2024年1月3日水曜日

20240102 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.191‐192より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.191‐192より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

ナイチンゲールが新たな役割についた時、クリミア戦争が始まった。ロシアがトルコを脅かし、フランスとイングランドがトルコ軍を支援するために軍隊を派遣した。戦いは主にクリミア半島(現在のウクライナの一部)で繰り広げられた。戦況の報告は、当時開発されたばかりの電信によって記録的な速さで届いた。戦場写真も戦場で展開しているドラマを一般民衆に近づけることを可能にした最新の呼び物だった。ナイチンゲールは戦傷者のための病院でのひどい状況を知ると、何か手伝いたいと熱望した。戦時大臣で親しい友人のシドニー・ハーバードが彼女に看護婦を手配するよう頼んできた。1854年11月、ナイチンゲールと38人の女性がトルコのスクタリ・セリミエ・バラックス病院(今日のイスタンブールの一部)に到着した。患者以外、ほとんどすべての備品が不足していた。「水を入れる容器も、何の道具もなかった。石けん、タオル、布もなく、病人用の着物もなかった。人々は、血糊でこわばった、口に出すののもはばかれるような汚物のこびりついた軍服を着たまま横たわっていた。彼らの身体は虫で覆われていた・・・」。ナイチンゲールは施設を改革し、食事と水の供給を改善した。看護兵(助手)を再編成し、もっと多くの上等な備品を要求した。彼女がかつて頼って衛生委員会を要求すると、翌年の春、下水設備全体を改修するために委員会がやって来た。彼女はさらに栄養状態の改善を求めた。スクタリの死亡率は低下した。このことに関しては、どの程度まで、どれだけすばやく、そしてなぜ、ということがその後何度も論議されてきた。ナイチンゲール自身は一度も特別な責任を主張しなかった。それにもかかわらず、彼女がイングランドへ戻ると、一般民衆は「タイムズ」に掲載された彼女の献身的看護についての記事に強い関心を持った。「軍医が夜に休み、沈黙と暗闇がおおった時でも・・・彼女が一人で小さなランプを手に見回りをしている姿が見られるかもしれない」。こうして彼女は「ランプを持った女性」という称号を獲得した。

 1856年にクリミア戦争が終結するとナイチンゲールは帰国し、すぐにヴィクトリア女王へ軍事病院の改革を優先させるよう嘆願した。ぞっとするような状況に戻ることを阻止しようと決意した彼女は、感染を避けるうえで清潔が重要であることを当局に納得させるため、自分の得意な統計学を利用した。何が原因で兵士が亡くなったかー傷なのか、予防可能な病気なのか、それとも他の要因なのかー比較するため、現在の円グラフに似た精密なグラフを考案した。ナイチンゲールはつつましく暮らし、大量に執筆した。クリミア戦争について彼女が綴った「英国陸軍の健康と効率と病院管理に影響をおよぼした事柄について」(1858年)は、軍事病院によりより下水設備と最新の成果を取り入れた栄養、全体に改善された治療をもたらすのに役立った。彼女の豊かな才能はあらゆるところで発揮された。インドの反乱についてのニュースから彼女は当地の英国軍の状況と、地元の人々が苦しんでいた貧困と栄養不足に関心を向けた。ナイチンゲールは自分の影響力を利用して、インド政府に衛生局を設立するよう説得した、1859年、彼女は有名な著作「看護についての覚書」を出版した。「それは誰もが持つべき知識と認められるー職業についている人だけが持つことが出来る医学知識とは異なる」。翌年彼女はロンドンの聖トマス病院にナイチンゲール看護学校と看護師寮を設立した。この学校により看護職が、適切な訓練と資格、キャリアの向上、報酬をともなう正式の職業として確立した。

2024年1月1日月曜日

20240101 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

ロシアの相対的な力は一八一五年から数十年間、国際的には平和がつづき、産業革命が進行するにつれて衰えていく運命にあった。だが、このことが明らかになるのはクリミア戦争『一八五四~五六年)が勃発してからである。

一八一四年、ヨーロッパは西に進出してくるロシア軍に畏怖の念をおぼえ、パリの民衆は抜け目なく「アレクサンドル皇帝、ばんざい」と叫んで、コサック旅団を先に立てて入城してきたツァーリを迎えた。和平協定そのものは、徹底的に保守的な立場から今後の国境や政治体制を決めようというもので、八〇万の軍隊を擁するロシアも支持にまわっていた。

ロシア軍はどの国の軍隊よりも強大で、海上で英国海軍が圧倒的な力をふるっていたのと同じく、陸地では行く手を阻むものがなかった。オーストリアもプロイセンもこの東の巨人の影をつねに感じ、王室同士で手を結びあっているときでも、ロシアの力に対する恐れが消えなかったのである。ヨーロッパの憲兵としてのロシアの役割は、救世主のようにあらわれたアレクサンドル一世から専制的なニコライ一世(在位一八二五~五五年)に代わったあとも、強まりこそすれ減ずるものではなかった。

ニコライ一世の姿勢は、一八四八年から四九年の革命の嵐によってさらに強硬になる。パーマストンが述べているように、このころはロシアとイギリスだけが「毅然として立つ」ゆるぎない大国だったのである。ハプスブルグ政権が必死の思いでハンガリーの反乱を鎮圧する助力を乞うたときには、ロシアは三個軍を派遣してこれに応えている。

だが、逆にプロイセンのウィルヘルム四世が国内の改革派につきあげにられて動揺し、ドイツ連邦の変更を提案したときには、ロシアは断固たる圧力を加えて、ついてにベルリン政府に国内では反動的な姿勢を強化させ、オルミュッツでは譲歩を余儀なくさせた。「変化を求める勢力」は、ポーランドやハンガリーの民族主義者も、欲求不満をつのらせたブルジョア自由主義者も、マルクス主義者もこぞって、ヨーロッパの進歩の前に立ちはだかる最大の障害はツァーリの帝国だと考えていた。

 しかし、経済と技術の水準では、ロシアは一八一五年から八〇年までのあいだにみる影もなくなっていく。少なくとも他の大国にくらべて、その衰えは明らかだった。もちろん、だからといって経済がまったく発展しなかったわけではない。ニコライ一世のころでさえ、官僚の多くが市場経済やあらゆる近代化に敵意を燃やしていたが、経済は成長していた。人口は急速に増え(一八一六年には五一〇〇万人だったものが、六〇年には七六〇〇万人、八〇年には一億人)、とくに都市部での増加がいちじるしかった。鉄の生産も増大し、繊維産業も数倍の成長をとげた。一八〇四年から六〇年までに、工場や企業の数は二四〇〇から一万五〇〇〇に増えたといわれている。さらに蒸気エンジンや近代的な機械が西側から輸入された。一八三〇年代からは鉄道網の建設も始まる。歴史家がこの時期のロシアには「産業革命」があったのかなかったのかと議論していること自体、ロシアの発展を裏書きするものであろう。

 だが、肝腎なのは、それ以外のヨーロッパ諸国の発展のスピードの方が大きく、ロシアは取り残されてしまったことだった。人口がはるかに多かったから、十九世紀初めの国民総生産はロシアが最大だった。ところが、二世代あとには、第9表(265頁)に示されているように、国民総生産の総額でも追い越されてしまっている。

 しかし、この数字を国民総生産一人当たりの額に換算してみると、さらにはなはだしい差があらわれる(第10表参照)。

 これらの数字が示しているのは、この期間のロシアの国民総生産の増大が圧倒的に人口の増加によるものであって、この人口増加が出生率の上昇のせいか、トルキスタンなど新たに征服した領土のおかげかはともかく、(とくに工業の)生産性の向上とはあまり関係がなかったということである。ロシアの一人当たり所得と一人当たり国民総生産はつねに西ヨーロッパに劣っていた。だが、いまやその差がいっそう開き、(たとえば)一八三〇年には一人当たり所得がイギリスの半分だったのが六〇年後には四分の一になっている。

 同じく、ロシアの鉄の生産は十九世紀初めに倍増したが、イギリスは三〇倍に増えており、比較にもならなかった。数十年のうちに、ロシアはヨーロッパ最大の鉄生産、輸出国から転落して、西側からの輸入に依存する度合がますます高まっていく。鉄道や蒸気船の発達による運輸通信手段の改善も、相対的な視点でみる必要がある。一八五〇年当時、ロシアには五〇〇マイルあまりの鉄道が敷かれていたが、アメリカでは八五〇〇マイルにおよんでいた。さらに蒸気船による貿易も大きな河川やバルト海、黒海の沿岸でさかんになったが、積み荷の多くは増えつづける国民を養うための穀物と製品輸入の代金としてイギリスに送られる小麦だった。またあらたな進歩がみられても。そのほとんど(とくに輸出業務)が外国の商人や企業家に握られていて、ロシアは先進国経済に一次産品の原材料を供給する国という性格を強くしていく。さらに詳細に検討すれば、新しい「工場」や「工業関係の事業」のほとんどは労働者数一六人以下で、機械化もろくに進んでゐないことがわかる。資本の不足と低い消費需要、そして専制君主の横暴と国の疑い深い姿勢、これらがあいまってロシアの工業の「離陸」はヨーロッパのどの国よりも困難だったのである。

 だが、しばらくのあいだは、経済の暗い見通しもロシア軍のいちじるしい弱体化にはつながらなかった。それどころか、一八一五年以降、大国がみせたアンシャン・レジーム擁護の姿勢がいちばんはっきりとあらわれたのが、軍隊の構成、武器、戦術面だった。フランス革命の余波が残っていたから、各国政府は政治的にも社会的にも軍事力に頼る傾向が強く、軍部の改革には乗り気でなかった。将軍たちも、大きな戦争によって力を試されることがなくなって階級や服従を重視し、慎重になった。この傾向を助長したのがニコライ一世の閲兵好き、大行進好きである。こんな状況であるから、徴兵によって維持される大規模なロシア軍は、外部から見るぶんにはいかにも力強い戦力にみえた。兵站や将校の教育水準といった問題は外部からはわかりにくかった。しかもロシア軍は活動的で、たびたびの軍事行動に勝利をおさめて、カフカスやトルキスタンに領土を広げていた。この動きをインドにいるイギリスが警戒しはじめたため、十九世紀のロシアとイギリスの関係は、十八世紀のそれとくらべてかなり緊張したものになる。

20240101 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

イスラエル

 イスラエルはユダヤ人による民族主義(シオニズム)に基づく建国の当時から、米国といわゆる「特別な関係」にあり、公式の同盟関係にはないものの、事実上は米国の最有力・最重要の同盟国の一つとみなされている。外交や安全保障政策における密接な関係や、最先端の米国製兵器の他に優先した供与や、兵器の共同開発などで、米国との関係は深く、トランプ政権期に顕著だったように、相互の国内政治はしばしば複雑に相互影響する。そのようなイスラエルであるが、ロシア・ウクライナ戦争に際しては、米国の対露制裁に加わらず、ロシアとウクライナ、米国とロシアの間で、中立の立場を維持しようとしてきた。防空システムのアイアン・ドームやドローン等のイスラエル製兵器や、イスラエルの技術が入って共同開発した兵器の、ウクライナへの供与を拒否するなど、政治的・軍事的に反露姿勢を取ることを最大限回避し続けた。イスラエルはウクライナ支援に際し「ウクライナの人々」に対する「人道支援」に厳しく限定し、大きく国際的に広報を行った。侵攻から間もない三月五日に、野戦病院の設立のため医師チームを派遣すると発表し、翌週にはこれを実施し、六週間にわたり活動して四月末には撤収させている。

 イスラエルは建国当時から東欧・旧ロシア帝国・旧ソ連からのユダヤ人の移民を国家の根幹としてきた。ソ連邦崩壊の際にはウクライナとロシアを中心とする旧ソ連圏からの大規模な移民の波を受け入れ、その後もロシアやウクライナのユダヤ人との民族的な人的ネットワークを外交にも生かしている。ロシアとウクライナへの戦争の勃発は、ユダヤ系人口の拡大・維持を国家存立の最重要課題とするイスラエル政府にとって、新たなユダヤ人移民の波をもたらす可能性のある好機とも言える。ゼレンスキー大統領自身がユダヤ人であることや、プーチン政権に近いオリガルヒの中にユダヤ人が多いことも、イスラエルとウクライナとロシアとの間に、人的ネットワークを成長させてきた。また、イスラエルは労働力不足に悩み、スーダンやエリトリアなどアフリカ諸国からの非ユダヤ人の移民の不正入国や不正就労を、制度上はともかく経済的な実情としては、事実上、一定数受け入れている事情がある。ウクライナからの避難民は、より文化的な摩擦の少ない、教育水準の高い経済移民としても歓迎され得る経済的実績がある。

 イスラエルの連立政権の交代制の首相だったナフタリ・ベネットは三月五日にロシアを訪問し、モスクワでプーチン大統領と会談した。これがユダヤ教の安息日の土曜日であり、宗教的には、生き死にに関わる事柄でなければ労働が許されてないにもかかわらず訪問を行ったことも、話題を呼んだ。ベネット首相のモスクワ訪問は、二月二四日の衝撃的なウクライナ侵攻によって国際的な孤立に陥りかけていたプーチン大統領に、「西側」の外国首脳として異例の速さで手を差し伸べる形となった。同時期にベネット首相はウクライナのゼレンスキー大統領と頻繁に電話会談を行い、プーチン大統領との仲介を図った。ベネット首相の姿勢はしばしばロシア寄りとみなされた。三月八日の電話会談でベネット首相がゼレンスキー大統領にロシアの要求を呑んで降伏するよう要請したとの情報がウクライナ側から一時期流れ、のち否定される一幕もあった。三月一二日にウクライナのキーウで行った記者会見で、ゼレンスキー大統領は、プーチン大統領との協議の場をエルサレムで設けるようにベネット首相に依頼していると語った。ヤイル・ラビド外相が往々にして親米・親西欧的な、リベラルな国際秩序の護持の姿勢を示すのに反して、あるいは役割を分担して、活発にウクライナ問題をめぐる外交を繰り広げた。

 ゼレンスキー大統領は三月二〇日にイスラエルの国会(クネセト)でビデオ演説を行ったが、これは英国(三月八日)、カナダ(三月一五日)、米国(三月一六日)、ドイツ(三月一七日)に次ぐ五番目であり、ゼレンスキーの一連の演説の中で非欧米圏では最初に行われた国となった(日本は三月二三日で六番目)。

2023年12月31日日曜日

20231231 株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.64-67より抜粋

株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.64-67より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061490397
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061490390

白人種といったものがフィクションであることは、言葉が正確に示している。白は元来、晴れた日の雲や、神が棲む雪をいただいた山をいうための色だった。父なる神のための聖なる色であって、白馬が神を選び、白衣の神官が祭儀を司る。

 聖なる白は無垢の純潔の色となったが、せいぜいが象徴的な用い方にとどまって、それが「実用化」にいたったのは意外に新しい。聖職者たちは、とりたてて白にこだわらなかった。激しい戒律の修道会ですら、どちらかというと自分たちをアピールするための色の特徴を重んじた。ロジーナ・ピゼスキーの「モードのイタリア史」によると、中世のカルメル会修道士は七つの布切れを縫い合わせた衣服を着ていたが、それは白4、赤3の割合いのおそろしく派手なもので、そのため「かささぎ会士」などとからかわれた。

 今日はすっかりおなじみの白い花嫁衣裳にしても、ようやく二十世紀の産物である。これについてはピゼスキー女史がイタリアの例で述べているが、リュリー女史のいうアメリカの場合でみると、一九二〇年代以前は、花嫁は自分に似合う色なら何でもよく、新品のイヴニング・ドレスでありさえすればよかった。白はもとより、ピンク、黄色、ブルー、グリーンと何色でも可。婚礼のあともずっとそのドレスは彼女のとっておきのパーティ・ドレスとして使われた。

 純白のドレスに白いヴェールというおなじみの花嫁衣裳は、もしかすると、無垢と純潔が下り坂になったころに急速にひろがっていったのかもしれない。不足を補うための「制服」の効用であって、悪魔の発明品の一つである。それは花嫁のそれまでのいろいろな体験をいっさい帳消しにして、ともかく無垢の人として聖なる祭壇へとおくり出す。

 ついでながら、近ごろは白い花婿衣装が大はやりらしい。これは悪魔の発明品というよりも道化の衣装を思わせる。大英帝国はなやかなりしころ、植民地司令官の大佐などが白いスーツに白ズボン、頭には王冠のような白いヘルメットをのせてカッポしていた。蛮地にやってきた新しい王であり、「聖なる人種」というつもりだったのだろう。力を背にしてせっせと搾取にはげむ一方で、ひとりよがりの正義と信仰をおしつけた。その度しがたいまでの生態については歴史の本にくわしい。私には賢明な今日の女性たちが、どうしてあのコッケイな男性のいでたちを見すごしているのか理解できない。それとも力を背にして搾取にはげむ一方で、ひとりよがりの人生観と生活哲学をおしつけてくる〈植民地司令官〉が、もんざらでもないというのだろうか。

 悪魔は、ときおり死や異端者と関連して鉛色だったり青白かったりするが、通例は黒く、暗い。ふつうは裸であるが、腰衣をつけているだけ。ひどく痩せている。なぜか肥っちょの悪魔というのはいないようだ。ともあれ、どんな姿にでも返信することができる。

 髪の毛が逆立っていて、先端が針のように尖っている。地獄の炎の名残りらしいが、別の説によると、髪を油で天を突く形に固めて敵をこわがらせようとした辺境民族の風習をとどめるものだという。

 長く垂れた鉤鼻。この特徴は、ユダヤ人が悪魔視される過程で、しばしば引き合いに出される。

 蹄、あるいは鉤爪をもち、山羊の脚として描かれた。責苦を与える道具として三叉の鉾やフォーク、鉤などをかかえている。ラッセルの本に引かれているものから、その中のとびきりの大物をひとりー十一世紀に生まれた「タンデールの幻」という地獄見聞記によると、信じられないほど巨大なけものであって、カラスのように黒く、体は人間そっくりだが尾があり、手が無数にあった。

 指の爪は騎士の槍より長く、足の指の爪も同様だった。また長くて厚いくちばしと、長く鋭い尾をもち、尾には釘が生えていて、それで亡者の霊魂を傷つけるのである。このおそろしい怪物は、デーモンの大群が風を送って燃やしている石炭の上の格子にうつぶせに寝ていた。・・・

 息をするたび亡者の霊魂を吐き出し、息をするたびにまた吸いこんで噛み砕いた。これがルシファーで、神が造った「最初の被造物」だという。

 もっとも、これもまたいまだ中世の悪魔であって、以後、しだいに変わっていく。黒い天使として多様化し、美しく、かつは知的に洗練されていった。

2023年12月25日月曜日

20231225 株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」pp.36‐37より抜粋

株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」pp.36‐37より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4623092267
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4623092260

クリミア戦争(一八五三~五六年)-「ヨーロッパ協調」の転換点

十六世紀初頭に地中海世界を席巻し、ヨーロッパ大陸を恐怖におとしめたオスマン帝国も、十九世紀半ばまでには「ヨーロッパの瀕死の病人」とまで呼ばれるほどに衰退した。このためギリシャの独立(一八三〇年)や、二度のシリア戦争を経た後のエジプトの事実上の独立(一八四一年)など、かつての支配地が次々と自立していった。

 これに目をつけたのが、地中海への南下を狙うロシアであった。フランス皇帝ナポレオン三世が聖地イェルサレムの管理権をめぐってオスマン皇帝と折り合いを付けたことに、ロシア皇帝が抗議した。ロシアとオスマン帝国との関係が日増しに悪化し、ウィーンでの四大国(イギリス・フランス・オーストリア・プロイセン)による調停も失敗に終わり、一八五三年一一月までにはロシアとオスマンは戦闘状態に突入する。

2展 開

 強力なロシア陸軍によりオスマン軍は押され、バルカン半島の主要部がロシアに占領された。地中海を通っての「インドへの道」を保持したいイギリスは、同じくロシアの南下に脅威を抱いたフランスと提携し、ここにロシアに対して宣戦布告した。(一八五四年三月)。

 こののち戦争は、黒海に面するロシア最南端のクリミア半島をめぐって長期化・泥沼化した。一八五五年三月、各国で厭戦気分が高まるなか、ウィーンで会議が開かれたが、英仏露三国の調整は失敗に終わった。この間に、イギリスではパーマストン子爵が首相に就任し、陸海軍の強化が図られた。

 一八五五年九月、黒海最強のセヴァストポリ要塞が陥落し、パーマストンはこれを機に本格的な遠征に乗り出すつもりであった。しかし同盟国のフランスはすでに戦闘意欲を失っており、ロシア側でも皇帝に即位したばかりのアレクサンドル二世が停戦へと動いた。

 一八六五年二月下旬から、ナポレオン三世のフランスが主催国となり、パリで講和会議が開かれた。本来は紛争当事国の一つだったフランスが会議を開催できたのは、同盟国イギリスを「裏切る」形で、敵国ロシアに譲歩を示したからである。三月に締結されたパリ条約では、オスマン帝国の領土が列強により保障され、ロシアが占領した地域が変換されるとともに、黒海の非武装・中立化も盛り込まれた。ロシアによる南下政策は阻止されたが、セヴァストポリを落とされたロシアの被害も最小限で済んだ。

3意 義

 クリミア戦争が、ウィーン体制下のヨーロッパ国際政治に与えた影響は甚大であった。まずは、それまでの鉄の絆を誇ってきた北方三列強の同盟関係を瓦解させた。ロシアが英仏二国と交戦状態に入ったにもかかわらず、地中海に権益を持たないプロイセンは見て見ぬふりをし、バルカン半島に利害を持つオーストリアに至っては、いつでも対露参戦できるよう英仏と密約を結んでいた。これにより、こののちはバルカン問題をめぐってロシアとオーストリアの対立が表面化していくとともに、ドイツ統一問題をめぐりオーストリアとプロイセンの確執を仲介する存在(それまではロシア)がいなくなってしまった。

 さらに、パリ講和会議で外向的な成果を収めたナポレオン三世治下のフランスが、これ以降はヨーロッパでの地域紛争を「パリ会議」で収めていくとともに、さらなる領土的な野心も高めていく、そして、この戦争ではイギリス陸海軍(特に陸軍)の弱点が露呈し、イギリスはそれまでのような強力な調整役にはなりえなくなった。

 その意味でも、クリミア戦争はウィーン体制と「ヨーロッパ協調」が崩壊していく転換点となったのである。

参考文献

君塚直隆「パクス・ブリタニカのイギリス外交」有斐閣、二〇〇六年。

君塚直隆「近代ヨーロッパ国際政治史」有斐閣、二〇一〇年。

オーランド・ファイジズ(染谷徹訳)「クリミア戦争」上・下、白水社、二〇一五年。

2023年12月24日日曜日

20231223 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.49-53より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.49-53より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

当時、西欧で流行った社会的ダーウィン主義について触れておく必要があります。ダーウィンの「種の起源」が1859年に刊行されて以来、それが実際の社会現象を説明するとき、人々の間で「適者生存」の法則として流布します。告白すると私は「種の起源」を読んだことはありません。皆さんも読んだことがない人がほとんどではないでしょうか。問題はまさにそこにあります。ダーウィンの難解な自然選択説は、あらゆる種はだんだんと進化して今に至っているというシンプルな趣旨にまとめられ、それが様々な事例に当て嵌められました。

 19世紀後半、誰もが本を読めるようになり、新聞や雑誌が大量に発行されるようになります。それは大変結構なことですが、「種の起源」を読まなくても、それについての記事の中で辻褄の合わないところ、矛盾点も意識しつつ「自然選択」という仮説を導きました。しかし、そんな考察は全部はしょって、俗流ダーウィニズム的考え方が欧米だけでなく日本でも取り上げられるようになりました。なぜなら、大衆が社会の主役となり始めた19世紀末、「生存競争」と「適者生存」の二つは人々の間で生じる葛藤や軋轢、貧富の拡大をうまく説明しているように感じられる。便利な言葉だったからです。

 当然のことながら、それは国家間の関係にも適用されます。国と国との間の競争も「線存競争」だから、みんな頑張れ、というものですが、国民を一つにまもめるのに都合がいい話です。戦争は、国家間の「適者生存」が行われる究極の「生存競争」ということになります。19世紀末から20世紀初めにイギリスで出版された。「ナィンティーン・センチュリー」という季刊誌がありました。それを紐解くと、100年前の人間が戦争をどのようなイメージで捉えていたかがわかります。

「戦争における勝利は、道徳的美徳を持った者に与えられる王冠である。」

「戦争とは、一国が他国と戦争して、最も物理的に優れた者が生き残る場である」

「現代においては、最も効率を高める者が生き残る」

「戦争は、何か神の意思にかなっているかということを決める、裁きの場である」

最近ではまずお目にかかれない、力みまくった言葉が並んでいます。

フランスやドイツも、似たようなものだったでしょう。こういうのもあります。

「もちろん戦争は犠牲を必要とする。しかし、人間は犠牲を好んでする動物だから、自然界で生き残ってきた。ある世代の人間がどのように犠牲を払うかによって、次世代の運命が決まってくるのだ」

読んでいると、私も子供時分に同じような話を聞きましたから、三分の一くらいそうかもしれないという気分になってきます。それでもさすがにひどいと思うのは、たとえば、1898年にアメリカがフィリピンで戦争したとき、

「殺せ、殺せ、もっと殺せ、そうしたら、もっと良い世の中が現れるだろう。」

「戦争は、その国家の線存競争として、優秀な者が生き残るテストの場所である」

とあります。こういう雰囲気だと、軍人でなくても、戦争に勝たないといけない。という気分になります。ダーウィンに罪がある訳ではありませんが、彼の理論は曲解され、国家側の「適者生存」と「生存競争」に勝ち抜くのが戦争だ、ということになって、結果的に見なひどい目にあったのが、第一次世界大戦なのです。

冷徹な第二次大戦の指導者

 第一次大戦前のかわいらしい政治家の時代から様変わりして、四半世紀後、第二次大戦では権力意志の強い政治家が自ら戦争を指導しました。唯一の例外は日本です。チャーチル、ルーズベルト、スターリンはみな立派な政治家ですが、冷徹な打算で動いているようなタイプの人間です。

 彼らは、戦争を軍人たちにまかせませんでした。その点で、第一次大戦のドイツのように、軍事作成が政治に優越してしまうことはなかった。

 ルーズベルトなんて相当に人が悪い。日本が攻めてくるのを知っていながら、先に手を出させたようなところがあります。それくらい度胸が据わっていないと、世界戦争などできないのかもしれません。チャーチルも軍部を掌握するため、正しい戦略を主張してくる軍人のアドバイスには従うのですが、作成が成功したらあっさり首を切ります、そんなドライで冷淡な感覚が政治をやる上で必要ですが、お友達にはなりたくない。

 第一次大戦と比較して、第二次大戦では防禦能力より、攻撃能力で決着がつきました。簡単に言うと、軍事力に優っていた方が力ずくで相手をねじ伏せたようなところがあります。しかしながら、第二次世界大戦が終わる頃から、それと矛盾するような動きもでてくる。たとえば、ルーズベルトは、政治家として軍事作戦を指導したにもかかわらず、ソ連に対して甘すぎるのです。ソ連がポーランドを支配下に置くのを認めてしまう。あるいは、無条件降伏を求めなければ、日独も態度を軟化したかもしれませんでしたが、最後までそれで押し通した。イギリスはバルカン半島から東ヨーロッパに攻め上がろうと提案しますが、ともかくドイツを負かす方が先だとそれを却下しました。その結果、冷戦期、東欧はソ連の影響下に置かれてしまいますが、このような非合理的な判断の事例をみると、ルーズベルトが、戦後どんな国際秩序を形作るべきか考えていたとは、思えないのです。

 合理性を欠いていたのには、いくつかの理由があります。一つは大衆の時代に大戦争という妙なことをするためには、人々の頭を狂わさなければいけない。ビスマルクのように勢力均衡ばかりしていたら、誰も熱狂しません。「侵略的な黄色い猿は、叩き潰さなければいけない」というような、日本に対する人種的偏見に満ちたアメリカの宣伝を読み返すと、震えがきます。そんな奴らには、無条件降伏でも突きつけるしかないということなのでしょうが、これくらい激しい口調でないと、大衆社会の主役である国民は付いてこなかったのです。

 このように、大衆社会においては戦争を合理的に指導することは不可能になりました。さらに、世界全体を相手にするので、どんなに冷静沈着な指導者でも作戦が立てられません。そして、極め付けが最後に現れた原子爆弾でした。これは人類がコントロールしようがない兵器が誕生したことを示しました。そこから遡ってみると、第一次世界大戦の政治家や軍人の誤りも、やむを得なかったと思わないわけでもない。軍事力が増大する中、政治家が弱気に、軍人が強気になったとしても、人間の過ちとしては十分ありうることではないでしょうか。

 

 



2023年12月21日木曜日

20231221 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.167-170より抜粋

中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」
pp.167-170より抜粋
ISBN-10 : 4121601017
ISBN-13 : 978-4121601018

たしかに、国際政治において発言力を持つためには国力を持つことが必要である。しかし、いまやその国力の内容が変りつつあるのだ。それは経済力と知的能力を中心としたものに変化しつつある。何故なら、この二つの能力こそ、世界の人々の基本的欲求を満たすものだからである。力とは結局、人間の基本的欲求を満たす能力なのだ。

 軍事力もかつては人々の基本的欲求を満たす重要な手段であった。戦争はどこからともなく起ったから、それに対して安全を保障することはもっとも基本的な欲求であった。より重要でさえあることは、それは自己主張のためのもっとも有効な手段であった。しかし、軍事力が過度に発展した結果、軍事力のこの二つの機能は、きわめて疑わしいものとなってきたのである。

 ただ、われわれは軍事力を抜き去った場合、国際関係をいかにして処理するかをまだ知っていない。われわれは他の力を推進力として外交をおこない、国家利益を守り、自己を主張する方法をまだ十分に発展させていないのだ。しかし、経済力が今後の二十年間において、人間の欲望を満たす基本的な手段である以上、力の核心がそちらの方向に移って行くことは、必然的ということができるであろう。

 そしてこの場合、経済力の核心を構成するものは知的能力という言葉で総称されうるものであることが忘れられてはならない。何故なら、現在われわれが直面しつつある問題はこの知的能力にかかわる問題だからである。知的能力とは、たんに科学技術や基礎科学だけでなく、それを社会のなかで生かすために必要な社会工学を含む複合物であるが、それは現在二重の挑戦を受けているのだ。第一は先進国がすでに持っている知的能力をいかにして低開発諸国に伝えるかということであり、第二は、先進国自身が、高度工業国家に必要な新しい知的能力を発展させることである。現在先進工業国は、第三の産業革命と呼ばれるオートメーションの出現による変化の時代に入りつつあるのだ。

 第一の問題、すなわち低開発諸国開発問題の核心が、いかにして知的能力という伝えがたいものを伝えるかにあるかということは、ようやく最近になって、理解されてきた。資本を投下し、工場を建てるだけでは低開発国の経済は少しも良くならない。しかし、知的能力を他人に押しつけることもできないのである。それはこの仕事にたずさわる人間の献身的態度と、根気のいる説得とを必要とする。ケネディが平和部隊を考えたのは、まさにこの点に注目したからであった。

 第二の問題の重要性は、いまや先進工業国においてより明白に認められている。

 この意味で、もっともしずかな事件であった英国労働党の勝利は、もっとも重要な意味を持っている。ウィルソンはイギリスが世界において次第に発言力を失いつつあることを指摘し、その理由を保守党の科学技術政策の失敗に求めた。保守党はイギリスの伝統的な大学制度にとらわれて科学技術教育をおろそかにしてきた。科学者は優遇されず、アメリカに流出している。ここにこそイギリスが世界政治のおいて発言力を失いつつある基本的な理由がある、とウィルソンは主張した。彼のこの発言がイギリス人の心を捉えたからこそ、労働党は保守党を破って政権を取ることができたのである。

 実際、ウィルソンとケネディは、国民の知的能力を生かすことの重要性を認め、そしてその手がかりを知識人に求めたことにおいていちじるしい共通性を示している。ケネディは大学に集められた知的能力がいかに重要な点火剤となるかを知って、これを尊重した。彼は大学教授の協力を求めるとともに、平和部隊を創設した。それは先進国が受けつつある二重の試練に対するひとつの回答であった。ウィルソンはいま、同じ番組に取り組もうとしている。

 この二重の挑戦に立ち向うことができたとき、そこには大きな変化が起るだろう。異なった国家が生まれ、異なった力が出現し、異なった国際関係が生れるだろう。われわれは今からその変化のすべてを知ることはできないが、この変化に対処するために要求されるのが知的能力であることは疑いない。

 だから、日本の政治家に見られる知的な問題に対する関心の欠如は、実に由々しいことなのである。かれらは、これから起ろうとしている、知的能力を推進力とした変化に対処する用意を持っていないように思われる。われわれは経済復興と建設にめざましい成功を示した。しかし、つねに成功は失敗と同じくらいおそろしい。われわれはこれまでと同じ努力をくり返しておこなうことによって、より豊かな社会を作ることができると思いがちである。しかし、実は要求される努力の質が変化しつつあるのだ。われわれはこの新しい仕事に正面から取り組まなくてはならない。ひとつの時代が終り、新しい時代が始まらなくてはならないのだ。