2016年12月1日木曜日

20161201 500記事に到達したならば・・昨日の続き主に「邪視」

A「今回の記事投稿にて500記事到達まで残り5記事を切ることになりますが、あまりそういった実感といったものはありません・・(苦笑)。

また、たとえ500記事に到達したとしても、その後自身がどうすれば良いものかとは考えておりません・・。

そうしたことは、実際に500記事目の投稿を終えた後になり、自然と内面から涌出してくるのではないかと考えております・・。

とはいえ、この程度まで継続的な記事の作成を行ってきたのであれば1週間程度の「意識的」な断筆を試みることは、それはそれで面白い実験ではないかとも思われるのです・・。

そして1週間経た後、猛烈に何かを書きたいと思うか、あるいは、そのまま自然に何も書かないで大丈夫であるかとは、自身の性質の一つを知る上において、ある程度有効であると考えます。

これまでに何度かブログ記事において記してきましたが、おそらく私は文章を記すことが、少なくともキライではないと考えます・・・。

しかし一方において、自身が記すことの出来る内容、主題とは、ある程度限定されるということも、これまでの記事作成において知り得ました(あまり知りたくなかったのかもしれないが・・)。

また、それは、記事を投稿した直後において示される反応の一つである、過去に投稿した直近記事と類似した主題、内容を持つ記事の閲覧者数が増加するということにより否応なく知覚されるのです・・(苦笑)。

しかしながら、そうした反応も含めて示される全般的な反応とは、基本的に悪意に基づくものではなく、何といいますか「もっと書け!」と励まされているように思われるのです・・(笑)。

そうしたことの直近の具体例を示しますと、昨日投稿した「シンボル、フィギュア、祖霊像などについて」を投稿した直後、4カ月近く前に投稿した「20160810」の閲覧者数が増加し、そこから、この記事を直近投稿記事のコメントとして追加した次第です・・。

両記事を読んで頂きますと、その関連、類似性に納得できるのではないかと思います。

とはいえ、そうした反応が速やかに為されるのは、少なくとも現在のAI、人工知能では、なかなか難しいのではないかと思われます・・。

こうした文面表層に示されない文脈、コンテクストの関連、類似性などの知覚とは、また、ある種複雑なものであると思いますので・・。

恥ずかしながら、両記事を記した本人が、そうした反応により、その関連、類似性を知り得たくらいです・・(苦笑)。

それ故、この反応とは、ブログ記事を閲覧して頂いている方々によるものであると考え、また同時に、そうした方々とは、文章の読解(自身の悪文も文章と見做して(笑))のセンスが、少なくとも私よりも上等であると思われます・・(苦笑)。
(そうであるからといって何も自慢にはなりませんが・・(笑)。)

そして、ここまでは認めますが、しかしながら・・では、そうした関連、類似する主題、内容を持つ記事をほぼ無意識で4カ月の間隔を空けて記すことは可能であるか?と問うた場合、おそらくそれは意識的には可能なのでしょうが、そうしますと、それは企図されたものとなり、果たして閲覧して頂いた方々が反応を試みるに足るものとなるのでしょうか・・?

・・いささかヤケクソ気味の答弁、抗弁とも聞こえましょうが、しかし我々人間の創造性の原初的な発動とは、こうしたほぼ無意識による「やり当て」に近いものであり、また、そうであるが故にそうしたものに対して、これまた原初的な反応が為され、結果的に、更なる創造性が惹起、発動されるのではないでしょうか・・?

ヤケクソにはじまり、いささか希望的な観測でもありますが「創造のはじまり」とは、そのようなものであると私は考えます・・。

また、昨日投稿の「シンボル、フィギュア、祖霊像などについて」をもう少し考えてみますと、いかめしい顔(笑顔でない)を持つ男性像が現れる大隅の大人弥五郎どん、悪石島のボゼ、東北のねぶた祭り、なまはげ・・の持つ意味とは、その根源においては、おそらく邪視による破邪の効果を狙ったものではないかと思われます・・。

(そういえば南方熊楠の論考で「邪視(Evil eye)について」というのがありました・・。)

また、私見ではありますが、こうした邪視による効果を願った祭祀全般とは、我が国の辺縁地域に比較的多く認められるのではないかと思われます・・。

それは、辺縁であるが故に古い祭祀形態、観念が残存したことによるのか、あるいは当初より、それら地域には、邪視が効果を持つという祭祀、民俗文化が定着、継続し易い文化的土壌がかねてより存在していたことによるものであるかは分かりません。

とはいえ、昨今の首都圏を中心に見られる女性にとって都合の良い笑顔の男性がもてはやされるご時世であるからこそ、一方において、こうした祭祀、民俗文化の持つ意味、価値を再考してみることは、少なくとも、あながち悪いことではないように思われるのです・・。

また、ここまで記して不図思ったことは、これら地域とは、人口の男女比において比較的女性の方が高い比率を示しているということも、あるいは何か関係があるのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




20161130 シンボル、フィギュア、祖霊像などについて・・

先日不図見かけた書籍の頁に木彫の大分ディフォルメされた人物像(木像)らしきものの画像が載っていました。
その木像が何時の時代の、どの地域のものであるかの説明は見ませんでしたが、その作風からして南太平洋の何処ではないかと思われました・・。

また、日本におけるこうしたものについては、これまでに幾分か見てきたこともあり、大体の時代および地域の見当をつけることは出来ると考えます。

私見となりますが、それら古の観念に基づき製作された何らかのシンボル、フィギュアとは、現在の我々をも強く惹き付ける何かがあると思います・・。

そして、さらにその中で特に惹き付けられ、心に引っ掛かるものとには、もしかすると、そこには相応の理由があるのかもしれません・・。

そのような理由に基づき、ある古の製作物の来歴等を調べておりますと、その途上において、思いもよらぬ考えが浮かぶ、あるいは現代において見知っている他の何かとの関連を突如、示唆(その多くは明示まで強烈ではない)されることがあります・・。

また、その感じとは夏目漱石著「夢十夜」内の「第三夜」のようであるともいえます・・(そこまで強烈ではないが・・)。

私はこの短編の中に、ある種の人間内面における普遍性を見出します。

ともあれ、ハナシを戻し、そうしたことが自身の内部で、ある程度頻発していた時期に、それら考え、関連性が「何故」浮かんできたのか?とは考えず、ただ、その更なる根源、源泉への遡上を専ら書籍・文献の捕集を通じ試みていたように思われます・・。

こうした作業においては、能動・積極性の方がより有効であると云えます。

とはいえ、これを現在考えてみますと「何故、当時はそうした考え、関連性が頻繁に脳裏に浮かんできたのか?」ということの方が、より不思議、重要なことであるように思われるのです・・。

また、それと同時に、そうした経験の蓄積、複合化により、我々人間とは、何かを『知った』と思い至るのではなかろうかと思います・・。

その意味において、翻って考えてみますと、当初に挙げた古に製作されたシンボル、フィギュアとは、その時代、地域の人びとが「知った・知っていた」考えを具現化したものであるといえます。

そして、それらを現代の我々が見た時に直観的に感じることとは、そこに地域的な繋がりが存在するのであれば、やはり、そこには何らかの意味があり、また言語による概念化を試みる価値(時代を貫く何か)があると云えるのではないでしょうか・・?

そして、特に自国の歴史、文化等においては科学、客観的な認識、概念化と同時に、こうした一種の「同一化」を試みることを通じ、内面から理解する必要性があると思われるのです・・。

また、この「同一化」を生じさせる契機として古来より認識されていたものが「眼」およびその周辺であったのではないかと考えます・・。

ハナシを再び冒頭に戻し、これら古の観念に基づいて製作されたシンボル、フィギュアとは、世界中遍く、両目周辺を強調し、さらにその表情に笑顔が少ないといった特徴があると云える。

多くのそれらは「祖霊像」と認識されているが、たしかに最大公約数的に、その見解とは間違っていないと考えます。

また、我が国における古いその典型とは福田型邪視紋銅鐸であるといえます。

そしてまた、現代においてそれに比定されるものとは「ゴジラ」ではないかと思われますが如何でしょうか・・?

また、その間には「大魔神」といった、より「祖霊像」に近い存在もありましたが、そうしたもの(シンボル、フィギュア、祖霊像)は、往々にして変化なしの直球とは、受け入れられないことが多いのかもしれません・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。





2016年11月29日火曜日

20161129 「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の微妙な兼合い、関係

A「ここ最近また一段と気温が冬めいてきました・・。
この時期になりますと、どうも書籍を身を入れて読むことが出来なくなるのかもしれません・・(苦笑)。

そのためか、先日読了した「楡家の人びと」以来、これといった著作に出くわすこともありません。

しかしながら週末には大体書店に出向き、何かしら探しておりますので、今後またしばらくしますと、自然と次に読むべき著作に出くわすのではないかと、前向きに考えております・・(笑)。

しかし、そうしたことを意識的に見ますと、この書籍などを読み「面白い!」と感じる源泉とは、一体何であろうか?と思うに至ります・・。

おそらく、この感覚とは変化し続けるものであるのでしょうが、それと同時に、各々場面の状況においても、ある程度、有意な影響を受けているのではないかと思われます・・。

また、それと同時に、昨今、いや、かねてより「書籍を読むことは大事である」といった意見は巷に流布され、また、そうした傾向が社会において生じ続けております。

しかしながら、さきに記した「書籍を面白いと感じる源泉とは何であるか?」という疑問に即し考えてみますと、同じくさきに記した「書籍を読むことは大事である」という社会傾向とは、各々場面の状況として果たして必要であるのか?と思ってしまうのです・・。

つまり「書籍を読むのが本当に好きであるのならば、わざわざ社会の傾向により読書などを促される必要性はない」ということです・・。

また、それに加え、その時々で、自身が面白いと思う書籍を探すことの方が、より一層能動性に即した行為ではないかとも思われるのです・・。

しかしその一方において「書籍を読むことは大事である」という社会傾向の継続により(本当に)書籍を読むことが好きな人が徐徐に増加していくのかもしれません・・。

これは今現在の自身が、この社会傾向により恩恵を受けているとは感じられないことから、幾分斜に構えて見てしまうのかもしれません・・(苦笑)。

いや、あるいはここにもまた、以前投稿したブログ記事にて記した「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の微妙な兼合い、関係といったものがあるのかもしれません・・。

そして、ここで思うことは、感覚的な私見とはなりますが、様々な行為・行動をとる上で「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」の双方共に重要であったとしても、特に我が国社会においては全般的に古来より「ネガティブ・ケイパビリティ―」優位ではないかと思われるのです・・。

そして、おそらくそうしたことが、国家間の様々な文化・風習・制度の相違の根源に近い部分に横たわっているのではないでしょうか・・?

しかしながら、こうしたことはかねてより云われており、陳腐なことではあるのかもしれませんが、同時に「書籍の選択」を背景の文脈として思ったこととしては、古今類例があるのでしょうが、それなりに意味があり、また、たとえ、なかったとしても物笑いのタネにはなりますので、それなりの意味はあるものと信じ、書き続けます・・(果たして本当そうであるのか?)(苦笑)。

さて、では何故、国々の間において「ネガティブ・ケイパビリティ―」あるいは「能動・積極性」優位の社会が形成されてきたのかと考えてみますと、その理由とは単純に「その辿ってきた歴史にある」ものと考えられます・・。

そしてハナシがここに至りますと「唯物史観」「構造主義」といったコトバが脳裏に浮かんできて、さらに続いて「下部構造が上部構造を決定する」といったコトバもまた浮かんできます。
しかし果たして、こうしたハナシ(歴史、文化などの比較)とは、そこまで公式化出来るものであろうか?とも考えさせる、あるいは疑問を生じさせる「きっかけ」こそが、能動的な書籍の選択、そしてそれに続く読書の意味ではなかろうかとも考えさせられるのです・・。

とはいえ、そうであるからといって我が国社会が全般的に「ネガティブ・ケイパビリティ―」優位であると考えることに対しては未だ(能動的な)疑問を抱けないのが現状であるといえます・・(笑)。

しかし、それも決して悪いことばかりでもないのですが・・それでも悪いところが以前(昭和時代)に比べ目立つようにはなってきているのかもしれません・・。

そうしますと、これは「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「能動・積極性」よりさらに奥、基層にある何かの変化、劣化によるものであるのでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んでいただき、どうもありがとうございます。

さきの熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震より被災された地域の諸インフラの早急な復旧、そしてその後の復興を祈念します。」











2016年11月28日月曜日

20161128 色々とハナシは飛びますが・・生命力の「燃焼」の程度

先日投稿したブログ記事にて2013年9月、鹿児島からの帰郷時における原宿付近での出来事を記しました。

そして、現在ではその出来事にある行動を採ることは困難であるように思われます・・。

むしろ、現在となっては、何故、当時(2013年9月)は、そのような行動をスムーズに採ることが出来たのか?の方が不思議に思われるのです・・。

そう思い返してみますと2013年当時の私と、現在2016年の私の間には大きな相違があり、さきのブログ記事に記した状況における対応、反応に限定して云えば別人になってしまったと表してみても決して言い過ぎではないと思います・・。

また、こうしたことをわざわざ(掘り返してまで)言語化、文章化することとは、どこかしら若い頃の悪行を自嘲・自慢半分半分で語るオジサンを連想してしまい、2013年の行為、現在の(そのことを言語化、文章化する)行為、共に我がことながら、あまり感心することは出来ません・・(苦笑)。

では何故、現在私がこの過去の「愚行」を再度ブログ記事の題材としているかのかと考えてみますと、それは、過去の自身(の特に行動)が理解出来ないことは、それが夢や架空の出来事でないのであれば、かねてより当ブログ記事にて歴史(過去の実際の出来事)の重要性を力説、標榜している私としては「灯台下暗し的な盲点」として認識されることにより、もう少し、その意味を考えてみた方が良いと思われるからです・・。

それ故、ハナシは元に戻し、具体的に2013年9月と現在の私の間には如何なる「相違」が認められるのでしょうか・・?

この問いに対し即座に感覚的に思い起こされる、一連のブログ記事にて用いてきたコトバとは「D2病」です・・。

端的に云えば2013年9月の私とはD2病の真っ只中にあり、それに対し現在の私とは、少なくともそこから大分寛解しているのではないかと考えます。

そして、それが両時期の間に見られる顕著な相違であり、また現在では理解不能な程の断層を生じさせる要因であるとも思われるのです・・。

とはいえ、ここで不思議に思うことは、2013年9月の出来事も現在と同様、自身の経験・記憶でありながら、何故、前者に関しては、その行為を行わしめた背景である、当時(2013)の精神、心の現実性を感覚的に内面から理解することが出来ないのであろうか?ということです・・。

そして、そのような状況を異なる視点から考え、さらに説明可能なコトバの抽出を試みますと、そこに「憑き物」「憑依」「Obsession」といったコトバが浮かんできます・・。

また、上に示したこれらコトバも以前投稿したブログ記事にて述べたことがありますが、そうしますと2013年当時の私は何かに「憑かれていた」とも表することが出来るのではないかと思います・・。

では、何に憑かれていたのかと考えてみますと、これもまた以前のブログ記事にて述べたものではありますが「Erdgeist」つまり「地霊」のようなものではなかったのだろうかと思われるのです・・。

また、この考えから更に歩を進めてみますと、この2013年の状態が、これもまた以前ブログ記事に記しましたが、「ハレ」(ハレ・ケガレのハレ)の状態であったのではないかとも思われるのです・・。

さらに加え、それはまた「躁的状態」ともまた、大きな関連性があるのではないかとも思われます。

以上、2013年9月の自身に対し思ったことを述べましたが、この後の反動とはかなり大きなものであり、自身の生命力に少なからぬ危惧を抱く結果となりました・・(苦笑)。

もしも(一定、有限の)生命力の「燃焼」の程度に差があるとすれば、この時の私とは、相対的に見て(著しく)強く燃焼していたのではないかと思われるのです・・。

そして、再びそうした状態になった場合、今度は上手くヒット・ポイントをずらし、持続可能性を維持することが出来るのではないかと、これまでのブログ記事作成での経験を通じ何やら得たような感じがしなくもありません・・(苦笑)。

しかし、実際のところは本当にそうなのであろうか・・?

また、これも畢竟、主観的仮説の積重ねであるといえば、そうであるので・・(苦笑)
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年11月27日日曜日

20161127 「ネガティブ・ケイパビリティ―」と「積極性」「能動性」何れが先行するものであるか・・?

A「本日の首都圏は一日中グズついた天候でした・・。
また、気温も上がらず、あまり自身の活性も上がらなかったように思います・・。

さて、先日投稿したブログ記事にて「ネガティブ・ケイパビリティ―」について記しましたが、こうしたものとは、まさに本日のようなあまり活性の上がらない時に、その価値が認められるのかもしれません・・。

自身の活性の上がっている時とは、おそらく他の多くの方々もまた、活性が上がり、ブログ記事の作成を含め、何かしらの行為をするのに適していると考えられるからです・・。

あるいは、そうした活性が上がるのが他の多くの方々と異なる場合もまたあるかもしれませんが、一般的に考えてみれば、前者のようになることが多いのではないかと思われます・・。

しかし、そうであるからといって「ネガティブ・ケイパビリティ―」のみが重要である考えるのはおそらく間違いであり、さらにその深層、基層においては、何らかの「積極性」「能動性」がなければ、さまざまなことを継続することは困難であるものと考えます・・。

あるいは、当初はイヤイヤであっても、何かしらの行為を継続することを通じ、自身のより根本(深層、基層)の性質に適した「何か」を発見することが出来るのかもしれません・・。
さらにまた、それは消極的努力の継続により、自身の深層、基層にある積極性、能動性に働きかける何らかの「鉱脈」を見つけるに至るのかもしれません・・。

そして、そのように考えてみますと、消極的努力と積極性、能動性では何れがニワトリ・タマゴの先行するものであるかと考えるに至りますが、私見では、積極性、能動性の方が、各個人の内面奥に(当初より先行して)存在し、それを探し当てるための行為の継続に必要な性質が消極的な性質を持つ「ネガティブ・ケイパビリティ―」といったものではないかと考えます・・。

また、そのように考えることにより、これまでどうにか継続的に作成してきたブログ記事のことが腑に落ちる、納得することができるのです・・。

もっとも、これはあくまでも私見であり、他の方々の場合においてはまた、状況が異なることもまたあろうかとは思いますが・・。

しかしながらハナシを自身のことに戻し続けますと、自身行為の継続に必要な「ネガティブ・ケイパビリティ―」とは、ブログ開始当初より一定したものではなく、それは(間違いなく)ブログ記事閲覧者の皆様がいたことにより、保持あるいは増加することが出来たといえます・・。

つまり、全くの孤立無援の状況の中で、消極的な努力(ブログ記事の作成)を継続することは、自身にとって困難もしくは「無理なハナシ」であり、どうした経緯によるものか、読んでくださっている皆様に助けられて継続することが出来ていると表して良いと思われます・・(笑)。

また、考えてみますと、こうしたことは何もブログ記事作成に限定されるものでもなく、世の様々な行為において、こうした背景とは遍く存在するのではなかろうかと思われるのです・・。

しかし、そうであるからといって、それに寄り添うのではなく、寄り掛かることは、如何なものかと考えますので、今後とりあえず500記事までどうにか記事を作成し続けたいと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」





20161126 着想が訪れない、浮かばない時には・・鹿児島からの帰郷時の出来事

本日のブログ記事投稿により投稿総記事数が491となり、目標とする500記事まで残り10記事を切ることになります。
これに対し特に感慨らしきものはなく、今後もしばらく、この調子にて投稿し続けるつもりです・・。

とはいえ、本日もまた作成記事の主題は決まらない状態にて作成をはじめ、今現在何を書こうかと、その着想が訪れるのを待っている次第、状態です・・(苦笑)。

しかし、着想を待つとはいっても、確実に着想が訪れてくれるわけでもなく、特に本日に関しては、その着想がなかなか湧かず、訪れず、多少困った状態であるといえます・・(苦笑)。

こうした状態においてこれまで採ってきた手段とは、書籍からの抜粋引用であるのですが、500記事到達が目前にあるといっても良い現状において、その手段を用いるのも、如何なものであるかと考え、今現在そうした思いを記している次第です・・。

また、こうした自身の意識の状態、流れを記すことにより記事の着想が多少は湧く、訪れ易くはなるのでしょうか・・?

これまでのところ、こうしたことをある程度記していると、何かしらの記事主題に至る着想が自然に(この自然というものが実に曖昧であり、現在のところ、それ(自然およびそのメカニズム・作用機序)を言語化することは難しい)湧く、訪れるのですが、その自然なるものを言語にて記す、語ることを試みることにより、あたかも逃げ水のように、その(着想の)光明が遠ざかっていくものであるのかもしれません・・。

しかし、そうであるとしても、ここで言語による表出を諦めてしまうと、もとの木阿弥であり、逆にそうであるからこそ、ここで踏みとどまり、言語による表出の継続を試みる必要・重要性性があるのではないかと思われます・・。

そして、ここにブログ記事作成の継続のある程度重要なカギがあるのではないでしょうか・・?

もちろん、作成記事の着想を得るとは、何らかの主題、ネタが自身の中に言語化可能な程度に顕現、明示されることであるのですが、あるいはそれと同時に、現在のような着想が思い浮かばない状態においては、そうした意識の状態、流れを記すことによってもまた、さきに述べた着想とは「異なった経路」ではあるものの、結果的には記事の主題を得たのと、ほぼ同様の状態となるのではないかと思われます・・。

とはいえ、そうした状態にて記した文章が果たしてある程度(この概念も曖昧ですが)の同意を得ることが出来るかどうかとは、また別問題ではあるのですが・・(苦笑)。

そうしますと、これはどちらかというと、単に内心の満足を得るための方便であると採ることも出来ますが・・(苦笑)。

しかしながら、そもそも、これまでに作成したブログ記事とは、以前、周囲の方々に勧められはしたものの、その作成および継続とは、全面的に自身の能動性に委ねられたものであり、何らの義務によるものではありません・・。

それ故、今回の手法により作成された記事もまた、それが内心の満足を得るためのものであったとしても、それは本質的には以前の手法により作成されたものと、そう大きな相違はないのではないかとも考えられるのです・・。

そして、ここまで書いていて不図思い出したことは、その脈絡がよく分かりませんが以下のことです・・。

2013年9月に自動車(軽・鹿児島ナンバー)にて鹿児島より帰郷の折、東京に入り305号線・明治通りにて原宿を抜け走行していると、左側に東郷神社が見えたため、速度を少し緩め、神社を向いて軽く会釈をしたところ、後続の外国製SUV車にけたたましくクラクションを鳴らされ、追い抜かれました・・。

その直後、私は何を思ったか、このSUV車を追いかけ、追いつき窓を開け顔を出し、思い切り運転席の方を睨み「コラーッ!」と叫んでおりました・・。

現在考えてみますと、おそろしくバカなことをしたものであり、また、ここにその内容を記すのも(大分)気が引けるのですが、その意味において、当時の私とは、やはり多少おかしかったのではないかと思います・・(苦笑)。
(また、そうであるからといって現在はおかしくないとは言い切れないが・・(苦笑)。)

とはいえ、今現在なお、そうした気持ち自体とは、内心にて持つ限りにおいては、そこまで悪いものではないとも考えますが・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島県周辺にて発生した大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」




2016年11月26日土曜日

20161125 ネガティブ・ケイパビリティ― 消極的能力・消極的受容力について・・

A「本日も若干帰宅が遅くなりました・・。

さて、昨日投稿のブログ記事に関連して思うことはネガティブ・ケイパビリティ―というコトバであり、これは和訳すると消極的能力、消極的受容力といった感じになるものと思われます・・。

そして我が国の通史的な傾向として、多くの史家、研究者等が指摘するものに上に示したコトバとも関連があると思われる「受容性」が挙げられます・・。

この「受容性」については、今更帰納法的に様々な具体的史実・事実を取り上げるまでもないと考えますが、たしかに我が国の持つ通史的な傾向の一つとして、この性質(受容性)が挙げられるものと考えます。

今までの自身のブログ記事においては、どちらかというと、内面からの「能動性」に多くの価値を払ってきたのではないかと思われますが、しかし、その能動性が如何にして、その場その場の現実に適合、噛み合い、駆動させる形で発露されるのであるかと考えてみますと、実はそこに、こうした消極的能力、消極的受容力の価値があるのではないかと考えさせられるのです・・。

そして、その意味において、多くの試練ともいえる苦行的なもの全般の持つ価値があるのではないかと思われます・・。

しかしながら、おそらく我が国においては総じて、そうした試練、苦行的なものに「のみ」価値を払う、認めるようになり、それ(試練、苦行)をさらに締め付けたり、解放したりといった「制御」(人知に関わる)の部分に関しては概ね、その出来具合が不明な個々の精神をも含めて大らかに扱い、あるいは専ら「神の見えざる手」に委ねているのではないかと思われるのです・・。

また、これにに関しては「いじめ」についても本質的には同様な考えが我が国社会の基層に根強く存在するのではないかとも思われます・・(良い悪いは抜きにして)。

そして、そうした古来よりの人間社会をも包括した我が国の自然観、社会観とは、人間と自然を切り離す傾向が強い欧米的な価値観とは本質的いや最終的にはソリが合わないのではないかと思われます・・。

しかしながら、明治から現代に至るまでの我々の近現代史とは、反動的な傾向を持つ時代(それはいつの時代にもあった)もありましたが、それは概ね段階的な社会の欧米化であったのではないかとも思われます・・。

またそれは国内地域においても時代により濃淡があるのではないかと思われます・・。

そして、そうした視座から現代の我が国の社会を眺めて見ますと、なかなか興味深い光景が広がっているのではないかとも思われるのです・・。

また、それはさておき、ここまで記してして、今回のブログ記事投稿により総投稿記事数が490に到達することに気が付きました・・。

そうしますと500記事まで残り10記事ということになりますが、全くそうした感慨もなく、おそらく500記事に到達しても、何かしら書き続けることになるのではないかと思います・・(苦笑)。

そしてそれが私なりの深層からの能動性により惹起せられた消極的能力、消極的受容力といったものではないでしょうか・・(苦笑)。

いや、案外これが大事であるのかもしれない・・(笑)。

何れにせよ、今後も気負うことなく、思ったことを記し続けようと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

さる熊本、山陰東部そして昨今の福島周辺にて発生した大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」