2018年12月3日月曜日

20181203 (時には勢い余るような)内側から湧いてくるエネルギーの源泉は何でしょうか?

おかげさまで去る11月29日投稿分の『 ベートーベンの第九交響曲と阿波踊りに共通・通底することディオニソス的?』は現在に至るまで細々とではありますが、読んで頂いております。また、当記事投稿後よりまた、さまざまな方面の諸先生方より、知ってか知らずかご連絡を頂戴します。そして、そのように考えてみますと、この記事は『そこまで悪くはない』のかもしれませんが、それでも自身のこうした見方、考え方は概ね文系の師匠に帰するべきものであり、おそらく、この師匠がいなければ、こうした方面の文章は書くことが出来なかったと思われます。

何故であるかよく分かりませんが、この師匠は私を含めて何人かの弟子、あるいはかつての弟子をクラシックのコンサートや寄席、あるいはかつての名作のリバイバル上映などに呼び寄せ、それらの鑑賞後に昔から学生街にて営業しているような渋めの喫茶店にて、さきの11月29日投稿記事のようなハナシを延々とされるのですが、自身としては、こうした集まりは通常の大学や大学院の講義よりも得るものが多かったようにも思われます。

そして、そうした習俗に伝染した後の和歌山での生活においては、必ずしも私からの働きかけからというわけでもなく、どちらからともなく自然にそうした『駄弁り』文化が、ある程度の人々のなかに浸透していき、それが以前の投稿記事においても書きましたが教員有志も参加する自主研究報告会へといくらかバージョン・アップし、さらにその後、この集まりは公式な行事となったようです。こうした様相の背後には、非公式とも称し難い、いわば日常会話の延長線上のようなやりとりが徐々に加速、胎動をはじめ、時には教員を含む周囲の人々をも巻き込み、次第に大きく変容していったさまを読み解くことが出来ます。

また、そのように考えてみますと、昨今巷にて『コミュ力』の重要性が叫ばれていますが、当時は専攻の異なる院生に自分の研究内容を説明し理解してもらうため、時には勢い余って口論のようになることも少なからずありました。それでも相手が考えているある程度専門的な知見を理解し、そして、自分が持っている考え、知見をあまり誤解を招くことなく相手に理解してもらえるように説明するためには『コミュ力』と称して良いものか、それよりも時には勢い余るような内側から湧いてくる決して合理的とはいえないようなエネルギーの方が時としてより重要であったのはないかとも思われるのです・・。

そして、そのように考えてみますと、我々日本人は国際社会にて『議論が出来ない』『思想・哲学がなく、善悪の価値判断に絶対的な基準がない』と割合広汎に認識されているとのことですが、その所以には、かねてより我が国社会が持つ性質が深く関与していると云えるのではないでしょうか?それ故、おそらく、我々現代の日本人は、自らの言語をもう少し深くまで耕してみる経験が必要であるように思われますが、さて如何でしょうか?

そういえば、今回の記事投稿により総投稿記事数が1140記事となり、残り10記事にて年内の目標へ到達となりますが、今後も出来るだけ早く目標の1150記事まで到達するため、出来るだけ毎日、記事投稿を続けていこうと思います。

また、徳島の阿波踊りと第九交響曲につきましては、後日あらためて何かしら書いてみようと思いますが、こうしたハナシにつきましては、さきの文系の師匠の方が明らかに本物であり、こうしたハナシを題材として講演・特別講義などを希望される方がいらっしゃいましたら相談に乗らさせて頂きます。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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前掲書籍の主著者である師匠による歯科材料全般、いくつかの歯科材料を題材とした勉強会・講演会の開催を検討されておりましたら、よろこんでご相談承ります。師匠はこれまで長年、大学歯学部・歯科衛生・歯科技工専門学校にて教鞭を執られた経験から、さまざまなご要望に対応させて頂くことが可能です。

*上記以外の他分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談も承ります。

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2018年12月2日日曜日

20181202 1129の記事から、ディオニソスをスサノオとしてみると・・トリック・スターと二面性?

おかげさまで11月29日投稿分の記事『 ベートーベンの第九交響曲と阿波踊りに共通・通底することディオニソス的?』はこれまでに多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。また、この記事にて述べたニーチェによるディオニソス的・アポロン的といった芸術・文化類型は、我が国で知られたものに当て嵌めて考えてみますと陰陽道が多少近いと思われ、あるいは我が国の神々をそれぞれの性質を考慮し当て嵌めてみますとディオニソスがスサノオ、そしてアポロンがアマテラスとしても、そこまで大きく外れではないようにも思われますが、如何でしょうか?

とはいえ、そこからディオニソスとスサノオの神としての性質を全く類似したものとして考えてみますと、そこまでハナシは単純でなく、スサノオの場合、ディオニソスのような不可視な陶酔的・情熱的・内面にある未だカタチを為さないエネルギーに満ちたものと認識してしまうと片手落ちであり、他面において、木々の種類による道具としての用途を定めたり、我が国初の和歌を詠み、そして人間界を襲う大蛇を計略にて打ち倒すといったことをも行っているのです。


つまり、神々のいる場所においては、陶酔的・情熱的なエネルギーのままにふるまい、周囲の神々の手を焼かす(困った)存在であったのが、追放された先の人間界においては、理知的な振る舞いにより、頭角をあらわし、出雲・山陰地域の統治者にまでなったわけですが、おそらくこのモノガタリ・神話の主な源流は、アジア北部にて顕著にみられる天孫降臨系の神話の一つであり、それらはおそらく微妙な出自地域・部族などの相違からモノガタリのディテールが変化し、具体的には出雲神話のハナシのタイプは朝鮮半島南東部の新羅地域あたりに顕著に見受けられるタイプであったのではないかと思われます。また、同時にこのタイプは後代の渡来神である天之日矛(アメノヒボコ)のモノガタリとも類似性があると云え、その伝承は西日本の日本海側に多いことからも、この考えは補強され得るものと考えます。

さて、そこからハナシを最初に戻りますと、ディオニソスとスサノオの大きな違いは、おそらくディオニソスが陶酔的、情熱的なエネルギーのままにて創造活動を行うのに対し、スサノオは神々の中においては陶酔的・情熱的なエネルギーのままにふるまう、いわば困ったキャラクターであったのに対し、追放先の人間界においては理知的に振る舞い、活動する優れたリーダーというキャラクターとして描かれ、そこから看取されるトリック・スター的とも云える二面性から、何と云いますか、我が国性質全般に見受けられる『建前と本音』などの二面性の根源に近い性質、原型のようなものを認めることが出来るのではないかとも思われるのですが如何でしょうか?

そういえば、もう一つ、ベートーベンによる第九交響曲と云えばスタンリー・キューブリック監督の『時計仕掛けのオレンジ』を忘れてはダメであり、この作品に登場する第九交響曲をこよなく愛する主人公アレックスもまさしく、ニーチェが第九交響曲を『このうえなくディオニソス的な楽曲である』と評したのと同様、陶酔的・情熱的なエネルギーのままに(暴力的にも)ふるまう、いわば困ったキャラクターであったのが、傷害致死による懲役を機に、意を決して真人間・善人になることを試み、政府の企画する心理的な実験に自ら参加するのですが、ここで大変面白いことは『意図的なプログラムによる心理的施術により、もとにあった(暴力的ではあるものの)生のままの人間的エネルギーは壊変・改変され、総じて能動的に活動することが出来ない人間になってしまっていることが社会にて問題視されるところ』です・・。

また、ここまで書いていますと、否応なく我が国近現代の栄枯盛衰の歴史あるいはその社会自体が想起されることは、ペシミスティックと評されるべきことなのでしょうか?

ともあれ、そうしたことから、やはり科学技術・医療分野のみだけでなく人文社会科学分野も同等に重要であると思われるのですが、おそらく昨今の我が国社会は、この分野において、急速に劣化しているように思われるのですが、さて、如何でしょうか?

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2018年11月30日金曜日

20181129 ベートーベンの第九交響曲と阿波踊りに共通・通底することディオニソス的?

昨日来の風邪は、いくらかはよくなりましたが、やはりまだ風邪気味であるといえます。さて、そうした中、本日は所用のため博多に出向いておりますが、やはり博多は九州第一の都会であり夜になっても街全体が明るいです。ともあれ、そうした街並みを移動のために歩いていますと、さまざまな建物、店、看板などから、その街の個性・特徴のようなものを感じとることが出来ます。

また、このようにして、ある地域・街の個性・特徴などを看取しようと試みるのは、社会学者や民俗学者がよく行う手法であると云え、あるいはフィールド・ワークを研究方法として用いる文系学問領域にて共通する手法であるのかもしれません。

さて、そのような視座から、今現在離れている徳島について考えてみますと、以前の記事においても述べましたが、徳島県は日本で、アジアで初めてベートーベンによる第九交響曲が全楽章演奏された場所とされています。この第九交響曲は、元々18世紀半ば頃にはじまる疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)の時代のドイツの思想家・詩人であるフリードリッヒ・フォン・シラーの『歓喜に寄す』という詩を題材として作曲されたものですが、この詩いや、同時代の時代精神自体が、疾風怒濤と評されるほどに、理性に対する感情の優越を主張するような傾向を持っていました。また、そうした視座を得ることにより、しばらく後のドイツの哲学者・思想家であるフリードリッヒ・ニーチェがおそらく、その著作『悲劇の誕生』にて『ベートーベンの第九交響曲はこのうえなくディオニソス的な楽曲である。』と述べていたことが了解され得るのではないかと思われます。【*この著作が『悲劇の誕生』であったかどうかは確信がありませんが、ニーチェがその著作の何れかにて、そうしたことを述べていたことは、大分以前の記憶ではあるものの、間違いではありません。興味のある方は是非、ご確認してみてください。】そういえば、古代ギリシャの文化に精通していたニーチェによる、さまざまな文化のディオニソス的、アポロン的といった類型分類は、かなり大雑把に述べますと、ディオニソス的とは不可視とも云える陶酔的、情熱、内面にある、未だカタチを有さない混沌としたエネルギーに満ちたものであり、他方アポロン的とは、理知的・造形的であり可視化・洗練されたものといった感じが強いものと云えます。

その上でベートーベンの第九交響曲が『このうえなくディオニソス的な楽曲である』という評価は、確かに納得出来るのではないでしょうか?さて、そうした特徴を持つとされる楽曲がアジア、日本で最初に全楽章演奏されたのが丁度100年前(1918年)の徳島県であり、またその同じ県では、阿波踊りの際の『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損』といったフレーズ、そして、この祭りの際のよく分からない熱気(情熱と言い換えても良いかもしれない)からは、洋の東西の違いはあるものの何かしら共通・通底するものがあるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?

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2018年11月29日木曜日

20181118 惰性や中毒と意地の違いから思ったこと・・

師走まで間近のこの時期に風邪をひきました。くわえて本日は雨模様の一日であり、気温もあまり上がらず、さらに本日はいくらか帰宅が遅くなったことから、ブログ記事作成などせずに、早く就寝した方が良いと考えていましたが、案の定、PCを立ち上げネットに接続してみますと、どうも新しい記事の作成をはじめてしまいます・・(苦笑)。

ここまで書き続けても、この先特に良いことが確実にあるというわけでもないのに、何故、私はこの行為を続けてしまうのでしょうか?そして、ここまで来ますと『継続は力なり』というよりもむしろ、惰性あるいは中毒といったコトバの方が適切ではないか?とも思われるところですが、それでも同時に、そこにはいくらかの努力もあると思われることから、惰性や中毒に付随する後ろめたさのようなものはなく、記事作成の後には、既に慣れて麻痺してしまいましたが、わずかに達成感のようなものもあります。

とはいえ、現在においては、この達成感のために記事作成を行っているというわけでもなく、半ば意地のようなもので継続している部分も少なからずあると云えます。そして、そのように考えてみますと惰性や中毒と意地の本質的な違いは、あるいは傍から見れば同一に見えるある行為の基層にあるマインド・セットにあるのではないかと思われました。おそらく、こうしたマインド・セットといったいわば精神の状態は、外からは分からず、いや、本人でも分からないことも多々あるのではないかと思われます・・。そして、それ故に自身のブログについて、さきに述べたが如く『ああでもない、こうでもない』といった意見を何の衒いもなく書くことが出来るのかもしれません・・(笑)。

ともあれ、そのようなことを書いていますと、自然と脳裏に浮かぶのは、コトバ・言語とそれが示す対象の関係です。このことは以前にも何度か書きましたが、何であれ、文章で何かを書き続けるに際して、かなり重要であるように思われるのです・・。

このことは昨今、自分がよく分からない体系の言語を聞き、用いざるを得ない時によく感じることですが、その意味で自身はコトバ・言語と、それが示す実態を深くまで認識・把握している体系なり分野などはあるのだろうか?とも思うところですが、しかし、こうしたことも、おそらくさきの惰性や中毒と意地の違いのように、本人ではよく分からないことであるのかもしれません(笑)。

あるいはそうしたことを出来るだけ上手く表現するためにブログ記事の作成を行っているのかもしれません・・。
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2018年11月28日水曜日

20181127 合理的でないことの価値・・創造性?

A「どうですか、最近は何か面白いことはありましたか?」

B「・・ええ、どうでしょうか・・毎日が面白いと云えばそうですし以前、医療法人に勤めていた時と比べますと、その扱う分野が一つだけではないというのが、新鮮であるかもしれませんね・・。まあ、それでもこの年齢で今まで知らなかった分野のバックグラウンドをある程度まで知るのは相当難しいとは思いますがね・・(苦笑)。」

A「はあ、やはりそういったところが大変なのですか・・。それでもBさんの専門分野はたしか歯科の材料でしたよね・・時々は、その分野の先生方とは会われることはあるのですか?」

B「ええ、それは『なくもない』といった感じです・・。また、時折は出向いた先の先生方にご挨拶に伺うこともありますが、大体はメールや電話でのやり取りですね・・。それでも、そうしたやり取りで、何と云いますか、新たな考えや最近の動向などを知ることが出来ますので、そうした交流はかなり大事であると思いますね。」

A「まあ、そうした事情は自分ひとりではなかなか分かりませんし、また、ねつ造するわけにも行きませんので、さまざまな情報を収集するうちに蓄積されたもの、あるいはそれら情報が重なり合いピントが合ったところが、その実際の様相を示しているのではないでしょうかね・・。」

B「ええ、そうですね。また、そうしたことは対象が何であれ、大体同じであるように思います。つまり、何と云いますか、帰納法のようなものではないでしょうか?そして、面倒であるのかもしれませんが、そのNを増やすことにより、より精確な平均値あるいは標準的な像といったものを得ることが出来るのではないでしょうか?」

A「ああ、それはそうかもしれませんね・・。また、それと関連してBさんも同意されると思いますが、歴史などはまさにそういったものであると思います。つまり『これさえ知っておけば大丈夫!』というものがないのです・・。こうした考えは学校の勉強のようなものとは相矛盾するようでして、丁度この辺りで重要になってくるのが、その人の個性といいますか向き不向きのようなものであると思います・・。」

B「ええと、それは『これさえ知っておけば大丈夫』というものがなくとも自然に続けてしまう勉強なり活動に対するそれぞれの方向性といったものでしょうか?」

A「・・そうですね。多分、そうした活動の方向性・傾向に、その人の個性といったものは現れると思いますので・・。そして、これから先の時代は、さまざまな周辺機器を利用して、それを最大限にまで伸ばす、活かすことが大事であるように思います。そして、おそらく、そうした人間の活動に対しては人工知能もしばらくは追いつくことが出来ず、あるいはそうしたものは、今後、創造的となった人間と人工知能を備えた機器との『いたちごっこ』の様相を示すようになるのではないでしょうか・・。」

B「ああ、たしかに人間の人間たる所以は『創造』が関連しているのかもしれませんね。そして、そのように考えてみますと、これまで継続的に作成しているブログも一応、創造であるのかもしれません・・(笑)。」

A「うん、公表する文章を書く、そして、それを続けるというのは、そこまで簡単なことではないと思いますし、それに、そうした精神状態をある程度の時間、持ち続けることも、まあ簡単ではないと同時に、あまり合理的であるとは思えませんね・・(笑)。それでも、何かが内面に生じるまで、その合理的でない活動を続けてみるというのは、事後から見ると、しばしば、そして、いくらかは創造的ではあるのかもしれませんね・・。それでも、このあたりの兼ね合いに関しては、おそらく、どんな哲学も宗教も合理的な解答を用意していないのではないように思いますね・・(笑)。」

B「ええ、多分それは人工知能が人間を対象とした哲学や宗教を創造し、さらに、それを多くの人々が信じるようになるまでは、起きないように思いますが、しかし、そうした事態が実際に生じたら、その後の人間はどうなってしまうのでしょうか・・?あるいは平和で安定した社会にはなるのかもしれませんが、同時にそこからは科学や芸術の進化発展といった創造性はあまり望めない、ある意味、去勢されたような社会になってしまうのではないかと思います・・。」

A「・・ええ、たしかにそうかもしれませんね・・。そして、ですから先ほどの「いたちごっこ」を、たとえ、その行為が合理的ではないと知りつつも自然に続けてしまうような本能に裏打ちされたとでも云える内から湧き起こる気力が大事ではないかと思うのです・・。」


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2018年11月26日月曜日

20181126 書籍からの抜粋引用ばかりで記事を作成しない理由・・歴史意識を磨く意味?

おかげさまで昨日投稿分の記事(主に書籍からの抜粋引用)もまた、比較的多くの方々に読んで頂きました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた、本日も、書籍からの抜粋引用を以て投稿記事にしようと、つい先ほどまで考えていました。たしかに、この手法にて記事作成・投稿を行うのであれば、かなり長期間にわたって比較的容易に記事作成を継続することが出来ると思われます。しかしながら、この手法に一たび慣れてしまいますと、自身で文章を作成することが困難になってしまうおそれがあると考え、本日も含めて以降、出来るだけ自身の文章にて記事作成を行い、そして時折、挿話的に書籍からの抜粋引用を用いるのが当ブログ本来の目的である自身の文体の獲得・文章能力向上のためにも良いのではないかと思われました。そのため、当ブログにて書籍からの抜粋引用の方が比較的楽しく読むことが出来ているという皆さま、まことに申し訳ありませんが、以上の理由により、今後も出来るだけ自身の文章にて記事作成を行わせて頂きます・・。

さて、昨日投稿分記事にて抜粋引用した作品は、戦争小説に分類されるものの、その記述は、主人公の回顧的な独白により物語が進行するわけですが、この独白の仕方がきわめて独特であり、当引用部末尾にもわずかにありましたが、作中にて主人公が経験する出来事が同じく主人公の読書経験の記憶と結びつけられることにより、ハナシの時代背景が古今東西に飛ぶことから、その筋についていくことが困難に感じられることがあります。しかし他方で、こうしたハナシの進め方は、さきに述べた手法としての書籍からの抜粋引用と同様、かなり長い物語とすることも出来るのではないかと思われました【実際の記憶と読書の記憶の掛け算か・・】。

くわえて、少し前の著述家の多くは、こうしたことをあまり痛痒を感じることなく、自然に出来ていたのではないかと思われます。このことを異言しますと、一つ一つの述べるところの意味が深く、さらに、それらの結節の仕方が自然で洗練されているといった感じであると云えます。あるいはまた、帰納法にて用いるピースの一つ一つに味があり、同時にそれらはインターネットで簡単に入手できるような知識ではなく、さらにその組み立て・構成にセンスがあるといったところであるとも云えます。

こうした視座から、昨今作られた我が国のさまざまな文学作品、映画などについて考えてみますと、どうも過去に作られたものと比べ、全体的に深みがなく、何と云いましょうか、史実への忠実さといった意味での重厚さが乏しいのではないかと思われるのです。あるいはそれはPCやCGといった、さまざまな映像制作技術の進化発展により、作中にほんのわずかに登場する小道具などに特にこだわらなくとも、ある程度のものは作成出来てしまうといった事情があるのかもしれませんが・・。

これは映画など映像においては如実に看取出来ることですが、おそらく昨今の小説などに関しても、もとにある戦争体験者による著作(たとえば大岡昇平、山本七平など)を後代の著述家がその記述をコピーし、さらにコピーしていくといった間に、著述全体がボケてくるといったことが生じているのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、こうしたコピーに次ぐコピーをしている時代は、多くの場合、実際の戦争体験を持たないで済んでいる平和な時代であるとも云えることから、理想的であるのかもしれません。しかし、そのコピーに次ぐコピーを行っているまさにその時、何らかの間違い、勘違いのようなことがなかば必然的そして無意識的に生じ、内面より次の戦争の準備をしていくことになってしまうのではないかとも思われるのです。そして、それ故に、たとえ直接的な経済的利益に結びつく可能性はかなり低くとも、歴史意識を磨く意味、そしてまた、歴史全般が研究として不断に為される価値といったものがあるように思われるのです。

その意味において、昨今のエンターテイメントのようなもの(のみ)として映画・小説などが歴史を扱うことにより、特に我が国の場合、どうも変な方向に行ってしまうことが多いようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

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2018年11月25日日曜日

20181125 昨日投稿記事【書籍からの抜粋引用】が多くの方々に読んで頂いたことから・・【主に書籍からの抜粋引用 大西巨人著 『神聖喜劇』第一巻pp.543-546

一昨日投稿の書籍からの抜粋引用部は、その後、現在に至るまでかなり多くの方々に読んで頂けました。また、それは自身が作成する記事と比べてもかなり多いことから、多少複雑な思いもなくはないですが、ともあれ、これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。くわえて、この記事と関連があるのか分かりませんが、記事投稿後、いくつかの方面の先生方よりご連絡を頂きました。とはいえ、こうしたことを関連付けて考えてみますと、その後の記事作成が変に力んでしまうこともあり得ることから、とりあえず書くだけは書き、あまり気には留めず、記事作成を継続していこうと思います。

さて、一昨日のような書籍からの抜粋引用による記事投稿が比較的多くの関心を持って頂いたことから、今後しばらく、このフォームにて記事作成をして行こうと思います。そして本日は、これまでに何度かブログ記事にて取り上げ、また、一度その文章を記事として抜粋引用させて頂いた大西巨人著『神聖喜劇』(第一巻)からにします。

光文社刊 大西巨人著 『神聖喜劇』第一巻 pp.543-546
ISBN-10: 9784334733438
ISBN-13: 978-4334733438


『わざわざこの場まで出かけてきた二人の上官がひきつづき事態を傍観している理由も、私に明快でなかった。彼らの意図は何か。もしも彼らが彼らの臨場という事実の威圧によって大前田の火を吐く舌端を牽制しようと欲したのであったならば、それはすでにみごとに失敗したと見られるべきであろう。もはや彼らは、積極的に介入しなければならぬのではないか。だが、昼食喇叭の余韻をさえぎって発言したのは、村上少尉でも山中准尉でもなく、またしても大前田軍曹であった。

『お通夜にでん行ったごたぁる顔を拵えて、うんともすんともぬかさんが貴様たちも、これで少しはわかったろうな。おれだけが、うんにゃ、おれたちだけが、日本軍だけが、あってあられんごたぁるめずらしいことをしよるなんち思うなよ。なんぼチャンコロちゅうても、敵もそげん甘うはない。貴様たちの目にゃ、「日本勝った、支那負けた」で、戦争は万事すらすらっと行きよるごと見えとるかもしれんばってん、―またそれじゃけん、いまは勝ち戦の日本だけが、あってあられんごたぁるめずらしいことをしよるごと目立っとるかもしれんばってん、殺し合い取り合いぶっ壊し合いの根比べともなりゃ、チャンコロも隅にゃ置いとかれんぞ。あぁ、おれはこの目で現地を見て知っとる。なかなかどうして隅にゃ置いとかれるもんか。新聞やラジオやらで「残敵」、「残敵」なんち言い触らすとばっか聞いとったら、まるで支那の軍勢は残り少のうなってしもうたごと貴様たちは思うとろうが、聞くと見るとじゃ大違いよ。それにまた赤のゲリラ部隊は、あっちでもこっちでも執念深う出たり入ったりしとる。もう五年もかかり切りでやっとるちゅうとに、いっちょも片付いとりゃせんじゃろうが?その上に今度は毛唐が相手よ。毛唐とチャンコロとどっちが余計隅に置いとかれんか、知れたことか、「毛唐。」、「毛唐。」ちバカにして、あんまり嘗めてかかっとりどもしょうもんなら、いつか日本も太えまちがいをするとじゃなかろうかねえ。・・・なんせ南方じゃ、あってあられんごたぁるめずらしいことが、いろいろありよるじゃろうなぁ。ありよるにちがわんじゃろうなぁ。』

南方戦線に関して独白調で感慨しながら天空をもろに仰いだ大前田の満面に、正午の光があざやかな膜を張った。その光の膜が不意に歪んで罅割れて、得体の知れぬ悍ましい薄笑いが音もなく現れた。七、八秒あと、薄笑いと光の膜とを諸共に振り捨てた大前田の真顔に、ふたたび帽の庇に隈取る影が下りた。彼の垂れていた右腕が右横へおだやかにしなやかに持ち上げられるのを私は見ていたが、たちまち彼は、そのたなごころで右外股を一打ち丁と打った。

『いまは「日本勝った、日本勝った、米英負けた」ととんとん拍子で運んどるごたぁって、結構なことよ。この調子で、今年の夏か秋にゃカリフォルニア州はサン・フランシスコへんに敵前上陸するちゅう話もある。十一月三日の明治節ごろにゃアメリカもイギリスもお手上げじゃちゅう話もある。そのとおりに行きゃ世話はあるめいが、どうじゃろうか。「ほんとにそうなら、うれしいね」じゃなかろうか。おれにゃようはわからんが、お隣の支那さん一つさえ、六年がかりで持て扱うて、埒は明いとらんちゅうとに、遥か太平洋の向こうの大きな国を二つも相手にしといて、置いた物を取るごとそげん気安う見縊っとると、当てがはずれるかもしれん。勝ち戦のうちはぇぇ。ばってん、まだこれまでのところは、こっちから手近な先様の田舎出店を二つ三つたたき潰しにかかっとるちゅうだけで、アメリカ本店、イギリス本店をぐらりとでもさせたとじゃない。万が一、日本が負け戦になってみろ。いんにゃ、日本が負けてしまうことはなかじゃろう。まぁ仕舞いにゃ勝つじゃろうが、万が一、途中で形勢が悪うなって、敵が内地に攻め上がちゅうごたぁることになってみろ。日本人大ぜいが毛唐の軍隊からどげなあってあられんごたぁるめずらしい目に会わせられるか、考えるだけでも、おれはぞっとする。味方が負け戦になって敵が攻め入って来りゃ、否も応もなしに必ずそげな目に会わせられるとじゃ。そげんことになってから、なんぼあわてふたいめいても吠え面かいても、もう間に合やせん。上つ方か耶蘇教坊主か何かのごと聖人ぶるかして、「日本の戦争は、そげなあってあられんごたぁるめずらしいことをしよるとでありますか。」なんちゅう美しい寝言を言うたりしとったら、反対に自分たちが敵から思う存分そげなことをされにゃなるめえぜ。こっちが勝ち戦のときにゃやらかすことを、敵も勝ち戦のときにゃやらかすまでよ。そげな美しい寝言は、味方が味方にむかって言うはずのもんじゃない。味方が敵にむかって言うはずのもんじゃ。さもなきゃ味方が敵から言われるはずのもんじゃ。そうして何をどげん言おうと言わりょうと、とどのつまり「勝ちゃ官軍、負けりゃ賊軍。」ちゅうわけぞ。それが戦争よ。・・罷りまちごうて、もしも日本が負け戦にでもなろうもんなら・・・。』

しかし大前田は、語を中絶した。彼は、左手を帯剣の柄から放ち、その手の平で、面上のほとんど出てはいないであろう汗をぬぐい取るように額から顎までを一度ねんごろに撫で下ろすと、ここの太陽の下に不存在の何物かを見つめるかのように、この上なくむごたらしい何事かを思い描くかのように、薄目を作って、眉を顰めた。そのあやしげな面体で、数秒時間の沈黙を彼は守った。大前田の饒舌の内容よりも、むしろその憑かれたような止めどのなさが、今更に私は気味が悪くなってきていた。その話題の野放図な飛躍発展に反して、彼の声色は、―書き抜きの棒読みのような孤独な穏便な有様からわずかに変化していたけれども、―甲高くも荒々しくも上っ調子にもなっていなかった。そのくせ、そのおしなべて単調な地味な声音の長ったらしいつながりには、ある超現実の気違いじみた熱気が立ち籠めているようであった。癇癪を起したドストエフスキーが不断の彼は片言でしかしゃべられないドイツ語を流暢にあやつって啖呵を切っているというような図が、なぜか私に連想せられていた。』