2024年3月2日土曜日

20240302 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」 pp.150-151より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」
pp.150-151より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

 戦後資本主義は社会福祉を制度内に組み込んで、以前にも増して強固になりました。だが、問題がないでもない。今の社会が民主主義ならば、国民の力は強いはずです。しかし、別のものが大きくなっていないでしょうか。

五〇年前を思い出せば、町役場、市役所、区役所は規模が今の五分の一くらいでした。古い役所と新しい役所、有楽町の旧都庁と新宿の東京都庁を比べれば、庁舎がいかに大きくなかがわかります。そして、その分、行政権力も強大になっている。一方、当の住民の力が強くなったとはいえない。「みんな」と言いながら、本当のところ役所が大きくなっているのです。

 そのように、政治機能がとてつもなく大きくなり、政治家がやらなければいけない仕事は桁外れに増えました。今の政治家は気の毒です。私は年に二回くらい永田町に行く用事があるので知っていますが、朝七時五〇分の自民党本部前、日本中であそこほど、人が頻繁に出入りしている場所ではありません。他は警察と自衛隊関連の施設くらいでしょうか。八時前から勉強会、会議に出て、宴会の後帰るのが一〇時、一一時。

議会の審議でときどき居眠りでもしなければ身がもたない。彼らが特に優秀になったという話も聞きません。私は固い信念がありまして、人間の頭が動くのは一日に四時間が限度です。それ以上の頭脳労働は絶対無理です。仕事は増えて、時間は足りないので、オーバーワークで、頭がズタズタの綿みたいになっているはずです。寝る暇もないようなオーバーワークをぜざるをえない理由は、政治機能の肥大化にあるのです。

 福祉国家と民主主義の両立、資本主義の将来性には、依然としてそのような問題が残っていますが、共産主義が潰れたので、資本主義が手放しにいい、ということになってしまいました。

その点については、私が敬愛するケインズによる「自由放任の思想がここまで人々に信用されてきたのは、それを攻撃した社会主義や共産主義の人たちがよほど出来が悪かったからだ」という誰も引用しない名言があります。半世紀前によくこんな傲慢でありながら鋭い指摘をしたと感心させられますが、今の時代、この意味をもう一度噛み締めるべきでしょう。

ケインズは経済学者ですが、難解な理論は専門家にまかせておいて、彼の素晴らしいのは人物評伝であり、ちょっとした発言であり、さらにその中の批判や悪口です。「自由放任の思想がこれまでのさばってきたのは、資本主義と自由放任を批判する思想があまりにもくだらなかったから」と一刀両断です。共産主義との対抗関係があったから、自分たちのシステムが本当にいいのか悪いのか考えてくるのを怠ってきた。その点を今こそ考えるべきではないでしょうか。

2024年3月1日金曜日

20240229 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.131‐133より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.131‐133より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

養老 防衛費の拡大で気になるのは、戦前の轍を踏まないかということです。「天皇制」といっても、天皇の下にはいつも武力をもった幕府がありました。日本の歴史を見れば、天皇制の中から鎌倉幕府という暴力集団が成立し、江戸幕府まで続きます。尊王攘夷の明治政府も同じ構造です。一〇〇〇年近く続けてきたものから簡単に抜けられるのでしょうか。
 言い換えると、暴力をいかに言語で統制するかという問題を本気で考えているのかということです。「シビリアン・コントロール」といいますが、そもそも英語ですから。自分の国の言葉にもできないようなことが身につくのかよ、と思います。

東 重要な指摘だと思います。おっしゃるように、日本は武家支配が長い軍人国家です。鎌倉幕府以降、一九四五年までずっと武士や軍人の時代だったわけで、むしろ戦後日本のほうが軍政の影がない様な稀な時期でしょう。だから軍人以外の人たちこそが社会の実体だ、ということをあまり真剣に考えたことのない国なのかもしれませんね。

茂木 戦後日本の出発点となってGHQだって、つまりは「アメリカ軍」だもんな。つまり日本国憲法は「軍政」の下でできた。

東 軍政下で作った平和主義です。だから朝鮮戦争が起きたら即、脱臼されてしまう。

茂木 第九条だって本当は、「戦力は保持しない、但しアメリカ軍を除く」というのが実態で、日本国内に軍はずっとあったんですよね。

東 日本の民主主義の起源として、「船中八策」とか「五箇条の御誓文」を持ち出してくる人がいるでしょう。けれど、僕の理解では、民主主義というのはまず人民が力を持つ、人民こそが社会の本体であるという発想が必要なんですよね。「和が大切」というのとはちょっと違うし、「みんなで決める」といっても「偉い人がみんなに意見を聞く」だけではだめなんです。自分たちで決めないと。けれども日本では、みんなでわいわい言ったあと、「偉い人」が決めて丸く収めてくれるのを民主主義だと思っているふしがある。ある意味で権威主義的な国だとも言えますよね。

養老 そうですね。憲法の問題にせよ、民主主義の問題にせよ、今の状況だとどうも空中戦のように思いますね。

2024年2月29日木曜日

20240228 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」 pp.93‐95より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」
pp.93‐95より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188501
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188504

 保守もリベラルも抽象的な目標では一致する。たとえば弱者を支援しろといわれて反対する政治家はいない。けれどもリベラルはそこで、できるだけ広く「弱者」を捉え、国籍や階級、ジェンダーなどを超えた普遍的な制度を構築しようとする。それに対して保守はまず「わたしたち」のなかの「弱者」を救おうとする。むろん、その「私たち」の内実は事例により異なる。「わたしたち日本人」のこともあれば「わたしたち男性」「わたしたち富裕層」のこともある。いずれにせよ、そのような共同体を優先させる発想、それそのものがリベラルにとっては反倫理的で許しがたいということになる。他方で保守にとっては、身近な弱者を救わなくてなにが政治だということになろう。いまの日本の保守とリベラルの対立は、抽象的な主義主張の対立としてというより、そのような連帯の感覚の対立として捉えたほうが理解しやすい。

 これは、いまの日本で使われている保守とリベラルの対立が、本書でいう閉鎖性と開放性の対立にほぼ重なっていることを意味している。保守は共同体が閉じていることを前提としている。そのうえで仲間を守る。それに対してリベラルは共同体は開かれるべきだと信じる。だから保守を批判する。

 それゆえ、ここまで検討してきた開放性をめぐる逆説は、保守とリベラルの非対称性を考えるうえでも重要な示唆を与えてくれる。法や制度は万人に開かれねばならない。それは正しい。だれも反対しない。けれども肝心の閉鎖性と開放性の対立がそれほど自明なものではない。

 現在は左派に階級闘争のような実質的な理念がない。それゆえ、いまの左派、つまりリベラルは、自分たちの倫理的な優位を保証するため、形式的な開放性の理念に頼るほかなくなっている。けれども、ここで繰りかえし指摘してきたように、開かれている場を志向すること、それそのものが別の視点からは閉鎖的にみえることがある。これはけっして抽象的な話ではない。現実にいま日本のリベラルは、彼らの自意識とは裏腹に、閉じた「リベラル村」をつくり、アカデミズムでの特権や文化事業への補助金など、既得権益の保持に汲々としている人々だとみなされ始めている。

 そんな意見は一部の「ネトウヨ」が言っているだけだ、と鼻で笑う読者もいるかもしれない。その認識は誤っている。左派への厳しい視線はもはやネットだけのものではないし、日本だけのものでもない。たとえば二〇二一年には、作家のカズオ・イシグロのあるインタビューが話題になった。彼はつぎのように述べている。「俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなど飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」[★43]。イシグロは二〇一七年のノーベル文学賞受賞者で、リベラルを代表する世界的な作家である。そんな彼が漏らしたこの述懐は、現在の「リベラル知識人」たちが、世界の市民と連帯しているかのようにふるまいながら、じつのところは同じ信条や生活習慣をもつ同じ階層の人々とつるみ、同じような話題について同じような言葉でしゃべっているだけの実態を鋭く抉り出している。

 保守は閉ざされたムラから出発する。リベラルはそれを批判する。けれども、そんなリベラルも結局は別のムラをつくることしかできないのだとすれば、最初から開き直りムラを肯定する保守のほうが強い。いまリベラルが保守よりも弱いのは、原理まで遡ればそのような問題なのではないか。

2024年2月27日火曜日

20240226 現在読み進めている著作の淵源にあるもの・・

昨日の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2146に到達しました。私の場合、記事作成の方に注力していますと投稿記事数への注意が乏しくなる傾向があるようです。また、昨日の引用記事の作成により不図、判然としたことは、引用記事作成の場合、ある程度、作成に要する時間が読めるため先の予定も組み立てやすいと云うことです。このことは、あらためて重要であると思われました。しかしながら、そのために引用記事作成が習慣化しますと、自らによる記事作成が困難になると思われるのです。そのため以前に述べましたように、たとえ現在が「引用記事作成のレジーム」であったとしても、出来る限り、こうした記事の作成をした方が良いと思われるのです。

さて、かねてより読み進めているオーランド ・ファイジズ著「クリミア戦争」は、先日ようやく下巻に至り、その後も興味深く読み進めてはいますが、やはりこの年齢(40代後半)になり、あまり読む機会がなかった歴史的出来事について、ある程度、専門的に扱った著作を読み進めることは、それなりに困難が伴います。しかし同時に云えることは、当著作は去る2022年2月以来の第二次宇露戦争がなければ読むことはなかったということです。

他方、2022年の露軍による侵攻以前から当地域の情勢は緊迫化していたことは周知であり、そうした情勢をもう少し知るために、私も2022年以前からロシアの軍事を扱った新書などは数冊読んでいました。それでも現在思い返してみましても、何故当時、それらの著作を選び、読んでいたのかは判然としないのです。そしてまた、そうした経緯から、今回の第二次宇露戦争を「予言」したと思うことは全くありません。

とはいえ、こうした感覚自体はおそらく私にとって初めてであり、また、いまだ明確に言語化することは出来ていません。それでも、こうした認識の感覚を記憶しておくことにより、今後認識する過去・未来の出来事に対しても、この認識の感覚を一つの指標、基準として用いることが出来るのではないかとも思われるのです。ともあれ、それ故に、出来るだけ理解を得つつ書籍を読み進めるのことは、多少難しいのかもしれませんが、なお面白いのかもしれません・・。

そして、そうした経験が年数の経過と共に蓄積していきますと、やがて井筒俊彦が儒教の教えとして挙げていた「脱然貫通」のような、さらに相変態した認識へと至るのではないかとも思われるのです。

また、こうした「認識の相」といったものはSNSなどを見ていますと、しばしば看取され、そして、そこから「文は人なり」という諺の由来をあらためて認識させられもします。また、先日投稿の記事にて述べた「ギャップの認識が創造を生む」もまた、そこに何らかの関連があるようにも思われます。

そのように考えますと、ブログ記事作成のような活動の継続のためには、出来るだけ内向的にならず、自らにとって新たな経験を求めた方が良いのだと思われます。しかし、今現在、春は近いとは云え、いまだ寒い日が続いていますので、内に籠りたくもなります。そうした時に敢えて外向きにするのは好奇心なのでしょうか、あるいは、何らかの義務感なのでしょうか、はたまた、それらが混合したものなのでしょうか・・。いずれにしましても、これまで読まなかった、否、読めなかった分野の、ある程度踏み込んだ著作を読めるようになったことは、ポンコツを基調とする私としては、それなりに進歩であるとも思われるところですが、さて実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年2月26日月曜日

20240225 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.171-174より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.171-174より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

日本のテロリズムを追求する場合、神風連とならんで、どうしても見のがすことができないのが、二・二六の思想である。

われわれは、そこに、日本テロリズムのメタフィジクともいうべきものを明瞭に見ることができる。そして、とくに、あらゆるメタフィジクにともなう究極的な二律背反、逆説の凄まじい肉体化をそこに見ることができるであろう。

二・二六の青年将校の思想ないし信仰は、とくに磯部浅一、栗原安秀、村中孝次らの獄中遺書に鬼気をはらんだ姿で示されている。

例えば磯部の遺書はあたかも大魔王ルチフェルのごとき呪詛と反逆のパトスにあふれ、村中のそれは冷徹な異端神学者の弁証によってつらぬかれている。そして、彼らの灼熱した頭脳から奔流する思想は、いずれもある絶対的な二律背反に激突して黒い焔の中に挫折している。

 彼らの厖大な遺書が多少とも北一輝の「日本改造法案大綱」によって打ち出された国家批判の方法につらぬかれていることはいうまでもないが、全体として、その観点にもとづく熱烈な護教論的調子のものである。

それは行動の弁明や弁解を全く意図しておらず、むしろ激しい攻撃的批判の趣きをそなえている。たとえば「世紀の遺書」などと全く異質のものであり、日本人の遺書としてはほとんど稀有のものとさえいえよう。かれらの己の刑死を陰謀による虐殺として、絶対に容認していないのであり、何らの意味でも容認しようとはしていない。かれらの遺書にあふれる阿修羅のような気魄は主としてそれにもとづいている。

 問題は彼らのテロリズムの正当性の根拠である。その点について、磯部は書いているー

「死刑判決主文中の〈絶対に我が国体に容れざる〉云々は、如何に考えてみても承服出来ぬ、天皇大権は干犯せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ、剣を以てしたのが国体に容れずと言うのか、兵力を以てしたのが然りと言うのか

 天皇の玉体に危害を加えんとした者に対しては忠誠なる日本人は直ちに剣をもって立つ、この場合剣をもって賊を斬ることは赤子の道である、天皇大権は玉体と不二一体のものである。(略)忠誠心の徹底せる戦士は簡短に剣をもって斬奸するのだ。〈略〉天皇を侵す賊を斬ることが国体であるのだ。国体を徹底すると国体を侵すものを斬らねばおれなくなる、而してこれを斬ることが国体であるのだ、云々」(傍点引用者)

遺書全体をとおして、国体擁護の求道的行動が、なぜテロリズムを正当化するかという点については、ほとんど論証されていない。

わずかに磯部がここに記したていどの暗示しか見られないのであり、むしろ「斬奸」は自明のものとして考えられていたようである。同じ磯部の手記の中に、同志の河野寿が語った思い出が記されているが、それは少年の頃、天皇の行幸を迎えた時、もし天皇に危害を加えようとする人間が飛び出したら、お前たちはどうするか、という河野の父の問いに対して河野もその兄も答えなかったところ、その時は飛びついていって殺せ、という教訓が与えられたという話である。

なぜその場合個人的テロリズムが許されるかについて、河野は「私は理窟は知りません。しいて私の理窟を言えば、父が子供の時教えて呉れた、賊にとびついて殺せと言う、たった一つがあるだけです」と語ったといわれている。磯部はこの話を録したのち「其の信念のとう徹せる其の心境の澄み切ったる余は強く肺肝をさされた様に感じた」と述べている。

 磯部自身のテロリズムの考え方もそれと同じ起源をもっている。しかし、前掲の文章の中に含まれる一種の逆説は、何人にも明らかであろう。

つまり、彼は一面では自然人としての天皇(=玉体〉の擁護を理由とするテロリズムの積極的容認と、理念としての「国体」擁護の現実的多様性との間にある亀裂を感じとらねばならなかったはずであり、それ故にこそ、天皇大権=国体という客観的理念と「斬ることが国体」という強烈な主観性との矛盾をそこにあらわすことになっている。

いわば、自然人としての天皇擁護が、かえって恣意的な国体にもとづく一切の行動(テロリズム)の容認として理念化されるという矛盾がそこにある。

 ここに孕まれた悲劇的矛盾は、二・二六の行動に対する権力的処置の明確化の後に、もっとも激烈・凄惨な姿であらわれている。

つまり、ほとんど宗教的情熱にもとづく求道として追求されたまさにそのもの(天皇)の名によって、かれらの行動全体の絶対的拒否が表明せられたとき、そこにいかなるドラマが生じうるかということである。そこにはほとんど神学的な問題が含まれる。たとえば、一生を賭して善行を追求した人間が、ある絶対者によって徹底的に拒絶されるというカルヴァン的な問題にそれは似ている。磯部の獄中の手記が、ほとんど「ヨブ記」を思わせるような凄まじい呪いを奔騰させており、悪鬼羅刹の面影をあらわしているのは理由なしとしない。それは日本の国体論者が、その限界状況において、かえって致命的な国体否定論者に転化する劇的な瞬間を記録している。

2024年2月23日金曜日

20240223 ギャップの認識から創造が始まるのでしょうか?

本日は久しぶりの休日の金曜日でしたが、日中は別件の書類を作成していました。また、先週のことを思い起こしてみますと、先週の金曜日は木曜日に続き文章を作成しており、その日はおそらく合計で1万字程度の文章は作成したと思われます。また、日に1万字の文章を作成しますと、私の場合、芯からグッタリと疲れるような感覚があります。しかしながら、それがあったからこそ、その後に投稿した比較的長めの雑文記事2つに加え、PTSDと着想の類似性について述べた記事の作成に至ったのではないかとも思われるのです。

これを換言しますと、先週の長めの文章作成によりエンジンが掛かり、その後、幾つかの長文記事の作成に至ったということになります。しかし、そのエンジンは現在も掛かっているのかと問われますと、それは掛かっていないように感じられますが、しかしながら他方で、自らの文章で、あまり苦慮せずに、この程度の長さの文章を作成出来ていることは「引用記事作成のレジーム」と、つい先日述べていた私からしますと、それなりに変化が認められるようにも思われるのです・・。

また、そのようにして思い返してみますと、以前、当ブログにて、自らの文章で継続的にブログ記事を作成するためには「ある種の精神のスタンス」を保持する必要があると述べていたことが思い起こされますが、この「精神のスタンス」を内面にて惹起そして保持するために、読書や読書の一形態とも云える引用記事の作成などが効果的であったのかもしれません。

そして、この読書については、ここ最近は引用記事のネタ探し以外での読書は専らオーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上巻であり、当著作は、私にとって、これまであまり馴染みの少ない歴史的出来事を専門的に扱ったものであり、読み進めるのにそれなりに難儀はしていますが、しかし、こうしたことは面白いもので、ある程度まで読み進めますと、あとの方が自然と読み易くなっているのです。

何のことはない、それは自分の方が、読み進めることにより、その著作の文体に乗せられているだけであるのだと思われますが、しかしながら、読み手である自分が自然と文体に乗せられるためにも、おそらく、それなりの読む訓練が必要であるのだと思われます。そして、そうしたことを実感するのが、外国語の勉強をしている時であると思われます。

外国語、ここでは英語を具体例として述べますと、私は大学院博士課程までは、そこまで英語を熱心に勉強したという自覚はありませんでした。またさらに以前に溯りますと、ホテルフロント勤務にて用いる一般的な英語は、おそらく扱うことが出来ていたのだと思います。

しかし、であるからと云って、その言語の文章で書かれた論文や小説などを能動的に読んでみようと思うことは全くありませんでした。

ただ、映画などに関しては、文系の師匠から時折届くお便りに、そうしたことが書かれていたり、あるは同封の冊子などの記事に書かれており、それらに基づいて映画作品などをDVDでレンタルして観ますと、やはり、それなりに歴史的背景などの含蓄があり面白く思われました。

また、映画での興味深く感じたセリフを英語字幕にして、それを一時停止して辞書引きして意味を調べるといった遊びのようなことをしていました・・。

そして、さきの文系師匠からの経緯で知った映画作品の一つがノーベル賞受賞作家(当時はまだですが。)カズオ・イシグロ原作(残念ながら原作はまだ未読です。)によるジェームズ・アイヴォリー監督の「日の名残り」(1994)という作品でした。

当作品の主人公は英国貴族の屋敷に務める執事であり、その言葉の用い方などが参考になるかと思われましたが、しかしながら、文系師匠のセンスらしく、1930年代後半、徐々にきな臭くなってきた戦間末期での欧州国際情勢の様相が縮図的にその屋敷に展開しており、そうした事情により「言葉の用い方云々」は全く関係なく、興味深く観ていた記憶があります・・。

しかし、そうした西欧を舞台とした映画をDVDにて興味深く観ていた私は当時、どの季節であっても大概、濃厚な自然の薫りがする南紀白浜にてホテルフロントとして勤務していました。

つまり、観ている映画の舞台は「西欧」でありながら、それを観ている私の方は「照葉樹林文化圏ド真ん中の西日本」にいたわけです。そして、こうしたいわば強くギャップが感じられるところから、あるいは否応なく何かが創造されるのではないかとも思われます。

それは、先述のオーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上巻を読み進める際に感じた西欧的な要素が、負荷となって、しかしそれが同時に燃料ともなって、我が国の金属文化や青銅器について述べた比較的長めのブログ記事に変換されたのではないかとも思われるのです・・。

また、こうしたことは皆さまの内面においても、思いのほか日常的に生じているのではないかとも思われますが、さて、如何でしょうか?

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2024年2月22日木曜日

20240221 我が国の青銅器文化についての雑文

二千数百年前、弥生時代後期の西日本では、中国地方を中心として東西二つの文化圏が存在しました。それぞれ、西は銅剣や銅矛を祭器とする文化圏であり、東は銅鐸を祭器とする文化でした。中国地方の中心とも云える出雲地方では、さきの東西双方の文化圏にて特徴的な祭器である銅剣・銅矛と銅鐸が、それぞれ多量に出土しており、そこから、双方勢力の接点であったのと同時に、双方に対して強い影響力を持つ勢力が出雲にいたことが理解出来ます。また、そこから記紀にある「国譲り神話」のようなことが実際に、当地であったのではないかと考えさせられるのです・・。

さて、この出雲地方にて出土が多い銅鐸は、元来、朝鮮半島およびさらに北部の遊牧文化での家畜の首に下げる鈴を祖としたものであり、それが徐々に大きくなり、我が国に至っては祭器となり、さらに大きくなり、装飾性も高くなり、全長1mを越えるような近畿式・三遠式銅鐸へと至るのだと云えます。

換言しますと、銅鐸祭祀文化での最終形態の銅鐸が近畿式・三遠式であり、双方共に大きく、装飾性が高く、比較してみますと、近畿式の方がより、形態が繁縟的で縄文以来の文化が引き継がれていることを思わせ、他方の三遠式の方は、形状の華やかさよりも、むしろ、描かれた文様の線の職人的な巧みさの方に目がいき、当三遠地域が我が国近代工業の祖の地であったことにも通底する何かがあるのではないかと考えさせられます。また他にも銅鐸は文様や取っ手部分の断面の形状などからの分類の仕方がありますが、分かり易いのが、後期式を代表する近畿式と三遠式とそれ以外に分類するのが、簡便であると思われます。そして、この「それ以外」をさらに細かく分類していきますと、技術の進化、それぞれの時代の新旧や形式の伝播の仕方なども理解することが出来るのではないかと思われます。

そうした中で大変興味深いと思われる銅鐸の一つが和歌山市の太田・黒田遺跡から出土した銅鐸です。これは全長30㎝ほどの最初期型よりかは少し大型化した弥生時代中期に作製されたものであり、面白いことは、その作製に用いたのと同じ鋳型により、さらに四つの鋳型が作製されており、それらは全て島根県雲南市の銅鐸の国内最多出土として知られる、加茂岩倉遺跡にて出土していることです。そこから、それらが作製された当時から、紀ノ川下流域と出雲地方には、祭祀を基軸とした同盟関係があったのではなかと考えられます。

また、30㎝ほどの大きさの場合は、鋳型の型を材料となる石に刻み込む、彫り込むことが可能でしたが、これが大型化しますと、石を用いた鋳型では作製が困難となり、粘土にて鋳型を作製してから内子を設置して、それらをある程度熱してから溶湯状態の青銅を流し込むことになりますが、この粘土による鋳型に溶湯を鋳込むと、鋳込まれた青銅器を取り出す際に、通常の手順で考えますと鋳型を破壊することになります。

そうしますと、同じ鋳型にて作製された銅鐸とは、同時に大型の近畿式・三遠式では存在しないことが、技術の進化の一般的な様相から理解することが出来ます。

そしてまた、粘土に文様を比較的自在に刻み込むことが可能な、大型の近畿式・三遠式の銅鐸は、自然と文様が多く、高装飾になっていったのかが理解出来るのではないかと思われます。

ともあれ、その後、銅鐸が祭器として用いられていた弥生時代の水稲耕作社会に大きな変化が生じたのが3世紀初頭でした。この時代から、それまでの弥生時代が終り、古墳時代に移行したとされています。つまり、多少の端境期はあったと思われますが、それまでの祭祀に用いていた銅鐸を地下に埋納秘匿して、代わりに、地域毎での首長霊を祀る墳墓を祭祀の基軸とする古墳時代へと比較的短期間で変化、収斂していったものと思われます。

そして、このあたりの経緯を伝えるのが、さきに述べた「国譲り神話」であると思われますが、さきに挙げた太田・黒田遺跡の銅鐸と同じ鋳型にて作製した銅鐸全てが出雲地方で出土していることも、さらに出雲での国譲りではなくとも、和歌山には複数、神武東征による土着勢力の国譲りの話が伝わっており、そのために、多くが、地域第一の神格を持つ神社が一ノ宮と称されており、和歌山でのそれは、旧国造家が代々祀っておられる日前神宮・國懸神宮(通称:にちぜんさん)がそれなのですが、地元では、その他に二つの一ノ宮があるとのことでした。それらは丹生都比売神社と伊太祁󠄀曽神社ですが、これらの神社には元来、日前神宮・國懸神宮の場所にあったのを、神武東征による国譲りで、少し離れた所に行かされたとのことであったが、この地域では、おそらく他の地域と比較して、神武東征に関しては、それなりにリアリティを持っている方々がおられるのではないかと思われます。記紀で神武東征の際に神武勢と戦ったとされる登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)との河内湖沿岸での上陸戦で手に矢傷を負った神武天皇の兄、五瀬命は亡くなってしまい、紀伊国に上陸して土着の女酋長を誅してから、五瀬命の遺骸を葬ったとされています。そして、この墳墓があるとされているのが、和歌山市内の竈山神社です。そしてまた、面白いことに、さきの紀州に上陸して成敗されたとされる女酋長を祀る社も、その比較的近辺にあるのです。こうした神武東征時とされる説話の断片が、その登場人物を祀った古社の存在によって、ある程度現実感を以て迫ってくるのではないかとも思われました。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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