2023年10月17日火曜日

20231017 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.74-76より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.74-76より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

最近、また日本人論が盛んである。再び日本が国際社会の檜舞台に登場することによって、日本人固有の欠点がしだいに露呈されてきたからである、と思われる。日本人論といえば、明治20年代の国粋主義鼓吹、同40年代の東西文明の統一を唱えたもの、さらに、昭和10年代に近代の超克を唱えた日本文化論、そして同30年代の日本を再評価するもの、同40年代後半の外国人などによる日本人論と続く(「中央公論」47年9月号)系譜があった。しかし、このような日本人論の類型は、要するに、「日本人は、これこれの欠点があるから反省せよ」というに尽きる。でも、これではほとんど意味はあるまい。「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、個人の場合にもあるけれど、社会全体に関していえば、問題点がいくら指摘されても、それだけではどうしようもないという場合が多い。その理由は、社会全体の作動洋式は、それを構成する各個人の単なる心構えだけによって左右しううるほど単純なものではなく、システム全体における諸要因の連関洋式とそれらの構造によってもまた規定されるからである。

 たとえば、戦時中、増産と科学の振興が叫ばれた。そして、全国民もそのために努力したつもりではいた。しかし、生産は思うように向上せずヤミははびこり、人びとは何か自然の法則に逆らってもがいているの感を避けえなかった。また、科学も振興せず、科学戦においても日本は敗北してしまった。このように、社会構造に対する科学的分析を欠いた単なる思いつきは、現実の制御のために全く無力である。

 この[社会現象に対する科学的分析能力の欠如]こそ、日本人の思考の盲点であり、これによって、かつて日本は破局を迎え、そして現在もまた迎えようとしているのである。ゆえに、このことは、強調されすぎることはない。日本人が、現在においても、いかに社会科学的分析能力を欠いているかは、最近の物価上昇に際して、火がついたように政府の「統制」を叫んだことだけをみても明らかだろう。経済とは、そんなに簡単なものだろうか。政(幕)府の命令一本で物価が統制できるくらいなら、天保の改革だって失敗しなかったにちがいない。経済学が今日ほど普及した時代においてすら、多くの日本人の思考様式は、水野忠邦のそれと本質的に異なるものではない。一億が一心となって火の玉のように突進すれば、科学も振興し、生産の向上し日本は勝利する、という単細胞的思考法と、現代の日本人の思考法とは、その論理において、一体どれほど異なるのであろう。

2023年10月15日日曜日

20231015 季節の変化で思ったこと:議論について

ここ二週間ほどで急激に夏から秋に変わったように感じられます。そうしたなかで私は就寝時に夏用の厚手のタオルケットのみを掛けていたためか風邪をひいてしまいました。これは数日間休むことによって概ね治りましたが、今度は、先週、地中海東岸の中東の国で発生した出来事に驚いて落着かなくなってしまいました。他方、昨年2月に勃発した第二次宇露戦争はその後、一進一退を繰り返しつつ、西側の兵器が供給されている宇軍が、侵攻してきた露軍を徐々に押し戻しつつあるといった状況の認識であり、おそらく今後、露の全面的な勝利は困難であろうと思い始めた頃でしたので、この出来事には大変驚かされました・・。とはいえ、この出来事以外で世界に目を転じてみますと、数千人規模の死傷者が出た中東内陸部での大地震、世界各地での異常気象や攻撃的な海洋進出を続ける隣国といった出来事や状況が続き、そこから、こうした「世の中の乱れ」ともいえる様相は、今後数年は続くものと思われます。そして、それらに我が国が絶対に巻き込まれることはないとは云えませんので、当然のように対策や防衛力の強化は行った方が良いと考えます。

しかし、国内に目を向けてみますと、さきと同様、多くの「世の中の乱れ」を示す出来事が続き、そのため、それらの必要と思われる施策は簡単には推し進めることは出来ないのではないかと思われるのです。これが平時であるならば、議会制の民主主義国家として当然の営みと云えるのでしょうが、現今はさきに述べたように世が乱れ、端的には、コロナ禍以来の非常事態が続き、そして、それが半ば日常化しているようにすら思われるのです。

こうした事態が続きますと、おそらく私自身も含めて大多数の人々はストレスを感じ、そこからまた人心が荒れて、さらに良からぬ出来事が生じるといった、ある種、負の連鎖のようなものが惹起されてしまうのではないかと思われるのです。そして、こうした負の連鎖から脱するためには、各段階において中身のある議論が必要であると思われるのです。しかし、ここでも、これまでに何度か当ブログにて扱ってきたように、我が国は議論がとても苦手であるのです。

しかしながら、こうしたことは訓練によって改善されるとは思われるのですが、おそらく、我が国の最大公約数的的な性質とも云える国民性の根底では「議論が嫌い」であると思われます。そしてこの性質故に、こうした世界規模の良くない状況にあっても、内政・外交ともに有効な改善策を提示して実施することが困難になってしまうのではないかと思われます。

たしかに国全体が経済的にも躍進を遂げている時期であれば、議論などは、ただ面倒臭いだけのものであるのかもしれませんが、しかし、そうした時期においても社会に議論の習慣が根付いているのでなければ、転じて混乱しつつある状況になってから、それを活かすことはきわめて困難であるのではないかと思われるのです・・。

では、議論の文化をごく自然なカタチで社会に根付かせるための方法はあるのかと考えてみますと、それはより多くの人々が口語だけでなく、文語にも親しむ習慣を持つことであると思われます。そして、その方法として効果的であり、且つ簡便であるのは、私見となりますが、各々にとって少し硬いと感じられる小説や、興味のある分野での新書や専門書を読む習慣を身に着けることであると考えます。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2023年10月14日土曜日

20231014 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.225-228より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.225-228より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

過去数十年は、人間の歴史上最も平和な時代だった。暴力的行為は、初期の農耕社会では人間の死因の最大15%、20世紀には5%を占めていたのに対して、今日では1%にすぎない。とはいえ、2008年のグローバルな金融危機以降、国際情勢は急速に悪化しており、戦争挑発が再び流行し、軍事支出が増大している。1914年にオーストリア皇太子の暗殺がきっかけで第一次世界大戦が勃発したのとちょうど同じように、2018年にはシリアの砂漠で何か事件が起こったり、朝鮮半島で誰かが無分別な行動を取ったりしてグローバルな争いが引き起こされはしないかと、素人も専門家も恐れている。

 世界の緊張の高まりと、ワシントンや平壌、その他数か所の指導者の性格を考えると、心配の種は間違いなくある。とはいえ、2018年と1914年の間には、重要な違いがいくつかある。具体的には1914年には世界中のエリート層は大きな戦争に魅力を感じていた、なぜなら、戦争で勝利を収めれば経済が繁栄し、政治権力を伸ばせることを示す具体例に事欠かなかったからだ。それに対して2018年には、戦争による成功は絶滅危惧種のように珍しいものに見える。

 アッシリアや秦の時代から、大帝国はたいてい力づくの征服によって築かれた。1914年にも、主要国はみな、戦争での勝利によってその地位を得ていた。たとえば大日本帝国は中国とロシアに対する勝利でアジアの大国になり、ドイツはオーストリア=ハンガリーとフランスに勝ってヨーロッパの最強国の座に就き、イギリスは各地で次々に小さな戦争を見事に勝ち抜いて世界で最も大きく裕福な帝国を築いた。

 たとえば1882年、イギリスはエジプトに侵攻し、わずか57人の兵を失っただけでテル・エル・ケビールの決戦に勝利し、エジプトを占領した。今ではイスラム教国を占領するというのは西洋人にとっては悪夢の材料だが、テル・エル・ケビールの戦いの後、イギリスではほとんど武力での抵抗に遭わず、70年以上にわたってナイル川流域とスエズ運河という要衝を支配し続けた。他のヨーロッパの大国もイギリスを手本とし、パリやローマやブリュッセルの政府がヴェトナムやリビアやコンゴへの出兵をもくろむときにはいつも、恐れていたのはよその国に出し抜かれることだけだった。

 アメリカでさえ、ビジネスだけではなく軍事行動のおかげもあって、大国としての地位を確立した。同国は1846年にメキシコを侵略し、カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコに加えて、コロラドとカンザスとワイオミングとオクラホマの一部も占領した。その後に結んだ平和条約で、すでに行っていたテキサスの併合も承認された。この戦争でアメリカ兵約13000人が亡くなったが、国土は230万平方キロメートル増えた(これはフランス、イギリス、ドイツ、スペイン、イタリアを合わせたよりも広い)。2000年紀(西暦1001~2000年)でこれ以上ないほど有利な取引だった。

 したがって1914年、ワシントンやロンドンやベルリンのエリートたちは、戦争に勝利を収めるとはどういうことか、そしてそこからどれほど多く手に入れられるかを知り尽くしていた。それに対して2018年には、世界のエリートは、これほど旨みのある戦争はもうなくなったのではないかと考えている。もっともなことだ。第三世界の独裁者や非国家主体の一部は、依然として戦争でうまく栄えているものの主要国にはそれはもう無理のようだ。

 現在生きている人々の記憶にあるうちで最大の勝利である、ソ連に対するアメリカの勝利は、大きな軍事衝突が一度もないまま達成された。それからアメリカは第一次湾岸戦争でつかの間、昔ながらの軍事的勝利の栄誉に浴したが、それに味を占めてイラクとアフガニスタンでの軍事作戦に何兆ドルも浪費した挙句、屈辱的な大失敗を経験する羽目になった。21世紀初頭の新興大国である中国は、1979年にヴェトナム侵攻が不首尾に終わって以来、武力紛争はひたすら避けてきた。したがってその台頭は、もっぱら経済的要因のおかげだ。この点では中国は1914年以前の日本やドイツやイタリアの帝国ではなく、1945年以後の日本とドイツとイタリアの経済の奇跡を見習ったわけだ。こうしたケースのどれでも、経済の繁栄と地政学的な影響力は、一発の銃弾も発射することなく獲得された。

 世界の格闘場とも言える中東においてさえ、地域大国はみな、戦争を起こして勝つ方法を知らない。イランは長く血なまぐさいイラン・イラク戦争からまったく得るものがなかった。だから、その後直接の軍事衝突はすべて避けてきた。イランはイラクからイエメンまで、各地の地元の運動に資金や武器を提供し、革命防衛隊を送り込んでシリアとレバノンの味方を助けてきたが、これまでのところ慎重な態度を保って、どの国も侵略していない。イランは最近、地域の覇権国になったが、それは戦場での見事な勝利によってではなく、戦わないことによってだった。二つの主要な敵国であるアメリカとイラクが戦争を始めた挙句、両国とも中東の泥沼に足を踏み入れるのはもう懲り懲りという気になったため、イランは旨い汁を吸うことができたのだ。

 ほとんど同じことがイスラエルにも言える。イスラエルが最後に戦争で勝利したのは1967年だった。それ以降、多くの戦争をしたが、そのおかげではなく、そうした戦争があったにもかかわらず繁栄した。占領した地域の大半は、イスラエルに多大な経済的重荷と政治的責任を負わせた。イランとよく似て、イスラエルは最近、戦争を起こして勝利することではなく、軍事的な冒険を避けることで、地政学的な地位を改善してきた。仇敵であるイラクやシリアやリビアが戦争によって荒廃するなか、イスラエルは距離を保ち続けた。(2018年3月現在まで)シリアの内戦に巻き込まれなかったのは、ネタニヤフ首相の最大の政治的業績だろう。イスラエル国防軍は、やろうと思えば1週間以内にシリアの首都ダマスカスを陥落させただろうが、そこからイスラエルが得るものなど何があっただろうか?イスラエルは繰り返しそれを思いとどまってきた。イスラエルは、あれほどの軍事力を持ち、政治家は好戦的な発言をしているが、戦争から得るものなどはほとんどないことを承知している。イスラエルも、アメリカや中国、ドイツ、日本、イランと同じで、21世紀には、中立の立場を守り、他の人々に代わりに戦ってもらうのが最善の策であることを理解しているようだ。

2023年10月11日水曜日

20231011 株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻 pp.145-148より抜粋

株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻
pp.145-148より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4087607380
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4087607383

 コミューン紛争やフォルト・ライン戦争は、人間の歴史に数かぎりない。ある調査によれば、冷戦中には32件の異民族間紛争が起きている。そのなかには、アラブ人とイスラエル人、インド人とパキスタン人、スーダンのイスラム教徒とキリスト教徒、スリランカの仏教徒とタミル人、レバノンのシーア派とマロン派などの戦争がある。1940年代から1950年代に起こった内戦のうち、アイデンティティのための戦争が約半分を占めたが、1960年代にはそれが四分の三になり、1950年代の初めから1980年代末にかけては、異民族集団がかかわる反乱の数は三倍になっている。しかし、超大国の対立が世界に広まっていたので、いくつかの特別な例外をのぞいては、これらの紛争はあまり人目をひかず、冷戦の一部としてとらえられた。冷戦が終結に近づくにつれ、コミューン紛争はそれ以前よりも注目されるようになり、これには異論もあるが、かつてよりも頻発するようになった。民族問題での紛争を「急増」させる状況が実際に生まれたのである。

 これら異民族の紛争やフォルト・ライン戦争は、世界のさまざまな文明圏に同じ割合で起こっているわけではない。フォルト・ライン戦争の主要な戦闘は、旧ユーゴスラヴィアのセルビア人とクロアチア人や、スリランカの仏教徒とヒンドゥー教徒のあいだで起こり、それほど暴力的でない紛争が、他のいくつかの地域で非イスラム教徒のあいだに起こった。しかし、フォルト・ライン戦争の圧倒的多数は、ユーラシアとアフリカを三日月状に横切り、イスラム教徒と非イスラム教徒を分離する境界線にそって起こっている。世界政治のマクロ・レベル、すなわちグローバルなレベルで見れば、文明間の中心的対立は西欧とその他になるがミクロのレベルで、つまり地域レベルで見れば、イスラム教徒とその他の紛争が中心である。

 激しい対立と暴力的紛争は、地域のイスラム教徒と非イスラム教徒のあいだに多発している。ボスニアでは、イスラム教徒が血なまぐさい絶望的な戦闘をセルビア人と戦い、カトリックのクロアチア人とも暴力闘争を展開している。コソボでは、アルバニアのイスラム教徒はセルビア人の支配下にあって苦しんでおり、自分たちの秘密政府をもっていて、この両集団のあいだに暴力抗争が起こる可能性は高い。アルバニアとギリシャ政府は、相手側の国の少数民族の権利について争っている。トルコとギリシャは歴史的に仲が悪い。キプロスでは、イスラム教徒のトルコ人と正教会のギリシャ人が、相接した国で敵対している。カフカ―スでは、トルコとアルメニアは長年の敵同士であり、アゼルバイジャン人とアルメニア人は、ナゴルノ=カラバフの領有権をめぐって戦っている。北カフカ―スでは、200年にわたって、チェチェン人、イングーシ人、その他のイスラム教徒がロシアからの独立を勝ちとるべく、繰り返し戦っており、1994年には血なまぐさい戦争がロシアとチェチェンのあいだで始まった。イングーシ人と正教会派のオセット人のあいだでも戦闘が起った。ヴォルガ川流域では、イスラム教徒のタタール族が過去にロシア人と戦っており、1990年代初めにロシアと妥協して、限定的な主権を勝ち取ったが、その勝利も安定したものとは言えない。

 19世紀を通じて、ロシアは中央アジアのイスラム教徒にたいする支配を力ずくで徐々に広げていった。1980年代には、アフガニスタンとロシアは大きな戦争をした。ロシアが撤退すると、同じような事件がタジキスタンでも起こり、ロシア軍は現政権を援助して、イスラム教徒を主体とする反乱軍と戦っている。新疆では、ウイグル人や他のイスラム教徒集団が、中国化に反抗して戦っており旧ソ連の民族的、宗教的な同族である共和国との関係を強めている。インド亜大陸ではパキスタンとインドのあいだに三度の戦争があり、イスラム教徒の反乱軍がカシミールにたいするインドの支配権に反対し、イスラム教徒の移民がアッサムの部族民と戦闘し、イスラム教徒ろヒンドゥー教徒は、インド全土で暴力的抗争を繰り返している。しかも両方の宗教コミュニティで原理主義運動がさかんになり、これらの紛争をあおっている。バングラデシュでは、仏教徒が多数派のイスラム教徒に差別されているとして抗議し、ミャンマーではイスラム教徒が多数派の仏教徒からの差別待遇にたいして抗議している。マレーシアとインドネシアでは、イスラム教徒が再三にわたって中国人にたいする暴動を起こし、中国人が経済を牛耳っていると非難している。タイの南部では、仏教徒の政府にたいしてイスラム教徒の集団が執拗に反乱をくわだて、フィリピン南部ではイスラム教徒の反乱軍が、カトリックの国と政府からの独立を求めて戦っている。またインドネシアでは、カトリックの東ティモール人がイスラム政府の抑圧に反抗している。

 中東では、パレスチナにおけるアラブ人とユダヤ人の抗争は、ユダヤ人の故国を建設する問題にさかのぼる。イスラエルとアラブ諸国のあいだでは四度戦争があり、パレスチナ人はイスラエルの統治に抵抗して戦っている。

2023年10月10日火曜日

20231009 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.115‐117より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.115‐117より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

トルコ人とアラブ人、ギリシャ人とアルメニア人と並んで、オスマン帝国の崩壊の後に国家を成立した民族に、ユダヤ人がいる。イスラエル建国とユダヤ人の移住もまた、難民問題に大きく関係した問題である。イスラエルの建国は難民問題への解決策だった。ナチスドイツによる強制収容と虐殺を逃れ、さらに各地の迫害や差別を逃れて、ユダヤ難民が西欧や東欧諸国からイスラエルに向かった。イスラエルはこれらヨーロッパ系ユダヤ人(アシュケナージあるいはアシュケナジーム)が主導して、その欧米での政治力に依拠して成立した国である。しかし、イスラエルにはオスマン帝国各地のユダヤ人も多く移民・難民として移り住んだ。オスマン帝国には、エジプトやイラクなどに古代から住み続けてきた中東系ユダヤ人(ミズラヒーム)や、スペインでの異端審問を逃れてオスマン帝国に渡来したスペイン系のユダヤ人(セファルディーム)など多くのユダヤ教徒がいた。これらのユダヤ教徒は、東欧でのシオニズム(パレスチナへのユダヤ国家樹立運動)の発展や、第一次世界大戦中のバルフォア宣言を必ずしも歓迎していたわけではない。バクダートは旧約聖書に描かれるユダヤ人虜囚が解放された土地であり、エルサレムよりも宗教上の価値が高いとする見方もある。サロニカやエジプトのアレクサンドリアのように、東地中海の交易路で重要な位置を占める都市で、ユダヤ商人は確固とした地位を築いており、パレスチナにユダヤ人の民族主義に基づく国家を創設することは、中東のユダヤ人にとって必ずしも歓迎すべきことではなかった。

 1948年イスラエルの建国によるアラブ・イスラエル紛争の開始は、中東系ユダヤ人の一部にとっても災厄となった。アラブ諸国では、反イスラエルをイデオロギーの支えの一つとする民族主義が勃興した。アラブ世界に代々住んできた、アラビア語を話すユダヤ人は、アラビア語を話すという意味で「アラブ人」でもある。このアラブ系ユダヤ人が、故郷を追われ、イスラエル、あるいは米国などに居を移すことになった。もちろん、イスラエルの建国と戦争は、新たにパレスチナ人難民を大規模に発生させた。

 イスラエルの建国は、ヨーロッパのユダヤ人の間にシオニズムの民族主義思想が広まったのを受けて、第一次世界大戦中にイギリスがユダヤ人指導者に対して与えた、パレスチナの地に「民族の故郷」の建設を支援するという約束によって促進された。フランスもまた「民族の故郷」をある「民族」に与えている。フランスは1920年に、サイクス=ピコ協定で統治領・勢力圏としたエリアから、アラビア語を話すキリスト教マロン派が主体となり、ギリシャ正教やローマ・カソリック、プロテスタントなどここでは少数派のキリスト教諸派と合わせてスンナ派やシーア派のイスラーム教徒に対して支配的になるように、レバノンの領土を切り分けた。フランス委任統治領シリアでは、ラタキア近辺のアラウィ―派や、シリア南部のドルーズ派など、イスラーム派など、イスラーム教シーア派の中のさらに少数派の諸派に独立の国家を与えようとする計画もあったが、実現しなかった。

 オスマン帝国支配化の諸集団には「民族」という概念はまだ未分化だった。それが西欧列強の介入が及び、社会の近代化が進むにつれて、言語の相違や、宗教・宗派による共同体のつながりが、国民国家を構成する民族という観念の核になった。民族意識の高まりには地域や集団によって差がある。また、ギリシャやアルメニア、イスラエルやレバノンのように拠点となる領域・国家を確保できた場合と、そうでない場合との相違は、外部の大国の支援を取り付けられるかどうかに大きく依存していた。

 オスマン帝国の崩壊はいくつもの「民族の故郷」を実現したが、クルド人のように国家を得られず、独立への希求を後世に託した民族もあった。ギリシャやアルメニアのように、獲得を望んだ領土のほんの一部しか独立国家の領土とし得ない場合も多かった。それらは「民族の故郷」への大量の難民を生み出すとともに、独立した領土の中で少数民族と化した人々を逆に難民として放逐することになった。

 イスラエルの建国は、ヨーロッパの難民・移民を受け入れることで成り立ち、それがまた、もともとそこに住んでいた人々を押し出して、パレスチナ問題を生み出した。

 オスマン帝国の崩壊は、ある少数民族の国家としての独立が、領域内の別の少数民族を生じさせる「入れ子状の紛争」の口火を切った。これは多民族を支配する帝国の崩壊に共通して生じた現象とも言える。ハプスブルグ帝国や、ロシア帝国あるいはその後継者となったソ連の崩壊は、同様の問題を各地で生じさせ、今でも完全に解決はしていない。

2023年10月9日月曜日

20231008 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.133‐136より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.133‐136より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

日本語は事実確認に向いていない

養老 言葉は社会を規定できるか、というのが憲法問題の根底にあるという話をしてきましたが、言葉の問題についてもう少し掘り下げて話してみたいと思います。

 昆虫の分類をやっていると、ここがどうなっているとか、いちいち言葉で書かなくてはいけません。いまだったら高精細の写真で見せればいいだろと思いますが、分類学では必ず言語化しなくてはいけない。解剖学もそうです。解剖して見ればいいじゃんかと思いますが、そうはいかない。解剖学でも分類学でも、根本的な問題はどう言語化するかです。

 なぜかといえば、ヨーロッパの学問は、物と言語の結び付きが強いからです。裁判でも欧米は証言主義で、何を言ったかが証拠になるから、弁護士は余計なことを喋るなと言う。逆に日本は心情主義で、その人がどう思っているかが重要になる。

 「事実」「言葉」「言葉を使う人」の三つがあるとしたら、日本の場合は「言葉」と「言葉を使う人」の関節が硬いけど、欧米では「事実」と「言葉」の関節が硬い。「事実」と「言葉」の関節が硬いからこそ、法律にも公文書にも意味があるわけです。でもそこがずるずるな日本では、公文書もクソもないから、そんなものはどっかいってもおかしくない。

 そういう違いは、オーストラリアにいたときに日常でしみじみ感じました。ドライで良いなと思う半面、ズレを感じつつ、それを無視して暮らすのに疲れてしまって嫌でした。俺はやっぱり日本人だなと思いました。

東 今のお話を哲学的な言葉にひきつけて言うと、言葉には「事実確認的機能」と「行為遂行的機能」があると言われます。そこで日本語では「行為遂行的機能」がとても強い、だから事実確認の言葉として使いにくい、ということだと思います。

 言葉と現実がどう結びつくかというさきほどまでの話とも関係しますが、日本語で言文一致もあまりうまくいっていません。外国の学会では講演原稿を作って読み上げることがあります。でも日本語でそれをやると「原稿を読み上げている講演」になってしまって、聞き手の理解を阻害してしまう。これは話し手の技術の問題ではなく、じつは言葉そのものの問題なんですよ。

 多くの人はあまり意識していないのですが、日本語は、書く言語と話す言語にかなり明確な違いがあります。「だ・である」「です・ます」の違いもその一例ですが、それ以上に語彙も違う。耳で聞いても理解できないけれど、読んだらわかるという言葉がたくさんある。プレゼンやスピーチが苦手な人が多いのはそれが理由だと思います。明治以降の日本語の標準化プロセスで、何か失敗したように思います。

養老 日本は昔から「読み書きそろばん」ですから。つまり、「読み書き」が日本語であって、お喋りは入っていない。ところが古代ギリシャでは、ソフィストという弁論術を教えることを仕事にしている人たちがいた。そのくらい話すことに対する考え方が違いますね。日本でそんなことをしようとしたら、「お前、落語家にでもなるのか」で終わってしまう。

東 たしかに「話す」のを職業にするというと、落語をやるくらいの受け取られ方をしますよね。いまは弁論術イコール論破みたいに受け取られてしまっていますが、本来は話す技術とは、聞く技術でもあります。だから、話す技術が教えられていない日本人は必然的に聞く技術もなくて、インタビューもすごく苦手なように思います。

 僕はゲンロン・カフェを10年以上やって、たくさんの人の話を聞いてきましたが、そこで気付いたのは、日本のアカデミシャンは聞く力が弱いということです。自分の主張ばかりする。話し相手がいつも生徒や同輩なので、自分の研究の内容を「教える」という関係性しかもったことがなく、対等な対話の訓練を受けていないように思います。このことと養老さんのお話はすごくかかわっている。

2023年10月8日日曜日

20231007 株式会社藤原書店 杉原志啓・富岡幸一郎 編集「稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰 1863-1957」pp.206‐207より抜粋

株式会社藤原書店 杉原志啓・富岡幸一郎 編集「稀代のジャーナリスト・徳富蘇峰 1863-1957」pp.206‐207より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4894349515
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4894349513

かくて蘇峰は、こんな「禍根」をもたらした背景として、学校と学校秀才重視の教育問題も執拗に論じることになる。蘇峰によれば、明治以来の近代的教育制度が整えられてきた結果、文武両官のエリートがすべからく官僚化してしまい、これがまた、日本を惨憺たる敗北に導いたからであった。  

 たとえばかれは、その病根につき、こんなことをいっている。「予は敢えて言う。帝国大学あって、日本の腐敗せる官僚政治は出て来り。士官学校、兵学校あって、陸海軍の腐敗せる幹部は出て来った。しからばこれ等の機関なければ、日本文武の百官将士は、何れも注文どおりに行ったかといえば、それも保証の限りではない。唯だこの場合に於て、如何に帝国大学なるものが、我があらゆる文官の各方面に害を流し、士官学校・兵学校なるものが、また陸海両軍に大なる禍を胎したかという事」を指摘しておかなければならない。つまりこうした「禍」の根本には教育問題があった。より直截にいえば、ひたすらな「形式教育」にあったということである。

 では「形式教育」とは、具体的にいったい何を意味していたか。というとそれは、ある意味現代でも一日とて耳にしない日はないといってよい「点取り教育」であった。つまり、まさに官僚に適合的とされる学校秀才の問題なのである。蘇峰はいう。今やあらゆる学校は、文武いずれも「点取り教育」であって、およそ学生はただ点数さえ取ればよいと心得ている。結果ペーパーテストの成績のよい「人間学」ならぬ「要領学」をマスターした学校秀才が幅をきかせてくる。ために学問の目的は、勢い「立身出世」となり、個人功利主義となる。しかもこの目的を達成する道筋は、「定められたる型通り筋を践んで行く事である。所謂る秀才とは、その定められたる型に最もよく嵌りたる者をいう訳であり、成功者とは、その型に適まって、立身出世委をした者という事であり、かくて世の支配階級なる者は、文武何れの方面も、軽佻浮薄、無責任、無節操の徒輩」ばかりになってしまったというのである。

 むろんこうした学校秀才も平時における日常業務ならば「相当間に合わぬ事もなかった」。しかるに「一旦緩急」の非常時となるや、かれらがたちまちその本性を暴露して、ほとんどまったく役に立たなかったことは、さきの大戦の帰結が実証しているではないかと。

 蘇峰によれば、そんなわけで、こんな事例をみただけでも、わが国はとてもアメリカに伍していく「総力戦」などなしうるはずがなかったのであり、事実さきの戦争は国民からまったく遊離し去っていた。換言すれば、日米戦争は「米人が勝ったのではない。日本人が負けたのである」。

軽佻浮薄な日本人の急変ぶり

 蘇峰はまた、敗戦直後からみられた「日本人の急変」ぶりにも、火炎放射器のごとき烈しい舌鋒を浴びせている。すなわち、当初からの自由主義者や共産主義者が、このさい「時を得顔」に顎をだしてくるは当然だろう。ただ、昨日まで熱心な「米英撃滅の仲間」であり、その急先鋒であった人びとが一夜にして豹変、たちまち「米英礼賛者となり、古事記一点張の人々が、民主主義の説法者」となった者が多いことには、さすがにその「機敏快速なる豹変ぶり」に一驚せざるをえなかったという。

 蘇峰にとって「時勢の変化によって、その態度を変化する」人びとや事象は、悉くまことに浅ましき戦後日本の「醜態」にほかならなかった。蘇峰はつまり、日本人の「この軽佻浮薄なる態度を見て、憤慨するどころか、むしろ泣きたくなる」と叫び、これでは「日本人を辞職したい」気持ちになるとさえいうのである。