2024年1月5日金曜日

20240105 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 pp.71-74より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 
pp.71-74より抜粋
ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375

進化論的な人間至上主義は、人間の経験の対立という問題に、別の解決策を持っている。ダーウィンの進化論という揺るぎない基盤に根差しているこの人間至上主義は、争いは嘆くべきではなく称賛するべきものだと主張する。争いは自然選択の原材料で、自然選択が進化を推し進める。人間に優劣があることには議論の余地がなく、人間の経験どうしが衝突したときには、最も環境に適した人間が他の誰をも圧倒するべきだ。

野生のオオカミを絶滅させ、家畜化されたヒツジを情け容赦なく搾取するように人類を駆り立てているのと同じ論理が、優秀な人間が劣悪な人間を迫害することも命じる。ヨーロッパ人がアフリカ人を征服し、抜け目ない実業家が愚か者を破産に追いやるのはは善いことだ。もしこの進化論的な論理に従えば、人類はしだいに強くなり、適性を増し、やがて超人が誕生するだろう。進化はホモ・サピエンスで止まらなかった。まだまだ先は長い。ところが、もし人権や人間の平等の名のもとに、環境に最も適した人間を去勢したら、超人の誕生が妨げられ、ホモ・サピエンスの対価や絶滅まで招きかねない。

 では、超人の到来の先駆けとなる、その優秀な人間たちとは誰なのか?それはいくつかの民族全体かもしれないし、特定の部族かもしれないし、個々の並外れた天才たちかもしれない。それが誰であれ、彼らが優秀なのは、新しい知識やより進んだテクノロジー、より繁栄した社会、あるいはより美しい芸術の創出という形で表れる、優れた能力を持っているからだ。アインシュタインやベートーヴェンのような人の経験は、酔っ払いのろくでなしの経験よりもはるかに価値があり、両者を同じ価値があるかのように扱うのは馬鹿げている。同様に、もしある国が一貫して人間の進歩を戦争してきたのなら、人類の進化にほとんど、あるいはまったく貢献しなかった他の国々よりも優秀さと考えてしかるべきだ。

 したがって、オットー・ディックスのような自由主義の芸術家とは対照的に、進化論的な人間至上主義は、人間が戦争を経験するのは有益で、不可欠でさえあると主張する。映画「第三の男」の舞台は、第二次世界大戦終結直後のウィーンだ。先日までの戦争について、登場人物のハリー・ライムは言う。「けっきょく、それほど悪くはない。・・イタリアでは、ボルジア家の支配下の三〇年間に、戦争やテロ、殺人、流血があったが、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチが登場し、ルネサンスが起こった。スイスには兄弟愛があって、五〇〇年も民主主義と平和が続いてきたが、やつらは何を生み出したか?鳩時計さ」。ライムはほとんど全部、事実を取り違えている。スイスはおそらく、近代初期のヨーロッパで最も血に飢えた地域だった(この国の主要な輸出品は傭兵だった)し、鳩時計はじつはドイツ人が発明したが、こうした事実はライムの考え方ほど重要ではない。その考え方とは、戦争の経験は人類を新しい業績へと押しやるというものだ。戦争は自然選択が思う存分威力を発揮することをついに可能にする。戦争は弱い者を根絶し、獰猛な者や野心的な者に報いる。戦争は生命にまつわる真実を暴き出し、力と栄光と征服を求める意志を目覚めさせる。ニーチェはそれを次のように要約している。戦争は(生命の学校」であり、同じような考え方を述べたのがイギリス陸軍のヘンリー・ジョーンズ中尉だ。第一次世界大戦の西部戦線で命を落とす四日前、二一歳のジョーンズは戦争での自分の体験を熱烈な言葉で書き綴った手紙を兄弟に送っている。

 あなたはこんな事実を一度でも考えたことがあるだろうか?戦争に惨事は付き物であるとはいえ、少なくとも戦争とは途方もない代物だ。つまり、戦争では、人は否応なく現実に直面させられるのだから、平時に世界の人の一〇人に九人が送る、おぞましい営々本位の生活の愚かさや利己主義、贅沢、全般的な下劣さは、戦時には残忍さに取って代られるのだが、その残忍さのほうが、少なくとももっと正直で率直だ。これは、こんなふうに見るといい。平時には、人はただ自分自身のちっぽけな生活を送る。取るに足りないことにかまけ、自分の案楽やお金の問題といった類のさまざまな事柄を心配しながら、たんに自分のために生きている。なんとあさましい暮らしだ!それに引き換え戦時には、たとえ本当に命を落とすことになっても、どのみち数年のうちにその避け難い運命に見舞われることを予期しているのであり、自分は祖国を助けるために命を捧げたのだと知って満足することができる。現に理想を実現したのであり、私の見るかぎり、ありきたりの生活ではそういうことはごく稀にしかできない。なぜなら、ありきたりの生活は営利本位で利己的な基準で営まれているからだ。よく言うように、成功したければ、手を汚さずには済まされないのだ。

 私としては、この戦争が自分のもとにやって来てくれたことをしばしば喜んでいる。人生とはどれほどつまらないものか、気づかせてくれたからだ。戦争は、言ってみれば自分の殻を破る機会をみんなに与えてくれた・・たしかに、自分について言えば、たとえば先日の四月のもののような、大規模な攻撃が始まるときのあれほどの激しい気分の高まりは、これまでの人生で、一度も経験したことはない。直前の半時間かそこらの昂奮ときたら、並ぶものなど何一つない。

2024年1月4日木曜日

20240104 中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.395-396より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」
pp.395-396より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

世界交通の幹線からの除外は同時に文化の停滞を意味した。十八世紀からはどんどんヨーロッパ文化が流入したが、それはトルコ国力の復興を意味するものではなく、かえって、ヨーロッパの政治力に圧倒される前兆であった。そして地理的に接触する関係から、トルコがもっとも大きな圧迫をうけたのは、いうまでもなく北隣のロシアである。ただロシアが無力化したトルコをついに合併することができなかったのは、トルコ自身の力ではなく、ヨーロッパの国際政局の間に勢力の均衡が保たれ、ロシアのトルコにたいする攻撃ごとに、列国がその勢力均衡を破ることを恐れて、あいついで干渉した結果に過ぎない。

 十八世紀の終りに、ロシアはクリミア半島を占領して黒海を制圧し、バルカンのスラヴ系諸国民を後援して地中海への進出をねらった。ところがオーストリア帝国もまたバルカン支配をのぞみ、バルカン諸国民も独立を欲しこそすれ、ロシアに併合されることを好まなかったので、バルカン半島ではつぎつぎに小国が独立した。

 十九世紀にはいり最初に独立の宿望を達成したのは、スラヴ系のセルビアであり、ラテン系のギリシャとルーマニアがこれについだ。ギリシャの独立に際しては、それが古典文化発祥の地ということでヨーロッパ諸国の同情が集まり、この際ロシアも兵を出してトルコ軍を破り、ドナウ北岸人民の独立を認めさせたのが、すなわちルーマニアであったのである。この成功に勢をえたロシアは、トルコ領内キリスト教徒にたいする保護権を要求したが、イギリス、フランス二国はそれがトルコの存在を危うくすることを恐れ、トルコをたすけてロシアと戦った。これがセバストポール要塞攻囲戦によって知られるクリミア戦没である。この結果、ロシアは黒海を中立とし、かつトルコの領土保全を約束した(一八五六年)。

 一度きっさきを収めたロシアは、つぎにトルコのブルガリア人虐殺問題の責任を問うてふたたびトルコに侵入した。イギリスはこれに干渉して、ベルリン列国会議を開いてロシアのバルカンにたいする勢力伸長を抑え、ブルガリア、モンテネグロの事実上の独立が確認された(一八七八年)。そしてこのときに、スラヴ民族の居住地であるボスニア地方がオーストリア帝国の領土に併合されたことは、後に第一次世界大戦の遠い原因となったものである。

 バルカン諸国が自力によって独立せず、列国の勢力均衡の上に立って他力的に実現されたものであることは、この地方の民族分布の複雑さとあいまって、陰謀、騒乱の舞台となり、ヨーロッパの伏魔殿とさえいわれた。諸国民の偏狭で利己的な国民主義から、領土の拡張争奪の戦いが、二十世紀に入って第一、第二のバルカン戦争をまねき、それがさらに発展して、第一次世界大戦の破局に導いたのであった。

 

20240103 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.41‐42より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.41‐42より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

中東欧諸国とロシアのどちらがより重要であるかという単純化された議論は、現実の政治・外交の現場において建設的とはいい難い。それでも、欧州における冷戦が終結する過程において、欧州の中央に位置するドイツという存在をいかに安定的な秩序に取り込むのかという「ドイツ問題」は、統一ドイツのNATO帰属という形で解決された(鶴岡 二〇〇一)。他方で、欧州大陸にもう一つ存在する大国であるロシアをどう扱うのかという「ロシア問題」は未解決のままに残されたことは否定できない。これは、単に冷戦後のNATO拡大への賛否という問題ではなく、欧州秩序をめぐるより大きな課題である(Sarotte,2021)。

 冷戦後、旧西側諸国は、新生ロシアの民主化と市場経済化を支援し、ロシアをパートナーとして扱う努力を繰り返した。他方で、NATOやEUへの加盟を促したわけではなかった。ロシアのNATO加盟という議論は、一九九〇年代には度々話題にのぼったが、冷戦時代に(ソ連として)東側陣営の盟主だったロシアが、米国主導で軍事組織の最高司令官(欧州連合最高司令官:SACEUR)を米軍の大将が務める同盟に加盟することは、現実問題として真剣に捉えられていたわけではない。そうしたなかでNATOは、ロシアのことを「パートナー」だと呼び続けてきたのである。

 ロシアが反対してきたNATOの東方拡大に際しても、NATOは、新規加盟国の受け入れと、ロシアとの関係強化を並行して進めてきた、一九九七年五月の「NATO・ロシア基本議定書」と、二〇〇二年五月の「ローマ宣言」は、それぞれの後に控えていたNATO拡大を念頭に、ロシアとの手打ちを演出するものだった。(Sarotte 2021:Asmus 2002)。しかし、そうしたNATO・ロシア関係は、結局のところ、双方にとって中途半端なものだったのだろう。二〇一四年のロシアによる一方的なクリミア併合やウクライナ東部への介入によって両者の関係はほぼ完全に崩壊し、NATO側は対露抑止・防衛体制の強化に舵を切ることになった。

 他方で、欧州にとってのロシアが、同じ大陸の同居人である現実も変わらない。ロシアを脅威と捉えての抑止が必要えあることは論を俟たないものの、ロシアを孤立化させるだけでは欧州の平和と安定が実現しないことの感覚が根底に流れているのも欧州の現実である。固定的な対峙を想定した場合は、冷戦ということになるが、これが欧州大陸にとっての最適解でないことは自明である。

 二月二四日のロシアによるウクライナ侵略開始の直前まで、特にフランスのマクロン(Emmanuel Macron)大統領とドイツのショルツ首相が、モスクワを訪問したり、電話会談によってプーチン大統領との対話と説得を続けようとした背景にも、ロシアを封じ込めるのみでは欧州大陸の長期的な平和と安定は実現しないとの問題意識があったといえる。こうした立場は、フランスとドイツにおいて特徴的だが、ポーランドやバルト諸国、さらにはウクライナといったロシアにより厳しい姿勢をとる諸国からみれば、ロシアに過度の配慮した宥和的姿勢として批判の対象になる(Morcos2022)。

 ただ、このような戦争が行われてしまった以上、今後のロシアとの関係が、戦争前のような状態に戻らないこともまた確実な状況であろう。今回の戦争を経ても、プーチン体制が継続する場合は、大統領本人の「戦争犯罪人」としての訴追を含めて、ロシアとの関係は大きく制約された状態が続くことになる。プーチン大統領が職を追われる場合、そのこと自体は欧州の多くが歓迎すると思われるが、新たな政権といかに接するかについて、欧州内でコンセンサスを築くのは容易ではないだろう。

 ただし、これはいわばデジャヴュのような状況なのではないか。一九九〇年代以降、ロシアが欧州のような自由民主主義国家になることを期待する声が西欧では強く、それは結局幻滅に終った。しかし、同じEUやNATOの加盟国でも、ポーランドやバルト諸国では、「ロシアはロシアだ」として、本質は変わらないとの冷めた見方が一貫して主流だったのである。彼らにしてみれば、「だから言ったではないか」ということになる。このギャップを埋めるのは容易ではない。

2024年1月3日水曜日

20240102 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.191‐192より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.191‐192より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

ナイチンゲールが新たな役割についた時、クリミア戦争が始まった。ロシアがトルコを脅かし、フランスとイングランドがトルコ軍を支援するために軍隊を派遣した。戦いは主にクリミア半島(現在のウクライナの一部)で繰り広げられた。戦況の報告は、当時開発されたばかりの電信によって記録的な速さで届いた。戦場写真も戦場で展開しているドラマを一般民衆に近づけることを可能にした最新の呼び物だった。ナイチンゲールは戦傷者のための病院でのひどい状況を知ると、何か手伝いたいと熱望した。戦時大臣で親しい友人のシドニー・ハーバードが彼女に看護婦を手配するよう頼んできた。1854年11月、ナイチンゲールと38人の女性がトルコのスクタリ・セリミエ・バラックス病院(今日のイスタンブールの一部)に到着した。患者以外、ほとんどすべての備品が不足していた。「水を入れる容器も、何の道具もなかった。石けん、タオル、布もなく、病人用の着物もなかった。人々は、血糊でこわばった、口に出すののもはばかれるような汚物のこびりついた軍服を着たまま横たわっていた。彼らの身体は虫で覆われていた・・・」。ナイチンゲールは施設を改革し、食事と水の供給を改善した。看護兵(助手)を再編成し、もっと多くの上等な備品を要求した。彼女がかつて頼って衛生委員会を要求すると、翌年の春、下水設備全体を改修するために委員会がやって来た。彼女はさらに栄養状態の改善を求めた。スクタリの死亡率は低下した。このことに関しては、どの程度まで、どれだけすばやく、そしてなぜ、ということがその後何度も論議されてきた。ナイチンゲール自身は一度も特別な責任を主張しなかった。それにもかかわらず、彼女がイングランドへ戻ると、一般民衆は「タイムズ」に掲載された彼女の献身的看護についての記事に強い関心を持った。「軍医が夜に休み、沈黙と暗闇がおおった時でも・・・彼女が一人で小さなランプを手に見回りをしている姿が見られるかもしれない」。こうして彼女は「ランプを持った女性」という称号を獲得した。

 1856年にクリミア戦争が終結するとナイチンゲールは帰国し、すぐにヴィクトリア女王へ軍事病院の改革を優先させるよう嘆願した。ぞっとするような状況に戻ることを阻止しようと決意した彼女は、感染を避けるうえで清潔が重要であることを当局に納得させるため、自分の得意な統計学を利用した。何が原因で兵士が亡くなったかー傷なのか、予防可能な病気なのか、それとも他の要因なのかー比較するため、現在の円グラフに似た精密なグラフを考案した。ナイチンゲールはつつましく暮らし、大量に執筆した。クリミア戦争について彼女が綴った「英国陸軍の健康と効率と病院管理に影響をおよぼした事柄について」(1858年)は、軍事病院によりより下水設備と最新の成果を取り入れた栄養、全体に改善された治療をもたらすのに役立った。彼女の豊かな才能はあらゆるところで発揮された。インドの反乱についてのニュースから彼女は当地の英国軍の状況と、地元の人々が苦しんでいた貧困と栄養不足に関心を向けた。ナイチンゲールは自分の影響力を利用して、インド政府に衛生局を設立するよう説得した、1859年、彼女は有名な著作「看護についての覚書」を出版した。「それは誰もが持つべき知識と認められるー職業についている人だけが持つことが出来る医学知識とは異なる」。翌年彼女はロンドンの聖トマス病院にナイチンゲール看護学校と看護師寮を設立した。この学校により看護職が、適切な訓練と資格、キャリアの向上、報酬をともなう正式の職業として確立した。

2024年1月1日月曜日

20240101 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.262-265より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

ロシアの相対的な力は一八一五年から数十年間、国際的には平和がつづき、産業革命が進行するにつれて衰えていく運命にあった。だが、このことが明らかになるのはクリミア戦争『一八五四~五六年)が勃発してからである。

一八一四年、ヨーロッパは西に進出してくるロシア軍に畏怖の念をおぼえ、パリの民衆は抜け目なく「アレクサンドル皇帝、ばんざい」と叫んで、コサック旅団を先に立てて入城してきたツァーリを迎えた。和平協定そのものは、徹底的に保守的な立場から今後の国境や政治体制を決めようというもので、八〇万の軍隊を擁するロシアも支持にまわっていた。

ロシア軍はどの国の軍隊よりも強大で、海上で英国海軍が圧倒的な力をふるっていたのと同じく、陸地では行く手を阻むものがなかった。オーストリアもプロイセンもこの東の巨人の影をつねに感じ、王室同士で手を結びあっているときでも、ロシアの力に対する恐れが消えなかったのである。ヨーロッパの憲兵としてのロシアの役割は、救世主のようにあらわれたアレクサンドル一世から専制的なニコライ一世(在位一八二五~五五年)に代わったあとも、強まりこそすれ減ずるものではなかった。

ニコライ一世の姿勢は、一八四八年から四九年の革命の嵐によってさらに強硬になる。パーマストンが述べているように、このころはロシアとイギリスだけが「毅然として立つ」ゆるぎない大国だったのである。ハプスブルグ政権が必死の思いでハンガリーの反乱を鎮圧する助力を乞うたときには、ロシアは三個軍を派遣してこれに応えている。

だが、逆にプロイセンのウィルヘルム四世が国内の改革派につきあげにられて動揺し、ドイツ連邦の変更を提案したときには、ロシアは断固たる圧力を加えて、ついてにベルリン政府に国内では反動的な姿勢を強化させ、オルミュッツでは譲歩を余儀なくさせた。「変化を求める勢力」は、ポーランドやハンガリーの民族主義者も、欲求不満をつのらせたブルジョア自由主義者も、マルクス主義者もこぞって、ヨーロッパの進歩の前に立ちはだかる最大の障害はツァーリの帝国だと考えていた。

 しかし、経済と技術の水準では、ロシアは一八一五年から八〇年までのあいだにみる影もなくなっていく。少なくとも他の大国にくらべて、その衰えは明らかだった。もちろん、だからといって経済がまったく発展しなかったわけではない。ニコライ一世のころでさえ、官僚の多くが市場経済やあらゆる近代化に敵意を燃やしていたが、経済は成長していた。人口は急速に増え(一八一六年には五一〇〇万人だったものが、六〇年には七六〇〇万人、八〇年には一億人)、とくに都市部での増加がいちじるしかった。鉄の生産も増大し、繊維産業も数倍の成長をとげた。一八〇四年から六〇年までに、工場や企業の数は二四〇〇から一万五〇〇〇に増えたといわれている。さらに蒸気エンジンや近代的な機械が西側から輸入された。一八三〇年代からは鉄道網の建設も始まる。歴史家がこの時期のロシアには「産業革命」があったのかなかったのかと議論していること自体、ロシアの発展を裏書きするものであろう。

 だが、肝腎なのは、それ以外のヨーロッパ諸国の発展のスピードの方が大きく、ロシアは取り残されてしまったことだった。人口がはるかに多かったから、十九世紀初めの国民総生産はロシアが最大だった。ところが、二世代あとには、第9表(265頁)に示されているように、国民総生産の総額でも追い越されてしまっている。

 しかし、この数字を国民総生産一人当たりの額に換算してみると、さらにはなはだしい差があらわれる(第10表参照)。

 これらの数字が示しているのは、この期間のロシアの国民総生産の増大が圧倒的に人口の増加によるものであって、この人口増加が出生率の上昇のせいか、トルキスタンなど新たに征服した領土のおかげかはともかく、(とくに工業の)生産性の向上とはあまり関係がなかったということである。ロシアの一人当たり所得と一人当たり国民総生産はつねに西ヨーロッパに劣っていた。だが、いまやその差がいっそう開き、(たとえば)一八三〇年には一人当たり所得がイギリスの半分だったのが六〇年後には四分の一になっている。

 同じく、ロシアの鉄の生産は十九世紀初めに倍増したが、イギリスは三〇倍に増えており、比較にもならなかった。数十年のうちに、ロシアはヨーロッパ最大の鉄生産、輸出国から転落して、西側からの輸入に依存する度合がますます高まっていく。鉄道や蒸気船の発達による運輸通信手段の改善も、相対的な視点でみる必要がある。一八五〇年当時、ロシアには五〇〇マイルあまりの鉄道が敷かれていたが、アメリカでは八五〇〇マイルにおよんでいた。さらに蒸気船による貿易も大きな河川やバルト海、黒海の沿岸でさかんになったが、積み荷の多くは増えつづける国民を養うための穀物と製品輸入の代金としてイギリスに送られる小麦だった。またあらたな進歩がみられても。そのほとんど(とくに輸出業務)が外国の商人や企業家に握られていて、ロシアは先進国経済に一次産品の原材料を供給する国という性格を強くしていく。さらに詳細に検討すれば、新しい「工場」や「工業関係の事業」のほとんどは労働者数一六人以下で、機械化もろくに進んでゐないことがわかる。資本の不足と低い消費需要、そして専制君主の横暴と国の疑い深い姿勢、これらがあいまってロシアの工業の「離陸」はヨーロッパのどの国よりも困難だったのである。

 だが、しばらくのあいだは、経済の暗い見通しもロシア軍のいちじるしい弱体化にはつながらなかった。それどころか、一八一五年以降、大国がみせたアンシャン・レジーム擁護の姿勢がいちばんはっきりとあらわれたのが、軍隊の構成、武器、戦術面だった。フランス革命の余波が残っていたから、各国政府は政治的にも社会的にも軍事力に頼る傾向が強く、軍部の改革には乗り気でなかった。将軍たちも、大きな戦争によって力を試されることがなくなって階級や服従を重視し、慎重になった。この傾向を助長したのがニコライ一世の閲兵好き、大行進好きである。こんな状況であるから、徴兵によって維持される大規模なロシア軍は、外部から見るぶんにはいかにも力強い戦力にみえた。兵站や将校の教育水準といった問題は外部からはわかりにくかった。しかもロシア軍は活動的で、たびたびの軍事行動に勝利をおさめて、カフカスやトルキスタンに領土を広げていた。この動きをインドにいるイギリスが警戒しはじめたため、十九世紀のロシアとイギリスの関係は、十八世紀のそれとくらべてかなり緊張したものになる。

20240101 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.112‐113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

イスラエル

 イスラエルはユダヤ人による民族主義(シオニズム)に基づく建国の当時から、米国といわゆる「特別な関係」にあり、公式の同盟関係にはないものの、事実上は米国の最有力・最重要の同盟国の一つとみなされている。外交や安全保障政策における密接な関係や、最先端の米国製兵器の他に優先した供与や、兵器の共同開発などで、米国との関係は深く、トランプ政権期に顕著だったように、相互の国内政治はしばしば複雑に相互影響する。そのようなイスラエルであるが、ロシア・ウクライナ戦争に際しては、米国の対露制裁に加わらず、ロシアとウクライナ、米国とロシアの間で、中立の立場を維持しようとしてきた。防空システムのアイアン・ドームやドローン等のイスラエル製兵器や、イスラエルの技術が入って共同開発した兵器の、ウクライナへの供与を拒否するなど、政治的・軍事的に反露姿勢を取ることを最大限回避し続けた。イスラエルはウクライナ支援に際し「ウクライナの人々」に対する「人道支援」に厳しく限定し、大きく国際的に広報を行った。侵攻から間もない三月五日に、野戦病院の設立のため医師チームを派遣すると発表し、翌週にはこれを実施し、六週間にわたり活動して四月末には撤収させている。

 イスラエルは建国当時から東欧・旧ロシア帝国・旧ソ連からのユダヤ人の移民を国家の根幹としてきた。ソ連邦崩壊の際にはウクライナとロシアを中心とする旧ソ連圏からの大規模な移民の波を受け入れ、その後もロシアやウクライナのユダヤ人との民族的な人的ネットワークを外交にも生かしている。ロシアとウクライナへの戦争の勃発は、ユダヤ系人口の拡大・維持を国家存立の最重要課題とするイスラエル政府にとって、新たなユダヤ人移民の波をもたらす可能性のある好機とも言える。ゼレンスキー大統領自身がユダヤ人であることや、プーチン政権に近いオリガルヒの中にユダヤ人が多いことも、イスラエルとウクライナとロシアとの間に、人的ネットワークを成長させてきた。また、イスラエルは労働力不足に悩み、スーダンやエリトリアなどアフリカ諸国からの非ユダヤ人の移民の不正入国や不正就労を、制度上はともかく経済的な実情としては、事実上、一定数受け入れている事情がある。ウクライナからの避難民は、より文化的な摩擦の少ない、教育水準の高い経済移民としても歓迎され得る経済的実績がある。

 イスラエルの連立政権の交代制の首相だったナフタリ・ベネットは三月五日にロシアを訪問し、モスクワでプーチン大統領と会談した。これがユダヤ教の安息日の土曜日であり、宗教的には、生き死にに関わる事柄でなければ労働が許されてないにもかかわらず訪問を行ったことも、話題を呼んだ。ベネット首相のモスクワ訪問は、二月二四日の衝撃的なウクライナ侵攻によって国際的な孤立に陥りかけていたプーチン大統領に、「西側」の外国首脳として異例の速さで手を差し伸べる形となった。同時期にベネット首相はウクライナのゼレンスキー大統領と頻繁に電話会談を行い、プーチン大統領との仲介を図った。ベネット首相の姿勢はしばしばロシア寄りとみなされた。三月八日の電話会談でベネット首相がゼレンスキー大統領にロシアの要求を呑んで降伏するよう要請したとの情報がウクライナ側から一時期流れ、のち否定される一幕もあった。三月一二日にウクライナのキーウで行った記者会見で、ゼレンスキー大統領は、プーチン大統領との協議の場をエルサレムで設けるようにベネット首相に依頼していると語った。ヤイル・ラビド外相が往々にして親米・親西欧的な、リベラルな国際秩序の護持の姿勢を示すのに反して、あるいは役割を分担して、活発にウクライナ問題をめぐる外交を繰り広げた。

 ゼレンスキー大統領は三月二〇日にイスラエルの国会(クネセト)でビデオ演説を行ったが、これは英国(三月八日)、カナダ(三月一五日)、米国(三月一六日)、ドイツ(三月一七日)に次ぐ五番目であり、ゼレンスキーの一連の演説の中で非欧米圏では最初に行われた国となった(日本は三月二三日で六番目)。

2023年12月31日日曜日

20231231 株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.64-67より抜粋

株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.64-67より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061490397
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061490390

白人種といったものがフィクションであることは、言葉が正確に示している。白は元来、晴れた日の雲や、神が棲む雪をいただいた山をいうための色だった。父なる神のための聖なる色であって、白馬が神を選び、白衣の神官が祭儀を司る。

 聖なる白は無垢の純潔の色となったが、せいぜいが象徴的な用い方にとどまって、それが「実用化」にいたったのは意外に新しい。聖職者たちは、とりたてて白にこだわらなかった。激しい戒律の修道会ですら、どちらかというと自分たちをアピールするための色の特徴を重んじた。ロジーナ・ピゼスキーの「モードのイタリア史」によると、中世のカルメル会修道士は七つの布切れを縫い合わせた衣服を着ていたが、それは白4、赤3の割合いのおそろしく派手なもので、そのため「かささぎ会士」などとからかわれた。

 今日はすっかりおなじみの白い花嫁衣裳にしても、ようやく二十世紀の産物である。これについてはピゼスキー女史がイタリアの例で述べているが、リュリー女史のいうアメリカの場合でみると、一九二〇年代以前は、花嫁は自分に似合う色なら何でもよく、新品のイヴニング・ドレスでありさえすればよかった。白はもとより、ピンク、黄色、ブルー、グリーンと何色でも可。婚礼のあともずっとそのドレスは彼女のとっておきのパーティ・ドレスとして使われた。

 純白のドレスに白いヴェールというおなじみの花嫁衣裳は、もしかすると、無垢と純潔が下り坂になったころに急速にひろがっていったのかもしれない。不足を補うための「制服」の効用であって、悪魔の発明品の一つである。それは花嫁のそれまでのいろいろな体験をいっさい帳消しにして、ともかく無垢の人として聖なる祭壇へとおくり出す。

 ついでながら、近ごろは白い花婿衣装が大はやりらしい。これは悪魔の発明品というよりも道化の衣装を思わせる。大英帝国はなやかなりしころ、植民地司令官の大佐などが白いスーツに白ズボン、頭には王冠のような白いヘルメットをのせてカッポしていた。蛮地にやってきた新しい王であり、「聖なる人種」というつもりだったのだろう。力を背にしてせっせと搾取にはげむ一方で、ひとりよがりの正義と信仰をおしつけた。その度しがたいまでの生態については歴史の本にくわしい。私には賢明な今日の女性たちが、どうしてあのコッケイな男性のいでたちを見すごしているのか理解できない。それとも力を背にして搾取にはげむ一方で、ひとりよがりの人生観と生活哲学をおしつけてくる〈植民地司令官〉が、もんざらでもないというのだろうか。

 悪魔は、ときおり死や異端者と関連して鉛色だったり青白かったりするが、通例は黒く、暗い。ふつうは裸であるが、腰衣をつけているだけ。ひどく痩せている。なぜか肥っちょの悪魔というのはいないようだ。ともあれ、どんな姿にでも返信することができる。

 髪の毛が逆立っていて、先端が針のように尖っている。地獄の炎の名残りらしいが、別の説によると、髪を油で天を突く形に固めて敵をこわがらせようとした辺境民族の風習をとどめるものだという。

 長く垂れた鉤鼻。この特徴は、ユダヤ人が悪魔視される過程で、しばしば引き合いに出される。

 蹄、あるいは鉤爪をもち、山羊の脚として描かれた。責苦を与える道具として三叉の鉾やフォーク、鉤などをかかえている。ラッセルの本に引かれているものから、その中のとびきりの大物をひとりー十一世紀に生まれた「タンデールの幻」という地獄見聞記によると、信じられないほど巨大なけものであって、カラスのように黒く、体は人間そっくりだが尾があり、手が無数にあった。

 指の爪は騎士の槍より長く、足の指の爪も同様だった。また長くて厚いくちばしと、長く鋭い尾をもち、尾には釘が生えていて、それで亡者の霊魂を傷つけるのである。このおそろしい怪物は、デーモンの大群が風を送って燃やしている石炭の上の格子にうつぶせに寝ていた。・・・

 息をするたび亡者の霊魂を吐き出し、息をするたびにまた吸いこんで噛み砕いた。これがルシファーで、神が造った「最初の被造物」だという。

 もっとも、これもまたいまだ中世の悪魔であって、以後、しだいに変わっていく。黒い天使として多様化し、美しく、かつは知的に洗練されていった。