2023年5月22日月曜日

20230521 嗅覚と味覚の記憶から思い出したこと(南紀について①)

昨年10月に罹患した新型コロナウイルス感染症から回復して以来、ほぼ通常の日常生活に戻っていますが、嗅覚と味覚に関しては、以前よりも鈍くなったように感じられます。特に食べ物があまり美味しく感じられなくなったことが気になりましたが、他方で最近は気温が上昇し、天候も良くなり、活性が上がってきたためか、また少し復調しているように感じられます。ただし、これはマスクを外す機会が以前よりも増えたためであるのかもしれません。そのため、この感覚の変化については、今しばらく意識して推移を見守りたいと思います。

さて、嗅覚と味覚に関して印象深いことを挙げますと、以前に何度か当ブログにて述べたことがありましたが、2001年春に北海道から南紀白浜に転勤した時のことが思い出されます。北海道と比べて南紀の環境はあたかも別の国に来たかのようでした。その南方的とも云える横溢とした植生や自然環境、そして、そこからくる大気の薫りは非常に濃厚なものであり、在住後しばらく経っても新鮮に感じられました。また、そうした経験から、地元の食材を使った料理は、その土地で料理して食べることにより、本来の美味しさを味わえるのだと思うようにもなりました。さらに南紀白浜温泉には、複数の源泉があり、それぞれ泉質や香りも若干異なるため、慣れてきますと嗅覚を通じて、それらの違いが分かるようになりました。

また、南紀白浜温泉は総じて海に近く、私が勤務していた白良荘グランドホテルも白良浜に面していました。そしてその従業員駐車場は、白良浜北隣の半ば半島状である権現崎の近くにありましたので、当時はほぼ毎日、どこかで波の音を聞きながら生活していたと云えます。当初は首都圏に戻りたいと始終思っていた私でしたが、若かったこともあってか、徐々に南紀の環境にも慣れてきて、次第に感覚や価値観も変化していったのだと思われます。

やがて落ち着いてきますと、近隣にあるさまざまな史跡などの来歴・背景についても宿泊客に対して、ある程度は説明できるようにということもあり、それらの説明文などを読み、さらに興味深いと思われた事がらについては、休日、紀伊田辺に出向いた際に書店で立ち読みしつつ書籍を探したり、あるいは当時普及しつつあった「アマゾン」で見つけて購入するといったことをしていました。

また、それら書籍で興味深い記述を見つけますと、食事や買い出しなどの外出の際に、記述にあった史跡などを実地見分するといったことも度々していました。とはいえ、そうした興味は、まず最初に現実の史跡などの存在が先立ちます。つまり、実際に何かの史跡なりを見て興味深く感じるようになり、そこから関連する著作を探すといった流れでしたが、私の場合、その一つの起点にあったと思しき記憶に残る史跡は、さきに述べた白良浜北隣に位置する権現崎に鎮座する熊野三所神社内の火雨塚古墳です。

それまで古墳とは、上空写真から見る巨大な前方後円墳のようなものばかりであると思っていましたが、この古墳の墳丘径は10m程度であり、外から羨道を通じて玄室内をも臨むことが出来、これを初めて見た時、古墳であることは分かりましたが、しかし、それが人々が日常往来する領域である神社内にあること、そして、それが樹木や草に覆われながらも未だに古代の墳墓であることが分かるように存在していることにいたく驚かされました。

そうして当地でしばらく生活をしていますと、次第に、さきの熊野三所神社を含む多くの神社は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがその著作「日本の心」内で述べているように

『神道の「やしろ」は、通常の意味での寺院ではなく、むしろ「死者の霊が出入りする部屋」や「霊の部屋」と呼ばれるべきだと思います。なぜなら、多くの神々は実際には霊であり、立派な武人や英雄、統治者、人々の師として存在して、千年以上も前に生きて愛し、そして死んだ人々の霊だからです。そのため、神道のお宮や社の不思議な性格を西洋人に伝える際には、お宮や社を「shrine」や「temple」と訳すよりも「ghost-house」と訳した方が意味がよく伝わるのではないかと思います。』(要旨)

といった性質が基層にあることを自然に理解出来るようになっていくと思われるのです。そして、私見としては、こうした感覚は、旅行など短期間の滞在では得ることが難しく、その地域で何度か四季を過ごし、地域の大気や植生や湿気のようなものを嗅覚や味覚などの感覚を通じて、知らぬ間に身に着いていくのではないかと思われるのです。そして、そうして得られた感覚を土台として、その地域のことを学べば、さらに知らないことが分かるのではないかと思われた頃に東京へと転勤となりました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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ISBN978-4-263-46420-5

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2023年5月18日木曜日

20230518 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「競争の原理の作動」pp.70-73より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「競争の原理の作動」pp.70-73より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

中国・朝鮮式の儒教的専制国家ならば、皇帝の専制の手足になる大官はことごとく皇帝親裁の試験で採用されるのだが、日本では藤原氏を中心とする血族団体ー公卿ーがそれを担当する。この点で、致命的な失格である。だから日本史上、中国やヨーロッパの皇帝に相当する強大な権力ー朕ハ国家ナリという式ーをもった天皇はついに出現せず、原理的に出現できないしくみになっている。

 さらには土地公有も、すぐ失敗した。

 荘園という私有地の成立がそうである。この公有制度の例外がどんどんひろがって、ついに武士の発生になる。武士とは要するに開墾地主のことで、土地の私有権の主張者のことである。

 平安中期ごろから関東にこの開墾地主団がむらがり発生し、後期にいたってそれが平氏と称し、あるいは源氏と称して、律令体制の代表者である京都朝廷に食いこんだり、対立したりして、ついには源頼朝を盟主とするこの土地私有権の主張者たちが強大な軍事力をもって鎌倉幕府という事実上の日本政府を樹立し、中国・朝鮮体制にやや似た京都の朝廷は装飾的な政権になった。

 要するに、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけたということであり、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することはできなかったということである。

 ひらたい例でいえば、山田である。明治期に日本にきた中国の有力者が、瀬戸内海を東航する船のなかから島々のてっぺんまで耕された山田をみて、

「耕シテ天ニ至ル、貧ナルカナ」

 といったという。この中国人の日本認識がいかに浅薄なものであったかといえば、山田を競争の原理の象徴としてとらえなかったことである。村々の百姓たちは弥生時代から明治以来にいたるまで、他家より一段でも多く田畑をもちたいがために、地理的に耕作しがたい土地まで開墾してわずかでも生産の収穫を得た。この競争の原理が武士を発生せしめ、さらにはくだって競争をすべて悪として停止せしめた江戸体制時代にあっても、開墾と干拓ばかりは諸藩が競争してそれをやった。たとえば長州藩のごときは三十六万九千石の石高でありながら、江戸初期以来瀬戸内海岸の干拓をつづけてきたために幕末にあっては実収百万石といわれた。その収入をもって換金性の高い殖産事業をおこし、幕末ではほとんどあたかもヨーロッパの産業国家のような観を呈した。いまの山口県の一つの収入で、洋式陸海軍をもち、さらに京都における革命工作のためにばく大な費用をつかい、つづいて戊辰戦争(一八六八)の戦費をまかない、それでもなお戊辰戦争終了後に古金(慶長小判など)八万両を持っていたという。この藩はその半分を新政府に献金している。要するに日本に競争の原理があったからだろう。

 中国・朝鮮式の専制体制は、競争の原理を封殺するところにその権力の安定をもとめた。その体制の模範生だった朝鮮の農村には、競争の原理というものが伝統としてない。そのために朝鮮の老農夫はだれをみても太古の民のようにいい顔をしており、日本人の顔に共通した特徴とされるけわしたがない。

 明治期の中国や朝鮮の農村からみれば、江戸期の競争による蓄積をへてきた日本の農村はーとくに西日本にあってはーたしかに富裕であった。五十戸の字には三戸の富農があるといわれたのは、「耕シテ天ニ至ル」という式の競争のおかげであった。

 山を田畑にするというのは百年の単位でのしごとで、大変な手間が要る。たとえばその山鹿が禿山である場合、下草をうえて土をやわらかくし、次いで竹木を植えて雨が浸みこむようにし、やがてそれが流れになって段畑でうけとめる。という手間を経なければならない。土地を公田にすることによって人民に競争心をうしなわせ、そのうえに立って儒教的秩序による皇帝専制の官僚体制をつくりあげた中国や朝鮮では、そういうことまでして田畑をひろげようとする衝動が農民の側にない。ひろがればそれが公田になるだけなのである。

 江戸期いっぱいの日本の農村はまずしいというのは、ヨーロッパとの比較においてのことで、東アジア的なレベルでの比較では富裕であったというべきだろう。維新成立後、農業国家でしかなかったこの国が、わずかに生糸を外国に売る程度の収入で、すぐさま東京大学をつくり、同時に陸海軍をつくることができたのは、東アジアの他の国からみれば魔法のようにしかみえなかったにちがいない。雄藩の基盤になった西日本における農村の比較的な意味での富裕を見おとしているからであろう。

 さらに競争の原理を内部的にもたない当時の中国・朝鮮式体制にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。外国の侵略という不幸な外圧によってようやく倒れるわけであり、言葉をかえていえば、体制内における薩長的存在というものをみとめないために、他から倒されるほかない。

2023年5月17日水曜日

20230517 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.470-472より抜粋

株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻
pp.470-472より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

「なんのための銃剣か。殺すためじゃろうが?人殺しをするための道具じゃろうが?味方だけが持っとりゃせん。敵も持っとる。殺さにゃ殺されるだけのことよ。うんと余計殺したほうの国が勝つとじゃ。それが戦争よ。それが戦地の軍隊よ。どこの国のどげな軍隊が、負くるために戦争をするとか。そげなバカはなかろうもん?そんなら敵ちゅう敵は殺して殺し上げて、土地でんなんでん取って取り上ぐるとじゃ。見てみろ、四国やらどこやらじゃ百姓どもが、水もろくに引かれん山の上んほうまで田圃作りをしてふうふう言うとるちゅう話かと思や、対馬に来てみりゃ山ばっかりの、どこちゅうて満足にゃ田も畠もなかじゃろうが?対馬だけのことじゃないぞ。だいたい大日本帝国の暮らしちゅうとは、そげなもんよ。大将やら大臣やら博士やらが上っ面だけどげん体裁のええごたぁることを仰せられましても、殺して殺し上げて、取って取り上ぐるとが戦争じゃ。・・・ふむ、それが忠義ちゅうことにもなっとろうが?臣民の義務ちゅうことにもなっとろうが?誰が決めたとか、おれはよう知らんが、そげなことになってしもうとる。ー違うか。おぉ?」

 大前田は、問いを投げて口をつぐみ、野砲のすぐ真うしろまで十一、二歩ずかずかと前進した。ちょうど四番砲手が「目標。」という号令に応じて立ち上がったときのように、彼は両足を左右一歩間隔に開き、わずかに前に倒した上半身の両手で照準棍副木を握ると、中央射界をきっと注視する形になった。問いにたいするわれわれの返答を期待したふうでもなく、彼は、その姿勢で鳴りを静めた。

 私は、彼の「違うか。おぉ?」を聞いて、「いいえ、違いません。」と答えねばならぬような気持に強く突き動かされながら、皆とおなじように何も言わなかったのであった。彼の激情が赴くままにぶちまけられたであろう戦争哲学は、それなりに一本立ちの風格を持っているとみえた。「耕スコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、貧ノ極ナリ。耕サザルコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、亦貧ノ極ナリ。」というような内容を実際的に語った彼の農民的着眼にも、私は、感心せずにはいられなかった。彼が知らぬにちがいなかろうその成句を私は知っていたけれども、そしてまた津阪東陽著「薈瓉録」(化成度(ほぼ十九世紀第一四半分)脱稿?)中の「対馬ハ米一粒出来ザル地ナリ、鮮米ヲ以テ国中ノ食トス、今モ交易シテ取来ルナリ、「三国志」ノ「倭人伝」ニ、「対馬ノ国ハ土地山険ニシテ良田無シ、舟ニ乗リテ南北ニ市糴ス。」トシルセリ、此方ノ人ハ却テ知ラズ、彼方ニテハ筆マメニ書伝フルヲ以テ三国ノ時ヨリ既ニ知リテアリ、「聖ハ知ヲ得ル」ト謂フベシ。」という記述を読んで覚えていたけれども、対馬なり四国なりの実地に立脚して大前田のごとく端的な感じ方・見方をすることは従来私にできなかったのである。まだ多くの何かを吐き散らさねば彼は治まらないのであろうか、と私は、斜めうしろから彼の頑丈な軀幹を打ち眺めて想像していた。この間、神山上等兵は、さりげなく行動を起こして、北側三個分隊の最左翼まで退却しおおせた。

「違わんじゃろう?違やせん。」大前田は、数呼吸ののち照準棍からの両手を放し、くるりとまわりの東面の仁王立ちになって、彼の設問にみずから答えた、「違おうが違うまいが、どっちでもおれはあんまり構わんぞ。構やせんが、そげんことになっとる。それじゃけん、百姓しとりさえすりゃええはずのおれまでが、人殺しに召し出されて、足かけ四年も支那三界をいのちからがらうろつきまわらにゃならんじゃったとじゃ。やっとのことで生きて帰って来りゃ、一服したかせんかに、またありがた涙の零るるごたぁる二度の、いんにゃ、二度じゃなか、三度じゃ、三度の御奉公ちゅうわけで、いまごろは麦踏みでもしとるどころか、こげな海ん中に持って来られて、遅かれ早かれ南方要員にまわさるる身が、おんなじ軍隊の貴様たちから、あさましゅうめずらしがられとる。引き合やせんぞ。何がめずらしいか。

2023年5月16日火曜日

20230516 株式会社筑摩書房刊 森 浩一著「日本の深層文化」 pp.29-31より抜粋

株式会社筑摩書房刊 森 浩一著「日本の深層文化」
pp.29-31より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480064761
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480064769

倭人伝は、正しくは「三国志」魏書烏丸鮮卑東夷伝の倭人条の俗称である。俗称とはいえ、日本人にはよく知られた言葉であるので、以下は「倭人伝」とする。

「倭人伝」には、日本列島の北西部、とくに九州島の北西地域での中国人(帯方郡の役人)の見聞が記録されている。日本列島全域の見聞ではないけれども、三世紀代の貴重な情報がえられる資料である。中国歴代の史書のなかでも、日本列島のことえお地域に即して記述することに努め、それにある程度成功した貴重な史書であり、地理書でもある。

 ここで問題としたいのは、「倭人伝」では海での生業については、航海のことや漁労のことがくり返し述べられているのに、広い意味での農耕関係、とくに稲作についての描写がとぼしい。

「倭人伝」が描く時代は、厳密に時間との関係でいえば初期お古墳時代にさしかかっている気配はある。ただし人びとの生業や生活については、”弥生時代後期的な稲作を基盤とした社会”とみるのが通説である。だがこの通説は、考古学者がいだいている常識であって、「倭人伝」の記述からの結論ではない。以下検討しよう。

 倭地での帯方郡使の見聞は旅行の目的どおりの順で記事が作られている。まず朝鮮半島南部と九州島のあいだの対馬海峡にある対馬国が描写されている。この国(島)の記述は、地形や土地利用などが簡にして要を尽くしていることについては、ぼくは昔から指摘している。

 ”良田なく、海物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴している”とある。

”良田なく”を読んで、”水田がないとか乏しい”とおもっては駄目である。この文は中国人の文章、前にふれたように中国でいう田には日本でのハタケも含まれている。いずれにしても、良田がないので”海産物で自活している。だがそれだけでは生活にはならず、船に乗って南の九州島方面や北の朝鮮半島方面に市糴している。”市糴は厳密には穀物の買い入れだが、ぼくはこの個所ではもう少し意味をひろげて交易とみたほうがよいと考えている。対馬国からさらに南の海中に一支国がある。中国の三、四世紀ごろの金石文(銅鏡に多い)には漢字の減筆がよくおこなわれている。例えば「仙」を「山」にしたり「鏡」を「竟」とするようなことである。その観点では、一支は壱岐の減筆とみられ、一支国は今日の壱岐島であろう。

 ここでは、”田地は少しあるが、田を耕してもなお食べるのに不足するから、やはり南北に市糴している。”このことは対馬島よりは農耕しやすいが、それでも盛んとはいえないという意味であろう。

 一支国(島)のあと末盧国(古代の松浦、唐津市を含む臨海の地域)や伊都国の記述になるが、農耕関係の記事はない。

 伊都国は福岡県前原市域とその周辺で、古代の日本側の史料にも伊斗、伊覩、怡土などと同じ地名が別の表記でよくあらわれ、確実に土地の比定はできる。

 注意を要するのは、「倭人伝」では伊都国の描写に費やした字数は112字で、地域描写では第一位である。このことは伊都の地名に都がついていることと無関係ではなく、新井白石が「古史通或問」で説くように、女王国の都があったとみてよかろう。伊都国王もいたが女王国の都でもあった。室町時代の京都に天皇と将軍がいたのに似ている。都だったから、主な記述が政治や外交についてのもので、農耕などの生業の記述はない。

2023年5月15日月曜日

20230515 株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋

株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061490397
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061490390

かつて私たちのまわりにも、いたるところに闇があった。深い闇があった。山は昼でも暗く、森蔭には黒々とした闇が隠れていた。町の通りは暗く、夜の空には満天の星の背後に底知れない闇があった。

 人の住居もまた暗かった。玄関も、座敷も、納戸も、はばかりに、物置きも、屋隅には昼間から闇がひそんでいた。とっぷり日が昏れると、たちまち墨を流したような一面の闇につつまれた。

 闇の中には何がいただろう。そこにはあきらかに死者がいた。見えない死者の群れがいた。暗い通りや、玄関や、庭をとおり抜けるとき、私たちは子ども心に、何よりも死者を思った。死者を連想し、死の観念におびえて足がすくんだ。

 ゲルマン神話には死者の赴く闇の国がある。戦いで倒れた者たちのいるヴァルハラでは、毎朝、死者たちが起きあがって武器をとり、戦いに出ていく、夕には800人ずつが一列になり、6400の門をとおってもどってくる。

 闇には、闇の兄弟がいる。闇を材質とする堕ちた天使たち、災いをなし、苦しみをひきおこし、悪をなして、死をもたらす黒天使たち。

 私たちのまわりから闇が追い払われてすでに久しい。いまやどこもかしこも眩いばかりに明るいのだ。町の盛り場は夜を知らない。どの家にも部屋ごとに電気じかけの光学機械があふれている。山野にゴルフ場の照明がつっ立ち、夜はナイターのための時間帯に下落した。

 闇を駆逐した。ついては私たちは、同時に何かも喪失したのではあるまいか。ひそかに生者を見はっていた死者の群れ、死の観念を失った。死にしたしまずして、どうして生を尊重できるだろう。外界の闇はまた、自分のなかの闇の部分の警告ではなかったか。息を殺して自分のなかにひそんでいる黒々とした悪の部分。おのれのなかの悪を知らずして、どうしてこの世の悪が識別できようか。おそかれ早かれ私たちは駆逐したはずの闇の力の報復を受けるにちがいない。

2023年5月14日日曜日

20230514 ブログ記事作成についての工夫から思ったこと

つい先日、当ブログの総投稿記事数が1990に到達し、その後も2記事投稿しましたので、2000記事の到達まで残り、当記事を含めて8記事の投稿を要することになりますが、この目標達成まであと少しというところで、ここ数日の不安定な気候といった環境によるものであるのか、本格的なスランプとまでは行きませんが、何やらブログ記事の作成が疎ましく思えてきました・・。

しかし、であるからと云って記事作成を行わないと、目標としている2000記事まで到達出来ませんので、記事作成を行うため環境を変えるべく、久しぶりに喫茶店に入り、そこでノートを開き、使い慣れたペリカンの万年筆を準備して、あまり考えずに書き始めてみますと、意外なことに比較的滑らかに文章は書かれていくのです。しかし、その書かれた文章を現在、判読を試みますと、なかなか難しいところもあり、また、その文章自体も、当ブログの記事として投稿出来るものであるのかは難しいように思われます。

そして、そのように考えた主な原因は、先述のノートに記した文章は何と云いますか、あまりにも「即物的」な文章であったと思われたからです。具体的にはノートに「・・席に着きノートを開いて向かうと、こうした文章は割にスラスラと出て来るようである。そして、ここまで書き進めることが出来たのは、先ほど、あまり考えずにペンを持ちノートに向かったからではあるが、であるからと云って、そこで作成された文章が、そのままでブログ記事に出来るかは、また別問題と云える。」と書いていましたが、ここで、その部分を実際に引用してみますと、たしかに物理的にはブログ記事の一部にはなりましたが、私としては、やはり、この引用部は当ブログの文章としては、未だに何か違和感を覚えてしまいます・・。他方で、久しぶりに、こうした行為(ノートに手書きした文章をPCで入力する)をしますと、さきの違和感も実のところ、そこまで意味を持つものではないことも、かなり以前でのブログ記事作成で経験して知っていたことが想起されたことから、こうした方法は、これまでにも種々試みており、そして現在では(すっかり)忘れてしまっていることもあるのでしょうが、本格的なスランプ状態に陥ることなく、記事作成を継続出来るように、色々と試みることは、さきの思い出すという観点から、それなりに意味があるように思われるのです。

そして、そのおかげで、当記事は、どうにか、ここまで書き進めることが出来ました(笑)。以前のほぼルーチンとして記事作成を行っていた時期であってもスランプはしばしば(慢性的に?)ありましたので、その際も、さきのように自分なりに考えて、ブログ記事作成を続けてきましたので、そうした折に経験した、記事作成に関する少しの工夫(場所を変える・ノートに書くなど)は、前述しました「想起」からも理解されるように、ある種「身体化」されていたのではないかとも思われるのです・・。

そして、文章作成に関して、これまでのブログ記事作成により半ば無意識ながらも蓄積された「何か」をさらに励起させて、今後、何かに役立たせることは出来るのでしょうか・・?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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20230513 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.6-8より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.6-8より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

長閑な、輝かしい一日が静かに暮れようとしていた。水面はなごやかにかがやき、雲一つない空は澄み切った夕映に、広々と微笑みかけている。エセックスあたりの沼沢地の薄靄までが、なにかまるで薄織のように照り映えながら、木深い丘脈をこめ、低い河岸を透きとおった襞模様に押し包んでいた。ただ西の方、上流河区の空を垂れこめた暗雲だけが、まるで太陽の接近を怒るかのように、刻一刻その暗澹さを加えていた。

 やがてついに、動くともない曲線を描きながら、陽が低く傾いた。そしてその大都市の群集の上を垂れこめた暗雲に触れると、頓死でも遂げたかのように、みつみつ白熱の輝きから、光も熱もない鈍赤色に変って行った。

 と、まもなく河面にも変化が起った。水面は艶やかな光沢を失うとともに、いっそう沈痛な澄明さを加えて来る。何千年か、両岸に住むあらゆる種族に豊かな余沢を恵んで来た老大河は、いまや落日の下に漣波一つ起らず、はるか地の果てまでつづく水路の威厳を誇るかのように、眼路のかぎり広々と静もり返っていた。いわば高徳の長者ともいうべきこの河の流れを、われわれは、ただ来ては去る短い一日のあざやかな夕映えの下に眺めていたのではない。もっと悠久な記憶をとどめた荘厳ともいうべき光の下に眺めまわしていたのだ。敬虔と愛とをもって「海に生きてきた」ものならば、あのテムズ河の下流河区を眺め渡して、それが持つ過去の偉大な精神を思い浮かべないものはあるまい。不断の恩沢をもたらしながら、あるいは故郷の安らかな休息へと、あるいはまた海の戦いへと、数知れぬ人と船とを載せて送った、そのさまざまな想いで出を秘めたまま、いまもなおたえまなく満干をくりかえしているのだ。サー・フランシス・ドレーク(1540-1596。英国の航海者、スペイン無敵艦隊を撃破す)の昔から、サー・ジョン・フランクリン(1786-1847。英国の北極探検家 第三回目の遠征に消息を絶ち、極地に死す)に至るまで、この国民のもって誇りとする海の騎士たちーそうだ、彼等こそ真の騎士だったのだ。爵位の有無など、それがなんだーを、この河はことごとく知っているばかりか、身親しく奉仕して来たのだった。

 かつてこの流れの運んで行った幾多の船、それらこそは、時という闇黒の中にまるで宝石のように光を放っている光栄の名前なのだ。円々と膨れ上がった船艙に数々の財宝を充して帰り、かしこくも女王陛下に親しく訪問の光栄をえたあと、そのまま偉大なる海洋発展史物語の上から姿を消してしまった「金鹿」(ゴールデン・ハインド)号(前記ドレイクの乗船、世界一周した最初の英国船)をはじめ、新たなる征服を目指して船出し、-ついにふたたび帰らなかった「エレバス」、「テラー」の二船(前記フランクリンが最後の遠征に用いた船名)に至るまで、流れはすべてそれらの船を知り、人を知っていた。デッドフォドから、グリニッジから、そしてエリスから、-冒険家、移住者、王室の所有船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会艦隊の新「将軍」たちー彼等はすべて船出して行ったのだ。黄金を求め、名声に憧れて、あるものは剣を、あるものは文化の炬を携えて、すべてこの流れを下って行ったのだ。奥地に対する力の使者、聖火を伝える光の使者、それにしても未知の国々の神秘へと、この河の退潮が載せて行ったもののいかに大きかったことだろう!・・・人類の夢、社会の胚種、そして帝国の萌芽!

 日は沈んだ。流れの上にも夕闇が落ちて、岸沿いには夜の灯が瞬きはじめた。泥床の上に三脚を据えたチャップマン灯台の灯が、にわかに光を増し、水路のあたりは、おびただしい船の灯が、あるいは高く、あるいは低く、静かに揺れて行く。だが、まだ遥か上流河区のあたりは、あの怪物のような大都会のあり場所が、落日の残映を受けた暗雲と、星空に赤く燃える反映とで、まるで凶事の前兆のように、夜目にもそれと眺められるのであった。