世界各地へ進出し、さまざまな植物や、それらの加工品が安定して供給されるようになってきた時代でもあったことを認識する必要があります。

そうして西欧に齎されたもので代表的なものの一つが砂糖です。砂糖は、東南アジアあるいはインドが原産とされるサトウキビを主な原材料として作られます。そして、これが西欧諸国で広く普及するようになりますと、それに伴い、虫歯もまた多く、人々の間に見られるようになってきました。

現在では、西欧の国々は、虫歯予防をはじめ歯科医療全般について先進的とされていますが、当時はまだそうではありませんでした。つまり、砂糖と虫歯との因果関係については知られていませんでした。そうした事情から、虫歯の原因である歯を抜くことが増え、やがて、それを専門とする職業も社会において徐々に一般的なものになっていきました。

その職業は「歯抜き師」と呼ばれ、これは18世紀以前より存在し、17世紀初頭刊行の「ドン・キホーテ」作中にも登場します。 ともあれ、新大陸から齎された砂糖の普及によって虫歯が増加した18世紀の西欧では「歯抜き師」もまた一般的な職業となり、さらにそこから進化をして、歯を抜くことだけでなく口の中全般を扱う「歯の治療者」と呼ばれる職業も登場して、これが現在の歯科医師の直接的な起源であると考えられています。

とはいえ、歯を抜く以外の口の中の治療も行った「歯の治療者」も、現在のような歯科医学の知識が一般的ではなかった時代であったことから、そこで施される 治療も必ずしも適切なものではありませんでした。

それよりも現代の歯科医療に対する「歯の治療者」の大きな貢献は、いわゆる、入れ歯などの歯科補綴装置についてであったと云えます。そして、それと関連して、さきに述べた「西欧での磁器生産」が意味を持ってくるのです。

約言しますと、西欧諸国による新大陸の発見、そしてサトウキビから精製される砂糖の需要から、カリブ諸島を主とした大規模なサトウキビ栽培が始まり、生産された砂糖が西欧社会にもたらされて一般化しますと、それに伴って同地域での虫歯が多くなり、そして、それまでの歯科医療にも変化が生じ、この変化に、同じ18世紀に錬金術師によって編み出された中国由来の磁器の作成法が関係してくるといった流れになります。

ちなみに、前述の「ドン・キホーテ」作中に歯に関する面白い箴言があります。 ‘‘Every toooth in a man’s head is more valuable than a diamond.’’ 「頭の中にある全ての歯は、ダイアモンドよりも価値がある。」 Miguel de Cervantes, Don Quixote (1605)

そして、この ‘‘Every toooth in a man’s head is more valuable than a diamond.’’ 「頭の中にある全ての歯は、ダイアモンドよりも価値がある。」文中の「head」は和訳しますと「頭、頭部、首、脳、目、耳、鼻、顎を含む体の部位」となり、その中にはもちろん「口」も含まれます。そうしますと、原文にある「Every toooth」(全ての歯)は、口の中にある歯を意味することになり、それはそれで意味は通じるのですが 文脈を変えて読んでみますと、さまざまな知識や情報を咀嚼し理解するための「悟性」の能力を「歯」にたとえた文章であるとも読み取れます。そしてこの場合、著者は後者の意味合いで書かれたものと思われますが、いずれにしても、同じ言葉、文章であっても、複数の意味合いが読み取れることは、我々の生活のなかでもしばしばあることで、冒頭付近で挙げた陶磁器の「china」漆器の「japan」そして火縄銃の「種子島」なども、そうしたものであると云えます。

そしてまた、18世紀頃の西欧での砂糖の普及と、それに伴う虫歯の増加から生じる歯科医療の変化に関連させてみますと、 この時代に、それまでの虫歯を抜く「歯抜き師」による、いわば原初的な歯科治療であったものから変化をして、抜歯後の外観や機能の改善、修復を行う「歯の治療者」が職業として広く社会に認知されるようになりました。

「歯の治療者」とそれまでの「歯抜き師」との大きな違いは、その背景にある、口を含む人体の構造や、さまざまな材料についての知識の広さと深さであったと云えます。

つまり、かねてよりの歯を抜くことを業とする職人であった「歯抜き師」と比べて、18世紀頃から一般的となった「歯の治療者」は、さきに述べた「錬金術師」からの系譜に連なるものであり、そしてまた、18世紀に錬金術師であるヨハン・ベトガーがドイツ東部の都市マイセンにて、初めて西欧での陶磁器の製造に成功したことは、その後の歯科医療にも少なからぬ影響を及ぼしたと云うことになります。

現在においても高級陶磁器などで有名な英国のウェッジウッド社の設立も18世紀半ばであり、さきに述べたようにマイセンの陶磁器製造技術の伝播があったと思われますが、ウェッジウッド社で大変興味深いことは、当時、陶磁器の製造技術を用いて人工の歯(陶歯)を製造していたことです。

この陶歯を用いた入れ歯は、当時の技術水準においては大変に優れたものであり、陶磁器と同様、白く艶やかな人工歯が並んだ入れ歯は多くの人々を惹き付けたと思われます。とはいえ、この当時の入れ歯は、現在の陰圧を利用して口腔粘膜に吸着させるものではなく、上下の入れ歯がバネで繋がり、口に入れても、食いしばらなければ、バネの力で口から飛び出してしまうようなものであったとのことです。

アメリカ合衆国の初代大統領であるジョージ・ワシントンは現在、同国1ドル紙幣に印刷され、その描かれた表情を見ますと、頬が若干膨らみ気味であり、口が真一文字に結ばれていますが、これは、さきのバネが仕込まれた入れ歯を着けていたために食いしばっているため、こうした表情になっているというのが、現在では一般的な見解とされています。

18世紀西欧で製造が始まった陶歯を用いた入れ歯は、前述のような構造の問題もありましたが、それでも当時の水準としては先端技術の粋を集めたものであり、現在でいえば、口の中の状態をスキャナーを用いて3Dデータにて記録して、そのデータに基づき、入れ歯の設計をコンピュータ上で行い、その設計データに基づいてCAMのマシニング加工により作成された入れ歯にも比定することが出来ると云えます。

また、西欧においては陶磁器作成技術の確立による白く艶やかな陶歯の製造が可能になる以前は、カバやセイウチや象の牙や牛の骨などから入れ歯に用いる人工歯が作られ、さらには生死を問わずヒトから採取した歯も用いられていました。

そのため、こうしたヒトの歯は戦争の後になると多く出回り、19世紀に入ってからも、ワーテルローの戦いの後に大量のヒトの歯が市場に流通したとのことです。

現代の衛生観念からしますと、これらはきわめて不衛生なものであったといえますが、我が国においても、歯ではありませんが、亡くなったヒトの毛髪を抜いて鬘の材料とする話は、平安時代末期に成立した「今昔物語集」そして、それをベースとした書かれた芥川龍之介による短編「羅生門」などによって知られています。

ともあれ、これらの経緯によって18世紀に陶磁器製造技術を用いた陶材による人工歯が西欧で製造されるようになりました。他方、我が国では、おそらくは火山活動が活発であることからか古くから土器や陶器の製造が盛んであり、また、明治以降の近代化が為されて以降は、積極的に西欧の技術を模倣する段階において陶材による人工歯が製造されるようになりました。

そして、その拠点となったのは、やはり、古来より陶器の製造が盛んであった京都や名古屋などの地域であり、そこでは今なお、こうした企業が存続しています。

ちなみに「18世紀西欧での陶磁器製造技術の確立により、陶材で作成した人工歯を入れ歯に用いるようになった。」とさきに述べましたが、18世紀当時の入れ歯を作成する技術は、現存する当時の入れ歯や資料などから考えてみますと、西欧と我が国では、我が国の技術の方が優れていたのではないかとも思われるのです。

繰り返しになりますが、18世紀の後半においても、欧米諸国の入れ歯は、お口の中でのおさまりや機能性の良さはあまり考慮されていなかったと考えられ、当時の入れ歯は、咀嚼という歯の本来の機能よりも、キレイに歯が並んだ口許の方が重視されていたのではないかとも思われます。

他方、我が国での入れ歯の歴史を遡ってみますと、現存する我が国最古の入れ歯は、西暦1538(天文7)年に76歳で亡くなられた紀伊国(現在の和歌山県)の尼僧であり、仏姫とも呼ばれた中岡テイという女性が用いていたものであり、その材料は柘植(つげ)が用いられており、作り方としては、熱して軟化した蜜蠟に松脂などを混ぜたものを口に入れて型取りをしてから取り出し、そこで得られた口の中の様子(歯型)を柘植の小塊に、木彫りの要領で3次元的な写生を行い概形を作り、それを口に入れて、余分なところや、強く当たって痛いところを徐々に削り取り、そして口の中にピッタリと収まる入れ歯を作っていました。

仏姫は16世紀前半に亡くなっていますので、この我が国最古の柘植の木製入れ歯は15世紀末期か16世紀初頭に作成されたものであると思われますが、その背景には、室町時代末期、足利幕府による統治が綻び、戦国の世に向かおうとしている中で、それまで寺社からの依頼で彫像などを作成していた職人達が、寺社からの仕事の減少により、現世に合った職業を探す必要性があったという事情があると考えられています。つまり、少し大げさに表現しますと、我が国古来の木製入れ歯は、鎌倉時代初期の慶派の仏師等の手による東大寺南大門の金剛力士(仁王)像とも、技術の系譜として連なっているものであるとも云えるのです。

しかしながら、この優れた木製入れ歯を作成する古来からの技術は、近代以降、西洋の歯科医学が我が国に導入されるにつれて徐々に下火となり、そして20世紀初頭の明治末期の都市部においては、概ね西洋的な歯科医療に替わっていたと考えられています。

そして、こうした技術の変化をも含む、この時代での社会全体の西洋化のことを「文明開化」と云いますが、その影には、さきの木製入れ歯の作成にあるような、古くから脈々と伝えられてきた技術の衰亡が少なからずあったことは、記憶に留めておいても良いではないかと考えます。

とはいえ、また一方で、現在でも我が国の歯科技工の技術水準は世界においても優れたものとされていることは広く知られており、我が国の細部にわたる技術へのこだわりはマンガやアニメのみならず、歯科技工の世界においても良い意味で息づいていると云えます。そしてまた、その淵源まで遡ってみますと、さきに挙げた13世紀初期、独特の写実性を三次元的に彫像として表現した慶派の仏師達がいるのではないかとも思われるのです。

ともあれ、つきなみではありますが、結論として、西欧的な白く半透明で艶やかで磁器のような人工歯を用いた入れ歯も、我が国の古くからの木彫技術を受け継いだ固有の入れ歯作成技術にも、それぞれ素晴らしいと云いことになります。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


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ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

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2024年1月18日木曜日

20240117 新年のごあいさつにかわり(2120記事)

「新年あけましておめでとうございます。」と述べたいところではありますが、昨年暮れから元旦の能登半島地震をはじめ、国内外にて大きな出来事が続いたことから、年が改まったという感覚は乏しく、例年とくらべると「戦々恐々」といった観があります。

2020年から本格化したコロナ禍、一昨年2022年2月勃発の第二次宇露戦争、そして昨2023年10月イスラム原理主義武装組織ハマースによる大規模テロ攻撃ではじまったパレスチナ・イスラエル戦争は、2024年1月現在、いまだ収束の気配を見せず、逆に周辺地域などへ広がる動きも散見されることから、さきの新年の状況を「戦々恐々」と評した次第です。

他方、当ブログについては、ここ最近は専ら引用記事を充ててきましたが、やはり、しばらく引用記事の作成を続けていますと、作成している私の方にも情念・思いのようなものが生じ、それらを見識などのフィルターを通すことにより、自らのコトバとしての意見となり、そしてそれが当ブログでの独白形式記事の題材となります。

その意味において、引用記事の作成を継続していますと、自然、手持ちの題材が増えてしまい、スランプの際とはまた異なった悶々とした心情が生じ、それが現在、当記事の文章に結実しているのだと云えます。とはいえ、これがほぼ毎日コンスタントに作成出来れば良く、実際、当ブログ開始から丸3年は、ほぼ毎日、ブログ記事の作成を(どうにか)行ってきましたが、その当時と同様の活力は2024年の現在はないように感じられ、あるいは、そうした活力の鉱脈はいまだ見つかっていません。それでも、こうした活動は、継続していないと、新たな鉱脈を見つけること自体が困難になりますので、たとえ面白そうな引用記事題材のストックがあったとしても、引用記事一辺倒であってはあまり良くないのかもしれません・・。

そういえば、新年に入りしばらく経ってから、昨年の3月に訪問したドイツのケルンにて開催の国際デンタルショー(IDS2023)の取材記事が掲載された雑誌の別刷りが出版社さまより届きました。

これはもう少し先になると思っていたことから、新年早々大変嬉しい出来事でした。そこから、さきに述べた世界情勢から視座を変えて、自らの昨年を振返ってみますと、さきのドイツでの国際デンタルショーへの特派員としての訪問は自分にとって初めての経験でしたが、かねてより続いている第二次宇露戦争に関する海外ニュース番組動画などを視聴していたためか、多少リスニング能力がマシになっていたのか、言語ではそこまで苦労をすることはありませんでした。またデンタルショーの会場で驚いたことは、企業ブースに訪問した際、首から下げたプレス・パスを示し、そこに博士と記載があることを先方スタッフが認めると、対応がより丁寧なものに変ることが度々あったことです。

これはまさに「文化」であるのだと云えますが、しかし私からしますと、学位取得後10年を経て、初めての海外渡航にて、こうした経験をすることには、何か寓意や深意があったのか、あるいは皮肉めいた悪い冗談であったのか、今もって分かりかねるところです・・。

また、昨今SNS界隈で「博士」が少し話題となっていましたが、これについて私見を述べさせて頂きますと、人文系と医歯薬学を含む自然科学系では、それぞれの背景にある考えが異なり、自然科学系であれば博士号は運転免許に近いような感覚のものであり、他方の人文系であれば一種の称号に近い感覚があるのではないかと思われます。

実際、去る2015年に亡くなった伯父が法学博士の学位を授与されたのは60歳目前の2002年でした。この時はホテル勤務で南紀白浜にいた私も有給休暇を申請して実家に戻り、伯父の学位取得を銀座の中華料理店にて親戚一同で祝いました。つまり、学位取得とは、それほどの重みのあるものと認識していましたし、また現在、人文系アカデミアにて活躍されている諸先生方で博士号を取得されていない先生方は少なくなく、端的にさきと同様、そのような「文化」であるのだと思われます。

とはいえ、聞くところによると、専攻分野にもよるのでしょうが、以前と比較すると近年は、人文系でも学位取得が出来るようになってきたとのことであり、たしかに私の人文系院時代からの友人二人は、それぞれ大変なご苦労をされましたが学位取得に至りました。

そこから考えでみますと、私の学位は、さきの伯父や人文系院での友人二人と比べますと、まあ軽いものであるとも思われますが、しかし、私の場合はまた異なった種類の苦労があったのではないかとも思われます。そして、その先にある夢、具体的に今年の夢についてはまた近く、別の機会に述べたいと思います。

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2024年1月16日火曜日

20240115 株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」 pp.200-202より抜粋

株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」
pp.200-202より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 448042993X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480429933

和歌山というとすぐにミカンを思い浮かべる位だが、ミカンのあまさを連想するためか、あるいは気候の温暖さに関連させるせいか、温和とか穏健などの性格をあげる人が案外に多い。

しかし住民自身があげている自分たちの性格の特徴だという答えは明朗、情熱的、荒々しく反抗心が強い、進取的、冒険心が強い等々が多いのだ。ここで忘れてならないのは、有名な紀伊国屋文左衛門の存在である。彼は江戸初期の生まれだったが、風波のために船が全く出ず、紀州ミカンが地元では暴落し、江戸では高騰しているのを知って、決死の覚悟で荒海を遠く越え、江戸へミカンを輸送して巨額の富を得たのである。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀州のミカン船」という江戸庶民のよろこびをこめた俗謡によって、世人に深い印象を与えた。

 後には江戸八丁堀に材木問屋を営んで巨万の富を築いたのだが、彼の場合は彼の性格が例外的に突出していたというわけではなく、和歌山県人が先にもあげたように、進取的で冒険心に富むという県民性を持っていたからこそ、うんと遠くへ抵抗なしに出かけて行くことが可能だったのではないかと思うのだ。

 文左衛門とあわせて、ここの県民性を示していると思われるのは、ここが広島県、熊本県とともに外国への移民の数の最も多い県だという事実である。明治十年代後半以降、特に明治二十六年ころから多数の人が海外に渡航した。なお日高郡三尾村(現、美浜町)からは明治二十年にひとりの男性がまさに単身カナダへ渡って漁業に従事したのであり、それからあと次々に同じ村から移住し、現在までにこの三尾村からカナダへ渡った人々は約三〇〇〇名にも達しており、第二次大戦以降、この村はアメリカ村と呼ばれるようになって、バスの停留所にもその名がつけられるようになった。英語まじりの会話や異国調の服装や建物がめだち、かつては特にアメリカにはあるけれど、日本にはまだ見られないような電気器具などが多かった。

 なおここでさきにあげた文左衛門と並んで見落とせないのは一八六七年和歌山市に生まれた生物学者、民俗学者の南方熊楠である。一九歳のときに渡米、後に渡英して大英博物館の資料整理に従事し、数々の功績をあげた。その後一九〇〇年に帰国してからは、この和歌山にこもり、地元の民俗資料や粘菌類の収集と研究に晩年の全力を尽くして世界的な功績をあげたのだが、少しく変人でもあって、柳田国男とはそりが合わなかったと伝えられる。それはともかくとして、彼が一九際の若さで外国へ渡っているのも和歌山県人らしいし、彼の場合は更に地元和歌山の民俗と粘菌の研究で功績をあげたのだから、まさに和歌山の風土と自然によって生みだされた学者だと言えるのかも知れない。

2024年1月14日日曜日

20240114 株式会社東洋書林刊 セバスチァン・ハフナー著 魚住昌良監訳 川口由紀子訳「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」 pp.218‐219より抜粋

株式会社東洋書林刊 セバスチァン・ハフナー著 魚住昌良監訳 川口由紀子訳「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放」
pp.218‐219より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4887214278
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4887214279

一八五四年から、一八五六年のあいだに、オーストリアとロシアの関係を友人から敵に、それもどう見ても永遠の敵に変えたのは、クリミア戦争であった。西側諸国対ロシアのこの戦争で、初めてバルカン半島のトルコの継承が問題となり、この危険をはらんだ地域は、その後、半世紀以上にわたってヨーロッパの政治を不穏におとしいれ、ついには第一次世界大戦の発火点となった。

 プロイセンとオーストリアは、クリミア戦争でともに中立を保った。とはいえ両国の中立は非常に異なる色合いをもち、プロイセンはいわばロシア側に、オーストリアは西側諸国の側に立った。オーストリアはドナウ諸国(今日の南および東ルーマニア)の獲得とバルカン半島からのロシアの追放のためのクリミア戦争を利用しようとした。そのわずかな五年前、ハンガリー戦争で負けかけていたオーストリアをロシアが助けてくれたにもかかわらず。「オーストリアはその恩知らずによって世間を驚かせるだろう。」シュヴァルツェンベルクはすでに早い時期にそう言っていたが、これは特徴を言いあてた名言である。オーストリアとロシアは、いまやバルカンにおいて致命的なライバルとなった。

 そしてプロイセンは、もはや彼らの同盟の中の第三者ではありえなかった。その同盟はもはや存在しなかった。今後プロイセンは、好むと好まざるとにかかわらず、両者間での選択を余儀なくされた。

 終わったのは「三羽の黒鷲」同盟だけではなかった。一八一五年にメッテルニッヒが設立し、プロイセンが進んでその中に憩ったきわめて巧妙なヨーロッパ体制が、革命と革命のもたらした結果とによって崩壊した。フランスはもはや関与していなかった。フランスではいま、ふたたびナポレオンという人物が支配していた。

 この「三代目」ナポレオンは、初代が抱いた帝国という野心こそもたなかったが、ヨーロッパ政治の中心をウィーンからパリに移すという野心を抱いていた。彼の手段はナショナリズムとの同盟であった。まず初めはイタリア・ナショナリズムとの同盟、そこでは彼は成功した。次はポーランド・ナショナリズムとの同盟、そこでは何の結果も出なかった。最後は、なんとドイツ・ナショナリズムとの同盟である。

 ここにいたってはナポレオン三世は自らの破滅を招いた。彼はいつものように、ヨーロッパに不穏・戦争・鬨の声をもたらした。革命後のヨーロッパは、もはや一八一五年から一八四八年までのような平和な国家共同体ではなかった。それぞれの国がいまはまた自立していた。良くも悪くも、プロイセンも例外ではなかった。

2024年1月13日土曜日

20240113 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 pp.103-107より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.103-107より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

テレビが普及して以来、すっかり影が薄くなったが、二十世紀前半にラジオが果たした役割を忘れてはならないだろう。テレビの映像にとって変わられるまで、ラジオの声は、おおかたの人が朝ごとにまっさきに耳にした音声であり、夜は、この声を消して床についた。真空管つきの小さな箱が、海のかなたの政変を伝えてきた。世界的オーケストラによる名曲を気前よく送ってくれる。スポーツの実況を通してグラウンドや競技場の一員になれる。連続放送劇が大当たりすると、その時間帯は通りから人影が消えた。

 情報や娯楽の送り手だっただけではない。そもそもヒトラーが驚くほどの短期間に圧倒的な人気と信任をかちえたのは、ラジオの利用なくしては考えられない。ゲッペルスの見通したように、十九世紀は新聞、二十世紀はラジオの世紀だった。そしてまさに後藤新平が開局の挨拶で述べたとおり、ヒトラーはこれを「精妙に利用」して、「民衆生活の枢機」を握ったのである。

 年頭所感や政局のおりおりに、荘重な音楽が流れ、ついで「ドイツ国民に対するドイツ政府の告諭」になった。どの家庭でも、この瞬間、いっせいに静けさが訪れた。

「ドイツ国民に告ぐ」

ヒトラーお得意の弁舌が流れてくる。選挙の前日には、急遽番組表に割りこんできた。それは放送であって放送にとどまらなかった。ラジオの声はとりも直さず「ナチス国家の表現」であり、ナチズムの精神、ナチス指導部原理にかなうものだった。居間に据えた国民ラジオをとり巻いて、家族全員が威儀を正し、身じろぎせず、神の声を聴くように301型の声に耳を傾けた。

 メディア論者マクルーハンによると、ラジオは「部族の太鼓」だった。ラジオの声が人間の内面の深層にはたらきかけ、ちょうど深い密林で打ち鳴らされる太鼓のように、陶然とした恍惚感に導くからだという。マクルーハンはラジオの影響度を文字文化と産業主義とに関連づけた。イギリスやアメリカは早くからこの両者になじんでおり、いわばラジオに対する「予防注射」を受けていたが、ヨーロッパ大陸はラジオの「免疫」というものを持たず、だからこそファシズムの調べとともに「古い血族関係の網の目」が共鳴を起こして声の魔術にしてやられたー。

 論議が分かれるとこだろう。同じアメリカで一九五〇年代はじめ、上院議員のマッカーシーのラジオ番組とともに「赤狩り」が始まった。煽動的なラジオの声を合図に、人々は一斉に共産主義者摘発に狂奔した。ここでも「部族の太鼓」が人々を、雪崩のような動きへと駆り立てた。

 それはともかく、ナチズムがみるみる勢力をのばしたのは、あきらかにラジオと拡声装置のおかげだった。演説好きの独裁者は新技術を最大限に活用した最初の権力者だった。アドルフ・ヒトラーこそ「メディア人間」のはしりだった。もともと故郷や家族志向の強いドイツ人に「部族の太鼓」はとりわけ効果的に鳴りひびいた。

 さらにマクルーハンによるとラジオは「熱いメディア」であって、本来的に魔術的な威力をそなえている。はるか遠くで発せられた声にもかかわらず、ラジオはひそひそと耳近くでそなえている。はるか遠くで発せられた声にもかかわらず、ラジオはひそひそと耳近くで話しかける。宗教上の神々が地上に降臨するとき、それはつねに目に見えない姿をとり。信(神?)託の声として現われ、人を誘いこむ、ラジオが親密な一対一の関係をもたらすことは、現代のディスクジョッキーでおなじみだろう。これは話し手と聴き手のあいだに、親密な私的世界を生み出すばかりでなく、意識下にはたらきかけて、ひそかな「共鳴」をつくりだす。

 技術はすべて肉体の延長といった目でながめると、ラジオは電話や電信よりもはるかに強く中枢神経の拡張といった役割を担うのではあるまいか。音声として与えられた言葉は目よりもずっと敏感で、本能的で、排他的に作用してくるからだ。

 若きオーソン・ウェルズが一九三八年、CBSラジオの臨時ニュースの形をとって、火星人襲来のラジオ・ドラマを放送したとき、全アメリカがパニックに陥った。ラジオだったせいだろう。テレビであれば、口元にいたずらっぽい笑いを浮かべた野心家の俳優が映っており、その機知と話術を楽しんで、誰も火星人の襲来に逃げまどったりしなかったはずである。

 マクルハーンの言うように、熱いメディアのラジオに対して、テレビは「冷たいメディア」である。マッカーシーが赤狩りの弾劾演説を、おりしもひろがりはじめたテレビに移したとたん、おこりが落ちたようにアメリカ市民は正常に立ちもどった。共産主義者の恐怖ではなく、憎悪にゆがんだ一上院議員の醜悪な顔を見たからである。

 もしヒトラーがラジオではなくテレビの時代に生まれ合わせていたら、せいぜいのところミュンヘン一帯を地盤とする、やたら演説の好きな、チョビひげがトレードマークの一地方政治家に終っていたかもしれないのだ。